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サムライ基督教から母なるキリスト教へ

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サムライ基督教から母なるキリスト教へ

著者 杉山 直人

雑誌名 商学論究

巻 57

号 2

ページ 21‑37

発行年 2009‑09‑10

URL http://hdl.handle.net/10236/4107

(2)

平成三年、文芸評論家佐藤泰正が五年後には他界してしまう遠藤周作と対 談した。のちに『人生の同伴者』(新潮文庫)として刊行される。対談記の なかで佐藤は、維新以来多くの日本作家たちがキリスト教と出会ったこと、

またいったんは受け入れつつも、けっきょくは西欧精神の柱たるこの宗教を 血肉化することができなかった者も少なくなかった事実を指摘し、具体例を 列挙している。漱石外をはじめ、若くして植村正久から受洗し、信仰に燃 えた一時期を経つつも自然主義への傾斜を見せ、最晩年には「祈ることがで きない」と嘆いたという国木田独歩、内村鑑三から当初自らの後継者と期待 されながら、人妻との情死を選んでしまう有島武郎、最後まで関心を持ちな がらも、キリスト教を理解しきれなかった(と佐藤が考える)小林秀雄など である。

日本作家、そして日本人にとってのキリスト教受容の難しさをこのように 語る佐藤は、遠藤を高く評価する。佐藤によれば遠藤は芥川、堀辰雄の延長 線上に位置する作家である、という。(佐藤五三)西洋と東洋のはざまで根 無し草になる自分を嘆いた芥川や、かれの弟子として、ふたつの世界の狭間 で活動を続けることによって日本文学を豊かにしようとした堀辰雄に直接連 なる存在である、と。維新以来一世紀が過ぎた戦後になって始めて、キリス ト教をめぐる日本の風土について本格的にメスを入れた作家と捉えるのであ る。

ノーベル文学賞候補とも目され、西欧でも認知されるに至ったカトリック

サムライ基督教から母なるキリスト教へ

杉 山 直 人

− 21 −

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作家遠藤周作が、維新以来一世紀におよぶ日本キリスト教の歴史がたどり着 いたひとつのゴールだとすれば、明治初期の代表的なキリスト教文人として は内村鑑三が挙げられよう。国際連盟事務局次長新渡戸稲造、北海道帝国大 学初代総長にして北海道農業発展に尽くした佐藤昌介、札幌独立教会初代牧 師大島正健、植物学者で戦後文化勲章を受けた宮部金吾など、札幌バンドに は日本プロテスタント揺籃期の注目すべき傑物があまた見つかる。だが、後 世への影響力を考えるなら、やはり内村鑑三こそを筆頭にあげるべきである。

維新後の混沌とした日本の歩みのなかから生まれた内村のキリスト教を

「サムライ基督教」とでも呼ぶとすれば、戦後の自由な文化風土を背景に創 作活動を続けた遠藤は「母なるキリスト教」を語ることになった。ふたりの対 照的なキリスト教信仰のあり方は、日本が歩んだ維新以来の精神風土を映す。

神とサムライ

明治という時代風土と内村を考えるとき、筆頭にあげられるのは、もちろ ん明治二四年(一八九一年)一月におきた不敬事件である。第一高等中学校 嘱託教員だった彼は、前年一〇月に下賜されたばかりの教育勅語拝読式に際 し、一〇〇〇人を越える教職員のなかで唯ひとり天皇の署名に最敬礼しなか った。(井上六)これ見よがしに拒絶する態度だったわけではない。お辞儀 するにはしたが、深々と頭を垂れることはなかった、という。(小原二一四)

だが世論は許さなかった。時代は流れていた。民権派が支持する女子皇位継 承を否定し、直系男子にこだわった皇室典範が帝国憲法とともに成立したの が一八八九年。帝国憲法第一条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」

が示すとおり、日本は伝説上の神武天皇以来連綿と続く神の国だ、との宣言 が政府によってなされた直後だった。維新以来西洋化一辺倒だった国家姿勢 に変化が訪れ、西欧化一辺倒の反動が感じられる時代だった。近代国家とし ての体裁を整えつつあったのとは裏腹に、国家主義が芽ばえだしたのである。

(牧原一九〇、亀井六二)

勅語拝読式における内村の行動に世論は激昂し自宅への嫌がらせが相次い

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だという。内村は依願退職に追い込まれ、肺を病んで倒れる。夫を看病しつ づけた新妻加寿子は二三才の若さにもかかわらず四月には他界。三年足らず の新婚生活だった。夫妻の心労が偲ばれる。こののち内村はいくつかの学校 で奉職と辞職を繰り返すことになる。だが逆境のなかで明治二六年には『基 督信徒のなぐさめ 、同三〇年には『後世への最大遺物』を発表し、札幌農 学校時代の友、 黒岩四方之進(よものしん)の助けもあって、やがて『萬朝報』

(よろずちょうほう)英文欄を中心にジャーナリストとしての存在感を高めて ゆく。

キリスト教とは相容れない立場にあったはずの文人ジャーナリスト高山樗 牛(ちょぎゅう)も、内村の活躍をまえに声援を惜しまなかった。自らが主宰 する雑誌『太陽』誌上で「明治のダンテ」たれ、と明治三一年に内村を激励 した。 夭折する四年まえである。「現世の筆と紙とによりて他界のことを物 語」るばかりで、経世的視点を欠く内村の言辞を「愚論」と揶揄しつつも、

かれが伝道に寄せる情熱に樗牛は感じ入った。迫害を受けることで不滅の名 を残すことになった不出世のイタリア詩人の姿を、不敬事件以後も信念を貫 き通した内村にだぶらせたのである。

明治という時代と社会とに積極的にかかわったおかげで、内村は波瀾万丈 の劇場型人生をおくる。不敬事件はその最たるものだが、ほかにも日露戦争 に反対して非戦論を説いたことが有名である。このときは、後年明治天皇暗 殺を画策したされる大逆事件主犯容疑で冤罪のまま処刑された幸徳秋水とと もに、『萬朝報』で論陣を張った。また足尾銅山鉱毒事件をめぐっては、一 九〇一年春から冬にかけて被害地を数度にわたって視察、『萬朝報』紙上で 被害実態を報道し現地や東京で開催された講演会で問題解決を訴えた。(大 竹一六)

内村の著作をひもとくとき、ひとは生涯揺るぐことのなかった彼の信仰と、

伝道に命をかけた不屈の精神を感ぜずにはおられない。福音を広めるために は、いかなる労も厭わないと豪語したパウロにも似た堅忍不抜の精神にうた れる。西欧世界にキリスト教を広めた最大の功労者が持っていた、あの天命

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に殉ずる心をも内村に感じとる。臨終の様子さえ、ネロ帝の頃ローマで殉教 したと伝えられる聖人にも似て劇的だった。死の五日ほどまえには、駆けつ けた医師をまえに「福音万歳、日本国万歳」と叫んだというし、前日には突然 賛美歌を歌い出した、とも伝記は語る。(小原六〇〇)

内村の果断な人生を支えたのは、遠く島原の乱(一六三七年)で幕府軍に 参加した先祖をもつ、自らの家系への自覚だっただろう。自伝『余は如何に して基督信徒となりし乎』冒頭、内村は「余の家は武士階級に属していた、

それゆえに揺りかごのなかからして余の生まれたのは戦うため―生きるは戦 うなり―であった。」(一二)と言い放つ。ここには常在戦場の日々に至高の 価値を見いだす者だけに許される自負と誇りがある。戦うのだから、常に死 を意識していなければならない。死と隣り合わせの生、自分の死後なにが残 るのか、なにを残すのかを忘れない生である。人生からなにを生み出すべき かを青年たちに語りかけた『後世への最大遺物』は、こうしたサムライ的価 値観を抜きにしては考えられない。

『余は如何にして』は一八九五年に出版された。不敬事件から四年を経て いた。生活は苦しかったが、京都に居を構えて執筆と伝道に精力的な日々を 送っていた時期である。小原信によれば、この時期は不敬事件以後社会の糾 弾を浴びたわが身をふり返ることのできた「ある種の猶予期間」であり、次の 活動への準備期間だったという。(二四二)

三〇代半ばにさしかかり、僅かな友人たちを除けば孤立無援で社会と対峙 するしかなかった自分を内村は発見した。そうした立場に立たされた彼が、

自らの生い立ちと歩みを回想したとき、生を受けて以来、自分には実は「サ ムライ」として生きる道しか準備されていなかったのではないか、と感じて も不思議はない。維新以前の体制でのみ存在意義を持った階級を支えた精神 が、新しい時代を生き抜いてきた自分を支えていたことを改めて確認したの である。

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理想の日本人とは

人類の理想はキリストである。日本人の理想は武士である。しかして武士 がその魂を失わずして直ちにキリストを信ぜし者が余輩(われら)の理想であ る。キリストを信ぜざる武士は野蛮人である。町人根性を去らずしてキリス トを信ぜし者は偽りの信者である。しかも得難きはこの武士的のキリスト信 者である。( 内村鑑三所感集』八一)

維新後すでに三五年を経た一九〇三年、『聖書之研究』巻頭に掲げられた 所感である。ここにも、太平洋戦争終結に至るまで日本で生き続けた「サム ライ」をめぐるひとつの時代錯誤、江戸時代のエートスが内村のなかにも生 きていたことが歴然と示されている。西南戦争での西郷軍の敗北によって、

近代化過程における社会的存在としての武士階級は否定された。だが同時に 二六〇年におよぶ封建的身分制度のなかで、差別意識と裏腹につちかわれた エリート意識と、そうした意識にかなう行動様式、すなわち死を名誉と感じ させる教育が生んだ、自己抹殺を是とする心理構造とは地下水のように流れ 続けた。地下水は明治末の乃木希典の殉死や昭和二〇年の特攻隊となって地 面に噴出し、最後に一九七〇年三島由紀夫の(悪い冗談としか理解されない)

自決となって潰えた。平成に生きる大多数の日本人とはいまや無縁の精神構 造である。

ふたつのJ、日本 (Japan) とイエス (Jesus) という「愛すべき名」のため に一生を捧げたいと内村が考えていたのはよく知られている。(亀井六二)

では、どのように日本のために働けばよいのか。あるいはどのような日本人 が望ましいのか。明治政治の表舞台で活躍する人たちでは無論なかった。た とえば帝国憲法成立に努め、日韓併合に大きな役割を果たした伊藤博文を内 村は『萬朝報』で一蹴した 日清戦争で日本が失った「二億の富と一万の 命」と引き替えに、伯爵から侯爵へと出世し、妻妾を増やすことのできた人 物として冷笑したのである。(明治三六年六月三〇日号)日露開戦に影響力

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をもった大臣たちでもなかった。彼らは「平和を追求して止まざる両国の良 民」にとってこのうえなく迷惑な存在だと断言している。(明治三六年九月 二四日号)内村が好ましいとする明治人は、日清日露というふたつの戦争を 経て日本が東洋に覇を唱える国家となるのに貢献した人びとではない。

欧米への日本紹介を目的に、内村が五人の日本人について語る『代表的日 本人』は祖国への熱い思いで満ちている。そこには戦後教育でも語られる友 愛や献身、他人への思いやりといったいつの時代にあっても受け入れられる 普遍的美徳とならんで、現代日本では人気のない愛国的色彩が強い。

『代表的日本人』は藩の財政立て直しに成功した第九代米沢藩主上杉鷹山、

遅れてきたサムライ西郷隆盛、農業事業家二宮尊徳、陽明学者にして近江聖 人と慕われた中江藤樹、最後に日蓮上人の生涯を語る。五人のうち、日蓮を どのように内村が紹介したかがもっとも興味深い。ルターやイエスばかりか、

自分自身をこの宗教家と重ね合わせているから。

日蓮を内村が賞賛するのは、かならずしも彼の教えの故ではない。じっさ い日蓮の教義が「粗雑であり、語調全体も異様です。」と言ってはばからな いほどである。ではなぜ、「世界の偉人に伍しても最大級の人物」(一七六)

とまで日蓮に魅了されているのかといえば、日蓮の一生が戦闘的情熱にあふ れ、彼がサムライ的価値観に裏付けされた人柄の持ち主だからである。禅宗、

真言、それに真宗など鎌倉時代に勢力を誇っていた他宗を信念に基づいて論 難する勇敢さと日蓮の剛毅に、また布教を戦と心得、死を覚悟し、死と隣り 合わせで辻説法をおこなう意志と胆力に感動するのである。だから、龍の口 の法難に見られる鎌倉幕府の弾圧や佐渡への流刑も、自説を曲げなかった日 蓮が最終的に手にする自由な布教という精神の勝利への序曲である、と内村 は捉える。「不屈の精神とその持ち主に抗する世間、その間に、永遠に偉大 なるものの生じる期待があるのです。二〇世紀の人々は、この人物から、教 えはともかく、その信仰とその勇気とを学ぶがよろしい。」(一六二)と内村 が言うとき、そこには日蓮に自分自身の過去と未来を重ね合わせる内村のま なざしが感じとれる。

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注意すべきは、内村が日蓮宗はその起源を日本にもつ唯一の仏教である、

と評価していることだろう。インドから中国、朝鮮を経て伝えられた仏教が、

日蓮によって今度は日本から西にむけて発信されることになる、と賞賛する のである。日蓮宗を土着の日本仏教と捉えて評価するという姿勢もまた、自 らが主宰する「日本のキリスト教」を世界に広めることを夢とした内村自身 の信仰と重なる。内村の発想にあっては、個人は単に社会ばかりか、政治権 力や国家、果ては世界と至近距離で対置される。常に壮大なスケールで自ら の仕事や人生を祖国とのかかわりにおいて捉えていることになる。

内村は終生愛国者であった。彼の「愛国心」は地上的色彩から、天上的、

あるいは預言者的傾向を帯びるようになる。義戦として日清戦争を勇ましく 支持した頃は政治色の強い国粋主義を感じさせたものが、日露戦争での非戦 論主張を経て、戦後は黙示録の千年王国をさえ連想させる神秘色を帯びはじ める。日本への思いを語った明治四一年の言葉( 聖書之研究 )は、あたか もその四〇年後に太平洋戦争でわが国を待ち受けていた敗北と壊滅を想起さ せ、まことに感慨深い。

われはわが愛するこの国を今日直ちに済いえざるべし、しかれどもわれは 百年または千年の後にこれを済うの基(もと)いを置(す)えんと欲す。わが小 なる事業が救済の功を奏するまでにはわが国は幾回となく亡ぶることもあら ん、しかれどもわれは永久の磐(いわ)の上に築きて時の変遷を懼れざるべし。

( 所感集』二二〇)

反転する国家とサムライ

戦後昭和のように「侵略戦争」という忌まわしい過去の重荷を背負うこと もなく、日本が国力伸張と東洋における大国化に邁進し、それらをともに実 現できた明治・大正を生きた内村は、国家と日本民族にたいする自分自身の 一体化に違和感を感じなかった。平成を生きる戦後生まれのわれわれとの違 いである。だから日露戦争で軍事的伸張をはかり、国家的利益を追求する大

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日本帝国の政治に反対し否定はしても、日本人の「徳」を語るのを止める必 要はなかった。日本人であることに価値を見つけ、日本人としてのアイデン ティテイを素直に受け入れることができた。軍部の行動がアジアの平和を徐々 に脅かしはじめたときも、絶対平和主義を標榜するクエーカーたる新渡戸が 祖国愛と天皇への忠誠心を自らの信仰と矛盾なく統合できたのと同じように、

内村は彼個人と民族とのあいだにきしみや齟齬を感じない。日本人が自らの 民族的アイデンティティを素直に受け入れ、積極的に評価することのできた 幸せな時代を内村は生きたのである。

対照的に遠藤周作は、日本人であることに居心地の悪さを感じるところか ら本格的な創作活動を始めることになる。その居心地の悪さというのは、

(一)日本人カトリックとして西欧的キリスト教になじめなかったことがま ずあげられるし、また(二)敗戦がもたらした民族的アイデンティティの危 機ゆえに、日本人であることを容易には肯定できなかったという、時代的側 面にも注意すべきだろう。

敗戦後の混乱期日本を外から眺めるという経験は、たしかに遠藤にとって 大きな意味を持った。作家としての方向づけができあがったのだから。明治 以来近代化路線を走り続けた日本が、その結果として経験した民族的破綻と 悲惨を彼は日本を離れることで味わったのである。

作家の死後刊行された『ルーアンの丘』(一九九八)は、昭和二五年に戦 後初の渡仏留学生のひとりとして彼の地を踏んだ折、アジア各地の人々と日 本人とのかかわりを遠藤がどう捉えたかを記録している。渡仏直後の昭和二 六年にカトリック系出版物に掲載された旅行記(「赤ゲットの仏蘭西旅行」)

は読者の笑いを誘わずにおかない、例の露悪的狐狸庵スタイルで書かれた部 分も多い。だが、未曾有の戦いが残した爪痕も避けようなく語られる。寄港 先のマニラ港でフィリピン人が日本人にむける寒々としたまなざしや、船中 で知り合う親切な中国人に遠藤が感じる後ろめたさなどは、戦後、良識ある 日本人なら誰もが共有せざるをえない、アジアの諸国民にたいして旧軍が犯 した負の遺産そのものである。若き遠藤も日本人たることの意味を考えざる

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を得なかった。当時の遠藤は日記のなかでは渡仏するまでに出会ったアジア の人々について多くを語っていない。数行程度のものもあるし、フィリピン 人の対日感情はについてはわずか一行しか記していない。(一九五〇年六月 一二日月曜日の記述『作家の日記』 講談社文芸文庫〕収録)だが、それら は旅行記では血の通ったエピソードとして登場してくる。

インドシナでの抗日運動弾圧について、フランス青年から遠藤が日本人の 代表として裁かれるくだり(一一〇)は、おそらくフィクションであろう。

不自然なくらい短編小説仕立てになりすぎているから。だが、そうだとして も、そうした状況を遠藤に書かせずにはおかなかった「野蛮、残酷、熱狂の 日本人観」(一〇九)が、終戦後間もないフランスで未来の作家を待ち受け ていたことは間違いない。太平洋戦争での母国の行為や日本人であることの 意味を若き作家は反芻し続けたのである。彼の地でのそうした経験が、やが て今次大戦で異人種にたいして日本人がおこなった「生体解剖実験」という 行為の意味を「海と毒薬」で作家に探らせることになる。また、日本人たる ことの意味を探し求める旅が太平洋戦争ではなくて、今度は過去をさかのぼ って江戸時代に歩みを進めたとき、踏み絵と隠れ切支丹のとなえるオラショ から『沈黙』が生まれることになった。

「海と毒薬」の主人公勝呂二郎に直接のモデルはない、という。(小林一二 七)だが、昭和二〇年九州大学医学部で起きた捕虜生体解剖実験に参加しつ つも米軍の追及と敗戦の混乱を生き延びた医師たちがイメージされているの は言うまでもない。今は開業医としてひとり世間を避けるように暮らす彼を、

静かで平和な戦後の日常生活が取り巻いている。戦争の傷跡が次第に消え、

日本が落ち着きを取り戻しつつあった時代、経済成長期の繁栄謳歌をまえに した時代である。いっぽう、キチジローは島原の乱ののち過酷さを増した切 支丹弾圧時代を生きた。だが、時代がもたらす抑圧的社会体制や、そうした 体制の元での社会的価値と個人の自由な心とのあいだに生まれる葛藤や軋轢、

さらに自らの良心にさいなまれつつも、結局は時代の流れに押し流されてゆ く人間の弱さと救済といった、遠藤文学の中心的テーマのひとつによって、

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ふたつの作品は結ばれる。

明治・大正を生きた内村が説いた日本人の理想としてのサムライは、「海 と毒薬」にあっては米軍捕虜の生体解剖を許可し、切り取られたその内臓を 酒のサカナにして楽しむという、恐ろしい存在に置き換えられている。戦後 教育が旧日本軍をめぐってつくりあげた極限のステレオタイプ的マイナス・

イメージとして登場する。日本の過去をめぐって一九四五年を境に、白から 黒へと反転した再評価のひとつが「海と毒薬」に示されているのである。

(怖ろしいのだな、貴様)とその眼は言っていた。(それで貴様、日本の 青年といえるか)(一七〇)

肺の摘出によって命を奪われる手術台の捕虜を正視できない勝呂を睨みつけ る将校のまなざしを描き出す遠藤の筆からは、「世界に冠たる大和民族」、

「鬼畜米英」のスローガンに酔いしれた日本人への苦い思いが感じとれる。

実験に立ち会う将校たちのほかにも旧日本兵は登場する。中国で民間人を いわれなく殺害したり強姦経験をもつ人たちである。平和な戦後日本の日常 生活にあって、戦中の残虐行為を得意げに語る今は良き市民となった彼らに すれば、かつての自らの行為はもはや他人事でしかなく、特別の感慨を催す ものではない。良心の痛みを感じる問題でもむろんない。

いっぽうの勝呂は、解剖実験参加の重荷を背負ったまま戦後を生きるナイ ーブな人物である。最初の患者の死にも動揺してしまうハムレット型人間の 常として、決断を下し、それを行動に移すことができない。優柔不断で状況 の展開に翻弄され身動きがとれない。だから生体解剖への参加を求められた ときも、断ることができたのに「黙って承諾してしまった」(「海と毒薬」 八 七)。手術直前には、自分たちの行為が殺人であることを再度認識して恐怖 と不安にさいなまれるし、捕虜の死後「殺人現場」にいてなにもしなかった 自らの責任を責める内なる声に苦しむ。手術の犯罪性を理解はしても、それ をなんらかの行動に結びつけることはできなかったのである。

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手術への参加を拒否できたのに、そうはしなかったという設定がなされて いることの意味は重い。戦争遂行のため、国家と国民が集団ヒステリー状態 に陥っているなかで起きた事件ではあっても、当事者のひとりたる勝呂には 自らの意志を行使するための一定の自由があった、と読めるから。ただし、

拒否した場合に勝呂の身になにが起きえたかを考えると、現代読者の置かれ た安全地帯から彼を責めるだけで事足りはしない。佐伯彰一が文庫版解説で 指摘した(二〇二)ように、手術への参加を勝呂の自発的選択である、と考 えるには彼を取り巻く状況が抑圧的すぎる。医学部内での立場、医学部と軍 との力関係を考慮すれば、引き受けるしかなかった、と言うのが事実に近い。

勝呂自身の選択とはいっても、解剖の話を持ち込んできた柴田助教授が準備 した既定コースに応ずるしかなかっただろう。

作中には実はひとりだけ、自由な立場から行動できた人物がいる。軍国主 義一色の時代の流れのなか、院内にも瀰漫していた人命軽視の風潮に押し流 されなかった橋本教授の妻ヒルダである。患者を安楽死させようとする上田 看護婦に「あなたは神さまの罰を信じないのですか」(一一三)と詰めよる 彼女は、キリスト教を背景とした西欧的良心と言えなくもなく、確立された 個を確かに感じさせる。「罪と罰」という絶対的価値を持ち得ず、自分を取 り巻く状況にながされて「人間の良心なんて、考えよう一つで、どうにも変 わるもんやわ」(一九四)と刹那的につぶやく戸田やハムレット的勝呂とは 対極にいる人物である。だが彼女のそうした言動は、ひっきょう有力教授の 妻、同盟国ドイツからの賓客としての特権に基づいた安全地帯にいる強みで ある。患者の迷惑にまでは思い至らぬまま、得意げにかれらの世話をやくヒ ルダの「善意」を見つめる日本人看護婦の冷ややかなまなざしを、作家はし っかり書き込んでいる。

母なるキリスト教

明治以降の日本の歩みのなかでもっとも暗い時代を勝呂が経験し、そのた めに悔悟の日々を戦後おくったとすると、日本の切支丹にとって、もっとも

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過酷な時代を生きたキチジローはユダのようにロドリゴを売って 「裏切り者」 と なり、 踏み絵に足をかけて棄教したが、 しかし生涯彼なりの 「信仰」 を捨てる ことがなかった。「切支丹屋敷役人日記」は、幽閉のまま一生を終えたロド リゴのもとで、キチジローが彼の身の回りの世話をし続けていたことを語る。

神不在の日本人をしばらく描き続けた遠藤は、ポルトガル人司祭セバスチ ャン・ロドリゴやキチジローのなかに「日本的キリスト教」がどのようなも のとなり、自らの信ずるキリスト教信者の姿とはなんであるかを結実させた。

その意味ではキチジローは勝呂を超えた存在なのである。一九四五年八月を 境に勝呂のかつての行為にたいしても寛大となった社会体制にあってさえ、

彼は捕虜に対する自分の関わりをめぐって迷い続けている。ところが、キリ スト教を否定弾圧することにかけてはなんの変化もみせない社会体制の元で 暮らしたにもかかわらず、キチジローは無理矢理棄教させられた信仰を失う ことがなかった。キチジローは彼なりの自己確立に成功していたとも言える だろう。

明治・大正を生きた内村はサムライ基督教徒を日本人の理想として語りつ づけた。いっぽうのキチジローは、明治という時代とは対照的な、戦後日本 が育んだ許容度の高い多様性を認める価値観からしか生まれてこなかっただ ろう。時代背景がキチジローをして、内村流サムライにたいする遠藤流アン チヒーローに仕上げているのである。江戸時代のエートスを体現したエリー ト信者たるサムライ基督者にたいし、本音で語られた肩肘張らない町人信仰 者なのである。

「町人根性を去らずしてキリストを信ぜし者は偽りの信者」だと内村は喝 破した。この場合「町人根性」がなにを指すかはかならずしも明確でない。

金もうけを内村は悪いとは考えず、むしろ、それが自分には備わっていない 才能であるとまで若者に語り、大いにもうけよ、と激励さえした。( 後世へ の遺産 )問題はもうけた金をどう使うかである。当然ながら「神の意」 にか なう使い方を内村は求めた。社会改良や人びとの福祉のためにこそ使え、と。

だから、戦後ながらく発展途上国への援助を渋った戦後日本の姿勢が内村の

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意にかなったとは考えにくい。個人と国家を対立的というよりは一体的ビジ ョンのなかに捉え、社会と自らの調和的関わりを重んじた内村にすれば、利 益確保を最優先する利己的個人主義が気に入ったはずがない。

一九四五年の敗戦は内村が嫌った「町人根性」とその価値観を戦後の日本 社会に定着させた。それこそが今日の日本の繁栄をもたらす遠因である。名 を捨て実をとり、他国との争いを避けて姿勢を低くして嵐が過ぎるのを待ち、

最後には利益を確保するという、遠藤の好んだ「負けるが勝ち」精神こそが 戦後日本の国是だった。

自らの弱さを繰り返し口にするキチジローの、哀れというにはいささか情 けない姿を多くの日本人読者が受け入れたのは非サムライ的価値観を奉ずる 社会に彼らが生きているからである。狐狸庵を得意げに演じた遠藤の姿にわ れわれが見いだしたのは、「サムライ」からはほど遠い町人文化のエートス だったはず。

狡猾卑劣にして臆病弱虫だが、しかしイエスを棄てることができなかった キチジローを自分は愛する、と遠藤は明言する。それもキチジローは私自身 だ、というような狐狸庵風偽悪的ポーズを極めた言葉で。( 「遠藤周作」と Shusaku Endo』八四)

「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈 悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもならぬ己の弱さに、

衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパード レは、はっきり申した。切支丹の申す救いは、それと違うとな。切支丹の救 いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さが それに伴わねばならぬと。……」( 沈黙』二三六)

「救い」のあり方をめぐり、仏教とキリスト教がどう違うかを筑後守がロ ドリゴ相手に講釈してみせる場面である。弾圧と棄教への誘いに抗し、それ に打ち勝つだけの強さを基督教が信者に求めるのにたいし、仏教は人間の弱

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さを受け入れ、すべてを許す、と井上は言う。「父なる基督教」と「母なる 仏教」という構図である。

筑後守の尋問を内村がうけたとすれば、いったいどう答えただろう。おそ らくパードレと同じことを筑後守に語ったのではないか。「最後のサムライ」

とまで内村が称えた西郷ではじまる『代表的日本人』は、権力や反対派との 戦いのなかで布教することを望んだ日蓮を最後に紹介して終わっていた。悪 い時代に生まれついた我が身を嘆き、己の弱さを訴えて理解や同情を(本人 の意図とは関係なく結果的に)得るキチジロータイプの人間を、サムライと してのプライドにあふれる内村は認めなかっただろう。「邪魔があればある ほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後生に遺すことができ る。」と豪語した内村である。( 後世』六七)弾圧されれば、クロムウェル 宜しく軍事行動に訴えるほうが似合いの人なのである。

そこで遠藤のキリスト教を考える番である。切支丹屋敷に囚われの身とな ったロドリゴが踏み絵のイエスを回想する場面である。

その顔は今、踏み絵の木のなかで摩滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちら を向いている。(踏むがいい)と哀しそうなまなざしは私に言った。

(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間た ちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前 たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。)

〔二四〇〕

「棄教」を勧める言葉を慈しみと哀しみをたたえたまなざしで語りかけた踏 み絵のイエスは、神との契約を貫き通す子しか受け入れない「父」ではない。

そうではなくて、殉教を是とするカトリック教会から見れば落第生ロドリゴ のそばにいることまで約束してくれる、その意味で優しすぎる母としての存 在である。

父なるイエスが遠藤の世界では母性化されており、しかも作家自身は母の

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イメージをかぶせたそのイエスに嫌悪を見せつつも、イエスを捨て去ること ができない絆で結ばれていると指摘したのは江藤淳だった。( 成熟と喪失』

一五八)作家が見せるこのアンビバレンスは、「一般的な文化の屈折をこえ たある激しい個人的感情」が理由となっているに違いない、と明言したので ある。その通りであった。幼い頃両親の離婚を経験した遠藤には母への思い が強かったが、その母は中学生だった彼を受洗させた。自らキリスト教を選 び取ったのではない遠藤にすれば、ありがた迷惑だった。キリスト教は母か ら押しつけられたお仕着せの洋服、愛していたから結婚したわけではない、

魅力を欠く妻のようなものだった。(「母なるもの」)なんど捨てようとした か分からないカトリック信仰だが、「それなのに私は今日もこれにしがみつ いている。」とさえ作家は書いている。(「弱虫と強者とについて」三六四)

母なるものを捨てようとして捨てられない自分自身を、作家はロドリゴやキ チジローに投影していた。母性化されたイエスは遠藤個人の過去を解き明か す光だったのである。

だが、その光が照らし出すのは母をめぐる作家の個人的トラウマ体験だけ では、もちろんない。まずは日本人の宗教観をめぐる作家の解釈が母なるイ エスには込められている。宗教と風土、宗教と民族の関係について遠藤は多 くのエッセイを残したが、例えば「ガンジス河とユダの荒野」のなかで「東 洋人の宗教心理には『母』なるものを求める傾向があって、『父なるもの』

だけの宗教にはとてもついていけぬというのが私の持論である。」(三七五)

と記している。

完成稿に至る作家の推敲過程を調査した最近の研究『遠藤周作「沈黙」草 稿翻刻』(二〇〇四年刊)が示すように、稿を重ねるにしたがい、『沈黙』は 特にロドリゴの目に映る「イエスの顔」をめぐって西洋と東洋を対照的に描 き出す結果となった。(三五五)哀しみをたたえた母なるイエスを受け入れ たロドリゴは、雄々しく男性的なイエスを崇拝する西洋基督教の影響力を抜 け出て日本的キリスト教を受け入れた。だから日本的プロテスタントとでも 言うべき改宗者としての立場に最後にはたどり着く。東洋の日本が西洋文明

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のエッセンスをどのように受け入れ、血肉化していったかを、踏み絵のイエ スをはじめとして、日本人信徒の過剰な聖母崇拝に目撃するばかりでなく、

実際に体験受容する人物として設定されているのである。ロドリゴの棄教は、

切支丹弾圧時代を背景にして西洋が東洋を受け入れる、日本側から見たひと つのモデルケースである。

父なる宗教と母なる宗教の対比は『沈黙』以後も、ユダの荒野を背景とす る旧約聖書と、イエスが活動する花や緑に恵まれたガリラヤから生まれた新 約聖書とを考える際にも底流となって姿を見せる。遠藤の基本的問題意識の ひとつなのである。(「主観的日本人論」)

踏み絵のイエスをめぐっては「弱者と強者」、なかんずく「弱者の救い」

という視点にも触れておかねばならない。殉教者として教会史に栄誉ある地 位を残すことがかなわなかった負け犬たる「転び者」への遠藤の共感である。

転び者はカトリック教会にすれば「腐った林檎」、幕府には単なる「軽侮 の対象」でしかなく、それゆえ、ながらく歴史から抹殺された存在だったと 作家はいう。(「一枚の踏み絵から」)キチジローの人生に見られるとおり、

転びは自らの弱さへの屈辱感、棄教した罪悪感、さらには殉教者にたいする 自己弁護など、幾重にも居心地の悪い人生を送らざるを得なかった。『沈黙』

はそうした転び者を復活させる試み、歴史の暗闇からよみがえらせるための 取り組みである。

転びの末裔たる隠れ切支丹を訪ねて資料を集めるうちに、遠藤は隠れが聖 母に強い愛着を示すことに気づいた、という。父なる神が自分たちの弱さや 卑劣さを罰するのを恐れた転びや隠れは、すべてを許す母なる神を求めてマ リアへの信仰にすがるようになってゆく。母なるイエスのメッセージを我が こととして受け止め、受け入れたロドリゴはこうして弱者の理解者ともなっ ている。「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかった と誰が断言できよう」(二四一)キチジローに許しの秘蹟を与えたロドリゴ のこの言葉は、もちろん作家自身の言葉でもある。

(筆者は関西学院大学経済学部教授)

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参考文献

内村鑑三の著作は現時点で一般流布している岩波文庫版を、また遠藤周作の作品は新潮 文庫版を用いた。そのほかのものは以下の通り。

遠藤周作文学全集 第一一巻(新潮社版)

遠藤周作『作家の日記』(二〇〇二年、講談社文芸文庫)

遠藤周作『ルーアンの丘』(一九九八年、PHP研究所)

遠藤周作編集『「遠藤周作」とShusaku Endo』(一九九四年、春秋社)

井上哲治郎『教育ト宗教ノ衝突』(一八九三年出版、二〇〇四年、日本図書センター)

江藤淳『成熟と喪失 母 の崩壊』(昭和六三年、河出書房新社)

大竹庸悦 内村鑑三と田中正造 (二〇〇二年、 流通経済大学出版会)

小原信『内村鑑三の生涯 日本的キリスト教の創造』(一九九七年、PHP文庫)

亀井俊介『内村鑑三 明治精神の道標』(昭和五二年、中公新書)

小林慎也「虚構と事実の間 『海と毒薬』をめぐって 」佐藤泰正編『遠藤周作を読 む』所収(二〇〇四年、笠間書院)

藤田尚子(編集・解説) 遠藤周作「沈黙」草稿翻刻』(平成一六年、長崎文献社)

参照

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