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(1)

法史研究における裁判と紛争 : わが国における最 近の研究動向から考える

著者 岩野 英夫

雑誌名 同志社法學

巻 65

号 2

ページ 281‑377

発行年 2013‑07‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014580

(2)

(   同志社法学 六五巻二号

― ―

わが国における最近の研究動向から考える

岩    野    英   

  ――西 ―― )  )  )  ―― ) 事  )      )   )   )      ﹄/     )      五 ﹂﹁ )   ) 集   ) 

二八

(3)

(   同志社法学 六五巻二号   ) 使   ――  ―― ) 六 調―― )  ) 調  ) ――調      ) Prosopography  )   )   )   )   )      )   )   )   )           )         )  ――   調 )  ) ―― ―― 二八二

(4)

(   同志社法学 六五巻二号  はじめに  私は、拙稿﹁西洋中世初期の裁判のかたち﹂︹以下、拙稿﹁中世初期の裁判﹂と略記︺の章﹁紛争と紛争解決をめぐる最近の研究動向から﹂で、服部良久氏の考えの論点整理をした 1

。しかし、そこでできたことは研究動向のつの、それもごく簡単な紹介という程度のことでしかなかった。本稿では、紛争史に加えて裁判史の、わが国における最近の研究動向を整理し、西洋中世初期の裁判についての私の研究の立ち位置を確認する作業をしてみたい。 私はこれまで裁判史、裁判法史という用語法に違和感をもつことはなかった。裁判という用語も特に定義をせずに自明のものとして使用してきた。しかし、紛争、紛争解決という用語法に出会い、裁判史と紛争史との関係性を明確にする必要性を感じるようになった。そればかりか、前近代の法史を研究する際に何を標識にして裁判と言えばよいのか、という疑問にもぶつかってしまい、同僚の木下麻奈子氏(法社会学)に教えを乞うこともした。木下氏は、たくさんの文献、資料を用意され、法社会学の分野における裁判や紛争、(法)人類学の研究動向について丁寧に解説をして下さった。﹁グレゴリウス﹃歴史十巻﹄の中の紛争と紛争解決の仕方﹂(同志社法学五号︿二〇二年﹀。以下、﹁グレゴ  )   )   )  ) 十   

―― 

二八

(5)

(   同志社法学 六五巻二号

リウス﹂と略記)は、こうした状況のなかで執筆されたものである。本稿は、本来であれば、この﹁グレゴリウス﹂に先行して作成される予定のものであったが、諸般の事情で、作業が後回しになってしまった。 本稿の原型は、二〇年月二日に開催された法制史学会近畿部会における報告である。出席された方々から貴重な質問や意見をいただいた。次の方々は、公務等で多忙のなか、私が本稿執筆中にさせていただいた質問に答えて下さり、また、貴重な資料を送って下さった。井个田良治氏(同志社大学名誉教授)、岩谷十郎氏(慶応大学)、居石正和氏(島根大学)、近藤佳代子氏(宮城教育大学)、阪上眞千子氏(名古屋外国語大学)、利谷信義氏(東京大学名誉教授)、橋本誠氏(静岡大学)、服部良久氏(京都大学)、林真貴子氏(近畿大学)、矢野達雄氏(広島修道大学)、山中永之佑氏(大阪大学名誉教授)、渡辺節夫氏(青山学院大学)。心から感謝したい。 本稿作成にあたって採用した手法はいわば個人史的手法、すなわち私の研究関心の推移に合わせて学界動向をたどるという手法である。そのために、本稿は、視野の広がりを欠く作品になっているし、多くの優れた研究業績に言及することもできていない。 本文中の︹ ︺は、断りのない限り、私の手によるものである。" "は、そのなかの文言などが引用文ではなく、私がしたまとめや整理であることを示している。以下、敬称は基本的に省略する。質問をさせていただいた方々の回答を、本文や注に了解を得て掲載している。

二 裁判の歴史研究をテーマにした理由

― ―

西洋中世法とは何かをめぐる論争

 私が、西洋中世における裁判をめぐる問題を研究テーマにしたのは、西洋中世法の存在形態や性格をめぐる、かつて 二八

(6)

(   同志社法学 六五巻二号 学界を賑わせた論争に私なりの区切りをつけたい、と考えたからである。歴史家

F

rit z K

er n

が西洋中世の法をひと言で性格づける概念として﹁古き良き法﹂を提唱したのは、年のことである 2

。﹁法は古いものである﹂﹁法は良きものである﹂﹁古き良き法は非制定法・不文的である﹂﹁古き法はより新しき法を破る﹂﹁法の改新は古き良き法の再興である﹂というキー ワードを柱にして、ケルンは、西洋中世の法を特徴づけた。"悪しき法も法である。新しき法は古き法を破る。新しき法は古き法の改廃である。法の般的な姿は制定法・成文法である"ことを特徴とする近代法や現代法との違いを、ケルンはこれ以上ない明快さで描き出した。その後、ケルンの見解は通説の地位を獲得する。﹁古き良き法﹂には、君主さえもが従属していた、とケルンは言う 3

   ﹁君主はいかなる人間にも従属していなかったのである。しかし、彼は法に従属していた。⋮⋮。君主は、つの明確な憲法文書に服従したのではなく、法般に、すなわち法の広大な全域にわたって、また万能の至上権と流動的な・ほとんど無限のあいまいさをもった法に服従させられ、この法による制約を受け、この法に拘束されていた。⋮⋮。政治ががんじがらめに縛られ、国家理性が排除されるというところまで、君主は法に拘束されたのである。かくして、われわれは直ちに、中世について、法的制約の原則 4444444を獲得することになる﹂。

 六〇年代後半になって、ケルンの見解に対する批判が始まる。最初のそして本格的な批判者は、法制史家

K

ar l K

ro es ch ell

である 4

。クレッシェルは、西洋中世法の在りようを、﹁非規範的法(

nic ht n or m at iv es R ec ht

)﹂という用語を用いて、以下のように特徴づけた 5

二八五

(7)

(   同志社法学 六五巻二号

   ﹁古いドイツ法に関して連の研究がほぼ明らかにしたと思えるのは、極端な言い方をすれば、ドイツ古法は規範的な性格を持っていなかった、ということである。少なくとも、そこには、訴訟規則を除いて、般的に妥当する諸規範、すなわち不文の法秩序(

un ge sc hr ie be ne L eg alo rd nu ng

)は存在しなかった﹂。

 村上淳の簡にして要を得た解説を借りれば

)6

、﹁もろもろの規範的行動予期(てんでんばらばらの権利主張)がまだほとんど

― ―

慣習法の形ですら

― ―

整合的に般化されていず、(契約によって)個別的・具体的な折り合いがつけられた限りで、そしてその範囲でのみ相互を拘束するにすぎない﹂、法の在りようを、﹁非規範的法﹂は意味している。 村上は、ケルンの﹁古き良き法﹂を、﹁非規範的法﹂のこの意味に次のように対比させている 7

   ﹁さまざまな規範的行動予期が

― ―

制定法によらずに慣習法という形で

― ―

﹃整合的に般化﹄された(﹃個の連関﹄を成している!)状態が、ケルンの思い描いた中世的法秩序であったと思われる﹂。

 わが国において、ケルン理論をベースにして西洋中世法の理論を組み立てたのは世良晃志郎である。ケルンの二つの著作

― ― G ot te sg u n a d en tu m u n d W id er st a n d sr ec h t im fr ü h en M itt el a lte r, 19 14 ; R ec h t u n d V er fa ss u n g im Mittelalter , 19 52 ― ―

を手にしたときの思いを、世良は次のように語っている 8

   ﹁訳者︹世良のこと︺が最初に右の二著に接したのは、おそらく五年以上も昔のことであるが、今でもそのときの異常な感激を想起することができる。訳者の﹃西洋中世法の性格﹄(法学六巻~号)や﹃封建社会の法 二八六

(8)

(   同志社法学 六五巻二号 思想﹄(尾高、峯村、加藤編﹃法哲学講座﹄第二巻所収)などは、ケルンの仕事を基礎として書かれたものである﹂。

 したがって、ケルン批判は世良批判でもあった。世良は、六年に、﹁﹃良き古き法﹄と中世的法観念﹂を公にし、反批判を始める。こうして、わが国でも、西洋中世法をどう理解するかをめぐり、論争が始まる 9

。 この論争に参加した私の観点は、批判者と反批判者のそれぞれの主張のなかに共有し合えるものを見つけだしたい、というものであった。しかし、その方で、この観点にはそもそも無理があることもわかっていた。ケルンが中世法を語っているのは、理念(史)の世界においてである ₁₀

。しかも、ケルンが語る﹁古き良き法﹂には、時代を超えて現代にまで生き続ける﹁永遠の中世﹂が、すなわち"その理念の崇高さの故に民衆の良心あるいは古来の伝承のなかに民衆の確信として永遠の生命を保ち続ける﹁中世の法﹂"が化体されている。 それに対して、クレッシェルは、概念的に把握可能な中世法を、その時代その社会に規定され制約された、実在の世界のなかで語っている。 世良は、ケルンの仕事を基礎にした、という。しかし、ケルン理論の中核に位置する、﹁永遠の中世﹂観念までも、世良が受け容れたとは考え難い。﹁歴史を超越して妥当する概念﹂を﹁非歴史的な概念﹂だとして、世良は厳しく批判しているからである(﹁ゲルマン法の概念について﹂﹃歴史学方法論の諸問題﹄木鐸社︿年﹀八頁ほか)。 ケルンや世良、クレッシェルの、法に接近する道筋が異なることを押さえた上で、者の主張のそれぞれから何を学ぶかを考えるべきであった、というのが現在の思いである。 世良は、八年月六日に急逝する。これによって、論争もやがて消えていく。世良の最後の作品は、八年に公表された﹁中世的法観念をめぐるつの問題

― ―

K・クレッシェルの考え方の検討﹂ ₁₁

であった。

二八

(9)

(   同志社法学 六五巻二号

 論争もやがて消えていく、と書いた。しかし、それは、中世の法に固有の特徴とはどのようなものか、というテーマに係る新たな研究の始まりでもあった。﹁古き良き法﹂論争を牽引した石川武は、八六年に大作﹁ザクセンシュピーゲルにおけるゲヴェーレ﹂ ₁₂

を発表する。小川浩は、石川がそれまでの研究テーマに﹁応のくぎり﹂がついたあと、つにはクレッシェルによって﹁﹃良き古き法﹄概念に批判が加えられたことが、重要なきっかけ﹂になって、﹁狭義の﹃法史﹄の問題へと﹂研究の軸足を移していった、と述べている ₁₃

。﹁狭義の﹃法史﹄﹂研究の最初の本格的な果実が、この大作である。 石川は、その後も、世紀前半に成立した法史料であるザクセンシュピーゲルを引き続き使い、多くの作品を公にする。それらの作品を作りあげることで、石川が貫して追い求めていたのは、﹁中世法の規範構造﹂ ₁₄

の解明である。 石川がそのために採用した手法は、﹁︹ザクセンシュピーゲルという︺史料の用語法の文献学的な分析と論理の追求﹂ ₁₅

である。その手法の核に据えられたのは、

E

xe ge se

である。辞書を引くと﹁釈義﹂という訳が出てくる。石川の方法に引きつけて言えば、法文や法文を構成する法用語の意味を解き明かすことである。エクゼゲーゼを要にして、ザクセンシュピーゲルの法文の意味や法文相互の関係性を論理整合的に解き明かそうとする石川の手法の緻密さは、今日でも他の追随を許さない。 私も、論争から産まれたあれこれの貴重な成果を受けとめ、中世の法の在りようの実際を明らかにすることをテーマにしたい、と思うようになっていた。問題は何を材料にしてどのようにこのテーマに取り組むかであった。この点に関係して、手がかりを与えてくれたのが、井个田良治である。 二八八

(10)

(   同志社法学 六五巻二号  裁判史の研究

― ―

井个田良治の場合  () きっかけ 井个田良治は、八~年の年間、イギリスに留学をする。井个田は、この在外研究中に、留学以前から考えていたことが間違っていなかったことを知る。考えていたこととは、法典主義の大陸、判例法主義のイングランドという、二項対置の構図を見直し、大陸法についても判例、裁判を軸にして法史を考察すべきではないか、ということである。大陸法の場合も法典主義に移行したのはたかだか世紀のことでしかない、という認識がこの考えの前提に置かれている。 井个田のこの考えを後押ししたのは、イタリアの二人の法学者の共著である ₁₆

。この著作を通して、大陸の法典主義、イギリスの判例法主義というように、ヨーロッパ前近代社会における法の在りようを区別する通説的見解に対する疑問を共有する研究者に、井个田は出会う。そして、"この考えは日本法史の研究にもまた応用できる""比較ということで言うならば日本の場合はイギリスとの比較が番しやすい"と、井个田はその考えをさらに前に進める。井个田は、次のように述べている ₁₇

   ﹁大陸はローマ法的な法典主義でイギリスは判例法、コモン ローの世界だと言われるが、大陸法の歴史も実際にはそれが法典主義になったのはたかだか世紀のことであり、それまでは大陸法もイングランドと同じく法曹法として性格づけられる、とその論文は主張し、イタリア法史の研究のためにイングランド法史のパラダイムを試用することを提案しています。⋮⋮。ローマ法の国イタリアでも実際にはコモン ローのイギリスと同じような形で

二八

(11)

(   同志社法学 六五巻二号

判例が大きな意味を持っている。それぞれの法典に先立つ時代は、法典中心の時代とは必ずしも言えない。したがって法典主義の大陸、判例法主義のイングランドという構図はもう度見直されなければならない。論文が言いたいことは、要は、こういうことです﹂。   ﹁大陸法と英米法は相反するものではない。そうすると軸になるのは裁判です。そういう角度で度日本を比較する必要があるのではないか。日本は法典国と言われているけど、近代的な法典ができたのは明治以降のことです。   江戸時代の﹃公事方御定書﹄も、判例を整理したものという性格が濃厚なわけです。戦国大名法も先の先例の蓄積を纏めたものですし、その点で言えば鎌倉時代の御成敗式目もそうです。古代の律令だけが少し別。   ならば、日本の法制史をもう度、立法よりも裁判を軸にして考えることができないだろうか。仮に〇〇パーセントそうできなくても、これまでの日本の法制史で見えなかった部分がそのことで見えるようになるのではないか。それが裁判史に関心をもったつのきっかけですね﹂。

 井个田が裁判史の研究に関心をいだいたきっかけは、ほかにもある。以下は、そのなかのつである ₁₈

   ﹁もうつは、出来上がった理論の体系ではなく、生の史料を突き合わせてみたい。日本の生の史料とイギリスなどの生の史料を比較して、そこから共通点や違いを見つけ出す比較の方法が必要ではないか。理論だけで比較したら、出来上がった理論ですから本当のものが見えないのではないか。それも、裁判史ということを考えたきっかけです﹂。

(12)

(   同志社法学 六五巻二号  

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の著作

Law and Social Change in Postwar Japan, 19 87

から受けた刺激も、また、きっかけのつだという ₁₉

。井个田は次のように述べている。

   ﹁アパムさんは、日本の男女雇用機会均等法の批判をしているのですが、その中で日本の法のあり方とイギリス、ヨーロッパ、アメリカの法のあり方との違いについて述べています、例えば男女雇用機会均等法に関係して違反があったら、アメリカなら裁判によってすべてが決着する。裁判所で公民権法に違反するかどうかが審理される。   大陸なりイギリスでは非常に細かいルールを作り、こういうことをやったら男女不平等だと定める。その上で裁判で判断して違法かどうかを決めていく。   日本の場合は労働省の出先機関の労働基準局に婦人少年室があって、男女不平等についての訴えを受けて調停する。そこで働くのは何かというと、官僚の裁量。アパムさんは、それを﹃ビューロクラティック インフォーマリズム﹄と呼んでいる。つまり、法のフォーマルな形でやるのではなく、インフォーマルに官僚の裁量でやる。   アメリカの﹃ジャスティス セントラリズム﹄、大陸の﹃ルール セントラリズム﹄に対して、日本には﹃ビューロクラティック インフォーマリズム﹄という特徴があるとアパムさんは言っています﹂。

 

U

ph am

は、先の著書のなかで、戦後日本における﹁法と社会変動﹂の特徴を照射するために、﹁法と社会変動に係る型分けモデル(

M od els o f L aw a nd S oc ia l C ha ng e

)﹂を設定している(

P. 1 ff.

)。モデルは、大きく二つに分かれる。西洋型モデルと日本型モデル(

Ja pa ne se M od el

)にである。西洋型モデルは、二つ(

Tw o W es te rn M od els

)設定されている(

P. 7 ff.

)。つは、

“th e r ule - c en te re d m od el”

であり(

P. 7

)、もうつは、

“th e j ud ge - c en te re d m od el”

である(

P.

(13)

(   同志社法学 六五巻二号

10

)。井个田の言う﹁ジャスティス セントラリズム﹂とは後者の西洋型モデルに、﹁ルール セントラリズム﹂とは前者の西欧型モデルに重なるのであろう。

U

ph am

は、日本型モデルについては、それを、﹁

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ur ea uc ra tic i

nf om ali sm

と呼ぶことにしたい﹂(

P. 17

)と述べている。 さらに、井个田は、以上とは別のきっかけについても言及している。それは、毛利与(弁護士)との出会いである。井个田は、鑑定や法廷での証言を毛利から依頼される。﹁日本における証拠中心主義はいつからできたのか﹂﹁歴史学で言う証明というのはどういうことか。法律学の証明とはどこが違うのか﹂と尋ねられたりもする。井个田が毛利に依頼された仕事を論文にしたのが、﹁官民有区別をめぐる諸問題

― ―

宮崎県福島地方の里牧の帰属について﹂法制史研究二号(年)である。 この論文の前提になっているのはつの事件、すなわち、東京地方裁判所で昭和年月日に敗訴判決が出されたあと控訴され、東京高等裁判所で当時係争中の事件である ₂₀

。井个田の論文は、東京地方裁判所の判決が採用している、当該里 などの官有民区別に係る歴史認識の誤りを正し、さらにはその根拠にされている高倉又二の調査報告書二点

― ―

﹁高鍋藩︿牧﹀問題の考察﹂(孔版で〇六頁)、﹁高鍋藩林野制度の考察﹂(孔版で頁、昭和年二月)の所見を批判することに力点のつが置かれている。 控訴審では、昭和六〇年月二日に敗訴判決が出され、原告による上告はなかったので、高裁判決が確定している。井个田は、このように、毛利との交流を通して裁判実務に関わることでもまた裁判史へと関心を向けていく。

 (二) 法制史学会第回研究大会 八五年〇月二~日、同志社大学を会場として、法制史学会第回研究大会が開催された。法制史学会

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(   同志社法学 六五巻二号 は、通常、毎回の学会運営の企画立案をその時どきの学会開催校に委ねている。そこで、井个田は、﹁裁判史をめぐる諸問題﹂を共通テーマにした小規模なシンポジウムを企画の中に組み入れた。年月二日、中央大学を会場にして開催された法制史学会創立総会以来、裁判史が共通課題とされたのは、これが最初である。報告者は熊谷開作、浅古弘、籾山明、柴田光蔵、志垣嘉夫である ₂₁

。 報告は報告者のそれぞれの関心に従って組み立てられたものである。したがって各報告の間をつなぐ接点はない。ただつあるとすれば、それは、裁判史研究に対する関心がこののち学会の中に広がってほしい、という井个田の期待である。

 () 裁判史研究会 井个田は、八六年に裁判史研究会を立ち上げる。研究会での主な作業は、丹後田辺藩裁判資料の調査、解読である。目指すところは、﹁英国をのぞいては最近はじまったばかりのヨーロッパ諸国の裁判資料の調査研究の成果との比較をつうじて、日本の裁判資料の作成・廃棄・保存・利用の特徴を明らかにし、それが日本の裁判制度の歴史的特色といかにかかわるかを解明する﹂ことであった ₂₂

。 裁判史研究会は、平成二~年度、科学研究費の給付を受けて作業を継続し、﹁報告書﹂(平成五年月)を作成する。井个田は、その中で、

Jo hn H . B ak er e dit ed , Judicial Recor ds, Law Reports and the Growth of Case Law , 19 89

所収の

B

ak er

の手になる﹁序文﹂や論文

Recor ds, Reports and the Origins of Case-Law in England

の抄訳をしている。以下、かなりの長文になるが、﹁序文﹂の抄訳を引用しておく。この引用を通して、先のイタリアの二人の法学者

G

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の考え方に、したがってまた井个田のそれにも、

B

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の考え方がどれほど重なるかを確認して

(15)

(   同志社法学 六五巻二号

もらいたいからである。

   ﹁イングランドの法律家の方法論と大陸の法律家の方法論との相違のつは、前者が殆ど判決されたケースから立論するのに対して、後者は法典と理論的著作から立論することであると般には考えられている。このことは、コモン・ローの法律家が個別的事例から事件に適用可能な般理論を理由づけるのに対して、大陸法の法律家は般理論から個別的なものへと理由づけてゆくと思われていることを意味する。もうひとつの相違は、コモン・ローの法律家は、教義で育てられた法律家よりも、裁判所の判決や法廷での行動・弁論に、より大きな意義を認めるということである。事実、大陸では、

N on e xe m pli s s ed le gib us iu dic an du m e st

﹁先例によらず、法律によってそれが裁判されるべきである﹂(

C od . J us . 7 , 45 , 13 .

柴田光蔵﹃法律ラテン語格言辞典﹄五頁)、といわれている。   もちろん、このように単純化し過ぎると誤りとならざるをえないし、納得できない響きをもつこととなる。判例法の国で法原理を抽象的に把握することはむずかしいとはいっても、リーガル・マインドをもつ実務家たちも般原理を定式化して所与の状況に当てはめるのが常である。他方、大陸諸国であっても、実務に携わるかぎり裁判所が過去におこなった判決について何も知らないわけにはいかない。いやしくも成熟した法制度が、法学のレベルであれ、行政のレベルであれ、個別的なものを普遍化し抽象することや原理を洗練すること、あるいは原理が具体的ケースに適用される方法について配慮することを避けることができると考えることはできない。   現代のこのように単純化し過ぎた認識が現在の法的世界の真実をどう正しく認識できているかどうかはここでは別問題である。われわれは、こうした対比が、フォーテスキューが五世紀にイングランド法と大陸法を対比して以来生じたものでも、またフルベックが六〇年にコモン・ローとローマ市民法とカノン法とを比較した時に生

(16)

(   同志社法学 六五巻二号 じたものではないことを知っている。しかし、これらの書物が法制史へのガイドとして影響を与え、その後の研究者を明らかにあやまった方向へ導くようになったことも確かである。方では、イングランドの中世の法実務家もつの理論体系を持っていた。法制史家はその存在をつい忘れがちだけれども、中世イングランドの法学は真の意味で継受されたローマ法の学習であり教育であった。他方で、中世ヨーロッパ大陸の法律実務家の方も、個別のケースの判決を敷衍して裁判に用いている。法学博士によって書かれた

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(法的助言)は、まとまりになった事実に対する法原理の適用であった。このようなケースを集めたものは多くのヨーロッパの諸国で流布していたが、それらは裁判所のケース・ローとは呼ばれずにアカデミックなものといわれてきた。カノン法大全の大部分を構成するローマ教皇の教書類もまたケース・ローと考えられうる。裁判所の判決ではないけれども、ある事例への主権者の言及の特殊な例示を考慮することで、原理へと促進される、いわば原理へのガイドという点でケース・ローだといえるのである。この種のケースを集めたものが真の意味での法源であったことは殆ど疑うことができない。それらは学ばれ、注釈をつけられ、権威あるものとして使用された。この広い意味でのケース・ローが存在すること自身、またそれが裁判と法学との両方の目的にたいして重要な意味を持っていたことが、われわれの関心をそそるのである。法は裁判所によって得られた判決のなかに探し求められ発見された限りで法なのである﹂ ₂₃

 本書における

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たちの直接の研究対象は、引用文中の﹁広い意味でのケース・ロー﹂ではなくて、実際の様ざまな事件の判決のなかに、﹁裁判所が探し求め﹂、そこから﹁見つけ出した法﹂である ₂₄

。だから、裁判記録や﹁ロー・レポート﹂は、その法に接近するための必須の資料ということになる。では、その裁判記録などは欧米諸国でいつ誕生しどのように保存されてきたのか。先の

B

ak er

編著の目的のつはこの点を明らかにすることに置かれている。日本の

(17)

(   同志社法学 六五巻二号

裁判資料の解読を進める井个田の目は、このように、常に、ヨーロッパにおける裁判資料や裁判をめぐる研究の動きに注がれていた。 裁判史研究に対する井个田の関心が具体的なものになり始めるのは八〇年代の初めである。井个田は、裁判史研究に対するその関心を日々私に語ってくれた。そのことが、中世法の在りようの実際を明らかにできる材料を何にするかを考えていた私の目を、裁判資料に向けさせることになった。そして、出会ったのがフランク王国時代︹五~〇世紀︺の裁判資料を目録にした

R ud olf H üb ne r, Gerichtsurkunden der fränkischen Zeit, N eu dr uc k de r A us ga be W eim ar 18 91

93 , S cie nt ia V er la g, A ale n 19 71

である。 裁判史研究、裁判資料に対する井个田や私の関心は、そののち、ある事件によって思わぬ方向からさらに強められることになる。

 判決原本

― ―

廃棄か保存か  () 事 件  〇年度から年間の科学研究費補助を受けて本格化した、裁判史研究会による﹁丹後田辺藩裁判資料の研究﹂がその年目の区切りを迎えた 二年、裁判資料それ自体のもつ貴重な学術的価値を学界に広く強く認識させる事件が起きる。最高裁判所が同年﹁月二日の﹃事件記録等保存規程の部を改正する規程﹄で、これまで永久保存とされてきた民事判決原本につき、その保存期間を五〇年とし、確定後五〇年の保存期間を過ぎたものは廃棄することに改めた﹂のである ₂₅

。日本学術会議や日本弁護士連合会など各界から、民事判決原本︹以下、判決原本と略記︺保存を要

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(   同志社法学 六五巻二号 請する声がすぐにあがった。 法制史学会も 二年月〇日に判決原本の廃棄については慎重に考慮してほしいという要望書を最高裁判所に提出し、翌 年五月駒澤大学で開催された法制史学会第五回総会で﹁司法資料保存の歴史と現代的課題﹂を共通テーマにしてシンポジウムを行う。そこでの討論を踏まえ、判決原本を永久保存することを求める要望書を五月二日最高裁判所に提出する。 問題の局面こそ違え裁判資料の保存の歴史をテーマにしている点で、シンポジウムでの各報告 ₂₆

の目線は

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編著の先の諸論文と同じであるし、裁判記録がもつ歴史資料としての級の価値を学界に知らしめようとする点で、各報告者の問題意識は結果的に井个田とそれとつながることになった。井个田は言う ₂₇

   ﹁さらに、これまで日本の法がややもすると制定法主義・法典中心主義であるとされてきたためもあって、法制史の研究や叙述も立法史やせいぜいが法理史に終始し、裁判の歴史的研究さえもが裁判制度の全体像をあきらかにすることにとどまり、判決や裁判過程の詳細な歴史的研究は不十分であった。制定法の研究は数多くても、判決原本や裁判記録を活用した研究は意外に少なかった。そうした理由で、日本法制史研究者の側からも裁判記録の法学的重要性を積極的に訴える提言は少なかったのである。それは、判例法の伝統の強い英米諸国とちがって、日本の法の歴史研究者が、制定法を中心に法の歴史を叙述するにとどまっていたことと無関係ではない。判決原本の保存の重要性を指摘したものも今回の判決原本の廃棄通達問題以前にはほとんど見あたらなかった。むしろ今回の判決原本保存要求は、法制史研究者としてはじめての声ともいえるものである。ちょうど開発におそわれてやむをえず発掘調査をせざるをえない考古学の緊急発掘に似た緊急的保存提言といえなくもない﹂。

(19)

(   同志社法学 六五巻二号

 (二) 判決原本の保存 判決原本は、その保存を求める各界の声や林屋礼二を代表にして急きょ結成された﹁判決原本の会﹂の機敏な活動などによって廃棄を免れ、現在、国立公文書館つくば分館に移管され保存されている ₂₈

。判決原本のデータベース作成作業も国際日本文化研究センターにおいて進められる。同センターのホームページにおける二 〇〇八年月時点での情報によれば、明治初年から明治二年までの判決原本

― ―

件数にして五万〇件

― ―

のデータベース化が完了している。明治二年からの判決原本のデータベース化は現時点では行われていないようである。 判決原本を活用した研究書の刊行も始まっている。以下はその例である。川口由彦、飯田泰、村上博、濱野亮、岩谷十郎編﹃明治・大正 町の法曹﹄法政大学出版局(二〇〇年)、林屋礼二、石井紫郎、青山善充編﹃明治前期の法と裁判﹄信山社(二〇〇年)、林屋礼二、菅原郁夫、林真貴子編著﹃統計から見た明治期の民事裁判﹄信山社(二〇〇五年)、林屋礼二﹃明治期民事裁判の近代化﹄東北大学出版会(二〇〇六年)。

 () 判決原本の資料的価値は知られていた

( 1 )  明 治 前 期 司 法 史 料 研 究 会

 前章の引用文中で、井个田は、﹁判決原本の保存の重要性を指摘したものも今回の判決原本の廃棄通達問題以前にはほとんど見あたらなかった﹂と述べている。確かに、判決原本の保存というテーマを真正面に押し出した﹁提言﹂はなかったかもしれない。しかし、判決原本の資料的価値がどれほど大きく、またその保存や管理がいかに重要であるかを伝えるメッセージは、特に五〇年代後半から学界や社会に向けて発信され続けている。 判決原本廃棄問題が発生した 二年に番近い時点で言えば、法制史学会第二回総会( 〇年月、青山

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(   同志社法学 六五巻二号 学院大学)における報告がある。報告テーマは﹁﹃司法省裁判所民事判決原本﹄について﹂。報告者は、浅古弘、岩谷十郎、霞信彦、向井健、瀧川叡。 この報告者五名と利光津夫は、先の学会報告に先立つ 八年秋﹁明治前期司法史料研究会﹂を立ち上げている。最高裁判所が 二年月二日の﹃事件記録等保存規程の部を改正する規程﹄を決める年前のことである。 私は、報告者の人の岩谷十郎氏に、この共同報告を企画した意図は何かをメールで質問した。その際、私は、共同報告者の、判決原本の保存問題に対する先見性に言及した。以下は、この質問などに対する岩谷氏の返信(二〇年二月二日付)である。﹁報告は、瀧川先生が音頭を取られて、当時東京高裁の保管庫にあった、司法省裁判所の判決録の存在を世に知らしめるという目標の下ににわかに組織されたものなのですが、瀧川先生も元裁判官としてその後の資料保存の運動に関わられてゆかれましたので、その意味では、岩野先生がおっしゃるように﹃先見﹄性があったのかもしれません。刑事判決資料の保存問題 ₂₉

も、瀧川先生は大事だとおっしゃっていました﹂。 報告者の人である瀧川は、先の報告を、﹁﹃司法省裁判所民事判決原本﹄について﹂というタイトルで論文にする。そして、その論文を組み入れた著書を編み、﹁判決原本﹂保存問題が起きる前年の 年月に刊行する。書名は、﹃日本裁判制度史論考﹄(信山社)である。この著作の﹁はしがき﹂で、瀧川は、判決原本が廃棄される可能性があることに言及して、廃棄は避けなければならない、と警鐘を鳴らし、また提言をしている。

   ﹁民事判決原本は事件記録等保存規程(昭和年最高裁判所規程八号)により現在でも永久保存であるが、般に公開されているわけではなく、その閲覧、謄写の許否は各庁(高、地裁)の司法行政上の措置に委ねられており、その整理状況も各庁まちまちである。この点に問題がないわけではないが、判決原本永久保存の最大の問題点

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(   同志社法学 六五巻二号二〇

は、逐年増加する判決原本の収蔵場所の確保であり、かつてマイクロフィルム化が企図されたが、現在その作業は行われていない。従って、早晩永久保存の見直しが行われる時期が来るであろう。その際刑事確定訴訟記録法(昭和六二年法律六号)に倣い、判決原本の保存期間を例えば五〇年とし、その期間が過ぎたものは、各庁の定める参考記録(同法条参照)を除き、廃棄されることになる可能性が大きい。折角現在まで保存されている明治期の判決原本が調査研究がなされないまま廃棄されるのを防ぐため、国立公文書館に準じた施設を造ることを検討すべきではなかろうか﹂(ⅱ頁)。

( 2 )  沼 正 也 と 明 治 前 期 大 審 院 判 決 録 刊 行 會

 判決原本廃棄問題が発生した 二年から二番目に遠い(但し敗戦後の)時点で言えば、﹃明治前期大審院民事判決録﹄の刊行が判決原本の学問的価値を世に再認識させている。難航する編集作業が続くなかで、 五年月、第巻﹁自明治八年月/至明治〇年二月﹂がようやく上梓される。出版社は、京都を拠点に現在も活躍中の和書房である。 明治前期大審院判決録刊行會設立のきっかけを作り、そして會成立後の編纂作業において中心的な役割を果たしたのは、沼正 (当時、中央大学)である。第巻﹁序﹂に次の記述がある。﹁この刊行計晝が具體化したのは本年︹= 五六年︺早春のことである。刊行委員のうち堀内︹節︺・沼の兩委員がまずこれに着手し、とくに沼委員はこれに專心没頭して、判決原本との對合、撮影及び原本筆寫の指導を行い、その後福島︹正夫︺委員もこれに参加し、かくて〇箇月、総合索引を除く全巻の編集はほぼ完了した﹂ ₃₀

。 本會の委員は二名 ₃₁

であり、そのうち法制史の専門家は名

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石井良助、手塚豐、前田正治、矢田男

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である。 〇〇

参照

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 本件は、東京地判平成27年判決と異なり、臨時株主総会での定款変更と定

   ︵大阪讐學會雑誌第十五巻第七號︶

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

高裁判決評釈として、毛塚勝利「偽装請負 ・ 違法派遣と受け入れ企業の雇用責任」

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