論 説
〈負い目〉の法哲学に向けた予備的考察
──自由意志と責任主義をめぐる近時の議論動向の素描を通して
吉 岡 剛 彦
一 はじめに──ひと千人ころしてんや二 自由意志と責任主義をめぐる諸議論──無意識・運・中動態 (1)責任主義──非決定論─対─決定論 (2)無意識の作用──脳科学など (3)運をめぐって 三仮構される意志と責任 (4)中動態 (1)自由意志や責任主義の不確実さ
(2)責任主義の実相
四 (3)市民が担うべき〈メタ〉責任 〈負い目〉の法哲学を考える──むすびに代えて
(1)二階の責任
(2)「処罰の真相」の自覚化 (3)「同じような環境の下では」
(4)アリバイへの〈負い目〉
(5)不可避性
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一 はじめに──ひと千人ころしてんや
この小論を書き起こすに当たり、親鸞の語録集『歎異抄』 (1)の第十三条に眼を向けたい。ここで親鸞は「ひと千人ころしてんや」と、おおよそ宗教者のものとは思われない「戦慄」すべき「おそろしい言葉」[梅原二〇〇〇:八六頁]を弟子にぶつけている。
ある日、親鸞が、弟子の唯円に「私の言うことに従うか?」と尋ねた。唯円が重ねて恭順の意を表すると、親鸞は「ならば、これから人を千人殺してみよ。そうすればお前の極楽往生は決まりだ」などと言う。当惑した唯円が「師のお言葉ではあるが、私の器量では、ただの一人さえ殺せるとは思えません」と平伏すると、親鸞は「では、どうしてお前はさきほど私の言葉に従うと答えたのか」と問いつめてから、「これで分かっただろう。私たちが、もし何事も意のままにできるのなら、千人殺せば往生が叶うと言われて、お前は直ぐに殺したはずだ。なのに一人だって殺せないのは、そうすべき必然(業縁)が無いからだ。自分の心が善いから殺さないのではない。また、殺すまいと思っても百人でも千人でも殺してしまうことがあるだろう」と諭した。その上で親鸞は、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(そうするべき必然の促しがあれば、私たちは、どんなことでもしてしまうものだ)と、われわれがよくよく玩味すべき、決定的に重要な一言を述べるのである。
さて、ひるがえって本稿は、近代法の大前提とされる自由意志と責任主義に関する昨今の諸研究を概観し、それを踏まえて小考を試みるものである。哲学者の古田徹也によれば、近代以降に支配的となったのは「一般通常人に期待される能力の範囲内で、周囲の状況を隈なくコントロールし、みずからの行為がもたらす結果を正確に予測し、道徳的に正しい行為のみを行う」ような「完全無欠の道徳的行為者」という人間観だった[古田二〇一三:二一八─二一九頁]。この点、前記の「さるべき業縁のもよほさば」に端的に示された親鸞の人間観は、この近代的人間観の対極に位する。「親鸞に
〈負い目〉の法哲学に向けた予備的考察(吉岡)
よれば、すべては宿業という名の必然性のもとに、かならずそう在らねばならないという態様をとりつつ生起する。親鸞思想は、自由もしくは自己決定という概念とは無縁の地点に成り立つものであったといわなければならない」[伊藤
二〇〇三:二三七頁] (2)。それを「業縁」と呼ぶかは別として、われわれは、自分の意識的な支 コントロール配が及ばず、もはやそれを〝必然〟と呼ばざるをえないような押し促しによって、我にもあらず行動することがある。というよりも、日常の多くの行動が、その都度の状況からの押し促しによるものと言えなくもない。いま仮に、犯罪のような法に違背する行為もまた、行為者が置かれた状況によって(大なり小なり)規定されるものだとしたら、このとき、当の違法行為のうちに「自由な意志」を想定したり、それを前提として行為者の法的な「責任」を追及したりすることが果たして可能なのか否か。仮に可能だとすれば、それはいかなる仕儀によるものなのか。こうした問題関心を携えながら、以下では近代刑法の「責任主義」について確認した後、意志と責任の関係に再考を加える諸研究として、脳科学等による「無意識」論、倫理学や法哲学における「運」の議論、哲学分野の「中動態」論をそれぞれ瞥見する。次いで、個人の「意志」やそれに基づく「責任」とされるものが、じつは実体的に確証されうるものでは無く、畢竟するところ、社会の秩序維持のため事後的に擬制されるに過ぎないとする見解を引き受けつつ、そのことの自覚を基点とした「〈負い目〉の法哲学」のアイデアについて結論部で粗描してみたい。
二 自由意志と責任主義をめぐる諸議論──無意識・運・中動態
( 1 ) 責任主義──非決定論─ 対─ 決定論
責任主義は「責任なければ刑罰なし」(nulla poena sine culpa)の標語で表わされ、近代刑法の根本原理とされる (3)。刑事法における「責任」(Schuld)とは、違法な犯罪行為をなした行為者に対する非難(可能性)をいう。
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従来、刑法学では、哲学における「非決定論─対─決定論」の対立 (4)をも反映する形で、責任論に関する種々の議論が重ねられてきた。前者「非決定論」は、自由意志の存在を肯定する。その上で、強制や脅迫、精神疾患などによって特定の振舞いを余儀なくされるような条件が無く、個人が、複数の選択肢(別行為可能性) (5)から一つの行為を選択するならば、その行為は「自由に」(自由意志によって)選ばれた、と考える立場である。非決定論は、このように行為が自由になされた場合、当の行為については法的・道義的な責任を問いうると主張する。他方、後者「決定論」は、自由意志を否定し、われわれが、みずからの行動を意志によって律することは不可能だと断ずる。ちょうど自然界の諸現象が因果律に則って起こるべくして起こるのと同様に、あらゆる人間の行動も、本人の生得的な資質や、本人を取り巻く境遇、もしくは不可知の運命 (6)などによって必然的に決定づけられている、と考える立場である。自由意志が問責の前提とされるかぎり、決定論の下では、人の行動についてそもそも責任は問題とならない。かつて刑法学にあって、当初は非決定論(自由意
志肯定論)を土台として「道義的責任論」が提唱された。自由意志を有する者が、自由な決意によって違法行為をなした場合、それに相応する倫理的非難の限度において、当該行為者に責任(刑罰)が帰せられる、とする議論である。その後、十九世紀に犯罪学等から「個人の行為が、素質的・環境的な因子によって制約されている」という知見がもたらされたことに伴い、決定論(自由意志否定論)を土台として「社会的責任論」が提唱されるに至る。そこでは、ある個人が違法行為を犯す結果となった場合、社会的危険性(犯罪反復可能性)をもつ者として、社会防衛的な理由から刑罰に服するべき法律上の地位、というように「責任」が再定義された(この再定義は、行為時の自由意志に「責任」を根拠づける元来
の責任主義からは逸脱している)。
その後、哲学分野における「両立論」(非決定論と決定論を二律背反的に考えず、行為における自由意志と被決定性とを融合的・止揚
的に捉える)の立場に呼応しつつ、刑法学では目下、「規範的責任論」が通説的見解とされる。本説は、人は「決定されつつ決定する」という相対的非決定論に立脚する[曽根二〇〇八:一三七頁]。すなわち「人間は素質や環境によって決定され
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ながらも、その内部においてまたはそれを超えて自発的に向上することのできる主体的な存在」であり、「違法行為を避け適法行為に出ることを期待しうる」[平澤二〇一九:三九頁]という人間理解に基づき、違法行為をみずからの意志によって主体的におこなったと見なされる程度に応じて当該個人に帰責されうる、と説く。規範的責任論が「規範的」とされる所以は、「社会的観点から非難されるべきと考えられるときに責任を負わせる」ためである[同:四〇頁]。規範的責任論に立つ場合、「具体的な行為者個人に関して、犯行時において具体的に適法な他行為が可能であったか否かを証明することの困難性に直面して、多くの論者は、当該行為者個人を問題にするのではなく、行為者の状況にある『平均人』にとって可能であったか否かを問う」という「平均人(標準人、一般人)の可能」の基準を用いてきた[増田二〇〇五(続):二二二頁]。つまり、たとえ行為者本人に違法性の意識が無かったとしても、同じ状況下で「一般人」が違法性の意識を持ちえたと認められれば、当該行為者に故意責任を負わせる(逆に、もし行為者本人が故意を有していたとしても、同じ状況において「一般人」に
違法行為を避けて適法行為を選ぶことが期待できない場合は責任非難をしない)とする[平澤二〇一九:四〇頁]。通説とされる規範的責任論では、行為における素質的・環境的要因の影響を加味した相対的非決定論の立場である点。また、犯行時における行為者自身の意志・認識の如何や他行為可能性をそれ自体として問うのでは無く(それを問うことは原理的に困難なため)、平均人を基準として「外見上そう見えるということで判断」しており[同:四六頁]、「平均人(標準人)の自由および責任を具体的な行為者に帰属」させるという仕方で「責任判断の対象をすり替えるというトリックを駆使」している点[増田二〇
〇五(続):二二二頁]。つまり、帰責判断に際し、「平均人」を基準として、行為者自身の意志や責任をいわば仮想的に推定するという方法が用いられている点。これらの諸点には留意が必要である。
( 2 ) 無 意 識 の 作 用 ─ ─ 脳 科 学 な ど
自由意志(と、それを前提とした責任主義)に再問を促す議論として、われわれの行為に対する「無意識」の影響を指摘するものがある。よく知られているのが、リベットの大脳生理学に関する研究である。論 説
一九八〇年代半ば、カリフォルニア大学の神経生理学者ベンジャミン・リベットは、被験者に「運動準備電位」の測定装置を取り付けた上で、自発的な決断によって手を動かすよう指示する実験をおこなった。リベット自身の実験目的は、「意識的な決意・意志と身体運動の関係を解明し、〔…〕自由意志を経験的に実証する」ことにあった。だが、その結果は「彼の意に反するもの」となった。すなわち「被験者が意識的な決意をしてから身体運動が生じるまでに約二〇〇ミリ秒かかったが、運動準備電位(脳神経活動)は被験者の意識的な決意・意志よりもすでに三五〇ミリ秒以上前に生じていたことが、脳波図から読み取れた」からである[増田二〇〇五:三〇五頁]。自由意志が行為の起点なのであれば〈意志─脳の信号─運動〉の順序になるはずである。しかし、リベットの実験結果が示唆したのは、運動の出発点はむしろ無意識的な脳の指令にあり、実際の順序は〈脳の指令─意志─運動〉のようだ、ということである (7)。
刑法学の増田豊によれば、この実験結果には「多様な解釈の余地がある」が、その後の追試によって精度も保証されており「その信頼性を完全に否定することもできない」。その上で「脳は行動を実際には無意識的に決定し、この決定は一定の時間が経過した後になって初めてわれわれに意識されることになるのである」と述べる[増田二〇〇五:三〇九
頁]。その際、「何よりも重要なことは、意識的な決意・意志が成立する前にすでに無意識的な脳神経活動(運動準備電位)が始まっており、意識的な決意・意志は身体運動の起動点ではなく、すでに開始されている脳活動の(中間)結果にすぎないという点である。つまり、意識的な決意・意志は身体運動の直接的な原因ではないということになる」[増田二
〇〇七:二〇七頁]と指摘する (8)。かくて、「『脳』研究の最近の成果は、非決定論の現実的基礎を失わせるものであり、刑法学ではこれに如何に対応すべきかが新たに問われることとなった」[岡上二〇〇七:二六二頁] (9)。
脳科学に留まらず、無意識の領野が、われわれの行為を大なり小なり制約・規定しているという研究や例証には事欠かない )(1
(。たとえば、偏見を含めたバイアスの影響がある。バイアスには、われわれが世界の諸事象をパターンとして捉えることで、認知活動や意思決定を効率化・省力化する役割がある。「そもそもバイアスは、人間にとって必要不可欠
〈負い目〉の法哲学に向けた予備的考察(吉岡)
な通常の認知過程の一部である。すべての人間の認知や判断がバイアスの影響下にあり、バイアスがなければ人間は機能しない」とされる[堀田二〇一八:一六頁]。だが、こうしたパターン化した「ステレオタイプ的認識」が、「不公平・不公正な判断」[同上]や、それに基づく偏向的・差別的言動を引き起こすことも周知の事実である )((
(。これら無意識の作用に関する諸研究は、各自の意識がみずからの行動を完全に統率しているとは必ずしも言えないことを摘示することで、「自由意志が行為を司る」という近代的な通念に再検討を迫るものである。
( 3 ) 運 を め ぐ っ て
本人が意志して招いたとは見なせない結果(とりわけ不利な結果)、すなわち「運」(不運)と呼ばざるをえない事態は、これまで倫理学説や社会理論において、どのように扱われてきたのか )(1(。この点、「近現代の倫理学の多くが運の問題をなおざりにしてきた」。だが、一九七六年に哲学者のウィリアムズとネーゲルがおこなった討議と、それを基にして両者が各々に公刊した同一タイトルの論文「道徳上の運(Moral Luck:道徳的運)」が、倫理学上の重要課題として「運」を定着させる「決定的な契機」となった[古田二〇一七:三─四頁]。
このうちネーゲルは論文「道徳上の運」(邦訳は「道徳における運の問題」)において、「人は自分が為したことに対してのみ道徳的責任を負いうる。しかし、彼が為したことは彼の為していない多くのことの結果なのである」と指摘する。「われわれが誰かを道徳的に判断する際の根拠となる事象は、一見そう見えるよりも多くの点で、当人の意のままにならないことがらによって決定されている」のであり、「究極的には、人の為すことに関するすべてのことが、あるいはほとんどすべてのことが、彼の統制下にはないように見えるのである」[ネーゲル一九八九:五五頁、四三─四四頁]。こうした現実を踏まえて、ネーゲルは以下のように問いかける[同:五五─五六頁(傍点原文)] )(1
(。
自分の意のままにならない諸要因に帰因する、自分の行為の帰結に関して、あるいは、自分の意志に服従しない気質的諸特質のような、
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行為に先立つものに関して、あるいはまた、道徳的選択を要求する環境に関して、人がもし責任がないのであれば、意志それ自体の作
用が取り出されたとしても、その作用が 00000意志の統制下にない先立つ環境の産物である以上、どうして人はそれに対して責任を負うこと
ができようか。
ところで、この「運」の問題については、法哲学の分野において、ロールズ『正義論』(一九七一年)以来の現代正義論こそが、まさに「運の平等論(運平等主義)」だったとも見なされるに至っている )(1
(。ドゥオーキンらに代表される平等尊重主義の正義論を「運平等主義」と見立てたのはアンダーソンであり、これは「もともとは揶揄する意図で命名された」ものだったが、むしろ「運平等主義者たちは、あだ名をいただいて、かえって元気になった」とされる[亀本二〇一六:一頁、
一〇七頁] )(1
(。この「運の平等論」は、おもに分配的正義に関わる議論であり、本稿における行為者の責任追及(責任主義)を考える議論とは位相を異にしている([同:一二二─一二三頁]も参照)。だが、いずれの議論も、本人が(完全には)制御しえない不慮のリスクを、そもそも/どのくらい当人に負担(帰責)させるべきか、を論ずる点では相互の関連性も強い。
平等尊重主義の正義論が「運の平等論」と考えられるのは、「運の作用による有利/不利を無くすこと」を「分配的正義を実現するための指針」[西口二〇一八:五五頁]としているからだ。従って「運平等主義は、運を平等化するものというよりも、分配における運の影響をできるだけ小さくすることをめざす思想」[亀本二〇一六:一頁]と理解しうる。この点、ロールズ『正義論』が提起した「原初状態」や「無知のヴェール」(生来の能力差や社会的身分の違いに関する情報が
各人から剥奪された状態を仮定する)もまた、「自然的・社会的偶然性が関わってくるような個別の情報を排除して、人間社会の一般的事実だけに基づいて正義原理を選定するための仮想的装置」[井上二〇一七:三一─三二頁]である点で、本人のコントロールが及ばない偶然的な「運」による影響の最小限化を企図する議論だったと言える。
こうした「運の平等論」の嚆矢と位置づけられているのが、ドゥオーキンの論文「資源と平等」(一九八一年)である。
〈負い目〉の法哲学に向けた予備的考察(吉岡)
この論文でドゥオーキンは「選択の運/自然の運」(option luck / brute luck)という有名な区分をおこなっている[ドゥウォー
キン二〇〇二:一〇五頁]。このうち、前者「選択の運」は、意図的で計算されたギャンブルの結果のように、本人が予想でき、かつ拒絶もできたリスクを引き受けることによって得られた損得とされる。また、後者「自然の運」とは、落下する隕石が直撃する場合のように、意図的に引き受けられたとは言えないリスクが現実化した結果とされる。こうした区分を前提としつつ、「運の平等論」の理論的目標は次のように要略される[木部二〇〇八:六二〔六一〕頁](亀甲括弧〔〕
内は引用者の補足、以下同じ)。
簡潔にいえば〈運の平等主義〉の中心的主張は、自発的な選択に由来する不平等への補償を認めないが、個人の制御が及ばぬ生得的お
よび社会的条件から派生する不平等には補償を要請する、というものである。まさに〈運の平等主義〉は、「われわれの運命をつかさど
るもの」〔芥川龍之介『侏儒の言葉』〕をめぐる政治理論的営為の代表的事例とみなしうるであろう。
加えて「もし世界が当人の選択の範疇には入らない運にあふれているとしたら、当人の責任範疇に入るとみなしうるリスクはかなり限られてくる。運の影響の緩和のために何らかの分配的措置がとられるのは、運の平等論の目指すところである」とも説明される[井上二〇一五:二三三頁]。とはいえ、「選択の運/自然の運」という区別の曖昧さや困難さという課題([亀本二〇一六:一六頁以下][井上二〇一五:二三三頁以下])を含め、「どのような不運をどの程度に考慮して、どのような制度に具体化するか」[酒匂二〇一九:二六三頁]について、平等尊重主義における更なる議論の深化・精錬が求められるところである。「私たちは常々、運なるものに翻弄され続けてこの世界で生きている」[奥田二〇一七:一頁]が、そうした現実の様相を、正面から理論内部に位置づけ、それを「責任」(本人が意図せざる不利益の受忍・免除・分散など)と連関づけて考究する試みが、倫理学や法哲学において進められていることを、ここでは確認しておきたい。
を通して浮き彫りにされる西洋近代的な「意志」や「責任」のあり方に眼を向けてみたい (1) 論 説が示すように、本稿とも密接な関連を有している。以下に、國分が提起(再発見)した「中動態」という語法と、それ
( 4 ) 中動態
最近、哲学者・國分功一郎が著わした『中動態の世界』[國分二〇一七]は、その副題「意志と責任の考古学」(。
われわれの慣れ親しんでいる文法上の能動態(〜する)と受動態(〜される)は、この両者によって、すべての事象を説明できるように思われるほど「強力な磁場を持った文法カテゴリー」[國分 二〇一九:六頁]である。このように現在の言語では「能動態と受動態」が対置されるが、そもそも過去には「能動態と中動態」が対立していた。かつての「能動態/中動態」の対立軸の下では「自分がやることが、自分の外側で終わる時は能動態を使って、自分が動詞によって示されている過程の場所〔座〕になっている時には中動態を使う」。中動態の具体例として、「欲する」「誰かを好きになる」「尊敬の念を抱く」や「感動する」などがある。いずれも「自然と出てくる感情」であって、たとえば「感動する」については、みずから「感動しよう!」と心に決めて感動するわけでは無いし、他の誰かから「感動しろ!」と命じられて感動するわけでも無いから、中動態でしか説明できない。また「感動する」という表現は、これを「感動させられる」と言い換えても同じ意味となるが、それは「感動も自分が場所になって起こることだから中動態」であって「中動態だから自動詞〔能動態〕にも受動〔態〕にも翻訳できる」。このように「じつは、能動と受動では説明できないことを僕らは毎日のように体験している」のである[同:八─一〇頁]。
しかしながら、中動態の消えた現代の言語では「同じことを言っているはずの表現が能動と受動として明確に対立させられる」。お前は自発的に「感動した」(能動)のか、それとも、誰か(何か)から強いて「感動させられた」(受動)のかを「なんとしてでも区別しようとする」。國分は、能動と受動を対立させる言語を「尋問する言語」と名づける。これは「同じ事実なのに能動と受動を区別しようと、『お前が自分でやったのか? それともやらされたのか?』と執拗に尋問する言語」の謂いとされる。このように中動態が消失し、代わってあらゆる事象が能動/受動のいずれかによっ
〈負い目〉の法哲学に向けた予備的考察(吉岡)
て表現(区別)されるに至った言語上の「大変動」には、ある概念が関係していたという。國分は、アガンベン『身体の使用』における次の一節を引証しつつ、その概念こそは、実に「意志(will)」に他ならないと述べる[同:一一─一三頁]。「意志は、西洋文化においては、もろもろの行動や所有している技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置である」[アガンベン二〇一六:一一三頁]。しかも、これが看過できないのは「意志は行為の帰属を可能にし、行為の帰属は責任を問うことを可能にする」からである。國分は「この論理に僕らは慣れきっています。しかし一度ここで立ち止まって考えてもらいたい」と呼びかける[國分二〇一九:一四頁]。
行為の原因というのは実際にはいくらでも遡っていけるのです。どんな行為だってそうですよね。過去と周囲とに、いくらでも遡れ
る。孤立している行為というのは存在しません。
ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線をブツッと切ることができる。「君からこの行為が始まっている」「君の意志が
この行為の出発点になっている」と言えるわけです。〔…〕意志という概念には因果関係を切断する機能がある。
同じ主旨で「さまざまな人間関係や環境上の要因が物事の進行を決定していく」ことから、「行為は無数の力と関係の実現」であり、「それは社会そのものと言ってもいい」とも説明される[國分二〇一八:二六頁]。加えて「行為は実際には一人の持ち物ではありません。一つの行為は数えきれないほど多くの原因によってひき起こされているという意味で、共有財産」と言うべき性格のものだが、「意志を使うとそれを私有財産にできる」とも言われる。このように「意志」を「ゼロからの出発点、純粋な自発性」と見なし、それを「責任を問うための根拠」に置くという考え方の背景には、キリスト教的な「無からの創造(creatio ex nihilo)」の発想が強力に作用していると述べられる。その上で國分は、「意志を絶対視している現代文明」について、いわば妄信的な「意志信仰」「意志教」に囚われていると断じる[國分二〇一九:
論 説 一四─一六頁]。國分は「意志の概念を使って押し付ける責任というのは堕落した責任」であり「意志からしか責任を考えられなくなっている私たちが間違っている」[同:一八─一九頁]と仮借のない論難を加えている )(1
(。これは取りもなおさず、近代的な「責任主義」の思考法に対して根底的な疑義を呈するものである。
三 仮構される意志と責任
( 1 ) 自 由 意 志 や 責 任 主 義 の 不 確 実 さ
前述の「無意識」「運」「中動態」をめぐる諸研究は、いずれも近代(法)が前提とする自由意志(ならびに、それを理由として責任を帰属させる「責任主義」の原則)に対して、深い見直しを迫るものであった。脳科学の実験は、われわれが「意志」を感ずるより前に、脳が行動を指令する電気信号を発しており、行動の始点が「意識以前」の無意識の段階にある(らしい)ことを示していた。また、その無意識的な情動自体も、すでに避けがたく一定の歪み(バイアス)を帯びているとされる。おのおのが置かれた社会的・経済的・文化的な状況(そこでの権力や 地位、慣習などの作用)や、当人に固有の属性や生育歴、人間関係……等々、各人の環境や素質の作用によって認知や思考が定 パターン型化するためである。かくして、われわれは、みずからの行為自体や、それに影響を与える各人の境涯や資質、それらがもたらす結果(特に不利益)について、その全体を本人自身の意志によって統 コントロール御できるわけではない。倫理学や法哲学における「運」の議論は、この「揺るぎのない、いわば実践的な事実」[古田二〇一七:三頁]を理論に組み入れる。本人の意図せざる「運」の要素を加味して、道徳的評価や分配的正義に関わる原則の再構成を試みている。哲学における「中動態」論もまた、われわれの行為が、当の行為者自身でさえ全域を見渡しえない広遠な因果関係・影響関係の只中で生じている実態を指摘する。その上で、にもかかわらず、あたかも当人自身が行為とその帰結すべてを統轄できるかのような前提の下で「意志」概念を導入し、性急なまでに「責任者」を確定(追及)しようとする、その半ば強迫症〈負い目〉の法哲学に向けた予備的考察(吉岡)
的な「意志/責任」への傾倒ぶりを強く批判していた。これらの議論はいずれも、自由意志を全否定する(自由意志の不
存在を主張・証明する)ものでは無い。ただし、少なくともわれわれは、自分の行為やその結果、それらに作用する諸要因のすべてを完全に掌握しうるわけでは無いという(考えてみれば当然かつ自明な)実像を摘示するものと言える。
( 2 ) 責 任 主 義 の 実 相
上記のように〝人が自由に意志しておこなった違法行為ゆえに帰責(制裁)する〟という責任主義の想定が不可能事だとすれば、実際には不可能なのに、行為者の責任を認定し、それに基づいて断罪・科刑している現実の営みを、われわれはどのように解釈するべきなのか。この点、哲学者の黒田亘は「われわれが他人のすることについて、当人の証言をまたず、もちろんその人の心の中を覗きこむこともせずに、行為と行為ならぬものの区別を迷わずつけているのはなぜなのか」という問いを考える。そして「『行為』の定義的基準とされる意志過程なるものは、あらかじめ常識の了解によって行為ならぬ現象から区別されている人間の営みの背後に、ことさら仮定された内的過程であり、たいていは架空の存在なのである」と論ずる[黒田 一九九二:九─一〇頁]。これはつまり、人間が関わる営みは世上に無数にあふれている中、特に責任者を確定すべきだと見なされた営みが「行為」と名指され取り出されること。取り出しの際、当の「行為」に対して「意志」(および「責任」)がセットで連結(紐付け)されること。このような行為の選 ピック・アップ別は、社会規範に照らして─ということは結局のところ社会の都合(秩序維持・報復感情など)に応じて実は恣意的に─なされていること、などを示唆する。この点、哲学者の中島義道も「〔…〕行為と同一記述の意志をわれわれが要求するのは、過去の取り返しがつかない行為に対してある人に責任を課すからである。〔…〕ある行為の行為者に責任を負わせることをもって、事後的にその行為の原因としての(過去の)意志を構成するのだ」[中島一九九九:一六二頁]と、同様の指摘をおこなっている。こうした見解に言及しつつ、社会心理学の小坂井俊晶は「責任の正体に迫るためには、自由意志に関する我々の常識を改めなければならない」と注記して
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から、以下のように論断する([小坂井二〇〇八:一四二─一五二頁][小坂井二〇一一:一五九頁])。
自由だから責任が発生するのではない。逆に、我々は責任者を見つけなければならないから、つまり、事件のけじめをつける必要があ
るから、行為者が自由であり、意志によって行為がなされたと社会が宣言するのである。言い換えるならば、自由意志は、責任のため
の必要条件ではなく、逆に、因果論的な発想で責任を把握する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。
こうした機 メカニズム序について、小坂井は次のようにも説明する。「犯罪が生じると社会は感情的に反応する。怒りや悲しみを鎮め、秩序回復のために犯罪を無きものにしなければならない。〔…〕そこで犯罪を象徴する対象が選ばれ、このシンボルに怒りを集める。そして、その破壊を通して共同体の秩序が回復される」[小坂井二〇一八:一〇頁]。
( 3 ) 市 民 が 担 う べ き〈 メ タ 〉 責 任
違法な〝犯罪行為〟という社会秩序(法秩序)を攪乱・破壊する事態が発生した場合に「責任者」を発見して糾弾し、ふたたび社会を鎮静させるため、〈行為(者)─意志─責任〉が三者一体でいわば調達される。だがそれは、事後的に構築された「社会的虚構」[小坂井二〇一一:一五九頁]である。それは、環境とともに人びとが織りなす時空間的に広大なネットワークから、当の反社会的な事態(行為)を引き起こした、ほんの一部の連鎖を切り出して「責任者」を仕立て上げるという「因果関係を切断」[國分二〇一九:一四頁]する操作に支えられている。こうした刑罰の内情を意識しつつ、刑法学の増田豊は「責任非難の基礎となる自由も、たとえコンヴェンショナルなものであり、社会的・文化的構成物であるとしても、国家的な擬制に先行して相互主観的に構成された現実でなければならない」と述べ、その前提として「責任を問うための相互主観的・コミュニケーション的条件が整備されている場合にのみ、行為者への責任帰属は正統化される」と論ずる[増田二〇〇五(続):二三四頁] )(1
(。そして増田は、さらに踏み込ん
〈負い目〉の法哲学に向けた予備的考察(吉岡)
で「行為者に責任を帰属すること、そのこと自体に対して、われわれ市民一人ひとりのすべて(市民社会)もまた自己言及的・批判的に〈メタ〉責任を負わなければならないことになる」と重要な指摘をおこなっている[増田二〇〇七:二一〇頁]([増田二〇〇五(続):二三五頁]も同旨)。
四 〈負い目〉の法哲学を考える──むすびに代えて
( 1 ) 二 階 の 責 任
行為者に責任を負わせること自体に対する責任。そうしたいわば〝二階の責任〟(責任への責任)ともいうべき右記の「〈メタ〉責任」を、われわれ市民が自己言及的・自己批判的に負うとは、具体的にどのようなあり方なのか。この「〈メタ〉責任」の内実として拙稿なりに考えるところを三点ほど挙げて、結論に代えたい。( 2 )「 処 罰 の 真 相 」 の 自 覚 化
一つは、上述のような責任追及(帰責)のカラクリ、すなわち、社会(われわれ)が「犯人=責任者」と特定した者を「スケープ・ゴート」にして秩序維持を図っているという「処罰の真相」[小坂井二〇一八:九─一〇頁]を自覚化することであろう。「責任」(責任を帰すること)の虚構性を自覚へもたらすことは、そのまま、われわれが日常的に信じており、誇りにも頼みにもしている「自由意志」(行為の主体性)もまた一種の幻想に過ぎないと自認することである。むろんこれらは、非常な難事業だろう。何となれば「社会秩序が様々な虚構のおかげで機能しているという事実そのものが、人間の意識に対して隠蔽されなければ、社会秩序が正当なものとして我々の前に現れない」
[小坂井二〇一一:一八六頁]のだからである。
( 3 )「 同 じ よ う な 環 境 の 下 で は 」
二つは、社会(われわれ)が「犯人=責任者」として指名した当該者と、もし同じよ論 説
うな情況に置かれたならば(仮に、生まれ育った社会的・経済的・文化的環境や、生得的・後天的に身につけた資質、たがいに関わり合
う人間たち、先行・後続する事態の推移などが近似していたならば)と、仮定的に追考してみることであろう。「道徳上の運」概念を提唱した先述のネーゲルは、ナチス政権下のドイツの一般市民には、体制に反対する機会が与えられていたにもかかわらず「彼らの大部分はこの試練を乗り越えられなかったことによって非難に値する」と前置きした上で、「しかし、これは他国の市民には課せられなかった試練なので、その結果として、たとえ彼らが、〔…〕同じような環境の下ではドイツ人と同じように悪く振舞っていたはずだとしても、実際には彼らはそうしなかったのであるから、彼らが同じように非難に値することにはならない」と論ずる[ネーゲル一九八九:五四─五五頁]。誰かに責任を負わせるときに負うべき責任
(メタ責任)として、ほかならぬわれわれ自身もまた「同じような環境の下では〔…〕同じように悪く振舞っていたはずだ」と仮想してみること。われわれが「実際には〔…〕そうしなかった」ことによって「同じように非難に値することにはならない」のは、単なる偶然(ひとえに運が良かっただけ!)に過ぎないことに想到する必要があるように思われる。
( 4 ) ア リ バ イ へ の〈 負 い 目 〉
そうして三つは、当の「犯人=責任者」として指 しせき斥された人物の立場に─すなわち反社会的な行為/現象が生じた場所に─われわれが居ない(居なかった)こと。その故に、責任(刑罰)を負わされる劣位的な位置に居るのはその人物であって、われわれでは無く、むしろ、われわれの側は責任を負わせる優越的な位置に居ること。そのことに対する〈負い目〉(Schuld)を感ずることである。これは、帰責される者が置かれた当の現場に自分は居ないという、一種の〝アリバイ〟(現場不在証明)に覚える〈負い目〉である。社会思想の今村仁司が遺作となった『社会性の哲学』において「負い目」を存在論的に討究している。今村によれば、人間が「自己の存在を与えられた」と感得しつつ生きるかぎり─贈与を受けた際に返済・返礼を迫られる負債の感覚として─そこには「負い目」が相即的に伴われており、われわれが生きることは、それ自体が「負い目として─ある」こ
〈負い目〉の法哲学に向けた予備的考察(吉岡)
とである[今村二〇〇七:七七─八三頁]。この認識を前提に、次のように論じられる[同:一〇四頁](傍点原著)。
存在の負い目は、生きていることの疚しさとして普通には意識されるかもしれない。存命の喜びに浸っているまさにそのときに、心 の奥底から生きていることの疚しさ 00000000000がおそうことがある。〔…〕存命の喜びだけで人は生きるのではない。疚しさのない生存はない。
〔一例を挙げれば〕本来、アウシュヴィッツで死ぬべき「我」がいまここで生き延びていることに、鎮めようのない疚しさを感じる。
レヴィナスの強制収容所体験もまた生き延びることの疚しさを彼の仕事に反映させざるをえない。
このように今村は「疚しさのない生存はない」と論じて、以下のように続ける[同:一〇五頁](傍点原著)。 生き延びてよかったと感じる、そして死んでしまった他人を哀れむ。それで普通は終わる。しかし他者の死を哀れむ自分自身の心の
なかに疚しさがしのびよる。〔…〕すなわち死ななかった、あるいは生き延びたという事実のなかに自分の比較優位を感じる 00000000ことで現状
に甘んじるとき、その現状甘受の優越のなかに疚しさが張り付いて離れない。生存の罪責感はそこに根を張るだろう。
いま、ある者「X」を「犯人=責任者」として指弾・制裁することは、そのXを共同体から排除する点で、社会的な〈死〉を意味するとも解される(死刑制度を残している日本では、文字どおり身体的な「死」へ至らしめる場合もある)。そのとき、拙論が考える「Xが置かれた場に居ないこと(自己のアリバイ)」に感ずる〈負い目〉は、今村の論ずる「死ななかった、あるいは生き延びた」ことが喚起する「疚しさ(負い目)」と重なり合う。もしかしたら、この「私」こそがXだったかもしれず、同じ条件下であれば「私」もXと同じように反社会的に振る舞ったかもしれないのに、たまさか「私」は〝不運〟を免れて、むしろ当のXを処断する立場に居る。そのとき、Xが─ひょっとすると「私」の身代わりとして─社会的な〈死〉(責任・