TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)
注
1) さっぽろ産業ポータル 2012年5月取材 http://www.sec.jp/genki/?p=7672 (2018年5月9日閲覧)
2) VERSION2 HP https://ver2.jp/ (2018年5月9日閲覧)
付記
本研究は科学研究費(16K13237「OJADと総合日本語教科書を用いた体系的な音声指導法の 確立」)の助成を受けた。
参考文献
平野(伊達)宏子・渋谷博子・清水由貴子・大西昭夫2017「教室外学習用web 教材の作成と配信―IT 知 識・時間がない教師のLMS 利用と協働―」『日本語教育方法研究会誌』 23-Vol.2,pp.84-85.
鈴木智美・清水由貴子・渋谷博子・中村彰・藤村知子2018「予備教育課程の国費学部留学生の学習ツール 使用状況―2016~2017年度実施のアンケート調査結果から見えるスマートフォンアプリの使用目的 の多様化と学習スタイルの変化―」『東京外国語大学留学生日本語教育センター論集』44.pp.195-217.
伊達宏子・伊東克洋・渋谷博子・藤村知子2018「予備教育における理工系専門科目語彙の音声韻律情報付 き補助教材の開発」『2018年度日本語教育学会春季大会予稿集』pp.231-236.
三浦香苗・岡澤孝雄・深澤のぞみ・ヒルマン小林恭子2006『アカデミックプレゼンテーション入門』ひつ じ書房
生命としての美――谷崎潤一郎初期作品をめぐって Beauty as Life ―― On Jun-ichiro Tanizaki’s Early Works
柴田 勝二 SHIBATA Shoji
東京外国語大学国際日本学研究院 Institute of Japan Studies, Tokyo University of Foreign Studies
一 刷新される生 二 刺青の美学
三 フェティッシュとしての足 四 「美しい者」の内実 五 自然としての悪 六 閉鎖的状況と江戸時代
キーワード:生の刷新 美 刺青 フット・フェティシズム Keywords:renovation of life, beauty, tatoo, foot feticism
【要旨】
谷崎潤一郎は美を主題とし、とくに女性の美への執着を多くの作品に描き出した作家として 眺められがちである。『刺青』『少年』といった作品を送り出した出発時においてすでにそう した評価を得ているが、むしろ谷崎文学を底流するものは自然と連携する生命の力であり、彼 が執着した女性の美も、それによって支えられることではじめて真の価値が与えられる。
処女作の『刺青』はその一つの典型として捉えられる。主人公の清吉は彫り物師で、長年理 想の刺青を施すべき美女を捜しているが、彼がその対象とすることになる女を見出したのは、
顔ではなくその足に引きつけられることによってであった。ここには谷崎文学にしばしば姿を 現すフット・フェティシズムが見られるが、そこにはフロイトが述べるような去勢否認という よりも、自然界の事物に神的な生命の顕現を捉える、より普遍的なフェティシズムの心性がう ごめいている。
こうした生命への渇望の起点にあるものは、それを裏返した生命の枯渇である。自伝的作品
本稿の著作権は著者が所持し、クリエイティブ・コモンズ表示 4.0 国際ライセンス(CC-BY) 下に提供します。
https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja
Beauty as Life――On Jun-ichiro Tanizaki’s Early Works : SHIBATA Shoji
で描かれるように、谷崎自身『刺青』によって出発する前は自己認知を受けられないもどかし さのなかで衰弱した生を送っていた。また同時に明治末年にあたる当時は、大逆事件などによ って国家からの抑圧を人々が感じつつ生きていた時代でもある。この自身と社会を覆っていた 生命の衰弱を反転させた地点に、初期作品の世界が成り立っている。
Summary
Tanizaki Junichiro tends to be regarded as an author who was strongly attracted to women’s beauty and described it variously as the main subject. But what underlies Tanizaki’s literature is rather the power of life that can cooperate with nature, and women’s beauty he adheres is given its true value when it is supported by it.
Tanizaki’s first work "Shisei" can be regarded as one of typical examples. Seikichi, the hero, is an engraving master who has been looking for a beautiful woman whom he should give an ideal tattoo for many years. However, the criterion by which he finds a target woman is the beauty of the foot, not of the face. There is an expression of foot-fetishism which often appears in Tanizaki’s literature. What we can find there is not the denial of castration that Freud stated, but a more universal fetishism that captures the manifestation of divine life in the things of nature.
What lies at the starting point of such craving for life is its depletion. As depicted by autobiographical works, Tanizaki himself was living a debilitating life being frustrated for he could not get the recognition as an author before departing by "Shisei". At the same time, the period when Tanizaki started to write novels was the time when people were feeling repression from the state due to the High Treason Incident, etc. In such a period when the weakness was covering both the author and the society, the world of Tanizaki’s early works is realized as the antagonism against it.
TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)
で描かれるように、谷崎自身『刺青』によって出発する前は自己認知を受けられないもどかし さのなかで衰弱した生を送っていた。また同時に明治末年にあたる当時は、大逆事件などによ って国家からの抑圧を人々が感じつつ生きていた時代でもある。この自身と社会を覆っていた 生命の衰弱を反転させた地点に、初期作品の世界が成り立っている。
Summary
Tanizaki Junichiro tends to be regarded as an author who was strongly attracted to women’s beauty and described it variously as the main subject. But what underlies Tanizaki’s literature is rather the power of life that can cooperate with nature, and women’s beauty he adheres is given its true value when it is supported by it.
Tanizaki’s first work "Shisei" can be regarded as one of typical examples. Seikichi, the hero, is an engraving master who has been looking for a beautiful woman whom he should give an ideal tattoo for many years. However, the criterion by which he finds a target woman is the beauty of the foot, not of the face. There is an expression of foot-fetishism which often appears in Tanizaki’s literature. What we can find there is not the denial of castration that Freud stated, but a more universal fetishism that captures the manifestation of divine life in the things of nature.
What lies at the starting point of such craving for life is its depletion. As depicted by autobiographical works, Tanizaki himself was living a debilitating life being frustrated for he could not get the recognition as an author before departing by "Shisei". At the same time, the period when Tanizaki started to write novels was the time when people were feeling repression from the state due to the High Treason Incident, etc. In such a period when the weakness was covering both the author and the society, the world of Tanizaki’s early works is realized as the antagonism against it.
ある。谷崎における脚ないし足への執着にも、こうした生命力への渇望
が垣間見られるのである。
(7)フロイト『フェティシズム』の引用は『エロス論集』(ちくま学芸文庫、
一九九七、原論文は一九二七)による。
(8)C・D・ブロス『フェティッシュ諸神の崇拝』(杉本隆司訳、法政大学
出版局、二〇〇八、原著は一七六〇)。なおフェティシズム全般への把
握については石塚正英『フェティシズムの思想圏』(世界書院、一九九
一)、田中雅一編『フェティシズム論の系譜と展望』(京都大学学術出
版会、二〇〇九)を参照した。
(9)Fritz Shultze, Feticism :A Contribution to Antholopology and the History of Religion
Translated by J. Fitzgerald (
, The Hunboldt Publishing. 原著の出版)
年は不詳だが、内容から一九世紀後半と判断される。なお前項の『フェ
ティシズムの思想圏』『フェティシズム論の系譜と展望』にはいずれも
同書への言及は見られない。ブロスやシュルツェの見解を取った場合、
樹木や岩、滝といった自然物に神性を見出す日本の神道はまぎれもなく
フェティシズムであることになる。むしろそうした捉え方が二〇世紀に
おいて低減していったことが、フェティシズムの概念を狭めることにな
ったともいえよう。
(
10陽第四十巻(春堂集、一九三三)』全)建『忠臣蔵後日前曲』は『日本戯、
『聞道女自来也』は『絵本稗史小説』第四集(博文館、一九一八)、『恋
衣縁初桜』は『日本戯曲全集』第二十七巻(春陽堂、一九三三)『増補
女鳴神』は常磐津の同書(坂川平士郎出版、一八九一)をそれぞれ参看
した。なお「女定九郎、女自雷也、女鳴神」を含む先行作品については、
塩崎文雄「〈テクスト評釈〉「刺青」」(『國文學』一九九三・一一)
における言及を参考にした。
(
11谷二一〇二、房蛙青(』郎一潤崎と)物千葉俊二は『語堂の法則岡本綺)
で、ある学生が調査した話として「まず一晩で背一面に刺青をほどこす
ことは不可能で、そんなことをしたら人間は死んでしまう」と述べ、ま
た専門家の証言として、背中だけ彫るのでも半年から一年を要するとい
う情報を紹介している。もちろん千葉が述べるように、谷崎はそうした
設定の非現実性を承知したうえで、作品の叙述をおこなっているはずで
ある。 (
12ても(』蛛蜘『郎一慎藤斎に主はい)性クモの持つ習やつ文化的意義にの
と人間の文化史
107〇たっ拠に)二〇二、、局版出学大政法。
(
1316晶著名の界世スクッバ公中、訳田)グ引用は『アウス山ティヌス』(、
一九七八)による。
(
14(バ公中、訳他博藤齋・作喜藤工』)ノ引用は『スピザツ・ライプニッッ
クス世界の名著
30、一九八〇)による。
(
15ロま。)〇八九一、社樹冬(』スエ)崎笠原伸夫『谷潤の一郎――宿命た
小泉浩一郎は「谷崎文学の思想――その近代天皇制批判をめぐって」
(『国語と国文学』二〇〇一・三)で、谷崎文学に基底に「近代天皇制
批判」があり、『刺青』の冒頭部の叙述における「「激しく軋み合」う
「今」とは、明らかに大逆事件の進行しつつある明治四十三年秋、、、、、、、でなけ
ればならない」と述べている。けれども『細雪』に登場するロシア人一
家に天皇への敬意を表させているように、谷崎には天皇制自体への批判
はない。谷崎がおこなおうとしているのは、あくまでもその体制のなか
で展開していった日本の近代社会における生の抑圧への抵抗である。
(
16の)〇三九一、店書波岩(』造構」)九周知のように鬼き周三は『「いに
おいて、主に遊里における男女関係を主眼としつつ、遊女との関係に愉
楽を得つつも相手との間に適度な距離を置いてそこにのめり込まない
均衡の感覚に「粋」の価値づけを与え、さらにはその感覚をすべからく
日本人の美意識一般に敷衍する議論を展開している。
谷崎作品の引用はすべて『谷崎潤一郎全集』(中央公論社、二〇一五~
一七)によっている。なおルビは現代仮名遣いで適宜施している。
Beauty as Life――On Jun-ichiro Tanizaki’s Early Works : SHIBATA Shoji
の女師匠に仕え、その美しさが失われるや自身も盲目にすることに躊
躇しないという、やはり愚かしいともいえる情念の主体を中心に描い
ていた。もちろんこうした愚かしさは近代を舞台とした『痴人の愛』
の語り手譲治のナオミへの愛着にも見られるといえるかもしれない。
けれども譲治はナオミに対して基本的に〈教育者〉の立場で関わろう
とするのであり、それが挫折していくこと反比例して彼女の魔的な魅
力に取り込まれていくのだった。そうした屈折は今挙げた諸作や『刺
青』の主人公たちには不在であり、その対比に谷崎が江戸という時代
に求めたものと、それを仮構しがたい時代としての近代に対する認識
を見ることができるのである。
〔註〕
(1)知られるように、荷風はこの批評で「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」
「全く都会的たる事」「文章の完全なる事」を挙げ、谷崎の資質を賞揚
している。中島国彦の「作家の誕生――荷風との邂逅」(『国文学』一
九八八・八)によれば、『刺青』を収載した明治四四年(一九一一)一
二月に籾山書店より刊行された作品集『刺青』の表題は当初「少年」で
あったが、『刺青』を絶賛する荷風の批評を受けて刊行を遅らせ、この
表題に改められたという。千葉俊二は作品集『刺青』が戯曲の『象』『信
西』を含んでいることが、集全体の印象を雑多なものにしていると述べ
ている(「作品集『刺青』」『国文学解釈と鑑賞』一九八三・六)。
それはこの二作が「谷崎文学を谷崎文学たらしめたところの官能の発見
がない」からだとされるが、千葉がいう「強烈な色彩と感覚」を内実と
する「官能」が谷崎文学の特質であるとは必ずしもいえない。広南国(ベ
トナム)から献じられた象に人びとが好奇の眼を向けて騒ぎ立てる様子
を描いた『象』では、自然の生命の量感に対する感嘆が基底をなし、ま た平治の乱の際に地中に隠れて生き延びようとした信西を描く『信西』
は、自身の生への執着を主題として提示している。いずれもここで眺め
たように〈生命〉への憧憬や執着が機軸となっており、むしろ『刺青』
などに顕著な「官能」への傾斜を底流するものを浮かび上がらせている
といえるのである。
(2)野口武彦「『刺青』論――谷崎潤一郎の始発をめぐって」(『現代文学
講座8明治の文学Ⅲ』至文堂、一九七五)。単行本の『谷崎潤一郎論』
(中央公論社、一九七三)を含めて、野口の谷崎観においては、「美し
い強者」が躊躇なく弱者を踏みにじる「悪」への志向がその起点をなす
とされる。
(3)笹淵友一「「刺青」論」(岡崎義恵・島田謹二編『日本文学と英文学』
教育出版センター、一九七三)。
(4)『嬉遊笑覧』の引用は岩波文庫『嬉遊笑覧』(一、長谷川強他校訂、二
〇〇二)による。
(5)『日本社会事彙』の参照は細江光「『象』・『刺青』の典拠について」
(『甲南国文』
39よ性史歴の青刺おな。るに集唆示の)三・二九九一、、
社会性については『日本社会事彙』のほかに松田修『日本刺青論』(前
出)によった。
(6)こうした、美に執着するように見えながら実はその主体がはらんでいる
生命力に強い憧憬を覚える心性は三島由紀夫にもあるもので、とくに初
期の代表作である『仮面の告白』(河出書房、一九四九)にはそれが典
型的な形で認められる。語り手の「私」は一見美しい同性に惹かれるよ
うに見えながら、彼が本当に惹かれているのはしたたかな生命力をはら
んだ人間であり、落第を繰り返す年上の同級生である近江に「私」が惹
かれたのもそうした彼の輪郭ゆえであった。とくに彼が鉄棒で懸垂をす
る場面では、「私」は彼の「生命力、ただ生命力の無益な夥しさ」に瞠
目させられながらも、同時にそれを欠如させた我が身を振り返ることで
強い「嫉妬」を覚えさせられる。そして「私」が幼年期の「最初の記憶」
として語っている「汚穢屋」に魅了されるのも、彼が「大地の象徴」と
しての「糞尿」を容れた肥桶を担ぎながら力強く地面を「踏みわけ」て
進んでいく姿によってであったが、地面を踏みしめる彼の脚はその身体
がはらむ力の収斂地点であると同時に、大地の生命を汲み取る部位でも