一、序
これまで筆
は、河南省登封市の嵩岳寺に殘る「蕭和
靈 銘」に關して
究し、口頭發表と論文發表を持續
てきた。「靈 に行なっ 銘」の
本や宋蜀刻本を初めとする 「有儼然天竺古先生」の八字を殘すのみであるが、靜嘉堂宋 の蕭居士に寄せた詩が刻されている。該詩の尾聯に關しては 側には、王維が乘如禪師とその俗兄 した拙論「王維の乘如禪師に寄せた詩とその 然天竺古先生」に作る。二〇〇八年、本誌第二十七集に發表 版本では「深洞長松何有、儼
は、「深洞長松」を蕭居士の修行の場、「天竺古先生」を 邊」で(下)
二 佛
に
ところで、その蕭居士の修行した「深洞」とは、一體どこ じた蕭居士その人、とそれぞれ解釋した。 に嵩岳寺を にあるのであろうか。「深洞」の在については、九〇年代
のすぐ 査した時から氣になっていた。當時は、嵩岳寺 くにあるものと考えていたが、「深洞」に關する
査の絲口が見つからないまま、沙汰止みとなってしまった。ところが、數年
に、「羅 に『嵩岳文獻叢刊』を入手して讀むうち (1)
洞」という洞窟が嵩岳寺の
た。『嵩書』卷二の「洞 (2) 邊にあることを知っ 」の「羅
洞」の條にはこうある。
羅
洞在太室南麓、嵩嶽寺後重巖之下。洞中
六里、上 斜行五 山頂。
時有蜀 法相、曽於其地見 (3)
寺示現、有五百 竹林 顯形。詳載「靈
篇」。金元時、洞 有 宇金像、
常放光示
。備載斷碣中、不能盡
(羅
洞は太室南麓、嵩岳寺の後ろの重巖の下に在り。洞中
王維と嵩山羅
洞
「深洞長松何 有」の「深洞」の 在について
田
一
斜行すること五六里、上は山頂に ほぼ
ず。
時蜀 りて、曽て其の地に の法相有 竹林寺の示現するを見、五百
顯はす有り。詳しく「靈篇」に載す。金元の時、洞 の形を に の金像有りて、 宇 しば常に光を放ち しば
するも、盡くは ことごと を示す。斷碣の中に備載 ぶる能はず。)
俗弟乘如禪師とともに嵩岳寺の庵室に
蕭居士。その修行の場である洞窟となれば、嵩岳寺の 居したと思われる
下に在り」とある嵩山の羅 なくてはならないであろう。では、「嵩岳寺の後ろの重巖の 邊で たのだろうか。ここに些か考證を試みたい。 洞は、蕭居士の修行の場であっ
二、羅
洞の現
二〇〇九年三
、初めて「深洞」の
在を實地
て探る機會を得た。羅 査によっ ばならない。嵩陽景 洞へは嵩岳寺より山を登っていかね
管理局長の李慶
氏が 中の三
で同 庵ま
してくれると言う。山
を三十分ほど
くと、三
に 庵
いた。その昔、
竹林寺のあった場
殿があり、そのすぐ側に七 である。新しい佛 の磚
禪宗の三 が建っていた。(圖1)
のものかと思ったが
っていた。金の元光二 年に建てられたもので、「無興公」の靈(1223)
う。管理人が鷄を とい
!っていて、鳴き聲が山に
慶 "いている。李 氏が山を下り、ここからは
#$
ガイドの張東昇氏と山を登る。
きにくい山
であった。特に洞窟
た險しい坂で、洞窟の手 くは、石がごろごろし ならなかった。付 では、兩手を使ってよじ登らねば
の農民が小
%い稼ぎのために洞窟
晶を &に水 '掘に來るとのこと。そのとき洞窟
を外に放り投げるらしい。 &から水晶以外の石 いるわけである。慣れない山 理で夥しい石ころが散らばって
であったので、三
時 庵から一
()もかかった。現地の人であれば一時
洞窟は確かに積み重なった もしれない。 (もかからないか 洞口は、鈍角三角形の形をしており、洞窟 *大な巖石の下にあった(圖2)。
&は結 3)。右手に二つ穴があり、人がやっと潛って +廣い(圖 もの。水晶を れるほどの が見えるが、穴の入口は眞闇で危險なので、そこから先へは 奧にも穴がある。穴の奧から光りがうっすらと漏れているの '掘する農民はこの穴に潛ると見える。洞窟の
,めなかった。
-の『嵩書』の「羅
山頂に 洞」の條には「上は ず」とあるので、この
うのであろう。まことに奧深い洞窟である。 が頂上まで續いているとい 中國詩文論叢第二十八集
年 集された『嵩山志』の「羅 (4)
ある。 幽洞」の條にはこう
洞窟の下から
くない 洞窟 に竹林寺があったので、この に、
のなる五百羅
が後に壞されると、洞 の鐵像を置いた。竹林寺 の羅
像もなくなり、
樹が蔓 や雜
ってしまった。現在洞
ただ群れを は何も見るものはなく、
した大きなコウモリが、
いるだけである。( えず飛び啼いて 田譯)
この竹林寺とは、
したように現在の三
庵のこと。
の『嵩岳志』卷上に「曰竹林、法王寺西北五里。一曰三 (5) 代 庵(竹林と曰ふは、法王寺の西北五里。一に三
ある。その竹林寺から更に山 。」と庵と曰ふ)
が、そこに五百羅 を上ったところに洞窟がある を置いたことから「羅
たようである。現在、洞窟 洞」の名がつい ではコウモリが群れを
るらしいが、 してい
査に出向いた三
はまだ
眠期 その であるため、
を見ることはなかった。
三、羅
洞にまつわる
變譚
この羅
洞については、「中天嵩嶽寺常
院新修感應
林寺五百阿羅 竹
洞記」(以下「羅
洞記」)という
文にその 變譚や奇跡譚が記されている。
卷下に據る。なお、□は缺字。 文は『嵩陽石刻集記』 (6)
西京永
縣熊耳山空相寺
持傳法吉
奉議 大師賜紫釋有挺撰、
知永安縣事王
原夫大法界中、支 書。
東震旦大國
宋壽山、得其最高妙
!、惟中嶽嵩山、卓然聳
"
木岑崟。羣山趨揖、長時 雲之表。林巒□秀、四季嘉
#芬 光明、巖洞泉源、 $。玉鏡珍寶、輝然是處 流千古澄
%。谷風松韻、時呼
&
聲、瑞氣 '之
雲、晝
(千 )之境。是國家稟佛戒、
玉 *中天
+崇 ,領
-之地、宮廟之
也。是山之中、有
寺。何知之乎。古傳記云、 竹林 .蜀 /法 0來
1是山、長安
稠桑店逢一梵
/持盂 2錫。問曰、「上人胡來而欲何
曰、「雲 3」。
1嵩嶽
「我久聞、曰、彼刹是 景」。曰、「可附一書與竹林寺堂中上座」。
寺羅 高願佇聽論開發 居。嘗憾未聞其因。可 去」。曰、「上人豈不聞吾佛當年靈山會
王維と嵩山羅漢洞(
田)
上以正法眼
分付大迦
傳 流布、授記付囑大國
臣、興崇外 賢
、無令斷
。敕大菩薩天龍八部一切
保衞國界。敕五百大阿羅 祇 、不得入滅、長在人
赴供、爲大 。天上 田。今
將眷屬止
其中。是寺隨機
或隱或現、
熟 分衞而行。法 嘗見」。曰、「今日得聞未聞」。接書 來至嵩
、問人曰、「竹林寺何
曰、但去到嵩嶽寺、入石三門、登逍遙臺 是」。答 來至嶽寺、入三門、常 之、山腹是也」。 院禮 衆
「竹林寺門從何處入」。曰、「我等嘗聞是 、安衣盂畢、問曰、
但 寺、未曽得見。
山腹三洞深邃無窮、
入 有信士沿巖登險」。□幸雖得 寺瞻 、又隨
赴
釋齋、因得
愛 三銖絹、心生
、不覺身
巖 、 境 失矣。時耆年
曰、「人
天上、榮顯富貴、眞奇
物、積之山嶽。非是大
!菩薩
"正見、曉
#明了、應
現貪染愛 利生、授用自在、心常離欲、示
$。心圓梵行、示現有□患。心常
隨 %淨、示現
&生死。心行佛行、示現
理妙 '順境界。心無取證、深悟禪 (。或不如然、則爲少分
)幻境物耽染、愛
恃之、
*醉漂蕩、生死三界流轉、更□少暇。
實妙 +光自照、究乎眞
(、大患爲障、莫
,此也。汝今爲出家上人。同
寺 授天
供 -、事非小
。何故未除流俗愛物心。非 唯竊
.圓頂犯戒律章條重、亦乃自昧眞心妙
(、 多乎。今此天絹亦非汝用之物、當獻至 /吾門何 法 。頗爲佳矣」。 "表
0、時明皇在位、
巖洞 恩撫問、倍加宣賜。爾後、
境光明、至今求
應現愈多。院
施財、 崇政、誘掖檀信 1土木等、欲依山上洞樣建
2一 五羅 。斤斧才興、感 詣 3州廬氏縣
4氏家、託
)家長曰、「嵩嶽寺今
2
羅
洞。汝家當鑄鐵像五百身」。
4氏 果見興工 )覺、令人至寺、
2洞。
5報 4氏、樂然鑄施五百余
。像 喜信士之家、願各以香 6、隨 7幡蓋、依
8經從 9接 奉到安之 :至洞完像。 香應、春首崇信、一至四方是、于等。量齊 8、像披掛條至、余五百挈袈裟、陳蔡二善友身、
7供 :、駕
;
隘
(。然燈燒燭、盤
9品饌、供
-<
點之、火光自然。齋 =、得其感應。燈未
>香、
像先現。是洞今有三經
7?
@三 洞、香
7供獻。施
齊陳 夫 A之感應、三處倶有。
境無邊、順機各
無欺。縱目可
、有昧觸
名山太室、佛刹隱現其中。 B莫見。
凡交參、晝夕
C來無 臨香火、 。登 D口一稱
A斯 境光明。蓋今日之
E時、一人
F感之至
G。伏願
壽無疆、金枝玉
永 H、 (佛 (
同興、金輪法輪竝轉、親白仙族同固盤。維文武賢臣、皆存忠烈、風
I雨順、軍民康安、四
J晏
%、 D邦
K.、羣 中國詩文論叢第二十八集
生遂性、三
長 。知洞悟言、丐記傳於金石、永久無
有挺因普爲缺正見佛行、執有生死輪轉、不了根本 。 淨
修 、
圓之。仍集佛
眼目、
俾令一切悟明了 以禪宗中妙旨、作明證。
、根本
淨、
足正見佛行、修
菩提。 證大
斯曽
是 寺 白 菴、將乎十年。時親瞻覩
殊 境光明
。不思議事、非筆舌可窮。今固敢
頌曰、「天下名山孰後先、嵩高 略一二以塞其命。
混元
。 凡共聚
分別、廟刹相依亦混然。蓬島三山根不固、
胥一境
堅。寶光玉 非
雲 千松偃蓋 、春色峯巒戴曉天。幾栢倒生垂洞谷、
巖巓。登臨香火心同願、上
今皇 年。
宋崇
元年壬午
十 初十日、中天嵩嶽寺常
院
持崇政、院
!法應、知洞悟言、知庫悟
當修 、同勾
"
□用、
信弟子焦泰施財刊字。劉友諒刻。
山野
法王、嘗
#嵩岳寺見此
於荊棘之中。 $。經兵革火燒毀壞、弃
#人見
呵嘘、
%以辨
&。嗟乎、
'境以 (、
%得聞耳。遂
)處
*+、得
,本、
石、使 -.衣盂、命工刊 境重興、以久留傳不
八 /矣。時大金大定二十九年
十五日。會善寺
0居嗣 1沙門淨
2重上石。
陵普照 (西京永 比丘廣眞書。嵩陽高澄刊。
縣熊耳山空相寺
持傳法吉
す。奉議 3大師賜紫釋有挺撰 4知永安縣事王
原より夫れ大法界中に、支 もと 5書す。
6東震旦の大國
高 宋の壽山、其の最 妙を得たる
は、惟れ中嶽嵩山にして、卓然として
表に聳 7雲の の時 8巒□秀、四季の嘉木す。たり。羣山趨揖、長林岑崟 9:
芬
、り泉源の洞岩、 ;輝然として是た處に光明あ寶、珍の鏡。玉りの く流れて千古澄
<たり。谷風松韻、時に
の聲を呼ばはり、瑞氣
3雲、晝に千
+の境を 佛戒を稟け、 う =す。是れ國家 とざ
>中天玉
?崇 @の領 Aの地にして、宮廟の Bなり。是の山の中に こ
、に云ふ り。何ぞ之を竹るか。古傳記寺有林知 Cの蜀法
D是の山に來 こ
#し、長安
を梵錫し持を盂の一て 5のに店の稠桑 やど
か來にく何てり E問ひて曰く胡ぞ。ふ逢にふ、「上人 になんな
Fかんと欲する」と。曰く、「嵩嶽の
景を雲 れ聞と。曰く、「我久しくくし、彼の刹は是」 かてら #せてん」と。曰く、「一書を附け竹ふ林寺堂中の上座に與べ
寺にして羅
の居る
て發ち佇をく聽るるをらせ ま Bか因りと。嘗て未だ其のをざ聞開の論。高なるを憾む
正法眼豈に山會上靈年佛當が吾やずか聞に「上人 、く曰と。」しべふ願をくみ去 すすゆ
て大迦 Dを以 Gに傳
;流布するを分付し、記を授けて大國の
!・賢
王維と嵩山羅漢洞(
H田)
臣に付囑し、外
を興崇し、令の斷
する無きを。
天龍八部・一切の の大菩薩・
祇に敕して國界を保衞せしむ。五百大阿羅 に敕して、滅に入るを得ずして、長へに人
上供ふるに赴き、大 に在らしむ。天
田と爲す。今
の ・ 將ゐて其の中に止 の眷屬を す。是の寺は機 こ
は現はれ、 に隨ひて或ひは隱れ或ひ の熟せる
ぎ分衞聞かざることを聞くを得たり」と。書を接して行く。法 つゑ は嘗に見る」と。曰く、「今日未だ つね
嵩 に來至し、人に問ひて曰く、「竹林寺は何れの
に入り、逍遙臺に登りて之を なる」と。答へて曰く、但だ去きて嵩嶽寺に到りて、石の三門 ゆ か是 來至し、三門に入り、常 めば、山腹是なり」と。嶽寺に 院にて衆
に禮 と。曰く、「我等嘗て是の 畢はりて、問ひて曰く、「竹林寺の門は何れの處よりか入る」 し、衣盂を安んじ 但だ山腹の三洞深邃窮まり無く、 寺を聞くも、未だ曽て見るを得ず。
きを登るを に信士の巖に沿ひて險し るのみ」と。幸いに
寺に入りて瞻 せん
きやうするを得、又た
の 釋の齋に赴くに隨ふも、三銖絹を
ほどこすを得たるに因りて、心に愛
生じ、覺えず身は巖
に ち、
境 はる。時に耆年の て失 すべ 曰く、「人
の天上、榮顯富貴は、眞に奇 の物にして之を山嶽に積む。
し是れ大
菩薩の正見を
曉明了、 へ、
に應じて利生じ、授用自在なるに非ざれば、心は 常に欲を離るるも、貪染愛
も、 !を示現す。心は圓にして梵行する 患有るを示現す。心は常に
"淨なるも、生死に
隨ふを示現す。心は佛行を行ふも、境界を #するに 心は證を取る無きも、深く禪理妙 $順するを示現す。
らざれば、則ち %を悟る。或いは然るが如か
&幻境の物を分かつを少くがために耽染し、愛 か
之を恃み、
し。回光自から照らし、眞實の妙 '醉漂蕩し、三界に生死流轉し、更に□暇少な
爲り、此に %を究むるも、大患障と (るは莫きなり。汝今出家の上人たり。
寺の と同に天 とも
)の供
*を授けられ、事は小
を か未だ俗に流れ物を愛しむの心を除かざる。唯だに竊かに圓頂 に非ず。何の故に 心の妙 +して戒律の章條の重きを犯すのみならず、亦た乃ち自ら眞
%を昧り、吾が門を むさぼ
り」と。法 に至た佳る頗ずべし。獻に當た汝の用ひる物に非ず。亦絹は ,此の天きや。今ぞ多すことの何 けが さに表
-するに、時に明皇位に在りて、
恩もて撫問し、倍ます宣賜を加ふ。爾後、巖洞の
して、今に至るまで、求むれば應現愈いよ多し。院 境光明に 檀信を誘掖して財を施し、土木等を )崇政、 りて一 .ばしめ、山上の洞樣に依 を建 /せんと欲す。斤斧才めて興ふるや、五羅 はじもち
0州廬氏縣の
1氏の家に詣るを感じ、
「嵩嶽寺今羅 &に家長に託して曰く、
洞を
/る。汝が家當に鐵像五百身を鑄る 中國詩文論叢第二十八集
べし」と。
氏 工を興して洞を 覺め、人をして寺に至らしむるに、果して
るを見る。
りて 百余 氏に報じ、樂然として五
を鑄施す。像
りて、隨喜の信士の家は、各おの香
蓋を以て、に依りて經從 幡 接して
るを願ふ。奉安のに到り、陳・蔡二善友、袈裟五百余條を挈 ひつさ りて洞に至り像を完くす げて至り、像身に披掛し、量に應じて齊等なり。是 ここに于 おいて、四方の崇信、一たび春の首に至り、香
もて供え
り、駕
を隘しとす。燈を然やし燭を燒き、盤もて品饌を
へ、供
ること す
火光自から然え、齋 も にして、其の感應を得たり。燈未だ之を點ぜずして、
香を
にし、
今三經 像先づ現はる。是の洞 有りて三
洞を
かたどり、香
供獻す。施
しく之が感應を 齊 たるを陳べ、三處倶に有り。夫れ
機の各おの 境無邊、
なるに順ひて欺く無し。目を縱にして ほしいまま
くも、昧有れば るべ 中に隱現す。 に觸るるも見る莫し。名山太室、佛刹其の 凡交ごも參じ、晝夕の
來
あいま無し。登りて香火に
めば、
口一に斯の
境の光明を
今日の たりと稱す。蓋し
時は、一人の
・ 感の至り
はくは !するなり。伏して願 壽無疆、金枝玉
"の長く
#り、
$佛 文武賢臣、皆な忠烈を存し、風 金輪法輪竝び轉じ、親白仙族同に固盤ならんことを。維れ ともこ 同に興り、 とも
%ひ雨順にして、軍民康安、四
&晏 '、 邦 ()し、羣生性を遂げ、三
*長く
+
さかんんならんことを。知洞の悟言傳を金石に記し、永久に
輪轉有るを執り、根本の らんことを丐ふ。有挺因りて普く正見の佛行を缺き、生死の こ ,るること無か すた '淨を了らざる
の爲に、修め
之を圓かにす。仍りて佛 -みて
*の眼目を集め、
を以て、 .ねて禪宗中の妙旨 /して明證を作す。一切をして悟明了 な
0、根本
正見佛行を '淨、
1足し、大菩提を証すを修
斯に曽て是の こ -せしむ。
寺の 2の白 3菴に 4むに らんとす。時に親しく 5りて、將に十年にな 境の光明殊に
えて一二を窮敢りよ固ず。今非むべきにの筆舌、事の思議 もと 6れたるを不す。瞻覩
7
略して以て其の命を塞ぐ。頌に曰く、「天下の名山孰れか後先、嵩高の
8は混元の
2に 9はる。
凡共に聚まりて
ず、 然たり。らか山根固三の島蓬混た亦ひ依りて相刹廟せん、 :ぞ分別
;胥の一境
堅からず。寶光の玉
<雲
=に を巖巓せて蓋ひ偃 ふ れて生じ千松れ、垂に谷洞倒幾栢く。戴を天曉峯巒の色 >げ、春 ささ 皇は今の ?ふ。登りて香火に臨みて心同に願ひ、上 とも
年を
@ふ」と。
宋崇 :元年、壬午の
A十 B初十日、中天嵩岳寺常
4院 24持 C崇政、院
DC法應、知洞
C悟言、知庫
C悟 0、同勾當修
C
□用、
'信弟子焦泰財を施して字を刊む。劉友諒刻。
王維と嵩山羅漢洞(
E田)
山野 法王、嘗て嵩嶽寺に
びて此の
火燒毀壞し、荊棘の中に弃てられたり。 す を見る。兵革を經て 人の見る
るも、以て辨 呵嘘す すること
し。ああ、境以て
を得ること く、耳に聞く きを る。遂に
處に し、
本を得、
衣盂を みて
て久しく傳を留めて て、工に命じて石に刊み、境をして重ねて興し、以 きざ
えざらしむ。時に大金大定二十九年八
十五日。會善寺
居嗣
沙門淨
重ねて石に上す。
照比丘廣眞書す。嵩陽の高澄刊む。) 陵の普
「羅
洞記」の
り、羅 文に據ると、嵩山の山中に竹林寺があ が んでいるという。その寺は現れたり
機 えたりし、
の熟したものは常に見ることができる。蜀
の法
林寺の が竹
遙臺に登って 在を人に訊ねたところ、「嵩岳寺の三門に入り、逍 われる。嵩岳寺に至り、常 すると山腹が見えるがそのあたりだ」と言
院で訊ねると、「寺の名
竹林寺は極度に いたことがあるが、見たことがない」と言われる。ここで は聞 である。たもの)ところで 祕されている。まさにオカルト(隱され
文には「幸いに寺に入りて瞻
!するを得」としか書かれておらず、どうやって法
林寺にたどり が竹
"いたのかわからない。寺に入ってからは、五 百羅
が
#釋天の齋に行くのに同行したようであるが、その
#釋天の齋
の樣子も詳しくは書かれていない。隱すこと、
$ち
%寫しないことで、より
ないが、 祕性を高めているのかもしれ 文から
&況を掴もうとしても
ところが、この ない。 '靴掻痒の感は否め 文を利用した上に、更に他の
寺示現」の條には、法 照して書かれたと考えられる『嵩書』卷十一の「嵩山竹林 (料をも參
が寺に入る場面や
#釋天の齋
面が生き生きと の場
%寫されている。
)にその部分を引用する。
法
。但見「隨吾手看」 至嶽寺、袖書登臺、逢一老人訪問之。老人曰、
*雲瑞霧、梵刹崢
+、金碧交輝、天
,
散
-。遂趨 瞻仰、有二童子來
投書問 .。入寺、參禮堂中上座、
)、忽見天使持書、
#釋 /五百 磐齊鳴。 0齋。須臾、鐘 1 0、
2錫擲盂、或騎
去。上座呼法 3虎、或乘龍象、皆
乘雲、同到天門。
#釋出 齋、布 .、樂作、昇殿 4三銖絹、
5位一疋。法
執絹、心生愛
奇 6、默羨
7。忽覺身
-巖 、天宮寺
8失、絹 9在袖。(法
嶽寺に至りて、書を袖にして臺に登るに、一老人の之を訪問するに逢ふ。老人曰く、「吾が手に隨ひて看よ」と。但だ
*雲瑞 中國詩文論叢第二十八集
霧、梵刹崢
そうこうし、金碧交 こもごも輝き、天
散 遂に趨り するを見るのみ。
みて瞻仰すれば、二童子の來り
り、堂中の上座に參禮し、書を投じて問ふ ふる有り。寺に入
ついでに、忽ち天使書を持ちて、
釋の五百
に齋するを
鐘磐齊しく鳴る。 ふを見る。須臾にして、
を
るに、錫を
なげうち盂を擲ち、或ひは
虎に騎り、或ひは龍象に乘りて、皆な去く。上座法 ゆ
びて雲に乘らしめ、同に天門に到る。 とも を呼 釋出でて
し、三銖絹をて、殿に昇り齋を布 ほどこ へ、樂作り おこ
ほどこすこと、
位一疋なり。法 絹を執りて、心に愛
を生ぜしめ、默して奇
ち身は巖 を羨む。忽 に つるを覺え、天宮・
寺 て失せるも、絹は すべ
ほ袖に在り。)
法
が嵩岳寺に
雲霧の邊りに寺が聳え、 來て、「私の手の方を見なさい」と言う。すると、めでたい いて逍遙臺に登ると一人の老人がやって 金と碧玉が輝き、天
が り でいる。二人の童子について寺に入ると、 い
釋天が五百羅
に
事を に惠むように求めた。しばらくすると鐘や磐の
が一齊に鳴りき、五百羅
は する。寺の上座が法 ・虎や龍・象に乘って出發 を雲に乘らせて天門に至り、
出 釋天が
える。
樂が演奏される中、昇殿して
事をいただき、 天絹を施されたところ、法(天上の絹)
に執 珍しいことが の念がわき、
!こることを
"む氣持ちがおこった。その
巖 #端、
に身は
$ち、天の宮殿も
竹林寺も
施された絹は袖の中にあったという %え失せていたが、
嵩岳寺に &變譚である。
いてから天絹を施されるまでの
'寫は、「羅
洞記」の
(文では殆ど省略されている。
(文の「院
以下の部分では、この法 )崇政」
の
&變譚を基に、洞窟に五百羅
を安置して祀ることになる經
跡が *が記されているが、さらに奇
!こる嵩岳寺常
+院の院
)崇政は檀信徒から寄付を ,り、洞窟の形にあわせてお堂を建
-し始める。そのころ、
.州廬氏縣の
/氏の
0に五人の羅
羅 が現われ、「嵩岳寺が今、
洞を 1っているので、お
の家で五百羅
を鑄
れ」と 1してく
2む。
/氏は 0から覺めて、嵩岳寺に人を
3ると、
0
のお
4げ 5り、羅
洞の建設に取りかかっていた。そこで
/
氏は樂しんで五百余體の鐵像を鑄
香 1した。像を奉安し、みな た。それ以後も、この 6を手向けたが、蝋燭に火をつけないのに火が自然と點っ
境の地は人の機
り隱れたりした。 7に應じて現われた (文によれば、撰文
の釋有挺は、
竹林寺の
にある白 8菴( 9代の『嵩山志』の白 (7)
8菴の條には「在竹林寺
。釋有挺
:
王維と嵩山羅漢洞(
;田)
居。見『羅
に洞記』。」とある)
んでいたことがあり、
のすばらしさを眼にしていたので、不思議なる 境 とにしたという。時に宋の崇 變を記すこ 元年十(1102)
ろで、この 。とこ は金の大定二十九年(1189)の重刻である。
文の頭から「
宋崇 元年壬午
十 寺常 初十日、中天嵩岳 院 持 崇政、院
法應、知洞
悟言、知庫
悟
、同勾當修
□用、
の部分までが原 信弟子焦泰施財刊字。劉友諒刻」
にあった文字である。そして「山野
王、嘗 法
嵩嶽寺見此
」から「時大金大定二十九年八
日。會善寺 十五
居嗣 沙門淨 重上石。
嵩陽高澄刊」までが、重刻の經 陵普照比丘廣眞書。
の名を記した部分、 および重刻に携わった人々 私見では、この ち重刻の際に付加された部分である。
はもともと羅
洞か 考える。しかし、兵火にあって壞れ、金代には嵩岳寺にうち 竹林寺にあったと
てられていたと
文にある。そこで、この
裝本ではなく の原刻拓(剪 新たに 套本であろう)を探しだし、その拓本をもとに
「崇 を立てたというわけである。『嵩陽石刻集記』には 原
、今在嵩嶽寺
砌下(崇
の原
は今嵩嶽寺の
『嵩陽石刻集記』は、 」と書かれているが、現在の嵩岳寺には存在しない。下に在り) 砌の 初の 封の
に係るものであるので、 その時代には原
岳寺には二つに がまだ存在していたのであろう。また、嵩
れた重刻の
が殘っていると『登封名
ようである。文物局の張 物志』や『嵩山志』に書かれているが、現在、行方不明の (8) 文 卿氏や宋
瑞氏に重刻の
を の在
!ねたところ、法王寺に
つかめていないという。 "んだという噂があるが、在が
四、蕭居士の修行した洞窟は 「 羅
洞」か
「羅
洞記」の
文から
① #のことがわかる。
竹林寺の洞窟の修
$を嵩岳寺が行なっていることから、
常 竹林寺と嵩岳寺は關係が深いようである。また、嵩岳寺 院の 持と院
の名に續いて「知洞
知洞 悟言」とある。
とは洞窟をつかさどる
洞窟は嵩岳寺の管 の意であろう。とすると、
②蜀 %であったと考えられる。
の法
&が梵 に對して「我久しく聞く、彼の刹は是れ かてら
寺にして羅
は後で の居るなりと」言う場面があるが、これ
'べられる羅
示現のための伏線であろう。
引かれた古傳記の作 文に (が、法
&をして「羅
わしめているのは、寺を が居る」と言 祕
)するための眩惑
*表現であ 中國詩文論叢第二十八集
る。③洞窟に羅
像が置かれたのは、法
が眼にした
羅 變譚と、
が 氏の に現れるという奇跡譚に因るもので、崇
元年(1102)のことである。④遲くとも、法
が羅
示現を體驗した
林寺は境の地として知られており、その寺域 代までには、竹 また境と の洞窟も
⑤洞窟が「羅 林寺に「」の字を冠していることからもわかる。 識されていたものと考えられる。それは、竹 洞」と名付けられたのは、嵩岳寺が洞窟の修 を行なって以後のことであろう。
これら「羅
洞記」の記
や實地
査による洞窟の
まえて考えると、蕭居士の修行した洞窟が現在の羅 況を踏 た可能性が極めて高い。その理由として、 洞であっ の四點が
一、嵩岳寺から れよう。 げら い場 にあり、嵩岳寺の庵室に
二、宋代に嵩岳寺が洞窟を修 と思われる蕭居士の修行の地として便利であること。 んでいた 嵩岳寺と關係の深い場 しているが、蕭居士の時代も 三、蕭居士の時代には五百羅 であったと考えられること。
が置かれてはおらず、信
が
う場 ではなかったので、居士が靜かに修行できる場
であったと思われること。四、洞窟は頂上まで續いているといわれるほど奧深く、王維が「深洞」と詠むに相應しい洞窟であること。
五、結語
王維が「深洞長松何
嵩岳寺の後方の太室山中にある、宋代以後に羅 有」と詩に詠んだ「深洞」、それは
の乘如とともに嵩岳寺の庵室で るようになった洞窟であったと考えてよいと思われる。俗弟 洞と呼ばれ 寺から 人生活していた可能性も否定できない。いずれにせよ、嵩岳 窟と嵩岳寺の行き來はあったであろうが、蕭居士は洞窟で一 は行動を共にしていなかったのかもしれない。あるいは、洞 士であるが、出家の身ではないので、修行の場面では乘如と 居していたと思われる蕭居
ける範圍の洞窟は、格好の修行場
であったに
なおかつ境の地と ない。またそこは、人も余り寄りつかない幽邃の地であり、 い
識されていた場
ところで、本稿において「深洞」は羅 れる。 でもあったと考えら けると、拙論「王維の乘如禪師に寄せた詩とその 洞であると結論づ 邊(下)」
王維と嵩山羅漢洞(
田)
の讀 の中には、「深洞長松何
生」は羅 有」に續く「儼然天竺古先 老子を指す語であり、羅 もしれない。しかし、「古先生」は天竺に渡って佛となった 像ではないか、と疑念をもたれる方がおられるか
た、羅 と解釋することは無理である。ま 像が置かれたのは宋代の崇
なお、法 たと思われる。 とであり、それまでは修行に相應しい場として捉えられてい 元年のこ(1102)
がなぜ洞窟
で羅 いては、「白居易が詠んだ嵩山の の示現を眼にしたのかにつ 叢」第六號(中國文史究會、二〇一〇年三 蹟について」(「中國文史論 五 た。そこでは更に、白居易が嵩山の五物を見て詠んだ「山中 刊行予定)で論じ 句」の第五首「洞中蝙蝠」の洞窟が、現在の羅
ることも考證したので、合わせて御覽いただければ幸である。 洞であ
最後になったが、二〇〇九年の嵩岳寺・三
庵・羅 洞の 査においては、河南省嵩陽景
管理局長の李慶
國際 氏、中國
行 物局文物科長の張 の張東昇氏に大變お世話になった。また登封市文 卿氏、登封市文物勘探
長の宋 らは文物に關する 瑞氏か
示を得た。記して鳴謝申し上げる。 【
(1)『嵩岳文獻叢刊』は 】
四冊。中州古
出版
(2)故宮 、二〇〇三年。
物院 『故宮珍本叢刊』第二五三册(
南出版
(3)この「蜀 二〇〇一年)に據る。 、 法相」は、後で引用する「羅
卷十一の「嵩山 洞記」や『嵩書』
竹林寺示現」などでは「蜀
法藏
(4)河南人民出版 ている。 」になっ
(5) 、二〇〇七年。
(1)
(6)四庫 書第一冊に據る。
(7) 書本に據る。
(1)
(8)河南省登封縣地方志 書第二冊に據る。
纂委員會、一九八五年。 中國詩文論叢第二十八集
王維と嵩山羅漢洞(
田) 圖1三
庵の磚 (左は佛殿、背景は太室山)圖2羅
洞の洞口
びその上の重巖
中國詩文論叢第二十八集
圖3羅
洞
より外を見る