資料と公共性 : 2021年度研究成果年次報告書
岡崎, 敦
九州大学大学院人文科学研究院:教授
池上, 大祐
琉球大学国際地域創造学部 : 准教授
今井, 宏昌
九州大学大学院人文科学研究院 : 専任講師
多川, 孝央
九州大学情報基盤研究開発センター : 准教授
他
https://doi.org/10.15017/4772780
出版情報:2020-03-07. 九州大学大学院人文科学研究院 バージョン:
権利関係:
遠隔がつなぐ高大連携
―
「コロナ禍」におけるグローカルな歴史実践をめざして―
今井 宏昌
はじめに
海外を主たる研究対象としてきた「日本の西洋史学」にとって、新型コロナウイルス感 染症(COVID-19: Coronavirus Disease 2019)の世界的拡大、いわゆる「コロナ禍」は、ひと つの転換点となりつつある。2020年の春以降、所属機関による海外渡航制限や国による水 際対策を前に、多くの研究者が調査・研究活動の見直しや中断を余儀なくされ、その状況 は2022年初頭の段階でも継続している。こうした中、これまで幾度となく発せられてきた
「何のための西洋史学か?」という問いが、再び頭をもたげているのも無理はない。
本稿は、そのような「コロナ禍」で「偶然」にも実現した、遠隔による高大連携の記録 であり、また20世紀末から本格化した「日本の西洋史学」をめぐる議論を踏まえての試み であり、言うなれば、グローバルな視座とローカルな視座の双方を組み合わせたグローカ ルな視座からの歴史実践をめざすものである。
Ⅰ.「日本の西洋史学」の課題とグローカルな視座
「日本の西洋史学」がどのような道を歩むべきかについては、20世紀末の段階でかなり の議論が展開されていた。嚆矢となったのは、1998年に発表された高山博の「ハード・ア カデミズム」論と、竹中亨の「解釈する歴史学」論であろう。日本の研究者であれ、もは や海外の権威による研究成果や議論の紹介・翻訳(「ソフト・アカデミズム」)に満足す る必要はなく、新たな知の創造を目指すオリジナリティの高い研究活動と国際的競争(「ハ ード・アカデミズム」)に邁進すべきだ、という高山の提言は、「日本の西洋史学」に対 するある種の挑戦状だった1)。これに対し竹中は、日本史・東洋史・西洋史の三分法に始ま る「日本の西洋史学」固有の文脈を重視する立場から、学問の自律的発展に重きを置く方 法志向性(「発見する歴史学」)に振れすぎた振り子を、学問が社会的要請を反映しつつ 発展する問題志向性(「解釈する歴史学」)の側に引き戻さねばならない、と唱えた2)。
これらの議論は、2000年5月に大阪外国語大学箕面キャンパスで開催された日本西洋史 学会第50回大会2日目の小シンポジウム「21世紀の西洋史学」、さらにはそれを文章化
1) 高山博『ハード・アカデミズムの時代』講談社、1998年。
2) 竹中亨「西洋史学と実証」『西洋史学』191号(1998年)204-211頁。
した『西洋史学』誌上の「フォーラム 21世紀の西洋史学」へとつながった3)。重要なのは、
そこで「ハードかソフトか」あるいは「発見か解釈か」という二項対立的発想や、「西洋 史学」という枠組みそのものを問い直す必要性が指摘された点であろう。中でも木畑洋一 により提唱された「ヨーロッパを世界のなかに置き直してみる作業」は、今日隆盛するグ ローバル・ヒストリーを先取りする発想であったといえる4)。
小シンポジウム「21世紀の西洋史学」から15年後、『西洋史学』誌上では「特集 他者 としての「西洋史学」」が組まれ、「日本の西洋史学」のあり方や今後を正面から論じる 機会が再び設けられた。そこで論点となったのは、グローバル化する研究とその成果を、
どのような形でローカルな現実に還元していくかであった。例えば佐藤公美は、「どんな 大規模なグローバル拠点も国際的研究プロジェクトも」「日々の課題と格闘しながら日本 と世界の双方のローカルな現実に支えられ、恩恵を受け、そこに何事かを還元しつつ、そ うすることによってこそ質の高い研究を続けている多くの研究者の存在なしには成立しな い」とし、「彼らを支えるのは地域で学ぶ学生達や社会の構成員たちであり、その一人一 人が等しく学ぶ権利がある」ことに注意を促した5)。
またそのような「学び」について、世界史教育の観点から提言をおこなったのが日髙智 彦であった。日・東・西の「三学科制イデオロギー」や「無意識の西洋中心主義」に縛ら れた世界史教育の現状を問題視する日髙は、それを打破するための具体的方策として、「用 語を精選した歴史叙述、そのなかで自分の生活を問い直すような史料に基づく歴史叙述、
そして、日本史と世界史の融合」を示し、それらが高校教員と大学の研究者との協働・交 流を通じ実践されることに期待を寄せた6)。このような世界史教育の展望が、2022 年度よ り高校の必修科目として導入される「歴史総合」のそれと重なることは言うまでもない。
以上の議論を総合してみると、「ヨーロッパを世界のなかに置き直し」、「日本史と世 界史の融合」をはかる形で、ローカルな現実への還元を試みることが、「コロナ禍」前に 示された「日本の西洋史学」の課題であった、ということになるだろう。そしてそれが今 なお重要であることは、グローバル・ヒストリーや「歴史総合」をめぐる議論がますます 白熱している現状からも明らかである。
Ⅱ.「偶然」から始まる高大連携と久留米俘虜収容所
私自身は、上記の流れを意識しつつ、第一次世界大戦後のドイツ義勇軍(Freikorps)を 対象とする「本業」とは別に、第一次世界大戦中に福岡県久留米市に設立されたドイツ兵
3) 「フォーラム 21世紀の西洋史学」『西洋史学』200号(2000年)296-312頁。
4) 木畑洋一「報告3 ヨーロッパを世界へ開く西洋史学」同上、305-309頁。
5) 佐藤公美「「日本の西洋史学」は特殊か」『西洋史学』260号(2015年)330-331頁。
6) 日髙智彦「世界史教育の課題と西洋史学」同上、346-347頁。
俘虜(捕虜)収容所に関する研究にも携わってきた7)。久留米を研究対象としたのは、故郷 である大分県日田市に近く、幼少期から馴染みのある土地だったからというのが大きいが、
だからといって、久留米市をはじめとするローカルな現実への還元については、十分に遂 行できているとは言い難い状況にあった。
そうした中、「コロナ禍」の到来とともに海外渡航が制限され、「本業」である義勇軍 研究が滞ると、これまで「夜店」として営んできた久留米俘虜収容所研究も、次第に「本 業」の位置を占めるようになった。また「コロナ禍」における遠隔授業の急速な整備・拡 大は、新たな形での高大連携を可能にした。直接的契機となったのは、「コロナ禍」開始 から半年近く経った2020年9月、大学(院)時代の学友である川島仁志教諭(福岡県立明 善高等学校)からの相談だった。川島教諭の勤務する福岡県久留米市の明善高校は、2018 年度から文部科学省によりスーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定されており、
その一環として日本史 B の授業で高大連携型の授業をおこなうことになったのだという。
ただし、明善高校としてもこの種の試みは初めてであり、さらには「コロナ禍」で連携先 を探すのも困難とあって、旧知の私に白羽の矢が立ったようだ。奇しくも、明善高校は久 留米市における中核的な進学校であり、同校と連携しながら久留米俘虜収容所を題材とす る授業を構築することは、意義深いことのように思われた。そして川島教諭にこの案を提 示したところ、即座に合意が得られた。
ここで一度、ドイツ兵俘虜収容所と、そこでの久留米俘虜収容所の位置づけについて確 認しておこう。第一次世界大戦期、日独青島戦争に勝利した日本は、俘虜となったドイツ 軍兵士と、その友軍であるオーストリア=ハンガリー軍兵士を収容すべく、列島各地に総計 16もの俘虜収容所を設立した。それを開設年月日順に整理すると、以下のようになる8)。
ドイツ兵俘虜収容所の開設・閉鎖年月日
収容所名 開設年月日 閉鎖年月日
① 久留米俘虜収容所 1914(大正3)年10月6日 1920(大正9)年3月12日
② 福岡俘虜収容所 1914(大正3)年11月11日 1918(大正7)年4月12日
③ 熊本俘虜収容所 1914(大正3)年11月11日 1915(大正4)年6月9日
7) 今井宏昌「ドイツ兵俘虜をめぐる日独交流:第一次世界大戦期久留米俘虜収容所を事例に」『平 成29年度〜令和元年度科学研究費助成事業基盤研究(C)(一般)研究成果報告書 ドイツ第2帝政 および日独外交史の新視点:カール・アレクサンダーを中心に(代表・星乃治彦)』2020年、57-79 頁。
8) 坂本夏男「久留米俘虜収容所の一側面:俘虜の収容、管理及び解放を中心として(上)」『久留 米工業高等専門学校研究報告』31号(1979年)2頁を参照。
④ 姫路俘虜収容所 1914(大正3)年11月11日 1915(大正4)年9月20日
⑤ 丸亀俘虜収容所 1914(大正3)年11月11日 1917(大正6)年4月21日
⑥ 松山俘虜収容所 1914(大正3)年11月11日 1917(大正6)年4月23日
⑦ 大阪俘虜収容所 1914(大正3)年11月11日 1917(大正6)年2月19日
⑧ 名古屋俘虜収容所 1914(大正3)年11月11日 1920(大正9)年4月1日
⑨ 東京俘虜収容所 1914(大正3)年11月11日 1915(大正4)年9月7日
⑩ 大分俘虜収容所 1914(大正3)年12月3日 1918(大正7)年8月25日
⑪ 徳島俘虜収容所 1914(大正3)年12月3日 1917(大正6)年4月9日
⑫ 静岡俘虜収容所 1914(大正3)年12月3日 1918(大正7)年8月25日
⑬ 習志野俘虜収容所 1915(大正4)年9月7日 1920(大正9)年4月1日
⑭ 青野原俘虜収容所 1915(大正4)年9月20日 1920(大正9)年4月1日
⑮ 似島俘虜収容所 1917(大正6)年2月19日 1920(大正9)年4月1日
⑯ 板東俘虜収容所 1917(大正6)年4月9日 1920(大正9)年4月1日
中でも圧倒的な知名度を誇るのは徳島県の板東俘虜収容所であり、その存在は映画『バ ルトの楽園』(2006年日本公開)を通じ、よりポピュラーなものとなった。板東収容所長・
松江豊寿役に松平健を、また架空のドイツ軍青島総督役にブルーノ・ガンツを配した本作 は、松江所長が俘虜に対して寛容な姿勢で臨み、俘虜との良好な関係を築いていく過程を 描いた「日独友好」の物語であり、興行収入12億円を記録するとともに、2006年邦画ラ ンキングでも第24位を獲得した9)。ただし、映画の冒頭15分間は板東ではなく、日独戦争 の戦場となったドイツの植民都市・青島、そして福岡県の久留米が舞台となる。そこでは、
久留米俘虜収容所の劣悪な環境と、日本兵によるドイツ兵俘虜への懲罰的暴力、さらには 俘虜に向かって石を投げ、罵詈雑言を浴びせかける久留米市民の姿が描かれる。
このように板東俘虜収容所を「日独友好」の象徴とし、それとの対比で久留米俘虜収容 所の「劣悪な環境」を強調する傾向は、実のところ、『バルトの楽園』以前に刊行された 研究書にも認めることができる10)。この問題については、久留米市が刊行した調査報告書
9) 一般社団法人日本映画製作者連盟発表の日本映画産業統計のデータ
(URL: http://www.eiren.org/toukei/2006.html, 最終閲覧:2022年1月31日)を参照。
10 ) その際、大きな影響をもつと考えられるのは、Helmut Rüfer / Wolf Rungas, Handbuch der Kriegsgefangenenpost Tsingtau, Düsseldorf 1964 [H・ルーファ/W・ルンガス(吉田景保訳注)『ドイ ツ俘虜の郵便:日本にあった收容所の生活 1914〜1920』日本風景社、1982年]である。ここでは久 留米収容所がその劣悪な環境ゆえ、第二次世界大戦後においてなお、元俘虜たちから「日本の KZ
の第Ⅲ巻において、岸本肇が次のような指摘をおこなっている。「板東収容所を基準にし て、久留米俘虜収容所を『悪者』と見做すことには慎重でなくてはならないと思う。そも そも開所期間が、久留米俘虜収容所の1914年10月6日から1920年3月12日に対して、
板東収容所は1917年4月9日から1920年4月1日である。板東収容所が設置されていた のは、ドイツ兵抑留の全期間5年有余の後半2年半ほどであり、特に1918年11月の休戦 協定以後は、徐々に解放近しの雰囲気となり、どこの収容所でも捕虜兵の諸活動は大幅に 自由になっている。」11) ここから浮かび上がってくるのは、板東収俘虜容所を主軸とする
「日独友好」史観において、必ずしも実態に沿わない「ネガ」として利用される久留米俘 虜収容所の姿である12)。
私の研究のねらいは、このような「日独友好」史観から久留米俘虜収容所を一度引き離 し、第一次世界大戦や帝国主義、植民地主義、人種主義、そして「文明国」意識の視点か ら再考することにあり、それは今なお継続中である。そこで浮かび上がったのは、ヨーロ ッパの塹壕と同じ大戦長期化の産物としての久留米俘虜収容所の姿であり、また「文明国」
意識を軸とする日独間の対立・交流のヤヌス的相貌であった。当然ながら、日独青島戦争 において日本軍の基幹を担った独立第 18 師団の拠点たる「軍都・久留米」の地域性もま た、そのような収容所の形成に作用していたといえる。川島教諭とは、予めこうした論点 を共有し、そのうえで高大連携型授業の計画・準備にあたった。
[japanisches KZ]」と呼ばれているとのエピソードが紹介される(S. 51 [邦訳47頁])。訳者の吉田 景保はここで「KZとは、悪名高き、ナチスの強制収容所〈Konzentrationslager〉の略」と断定してい るものの、そもそも原著でも典拠が示されていないため、ここでの「KZ」が「ナチスの強制収容所」
を指すのか、さらには本当にそのような表現を元俘虜たちがそのような表現を用いたのかは検証し ようがない。にもかかわらず、板東収容所に関するスタンダードワークを上梓した冨田弘もまた、
ルーファ/ルンガスの研究を参照する形で次のように叙述している。「かつての俘虜たちは、徳島 収容所を『模範収容所板東(Musterlager Bando)』と呼ぶのにたいして、久留米については『今日な お怒りをこめて日本の強制収容所(japanisches KZ)』と名づけている。」冨田弘『板東俘虜収容所:
日独戦争と在日ドイツ俘虜』法政大学出版局、1991年、305頁。
11) 岸本肇「ドイツ軍捕虜兵のスポーツ活動と久留米俘虜収容所」『ドイツ兵捕虜とスポーツ:久留 米俘虜収容所 Ⅲ』(久留米市文化財調査報告書第213集)2005年、18頁。
12) 実際、映画でも描かれた俘虜への投石については、久留米市による『福岡日日新聞』の記事の調 査や当時を知る久留米市民への聞き取り調査によっても証明されなかった。『久留米俘虜収容所 1914~1920』(久留米市文化財調査報告書第153集)1999年、81-97頁。
Ⅲ.久留米俘虜収容所をめぐる歴史実践と遠隔教育の可能性
授業計画は、遠隔形式の導入を前提に組まれた。具体的には、明善高校の教室と私の所 属する九州大学西洋史学研究室をWeb会議サービス「Zoom」でつなぎ、川島教諭の日本 史B出席生徒(21名)によるグループ発表や質問に対し、私がコメントやリプライをおこ なうことになった。その際、川島教諭が掲げた授業目標は、①「第一次世界大戦が国内の 経済・社会に与えた影響について、理解する」、②「特に久留米に設置された俘虜収容所 をとおして、地域に与えた影響を多面的・多角的に考察して、表現することができる」で あった。
準備段階では、私がこの間収集した久留米俘虜収容所関係の史料・文献を川島教諭に送 付し、教諭はそれらを参照する形で第一次世界大戦に関する事前授業を構築した。そして 事前授業ののち、出席生徒21名が、A:収容所の概要(所在地・人数等)、B:俘虜の生活
(生活の様子等)、C:俘虜の活動(音楽・スポーツ等)、D:俘虜が久留米に与えた影響
(ゴム産業等)、E:市民から見た俘虜、といった5つのグループに分かれ、各担当項目に 関する調べ学習をおこなった。
授業自体は、2020年11月6日(金)13時35分から14時25分に実施された。当日は明 善高校の日本史B教室と九州大学西洋史学研究室をZoomでつなぎ、生徒によるグループ 発表(各5分)と質問に対して、私が適宜コメントや応答をおこなった。これにより、日 本史Bの授業でありながらも、ドイツ現代史・西洋史に関する最新の知見を織り込むこと に成功した。
特筆すべきは、文献や史料の読解にとどまらず、周囲の人びとへの聞き取りをおこなう など、誰に言われるともなく歴史実践を自主的に試みる生徒が複数登場した点である。こ れは久留米俘虜収容所が地元の歴史であるがゆえに生じた動機づけの為せる技であろう。
またその反面、終了後に受け取った感想カードでは、久留米俘虜収容所の存在について知 らなかった生徒も多数いたことが判明し、この点で「日本史と世界史の融合」の必要性が 改めて確認された。
先に述べたとおり、木畑洋一は「ヨーロッパを世界のなかに置き直してみる作業」を重 視したが、それは何も「マクロなレベルでの西洋史研究」にとどまるものではなく、「社 会史研究のなかで発展してきているミクロストリアなどにおいても、同じような課題につ いて語りうる」のであって、つまりは「小さな場での人間の営為のもつ意味を世界に開い てみること」こそ重要とされたのであった13)。
今回の高大連携授業の経験を踏まえるならば、この「開いてみる」作業は、二重の意味 を帯びてくる。すなわち、久留米俘虜収容所という「小さな場」とそこでの俘虜の営みを 理解するには、やはり世界(史)に「開いて」考えることが不可欠であるし、さらにはそ
13) 木畑「報告3 ヨーロッパを世界へ開く西洋史学」308頁。
うした実践を通じて、生徒たちの生活空間や地元意識としての久留米もまた、世界(史)
に「開かれて」いくのである。
とはいえ、上記の点はいずれも、遠隔でなければなし得なかったことではない。むしろ 遠隔で開催した際のメリットは、大学の教員・研究者が高校の教室に物理的に存在しない 点に求められるのではないだろうか。すなわち、私がその場にいなかったことで、生徒も 過度に萎縮・緊張・警戒することなく、いつものペースで発表できた可能性がある。大学 教員が高校の教室に赴いた場合、サービス精神も相俟ってつい長々と喋りがちだが、その ような事態を回避し、生徒による主体性発揮の余地を最大限確保できたのも、遠隔の大き な意義であったように思う。
さらに言えば、明善高校の日本史B教室と九州大学西洋史学研究室をZoomでつなげる ことで、教員である私だけでなく、研究室の学生もまた授業を観覧できたのも大きなメリ ットであった。特に高校地歴教員志望の学生にとって、高大連携や「歴史総合」の実践例 をリアルタイムで学べたことは、今後の得難い経験となった。これは遠隔でしかなしえな かったことであり、ここから高大連携のもつ相乗効果を論じることも可能であろう。
もちろん、課題が残らなかったわけではない。高大双方をZoomでつないでいる間、タ イムラグや音声の乱れ、動画のフリーズが時折発生し、議論や意思疎通の妨げとなった点 は、やはりデメリットとして挙げておくべきであろう。ただ、このデメリットは教室や研 究室のネット環境改善で解決するものであり、その意味で公的な対応が不可欠だといえる。
おわりに
以上のような高大連携によるグローカルな歴史実践は、「日本の西洋史学」、ひいては 歴史学全般にかかわる研究者/教育者の育成にとっても、ひとつの突破口になりうると考 える。そしてそれを容易ならしめる形態として、遠隔は「コロナ禍」収束後も、その可能 性を広げていくのではないだろうか。
最後に、こうしたグローカルな歴史実践の試みは、川島仁志教諭をはじめとする福岡県 立明善高等学校の先生方、そして生徒の皆さんの存在なしにはあり得なかった。この場を お借りし、改めて御礼申し上げたい。