︻研究ノート︼
フリースの ﹃心理的人間学ハンドブック﹄について︵二︶
速 川 治 郎
︵三︶
一.われわれの精神生命の感覚的刺激について
感覚は︑変わりやすい精神活動へ新しい刺激を与える生命状態を意味する︒感性の事実解釈をするには感覚に戻
らなけれぽならない︒感性とは︑われわれの生命の活発な刺激への依存であり︑これは表象︑欲求︑行動に一様に
存在する︒精神の自己活動能力は感官によって働き始める︒感官は人間の本性上一部は外感︑一部は内感となって
いる︒外感は外から刺激されて認識したり︑快感を味わったり︑欲望を起こしたり︑努力したりするわれわれの理
性の受容力である︒が内感はわれわれの心のうちの精神活動によって刺激される受容力である︒だから内感の中に
数え入れられるものは︑自己認識の感覚的刺激であり︑意識であり︑精神内の欲求感を刺激して喜び︑悲しみをも
たらすものである︒
早稲田人文自然科学研究 第35号(Hl.3)
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外感は精神の受容力と解釈され︑身体上の器官とは解釈されていない︒例えば認識をする外感は身体の存在を前
提にしているが︑器官の刺激という一定の身体的制約の下でのみ︑外感は刺激されている︒聞くこと︑見ること
は︑われわれの理性の感覚的認識活動であり︑われわれの精神の受容力であり︑その感覚の面で活動すること︵し
かし耳︑眼ではない︶が外感と呼ばれる︒正にそれは欲求感︵何かをやりたい気持ち︶︑熱望となる︒例えば空腹︑
満腹の時︑精神は感覚の中に欲求感︑熱望を抱くようになる︒心︑衝動の受容力は︑外感と呼ばれるが︑舌あるい
は胃はそう呼ばれることはない︒
狭義の理性は認識における自己活動であり︑この活動による人間の認識は︑統一をもたらす必然的法則の下にあ
る︒われわれが物の存在を実際に表象するのは︑狭義の理性がその感性の中で︑一部は特定の状態となった身体に
より直観するという外感によって︑一部はわれわれのいろいろな精神活動を心の内から直観する精神的自己活動と
いう内感によって刺激されるからなのである︒
われわれの心情︑衝動の自己活動は︑精神生命の美しさを︑その美しさのために︑それらの好意の対象に︑ま
た︑それらの意志の究極的目的にする︒が心の欲求感︑感覚の中にある衝動の熱望もまた︑身体上の自己保存のあ
らゆる制約によって︑一部は外感となり︑また心情運動の内的な興奮に駆り立てられることによって︑ ︵それとい
うのも︑われわれの生命活動を高めたり促進させたりする価値をわれわれが心︑衝動に与えるからである︶一部は
内感となる︒
われわれのすべての努力と言われている自己活動は有意の活動力である︒この活動力に属する感覚的な始まりと
いう生まれつきの力︑内面的には才能内にあるカ︑外面的には体力内にある力︑こういう力は下位の思考運動とい
フリースの『心理的人間学ハンドブック』について(二)
う習熟した力から区別されなければならないし︑また思慮深い力︑つまり上位の思考運動内の分別ある決意からも
区別されなければならない︒活動力の刺激が心の内側からの感覚的なものである場合︑その刺激は心情運動︑例・兄
ば感覚により決定される怒り︑驚きによる刺激である︒ただし感覚による決定が慎重な思慮に基づく決定に対立す
るのは言をまたない︒心の外側からの刺激には身体の生命運動によるものがあり︑これは段々に有意的な随意筋運
動へと移行するのである︒われわれの身体の運動はわれわれの意志から出て来るものであり︑例えば視覚の有意的
運動︑呼吸の半有意的運動︑心拍の非有意的運動がある︒ここで言っているフリースの意志は特定のことをしょう
とする積極的な心組みではなく︑本能的に生きようとする気持ちであるので︑その限りでの生きる意志と言えよ
う︒彼は更に思考運動の脈拍なるものを述べている︒それは︑あるときは速く︑あるときはゆっくり進み︑また︑あ
るときは︑弱々しく︑また︑あるときは︑力強く進むと言うのである︒彼の言うことは分かるが︑脈拍︵用巳Nωoげ冨αq︶
という語は︑現在では奇異な感をわれわれに与えるであろう︒
二.下位の思考運動
記憶法則︑非有意的連合法則によれば︑多くの感覚的刺激から出て来る習慣は︑生命活動が進展するにつれて︑
また能力が発展するにつれて︑われわれの生命の内的な︵心の中の︶内容を︑次のようなわれわれの生命の領域に
変える︑すなわち︑それは︑想像という名称に︑あるいは感官と悟性との間の構想力という名称になる生命の領域
である︒この領域が下位の思考運動の統一態になるのである︒
構想力という語は差し当たり表象に関係し︑構想は現存しない対象についての直観的表象を意味する︒これだけ
では不十分である︒色々な表象から見ると構想の生産能力と再生産能力が区別されるが︑思い出︑期待は以前の表
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象を繰り返すことによって生じるのに対して︑夢︑詩作における構想はしぼしぼあらゆる現実から離れてしまう︒
先の区別を正確に見るならぽ︑真の生産能力は数学的な構想力の結合にのみあるということが言える︒この構想力
は量︑体系秩序のみを変えることができるが︑しかし︑すべての意味内容をその思い出から取り上げるのである︒
思い出という生産能力から取り上げる意味内容であるから︑ここには再生産的構想力のみが必要である︒そして︑
これは連合法則によって出て来る︒が連合︑すなわち︑精神連合は表象にかかわるだけでなく︑内的生命全体にか
かわるのである︒従って︑構想力も︑単なる表象能力であるのではなく︑夢︑詩作すらも全く欲求︑熱望によって
支配されている︒こうして︑ここでは認識は記憶をしたり︑思い出をしたり︑類似した色々な場合を期待すること
によって︑予見を持ったりする︒また認識は夢︑詩作を伴った狭義の構想力を持つ︒心情運動が愛着︑激情へと発
展することは︑ここでは欲求感︑熱望に属している︒
最後に︑活動力の中には︑模倣する衝動があるように︑熟練︑熟達する訓練がある︒下位の思考運動の能力とし
ての一般的意味から言えば︑想像︑構想が特に理解されなければならない︒
三.上位の思考運動
上位の︑あるいは有意的な思考能力は悟性︑すなわち︑内的活動力に帰属する︒このものを通して人間の自己支
配が可能となるのである︒自己支配力は真に人間的なものであり︑このために人間は理性的生物と言われるのであ
る︒それもそのはずその力が感覚的刺激および直観︑構想︑欲求感︑熟練という下位の思考運動をとらえ︑これら
を︑われわれの生活の目的に従わせるからである︒
認識における熟考︵省察︑これは普通︑反省と訳されているもの︶︑思考は悟性に帰属する︒従って高次の自己
フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(二)
意識︑私が考えるということ︑および︑このことの訓練は︑明白な自己認識の一部である︒
心︑衝動に対して︑趣味︑良心は悟性に帰属する︒趣味︑良心は心情を形成する際に︑それらの必然的決定を気
分︑好みの上位に置く︒
悟性の上位の思考運動は下位の思考運動から離れず︑後者に対立せず︑むしろ後者を通して︑前者自身の目的に
達すべきである︒というのも︑前者が後者を支配し︑後者を訓練するからである︒
人間精神は行動する理性である︒が︑この場合︑悟性の中で自己認識と自己支配の結合︑意識と注意深さの結合
を認めることが重要である︒こうして﹁上位の思考運動﹂はa︑b︑Cの項に分かれている︒aは﹁自己認識と意
識﹂︑bは﹁注意深さと自己支配﹂︑cは﹁人闘形成化﹂となっている︒まずaの内容を見てみよう︒
意識は自己認識であり︑おれわれの認識の高次の段階である︒これが規定されるのは︑人間が認識することにな
っているということによってぽかりか︑人間が認識すること︑認識するものをもまた人間が認識することになって
いるということによってである︒精神活動は私の精神特有のものであるが︑しかし私は今自分を意識していない︑
すなわち私が精神活動を持っているということを︑私は自分の心の中に知覚していないならぽ︑精神活動は暗いと
言い︑これに対して私が精神活動を意識しているならば︑精神活動は明るいと言うのである︒承る学あるいは或る
言葉が存在すると私が気付くのは︑私がそれらを取り扱う瞬間瞬間にではなく︑私が仕事上それらをどうしても必
要とする時︑私がそれらを意識的に利用する場合にである︒このように大部分のわれわれの精神的な︑いわぽ蓄え
は精神の暗い内部にある︒
自己認識の能力の基盤に純粋自己意識︑すなわち私がいるということがある︒純粋自己意識は︑内感の内的感覚
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の中に感官直観を生み出し︑時間に伴った私のいろいろな活動の知覚を引き起こす︒そして純粋自己意識は後で内
的思考運動の法則に従った注意深さにより形成される︒この注意深さは︑下位の思考運動に従えば非有意的に︑上
位の思考運動に従えば有意的に︑悟性を通して働くのである︒
自己認識あるいは思慮深さの形成はあらゆる精神形成の基礎である︒その理由の一つとして考えられるのは︑思
慮深さによって人間は本当に自分自身の支配者となれるからである︒意識を支配する悟性の力は内奥の威力であ
り︑これによって人間は精神的に自分自身を捕らえているのである︒恐怖︑怒りがもたらす混乱は心情運動の事柄
であるが︑思慮深さは悟性の事柄である︒
人間が暗い自己感情を越えて明るい自己意識を高め︑より高い思慮深さに徐々に進んで行くということは︑直ち
に人間精神の進歩につながるのである︒
思慮深さ︑誠実という状態の中に自己を認識するということは︑人倫生活を送るための︑あらゆる精神を形成す
る場合の基礎である︒
われわれの自己認識の根本思想は純粋自己意識︑私の現存在の意識である︒現存在は﹁私はいる﹂ということに
よって表されるのであり︑そして現存在によって私は私を他でもないこの一人前人物として認識し︑このものに私
の精神活動が含まれるのである︒ただし︑人間精神の中にあるその意識は感覚的刺激がなければ生じないのであ
る︒感覚的意識はわれわれの自己認識の基礎であり︑その意識に内的知覚の地平が帰属する︑すなわち︑その意識
にわれわれが瞬間瞬間に概観でぎる多くの精神活動の範囲が帰属し︑その範囲の中でまたわれわれは個々のものに
注意を払うことができるのである︒ところで自己認識︑自己観察のこつが人間には必要である︒そのこつを自己支
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配する悟性が練習し︑省察能力が持ち︑また︑そのこつは思考と呼ばれるのである︒
b.﹁思慮深さと自己支配﹂ 内的な思慮深さの法則は次の通りである︒
1︑いわゆる心眼を︑われわれは︑あれこれの対象に向けることができる︒それというのも︑その対象が内的な
知覚の地平を越えた︑認識の高次の段階であり︑われわれの意識の前にあるか︑あるいは意識の前を通り過ぎるか
らである︒われわれがそのように注意を払うものは︑意識の前に生き生きとしてあり︑また意識によって把握され
るものである︒そこには注意深さの力の度合いがあり︑その度合いはフリースによって大きい緊張︑小さい緊張と
呼ばれている︒
注意深さはわれわれが精神を形成して行く場合︑支配力となる︒だから直観︑欲求︑熱望の中にある感覚的に強
いものは︑押さえ付けられ︑感覚的に弱いものが引き立てられるのである︒だが︑この場合︑前者から注意深さは
離れて行き︑後者は注意深さに捕らわれる︒
2︑しかし︑どんな法則に従って︑その注意深さというものは︑われわれの精神の中で引き起こされるのであろ
うか︒一般的には︑われわれが一定の表象あるいは精神活動の中に持っている関心によって引き起こされると答︑兄
られ得る︒日常的なものに対しては︑特に関心が出て来ることはない︑従って注意深さも生じない︒これに対して
新しいもの︑変化するもの︑対照をなすものに直面すれぽ表象運動は躍動し始め︑それらに対して関心を持つよう
になり︑注意深さが生じて来る︒
3︑・の・とに応じて︑非有意的注意深さと有意的注意深さがある︒前者はおのずから生じ︑保持されるもので飢
1
ある︒前者が見いだせるのは︑われわれが大きな楽しみ︑大きな関心︑大きな熱望を持った場合︑熟練︑熟達した場合にである︒この非有意的注意深さと並んで︑有意的注意深さがある︒これに︑われわれは慎重な決断によって
始めて達することができ︑また︑有意的注意深さを意志力によって保持するのである︒
4︑注意深さに一見すると対立する技法︑しかし注意深さと一緒に一つの源泉から出て来る技法がある︒それ
は︑有意的に︑意図的に送るものから目を離す︵或るものを捨象する︶技法︑或るものを有意的に顧慮せず︑忘れ
る技法である︒
一方では取るに足りないことが心情を支配したり︑他方では極めて重要な自己支配があったりする︒例えばそれ
自体たいしたことではないが︑固定した痛みというような取るに足りないものがある︒それは非有意的︵知らず知
らずの内︶に注意深さ︵大きな注意︶を絶えず引き起こさせ︑思慮深くさせないようにするが︑最後にはそれもで
きなくなる︒こういつた場合︑先の取るに足りないものは重要となって来る︒また表象︑欲求︑熱望から離れた自
己支配の力が心情運動を抑圧したり︑心の平安を得たりするのはいかに重要であることか︒このことは明らかであ
る︒ 5︑注意深さの欠如は心の散漫状態をもたらす︒注意深さを捨てない専心ということは散漫の反対である︒われ
われは或る表象に関心を持つ場合︑この関心によってその表象は生き生きして来るものである︒その関心は下位の
思考運動の法則︑上位の思考運動の法則に従って働く︒従って自然にわれわれを満足させたり︑習慣化させたりす
るならば︑下位の思考運動の中の非有意的な注意深さが生じるのであるが︑しかし︑この上では上位の思考運動の
中にある悟性の力が働く︒ただし︑悟性の力が働くのは︑悟性がその目的に従って或る表象に賛成したり︑反対し
たりする限り存在する分別のある悟性的関心を通してである︒こうして注意深さが持つ有意的緊張と表象を有意的
フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(二)
に︵意志をもって︶度外視することとは自己支配の上位の力に帰属する︒従って︑われわれは有意的な思慮深さ
を︑認識能力における上位の思考運動全体のいわば彫刻家と認めるようになるであろう︒
こうして自己認識はわれわれの精神生命の暗い内的なものから意識の明るい領域を取り出す︒この領域の中で
は︑外感が与える直接的明るさと︑注意深さに助けられて始めて与えられる悟性による明るさとは異なっている︒
内感に帰属するのは︑直観の領域であるが︑直観は見るという最も明らかな外感に依存している︒そして︑われわ
れはわれわれの心の中で直接に明らかなものすべてを直観的と呼ぶ︒これに対して悟性に帰属するのは思考であ
る︒ c.﹁人間形成化﹂ 悟性の自己意識的な自己支配によって︑人間から人間形成化︑完全化が生じる︒これは感
覚的発展の場合にあるばかりか︑精神の内部から出て来る自己形成の場合にもある︒人間の本性の作るものが人間
となるぽかりか︑人間の訓練が自己教育の際には︑部分的に人間自身の仕事となるのである︒だから人間は知識︑
洞察︑心情︑行為に従って多様に形成されるのである︒
更に人間形成化は成長して行く個々の人間に必要であり︑人間は思慮のある︵悟性的な︶自己支配によって隣人
の思考を承認し得るし︑思考伝達︵言語︶をも可能にする︒また精神形成は世代から世代へと受け継がれて行くの
である︒それというのも個々人は自分より前に生きた人の精神的遺産を引き継いで形成し続けることができるから
である︒こうして思慮のある︵悟性的な︶生活は開かれた公の生活になる︒思慮のある生活はばらばらになって個
々人に属しているのではなく︑むしろ民族︑人類に属しているのである︒言語統一と国民生活全体の統一とにおい
てのみ人知全体が動き︑成長するのである︒
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プリンスは﹁補遺︒心理学史および心理学文献﹂の中で︑ヘーゲルにほんの僅か触れている︒すなわち︑
ル弁証法の空しさ︑不明晰︑ぎこちなさはその努力を無駄にしてしまうとフリースは非難している︒ ヘーゲ
︵四︶
﹃心理的人間学ハンドブック﹄の第二節は﹁認識の支配下にある︑あるいは真理の理念下にある人間生命の思弁
的領域﹂であり︑その﹁序論﹂が書かれている︒それを述べてみよう︒認識は特種な根源的な精神活動であり︑他
の精神活動から導かれないものである︒どの認識も複合の精神活動である︒すなわち︑どの認識も或る対象の実在
の表象を含んでいる︒しかし表象は違う︒この表象の場合︑われわれは対象を表象するが︑その対象の実在を表象
しなくても構わないのである︒私が家を見たり︑鐘の音を聞いたりするならば︑それは認識であるが︑夢︑詩は表
象である︒そこには認識はないのである︒表象は認識よりも普遍的な名称である︒表象は一部は認識︑すなわち実
然的表象であり︵ここでは何かが主張される︶︑一部は蓋然的表象︵これは何も主張しない︶である︒
人間の認識は真理の法則の下にある︒すなわち︑認識は対象とこの対象の実在を表象すべきである︒対象が実際
に手前にあるがままに︒これに対して︑蓋然的表象は︑主張をしないので︑真理を要求しないのである︒これ以外
に︑人間の表象の中には間違った︑不当な表象もある︒これはもちろん主張をしているのであるが︑真理を持たな
いのである︒
われわれが人間の諸表象方法を精確に観察するならば︑それらすべての基礎に直接的な認識方法があるというこ
フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(二)
とが分かる︒この認識方法のところにある健全な理性は︑この理性の中には真理があるという期待を持っている︒
この期待はわれわれの認識する理性の感覚的刺激から直接的に展開される認識方法である︒こうして︑この認識方
法は︑われわれの経験による確信︑数学的および哲学的確信︑これらの確信の統合によって︑つまり人間の統合に
よって︑世界についての風景全体を含むのである︒
その確信は決して根拠に基づいているのではなくて︑その確信は︑われわれの精神生命の直接的な事実であり︑
この事実は理性の自己期待によってのみ通用するのである︒哲学の諸学派にはいろいろな考えがあるが︑しかし行
動する場合には︑健全な理性を持った人間は誰でも︑物が手前にあり︑この物をわれわれは健全な感覚でもって知
覚するということ︑そして他のすべての事柄も︑このことに則っているということ︑これらのことを前提にしてい
るのである︒
感覚の中に︑われわれのあらゆる認識の始まりがある︒ここでは物の実在を外感によってわれわれは知るのであ
り︑内感によってわれわれの生命を知るのである︒理性は変化する現象を認識の必然的な形式の下で把握し︑その
現象を物体の世界風景と精神の世界風景とにする︒感覚的現象をわれわれは知り︑物の真の本質をわれわれは信
じ︑そして真理感が現象を信じる意味をわれわれに予感させる︒そして︑われわれの理性の認識全体は知︑信︑予
感という三つの確信方法から形成されているのである︒
人間の認識の発展史︑継続形成史が思慮を持った︵悟性的︶生命になる︒その認識の最初の目標は学︵広義の科
学︶である︒学の独自の真理︑すなわち学自身の中で獲得される真理は︑生命ある人間が歴史に沿って訓練し︑獲
得しようとする最初の精神的︑思弁的な目標となる︒信から出て来る宗教的︑美的確信は学に結び付く︒この確信
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の中で趣味が働き︑詩作が行われ︑更に︑その確信は物の本質を美の理念に隷属させて表象するのである︒だが︑
それと共にその確信は心情の観照的訓練という目標に向かう︒
認識能力は感覚的に刺激され得る自己活動である︒あらゆる認識の場合︑理性は自己活動として現れる︒しかし
感覚の中では︑その理性は感性としてのみ現われるのである︒例えば聞いたり︑見たりすることは認識するという
精神活動であるが︑しかし︑われわれは感性的刺激の制約下にある感覚の状態においてのみその精神活動をする︒
これに対して︑われわれの認識活動の必然的な統一の中では︑認識能力は純粋理性として現れる︒この場合︑その
必然的統一を︑われわれはわれわれの精神的な有機体という単なる形式の中にあるわれわれの生命の内的制約を通
して︑所持するのである︒
こうして更に実然的認識と必然的認識という区別が出て来る︒前者は個々のものの現実態を経験︑感覚を通して
認識するのに対して︑後者は普遍的︑必然的な真理を認識する︒例えば︑すべての太陽︑すべての花を感官直感が
把握したり︑包括することはできない︒そのような全称をわれわれは考え得るだけである︒数学的真理の︑あるい
は倫理的真理の必然性も全称として考えられ得るだけである︒普遍的︑必然的形式下にある思考は純粋理性の形式
によって規定されているのである︒
この後で︑フリースは言う︒心理的人間学は意識の︑すなわち自己認識の学的形成を目指すものであると︒
第一章 外的な直観的認識
a.﹁外感一般﹂︒人間は︑感覚による認識の場合︑現にある個々の対象について︑感官直観を持つ︒すなわち
心情の場合には︑快︑不快を表す感性的感情があり︑植物的生命運動から有意的筋肉運動へ移行する際のわれわれ
フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(二)
の行為が提出する最初の刺激と知覚とが活動力の中にある︒外的な感覚は生命感覚と器官感覚に分けられる︒前者
の場合には︑快︑不快への影響が極めて強く︑後者の場合には︑感官直観が段々と現れるにつれ︑それが意識に段
々と明らかになって来るのである︒生命感覚に属すものとして︑例えば空腹︑喉の渇き︑これらを満たした場合の
満足感︑快活感︑無気力感︑欲情︑戦裸︑苦痛感覚等々がある︒
五感と認識の関係に注意しなければならない︒直接的知覚と関接的知覚の意味が区別される︒触感︑味感は対象
に直接触れるので︑直接的知覚であり︑嗅感︑聴感︑視感は対象から離れて知覚させる媒体を必要とする限り︑間
接的知覚である︒
認識への本質的な影響を感官と数学的直観との関係が持っている︒
味感︑嗅感は物体の化学的性質を吟味するために︑なるほど間接的に悟性に役立ち得るが︑しかし感覚は刺激さ
れる器官の状態から直接に分けられ得ないから︑その感覚は物体という対象の空間的構造を導き出すのではないの
である︒ 認識の本来的感官は触覚︑視覚︑聴覚である︒触覚は空間内にある物体の状態について最初の表象を与える︒触
覚は実践的感官である︒なんとなれぽ︑触覚によって︑われわれは外界へ作用する機構を持つからである︒ところ
が目︑耳は認識の理論的感官である︒目はどちらかというと宇宙的感官であり︑これに役立つものは光であるが︑
耳はどちらかというと地球的感官であり︑これに役立つものは空気である︒目は物体的感官であり︑われわれに物
体界を示し︑耳は精神的感官であり︑人間の精神界の感性的基礎を形成する︒フリースのこういう分析は単純化し
すぎる嫌いがある︒
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どの感覚も精神に属する全く内的なものである︒これに対して︑器官の刺激は外的な現象である︒先の内的なも 鵬のはこの外的なものに依存している︒器官そのものと器官が健全であることとが第一の制約であり︑これによって
外的な感覚がわれわれの表象の中へ入って行くのである︒器官の消失あるいは損傷によって︑すべての感覚は失わ
れるのである︒
対象を認識する感覚は︑強さの一定の度合いを持っており︑認識するには︑それがあまりに強くても︑また︑あ
まりに弱くてもいけないのである︒例えば︑あまりにも大きな音響は聞こえなくなってしまうし︑また︑あまりに
も明るい光は目を眩ませてしまう︒画家はどちらかというと近くが繊細に見えるし︑猟師はどちらかというと遠く
がよく見える︒音楽家は色々な音階を正確に区別できるし︑コックは微妙な味を正確に区別できるのである︒この
ように︑人間は自分の仕事を通して︑一定の感覚を鋭くすることができるのである︒
精神的には健全であるが︑或る一つの感官を失っている人はどうか︒例えば盲人は触覚により︑一定の本を読ん
だり︑計算をすることができるようになる︒盲人は様々な色を持った物体の表面を触れて分かる性質だけを知覚す
るのである︒だから例えば緑色は赤色と違って感じるということもあり得る︒音の場合︑空気の波動の衝動が聾者
の手によって感じ取られて︑知覚される︒聾者は音を聞いてではなく︑種々の音波を手によって感じ取るようにな
るのである︒
味感︑音感は口蓋神経︵フリースの用語︶を通して結び付いており︑それらの存在する場である舌︑鼻孔はしゃ
べることにも使われる︒しかしながら︑暖かさ︑香︑音︑色は全く異質のものであるから︑これらのまとまった一
つの全体のために比較するというようなことはない︒
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五感の知覚状態を物理学上の集合体に対応させることができる︒触感は剛体を知覚し︑これに対応する︒触感は
滴り落ちるような液体︵現在では︑味物質︶を受容する︒嗅感は蒸発気︵現在では︑匂い粒子︶を受け取る︒聴感
は弾性体︵音波︶によって刺激される︒視感は阻止できない︑あるいは︑放射する流動体︵現在では︑光波の内の
視物質︶によって刺激される︒b.﹁数学的直観と生産的構想力﹂︒人間の真の共通感官は純粋感性である︒ これ
によって︑われわれは数学的直観︑あるいは純粋直観を持つのである︒これらの直観の表象は特に触ったり︑見た
りする助けを借りることによって形成され︑こうして︑その表象はあらゆるわれわれの外的直観の統一的基礎とな
るのである︒数学的直観はわれわれの理性の純粋形式の統一態から出て来る︒だから数学的直観はこの直観の必然
的な認識の仕方でもって︑すべての人間に同じように与えられる︒たとい人間の感官が様々であったとしても︒ま
た数学的直観はあらゆる感官直観を総括して全体へと持って行く︒というのは数学的直観はわれわれの認識の純粋
に理性的な形式であるからである︒
ここで明らかにしておかなければならないことがある︒それは︑数学的認識方法だけが︑あらゆるわれわれの外
的な感性的認識の内の最良の支柱となっているということと︑人間は相互に物を数学的認識方法で捕えるという共
通性によってのみ物について理解し合えるということである︒
これらのことに対しては次のような説明が必要になって来るであろう︒われわれが知覚と呼んでいる直接的な外
的直観的認識の中で三つの異なった表象方法が結合している︒一︑温かさ︑色︑音︑香り︑等々のような︑感覚の
中の感官直観︒二︑時間︑空間の直観︒三︑時空内にある感官直観の対象の形状的結合︒
このような表象方法は異なった根源を持っている︒物の最初の感性的性質︵質︶の感官直観だけがわれわれの認
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識能力の感性に帰属している︒他のものは数学的直観に帰属し︑しかも︑純粋理性に帰属する︒時間︑空間の直観
の能力は純粋感性のものである︒空間の直観は外感の形式と呼ばれ︑時間の直観は感官一般の形式と呼ばれる︒こ
れに対して︑形状的結合︑すなわち時間内で所与のものが持続するということについての表象︑空間内の物の形
態︑状態についての表象︑更には量︑数︑度合いについての表象︑こういつた表象は生産的構想力のものである︒
形状的結合の表象においては︑われわれは持続︑形態を通して知覚の個々の対象を初めて時間︑空間の中へ入れ
て描いてみる︒この表象方法をわれわれは構想と呼ぶのである︒なぜならぽ︑その方法は知覚の中の感性的刺激に
よっては明白にはならず︑むしろ内的に初めて形成され︑或る時には︑下位の思考運動の法則によって︑また或る
時には︑上位の思考運動の法則によって形成されるからである︒
個々の知覚はその対象の一定の認識を私に与えず︑対象を規定するには知覚の継続︑比較が必要とされるのであ
り︑そして︑その継続︑比較を︑われわれは観察と呼び︑それらによって一定の感性的認識が経験として初めて形
成される︒例えば目は一見して色彩のある対象の一定の秩序を私に示すが︑対象と私との距離は示さない︒距離は
知覚の比較によって︑あるいは慣れることによって与えられるので︑一目見て分かるものではない︒どの感官もこ
れを認識のために使用するには︑どうしても︑まず生産的構想を必要とする︒認識が下位の思考運動の慣れによっ
て︑あるいは熟考によって形成されるように︒先のように必要とするということは︑構想力の多くの作為の中で︑
感官の錯覚の場合に︑あるいは感官のごまかしの場合に︑われわれに示される︒これらのうちで構想力の作為にお
いては︑例えば遠く隔たった対象が小さくなっている場合のように︑また天空の場合のように︑はっきりしない知
覚に対しては慣れそのものが補ってくれる︒感官の錯覚においては︑直観される対象の認識とは別に︑絵画技術を
フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(二)
駆使する場合のように︑表象方法を持った構想が働く︒更に感官のごまかしにおいては︑例えば色の塗られた彫
像︑あるいは鳥の剥製を生きたものと見る判断は直観的規定によって︑間違いとされる︒
数学的直観がわれわれの外的認識の共通感官であるということは極めて重要である︒外的直観の悟性的把握は純
粋数学を純粋直観から出て来る科学として形成する︒この中には数の必然的法則︵算数︶︑空間の必然的法則︵幾
何︶︑時間の必然的法則︵時間測定法︿Oぽ80ヨΦ三Φ﹀︶︑運動の必然的法則︵運動学︿℃げOδき巳①﹀︶がある︒
純粋直観と感官直観との区別がある︒前者はその科学を成立させる︒その中では大きさの普遍的︑必然的法則が
認識されるが︑後者は個別的︑現実的なものだけを示すのである︒
表象のあらゆる厳密な精確性︑堅固性は純粋数学的叙述なのである︒c.﹁味感と嗅感﹂︒器官感官のなかで味感
と嗅感は認識としては最も弱いものである︒嗅感は呼吸にも︑間接的には栄養にも関係する︒しかし︑それの感覚
は︑香りの知覚により器官の中の分泌導管︵9げωO昌畠①売口α① ∩甲Φh93じD①︶︵嗅受容器のことか︶の刺激を促し︑特に香
りの知覚により呼吸をすがすがしくしたり︑胸苦しくしたりする︒このように影響を与えることは︑味感の場合︑
栄養との関係から言って︑もっと複雑である︒というのは似通った多くの神経︵延髄にある唾液分泌中枢のこと
か︶が味感により唾液腺からの分泌を促したり︑幾つかの器官の連関が飲み込むことと満足することとを結び付け
たりするからである︒
人間の場合︑食べ物を選ぶ際︑いわゆる本能の声が悟性によって遮られるならば︑また人工食品によって迷わさ
れるならば︑それだけ味感は共にそのように遮られたり︑迷わされたりする︒われわれは日常僅かの間でも︑味読
からの要求を満足させるに違いないので︑その味感を持つ感官は︑楽しみのこつを会得するためには︑最初に必要
131
なものである︒この楽しみを得るために︑人間は美的なものを培うようになるのである︒d. ﹁触感し︒毛で覆わ
れていない皮膚と手は人間特有のものである︒すべての感官の内で触る働きをするものは観察の道具に過ぎない︒
曖昧な感官表象である触るということは︑慣れによる生産的構想を︑あるいは熟考する悟性を空間的関係の知覚に
導くのである︒そのために︑われわれは︑その知覚表象を︑本来認識として獲得されるものから区別しなけれぽな
らない︒ 私が触るどの物体も暖かいとか︑冷たいという感覚の度合いが私に与えられる︒心地よい外気の冷え込み︑暖か
さと身体の冷たさ︑温かさとは違う︒暖かい︑冷たいという感覚の他に︑触感の持つ本来の表象として例えばざら
ざらしている︑すべすべしている︑尖っている︑尖っていない︑円い︑角張っている︑堅い︑柔らかい︑濡れてい
る︑乾いている等々がある︒
指で対象に触ると指の中の状態が変化する︒この場合︑知覚の多様性が現れる︒われわれはその知覚から手や指
に対する物体の或る種の抵抗を感じ取り︑手︑指によって物体を理解し︑判断をするのである︒
外界についての省察を生じさせる感官という表現でもって︑ ブリ:スはあくまでも人間の外に外界を置いてい
る︒外界が外界であることにおいて︑それが彼自身の限定したものになってしまうということは語らない︒e.﹁視
感﹂︒自然を知るためには︑人間は目の指導に従う生徒である︒また目は世界を認識する世界感官である︒また目
の世界は色の世界であり︑この世界は明暗の段階の中で動いている︒そこには例えば光る物体︑照らされる物体が
ある︒ 光の刺激は見ることに対する外的刺激である︒見る感官は刺激される状態にあり︑その感官にとって刺激は常に
フリースの『心理的人間学ハンドブック』について(二)
必要なものである︒
色対比についても語られている︒例えば赤いぼらの花はプリズムによってできる緑の中では白く見える︒赤には
黄と青の混ざった緑が︑黄には紫が︑青にはオレンジが対立する︒
色の主観的意味が現れるのは︑目に瞬間的な光の刺激もない黒の感覚が色々な方法で︵後感覚︑並列感覚の場
合︑閉じた目を打った場合︑病気により目に刺激のある場合︶有調色になるからである︒後感覚はフリースの説明
では︑器官の刺激が終わった後でも︑その器官の刺激された状態が続くことである︒だから︑ここには時間的持続
が入って来るのである︒
後感覚は目による認識の場合︑重要である︒われわれがかなり大きな視野を一様にはっきりと見渡せるのは︑わ
れわれが目を動かしても︑後感覚が明白な映像を保持してくれるからである︒
閉じた目を打った場合︑目から火花が出るように見え︑閉じた目を押すと︑目から色の斑点が現れるように見え
るのである︒また病気のために出て来る色もある︒例えば黄疸の場合に︑身体全体が黄色くなるのはその典型であ
る︒ 色の知覚は見ることの主観的な始まりである︒われわれは色の表象をこのように理解することによって︑いかに
して客観的に規定された︑多くの人々に伝達できる認識に達するのだろうか︒その答えは次の通りである︒1.目
によって必然的に規定できる認識は空間内の物の形態︑状態の認識である︒2.こうして︑われわれは物を直接的
に感官により知覚して︑認識するのではなく︑むしろ数学的直観によって認識するのである︒この直観は生産的構 塒想と省察との助けによって初めて明白となるものである︒3.それでも︑とにかく︑われわれは手で触らずに︑見
ることそのことによって空間の中にいられるのであり︑三次元に基づく数学的認識を獲得するのである︒
目の映像は実在する対象の逆になっているのに︑なぜ逆に見えないのかという問いが出されているが︑この問い
は重要ではないとフリースは言う︒目の中の映像と実在する対象との比較は見る場合には︑全く問題にならない︒
われわれは映像を通して見るだけであり︑この映像の中で完全に調和が取れているからである︒結局︑慣れによっ
て逆が逆にならなくなってしまうということであろう︒
フリースは目を論じている中で︑彼の右目が近視で︑左目が遠視であると言っているのは興味をそそる事柄であ
る︒ 目の幾何学は三角測量の幾何学だとフリースは言うが︑珍しい表現である︒われわれはまず一本の基準線を測定
して︑その両端の視角を知れば︑一定の三角形を与えることができる︒というのは三角形は︑その一辺とその両端
の内角が明らかであるならば︑できるからである︒だが最初の基準線がどのくらいの長さであるかということを誰
がわれわれに言うのであろうか︒測量するということは︑ここではわれわれの役には立たない︒なぜならば︑悟性
が数量に基づいて測量をするのであるからである︒数量を使用するということは大きさの単位が与えられたものと
してあらかじめ前提されなければならない︒一疋!トル︑五〇センチ︑一センチはどのくらいの長さであるかに答
えるには︑一メートルは一〇〇センチ︑五〇センチは五〇〇ミリ︑一センチは一〇ミリという比較によって行うし
かない︒一メートルとか五〇センチという一定の物差しがどのくらいの長さであるかは直観の事柄である︒が感官
が直観を与えるのではなくて︑生産的構想だけがそうするのである︒こうして罹る物がどのくらい大きいかという
問いは︑人間の直観的表象方法にのみ属するのである︒f︐聴音感官︵聴感︶︒聴音感官は主観的感官と客観的感
フリースの『心理的人間学ハンドブック』について(二)
官との真ん中にある︒聴音感官の直観は味感︑嗅感の場合よりも︑この器官︵聴覚︶の持つ刺激から離れて音を私
の外にある或る物として示すのである︒
音は色のようには物の特性として直観されず︑音を出す対象はただ音を出す原因と見られるだけである︒音の世
界は音楽︑話し言葉となって︑人間独自の場となっている︒音の多くの特質は言葉によって示されている︒例え
ば︑ビュウビュウ︑カチャカチャ︑バタン︑ゴウゴウ︑ヒュウーッ等である︒他の重要な特質︑例えば様々な楽器
の音の区別︑人間個人個人の声の区別は言葉で示すのは難しい︒アクセントは人間特有の人為的な音である︒小さ
い声と大きい声の区別のほかに︑二種類の音があり︑それは音楽的な音と言葉として表現される音である︒
音楽にはオクターブがあり︑また音楽は美しい音の連続であるメロディーと美しい連関であるハーモニーを作
る︒ 音楽の音を理解するための根本法則は音の時間的継起であり︑音の動きの数学的理解である︒そこで音楽におい
てはリズムと拍子が極めて重要なものとしてメロディーの基礎にある︒が音楽固有の音の関係は多くの高い︑また
は低い純粋音︵同じ速度で振動し続ける音︶であり︑それによって和音の法則となる︒和音はオクターブを形成す
る基礎であり︑和音の幾つかの法則がフリースによって述べられているが︑省略する︒
言葉として表現される音はもちろん言葉に︑すなわち人間の声に属している︒
その音は弱い︑または強い気息音で始まる︒それは母音と子音に分かれる︒
人間は思想伝達の極めて容易な︑しかも自由な記号である音︑すなわち言葉として表現される音を発明したので 塒ある︒また︑その音は極めて重要なものである︒なぜならば︑その音から人間の精神的社交性が生まれて来たから
である︒ 36 第二章 認識における下位の思考運動について 一
a.一般論︒直観から記憶︑精神連合︑注意を通して︑われわれの表象する思考運動の内面全体が形成される︒
ここから特に思い出︑作詩︑思考が出て来る︒思い出は過去の事柄を認識し︑作詞能力は色々な表象と共に動き出
す︒また思考は真理を探求する︒というのも︑かなり高度の有意的な自己認識︵自分で高次の認識をしょうとする
こと︶がその思考にふさわしいからである︒
︑感性は現在を認識し︑思い出は過去を認識する︒われわれは︑また未来の事柄を予見する能力を︑あるいは未来
の事柄を認識する能力をも持つ︒一部では構想力の中に︑つまり現在︑あるいは過去に似たケースを未来の事柄の
中に期待することによって︑また一部では︑ア・プリオリな認識を使用する思考の中にわれわれは先述の能力を持
つのである︒ア・プリオリな認識はここでは常に基礎にあり︑その名称は予見に関しても使われるが︑しかしア・
プリオリな認識は未来を見通すだけでなく︑そのア・プリオリな認識の必然的な洞察によって︑現在に対しても︑
また過去に対しても知覚されなかったかなりのものを認識し得るのである︒
b.思い出の力︒今ここで取り扱う表象は︑忘れるとか︑再び思い出すという働きの中にのみ現れるものであ
る︒はっきりと再び思い出すということは︑以前の認識が時間を経てもまた意識されてその認識を思い出すことで
ある︒このほかに不確かな思い出がある︒これは作詩︑思考を論じるに当たって重要である︒
再び思い出すということは︑複合行動であり︑これのためには三つの異なった能力が一つにされなければならな
い︒その三つの異なった能力とは一.把握理解︑2.保持もしくは狭義の記憶︑3.思い出したり︑想起したりす
フリースの『心理的人間学ハンドブック』について(二)
る働きである︒
忠実に心に止どめて置くということが良い記憶の基礎にある︒われわれが普通良い記憶について語る場合︑われ
われは上述の三つの能力の合一を意味する︒この場合︑それは生まれつきの記憶と後から形成された記憶とに分か
れる︒後者は練習することによって︑あるいは偶然的な習慣によって︑はたまた記憶術の規則に従った意図的人為
的な工夫によって得られる︒
良い記憶というものの本来の基礎となるものは︑漏る事柄を忠実に覚え保持する力であり︑明白な表象連合を規
定できる働きである︒一.諸表象明晰の法則︒生まれながらにして極めて明晰な表象は直観的な表象である︒表象
が直観的であればあるほど︑それだけ容易に思い出に影響を与える︒しかし直観力は表象の感性と混同されてはな
らない︒数学の純粋直観表象は極めて明晰な感性的表象と同じように明晰である︒従って前者は野老と同じように
思い出すことができる︒表象連合があらゆるわれわれの表象方法を使うように仕向ける︒そして直観的表象方法だ
けでなく︑あらゆる表象方法が容易に思い出より前に捕らえられる︒このことはわれわれの思想形成全体に強い影
響を与える︒言葉︑色︑数字︑形態は思い出より前に︑主要な役割を演ずる︒なぜならぽ︑それらは直観的表象方
法に属しているからである︒
他の表象︑特に考えるという固有な表象は︑思い出に対して︑もっと直観的表象による助けを必要とするのであ
る︒このことが色々な表象を示す根拠となる︑ つまり記憶のための記号表示法︵これはω団営げ︒躍犀であり︑現在
の記号学に相当する字であることに注目すべきであろう︶となるのである︒こうして︑われわれは話をする場合︑ 37 1はっきりと聞こえ得る音声︵記号︶を思考に添えて︑思考を表示するのである︒二.上述の明蜥の他に︑色々な表
象が確実に同格であるということが重要である︒同格であるということによって︑︵心の中に︶内的な秩序がある
という法則が取り上げられる︒この法則は何かを思い出すために必要な表象連合に有益である︒色々な表象が同格
であるというならぽ︑内的な混乱が起きるのではないかという懸念があるが︑ここではそうではなく︑同格である
ことによって︑諸表象がうまく結合することを意味している︒
表象を規則的にしっかりと関連させ得るための悟性の補助手段は︑記憶のための適切配置法︵目oboざαqδ︶であ
る︑すなわち思考の整頓である︒
思い出には下位の思考運動が属し︑悟性には上位の思考運動が属すのである︒
工夫した記憶︵α器ぎαq①巴αωΦ竃︒ヨ〇二頸Φ口︶とは先述の記憶のための記号表示法の法則に基づく︒それは︑ は
っきりしない表象に明確な記号を与えることによって︑その表象をその記号で明らかにするものである︒判断をも
たらす記憶︵9ω甘煮鼠︒︐ωωと①日︒ユ興︒昌︶とは思い出を有意的に︵熟考しようとする明確な意志をもって︶熟考
する悟性の下に置くものである︒ この場合︑記憶のための適切配置方法が使用される︒ これに帰属するものとし
て︑例えばアメリカ・インディアンの切り込みを入れた割り符︵木片に刻み目を付けて商品の数量︑値段等を表
し︑その木片を縦に割って︑それを債権者と債務者のそれぞれが保管して後日の証としたが︑その木片には刻み目
が適切に配置されている︶︑ペルー人の結び目のついたひも︑ヨーロッパ人の図表等が挙げられ得る︒
c.構想力について︒一定の思い出は或る認識を完全に再び喚起させるが︑しかし︑われわれの思考運動の働き
はそんなに簡単にあるのではなく︑むしろ︑そこには表象運動が重なり合っているのである︒すなわち不確かな思
い出にあるわれわれの多くの直観が起こす内的な対抗作用から︑認識ではないすべての表象運動が展開される︒す
フリースの『心理的人間学ハンドブック』について(二)
なわち︑それらは抽象的表象であり︑空想の非有意的な︵何心無い︶働ぎである︒これが構想力の固有の表象方法
である︒不確かな思い出は︑抽象化を含む︑すなわち不確かな思い出が多くの認識から出て来るぼらぼらの部分表
象を意識するという不確かな思い出特有の事柄を含むのである︒
表象の中の心象と本来的な抽象化とを分けて順次考えてみよう︒
一.思い出の中にある最初の不確かな状態は︑直観的認識から︑正確な時間規定だけを︑つまり認識対象が現に
有るという意識だけを取り除く︒このようにして現在しない対象の直観だけが生じるのである︒例えば︑われわれ
が思い出の中で︑夢の中で︑詩作の際に︑そういう対象にかかわり合う︒このように直観したものが心象︑あるい
は構想なのである︒こうして今いない友達の心象が私の思い出の中に残り︑私は歴史家の言葉︑詩人の言葉に浸る
ことによって︑色々なシーンが私によって構想される︒
この構想を︑われわれは表象にのみかかわる狭い意味で︑構想力︵空想︑想像︶によって出て来るものとする︒
構想は感官なしには何もなし得ない︒時間︑空間︑数字と共にのみ構想は働き得る︒こうして構想の新しい産物
としての生産的能力は︑表象連合の働く数学的直観の能力と呼ばれ︑また結合能力と呼ばれる︒そして︑このもの
に二つの法則が帰属している︒a.われわれは時間︑空間︑数字を任意に大きくしたり︑小さくしたりすることが
できる︒例えば︑われわれは構想によって︑ゆりの高さをやしの高さにしてしまったり︑また普通の背丈の人間
を︑雲を突き抜けるような巨人にしてしまうこともできる︒b.感官が一つの︑あるいは幾つかの秩序だったもの
としてある素材を︑おれわれは構想によって色々に変えて別の秩序だったものにすることができる︒このようにし
て構想は馬と人間とを一つの心象にして︑ケンタウロス︵人間の上半身と馬の下半身を持つ半人野馬の怪物︶を作
139
り上げてしまう︒こうして︑われわれは勝手に豊かな構想︑貧しい構想をすることができるのである︒が︑そこに
自然があるおけではない︒経験だけが自然を知るようになるのである︒そして理論を知るだけで︑様々な関係にお
ける心情運動︑激情を体験しなかったものは生きることを知るようにはならない︒
二.表象を再び呼び起こす場合の表象連合の運動が纏れているならぽ︑不確かな思い出は本来的な抽象化の根本
表象としての図式をわれわれに意識させる︒われわれはこの図式の能力を図式的構想力と呼び︑この構想力によっ
て思考を補助する表象を持つのである︒このために二種類の抽象化︑すなわち量的抽象化と質的抽象化とが注目さ
れ得る︒ 量的抽象化を通して︑われわれは一つの全体なるものの形式から︑また様々な部分の結合形式から一つの明白な
表象を獲得する︒例えば︑われわれは町︑庭の状況を思い出す︒しかし誰が屋根のうえの﹁枚﹁枚の瓦︑庭の一本
一本の木の枝︑一本一本の草花を︑直接見たように︑思い出すであろうか︒われわれがその種の表象をどんどん不
確かなものにして行くと︑その表象は最後には町︑庭の単なる輪郭形態を持つだけとなり︑空間的形式だけが思い
出に残り︑諸部分の詳述は不可能となる︒こういうことに属すものは空間規定の抽象的表現︑更には時間規定の抽
象的表象であり︑これには﹁ここ﹂﹁あそこ﹂︑﹁どこ﹂﹁いつ﹂︑および形態︑継続が相当する︒ヘーゲルが﹁ここ﹂
﹁あそこ﹂は最も具体的表現だと思われているが︑実は最も抽象的表現であると言っているのに対して︑フリース
は﹁ここ﹂ ﹁あそこ﹂は言語上の性質から言って︑初めから抽象的表現だとする︒フリースは人間が行動した後︑
省察した結果を重要視していると言えようか︒
質的抽象化は︑多くの等しい部分表象を含む多くの類似した思い出となる場合︑生じるのである︒ここでは普遍
フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(二)
的表象の図式が意識され︑様々な場合に異なった差違は現れない︒その図式は悟性に色々な概念を与えるのであ
る︒ほとんどすべての個々の言葉は︵固有名詞を除いて︶普遍的概念の図式を示す︒ところで︑どうして言葉が誰
にとっても草花の名前の意味︑あるいは動物の名前の意味になるのかを︑人々は考えるであろう︒また︑どうして
子供︑少女︑男︑老人という言葉がそれぞれの意味を主張するのかを︑人々は考えるであろう︒しかしフリースは
その疑問に対して直観的解答を与えていない︒解答としてそれは慣習化によるのでは分かりきっているからであろ
うか︒ われわれの表象運動が発展するには︑上の二つの抽象化の仕方が相互に影響し合う︒そして︑われわれの大部分
の図式は概念に属す︑すなわち普遍的表象と同時に結合形式とを︑例えば諸形態の普遍的表象を含む概念に属すの
である︒ 量的抽象化は個々の対象︵前述の例で言えば︑町︑庭︶のところに止どまっていて︑この物そのものを意識する
が︑しかし多かれ少なかれその物の性質を捨て去ってしまう︒これに対して質的抽象化は︑われわれが見ている物
の表象︑例えば個々の草花の表象︑あるいは個々の子供の表象を曖昧にしておき︑性状︵例えば草花︑子供という
性状︶だけを一般に意識するのである︒ヘーゲルは規定︑性状︑限界という項目で性状を考えているが︑フリース
の性状は簡単な記述に止どまっている︒二人の比較論及は別の機会にゆずる︒ところでブリースの場合︑量的抽象
化は思考する悟性の判断の主語表象に役立ち︑質的抽象化はその判断に対して述語を与える︒
三.心象および図式によって︑われわれの意識は個々の感官直観およびこの直観の主張から離れる︒このことに
よって︑単なる表象を全く意味なくもてあそぶということが出て来るのである︒結合能力としての生産的構想力は
141
上述のもてあそぶということをする︒こうして︑まず非有意的に︵何心無く︶詩作をする︑あるいは夢を見る精神 毘の下位の思考運動が生じる︒この精神の表象の働きをわれわれは狭義の空想と呼ぶのである︒われわれはその働き
が寝ている間に見る夢の中の上位の思考運動の影響から離れていると見て取る︒
第三章思考力について
一.思考する悟性について
思考に属すものは︑認識における上位の思考運動である︒認識するために︑有意的に表象する場合︑精神特有の
内的なもの︑高次の自己認識にかかわりあうということがその上位の思考運動にある︒自我︵私︶︑思考するもの
がここでは私のいろいろな認識の間に現れ︑そして︑その認識すべてに共通の中心点︵自我︑思考するもの︶を与
える︒認識が直観的である限り︑われわれは非有意的に内感を通じて認識を意識するが︑思考における有意的活動
によって︑われわれは直観を越え︑そして︑われわれ自身の認識の一層高次の意識に達する︒が︑すべての思考は
熟考︑あるいは省察から出て来るのであり︑省察はわれわれの思考運動に注意を払う力である︒思考の本性は差し
当たり上位の思考運動の普遍的法則から規定される︒この思考運動の基礎には思い出︑想像となっている下位の表
象連合がある︒が思い出︑想像にかかわるのは︑有意的な注意である︒思い出︑図式論︵悟性が図式を取り扱う仕
方︶はこの注意に内容を提供する︒比較および区別は熟考の最初の現れである︒
やっと言葉をしゃべり出した一歳位の子供のことを考えてみよう︒こういう子供は最初親から教わるにしても︑
自分の言葉でいっぱい毛の生えた特定の生き物を猫と呼んだり︑羽をぽたぽたさせる特定の生き物を鳩と呼んだり
することができるようになる︒また子供は考えが発達してくれば︑色々な遊びの中で物事を比較しながら︑時には
フリースのr心理的人閲学ハンドブヅク』について(二)
詩人の大胆なイメージよりも鋭いものを持つことがある︒ところが大人も例えば神話の中の空想と現実の思考との
区別ができなけれぽ︑精神的に子供だということになってしまう︒思考する悟性はわれわれの内的な目である︒こ
れに対して自己活動的︑直接的認識能力としての理性は︑この目によって観察されるべきものである︒判断は思考
能力が行った観察である︒
思考する悟性とこの悟性の活動の法則とを︑正しく理性とこの理性の直接的認識と比較することがここでは重要
である︒従って︑第一に理性の直接的認識︑すなわち思考する自己観察の対象︵自ら観察し︑思考する対象︶に注
目しなけれぽならない︒第二に思考する悟性の方策︑すなわち悟性に観察をうまく行わせる道具に注目しなければ
ならない︒理性に対しては︑いつも直観される個々の現実的な出来事の認識を︑われわれの認識の純粋に理性的形
式から区別しなけれぽならない︒純粋理性は法則を認識する能力である︒法則を︑われわれは悟性の助けによって
のみ思考の中で意識するのであって︑直観として意識するのではない︒
しかし悟性に対しては︑われわれは補助手段として︑一部では︑抽象的表象を考えなけれぽならないだろう︑そ
して︑この表象によって特殊なものを普遍的なものに従属させることをも考えなければならないだろうし︑また一
部では︑特徴のある表象方法を考えなければならないであろう︒
二.純粋理性的認識
純粋理性の法則から︑あるいは︑われわれの精神活動全体の統一から生じるのは︑われわれの理性に︑いつでも
認識の一つの直接的全体が属しているということである︒この全体から︑われわれは︑われわれの自己認識の感性 協的本性によって︑瞬間的にいつでも個々の分離した部分を意識する︒われわれは実然的認識をはっきりした思い出
の中で意識する︒その実然的認識は個々の部分を個々の感性的刺激を通して規定している︒ところが︑われわれは
蓋然的表象を量的︑質的抽象化のはっきりしない思い出の中で意識する︒その蓋然的表象は︑必然的認識を︑ま
た︑この認識と実然的認識との関係をも︑更に︑その必然的認識と認識全体との関係をも︑明らかにするための補
助手段である︒蓋然的表象は思考に対する作為的な任務を持つのである︒
こうして︑われわれの直接的認識は一部は感覚直観︑知覚直観から︑また一部は純粋理性的な認識から生ずる︒
後者は一部は大きさ︑数︑度合い︑運動についての数学的認識を含み︑一部は普遍的︑必然的な法則の哲学的認識
を含む︒哲学的認識の能力をわれわれは狭義の純粋理性︑あるいは哲学的理性と呼ぶ︒
そこで︑この純粋理性は悟性の目的となるのである︒われわれは諸学の中で感性的知覚の個々の内容を越えて考
えながら︑経験の普遍的︑必然的法則を提示し︑そして個々の内容とその法則との関連を説明する︒考える悟性の
みが超感性的なもの︑物の永遠の本質︑神性︑これらのものの理念を見つけ出す︒徳や法の中の善なるものの道徳
的理念をもまた考える悟性のみが見つけ出すのである︒
哲学的理性は︑われわれの認識の全体を真なるもの︑善なるもの︑美なるものの必然的法則の下に置く︒われわ
れの認識には二つの方法がある︒一つは自然認識︑科学的認識︑あるいは知の方法であり︑他は観念的認識の方法
である︒自然認識においては︑われわれは直観的に認識された自然現象を︑数学の助けを借りて整理し︑カテゴリ
ーの下に︑すなわち物の本質︑力︑相互作用の下に置く︒
狭義の自然認識としての身体界の認識は︑身体の認識を︑作用︑反作用同等という原理の下にある力の運動によ
る相互作用の法則の中に︑含むのである︒
フリースの『心理的人間学ハンドブック』について(二)
精神生活の認識とは︑自己形成をする︑思慮のある︵悟性的︶人間生活の道徳的側面に応じた人間史の認識であ
る︒その側面には思慮のある意志決定力がある︒この決定力の形成が徳である︒相互作用の原理は人格の尊厳と平
等の理念である︒
観念的認識の根本思想が︑あるいは︑いろいろな物の完成した︑完全な︑自由な︑そして永遠な一つの本質を信
仰する理念︑すなわち神を信仰する理念︑また︑いろいろな物の聖なる一つの根源を信仰する理念︑永遠なる愛の
世界支配を信仰する理念︑これらの理念が︑われわれの純粋理性的認識の中に︑あらゆる自然法則よりも高次に︑
あらゆる学を越えてある︒
われわれは︑自然を永遠なるものに従属させることを︑自由な感情による感性論的判定においてのみ意識する
が︑この感情によって︑われわれは自然現象の美しさと崇高を認知し︑ここにおいて永遠なる真理を予感するので
ある︒ あらゆる生命活動の統一を通して︑人間の認識に統一︑必然性両者の根源表象が与えられる︒これを︑われわれ
は根源的な形式的理解︵統覚︶と呼び︑また︑その根源表象によって︑われわれの認識全体の統一が表される︒
この形式的理解によって︑感覚的に刺激されたわれわれの認識の個々の内容すべてが完全に一つの直接的認識
︵超越論的統覚︶に結び付けられる︒
理性理論にとっての根源的思想は︑人間の認識の中に直接的全体があるという思想である︒そして︑その直接的
全体は根本的形式的理解の必然的統一によって規定される︒われわれは一つの世界全体のいろいろな部分である個
々の対象を認識する︒そこには一つの思考の申で可能なすべての物について語り得るという論理的原則がある︒だ
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から︑ ﹁どんな物でもAあるいは非Aである﹂﹁どんな物でも有るがままの物である﹂と言えるのである︒認識す
る理性の中に必然的統一によりすべてのものを一つにする根源表象があるに違いない︒
純粋に理性的な認識のすべての形式は︑数学的な形式であれ︑哲学的な形式であれ︑統一の根源表象に対する内
実規定である︒従って︑そのすべての形式は世界全体における統一のすべての形式︑つまり空間︑時間︑法則︑理
念におけるすべての形式である︒
三.特殊なものを普遍的なものの下位に置くこと
悟性はまずいろいろな概念を形成する︒考えられた認識を含む判断を主張するために︑それらの概念を悟性は比
較することによって使用する︒更に全称判断から特称判断を推理によって規定し︑今度は説明︑証明によって学的
認識の体系的形式を形成する︒
これらの思考形式の研究は論理学に属すが︑ここでは心理学的な問題に制限してそれを考えてみる︒が次の機会
に述べることにする︒
︵未完︶