Ⅲ 検 出遺構 の報告
1 西院地 区の調査
倉J建以来のいわゆ る西院伽藍 は
,回
廊 によって囲 まれた金堂・五重塔の一画 とそれと一 体 をなす僧房 などか らなっていた。その後の一千年 をこす寺史の なかで
,南
大門,東
大門,西
大門はおのおのその位置 を替 え,現在では倉1建期 の伽藍中枢部の約二倍 の面積 を西院 とよんでいる。その範囲は南は南大 門,東
。西は東・西大門 に囲 まれた広大 な地域で,若
草伽藍跡 もその うちに含む。 このた め西院の調査 の目的 も導水管埋設地 での西院の古 い追構 の有無 (たとえば北イ曽房の検出など
)と
ともに子院の変遷 をさぐることにもあった。本年度の調査 は主 として
,聖
霊院の南側 か ら綱封蔵 の南 を経 て大宝蔵殿へ かけての広場 に トレンチ を設定 して実施 した。18
第26図
聖霊院南の トレンチ(東。西 か ら)
A
トレンチの位置トレンチは上幅1.5メ ー トル を標準 とし,大宝蔵前 (西側
)の
現在敷石参道北縁 に平行す る約10メ ー トルは境 内の老松樹 との関係 で上幅1.0メ ー トルとなった。食堂 。率田堂 と南狽」部 分 (約35〜40m南
側)は
掘立柱掘形 の検 出 に伴 なって トレンチの一部 を北へ約7m拡
張 しその性格 を確認す るよ うつ とめた。 この地区は明治の中期以降 は現在み るよ うな広場 とな っているが
,そ
れ以前多 くの子院 が軒 を並べていた。いま明治3年
9月の図面 (高田良信『法隆寺子院の研究』1980年第87図
)に
よると金剛院,実
相院,政
蔵 (倉)院
があった。こ れ らの建築が移転 または取 りこわされたあとにも庭 園の石組の一部 や老樹 が残 されている。B
基本的土層 と遺構今回の調査地域 では
,現
地表 は聖霊院 の部分 が高 く,東
へ低 くなる。 さらに耳しから南ヘ も低 くなる。 トレンチの西端 と東端 では約1メ ー トルの高 さの差 がある。地表面 は小砂利 が敷 きつめ られてお り,そ
の下 に厚 さ5〜
10セ ンチの各種 の山土 ・砂利・砂 か らなる参詣 客通路の整地 があ り, この上面,あ
るいは途 中か ら掘 り込 まれた電線,水
道管,火
災警報 装置用ケーブル,下
水管 な どがい く本 も埋設 されている。 これよ り下部 の土層 は調ぎ地 内 におぃて,著
しい違 いがある。(以下説明の便宜 のため現在の聖霊院 。妻室,綱
封蔵 のおの おの南側 にあた る地域 を,
まとめて聖霊院南 と表現す る)。綱封蔵南 か ら東側 では近世 の生活面 に伴 う遺構 があ り
,そ
れよ り西方 では,近
世の層は 非常 に薄 く,い
わゆる層位 をな していない。 これは東狽1にだけ子院 があった ことに起囚 し てお り,発
掘調査 によって この ことを確認 した ことにもなる。平安時代 か ら室町時代 にかけての土層 は
,近
世 の土層 のあ り方 とは逆 に聖霊院南 か ら綱 封蔵南 にかけて認 めることがで き,東
側 は近世の遺構 による削平 などがあって少 ない。奈 良時代 およびそれ以前の遺構 は,聖
霊院南 および食堂 。細殿南 において検 出す ることがで きた。 この下層 は地 山層 で,綱
封蔵 南 か ら食堂・細殿南 にかけては現地表下0.5〜lmで
あ るが,聖
霊院南 と トレンチ東端部 では現地表下2.5〜3mと
深 い ところに認 め られた。地山の高い部分は一様 に黄褐色 で硬 質の粘性 の強い山土である。低 い部位 の地 山は砂 ま たは粘土で
,水
もちは非常 に悪 く,発
掘中の湧水 も著 るしく, この部分 が法隆寺以前の旧 谷筋 であることを示 してい る。妻室北半の東側,綱
封蔵 中蔵西側 に地下埋設の避雷針 の接 地板の掘 り形(50×
80 cm,深 さ3m)の
立会調査 による土層検討 の結果,
この部分の土 層 が安定 した硬質の地 山で あることを確認 した。聖霊院の解体修理 に伴 う調査 によれば聖 霊院 の南部 は地 山が大変深 いこ とが確認 されている。C
検 出遺構i
近世の遺構S B 2141 トレンチ東端部 の大宝蔵殿西側 で検出 した方眼方位 に対 して
N68度 Wで
自然石19
を東北側縁石 として もつ基壇 で ある。検 出 した縁石 は
8個
で,そ
の全長 は2.8mで
ある。子 院 に伴 うものであるがその方向は塔頭の それ と一致 しない。S A2112
食堂・細殿南の拡張区で検 出 した東西 に築 いた築地基壇 で ある。 これには2時
期 あ り,上
層 をB期
とし,下
層 をA期
とす る。B期
は現在の小砂利敷歩道面直下で検 出 した。上幅
1.2mの
土積 を残 す。明確 な基壇 は伴 わない。A期
の崩壊 した土塁状 の高 ま り上 に 直接 きずいている。 これは明治期 まで存在 していた金剛院・政蔵院 などの耳ヒ面築地 の痕跡と考 えられる。
S A2112A B期
築地下 の高 ま りで上幅 は1.Omあ
る。地山上 に直接積土 してい る。A,B
期 ともに
,N76度 Eの
方向 にある。S E 2114 大宝蔵殿 前で検 出 した くり抜 き井筒 をもつ井戸 である。直径
lm,深
さ0.9m
の掘 り形中央 に,直
径0.45m,高
さ0.6mの
広 葉樹 の巨木 を今」り抜 いて井筒 とす る。 この 井筒の上 に底 の抜 けた大型の瓦質 の釜 を重ねてお く。両者 を合 わせた高 さは0。9mで
ある。木製井筒 にひび割 れが見 られ るが, ここには針葉樹 の小材 を外 か らあて, さ らに
,上
下2 段 に丼筒 を縄 で緊縛 す る。S A2128 S E 2127の 西方
6mで
検 出 したN80度 Wの
方向 にふ れる南北築地 の基礎 である。明治
3年
の絵図か ら,金
剛院・実相院の西側土塀の一部 と考 えられ る。S E 2127 拡張区の南西で検 出 した石組 井戸。掘 り形
,石
組 ともに南半部 が旧防火用水道 管バ ルブにあた り,崩
壊 のおそれ もあったため,全
体 の発掘 はで きなかった。掘 り形 は上 縁 で直径約3.2m,底
で約2.8m,深
さ約2.2mで
,掘り形 の底 は,地
山中の黒色粘土 を掘 り ぬ き,そ
の底 の砂層 に くい込 んでいた。石組 は高 さ0.7mを
確認 したが,ボー リングの結果 によると更 に約1.5mは
あるよ うで,本来4〜 5mも
の深 さをもつ本格的 なものである。石 組 の大部分は井戸廃絶時 にぬ きとられていた。石組 は大 きい もので30cmぐ らいの幅 をもつ 自然石 を乱石積 した もので井戸側 石 はほぼ垂直 に組 まれている。 この井戸 は明治3年
の絵 図 によると金剛院の もの として よいが,同
図 には井戸の表示 がない。井戸側 石 内部 か らは 細片化 した土師質小皿片,瓦
片 な どが出土 した。‖
中世の遺構
S G21H
石組の護岸施 設 をもつ池遺構 である。池 は方形,東西の長 さ13.5m,南
北の長 さ8m以
上で,東
端 に幅約30〜35cm,深
さ約30cmの本樋埋設用の濤 を検 出 した。石組 は南辺 部 と西辺 で検 出 した。東辺部 はすで に破壊 され,石
の抜 きとり痕跡 によって岸 を確認 で きた。池の護岸 は西岸 で高 さ30〜80cmの 扁平 な自然石 を選 んでたててtゝ る。南岸 では
,西
壁 との交点付近 はたててい るが,東
にゆ くに従 いやや深 くなるところもあ り, 4〜 5段
積み あげている。積みあげはあま り丁寧 でな く,一
見 した ところ西岸 のたてた もの とは異質 に み える。石質は ともに在地 の小石塊 であるが,東
岸近 くで凝灰岩 を1個転用 していた。この池の廃絶後
,池
を埋 めたてて整地 している。 この整地 は厚 さがlmに
も及ぶ部分が20
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第27図
聖霊院南 トレンチの遺構 図
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SF 2117(西南 か ら)
第28図
築地 SA 2112と 道路
第29図
池 SG 2111(】 ヒか ら)
あ る。整地 土 は黄褐色 の 山土 をよ く鴇 き固 めた もので
,水
分 を含 ん ど含 まない一 見 した と ころ古代 の整地 上 とも思 われ るもので あ る。整地 土 か ら埴 輪片,古
墳 時代の紡錘 車 お よび 銅 の小 片 を検 出 した。整地 の範囲 は南側 を大宝蔵殿 前の敷 石 参 道,北
側 を樹 木 に囲 まれて 未確 認 に終 つたが,池
遺 構 を埋 めたてて子院北辺 整備 を した もの で あろ う。主争 lr
Ⅷ氏磨■ ││││!│
第30図
掘立柱建物 SB 2120と SB 2115(東 から)
第31図
井戸 SE 2128(北 から)
S F2117
食堂・細殿 南の拡張区北端 で検出 したN80度 Eの
ふれ をもつ道路側濤の石垣 。 この石垣 よ り北イ員」を道路 と推定 した。道路の北端 は,綱
封蔵 の南側 を東西 に流 れる水路 に よって確認 されている。側濤 はS A2112Bと
の間にで きた凹みで,幅
約80cm,深
さ約50センチ前後の断面
U字
型 を呈す る。石垣 は小型の 自然石 を3〜4段
積み上 げた もので,残
存SB 2120と SB 2115 (南か ら)
第33図
SB 2120と
SB 2115(東から)
第34図
平安時代の土壊 SK 2135 (西か ら)
絆
転
│―│イI´鶏∵
│工│十1
た
'I孝
'
霧 ,I 嬢 す
″
第35図
聖霊院南の トレンチ (西か ら)
大濤 SD 2140 (東か ら)
状 態 は非常 に よい。 これ につ づ く道路状遺 構 は断 面形 か まば こ形 を示 す。遺 構 の状 況 か ら 土器 を伴 わないので明確 な時期決定 はむつ か しいが,上限 は S F 2117に 関連 す る。
SA2112
B出
土 の土 イヽ片4に
よって室 町時代 中期 以降 にお さえることがで きよ う。S D 2133 細 と1蔵 南 で検 出 したほぼ方 眼方位 に平 行 す る南北 方 向 の素掘 り濤 で上幅
2.lm
下幅 約
lm,深
さ6mの
断 面U字
形 の堀 で あ る。IEB内の推積土 は薄 く,こ
の上 に黄褐色 の 硬 質 の山土 で一気 に埋 め込 んで い る。子院 に関 す る中世 の堀 で あ ろ う。S K2136
トレ ンチ壁 面 で確 認 した土竣 。聖霊院 の南 か ら妻室 の南 にかけて厚 さ15〜 20cm の瓦器 を合 む土層 があ る。トレンチ内では完結 しなかったが大 きな土渡 で ある。 この土渡 の近 くには小土羨
(S K2134)も
あ る。 これ らは室 町時代 の範囲内 にお さまる。 この うち 聖霊 院南 の土壊S K2136か らは忍冬 文飾 りをもつ鴎尾片 が出土 した。‖
古 代 の遺 構
S K2135
室 町時代 の土渡(S K2136)の
下層 に平 安時代前半 の土 器 を伴 う厚 さ約10cmの 土層 があ る。 これは焼土・灰 を含 む黒褐色 土 の土壊 の埋 土 で,二
彩釉 片,三
彩釉 片・獣脚硯 な どが出土 した。 この土渡 は西端 は明 らかな落 ちがあ るが東端 では薄 くな り消滅 す る。
S B 2120 食堂 ・細殿 南 の拡 張 区 で検 出 した掘 立柱建 物 で
, 2間
分 の柱 掘形 を検 出 した。掘形 は
,桁
行 が長 方形 (0.3×0.6m)で ,梁
行 は正 方形(1辺
0。55m)で
あ る。柱 間寸法 は桁行 で2.lm,梁
行 で1.8mで
あ る。棟 方位 は西院 と同 じふ れ をもつ。S B 2115 S B 2120の 東 で検 出 した掘 立柱建 物 で あ る。 東 西 に並 ぶ柱 掘形
(1辺 0,7m)
2個
を検 出 した にす ぎず,厳
密 にい えば塀 の可能性 もある。東 の堀形 には柱痕跡 (直径 24cm)が
認 め られ,本
片 が残 存 して いた。 この掘形 か ら, 7世
糸己前 半 の軒 丸瓦 が出土 した。以上
2棟
ともに奈 良時代前半 に建 て られた もので,柱
掘形 の大 きさか らみ て お そ ら く雑 舎 的性格 をもった もの と考 え られ る。S D 2140 聖霊 院 前面 にあた る位 置 で南北方向の大濤 (幅
8m,深
さ2.6m)を
検 出 した。東岸 は固 い地 山 を掘 りこむ が
,西
岸 はゆ るや か に高 ま り,聖
霊 院 東側柱 筋 の延 長線 あた り に位 置す る。妻室 南 か ら聖霊 院 南 にかけては旧地形 が深 く,川
また は谷状 を呈す ることは 東室 の下層 調査 によ って知 られ てい る。 また,南
大 門東側 の大垣 下層 で焼 土層 が検 出 され て いて,谷
を埋 めたの で は ないか と考 え られて いた。この谷 は西方 か ら埋 めたて られてお り
,幾
層 もの整地 土 が西 か ら東へ おおいかぶ さって い る。 これは西院伽 藍 の造成 に際 して,削
平 した土砂 で谷 を埋 め たて て いた こ とを示 して い る。 この谷 の埋 土 は,粘
性 の強 い山土 で,他
の爽雑物 を全 く含 まず に埋 め られてい るの で,一
気 に人為 的 に埋 め戻 され た こ とを示 して い る。濤 の底 面 のヘ ドロ化 した粘性 の強 い 山土層 か ら多 くの瓦片 や,ガ
ラス小玉1点
が出土 した。 この谷 の埋 土 の上部 に厚 さ10セ ン チ前後 の焼 土 。本炭片・灰 とか らなる黒色 の土層 が あ る。谷底 出土 の瓦 の大部 分 は若草伽 藍 の もの で あ るが, 7世
紀 未 の土器 を含 むので,谷
の埋 立 ての おおよその時期 を示 してい26
る。焼土は他の場所 か ら二次的 にここに投入 されたものである。 また焼土・灰 などの層 は 東 が厚 く
,西
は薄 く分布す る点 から考 えて,東
方 から投棄 された と考 えてよい。発掘面積 が狭 いので,断
言 しがたいが,濤
の埋立てが西方 よ りされ,各
種 の廃棄物の投葉 が東方 よ りされたことは,濤
よ り東 において焼失 した建物 の廃棄物 であった可能性 が考 えられる。︐一
笠
薄 一
第37図
大濤 SD 2140 の堆積土 (東南 か ら)
第38図
大濤 SD 2140 の堆積土
(耳ヒから)
2 東院地区の調査
東院地区回廊外では
,新
管埋設予定地全域 について幅1.5mの
トレンチ調査 を行 なった。一部
,斑
鳩宮 。東院関係 の遺構 を検 出 した部分では,管
埋設位置の変更 の移動 を考慮 して,トレンチ を拡張 し
,遺
構 の範囲確認 を行 なった。東院回廊内は
,周
知の とお り,昭
和9年
から16年にかけて,東
院礼堂,回
廊,伝
法堂,舎利殿 および絵殿 の解体修理 に伴 う地下遺構 の調査 によって
,重
要 な遺構 が検 出 され,そ
5)
の配置 も明 らかになっているので
,旧
管の位置 に新管 を埋設す る事 になった。 したがって トレンチは,旧
管埋設時の掘形 を復原す る形 とな り,
トレンチ壁面の土層の上 から東院地 区の整地状況 を把握す る事 に重点 をおいた。顕著 な遺構 が検 出 されたい くつかの トレンチ について概要 を記す ことにす る。A
伽藍内の調査1
西面大垣 内狽Jト レンチ四脚門外の北寄 りから西面大垣沿 いに南北方向 に設 けた ト レンチである。検出 した主 な遺構 には
,東
西大濤S D 1390,井戸S E 1287,池S G 1290が ある。S D 1300 トレンチ南端 で検出 した東西大濤である。幅約
1.6m,深
さ1.8mの
横断面「U」字形 を呈す る素掘 り濤 である。S D 1300はかつて斑鳩宮跡 と推定 されている遺構 を検出 し た地 山面 か ら掘 り込 まれ
,少
量 ではあるが埋土内に7世
紀末 か ら8世
紀前葉の土器片 を合 む。S D 1300の延長部 は,回
廊 内の82‑2‑Ⅱ
・Ⅳ トレンチで も検 出 した。方位 は,国
土方眼北 に対 し
,西
で南 に約14度偏す る。 この方位角は東院地区の斑鳩宮跡 と推定 されてい る掘立柱建物 の方位 とほぼ一致す る。S G 1286 トレンチ耳ヒ端 で
,池
S G1286の 西岸 と南岸 の一部 を検 出 した。西岸 には,九
太 の横木 を杭 で とめた護岸施設 が見 られる。 S G1286は,81‑10‑Ⅶ
トレンチで検出 した沼 状 の遺構 と一連の もので あ り,堆
積土 から江戸時代の土師器の小皿 ・羽釜 。陶磁器片 が出 土 した。S G1286は,元
和年間〜貞享元年の間に製作 された と考 えられている「伽藍境内 大絵図」の鐘楼北側 に遵池 と書 かれた池 に対応す るもの と考 えられよ う。 なお,寛
政年間製作の「法隆寺惣境内之図」 には
,同
場所 に,池
は描 かれていないが,鏡
池 なども描 かれ ていないので,こ
の時 に埋 めたて られていたとは決めがたい。S E 1287 池の南岸近 くで
,曲
物側板 を積み重ねた形式の井戸S E 1287を検 出 した。曲物 板 は2段
残存 していたが,枠
内か らは,奈
良時代の土器片 が少量出土 したにす ぎない。周 辺 が後世の攪乱 を受 けているため,掘
られた年代は不明である。‖
回廊内 トレンチ
回廊内 トレンチで検出 した主要 な遺構 は
,東
西大溝S D 1300の 延 長部 と倉」建 当初 の掘立柱掘形,石
敷,夢
殿南面の凝灰岩,か
道である。S D1300 82‑1‑Iト
レンチで検 出 した濤の延長部 である。 その トレンチでは, この濤28
第39図
大濤 SD 1300 (西か ら)
第40図
大濤 SD 1300と 東院倉」建時の石敷
SX 1307(西 か ら)
4411 ヒ
ilI引第41図
大濤 SD 1300の 土層図
29
の上面 に東院倉1建時の石敷面があ り
,濤
の埋土上層 か ら,瓦
片 と焼 けた壁土 が出土 した。S X 1310 夢殿 の南面階段前の灯籠直下 に長方形 (1.0×
0.5m,厚
さ0,2cm)の凝灰岩 が据 えられていた。凝灰岩 は,旧
防災管の埋設時 に北半分が壊 され,現
状 は東西 に長い。1辺
約1.3mの
掘形 を掘 り,礫・粘土で地固め した上 に水平 に据 えている。 この石周辺 には,石
の表面 にレベルをそろえる石敷 が残 る。
S F 1340 S X 1310の 中心 か ら東西 にそれぞれ
2m離
れた位置 に石組濤S D 1330。 1320がある。東側濤S D 1330(幅
44cm,深
さ20cm)は
底 に礫 を敷 いている。西狽」濤 S D 1320(幅60cm,深
さ20cm)も
底 に礫 を敷 くが残 りは良 くない。両側濤 の心 々距離 は4.3mで
ある。両 濤問は参道 (S F 1340)である。なお
,82‑2‑Ⅱ
トレンチで,倉」建時の掘立柱 の回廊 の掘形 と基 を確認 した。B
東院南門前地区の調査検 出 した主 な違構 は
,南
門前の東西道路,明
治時代の町屋 の敷地石積2基 ,江
戸時代の 池状遺構1基 ,古
墳時代の濤1条
である。S B 1395・
1396
東西 トレンチ東半分で検出 した敷地基礎 の石積 である。いずれも北面の東西方向の石積 で
,両
石垣 は,ほ
ぼ面 をそろえる。石垣 の底部 には,丸
太の胴本が敷 かれ ている。東側 の石積のO.3m離
れた】ヒ側 に も1列
の胴本が残 り,町
屋 の敷地 が縮少 されて いたことを示す。東側 の石垣基壇長は
,約 10m,西
側 のそれは13mを
測 り,両
基壇間 には,幅 3mの
露路 が設 け られている。両基壇 とも,丁
寧 な版築 を施 し,版
築土 は,南
へのびる トレンチの南 端 にまでおよび,南
北幅 については不明である。S G 1410 Bト レンチ西辺部 か らFト レンチ にかけて検出 した江戸時代の池状遺構 である。
堆積土 か ら
,石
仏,土
師器小皿 。羽釜,瓦
器,陶
磁 器類 が出土 している。Fト レンチでは,現地表下
1.6mに
至 って も底 が出ず,軟
弱 な堆積で湧水があ り,危
険 なため,深
さについては確認で きなかった。 この池状遺構 は
,現
南面大垣下 に延 びていて,現
大垣 を築造 した 元禄9年
(1696)か,そ
れ以前 に埋立て られている。近在 に住 む明治生 れの古老 か ら
,小
さい頃,焼
門の東 に池 があった とい う聞込みが得 ら れ,
この池状遺構 との関連 を示す話であるかと思 われる。S D 1390 A・ B・ Eト レンチの江戸時代整地土下の地山面で
,古
墳時代の濤1条
を検 出 した。各 トレンチで検 出 した濤 は,一
連 の もので,東
南方向 に流 れる。 その埋土か ら,庄
内式 と思 われる土師器片 が少量出土 した。 なおAト レンチの濤周辺 の整地土 からは
,埴
輪 片 が少量出土 した。C
北室院地区の調査1 81‑10‑Iト
レンチトレンチの基本的 な層序 は
,表
土・暗茶褐色砂質土の順で暗 黄褐色粘質土 (地山)に
至 る。地山の上 には,部
分的ではあるが,土
器の細片 を含 む東院第42図
参道 SF 1340と 凝灰岩 SX 1310(北 か ら)
第43図
参道 SF 1340と 凝灰岩 SX 1310 (東南 から)
第44図
池 SG 1286(西南 か ら)
第45図
民家敷地基礎 (東か ら)
第46図
民家敷地基礎 と
月同木(】ヒから)
第47図
濤 SD 1390 (南か ら)
x‑154025,oo0
̲イ オ
イ
X‑154040,000
〕 5 10m
│
Y‑236700,000
瑚
│
Y‑2366g
第48図
夢殿周辺 の遺構 図 Y‑236680p08
造営時の整地土 (黄灰砂質土
)が
残 っていた。検出 した主要 な遺構 は
,掘
立柱建物3棟 ,掘
立柱塀4条 ,平
安時代の土羨1基 ,室
町時 代の土渡 と井戸各1基 ,江
戸時代の素掘 り濤2条 ,明
治時代の石組溝1条
である。明治時 代の石組濤 は,明
灰褐色土面で検出 し,室
町時代の土竣S K 1205は,灰
褐砂質土面 か ら掘 り込 まれ,中
から多量 の土師器の小皿 が出土 した。トレンチ西辺部 にあたる平安時代の土 渡 S K1230は
,径
約7.5m深
さ約0.3mの
浅 い皿状 の くばみで,黒
色有機質土 を埋土 とし,多量の土器・瓦片・石 が入 っていた。土張 の肩近辺 には
,杭
が うち込 まれてお り,所
々に石 が据 えられている点 か ら
,園
池の可能性 がある。S K 1230は,東
院造営 に伴 う整地土 か ら掘 り込 まれている。S A 1221は , S K 1230の埋土 を切 って掘 り込 まれているが,掘
立柱 建物S B 1210・ 1220は,土
墳S K 1230の埋土下の地山面で検 出 した。S B 1200。
1210
国土方眼方位 に対 して,北
で西 に約8度
30分偏す る方位角 を持つ掘立柱 建物である。S B 1200は,桁
行8尺
。梁行6尺
の東西棟建物 に復原 で きる。妻柱 の掘形底 部 には,礎
板 として平瓦 が敷 かれていた。S B 1210は,桁
行3間 (7尺
等間),
梁行2間
(6尺
等間)の
南北棟建物 である。妻柱掘形 には,平
らな石 が礎板 として使用 されていた。S B 1200。 S B 1210の掘形 は
,一
辺0.5m程
度の小規模 な掘形 で,いずれも柱抜取 り痕跡 は な く,埋
土 には灰 と炭 が入 っている。 また一部 の掘形 か らは,奈
良時代の土器が出土 した。建物方位・出土遺物等の検言寸から
,両
建物 は東院の雑舎 と考 えられよ う。S B 1220 S B 1220は
,柱
間10尺(3m)等
間で,梁
間2間
の東西棟 に復原で きる。妻柱 の掘形 から,奈
良時代の軒平瓦 が出土 した。東院の僧房の可能性 もある。S A 1221・ 1222 S A 1221は西側 にある現築地塀 と同方位 の掘立柱塀 である。両者は近接 した柱穴列で
,築
地造営時の足場穴 と考 えられる。 この築地塀 は寛永の頃のメ犬況 を描 いた と思 われる「伽藍境内大絵 図」 にも描 かれてお り,検
出面 からも中世 か ら江戸初期の築地 築成時の足場穴 の可能性 が高い。S A 1221の西lmに
は,同
様 な柱穴列S A 1222がある。以上の掘立柱塀 と建物 は
,検
出層位 と重複関係 か ら3時
期 に分 かれ る。S B 1200。 1210 はA期
で最 も古 く奈良時代の建物である。S B 1220はB期
で,11世
紀頃 までには廃絶 して いる。S A 1221・ 1222はC期
で時期 が降 り,江
戸時代初 め頃 と考 える。その他 の遺構 S A 1219は
,地
山面で検出 したが出土遺物 がないため時期 は決定で きな かった。 トレンチ東辺 の素掘 り南北溝S D 1220(幅2m・
深 さ0.6m)は
,室町時代 から江 戸時代の遺物 が出土 した。トレンチ南辺 のS E 1223は
,径
40cm。 高 さ45cmの円筒形の瓦質井戸枠 を
5段
以上積 み重 ねた井戸である。‖
81‑10‑Ⅲ
トレンチ北室院の西側築地 に沿 って設 けた トレンチである。 その南端 部 に奈良時代の土墳S K 1270を検 出 した。S K 1270からは
,九
瓦 。平瓦・土師器・須恵器が出土 した。
││1 82‑I―
Ⅲ トレ ンチ 「伽藍境内大絵図」 によれば, この トレンチの位置 には現本+
Y‑40000
│
研 ︒期 鋭
!― ― Pm
北 室 院地 区 の遺構 図
第50図
北室院地区の 遺構(東か ら)
第51図
井戸
SE 1223(耳ヒから)
魏芦森
│磁
Ⅲ■マサ■―
工■す ,(IⅢ
ザif
堂 に取 り付 く庫裏 があった とされ
,ま
た寛政の古図「法隆寺惣境内之図」 には,台
所 と食 堂が描 かれている。S D 1240 石組濤 で
,埋
土 に染付片 を含んでお り,上
述 した江戸時代の塔頭の雨落濤 と考 えられよ う。S D 1240は,あ
る時期改修 され,若
干東 に移動 している。 トレンチ東端で も,同様 な石列S X 1245を 検 出 した。 レベル的 には, S D 1240の 古 い時期 の石列面 に対応す る。
S D 1250 トレンチ東端 で検出 した
,地
山面 か ら掘 り込 んだ深 い濤状 の落 ちである。西肩 を検 出 したにとどまり,深
さ・幅 については不明である。埋土中 には, 7世
紀代 と考 えら れる土器片 が含 まれている。 この濤 は東院伽藍地区で検出 した東西大溝S D 1300と 同様,斑鳩宮 の区画濤 の可能性 がある。
D
小結
幅の狭 い トレンチなが ら
,東
院の各所 に トレンチが入 る事 にな り,そ
の結果,東
院地区 の旧地形 (古墳時代以前)。 東院造営時の整地 のあり方 について も興味深 い知見 を得た。旧地形 は
,北
室院西北部 が最 も多 く,最
高所の海抜高は54.485mを測 る。北室院西北部か ら
,東
および西 にかな りの傾斜 で低 くなっているが,北
室院 で奈良時代の遺構 を検出 し た地 山面の海抜高は,54.50m前
後 であ り,地山は夢殿付近 まで緩 かな平坦面で続 く。夢殿 付近 と北室院の奈良時代の遺構面 (地山)と
の比高は,わ
ずか10cm前後 である。夢殿 か ら 南は次第 に傾斜 が大 きくな り,夢
殿 の南階段 の南約5mの
位置 か ら,急
激 な崖 となる。 ま た崖下 か ら急激 な斜面地形 となる。夢殿南の崖面下 と東院南門前の地 山面の比高は,約
2.5mで
ある。 この傾斜地 に西耳ヒか ら南東 に流 れる古墳時代の濤 がある。今回の調査 で検出 した斑鳩宮時代の もの と考 えられる東西大濤S D 1300は
,こ
の崖面 か ら約18m北
の位置 にあ り,旧
地形の状況 から考 えて,斑
鳩宮 の南限 を画す濤 の可能性 が大 きい。 また北室院太子殿北 から夢 殿までの平坦地 は,斑
鳩宮 。東院の造営 にあたって,地
山 を削平 し造成 した ものである。
耳ヒ室院の
82‑1‑Ⅱ
トレンチでは,東
肩 を検出 していないが, S D 1300と 同様 な性格 と 考 えられる南北方向の濤状遺構S D 1250を 検出 してお り,
これ を斑鳩宮の東限 を画す濤 と 考 えれば,斑
鳩宮の位置はかな り限定 されることになる。東院 と西院中間地区の善住院, 羅漢堂 あた りの地 山の レベルは,東
院南門前の レベルに近 いことか ら,本
来,斑
鳩宮 は南 側 に突 き出 した低丘陵の突 出部 に営 まれていたと考 えられ よう。東院伽藍 は
,斑
鳩宮の南面 に敷地 を継 ぎ足す形 で造成 されている。整地 は,自
然地形 に 従 い北 が薄 く,南
に向 って次第 に厚 さを増す。夢殿 の南の崖 か らは急 に厚 さを増 し,中
門か ら南門 に至 る地域 の整地土の厚 さは
,2,0〜 2.5mに
もおよぶ と考 えられる。旧地形・整 地状況のあり方 か ら東院の造営 は,単
に斑鳩宮跡 を伽藍 に再利用 したのではなく,か
な り大規模 な造成工事 を伴 っていた ことに注意 したい。
東院伽 藍 の規模 につ いては 『東院資財帳』 に
,寺
地 の東西辺 が各47丈,南
北 辺 が各 52丈 と記 されてい るが,そ
の範囲 にはいろいろな考 えかたがあった。 た とえば,南
門前 の通路 が古 い道 の痕跡 をとどめ るもの と して, こ こ を南限 と し,】 ヒ限 を伝 法堂 と北室院 の間 にお く考 え,東
西 につ いては,現
在 の西面 築地 を西限 と し, ここか ら52丈 東方,す
なわ ち現 中 宮 寺 の東 の端 よ りも東方 を東限 とす る考 えかた な どで あ る。 しか し,今
回 の発 掘調査 によ って北室院内や福生院 内から,東院伽 藍 の方位 に一致 す る掘 立柱建物 を検 出 した ことは,東
院伽 藍 の北辺部 にゴヒ室 院 のほ とん どを合 めねば な らない こ と
,西
辺部 に福 生院 も含 まれ る こ とが明 らか となった。時期 につ いては確 定 で きない が
,82‑2‑Ⅲ
トレ ンチで小石 を多量 に混 えた小土羨 を数 基検 出 し,埋
土 か ら施細 陶器片 が出土 してい る。 また,同
トレ ンチ内 では直径10cm程 度 の 小 穴群 を検 出 してい る。 これ らの遺構 の性格 を解 明 してい くこ とも今後 必要 なことで あ る。以上 の よ うに
,
この東院地 区 では,北
室 院 では東院伽藍 に伴 う雑舎,回
廊 内では,斑
鳩 宮 を区画 す る素掘 り大溝 を検 出 で き,戦
前 の調査 で判 明 していた夢殿 に向 う参道 な ど東院 関係 の遺構 を再検 出 した。 また,旧
地形 の復原 か ら,東
院 の造営 に関す る新 た な知見 が えられ るな ど
,東
院 の歴 史 を考 えるにあた って貴重 な資料 を提供 す ることになった。第52図
礼 堂北狽1の小 穴群
3.中
間 地 区 の調 査西院 と東院 をつ な ぐ参道 をは さんで
,北
は律学院,宗
源寺,福
園院,福
生院の子院周周辺 と
,南
は聖徳会館東口か ら東大門 までに新たに導水管 が埋 設 され るため,そ
のルー ト前 に沿 って発掘調査 を行 なった。この地域 を中間地区 とし,耳ヒを律学院・宗源寺周辺地区
,福
園院周辺地区,福
生院周辺地区の
3つ
の地区 に分 け,南
は正覚寺跡地区,羅
漢堂周辺地区,聖
徳会館】し辺地区の3つ
の地区に分 け,計 6地
区の概要 を述べ る。A
律学院・宗源寺周辺地区の調査1 7‑Iト
レンチ河川跡 (S D 1001)、 南北溝 (S D 1006)、 東西濤 (S D 1092・ 1003
・1005)、 築地基礎 (S A 1004・ 1009)を検出 した。
S D 1001 トレンチ南端部 と北拡張区で東肩の一部 を検出 した。西肩 は発掘区外のために 濤幅の確認 はで きなかったが
, 7‑Iト
レンチは南北海 を縦断 した形 となる。濤埋土は, 上層 から暗茶褐色土,暗
茶灰色土,黄
灰色砂質土,砂
礫層である。上層 か らは,中
近世の 器 。瓦類 が出土 したが,最
下層 からは古墳時代の土師器高杯 と7世
紀代の上師器・須恵器 が出土 した。後述 (11‑Ⅱ トレンチ)す
るが,こ
の河川は近世初頭 まで機能 していたと考 えられ る。 また聖徳会館建設予定地 の事前発掘調査 (1959年)に
おいて,旧
福園院跡 の西 の築地塀 (東大門 を南 に折 れる道路の東土塀)か
ら東へ15〜18m地
点 を,南
耳ヒ方向の旧 川床 (幅約4m)が
検 出 されている。飛鳥時代 か ら平安後期 にかけての遺構 であると報告されている事 から
,今
回検 出 したS D 1001はこの延長であると考 える。S D 1006 地表下約
lmで
検 出 され,
トレンチの北半部 におよぶ濤 (幅約0.5m,深
さ約0.3m)で
ある。トレンチ内で約
10m検
出 した。 さらに発掘区外の南北 に延 びる。濤の肩 は 垂直で,埋
土 か らは近世瓦片,磁
器片 が出土 した。S D 1005。 1002・ 1003 S D 1005は東西濤 (幅1.2〜
1.5m,深
さ約0。3m)で
室町時代の土 器 が出土 した。S D 1002・ 1003も 室町時代の土釜 。瓦が出土す る濤 で ある。S A 1004・ 1009 S A 1004は東西方向の石積の築地基礎 (幅
0,7m)で
ある。】ヒ辺 に幅約0.3mの
雨落濤 を伴 う。 また,
さらに北へ5mの
所で,
トレンチの東壁 にわずかにその痕跡 を とどめるS A 1009を 検出 した。S A 1004は江戸古地図 (寛政9年 )に
よれば,発
志院 と福 生院 との境界築地 の可能性 があ り, S A 1009は子院の移動 による築替 と推定 される。 この2条
の築地基礎 の前後関係 は,土
層観察 によってS A 1004が先行す る事 が半」明 したが,詳
細 は不明である。
‖
7‑Ⅱ
・V・ Ⅵ トレンチ南北海 (S D 1008)、 近世の井戸 (S E 1016), 近世の池 (S G 1010),築 地基礎 (S A 1017),その他大小の土壊 (1014・
1021)を
数個検 出 した。S D 1008 幅
0.6m,深
さ0.2mで 7世
紀初頭の須恵器壺完形品が出土 した。7‑Vト
レン チでは西肩の一部 を検出 したが,後
世の攪乱 を受 けてお り東肩 は検出 し得 なかった。第53図
律学院北の南北 トレンチ(南か ら)
第54図
律学院北 の東西 トレンチ(西か ら)
日 H H H H H H H U 日 H
= H H 川 H H Ц
▲ O x︲ S S 亜 受
︺
f 一い0
∞目
+
傷宮55図
律学院】ヒ地区の遺構 図
:鷺 砲 義
,―
― 載 導
石列SX10 61と井戸1065(北から
) 2
井戸1065(西北 から) 3
南北海 SD 1051(東 か ら)池 SG 1010と 上壊 SK 1014(南 から
) 5
石積遺構 SX 1025(西 南から) 6
石組S X 1090(北から)第
56図中間地区
0し)の遺構
S K 1014 濤中央 を中世の柱穴 に切 られ また耳とが土壌 による攪乱 を受 けている。 しか し南 の一部 か らは
7世
糸己中頃の遺物 が出土 している。S K 1021 7世
紀中頃の単弁10弁軒 丸瓦,須
恵器平瓶,土
師器杯 などが出土 した小土壊 で あるが性格 は明 らかでない。S E 1016 中世以降の土器や瓦類 が出土す る井戸 (直径
1.8m,深
さ1.5m)で
ある。S A 1017 南北方向の築地基礎 (幅約
lm)で
ある。北半分は攪乱 を受 けている。S G 1010 幅
0.5mの
石積 濤 に備 前焼の大甕2個
を組み込 んだ泉池 と思 われる遺構 である。石積 は階段状 に二段 に組 み
,下
段 に大甕 を組み込 んでいる。大甕 は一方の甕 の底 を穿 ち, そこに他方の口縁 をはめ込 み,横
に した状態であった。大甕 を組 み込 んだ後 に,甕
の両側 に石積 を施 している。江戸時代初期 の遺構 である。Ⅲ
7‑Ⅲ
トレンチトレンチ西端 から, S D 1008・ 1014の検出面 とよ く似 た赤褐色の 硬 い砂質土 があらわれ
,南
東 にむかって さがる。 この面 か らは7世
紀 の遺物 のみが出土 している。
S D 1022 トレンチ東端 で検出 した南北濤。東肩 を検出 したのみで
,濤
幅はわからない。埋土 からは
,五
重塔倉J建時の軒平瓦 が出土 した。S X 1020 トレンチ束端 で検出 した石列。濤 に伴 う遺構 ではな く, S D 1022を埋 め
,整
地十 審ユ中゛
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∽蚕
II︲XIとい一〇やコΦ∞0
︱I XI 示 一 0画 刊
〇
〇〇
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宗源 寺・福 園院周辺地 区 の遺構 図
8, 0808萬Tィ十 十目o卜∞罷〒主
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︲ を 十
g
鼠Ъ∞〇卜∞﹇封>
一
<
した後 に土留 め として築 いた もののよ うである。
iv 7‑Ⅳ
トレンチ中央部 で幅
3.6mの
池 (S G 1023)を検 出 した。検出面の両岸 は瓦 器 を含 む暗褐色粘質土である。v 8‑Ⅱ
トレンチ2時
期 にわたる池 (S G 1050)の西肩 を検出 した。前期 の池 は ト レンチ東端 か ら約8mの
ところで汀線 を検 出 し,後
期 の池 は2.5mの
ところで検出 した。後 期の池 の岸 には本杭3本
が打 ち込 まれていた。出土遺物 か らみて,い
ずれの時期 の池 も中 世以降 に設け られた池 である。v1 9‑I・
Ⅱ・ Ⅲ トレンチ池 (S G 1024)と 石積遺構 (S X 1025)を 検出 した。
S G04 9‑Ⅲ
トレンチの中央部で南端 を検出 し埋土から中世の羽釜・土師器・瓦片が出 土 した。池底の黒色粘土からは人の側面形 をかた どった木器が羽釜 と共 に出土 した。S X02 9‑Ⅱ
トレンチ中央で検出 した南面す る石積で5段
組みである。おそらく律学院 と宗源寺 を結ぶ施設 と考 えられる。十
││
選奎
caP第58図
福生院周辺地 区の遺構 図
IIxljS絣ooo
︱ l x l 工 さ 巳 6 o oo
所 耳 b6
44
Y‑23729800
+
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│
+矛
b3998側0D 5 10m Y23749000
│
+X‑1田 997000
X‑154000 ooO+
B
福 園院周辺地区の調査i 8‑Ⅳ
・Vト レンチ8‑Vト
レンチ を境 に再 び地 山面 が高 くなっている。 トレン チ西端 では地表下0,7mが
地 山面であるのに対 し,東
端 ではわずか0.2mで
ある。西端 か ら, 奈良時代の須恵器 を伴 った南北濤S D 1051(幅1.2m,深
さ8〜
16cm)を検出 した。 したが って,奈
良時代 には この地形 だった と考 えられる。 この溝 を除 いて,東
は8‑Ⅳ
トレンチ を含めてすべて中・近世の遺構 であった。‖
9‑Ⅳ
トレンチトレンチ北部 で子院関係の追構 を多 く検 出 した。石列 (S X 1061) 暗渠 (S D 1062),井戸 (S E 1065),土竣 (S K 1060)等である。
S X 1061 北面す る東西方向の石列である。 この石列 を境 に北 と南 とで
0.3mの
高低差 が あるため,擁
壁 としての石列 と考 えられる。石列の最下層 (地山直上)で
は,直
径20cm程 の不定形 な小穴2基
(S K1071・ 1072)を検出 した。 さらに上層 は木炭 を多量 に含んだ厚 さ 15cmの焼土層である。石列 はこの焼土層 に据 え付 け られていた。石列の耳し,約 6m間
はとくに低 く
,土
墳 (S K 1060)と なる。S D 1062 瓦・石 を詰めた暗渠である。
S E 1065 方形 の井戸
(1辺 2m)で
ある。底 まで完掘 していないが,深
さ1.4mで
あ る事 を確認 した。土師器・土釜・す り鉢 ・∽磁 器・瓦等 が多量 に出土 した。 いずれも14世糸己 後半 か ら15世紀前半の ものであった。
S K 1060 石列の北 の大土渡 で
,土
師皿・土釜・陶磁器 を含 む15世糸己後半の土竣。S K 1064 S E02の 10cm西側 で検出 した備前焼 の大甕 を埋 めた土装 である。甕 は底部50cm を地 山面 に据 え付 け
,半
分 は地表 に出ていたもの と思 われる。復元す ると高 さ92cm,日
径59cm,胴
のは り出 し部分74釦になる。肩部 から胴部 にかけて「二石入」 と「斗」のヘ ラ書 きがある。慶長年間の甕 である。 したがってS E 1062と は直接関連す るものではない。
享禄頃 には
, 9‑Ⅳ
トレンチの位置は中東住院 と西東住院の境 にあたると指定 されてい る。 ともに享禄2年
(1529)以前 に造立 された事 が明 らかにされているため,遺
物 との関 連 を考 えても,い
ずれかの子院で あると考 えられる。C
福生院周辺地区の調査1 8‑Ⅲ
トレンチ福生院裏 に設定 した
8‑Ⅲ
トレンチでは,土
壊,柱
穴等 を検出 し たがすべて中・近世 の追構 であった。中世の遺構 は賢聖院関係の もので,近
世の遺構 は東 住院関係の ものである。‖
9‑Vト
レンチ8‑Ⅲ
トレンチの東端 か ら南へ設定 した。S B 1091 地 山面で検 出 した堀立柱穴。東西1間分
,南
北2間分で発掘区外へ延 びる。掘 り形 は長方形 (0.8×lm)で
ある。方眼北 を基準 にす ると,北
で西へ14度振 れる。東院倉」建時の遺構 に関連す る柱列 と考 えられるが遺物 は出土 しなかった。
蓮光院地蔵堂跡
同 トレンチ南部 で蓮光院の地蔵堂跡 を検出 した (1100)。蓮光院は文献 に 46
第59図
掘立柱建物
SB 1091(】ヒから) i華
幾
第60図
旧蓮光院地蔵
堂基壇(北か ら)
よると元弘二年 (1332年
)に
すでに記載 されているため造立はそれ以前 になる。堂の記録 は「宝形造二間四面屋根瓦葺高三間二尺」 とある。検出範囲は
,東
西南北各4m北
辺 では東西方向の石列 と,礎
石 と思 われる平石 が二個 出 土 した。石 の間隔は1.4mで
ある。さらに南 に底部 を上面 にした埋甕(S K H02)が出土 した。西面の中間 にあた る場所である。地鎮のための埋納施設であろ うか。16世ネ己の ものである。
基壇築成上の黄褐色粘土 も残存 していた。 さらに下層では
,焼
土・木炭 まじりの13世糸己の遺物 を含 む暗灰褐色粘土 が検出 された。
D
正党寺跡地区の調査i 82‑1‑Ⅳ
トレンチ聖徳会館 の東 日
,旧
善住院南の正覚寺跡 にあたる。正覚寺 は 江戸初期 から明治3年
頃 まで続 いた子院で,検
出 した遺構 はほとん ど近世の ものであった。SE■ 11
トレンチ中央部 で検 出 した石積井戸。井戸掘 り形 が直径4mと
い う大 きなもの に対 して井戸の積石 の直径 はわずか0,8mに
す ぎない。積石 は下方4段
分 が残存 していた。S GH12 SEH■
の西lmの
ところで池の東肩 を検出。 これは トレンチ西端 で検出 した 石積池(S Gll13)の
一時期前の肩 であると推定 される。江戸時代の池である。S G ll13 方形
(1辺 2.2m,深
さ約lm)の
池 である。上段 に軒 九・軒平瓦 を多 く用い瓦 の固定 に割竹 を数段重 ね木杭 を等間隔 に打 ち込 んでいる。下段 は縦10cm,横
30cm大の切石 や割石 を用いている。 この石積 は北辺 か ら積み上 げている。漆塗木箱,本
簡等 が出土 した。なお,『寺院々屋敷反別坪割張』(1870年
)に
は,善
住院の付属 として本堂及び門が記 され ているが今回の発掘調査 では検出 されなかった。E
羅漢堂周辺地区の調査i ll―
Iト レンチ濤 (S D l131),井戸 (S E l132),土壊 (S K l134,1135),掘 立柱 塀 (S A l133)を 検出 した。
S D l131 地 山面で検出 した庄内式土器 を伴 う川床。川幅 は約
1.5mあ
る。南北方向から東 西方向へ曲 がるコーナー部分 と考 えると,10‑Ⅵ
トレンチで検出 した庄 内式土器 を伴 う川はこの延長である事 も予想 される。
S E l132 トレンチ西部 で検 出 した石積井戸南半分で直径0。8m。 掘形 は
1.6mに
復原で き る。井戸中央部 に息抜 きの竹 力沫Uし込 まれていた。上層埋土 か ら滑石製品が1点出土 した。S A l133 トレンチ中央部 で検 出 した柱魚
3間
分である。江戸時代の掘立柱塀。S K l134 S El132に 先行す る土壊 である。トレンチ内で東西
3mで
ある。這物 は土師器皿・瓦器等の13世糸己後期 の ものを出土 している。
S K l135 トレンチ】ヒ東 コーナー部 で検出 した。埋土 か ら中国製の輸入壷片 が出土 した。
F
聖徳会館北辺地区の調査i 81‑11‑Ⅱ
トレンチ河川 (S D l151),斜行濤 (S D l152),石積遺構 (S X l153) 築地基礎 (S A l154),井戸 (S E H55),池 (S G l156。
1157)及
び多数の小土竣 を検 出。S D l151 7‑Iト
レンチで検 出 した川床跡 (S D 1001)の南の延長部分であ り,ま
た1959年に調査 された川床 に近接 している。検 出 した川床跡 は非常 に複雑 な層位 を成 してお り, 少 な くとも
4時
期 の流路 があったもの と考 えられる。縞状 の茶褐色粗砂 カヨ││の東肩 となっ てお り,東
肩部分 か ら順次新 しい流路 がおお う, どの流 れも須恵器 と瓦器が出土す る。 ま第61図
池 SG ll13(西 から) 第62図
羅漢堂地区の遺構(西から)
た当 トレンチで も川の西肩 は発掘区外 にな り検出で きなかった。
トレンチ内での川の範囲 は
8m,深
さは0.3〜0.5mで
ある。なお,第2流
路の黄灰色砂礫層 か ら忍冬弁文軒丸瓦1点 と瓦器が出土 した。S D l152 トレンチ南西で検出 した南北濤 (幅
1.6m,深
さ0,9m)で ,
トレンチ南西壁で 板状材が出土 した。西肩 に本材の一端 を架 け,延
長は トレンチ壁中 に延 びる。円形の本材 を半我 した転用材 と考 えられる。埋上の暗掲色粘質土中から室町 時代の平瓦1点の平安時 代の須恵器片1点が出土 した。S X l153 不定形 の石積 でやや方形 に近 い。下方
3段
を検出 した。遺物 は瓦器・土師器皿 を含む鎌倉時代の もの を出土 している。S A l154 土塀基礎 (幅
lm)で
ある。東側 には暗渠 を伴 っている。 これは旧中道院 と旧 法花院 との境界の土塀 と考 えられる。 さらに東方4.2mで
は建物 基壇 と思 われる西面す る 石列 を検出 した。下層 は室町時代の火鉢 を含む,焼
土・炭 など一切含 まない硬 い層で ある。S E H55
平瓦 を立て円形 に囲んだ井戸 (直径25cm)で
ある。周囲 には石列,瓦
敷 を施 す。S G l156・ 1157 S G l156は S G l157の一時期前の池の西肩 で