空気の(再)発見 : 60年代後期から70年代初めにか けて空気構造が担った社会的な意味をめぐって
著者 遠藤 徹
雑誌名 言語文化
巻 1
号 4
ページ 781‑836
発行年 1999‑03‑10
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004310
空気の(再)発見
―― 60年代後期から70年代初めにかけて 空気構造が担った社会的な意味をめぐって ――
遠 藤 徹
「自分が呼吸する空気にお金を支払わねばならない社会を作りだせ[空気メ ーター、禁固刑または空気の希少化を行なうこと、料金未納の場合は必要に応 じてただ窒息(空気のカット)させよ]」(マルセル・デュシャン,1915)
「空気にしたら楽だった」(無印良品「エア・ファニチャー」のキャッチコピ ーより,1998)
(Ⅰ)
空気はわれわれの体の中にあり、われわれは空気の中に暮しており、地球 という惑星はそうした空気の中にあることを最大の特徴のひとつとしてい る。空気はわれわれと他の人間や環境との間を媒介するものであり、光、熱、
音、味、臭い、圧力の体験を伝達する物理的な媒体でもある。なにより、われ われはその空気を呼吸という方法で取り入れることを通して自らの身体とい うエネルギー構造を支える生物である。われわれと空気の関わりはかくも深 い。しかし、そのような事実に長らくわれわれは無自覚であった。空気をわ れわれが初めて意識するようになったのは、1760年から1800年の間のいくつ かの発見のせいだといえる。それは、イギリスの化学者プリーストリがフロ ギストン、すなわち酸素を発見し、ラボアジェが自然の持つ元素的性格を露
「言語文化」1-4:781−836ページ 1999.
同志社大学言語文化学会©遠藤 徹
わにし、ボイルとフックがガスの圧力と量の関係を定義づけたことによって、
空気そのものが構造をもつ物理化学的媒体であることが強く意識されるよう になったことを指している。
しかし、その構造に無自覚であった時期から、人類の技術的発展の歴史と は、この空気を用いた構造物を発達させることでもあった。石器時代の風を 使った楽器、船の帆、吹き矢から、動物の膀胱を使った浮き袋、貯蔵庫、ふいご、
竹を使った空気ポンプ、軍隊のエアガンに至るまでさまざまなかたちでわれ われは空気を活用する方法を模索してきたのだったから(図1)。しかし、そ れ以上の応用が可能になるためには、20世紀後半のプラスチック技術の成熟 を待たねばならなかった。
芸術的な観点からも空気は捉えられてきた。空気が持つ美的性格を最初に 理解したのはレオナルド・ダ・ヴィンチであるといわれており、彼は小さな 部屋の中に膨らませた豚の膀胱を配置して空気的環境デザインを施したのだ った。1 20世紀においては、マルセル・デュシャンが空気を最初にアートに 活用した。彼は、1914年にピカソと空気家具や空を飛ぶ構造物について議論 を交わした後、1919年にはパリの空気50ccを詰めたガラス球「パリ・エアー」
を製作したのである。続いて1923年には、ロシアの前衛的芸術運動である至 (図1)
高主義(suprematism)の中心人物であったカシミール・メルヴィンチが、
空気球を用いた衛星都市計画を構想し、1935年にはバウハウスのモホリ・ナ ギが空気家具や空飛ぶ構造物への圧縮空気の使用について論じた。1957年に はアクション芸術で有名なイヴ・クラインがパリでの展覧会の会期中、サン ジェルマン広場の上に千個の風船を浮かべ、これを「静力学彫刻」あるいは
「非物質」と名づけた。1960年代にはニューヨーク現代美術館(MOMA)の 16000平方フィートのテラスを、レス・レヴィンがプラスチック製の泡
バブル
で埋 め尽くし、これを「星の庭」と題した。この泡は、アクリライトのプラスチッ ク・シートを射出成形法で加工したもので作られていた(図2)。この60年代 は空気芸術(pneumatic art, pneu art)と呼ばれるジャンルが誕生した時代でもあ り、ポップアートのアンディ・ウォーホル、プレストン・マクラナハン、デ ヴィッド・メダラ他多くのアーティストたちによって空気が芸術の素材とし て本格的に注目されるようになっていき、これによって空気は完全に芸術の 素材として定着して行く事になるのである。クリストが製作した円筒状の筒 に空気を包み込むという作品は、彼の一連の包み込む作業の一例であるが、
それが他の物と違って画期的だった点は、空間の所有という新しい概念をそ こに提示したことであろう。
(図2)
このような空気の存在の意識化を背景として、実用的な構造素材として空 気を活用しようという動きもまた突如として、デザインや建築の分野を中心 としてこの60年代に生まれてくる。そして、空気構造(pneumatic structure)
は60年代の後半から70年代初期にかけて一時的な大流行をみることになる。
このジャンルの先導者の一人である軽量建築の第一人者セドリック・プライ スは、空気構造では、人々が呼吸する空気そのものが同時に主要な構造的な 力として機能することにこのジャンルの建築の最大の意味を見出している。2 何といっても、それまでは当たり前にあり過ぎたために無いも同然の扱いを 受けていた空気が、構造を支える物質として発見されたことは革命的な出来 事だからである。「アーキテクチュラル・デザイン」誌(以下AD)72年3月 号には、空気構造は、通常眼に見えない大気の恒常的変容を、薄い膜を通し て可視化し、われわれに空気の直接体験をもたらし、われわれの空気との関 係を変えるものだという記述がある。3 しかも、空気の構造的特質を利用し た構造物は、従来の素材よりも簡便かつ安価に作ることが可能であった。こ の意味において空気構造は、専門的なものではなく、大衆的なものとなりう る可能性を秘めていることも見逃してはならないだろう。4 そして、空気構 造がはらむ最大の利点はそれが非常に軽く、移動可能なものとなるという点 にある。つまり、この技術の革命的な点は、われわれの現在の文化や技術の 限界である固定性からの解放という可能性をもはらんでいるわけである。5
本論は三部構成をとっており、まず第一部(Ⅱ)では、このような空気構 造の1960年代後半から70年代初めにかけての歴史的な展開過程を概観し、次 いで第二部(Ⅲ-1〜6)で、そうした流行を生み出した歴史的・文化的な背 景について考察する。さらに、第三部(Ⅳ-1〜2)において、このような空 気構造を単体としてではなく、社会変革そのものをもたらす媒体として実際 に活用しようとしたいくつかの運動について述べ、最後(Ⅴ)に簡単なまとめ を付したいと思う。
(Ⅱ)
空気構造の歴史は、1950年代後半に溯る。初のプラスチック住宅である、
モンサント社の「モンサント・ハウス・オブ・フューチャー」がディズニー ランドにオープンしたのと同じ1957年に、アーヴィング・エアー・シュート 社の「エアー・ハウス」が万国博覧会に出品されたのである。これはビーチ や休暇で使うための仮設住宅をイメージして作られたもので、ヴィニール・
コーティングしたナイロンを素材としていた。短いトンネルでつながった二 つのドームからなっており、砂で重しを作って安定させるという仕組みにな っていた。床の構造をデザインしたのは、当時すでに90歳になっていたフラ ンク・ロイド・ライトであった。ライトの知名度にもかかわらず残念ながら 当時の社会に受け入れられるには、この建築物は前衛的すぎ、「エアー・ハ ウス」が量産体制に移ることはなかった。6 1959年には、ピエロ・マンゾー ニの「フローティング・ボディ」が作られた。これはミラノのグループⅠと いうアーティスト集団の手になる巨大な空気構造であった。1961年にはデュ ッセルドルフで、ドイツのゼロ・グループが何百もの風船にヘリウムを詰め て空に放つというパフォーマンスを行った。7
60年代の初期63年から4年にかけて、空気構造の最初の大御所となるセド リック・プライスが、「水上に浮かぶ石油貯蔵庫」(図3)「制御された風船リ フト」(図4)「空気家具」「ハグホール」「ポップアップ・パーラメント」「オ ーディトリウム」などの先駆的な空気構造物のプランを次々と発表する。8 半ばの65年ごろには、空気デザイナー(Pnu Designers)と呼ばれたローリッ ド・オルトナー、ギュンター・ザンプ、クラウス・ピンターらによって組織 され、オーストリアに本拠をおいていたハオス・ルッカー・カンパニーが
「空気宇宙(Pneumakosm)」を製作した。これは、巨大な電球のような形をし たドーム状のカプセルであり、これを既存の建築物に取付けることによって 景観を著しく変容させるというものであった9(図5)。
(図5:ハオス・ルッカー・ガンパニー「イエロー・ハート」) (図3)
(図4)
67年はいわゆる空気構造椅子の革新の時代であり、後に述べるイタリアの デザイナーたちの手になる画期的な作品「ブローチェアー」が発表されたの がこの年であった。クオーンビイの「パンパディンク」、ロジャー・ディー ンの空気椅子、クエーサー・カーンの金属リングでつながった水、空気、ガ スいずれを詰めてもよい家具なども、これに続いて発表された(図6)。10 クオ ーンビイは、さらに空気式の自由な形態を作れる二重膜のドームで包まれた 庭という構想も発表した。これは空気ドームによって天候からの影響を極力 排除する試みであり、挿し絵では、太陽の下、庭の内部でプール、樹木、と 移動式階段、橋などと共存する空気ドームの姿が描かれていた(図7)。11 20世 紀フォックス社の映画『アンタッチャブル』のために、クオーンビイらによ って直径80インチの空気ドームが製作されたのもこの年であった。これは実 際には、ナイロンネットで補強した透明なPVCで作られた半球であったとい う。12 同じく67年には、ポール・ウッズがインカディンク社のために、透明、
赤、白、青などの色彩を持ったいくつかの膨張式の空気チューブからなり、
ナイロンのナットやボルトで留めることによって自由な形に変形可能なソフ
(図6:クェーサー・カーンの空気家具)
(図7)
ァをデザインした。これは広げれば床全体を覆うことも可能なものであった。13 インカディンク社は、他にも、磨いたPVCラミネート製の、透ける紫、赤、
紺、白などの色を使った、高さ24インチ、正面18インチ、直径33インチのボ ウル型をした「エアー・チェアー」も発売している。14
68年には、クエーサー・カーンの空気椅子がたった二、三ヶ月の内にフラ ンスだけで5千個売れる大ヒットとなった。カーンはさらに温泉プールの上 に浮かぶ空気構造の部屋や、空気構造のプラスチックシートにエンジンを取 付け、その上をガラスで覆った自動車の試作品など画期的なアイデアをいく つも提案した。これら透明で軽い家具や住居は、従来の中味の詰まった重い 家具と比べるとまるで幽霊のような存在であり、伝統への強烈なパロディと しての力を持っていたといえる。15 俄然、空気構造は社会の注目を集めるに いたり、この67年から68年にかけては、ブライトン・フェスティヴァルやパ リ現代美術館などで空気構造展が開かれ、アメリカでも68年から70年にかけ て「エアー・アート・ショー」が各地を巡回して廻り、さまざまな空気構造 建築が展観された。68年は、先述したようにクリストがドクメンタ68におい て空気を包むアートを完成させた年でもあった。16
このような動きの中では、空気家具はもはやより大きな流れの一部に過ぎ ず、仮設診療所、骨折を支える即席のパッド、ダム、ボート、マットなどの 多様な実用品に空気構造が応用可能である事が明確に示された。パリの空気 構造展では、空気構造の応用としてのウオーター・ベッドが展示場の床とし て使われ、動き、手触り、重さ、濃度、光の屈折、空気の泡、表面張力、波 のパターンなどが体感できる初めての床として注目を集めた。17 この年、日 本でも倉島四郎によって、ヒルトンホテルに空気構造を用いたキューポラが 建てられている。18
1970年には、アーキグラムの影響を受けたマーチン&ロジャーのディーン 兄弟が、「マインド・フィールド」や「退行ポッド」を製作した。「マイン ド・フィールド」は球形の家具で、内部に入るとそこに映像が映し出される
というものであり、「退行ポッド」は、ネオンライト、スピーカー、アンプ、
テレビ、ヴィデオが備え付けられたポリウレタン製の壷で、まさに何不自由 なく内部に閉じこもることができる現実からの退行の場であった。マーチ ン・ディーンは、これらの作品はドラッグの代用品であると述べている。す なわち、薬物を用いることなく使用者の意識状態を高めるものだというわけ である。つまり、これらの構造物のイメージは当時のサイケデリック・カル チャーと密接な関連をもっていたということになる。19
このような実験的作品だけでなく、この年は実用的な用途に空気構造が用 いられ始めた年でもあり、ケンブリッジ・アート協会のマイケル・ブラウン は、余暇協会のフェスティヴァルのために屋内用の仕切りとして空気柵を設 けた。これはプラスチック製の柵で、ファンで空気を送り込んで形を作るも ので、重りとしては水チューブが、接合材としてはセロテープが使われてい た。20 さらに、英国ではカーディントンの研究開発施設によって、軍事用の 空気構造製品も作成された。これは、空気を抜けばトラックに積み込んで運 ぶ事ができる空気構造のボートで、エンジンも備え付けられていた。この研 究所はほかにもハリボテの戦車などを空気構造で作っている。21 しかし、空 気構造の発展史において、この年もっとも画期的な出来事は日本の大阪で開 かれた万国博覧会のパヴィリオン群であった。多くのパヴィリオンが空気構 造を応用していたからあり、なかでもアメリカ館、そして村田豊によって設 計され、大成建設によって建造された富士グループのパヴィリオンが当時の 技術の最高峰に位置するものであった。このパヴィリオンは、空気構造によ る巨大なヴォールト状の24本のチューブからなっていた。個々のチューブは、
直径4メートル、長さ110メートルというスケールであり、パヴィリオン全体 の直径は70メートルであった(図8)。22 フライ・オットーは、この万博におい て、空気構造は最初の大きな突破口を開いたとコメントしている。23
1971年には、より生活に密着した形での空気構造の利用が進んで行く。たと えば、ホワイト・シティには空気構造を用いた、31人が同時にプレイできる
ゴルフ・ドームが作られ、24 「オート・マット」と呼ばれる空気式の即席車 庫をボンネット部分に備え付けた自動車も開発された。25 マンフレッド・シ ードヘルムは、キャンピング・カーのような形から空気構造で半球状のドー ムを作り、部屋を拡大したり、殖やしたりできるモービル・ハウスを発表し ている。26 オランダのゾンスピーク公園での展示会では、イベント・ストラ クチャー・グループという集団によって、直径3メートルの空気リブで支え られたビデオ・パヴィリオン、直径12メートルの空気構造ドームである情報 パヴィリオン、二重膜の空気構造で作られた会議場の三つの空気パヴィリオ ンが建てられた。27 フェリックス・ドルーリーは、エール大学の建築科の学 生と共に、石器時代の洞窟がもたらしたであろう心理的効果の再現を目指し、
ポリウレタンのドームをつくった。これは、空気圧で膨らませたナイロン膜 の上に4センチ厚のポリウレタンフォームを塗り、それが固まったらナイロ ンを取り除くという誰にでも作れる簡単な製法であった。コンクリのように 硬く、メレンゲのように柔らかいポリウレタンフォームの感触は、ポリエチ レンなどとは異なり暖かみを感じさせるもので、リラクゼーション効果が高
(図8)
いとされた(図9)。28 実験的な方面では、シドニー大学のポール&スミスによ って高圧力空気構造による複数の階をもつ塔のモデルが作られた。また、ハ オス・ロッカー・カンパニーはミース・ファン・デル・ルーエが設計したラ ンゲ・ハウスを空気構造で包み込み、さらに家の内部を空気の肺(風船)で 包み込んだ。このイヴェントを彼らは「カヴァー」と名づけた。29
1972年には、実用面では前衛建築集団クリサリスによるマルチ・シアター が作られた。これは、移動式の映画館であり、防火PVCとナイロンで天井を 強化した空気ドームと、PVCラミネートとポリエステル強化膜で作られたコ スモス・シアターからなり、30人を収容する事が可能なドーナツ型の劇場で あった。30 またこの年、プログレッシブ・アーキテクチャーの第19回デザイ ン大賞を受賞したのは、ペーター・ド・ブレッドヴィユが所属するワークス による作品であった。これは、10台のトラックを構造材として用い、三つの 空気式アーチを支柱とした空気膜ドームであった。これもまた器材はトラッ
(図9)
(図11) (図10)
クに積込み、各地に移動してその場でイベント会場などを即席でつくれると いうシステムであった(図10)。31 クラウス・ゲーリングは、直径10メートル、
高さ1.2メートルの遊戯用マット「ニューマニア」や、直径5メートルの空気 ボール「クーゲル」、10メートル、25メートルの空気の棒「ジリンダー」な どの空気構造玩具を製作して、ドイツのバブルクラフト展に出品した。32 ユ ニークなものとしては、ハオス・ロッカー・カンパニーが製作した「サイ ン・ポスト」が挙げられるだろう。これは、斜め方向を指し示す指の形をし た空気構造で、外側はPVC、内側は鉄骨材を使い、基盤はコンクリートで固 めて安定性を増したものであった(図11)。33 さらに、「空気筏」、「空気飛行 機」、「エアーモービル」、「ホーヴァーチューブ」など様々な空気構造物が、
環境との関わりを体験する為の装置として作られたのもこの年であった。
このように、70年以後3年間ほど空気構造の実用的な応用や、実験的な試 みが盛んになされて行くが、73年以降になると実用的な応用の一部は定着し てもはやメディアに取り上げられなくなり、他方で実験的な試みは次第に退 潮していってしまう。ある意味では、72年を境として空気構造の意義は次第 に見失われて行くのである。
(Ⅲ-1)
それでは、次に上述のような空気構造の流行を生み出した、社会的な背景 について概観してみたい。本論では、これを考察するのに4つの視点を準備 した。それらは、1)プラスチックという素材を前面に押出した、ポップカル チャーという形を取った対抗文化運動の一形態、2)等身大の生活を目指した 生活革新の思想、3)従来の建築的思想に内在する保守性に反発した建築の革 新を目指す運動、4)環境と人間との関わりをめぐる意識の深まりである。こ れらはすべて、いわゆる60年代の対抗文化運動の諸側面ともみなしうるもの であるが、ここでは、それぞれの要因の独自性に着目して論じていくことに する。
まずは、第一のプラスチック、およびポップカルチャーとの関連について 見ておきたい。空気構造は、プラスチックという新しい素材なくしては存在 し得ないものであるが、この物質は、20世紀の歴史とともに生活の中へ入り 込んできたものであった。プラスチックが、日常的な物質となり得たのは、
軽さ、丈夫さ、構造でありつつ彫刻でもありうるという成形性の自在さなどと いう利点があったからである。しかし、プラスチックには表面、感触、柔軟 さ、製法が従来の素材と劇的に異なる等の独自性があったため、それがプラ スチックというものを理解しがたいもの、容易には受け入れがたいものとし ており、プラスチックをプラスチックとして評価する美学はまだ確立されて いなかった。その確立は、ポップカルチャーの定着を背景とした、いわゆる ポップの美学の登場を待ってはじめて可能となったのである。
そのようなポップの美学は、ポップアートという新しい芸術運動によって うち立てられた。このポップアートが創始されたのは、1950年代後半の英国 においてであった。そのころまで英国における前衛芸術とはモダニズムのこ とをさしていた。その主導者はハーバート・リードであり、彼は現代美術協 会を主宰してこの運動の啓蒙、教育に勤めていた。しかし、リードはすでに 日常生活を浸しはじめていたポップカルチャーの重要性には気づかず、それ をアートとを結び付けようという発想をもたなかった。そうした状況に反旗 を翻したのが若手のアーティストや評論家の集団であるインディペンデン ト・グループ(IG)であり、その構成員の一人であるジャーナリストのローレ ンス・アロウェイがポップという言葉を始めて芸術作品に対して用い、画家 のリチャード・ハミルトンの作品の中に初めてポップという文字が描き込ま れたのであった。そして、このIGに所属していたもう一人の重要な人物が 建築評論家のレイナー・バンハムだったのである。34
バンハムは1960年のエッセイ「在庫目録」において、現代建築には2つの力 が働いていると述べている。それらはすなわち、1)一般的な知識の集積とし ての「伝統」がもつ保守的な力であり、2)既存の知識体系に揺さ振りをかけ、
「ある」から「ありうる」世界へと時代を導く「開かれたテクノロジー(open ed technology)」であった。35 つまり、この「開かれたテクノロジー」の代表選 手こそがプラスチックだったのである。バンハムが引用している「メガスコ ープ」誌の記事には、ポップなもの、つまり丸い角、ヒップで、陽気で、合 成の色彩をもったものを作るにはプラスチック、鋼鉄、アルミが適していると いう記述がある。36 プラスチックには、1)テクノロジーや未来への関与、2)不 定形性、3)柔軟性、4)柔らかさ、5)装飾的な表面性などの特性があるが、それら はそのままポップの美学を体現するものだった。1960年代には、若者は消費 選択を通して自己の信条を表明するようになっていたが、それは永遠性への 欲望、すなわち硬さへの執着を捨て、絶えざる変化、すなわち柔らかさを信 条とするポップカルチャーを産み出すことになった。それゆえ、プラスチッ クはレコードから玩具やさまざまなガジェットや整髪剤にいたるポップカル チャーの多くの商品に形を変え、さらにクレアス・オルデンバーグやリチャ ード・アートシュワガーのポップアート作品の素材となった。しかし、それ だけではなかった。プラスチックの革新的な使用法と後に述べるフラーのジ オデシック・ドームとはつながり、全体的思考と脱中心的なライフスタイ ル、外宇宙のフロンティアやサイケデリックな内宇宙の探求とも結びついて いったのである。37
プラスチックのポップな革新性とは技術革新の歴史でもあった。1961年に はカリフォルニアのラディン・プラスチック社が、ポリプロピレンによるワ ンショットの射出成形で椅子の本体を製造した。単一素材を使い、組み立て という過程を経ずに一度の処理で椅子の本体が作られると言うのは画期的な 出来事であった。この時点ではまだ脚部は金属で作って取り付けねばならな かったが、1964年にはイタリアのカーテル社が子供用の椅子全体をワンショ ットの射出成形で作ることに成功した。38 また、ロジャー・ディーンは、
「サグ・バックス」または「ビーン・バックス」と呼ばれたポリウレタンの ビーズを詰めた袋型の椅子を製造した。これは、これまでの椅子とはまった
く似ても似つかないもので、まさに椅子形態におけるポップ革命であった。
それらはその斬新な形態ゆえ、「正当な」椅子とは認められず、当初購買層 として意識されていた低所得者層には受け入れられなかったが、その非公式 性、若さ、安さ、DIY精神が若い層に強い支持をうけることになった。39
この系譜の上に登場するのが、空気構造を用いた椅子であるが、これを可 能にしたのもまた1960年代半ばの技術革新であった。PVC(ポリ塩化ビニル) 膜のつなぎ目を電気的に封印する高周波接合技術の開発がそれであった。こ れによって、身体の重さが加わっても継ぎ目が容易には破れない空気構造が 作れるようになったのである。40 すでに、1962年にヴェルナー・パントンが 透明で軽い空気家具を提案していたが、この時点では技術が伴わなかった。
1964年にはセドリック・プライスとアーサー・クオーンビイがそれぞれ試作 品を制作していた。41 しかし、一般市場で広範に販売された最初の空気構造 椅子は、この最新技術を用いた「ブロー・チェアー」と呼ばれるもので、イ タリアのポップアートにあたるアンチ・デザインのグループに所属するパオ ロ・ロマッツィ、ドナルド・ダルビノ、ジョナサン・デ・パによってデザイ
(図12)
ンされ、ミラノのザノッタ社によって製造された(図12)。42 この椅子は、形 態こそ従来の椅子の形をなぞったものであったが、そこには柔軟性、柔らか さ、透明性、さらには従来の丈夫な家具とは異なる非永続性という特質など がそなわっており、まさに家具の概念を覆すポップな作品だったのである。
しかも、この家具は正規の家具の約半分という安価な値段で売られ、若者た ちから強い支持を受けることになった。当時の雑誌「テレグラフ・マガジン」
の「空気の上に座る(Sitting On Air)」という見出しが、この家具が当時放って いたポップな陽気さを伝えてくれる。43
この空気構造椅子は、さらに形態的にも革新的なガエタノ・ペスケのUP シリーズなどの新しい後継者を産んでいくことになる。これは、ポリウレタ ンフォームの7つの素材を自由に組み合わせて思いのままの形に組み立てら れるもので、7つの素材のうち6つが空気構造式になっていた。そして、1960 年代後半から1970年代初めにかけて、空気構造は対抗文化運動のイコンとな ってゆく。たとえば、1973年メリーランド州コロンビア郊外に、アンティオ ーク・カレッジの支局が作られたとき、その建物には空気構造が採用され、
建築科に所属する75名の学生と教官とがその制作に従事した。44 またデザイ ンや建築を専攻する学生たちの雑誌「クリップ・キット」は、すべての建築 家、デザイナーたちに、空気構造を使用することを推奨した。なぜならそれ は「柔軟で、軽く、安い」からであった。建築協会に所属する学生たちが作 ったキャンプ・パックは、背中に背負えるリュックの中に、いずれも空気構 造を利用した宿泊用のドーム、水タンク、喚気設備、冷暖房、台所、洗い場、ゴ ミ入れ、膨張式の床などが一揃い入っているというものであった。45 これは、
空気構造が空気というどこにでもある素材を用いるがゆえに、通常は小さく 畳み込めるという利点を最大限に活用したものであり、それは非定住という 新しい生活の様態の可能性を示唆するものでもあった。
(Ⅲ-2)
さらに、ポップとは大量生産、大量消費社会の申し子でもあり、それはす なわち、使い捨て時代のことでもあった。レス・レヴィンというアーティス トは、「使い捨ての美学」をアートにまで拡大しようとした。彼は、クリネ ックスと同じくらい手軽に買えてためらいなく捨てられるアート作品を作ろ うとし、プラスチックで大量生産した作品を低価格で販売したのである。46 ポップカルチャーからの刺激を取り入れた建築家たちの集団アーキグラム は、自らの名を冠した雑誌を刊行し、そのメディアを媒体としてまったく新 しい建築の概念を提出した。その「アーキグラム」誌第三号において、中心 メンバーの一人ピーター・クックは、われわれは気づかないうちに最初の使 い捨て文化に突入していると述べている。食品袋、ティッシュペーパー、ポ リ袋、ボールペン、EPレコードなど手に入れると同時に捨てる文化が始ま っているというわけである。そこでは、病院の紙製シーツ、短期間用住宅な ど社会全体のあらゆるレベルで、これまでは不変であったものが、消費習慣 の変化、つまりはわれわれの生活習慣の変化に従って置き換えられつつある。
それでは、とクックは次のような結論を導き出す。家も、遊び場も、職場も 同じように使い捨て可能なものとして捉えるべきではないのかと。衣服も毎 年買い替える時代であり、家具を子供の世代にまで残そうとは誰も思わない ではないか。使い捨て品の増大に伴って意識が変化するのは健康で積極的な 兆候であり、衰微ではなく消費社会の洗練なのだというわけである。47
車は大量生産されるようになったのに、家はまだ手作りであるという事実 をクックは問題にしているわけである。同じ「アーキグラム」第三号で、もう 一人の建築家ウォレン・チョークもまた「消費財としての家」と題したエッセ イを書いている。さまざまな建築物を接続してより大きな構造物を作るとい うプランであるプラグインや、生活に必要な最低限の要素を備えたカプセル を標準の生活基盤にするというカプセルホームの発想をもとに、家の大量生
産、あるいは家生産の自動化を呼びかけることがその趣旨となっている。48 アーサー・クオーンビイもまた、家を標準化することができれば大量生産の 可能性が生まれる、その際には素材をプラスチックにすればその可能性は大 きく広がるだろうと述べている。49 確かに、家を標準化すれば、材料を工場 で大量生産することができるのでコストを低く抑える事が可能になる。ウエ ルズ・ファーゴ銀行の見積もりによれば、1平方フィート当り通常の家屋で は18ドルかかるところが9ドルで済むというのである。50 ポップの美学を住 宅にも適応するならば、それは軽く使い捨てられる、安価なものとなるとい うことが当時考えられていたわけであり、空気構造住宅はその点から考える と理想的なものの一つであったということができるだろう。つまり空気構造 とは、必要な時存在し、いらなくなれば捨てられる文化と呼応したデザイン、
建築様式だったのである。
(Ⅲ-3)
伝統からの離脱は、大量生産や科学技術を肯定するポップな美学や、使い 捨て文化の受容、肯定という形でのみ行われたわけではなかった。それは、
伝統的な生活様式を疑い新しい生活様式を模索するというかたちでもなされ たのである。この運動の建築的な側面における指導者の一人がバックミンス ター・フラー(1895〜1983)である。彼は大恐慌時代にテクノロジーの予言者 として名をなし、ダイマクシオンカーやジオデシックドームなどを提唱し、
技術が新しい未来を切り開くという楽観的な世界観を説いた。フラーはきわ めて独創的な人物であり、インタビュー記事によると、1927年に人生の大転 機を迎えたという。この年フラーは、政府や企業にはできないことで、個人 が他の人のためにできることは何かと自問した。企業や国家に所属する人間 は、その組織の立場で考えることを要請される。お金儲けに囚われ、近視眼 的にならざるを得ない人々には、理解したり、感じたり、大きな原理を見つ けたりすることはできない。とすれば、自己中心的ではなく、汎中心的
(omnicentric)な個人のみが、宇宙に人間が存在することの意味を考えること ができる、つまり宇宙的規模で考える事が出来るという結論に彼はいたった。
それ以来、彼は徹底して個人としての立場を貫いて思考し続けた。すなわち、
一般的な宇宙の原理を発見し、それらを特殊な場合には道具や行為へと還元 することを始めたわけである。
彼は「閉じた系においては、高いエネルギーと低いエネルギーの間で揺れ や発展があり、集中や拡散がある。これは宇宙全体から最小の原子核にまで 当てはまる法則であり、いずれの系においてもエネルギーの絶対量は一定で ある」というボルツマンの法則を思考の拠り所とする。フラーによれば、す べての星はエネルギーをランダムに放出しており、これは自己拡散的なラン ダムさを増大させる、つまりエントロピー最大化の方向へと進む。しかし、
ボルツマンの法則は、このランダム化を補完する秩序の増大を要求すること になる。たとえば、太陽エネルギーは大気圏を通して色帯に秩序付けられ、
水に吸収され、植物に吸収され、光合成により秩序ある分子構造に変換され、
その分子が生物、鉱物などに分配されるわけであり、フラーはこの秩序化の 力をシントロピー(syntropy)と呼んだ。さらに、ランダムな出来事を秩序あ る利益に還元することをさして、フィールド化(fielding)と名づけている。そ して、すべての生物はシントロピックな存在であり、人間に固有な能力は、
厄介事や問題といった知的な無秩序状態を秩序化するシントロピックな能力で あり、これを発揮することが宇宙における人間の機能であると述べている。51
このフラーの提唱した概念の一つに「宇宙船地球号(Spaceship Earth)」があ り、これに刺激をうけたバーバラ・ウォードは「ホール・アース・カタログ」
という雑誌を刊行する。これは、生産、教育手段の自律性を回復し、それぞ れの個人が自らの経済と政治の主体となれるようにするための技術や方法を 地球的規模でカタログ化しようと試みたものであった。そこには、自家製ビ ールの作り方から週末のキャンプ装備の解説、「ファック・ザ・システム」
と題されたもうひとつのニューヨークへのガイドなど具体的な形で思想が表
現されている。この雑誌のコンセプトは基本的に既存の社会のシステムに対 するオールタナティヴを提示することであった。人類が進化してきたのはサ バイバルの結果であり、従って社会を改革する事が出来るのはシステムの内 部にいる人間ではなく、システムから脱落した人間であり、彼らこそがオル タナティブな生き方を模索できるというのがこの雑誌の掲げる信念であっ た。
フラーは当時若者たちから圧倒的な支持を受け、バッキーという愛称で親 しまれた。彼の思想は、独自の哲学と技術とを結び付けるという意味におい て、まさに「開かれたテクノロジー」を指向していたのだと言えるだろう。そ のような新しいテクノロジーの性格を表現するための新しい用語を生み出す ことにも、フラーは積極的であった。そのような用語のひとつに、「生活器 械(livingry)」というものがある。兵器(weaponry)という言葉の意味は明 確なのに、人々を生き生きとさせ、幸せにし、健康にする技術を表現する明 確な用語がそれまでなかったから、というのがその理由であった。52 新しい 概念の出現が、新しい技術の方向性を規定すると彼は考えたわけである。こ のようなフラーの思想は、建築の革新にも大きな影響を与えることになった。
(Ⅲ-4)
大衆消費社会の成熟に伴って結実したポップの美学、使い捨て文化の肯定、
技術による生活の革新を目指す思想などを背景として、デザイン、建築の分 野でもいわゆる近代主義的な機能主義への疑念が生じてくる。それは物の外 観と中身とが一致しなくてはならないという機能主義的な考え方の終わりで もあった。建築を、他の分野のものとの比較において見直そうとする傾向も、
そうした方向性のひとつであった。
たとえば、大衆消費社会の生活財の代表的なものの一つである自動車が、
建築にとってのモデルとなった。レイナー・バンハムは空調付きの自動車と は、移動する建築であるとみなしている。そして、フラーの創案による生活
に必要な機能を備えたカプセル、「リヴィング・パッケージ」を引き合いに だし、自動車はすでに「リヴィング・パッケージ」であると述べている。53 そして、自動車が従来の建築に優る点を以下の点に見出している。すなわち、
自動車においては、ユーザーと生産者との関係が建築より直接的であること であり、それゆえデザイナーはユーザーの必要をすぐに反映できるわけであ る。それに反して、建築の場合は、ユーザーと生産者の間に大手から下請け までの様々な労働者・技術者や建築家が介在し、そのシステムは複雑すぎて 容易に変革ができない。だから、バンハムは建築にもそのような自在性が必 要であると考えたのである。54 ここで、バンハムが訴えたのは建築業界の体 質改善ということであった。
しかし、1968年に若手の建築家ハンス・ホラインが、「すべては建築であ る」という画期的な概念を打ち出したとき、それは伝統的な「建築」という 概念そのものを揺るがすさらに大きな衝撃となった。ホラインによれば、人 がそこに空間性を感じるものは、すべて建築とみなしうるというのである。
それによれば、たとえば別の空間体験をもたらす薬剤も一種の建築というこ とになる。たった一個の錠剤が、建築物として提示されたのであり、まさに 建築の何たるかが根本から問い直された時代だったのである。アーサー・ク オーンビイが「床は平らでなくてはならないのか、それとも彫刻可能なもの なのか?」という問いかけをしたのもこの時代のことであった。55
機能主義に対する問いかけもさらに続いた。家具の機能に関してもバンハ ムは「サービス(奉仕品)としてのデザイン」という一文をものし、たとえば 椅子は座る以外の用途にも使えるという例を挙げている。なぜなら、椅子は ドアを開けたままにするためにも、犬や猫の居場所としても、仕事用のベン チとしても、服などを掛けておくハンガーとしても、高いところの物を取る ための足台にも使用可能だからである。そのように家具の機能を従来のもの に限定せずに考えると、かつては「椅子の機能=座るもの」という枠の中に隠 れて見えなかった家具が、インテリアの中で急速に浮上しアート化する契機
を見出すことができる。これをバンハムは「家具化(furniturization)」と名づけ ている。56 そして、誰もが永続性を求めない家具においては、建築よりも実 験がしやすかった。空気構造が最初に取り入れられたのも膨張式の椅子とい う家具においてであったことはすでに見た通りである。「家具化」とは伝統的 な家具の概念から見れば、実際には、非―家具化ということであり、それは 真面目さに抵抗し、陽気になることを意味していた。たとえばロジャー・デ ィーンによる「ウニ」椅子は、ポリウレタンフォームでできた塊であり、座 る人の姿勢に応じて変形するものであった(図13)。ADは、これを「支える より共生」することを志向する椅子と呼んだ。つまり、伝統的な椅子の機能 は「支える」ことであったが、それを座る人との「共生」へと変換する椅子 もありうるということがここに提示されたわけである。57
機能主義の解体作業は、家具からさらに建築にまで及んでいく。バックミ ンスター・フラーは、ヘリコプターで空輸可能な建築物(空飛ぶ建築物!)
(図13)
としてジオデシック・ドームを提案した。そうした実践に基づき、彼は、
「マダム、お宅がどれくらい重いかご存知ですか?」という有名な台詞を口 にした。これは、従来家の重量など考慮することの無かった建築の概念、建 築物とは重く動かすようなものではないという常識を揺さぶるに十分な意味 の問い直しであった。フラーは、エネルギーは結晶(固体)から液体へ、さ らには気体へとどんどん軽くなっていくのに、建築はまだ結晶の段階にとど まっており、石を積んだピラミッドを志向していると批判している。人間の 住居はもっと軽く出来るはずだというのである。そして、飛行機は軽いほど 性能が高くなることがわかっているのに、なぜ地上では重厚長大が評価され るのか理解に苦しむと述べている。58 建築を軽くするという意味では、空気
(図14)
構造の可能性が注目を浴びたことはいうまでもない。この分野で活躍したク エーサー・カーンは産業においても、社会においても、より広く通用するた めには軽くなることが必要であり、それこそが美しくなることでもあると述 べている。59
軽さを志向するだけでなく、ラディカル・アーキテクチャーの流れはさら なる革新をも要請した。「家とは家屋のことではない(A Home is not a House)」(1965)という論考において、バンハムはフランソワ・ダレグレによ る「住居の解剖」というイラスト・シリーズを引用し、家とはパイプ、ガス管、
ダクト、ワイア、照明、注入口、排出口、オーヴン、流し、ごみ箱、ハイフ ァイ装置、反射炉、アンテナ等の様々なハードウエアの集積であり、それが
「家」の本質であるならば「家屋」とはそうした機械的な恥部を覆い隠すための シェルターに過ぎないのではないかと問い掛ける(図14)。それならば、もし ハードウエアがそれらだけで構造を支えうるときには、それと別個の「家屋」
(図15)
など必要ないではないのではないか、というのがバンハムの答えである。そ して、バンハムはダレグレの描く「環境バブル」というイラストを提示する。
それは、プラスチックの気泡からなる半球状の空間であり、その内部にハー ドウエアの集積物を設置したものである。これをバンハムは「非-家(unhouse)」
と名づける(図15)。60 1967年にはその試作品がポール・ユングマンによって 制作されるが、そのもっとも劇的な作品は大阪万博のグループ・パヴィリオ ンという形で実現された。同じく軽量建築の中心人物であったセドリック・
プライスも、建築を権力の装置から、奉仕品、すなわち玩具や娯楽の道具に 類したものに変えることが必要だと述べる。建築の軽量化とは、人間を既存 の固い構造から解放することであった。61
こうした建築の革新においてもっとも注目を浴びたのはやはり空気構造で あり、空気構造の原理について論文を書いたトマス・ハーツォグは、現代建 築の硬さ、冷たさ、機械的生産による表面を捨てる契機を秘めたものとして これを推奨した。なぜなら、空気構造建築は柔らかく、柔軟で、可動的であ り、丸く、有機的な「非-家」を実現することが可能だからである。62 セドリッ ク・プライスは建築物を、いつでも簡単に利用可能なものとすることを目指 した。それは現存のもの、たとえば、歴史的なチューダー朝風ファサード、
空気構造、自転車カバーなどの間にいかなる区別も設けず、使用者の選択に よってそれらを自在に組み合わせてその用途を新たに決定できるというもの であった。環境の制約から人間を解放することが理想とされたのである。そ れは、マックス・クレンディニングが述べた「究極的には家具は汎用的で交 換可能な多目的のクッションになるだろう」という言葉を建築に拡大するこ とであり、黒川紀章のプロジェクトAがそれにあたるものであった。プロジ ェクトAとは、家具を組み合わせて家にするというものであり、家具の間を 膜構造で接続して家を作りだそうというプランであった。黒川はこれを「家 具としての建築」と呼び、家具は環境の一部であり、われわれが最も親密に 見たり、触れたり、匂ったりするものであるから、感覚的にわれわれとの関
係が深いものと考えるべきだと述べている。63 この家具の膜による接続とい う考え方は空気構造とつながりをもつものである。プライスらの空気構造に おいて特徴的なのは、それらが通常の意味での屋根、壁、床をもたないとい うことであり、それはすなわち余分な構造支持材が不要で、集合的安定性の みあればいいということである。そして、プラスチックの膜を膨らませ、そ の空気の圧力によって構造を支持するという空気構造は、人類が知っている どんな建築とも似ていないものであった。
アーサー・クオーンビイは「建築がなしうる究極の貢献はその消滅である。
それは反権力、無権力としての建築となる」64と述べているが、ハンス・ホ ラインの「すべては建築である」という言葉と呼応するように、空気構造は 建築の消滅の可能性を示唆したのである。それは、1965年にロンドンのウー ランズ・ストアで開催された「ブレイクスルー・デザイナーズ」展で、アー キグラムが主張した「椅子はなくなりつつある。座る人の体にそって変形す る空気シートがそれにとって変わるだろう」65という宣言とも呼応するもの であった。
(Ⅲ-5)
空気構造建築が軽量であること、空気を抜けば持ち運びできるという理由 で可動的であることがもたらす建築史上でもっとも画期的な変革は、土地へ の従属からの解放ということであり、それは当然都市や社会の構造を根本か ら変化させる可能性を孕むものということになる。66 セドリック・プライス の言葉を借りれば、過去においては都市の中心部とは、ローマのコロッセウ ムにしても、中世の大聖堂にしても、いずれも巨大な建築物やシェルターの 集積地を意味していた。現代のビジネス街やショッピングモールやスポーツ 競技場もまた、同様の巨大建造物の集積地である。それらは固定性、永続性 をその特徴としており、それゆえ不動の権力イメージと結びついているので ある。それは、こうした巨大な建造物が各都市の中心あるいは結節点として
機能しているからである。しかし、空気構造の登場とともにこれらすべてが 不必要なものとなる。すべてが移動しうるし、変動しうるからである。移動 する工場、災害抑制のための取り外し可能なダム、ドラコーン、GEM、ホ バークラフト、さらには、ジェット・パック、ホバー・デッキ式空気床、エ ナジー・スポンジなどが、常に移動、変形する流動的な新しい社会をもたら すからである。67 それはいわばノマド的な移動生活を基盤とした社会のイメ ージであろう。
ADは大阪万博のパヴィリオンについての特集で、もし未来の環境が、建 築ではなく認知の原理に従うもの、コンクリートの使用をできるだけ避けう るもの、巨大なドーム構造で空間を覆うものとなるなら、建築家は音、映像、
電子機器の知識を習得することが必要となるだろうと述べている。68 ここで はすでに「建築」という概念自体が消失する可能性が示唆されているわけであ り、いわゆるドームに包まれた「空気環境」のイメージが提示されている。そ こでは、コンクリートに代表される固体的、固定的なものに代わって、プラ スチック製のドームという柔らかい環境が中心となり、その内部を満たすも のも音、映像、電脳的空間といった流動的、可変的なものとなるという未来 イメージが提示されているわけである。
1927年の時点でバックミンスター・フラーが考えたことは、寒さ、暑さ、
湿気、乾燥などこれまで人間が耐える事のできなかった環境を許容できる範 囲のもの変えるにはどうすればよいかということであった。さらには人間を 束縛するさまざまな抑制を取り除き、自由に使える時間を殖やし、情報伝達 や移動を容易にするということでもあった。69 その可能性のためにフラー自 身が案出したのは、マンハッタン全体を巨大なドームで覆い、天候の影響か ら都市全体を解放するというアイデアであったが、これが空気構造を前提と している事はいうまでもないだろう。すでに存在する都市建築物群が移動不 可能である以上、全体をドームで包むことによって内部での人間の移動活動 をより自由にする方向を探ろうというわけである。アーサー・クオーンビイ
の「空気構造は、人間を自由にする有史以来最大の発見である」70という言葉 からも、空気構造の可能性に当時人々がこめていた期待のほどが伺われる。
だから、この時代、空気構造とは単に建築やデザインの新しい様式であっ ただけではなかったのである。たとえば、空気構造の家具は「固定」されるべ き家具という概念を破壊し、屋内と屋外という区別を取り払った。そして、
空気構造建築は建築物の固定性や永遠性を無効な概念と化する可能性を秘め ていたのである。つまりは、社会構造の在り方や人々の生活の様式そのもの をラディカルに変容させる、画期的な「開かれたテクノロジー」のイメージを 持っていたのである。軽くなる事、移動し続けること、それは「自由」と同 一視されたわけである。
空気構造の水に浮く家や、自動車を考えたクエーサー・カーンは、物理的 にも、精神的にも軽くなり、重さや常識を脱して可動性、可変性、感受性を獲得 し、行動、指向、所有物を軽くする事で人間は自由になる。だから、あらゆる 種類の社会的・文化的束縛を脱した普遍的社会を目指そうと述べている。71 また、たとえばウェルナー・パントンの彫刻的な空気構造のインテリア、コ ールマイネンとフォン・サルトリーの空気クッション、マイケル・ウェブの クシークルなどの空気構造の作品を実際に使用することを考えると、それら が空間の性質や雰囲気そのものも変えることがわかる。それらは、柔らか く、丸みを帯び、視覚的には限定的でなく内から外へと開かれたものであり、
また、半球状の空気式ドームの内部空間は地平線を内包している。プライス によれば、それは心理的な解放の可能性をも持つ空間ということになる。ま た、1973年の空気構造をめぐる全国大会において、アンティオーク大学の空 気キャンパスを作ったエリック・エクストロムは、次のように述べている。
空気構造式の建築は、腐敗した企業や政府のエゴを体現する煉瓦とモルタル の巨大建築による風景へのレイプに対する解毒剤なのだ、と。72 とすれば、
空気構造は、社会的な伝統や慣習への囚われからの脱却を意味しただけでな く、そこからの心理的解放空間をも生み出す新しい美学を体現する造型性を
も秘めていたことになる。
(Ⅲ-6)
重さ、固定性、視覚的な閉塞感などを捨てることを可能にする空気構造は、
「建築」というよりも、一つの空間、あるいは「環境」の構築という性格をも持 つともいえるだろう。さらに、空気構造においては主要な構造材である空気 が中にいる人間にとっては呼吸の媒体を兼ねているという特質をもち、それ ゆえ絶えず新鮮な空気が供給されるよう循環が行われることが必要となる。
また太陽エネルギーを取り入れたり余熱を放出したりして内部の温度を一定 に保つことも快適な住環境を保つためには必要となる。ガスとしての空気は エントロピー的に拡散していくものであるが、生体は反エントロピー的存在 であり、空気を絶えず取り入れる空気構造も反エントロピー的ということに なる。つまり、身体と同じように絶えず太陽エネルギーや空気をインプット してホメオスタシスを維持する存在なのである。夜間などにも太陽エネルギ ーを恒常的に利用するためには、太陽電池などの使用が必要になるであろう が、これは栄養摂取のイメージと重ねうるものとなる。この換気やエネルギ ー循環そのものが呼吸や栄養摂取のアナロジーで捉えられるとき、空気構造 はさらに生体に準ずるものとみなされることになる。ボドー・ラッシュとグ レアム・スティーヴンスによる73年のデルフト・シンポジウムの報告によれ ば、その会合では空気構造の見方が当初の圧力で支えられた膜というものか ら、生物学的アナロジーで語られるものへと変化しつつある動きが感じられ たという。すなわちエネルギーの移送と膜構造からなる感受性を持った構造 へと強調点が移行していたというのである。73
形態的に見れば巨大な球、内部でつながったドーム群、増殖する球形のコ ロニー、巨大な空気マットレス、内臓を思わせる塊や管、乳房の群、エイリ アンのポッド群などを想起させる空気構造建築はたしかに有機的なデザイン であるといえる。素材的にも、空気構造の膜構造は、ガラスやブロックの
「肌」より、生物の肌質により近いものだとみなすことが可能である。74 機能 的には、身体と環境との融合、あるいは人間活動によって活性化される空気 構造はたしかに生体に接続してその機能を増幅する準生体的な存在だといえ る。
空気構造は身体と同じように熱、光、音、圧力に反応し、それを目にみえ る形で示してくれる。つまり、それは生命体と同じように感受性と適応力を 備え、こうした能力によって環境に物理的、化学的に応答する存在なのであ る。それゆえ、空気構造は、単にそれ自体が一個の環境であるだけでなく、
われわれと環境との関係性について目を開かせるひとつの契機を産み出して くれるものだといえることになる。75
1968年にドイツのカッセルで行われたアート・ドクメンタ33において、ク リストは5,600立方メートル、高さ85メートルの巨大空気シリンダー・プロ ジェクトを成功させた。63年に初挑戦して以来、3度目にしてついに完成を みたのである。それは、これまで行ってきた建築物や大地や海などの具体的 な形態を持つものを包むのではなく、空気という目にみえないものを包み込 む初めての試みであった。クリスト自身は、このプロジェクトを空間の物質 性を明るみに出す為のものと説明している。それは、「アートと建築、技術 そしてもちろんエコロジーとをひとつにまとめる美的体験の表現である」と 彼自身は語っている。そして、何も無い空間を包み込む一つのオブジェが成 立しうるということを示したことは、建築の概念を覆す可能性を示唆したこ とでもあった。76
バックミンスター・フラーは、ビッグ・ビジネスは石油燃料などのエネル ギーを大量に搾取すると述べている。それに対して、もし適正な技術を開発 できれば、風や水などの現にあるものだけを使って生きて行く事ができると 指摘する。これまでのデザイナーや科学者たちは、環境的なエネルギーを阻 害要因とみなし、これらと「絶縁」する発想をしてきた。それは、エネルギー の流れを止めるためにエネルギーを使う無駄な行為であり、いわば機関車同
士を衝突させるようなものである。だから、今後はエネルギーと戦うのでは なく、これを利用すべきであるとフラーは述べている。そして1927―9年に かけて、彼は雨水を飲み水にする装置、太陽エネルギーを熱に変える装置等、
各家庭で水や風などのエネルギー収入を活用する方法を模索した。フラーに よれば、風の利用は宇宙のエネルギーを一切搾取しない。なぜなら、風とは 太陽のエネルギーであり、地表と大気との温度差が風を産むからである。フ ラーが液体酸素を気化し、その風力で動くエンジンの構想をたてたのはこう した哲学を根本にすえていたのである。フラーはこのような人間と環境シェ ルターとの問題を解決する行為には、「建築」という用語では古典的すぎると し、代わりに「環境デザイン (Environmental Design)」 という用語を使用した。77 このように環境と人間との関係性を重視する発想から見れば、環境構造と は、自然で普遍的な身体言語によって、身体的、精神的な環境体験を産み出 すものということになる。そして、そうした構造の中心はやはり空気構造で あった。たとえば、巨大な風船の内部に人々を入れ、中の人々がそれを内部 から押し動かす事によって、外部の自然や群集の中を風船ごと動き回れる
「エア・モービル」などがその一例であろう。68年にパリで開かれた「アト モスフィールズ」展では、300人の人間の体重を構造を繋ぎ止め、形作るの に利用する空気構造が用いられた。71年の同展では、人体の上の風の動き、
呼吸による熱交換、声の波長、身体の力学的エネルギーなどがシュリーレン技 術(ソビエトで開発された人体から発するエネルギーを可視化する装置)で視 覚化された。「空気の上を歩く、水の上を歩く」というプロジェクトでは、水 面に置かれた巨大な空気マットの上を人々が歩き回るということが行われ た。また、同じく「アトモスフィールズ」展に出品されたものには、「レイ ンボーシート」のように空気、風、水、太陽の光、雨の影響を色彩の変化で 表現するものもあった(図16・17)。
それらの作品の特徴は、素材的には、熱、光、圧力、音、科学的変化など の環境に敏感に反応する素材を用いている事であった。たとえば、光線、圧
力に感応するポリテンPVCやミラール、光線感受性、光線選択性、圧力感応 性、熱生産性などの特徴を持つさまざまなフィルム、熱で色の変る膜などが それであった。78 今日でこそ、これらのいわゆるプラスチックは非環境的な ものとされるが、この時代にはむしろプラスチックは未来を作る「開かれた
(図16)
テクノロジー」であったことを想起しておこう。フラーなどはプラスチック 素材を積極的に賛美し、自然が変容する組み合わせでプラスチックは作られ るのだから、プラスチックは人工でも合成でもなく、自然の産物であるとし ている。そしてそれゆえに、プラスチックの創造は、むしろ人間がよりよく 自然に適応したことの証しであるとまで述べている。79
また、環境構造を機能的に定義する際には、それが「参加」の概念を取り入 れたことにその最大の特徴が見出されることになる。通常、われわれは、歩 いたり、寝たり、坐ったり、移動したり、跳んだりすることで身体的に、ま た身体イメージを媒介として精神的に、自らを環境と関係づけている。した がって、空気構造というフィルターを通して環境と接する事は、1)人間が統 合されて構造の一部となり、2)身体エネルギーによってそれらの構造を動か したり感じ取ったりし、3)その構造を介して人と人、人と環境とが関係づけ られ、4)参加者の精神と生活とがそれによって統合されることになる。しか
(図17)
もそうした体験は、5)反復が容易であり、しかも6)それを実現する技術は等 身大の理解可能な単純なものであるときに初めて可能になるわけである。
このような概念を背景として、71年のパリ・ビエンナーレでは、直径 3.5m、長さ200mのチューブで円形部分と廊下を作り、その膜構造で全体を 包む構造物が作られ、それが美術館として使用された。この際には、パラフ ィル、パラウェブ、ヘテロフィル等の新素材が積極的に活用された。また、
クリス・トーソン、アサン・スタントンら建築アカデミー卒業後にUCLA に進学した学生達がロサンジェルスで結成した実験的環境作品を創作する集 団クリサリスは、膨張式で持ち運び可能な住宅を設計した。これは周囲を水 を詰めたチューブで囲んだヴィニール製のもので、二人がかりで1時間で組 み立てる事ができ、しかもその住宅を撤去した後には環境に一切痕跡を残さ ないというものであった。80
しかし、このような環境構造の究極、空気を用いた構造の究極ともいえる のはトロント大学空気空間研究所のバーナード・エトキンとピート・ゲーリ ングによって提案された空気の壁プロジェクトであろう。これは、物質では
(図18)