24 FIELDPLUS 2014 01 no.11 山口さんは、人型の彫 像をたくさんスケッチ した。私の知る限り、
これらは大体50セン チくらいの素朴な容姿 の立像である。彫像自 体は男女の別のはっき りした裸体。衣服のよ うに布がまかれている こともある。それぞれ に名前がついていて、
村人に尋ねると、たい ていの場合「祖先」と 答える。
リオ語でニピテイ(nipi tei)といわれる「夢見」は幻視のような もの。それによって、家づくり、彫刻、病気治しなどの神秘的 な能力や知が与えられる。誰でも「夢見」をするものだといわ れるが、多くの人に信頼を得て、定常的に依頼を受ける人は、
「夢見人」と呼ばれる。ハニスさんの村の「夢見人」は、大学 卒の元村長だ。彼は、2006 年に等身大の祖先坐像を「夢見」
を通じて創り、自らが帰属する儀礼家屋のなかに安置している。
彼の儀礼家屋のなかに入るたびに、私はこの祖先像にびっくり させられる。山口さんなら、どんなスケッチをしただろう。ハ ニスさんの村の外側の小さな社に、山口さんが描いたような男 女一組の祖先立像が安置されていた。1983 年それらは忽然と 姿を消した。
ウルパダ集落
イ ン ド ネ シ ア
ジャカルタ
フローレス島
東ティモール ブル島 ディリ
リ ズ ム 、 視 覚 、 共 振
人類学の仕事には、詩性と哲学と思想が なくてはならない。山口昌男さんの仕事で 秀逸なのは、詩性、そのなかでも、リズ ム。彼の議論で重要なのは、線的につな がっていることでも、面的に広がっている ことでもない。宇宙空間のなかに撃たれる リズム。一点から、3次元、4次元、n次 元時空に響く、波動としてのリズム。異時 フローレス島は、山がちで風光明媚な島。
一年は、4月頃から11月頃までの長い乾季 と、短い雨季からなる。島のほぼ中央にあ る海抜1888メートルの霊峰の麓に、ウル パダは位置する。ここを拠点として、山口 さんは村から村へと歩いた。
空の相似性を照らし出す彼の仕事は、メタ ファーにも満ちている。
もう一つの特徴は、運動を捉える視覚の 卓越。山口さんのデッサンに如実に表れて いる。彼のデッサンは、決して説明的では ないし、「現実」を写し取るための写真の 代用でもない。今回編集部から送っていた だいた、東部インドネシア・フローレス島 の調査で描いた、儀礼家屋、彫像、浮彫な ど103枚のデッサンの写真を見て、どん なにわくわくしたことか。これまでも山口 さんは、その著作に、自分で描いたデッサ ンを載せてきた。しかし、生のデッサンは、
印刷されたものよりも、山口さんの目と手 の動き、息遣い、鼓動、身体の緩急を伝え てくれる。その地域の儀礼家屋、彫像、浮 彫は、「夢見」によって創られる。つまり デッサンを描くことは、それらを作った 人々の視覚や身体の動きに、そして「夢見」
にも共振しているのだ。その共振が、見て いる私にも伝わってくる。
イ ン ド ネ シ ア ・ フ ロ ー レ ス 島 で の フ ィ ー ル ド ワ ー ク
山口さんは、1975年の2月から10月ま で、フローレス島のリオ語を話す村々を 精力的に回ってフィールドワークをした。
43歳から44歳のことである。ブル島での 調査を政治的状況から断念し、東ティモー ルへと移動したが、様々な理由から、アメ リカ人人類学者にその地での調査を委ね、
フローレス中部に落ち着くことになった。
フィールドワークに同行したのは、道案 内、通訳、解説者、宿飯の提供者でもあっ たハニスさん。山口さんより少し年下であ る。ハニスさんは、山口さんとの出会いを、
以下のように語る。ハニスさんは、フロー レス島を横断する唯一の自動車道に面した 所に住んでいた。当時、車が通ることは今
山口昌男さんの仕
フィールドワーク事
青木恵理子
あおき えりこ / 龍谷大学
下のスケッチは、ダリヌア(dari nua 「村立ち番」)。書きこみに よると、細い竹がくくりつけられている竹筒の上に、卵とお米 のお供えが置いてあり、細い竹の先の方から大きな棘がぶら下 がっている。山河の悪い霊が村に侵入してくるのを防ぐ。
写真は、ハニスさんの村に設置されたダリヌア。山河の悪い霊 は、霧のように村に侵入してくるので、キデ(丸いお盆様のもの)
で扇ぎ返す。毎年新たに設置される。
(以下、スケッチはすべて山口昌男、写真は著者)
25 FIELDPLUS 2014 01 no.11 祖先儀礼祭司として話しているハニスさんは輝いている。
山口さんがフィールドワークをした時の祭司たちの多くは 物故者となった。
毎年私も年を取るけど、訪れるたびに少しずつ衰えがめだつハニ スさん。孫たちはハニスさんが大好き。古い歌やとんち話をねだ る。そのなかには、日本軍に教わった歌も混じる。
のように頻繁ではなかった。ある夜、家の 前の道で車が故障し、難儀していた。「も う夜だし、泊まっていきなされ」と声を掛 けた。その車の乗客が山口さんだった。聞 けば、日本から文化を調べにきたとのこ と。「ここら辺で、調べたらどうですか」
というハニスさんの誘いに応じて、山口さ んの調査は始まった。
私が、中川敏さんと一緒に、リオ語圏の 西側のエンデ語圏のズパドリ村で調査を始 めたのは、1979年8月。インドネシアへの 出発前に、ハニスさんに渡してほしいと山 口さんからお金を預かっていた。フィール ドワークを始めて間もなくお金は町に住む ハニスさんの親戚に手渡したが、ハニスさ ん本人に会う機会はなかった。翌年の8月、
ズパドリの逗留先の息子の妻の父親が亡く なり、ズパドリ村の人々と一緒に嫁取姻族 として、牛やら山羊やら引き連れて、リオ 語圏のウルパダ集落を訪れた。通夜の席で、
「何年か前にも、グチっていう日本人が来 ててなー」という話を聞き、期せずして、
ウルパダの東端に住むハニスさんを訪問す ることになった。突然の夜更けの訪問にも 関わらず、ハニスさんも家族も嬉しそうに 迎えてくれた。ご馳走してくれた、白菜の 炒め物と目玉焼きの美味しかったこと。
それを機に、ウルパダ周辺地域を時折訪 れるようになったが、私が本格的にリオ語 圏でフィールドワークをしたのは、1982 年から1984年にかけてのことである。や
がてハニスさんは、私にとっても重要な先 生になった。子育てで忙しかった80年代 後半から90年代後半までを除き、ほぼ毎 年ハニスさんを訪れているが、彼は折に触 れて、山口さんのことを懐かしそうに話 す。2013年8月は、訃報を携えての訪問 であった。高齢で衰えのめだつハニスさん を前に伝えあぐねていると、ハニスさんは なぜかいつもより頻繁に山口さんの思い出 話を語った。意を決して訃報を伝えると、
「可哀相に」と、ひとことぽっつり。
ハニスさんの思い出話は、山口さんの天 真爛漫ぶりを伝えてくれる。よく酒を飲 んだ、気前が良かった、坂を転げ落ちた、
怒った、昔来た日本兵みたいにインドネシ ア語の語順がひっくり返っていたけど気に しなかった、ハニスさんをはらはらさせた
……。1981年に帰国した時、山口さんに お会いし、ハニスさんたちの様子を伝え た。「ハニスさんの二人の奥さん、可愛い でしょ。一人くれって言ったんだけどね、
くれないんだ」と言い、おちゃめに笑った。
山口さんも、フローレスでのフィールド ワークをとても気に入っていたようだ。そ のデータを使って、リズムあふれる著作や 講演をいくつもものしている。それらは、
通常の意味で民族誌ではないが、山口文化 論全体をより魅力的にしている。
哲 学 、 思 想 、 渡 さ れ た バ ト ン 山口さんの哲学は、明快だ。知は愉しく
なければならない。知は、閉ざされた組織 によって育まれるのではなく、自由なネッ トワークを通じて相互に刺激し合わなけれ ばならない。そのような知は、閉塞した状 況を解放する。ヨーロッパ中世のワンダリ ング・スカラー(放浪する学者)や戦前日 本の在野の知識人・趣味人のありかたに、
その理想を見る。切り口は、構造論と文化 記号論。王権、政治、演劇、いじめ、神話、
儀礼など、分析領域は広範を極める。なか でもトリックスター論や道化論により、知 のあるべき姿を隠喩的に示した。知的対象 への博覧強記には感服する。瑞々しい好奇 心のなせる業としかいいようがない。
では、思想―目下の世界状況/社会問題 やフィールドワーク地の人たちへの人類学 者/調査者の関与についての思考や姿勢―
についてはどうだったのだろう。山口さん は、吉本隆明氏と本田勝一氏の批判をして いるが、思想の問題に答えていない。いじ めや暴力に関する彼の著作から、目下の状 況を引き起こす原理を深く思索することに 徹するのが研究者の使命であるという立場 をとっているのがわかる。現代日本の人類 学は、フィールドワーク地の人々に役だち 応答することに加え、目下の世界状況へと 俯瞰的な思想を発信することが必要なので はないだろうか。思想に関して山口さんが
「しなかったこと」と「したこと」は、現 代の人類学に関わる私たちに渡された、バ トンなのではないだろうか。
左の写真は、茅と竹を組み合わせて屋根を葺い た儀礼家屋。儀礼のために供儀される豚が横た えられている。この女性はこの家の主。この家 の裏にある簡素な家に暮らす彼女の兄が、何く れとなく彼女のサポートをする。家の前に並ぶ 祖先像は、彼が彫った。やはり「夢見」によっ て創ったとのこと。これらの祖先像は、山口さん がスケッチした祖先像の作風を引き継いでいる。
ここ数年頻繁に訪れる海外からの観光客に、貨 幣を対価として譲渡することを想定して創られ ているが、対価が大きいからか、「売買」とは言 わないからか、譲渡はほとんど起こっていない。
下のスケッチは、ヌアプウ(Nua Pu’u)という村の儀礼家屋だと 推測される。儀礼屋根を葺く材料 でもっとも多いのは茅であるが、
樹皮や竹やトタンでつくる場合も ある。この屋根は、半割にした竹 を組み合わせて葺かれている。