の認識
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(2) 82. のヨブでもある︒作品の飯述の上ではヨブは悲嘆を発したのち︑彼を見舞ってくれた三人の友人との論争を重ねてい. るうちに︑彼の賢者としての性梧を明かにしてゆく︒それについてはのちに論ずるつもりでいるが︑とにかく︑ヨブ. の人問像の中に︑ヘプライの典型ともなるべき敬産な性格と︑賢者としての知恵の側面との相剋が︑この悲劇の主題. である︒それゆえ︑この相剋は現代風な言葉でいえば︑信仰と理性の葛藤として人問の普遍的な意義をもつ間題とな. る︒しかもヨブ記においてこのような主題がたんに思弁的に考えられているのではなく︑ヨブという人問を櫨過して. ﹁体験﹂されたのである︒本稿で宗教体験という場合︑人生の諸体験の中から︑集約的に把握された信仰の意味を指. す︒人問の体験的なあり方が宗教の敬産性から︑どのようた意味をもち︑またどのような人間のとるべき態度が生れ るかを見てゆくとき︑このヨブ記は多くの示唆をわれわれに与えてくれる︒. ﹁たん. した人が義人と呼ぱれるかもしれないが︑現実には苦しみと悩みに生きるのが義人たらんと努力する人である︒エリ. 人々よりも一層︑悩みが大きく︑苦しみが深いという事実を忘れている︒理想的には神の前に義たり得ることを完う. ヨブの転落の姿はじつに悲惨で︑人々の期待を裏切るものであったからである︒しかし義人であれぼあるほど︑他の. しての理想像は︑ある意味では誤りだとはいえない︒たしかに神のまえに義とされ人々の尊敬と信頼をあつめてきた. ﹁神への畏敬こそ︑ヨブの窮局の生き方の根拠﹂︵四ノ六︶であったはずなのだ︒この友の言葉が投げかげた義人と. 自己に苦難が臨み︑災いがおこってみると﹁⁝⁝耐えられず︑おじ惑えり﹂︵四ノ一−五︶というありさまであった︒. ぢ多くの人々を教え訓し︑衰えし手を強くせり︒つまづく者をたすけ起し︑か弱き膝を強くせり︒﹂ところが︑いざ. 試錬としての苦難に身を置くヨブが悲嘆を発したとき︑彼の友の一人エリパズはつぎのようにいっている︒. 二. 624.
(3) 83. パズはさらにいう︑﹁考えてみよ︑たれか罪なくして︑滅ぼされし者ありや︒いづこに正しき者にして︑断たれし者. ありや︒わが見しところ︑不義を耕し害悪をまく老︑みづから刈り取る︒彼ら神のいぶきによりて減び︑その怒りの. 息によりて消え失す﹂︵同七︑八︶︒この友は神の善悪の審判への無限の信頼をよせている︒観念的にすでに信仰の問. 題は解決されてしまっている︒しかしヨブにとっては︑まだ解決されていないのである︒苦難に出合って一層深く問. 題となったのだ︒エリパズは伝統的なユダヤ教の教義の上に坐り︑その上に立っての発言である︒その意味からすれ. ば︑彼には悩みなどあり得ない︒少くともこのヨブの悩みは理解することは不可能である︒神が審判の神であり︑善. 悪を知る神でなければたらぬということは︑伝統をはなれても重大なことである︒ひとそれぞれ漠然としてではある. がこういった期待をひそかに胸のどこかにもっているはずだ︒これがなかったならば︑社会への信頼も︑ひいては人. 問の一切の行為の基礎も瓦解してしまうかもしれない︒エリパズの解決は安易であるかもしれないが︑ひとつの妥当. 性をもつていることは充分認められる︒しからぱ︑ヨブとエリパズとのちがいはどこにあるかといえば︑ヨプには試. 錬の悩みがあるが︑友人は悩みをもたず︑それを知らない︒エリパズはヘブライの伝統的な誠めを何度もくり返えし. て︑ヨブに語る︒﹁人はいかにして神の前に正しくあり得んや︒いかにして創造者の前に清くあり得んや︒見よ︑彼. ﹁人は野の草にひとし︒草は枯れ︑花は凋む︒されど︑主. はそのしもべをさえ頼みとせず︑その天便をも誤まれる者と見絵う﹂︵同四ノ一七︑一八︶神の至局性︑尊厳性に比べ. たたらぱ︑人問は無にひとしく︑汚れた存在にすぎない︒. のき言葉はとこしえに絶ゆることたし﹂︵イザ四〇ノ八︶と歌われているように︑神の至高性はたえず強調される︒. しかしヨブにとってもこの神の尊厳性が分らないわげではない︒知っているからこそ間題があるのだ︒ヨブは運命論. 者ではない︒エリパズは﹁見よ︑神に戒めらるる人はさいわいなり︒ゆえに全能者の懲らしめを軽んずべからず︒彼. は傷つけ︑また包み︑撃ち︑その手をもって医し給う﹂︵同五ノ一七︑一八︶と︑試錬の必要性をも説く︒ヨブの悲惨. 625.
(4) 84. な生活の未来には希望にみちた生活が約束されていると強調する︒ヨブはこの言葉につぎのようにこたえる︒. ﹁ねがわくはわが憤りが正しく量られ︑またわが災も︑はかりにかげられんことを︑︑われにいかなる力あり. て︑なお待つべきや︒われにいかなる終りありて︑なお耐え忍ばざるを得ざるや︒まことに︑わがうちに助げはな. く・救いの望みは︑われより断たれたり﹂︵六ノニ︑一一−二二︶︒彼はまた言葉をついでいう︒﹁その友にたいする. ヨブにとって友人たちぼこのようなものとなった︒ ﹁なんちらはわが. いつくしみをさし控える者は︑全能者を恐れることをすてる︒﹂と︒﹁にわかの出水のごとく︑暑い目のために消え去 る雪のごとく︒これによりしために失望す﹂︒. 災いを見て恐れず﹂︵六ノニ一︶︒友人たちのヨブを誠める言葉︑批判する言葉はすべて彼に降りかかった災いを見た. 上での判断であり︑批判となってしまった︒そこには友にたいする﹁いつくしみ﹂︵訂吻&︶は存在していない︒ヨ. ブはいう︑﹁われに教えよ︑さすれぱわれは黙さむ︒わが誤りをわれに悟らせよ︒正しき言葉はいかに力あるもの. ぞ︒されどなんぢらの誠めは何を戒めんとするや﹂と反間する︒事実︑一切の希望を断たれたヨブにとって誠めは風. のように空虚なものである︒希望があれぼこそ︑誠めが必要である︒倫理性の根底にはかならず善にたいする幸福︑. 不善にたいする不幸が︑約束となっている︒ヨブの苦悶は倫理的な誠めを守らないところからでてきたものではな. い︒彼自身の存在が何であるか︑現在ここに生きている彼の主体にとって神が何であるかという間題を彼は提起して. これにたいし︑シュヒびとのビルダテはつぎのように語る︒﹁いつまでかなんぢは︑かくのごときことを語るや︒. いる︒. なんぢの口の言葉は荒き風ならずや︒神は公義を曲げ給うや︒全能者は正義を曲げ給うや﹂︵八ノニ︑三︶︑そして︑. ヨプの災いの原因は彼の子供たちが罪を犯したために︑彼らを彼から奪ったとし︑ヨブがもし清く正しき人聞とたる. ならぱ︑かならずや将来︑彼をこの地上に栄えさせるであろうという︒ピルダテはこういった自己の考えを︑長い歴. 626.
(5) 85. 史を経てきた祖先の教えや︑賢老とよばれる人々の考えに間い訊すことをすすめる︒ ﹁神を信ぜぬ者の望みは滅び失. す︒その頼むところは断たれ︑その寄るところは︑くもの巣のごとし﹂︵八二二︑一四︶︒. ヨブはこの友人にたいしてもつぎのように答える︒﹁まことにわれ︑このことのそのとおりなるを知る︒されど人. はいかにして神の前に正しくあり得んや︒よ﹂彼と争うとも千に一つも答えを得るあたわず﹂︵九ノニ︑三︶﹁たとい. われ正しくとも︑わが口はわれを罪ある者となす︒たといわれ罪なくとも︑彼はわれを曲れるものとなす︒われに罪. なし︒されどわれはわれを知らず︒わが命をいとう﹂︵九■二〇︑二一︶︒こういった伝道の書に歌い上げられている. 気分と同じような悲嘆がヨブの口から発せられる︒これにたいしナアマぴと︑ソパルはヨブが自已の考えを正しいと. し︑神の目に清いことを主張したことに怒りを発し︑神の知恵の秘密は測りがたく広大であること︑全能者に限界を. 定めることは不可能であり︑﹁神はなんぢの罪よりも軽くなんちを罰し給うことを知るべし﹂︵一一ノ六︶という︒. ヨブは答える︒﹁されどわれも︑なんちらと同じく悟りをもつ︒われなんちらに劣らじ︒たれかかることを知らざ. らんや﹂︵二一ノ三︶︒そして野の獣︑空の鳥︑海の魚︑草木が主の創造を告知していること︑また人間の中にかかる. ことを知る知恵が与えられていること︑一切の力︑一切の知恵が神のものであり︑歴史の審判者であることをヨブも. 語る︒﹁見よ︑わが目は︑これをことごとく見たり︒わが耳はこれて聞きて悟れり︒なんぢらの知る事は︑われもま. た知る︒われはなんちらに劣らず︒されどわれは全能者に物云わん︒われは神と論ずることを望む︒﹂︵二ニノ一一. 三︶︒ヨブにとって神と対話することが目的であって︑人問の問の是非の論争ではたかった︒彼の友人の論がいかに. 正しくとも︑それは人聞的な価値の間題にすぎない︒ヨブは現在自己が生きていることの窮局の意味を間うているの. である︒それゆえ︑友人たちの教えられたとおりの伝統的塗言葉による﹁掻言﹂は灰のことわざ︑﹁土の盾﹂にすぎ. ぬ︒彼らがヨブの現実の苦難をみて︑それをもって神の摂理とし︑神に味方するならば︑かえって神を濱すことにな. 627.
(6) 86. る︒﹁されどわれはわが道を彼の前に守り抜かん︒これこそわが救いとならん︒神を信ぜざる者は︑神の前に出るこ. とあたわざれぼなり﹂︵二ニノ一五︑ニハ︶︑﹁われを呼び給え︑われ答えん︒われにもの云わせ︑なんぢ自ら︑われに. 答え給え﹂︵二ニノニニ︶と神に向って語る︒われわれはここにヨプの不屈な精神︑力強い魂を感ずる︒友人たちは. ヨブが神にむかい対話をしようとする態度を怒り︑﹁人はいかなる者︑いかにして清からん︒女より生れし者︑いか. にして正しからん﹂︵一五ノ一四︶とせめ︑彼の罪が知られざるうちに犯されたのであるとまで主張し︑激しい論争. となる︒ヨブは友人たちが慰めようとしてかえってわたしを煩わす者であるといって斥げる︒ 見よ︑今もわが証人は天にあり︑. わがために証す者は高きにあり︒ わが友はわれをあざける︑. されどわが目は神に向いて涙を注ぐ︵ニハノ一九︑二〇︶. もはや苦難のヨブにとって彼の義を保一証してくれるものは神以外にはあり得ない︒. わが友よ︑われをあわれめ︑われをあわれめ︑神のみ手がわれを打ちたればなり︒. なんぢらは︑なにゆえ︑神のごとくわれを責め︑わが肉をもって満足せざるや︒. われは知る︑. われをあがなう者は生き給う︒. のちの日彼はかならず地の上に立ち給わん︒. わが皮がかくのごとく減ぼされたるのち︑われは肉を離れて神を見ん︒. 628.
(7) 87. のみならず︑わが味方として見ん︒. わが見る者はこのほかのものならず︒. わが心ぱこれを望みこがる︵一九ノニ一−二七︶. ヨブの神への信仰は逆境におかれてもいよいよ不動のものであった︒友人たちが︑悪しき者の勝ち誇りはしぱらくで. あり︑不信の者の楽しみは束の聞であることを力説して慰めようとしても︑また彼に罪ありとして︑彼が自らを低く. して︑救いを求め︑神と平和を得ることをすすめる言葉もきき入れず︑神にたいし自己の潔白を主張して止まなかっ た︒. ヨブの体験はヨブ自身のものである︒他の友人たちの推測や同情をもってしても︑それは置き換えることのできぬ. 体験内容をもっている︒二言にしていえば︑﹁われらの問には︑われら二人の上に手を置くべき仲裁者をもたず﹂︵九. ノ三三︶とヨブが語るとき︑苦難をあたえ︑試錬をくだした神とむかい合っている人問としてのヨブの存在の主張で. ある・いわば︑第三者的な批判や非難︑推測の介在を許さぬ主体的な立場に立っているのである︒主体的立場におい. ては神の﹁なんぢ﹂と人間の﹁われ﹂とがむかいあっているがゆえに︑旧約聖書をつらぬく人間のあり方として強く. 印象づけられる︒人聞を神の呼び声︵誠め︶にこたえるべき存在として︑アブラハム︑モーセ︑イザヤ︑エレミヤ︑. ダ呈エルなどの璽言者がこの道を歩いた︒しかしこれはよほど勇気がいることであって︑精神的な英雄とも呼ぶべき 人間像をつくりだした︒ヨブもまた苦闘する信仰の英雄である︒. むろん︑ヨブが沈黙を守っていたならば︑あるいは三人の友人のように︑教義の上に立ってそれを守っているだげ. であったならぱ︑この書は書かれなかったであろう︒しかしヨブは苦難の中から︑沈黙を破って人問の苦難と悩みに. ついて悲嘆を発したとき︑彼の人間と神のあり方についての間題が生れる︒彼が自己に与えられた苦難に悲しみと嘆. 629.
(8) 630. きを発したのは︑彼が弱い人間であったからではなく︑物事を正しく受げとることのでぎる強い蛙桐神の持主であった. からである︒現実の人生では物ごとを過大評価したり︑遇少評価する人は多いが︑正しく見る人は至って少い︒. ヨブの自信にみちた力強い言葉に三人の友は︑ただきまり文句︑伝統化した教義の言葉を繰返すにすぎなかった︒. ﹁主は生き給う︒彼はわが義を奪い去り給えり︒全能考はわが魂を悩まし給えり︒わが息わがうちにあり︑神の息わ. が鼻にある問︑わが雇は不義を云わず︑わが舌は偽りを語らじ︒われはたんぢを正しとせず︑われは死ぬ日まで︑わ. が清きを云い︑堅くわが義を保ちて捨てじ︑われは今まで一目も心に責られしことなし﹂︵二七ノニー六︶︒この章句. は現在のヨプにのこされた敬慶な人間のただ一つの意味である︒何の報いの望みをも期待することなき純粋な態度と. なる︒ヨプはこのような希望のない荒涼とした正義の絶頂に立つ︒彼は神の前に立ち︑自己の真実を語るとき︑自. 己の道徳の義務として神に挑戦する︒しかし他面三人の友との対話の中で見落すことのできない間題がある︒それは. ﹁彼らは神にいう﹃全能者は何者なれ. ヨブが自己の潔白を主張するのあまり︑神の摂理を知恵の立場から否定する言葉を発していることである︒彼は伝道 の書のように︑悪人が富み栄え︑正しき者の虚げられる世界の矛盾を訴える︒. ぱ︑われら仕ふるや︒われらはこれに祈るとも︑なんの益ありや﹄と﹂︵二一ノ一五︶ヨブは現実の人問の世界に自. 已の知恵の光で見ようとする︒ ﹁されど知恵はいづこに見出さるるや︒悟りにいづこにありや︒人はそこに至る道を. 知らず︑生げる者の地にありてそれを獲ることあたわず︒淵は云う﹃わがうちにそれはなし﹂と︒海は云う﹃わがも. とになし﹄と﹂︵二八ノニ一u一四︶︒彼が知恵をもって存在をくまなく照らそうとし︑苦難の意味を知ろうとすると. ﹁われ彼︵神︶の前にわが訴えをならべ︑口をきわめて論義せん︒わ. に帰依しようとする敬崖な義人としてのヨブの聞に相剋が生れる︒絶望の中にあっても神を呪うことなき彼の心情. れに答え給うみ言葉を知り︑われに云い給う所を悟らん﹂︵二三ノ四︑五︶︒こういった知恵からの存在の理解と︑神. き︑ますます答えが得られないことに気づく︒. 路.
(9) と︑自己の知恵によって得る結論は︑彼の精神に劇しい言葉となってたかまる︒しかし彼が神の摂理を否定したこと. は︑げつして彼の窮局の答えではない︒そこに神とサタγの購があった︒彼の本来の義人としての性格に︑賢者の生. き方を引きもどす︒三人の友はヨブの敬度な心情と人問の知恵との問のひきさかれるような体験を理解できず︑安易. な通俗的な知恵の定り文句をならべたて︑ひいては彼を苦しめる結果をもたらしたのである︒. もはやヨブも友も云うべき言葉もなく︑沈黙しているとき︑ラム族のブズびと︑バラケルの子エリフは︑ヨブが神. よりも自己を正しいと主張することを怒り︑また三人の友がヨブを非難しながらも︑ヨブを納得させる言葉もないの. に怒りを発した︒エリフはヨブ記全体の構想からみて︑神の啓示の準備をたす役割をもつ︒エリフはまづヨブが自己. の潔白を主張し︑神が彼の敵とたったということ︵三三ノ九︑一〇︶︑また︑神がヨブの言葉に少Lも答えないと憤る. こと︵同二二︶にたいしつぎのようにいう︒﹁神は一つの方法によりて語り︑二つの方法によりて語り給えど︑人の. エリフは神の啓示が︑夜の夢︑幻に示される例をあげ︑﹁神は断じて悪を行い絵わず︑全能考はけっし. これを悟らざるなり﹂︵同十四︶︒神は無数の方法で語っているのだが︑人問がこれを悟らず︑ただ体験の機が熱さな いのである︒. て不義をなし給うことたし︒神は人のわざにしたがいその身に報い給う︒⁝⁝まことに神は悪を行い給わず︑全能者. ﹁天を仰ぎ見よ︑たんちの上なる高き空を望み見よ︒なんぢが罪を犯すとも︑. はさぱきを曲げ給わず﹂︵三四ノ一一︑二一︶と神の公平無私︑永遠の正義を強調する︒ここからヨプ個人の問題から はなれて︑人問 一 般 の 課 題 に う つ る ︒. え得んや︒彼はなんちの手より何を受け給うや︒なんちの悪はただなんちのごとき人にかかわり︑なんぢの義はただ. 人の子にかかわるのみ︒⁝⁝されど︑ひとりとして云う者なし︑﹃わが造り主たる神はいづこにいますや︒彼は夜の. 間に歌を与え︑地の獣よりも多く︑われらを教え︑空の鳥よりも︑われらを賢くし給う方なり﹄と︒︑まことに︑. 631. 彼になんのさしさわりありや︒なんぢのとが多くとも︑彼に句をたし得んや︒またたんぢが正しくとも︑彼に何を与. 四.
(10) 神はむなしき叫びを聞き給わず︒全能者はこれを顧み給わず︒なんぢ彼を見ずと云う時︑顧み給わじ︒さぱきは神の. 前にあり︒なんぢ彼を待つべきなりL︵三五ノ五−一四︶︒エリフは国家の君主から個人に至るまで世界に公平と正義. の秩序の必然的存在を説き︑これに背く者の没落を語る︒さらに︑世界の秩序︑神の創造の栄光と人間に与えられた 道徳意識の尊厳を の べ る ︒. ﹁神は苦しむ者をその苦しみによりて救い︑彼らの耳を逆境によりて開き給う︒神はまた悩みより︑束縛なき広き. 所へ誘い出し給えう﹂︵一一ニハノ一五︑一六︶苦難を避げ︑遠ざかろうとせず︑苦難そのものに立ち向うことによって・. 苦難を克服する︒ヨブは今こそ束縛のたい広大な道に出︑この道において悟るべきときがきたのである︒ ﹁なんぢ怒. りに誘われ︑あざげりに陥らざるよう心せよ︒⁝・:慎みて悪に傾くなかれ︒なんぢは悩みよりもこれを選びたれぼな. ﹁神のみわざを讃美することを忘るべか. り﹂︵同一八︑二一︶︒論義に捉われ︑人間のおごった知恵︑小さい知恵の限界を破って︑神への信頼に生きなけれぱ ならたい︒ヨブは逆境によって真の宗教の体験を体得しなけれぱたらない︒. らず︒こは人々の歌い崇むるところたり﹂︵同二四︶︒世の中の多くの人々は遠くから神を仰いで見るにすぎたい︒直. ﹁無知の言葉をもちて︑神の. 接間近かに畏敬をもってひたすら神のめぐみを待たなげればならない︒これが聖なる摂理へと導く︒. ヨブ記の最後の章において︑つむじ風の中から主なる神が啓示し︑ヨブにこたえる︒. 計りごとを暗くするこの者はたれか︒たんちは腰に帯して︑男らしくせよ︑われなんぢに尋ねん︒われに答えよ︒﹂. ︵三八ノニ︑三︶ここにおいて︑天地創造の神のわざ︑光と闇︑大地と海︑氷雪︑露︑雨︑動植物の神秘な生命につ. いての綾述がある︒自然の神秘は河馬やわにについても語られる︒神の神秘な力と活動は一切の存在をつらぬき︑そ. こにあらわれていることを示す︒注目すべきことは︑ヨブ記以前の文献のようにモーセのシナイの啓示といったイス ラエル民族︑ヘブライの共同体への預言の裁述をしていないことである︒. 632.
(11) 91. ヨプは主につぎのようにこたえた︒ ﹁われ知る︑たんぢはすべての事をなし能う︑いかたる想いをもなんぢになし. 能わざるものなきことを︒﹃無知をもって神の計りごとをおおうこの者はたれか﹄︒ゆえにわれはみずから悟らざる事. を云い︑みずから知らざる測り難き事を述べたり︒﹃聞け︑われ語らん︑われはたんぢを尋ねん︑われに答えよ﹄︒わ. れはなんぢの事を耳にて聞きいたりしが︑今はわが目にてなんぢを見奉まつる﹂︵四ニノニー五︶︒. ヨブは深刻な苦難をとおして今までたんに知識として聞いていた神を︑自らの目で見ることができた︒ついに直接 的な神体験を得る − ﹂ と が で き た の で あ る ︒. ヨブの試錬はここに至ってはじめて意味をもつようになった︒彼は知恵によって神と論争しようとしたが︑最後に. は敬産な義人として﹁信仰によって﹂生きる︒ここで附げ加えておかなげればならぬことは︑ヨブの苦難の解決が徹. 底的に啓示の領域からでてくるものであって︑人問の知恵ではなかった︒はじめにものべたように︑悲劇はヨプが信. 仰をもちながら︑同時に賢者であったところにある︒敬度な義人は神の実在を信じている︒しかし賢者は神を道徳性. や︑正義の観念から分離して思惟する︒それゆえ︑神は実在Lてもかならずしも道徳的でないとみる︒神を倫理的な. 窮局の根源とみないこのような知恵観念は︑ヘブライを除く古代オリエントの神話や世界観にみられる︒古代オリエ. ントにおいては神は自然の諸力の象徴であった︒それゆえ︑人間のもつ知恵によって間われ︑かつ答えられる内在性. をもつ︒それは知恵自体によって解決される︒しかし︑ヨブの信仰︑イスラエルの信仰においては︑知恵は間題につ. いて問いを発しても︑知恵によっては答えは得られない︒人問は自已の無知と徴小の存在であることを自覚させられ. るだげである︒エリフがすでに神の啓示の準備をしているように︑神体験を通じて以外に︑神の創造とその栄光を知. ることはできない︒ヨブはエリフの言葉のように︑﹁神をおそれる﹂こと︑聖にして非合理的な意志への畏敬をもつ. ことが︑窮局の知恵である︒これが基礎であり︑敬度な者の道となる︒この態度と認識なくしては︑啓示をうける方. 633.
(12) 92. 63寸. 法はないのである︒人問の心理を心憎いまでにえぐり出し︑神と人間の劇的な展開を示すこのヨブ記は︑神自身が語. るとき︑この世界は神の創造の栄光の中に︑人間の知恵をもって推し測り得ない神秘にみちていることを告げる︒こ. のヨプ記の最後の章において︑義人としての敬産さと知恵は一つに融げ合う︒人間のもつ畏敬が知恵に光りを与える︒. ききにあげたヨブの告白︑自已の無知と傲慢さの告白︵四ニノ五以下︶とともに︑ヨブの人問性の回復のきざしが見 られるのである︒. 已の立場をなんとか合理化L︑他より優越していることを主張Lたがるものである︒そして一寸した幸運にめぐり合. 人問の性格は無限といってよいほど多様である︒目常一寸した障害があり︑苦しみにあうとすぐに不平をいい︑自. 人生の障害に打ちあたるとたちまち落伍者となるのである︒. あるが︑なまじ浅薄な知識の集積をしたために︑かえって不具の弱々しい人問ができ上ってしまう︒そして一寸した. 頭の良さは大した幸福をもたらさない︒現代の風潮にただものの理解の敏捷さ︑抜け目のなさだげを助長する傾向が. つ聡明さと幸福とは全く別の事柄である︒むしろ聡明であるがゆえに人一倍苦しまねぼたらぬことが多い︒少し位の. 批評的存在︑傍観者的存在でなく︑体験的生き方の自覚をもつならば︑このことは避げがたい︒そしてそれぞれのも. ず︑−﹂れを避けようとする︒Lかし人生において所詮苦難や不幸は避けがたいのである︒もし人問が︑たんに人生の. 味を追求する存在である︒しかし幸福にも出合うが︑不幸や苦しみにも出合う︒不幸や苦しみは意識的無識的に喜ぱ. 考え方は︑それぞれ異るにしても︑人間は幸福を求め︑これを体験し︑それを意識する存在である︒人間は体験の意. ヨブの苦難はいわぱひとつの典型であって︑なんらかの意味において人問のあり方にかかわる間題である︒幸福の. 三.
(13) 93. うとたちまち宇頂天になり︑そうでない人々に誇ったりする︒そうかと思うと︑大して不幸でもないのに四六時中︑. 不平や愚痴ばかりぶつぶついって暮らしている人もあるし︑さらに悪質な人問は自已の実力のないのを︑他を誹誘. し︑陥し入れることによってカバーしようとする︒こういった人問はいたるところにいる︒だれも自分を悪魔だと思. う者はだれもいないが︑自己が知らぬうちにそういったことをしていると気づかず︑深い自省心がたげれぱいつでも. そうなり得るのである︒われわれが人生途上︑さまざまの性格と出来事を経験する︒人問は些細なことで蹟き︑また. 蹟かされようとする中に生きてゆかたけれぽならない︒娑婆の世界︑泥沼の世界というが︑大多数の人は自己を誤大. 評価するか︑過少評価するか︑いづれかに傾きながら︑幸福の幻影を追い求めているわけであろう︒. それはとにかく︑われわれは事実︑この世界の存在を出合いの仕方でもつて︑認識するのである︒出合うとは体験. することである︒出合うことはただ待っているだけでは駄目である︒すすんでそれを求め︑新しい関係の世界にはい. ってゆかなげれぱならない︒われわれは世界の中にいる存在であるが︑同時に世界の中にはいってゆかなげればなら. ない︒この世界の中にはいってゆくこと︑出合うことは︑ただ生きていることと異る︒そこには人間としての自己の. 使命︑社会におげる果すべき仕事への自覚がある︒こういったことはなんびとにも起り得る間題であるとともに︑新. Lい人聞への誕生となる︒少くとも﹁われ﹂とは何んであるか︑またあり得るか︑−﹂の世界の他の存在とどのような. 関係を結んでいるかという疑間がおこらざるを得ない︒幸福を別の言葉におき換えれば︑この﹁われ﹂の自己実現に. ほかならない︒芸術家はキヤンバスの上に︑事業家はその事業の上に︑科学者はその研究の成果に自己を実現する︒. そこには意志的行動的たあり方︑体験的次認識が形成される︒したがって︑人生にたいし苦しみも︑障害︑困難をも ものともせぬ強靱で邊しい生きぬく力がでてくるのである︒. ヨプが義人と呼ぱれ︑敬震な人といわれるのは︑やはりこういった意志的︑行動的な人聞としてである︒世上よ. 6ε5.
(14) 弘. く宗教的という場合︑ただ柔順で消極的な生き方を意味することが多いが︑敬産た人聞であろうとすることは︑その. ような退嬰的なところからは生れて来ない︒否︑真に勇気がいることである︒ヨブが苦難をうげ︑苦難としてうげと. ることは︑体験的行動的な生き方を前提とする︒預言者イザヤ︑エレミヤ︑および詩篇作者と同じように︑自已の多. くの矛盾に悩み︑弱さを露呈しながらも︵偉大たる精神は矛盾を内蔵している︶︑どこまでも自己の敬産さを貫こうと. する全人間的な苦闘は︑われわれの心を深く震櫨させずにはおかない︒もしヨブが与えられた出来事をただ必然的な. 運命として黙々として受げ入れる人間であるならば︑彼の真の人問性は喪失してしまったであろう︒敬度さ︑正しさ. に生きるためには︑意志の努力が必要である︒ヨブの三人の友は善良であり︑平几であるが︑いざ論争がはげしくな. っていったときには︑彼に罪ありとし︑その告白を迫る冷酷な人間となる︒世上よくいわれる善良さなどというもの. は無能と安易の偽装である場合が多いのだ︒さらに人生の傍観者の立揚に安住していることが多い︒この三人の友は. ただ概念的知識と出来事の分類と分析をしているにすぎない︒むろん彼らも悩みや苦しみという言葉は使うかもしれ. ない︒しかし悩みのもつ重さを感ずることはできないのだ︒そしてものの美しさも︑人生の真実にも徹することがで きない平均人である︒. ヨブは苦難の体験に悶えながらも︑彼の敬産で不屈な精神が見出さうとしたのは︑﹁永遠のなんぢ﹂たる主と︑﹁わ. れ﹂との関係を結ぶことにあった︒これこそヨブがすべてを購げた全力的な態度であり︑そこに生の窮局の意味を見. 出さうとした︒三人の友が象徴するこの世界の善でもあり悪でもある相対的価値ではなく︑絶対的価値を求める︒彼. は神を﹁生ける証し人﹂として求める︒永遠の相のもとにある神体験を求める︒彼は苦難をとおし︑苦難の中に神の 意志︑永遠の生きんとする意志に出合うのである︒. 敬産といい︑真実とよび︑その呼び方はいろいろあるにせよ︑宗教的最高の価値の実現のために苦闘したヨブは︑. 636.
(15) 95. 真の意味で試錬ということを体現したのである︒べートーベンが﹁苦しみを通しての歓喜﹂をもって生涯の信条とし. たように︑われわれは論理的には矛盾するものが︑じつに神秘的なかたちをとつて人間の中に生き︑そして美しさや. 杜会の秩序や︑人間関係の調和の源動力となる敬産な態度に気づかざるを得ない︒ヨブによって象徴される聖たる存. 在者への敬震さは︑同時に自已および他の人々への生への畏敬︑さらに世界の一切の存在への信頼となる︒それはげ. っして人問に与えられた知恵とか︑理性︑知識を否定するものではなく︑むしろそれらを最高の生の意味のために生. かしてゆくのである︒もしわれわれが理性をもつがゆえに︑学問のために苦難に耐えられぬとしたら︑これにまさる. 不幸はない︒われわれはたえず邊しく生きるために︑永遠の生命の根源へと帰るべき心をつねに保たなげればなら ぬ︒ヨブ記はそのことを教えているのである︒. 生きるということは大きな逆説に出合う︒永遠の﹁なんち﹂と呼ぶ存在者にたいし︑われわれの存在はまことに取. るに足らぬ微少な虫げらと同じ存在にすぎぬ︵この世界でどんなに資本を集め︑名誉を得ようとも︶という命題と︑. ﹁われ﹂とよぶ自己は唯一つのかぎりない尊い存在であるという命題とが鼓んで成り立つ︒そしてこの世界に自己の. 生の光を点し︑自已を生かし︑奉仕することによって︑永遠なる者につながり得るという敬度さが生れる︒それはも. ︵一九六一年八月二五目︶. はや苦難を苦難としない不動の認識となる︒ヨブ記を通じてわれわれに語りかげるものは︑このように遅しく生きよ. という人問の深い生命の声である︒. 63フ.
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