九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
野村優子著『日本の近代美術とドイツ『スバル』
『白樺』『月映』をめぐって』
下薗, りさ
https://doi.org/10.15017/3053991
出版情報:九州ドイツ文学. 33, pp.83-84, 2019-10-30. VEREIN FÜR GERMANISTIK-KYUSHU バージョン:
権利関係:
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ドイツ語を教えていると、ドイツ語は何の役に立つのかと学生に聞かれることがある。
英語や中国語なら社会に出てから役に立つ。ドイツ語はどうなのかと聞かれると、いつも 答えに窮してしまう。ところがかつて日本にはありとあらゆる知識がドイツ語経由で入っ てきていた時代があった。本書が扱うのはまさにそのような時代であり、明治末から大正 にかけての1910年代の日本における西洋美術受容をドイツというキーワードのもとに読み 解いていく。西洋美術=フランスだった時代に、なぜそしてどのようにドイツがかかわっ ているのか。本書は当時の雑誌『スバル』、『白樺』、『月映』を丹念に読み解き、当時の美 術をめぐる状況と照らし合わせることで、西洋美術受容において中心的役割を果たしたの はフランス寄りの画壇ではなくドイツ寄りの文壇であったこと、さらにはその過程におい て絵画よりも言説の、実践よりも理念の受容が先行していたことを明らかにしようとして いる。
出発点となるのは高村光太郎「緑色の太陽」に対する疑問である。英語やフランス語が 堪能である一方、ドイツ語はできなかったはずの高村が、自身の旗色を鮮明にした「緑色 の太陽」においてはドイツ語をそれも原語のまま多用している。当然のことながら、フラ ンス一辺倒だった当時の画家にはこの文章は読みにくく、理解しがたいものだった。それ ではなぜドイツ語を用いたのか。当時の美術界の状況を俯瞰するだけでは答えられないこ の謎を解き明かすために著者が着目するのが、発表された媒体、すなわち雑誌『スバル』
である。
本書で取り上げられている雑誌に共通するのは、そこに集まった同人たちの高い語学力 だ。『スバル』の中心人物森鴎外、『白樺』の武者小路実篤。彼らは、そして彼らの周りに 集まった者たちの多くは「独逸語系」を自認する文学者だった。詩と版画の同人誌『月映』
を刊行した創作版画の先駆者、恩地孝四郎もドイツ語という点では同様である。彼らは皆 高度な教育を受けており、現地から書物を取り寄せ、西洋とりわけドイツの最先端の情報 を直接取り入れることができた。それゆえにこれらの雑誌では、西洋における新しい芸術 の傾向がすばやく、そして積極的に取り入れられたという。高村の尖鋭的な美術批評「緑 色の太陽」もこの系譜に連なる。彼らにとりわけ大きな影響を与えた書物として、著者は ドイツの美術評論家マイアー゠グレーフェの『近代芸術発展史』を挙げる。本書に紹介さ れている様々な逸話からは、当時の知識人にこのマイアー゠グレーフェがどれだけ浸透し ていたかが分かる。
さらに著者はこの受容が日本における美術批評の誕生や絵画の実践に与えた影響を探っ
野村優子著『日本の近代美術とドイツ
『スバル』『白樺』『月映』をめぐって』
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ていく。興味深いのは、この近代美術受容が必ずしも本物の絵画を必要としなかったとい う指摘である。とりわけその傾向が顕著に表れているのが『白樺』の動向だろう。『白樺』
同人たちは当初ドイツ絵画を熱狂的に受け入れた。ところがこの直接的な美術受容、つま り実物の受容は長続きせず、彼らの熱狂は次第にゴッホへと移っていく。ゴッホの絵画を 直接見たことがなかったにも拘わらず、である。この傾向は実作にも共通している。日本 最初の抽象画の一つに数えられる恩地孝四郎の『あかるい時』に対してカンディンスキー が与えた影響関係を探っていく著者は、時系列を整理することによって、絵画そのものよ りもその著作からの影響が大きいことを根拠づけようと試みる。
本書を読んでいくと、この時期いかに美術と文学との距離が近いものであったのか、そ してまた相互に影響し合っていたのかが見えてくる。その中においてドイツは、日本が西 洋を見るためのいわば窓の役割を果たしていた。様々な雑誌からの豊富な引用は、当時の 最先端を求めてドイツ語を読み漁っていた知識人の様子を生き生きと描き出してくれる。
それにしても、著者の柔軟さには驚かされる。美術史だけを扱っていたならば、もしくは 文学史だけを扱っていたならば、近代日本美術におけるドイツの影響は見過ごされていた に違いない。美術と文学、両方に目を配ることによって、はじめて近代美術受容における ドイツの重要性が見えてくる。それはまた、ドイツ美術から日本美術へ、そしてさらにド イツ文学へと国だけでなく学問領域の垣根を軽々と越えてきた著者自身の軌跡でもある。
次は逆の方向、日本の浮世絵がドイツの版画に与えた影響をテーマにするという。これか らの研究にも期待したい。
(九州大学出版会、2019年)