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西周「文武学校基本井規則書」における 「学校教練」構想

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西周「文武学校基本井規則書」における

「学校教練」構想

奥 野 武 志

l 西周の「学校教練」構想研究の意義

筆者は近代日本における学校への軍事訓練導入経緯の解明に取り組んでいる。本稿はその一環とし て,西周「文武学校基本井規則書」についての考証を試みるものである。なお,学校における軍事的 な訓練に対しては,[調練」「操練」丁練兵」「教練」等様々な呼称が用いられるが,本稿では一般師こ 学校における軍事訓練を言う場合便宜的に「学校教練」の語を用いる。

本稿で取り上げる西周は,明六社に参加し東京学士会院の会長を務めるなどした明治期における代 表的な啓蒙的学者である。また,1870(明治3)年には大学の学制取調御用掛を務めており,さらに 1881(明治14)年から1885(明治18)年までは東京師範学校「嘱托」を務めるなど,教育方面にお いても活躍している。しかし一方では陸軍省・参謀本部に出仕する軍事官僚として軍人訓誠(1878

(明治11)年)・軍人勅諭(1882(明治15)年)の起草にも関わるなど,山原有朋の下軍制整備に尽 力してもいる。そのため西には「軍国主義者のイメージ」がつきまとい福沢諭吉や加藤弘之らと比べ 学問的研究対象として重視されてこなかったと指摘されている(1)。

ところが西が東京師範学校「嘱托」を務めていた1883(明治16)年には「歩兵操練」を正課と位 置づける規則改正が行われており,また1885(明治18)年5月には兵式体操が仮に導入されている。

西は1885(明治18)年8月に東京師範学校「嘱托」を解かれるのだが,西に代わって東京師範学校

「監督」に就任したのが,後に初代文部大臣として「兵式体操」を諸学校に導入した森有礼なのであ る。従って,近代日本における学校教練導入経緯の解明のためには西周がどのような学校教練観を抱 いていたか明らかにすることが不可欠である。

しかし,西の学校教練観に関する研究はあまり進んでいない。東京師範学校「嘱托」時代の西の学 校教練観については別稿で検討することを予定しており,本稿では1870(明治3)年明治政府に出仕 する前に西が津和野藩主亀井玄監の諮問に応じて提出した「文武学校基本井規則書」における「学校 教練」構想について検討したい。「文武学校基本井規則書」は全国的規模で構想された本格的な学校 体系構想であり,1870(明治3)年段階における西の教育観・軍事観がよく表れている。西の初期学 校教練構想を,同時期や後の時代の他の学校教練構想と比較することは近代日本への学校教練の導入,

ひいては近代日本における教育と軍事の関係を考察する上でも重要であると思われる。

そこで,本稿ではまず西が当時頭取を務めていた沼津兵学校の教育課程との比較を試みる。そのた

(2)

50        西周「文武学校基本井規則書」における「学校教練」構想(奥野)

めに資料として「徳川家兵学校提書」「徳川兵学校小学校提書」「徳川家沼津学校追加投書」を用い,

「文武学校基本井規則書」と比較することにより明治政府出仕前の西の学校教練構想の特徴を明らか にしたい。

11「徳川家兵学校掟書」における「学校教練」構想

西は1868(明治元)年徳川宗家静岡藩70万石の領地に編入された沼津に設けられた旧幕府の兵学 校の頭取に迎えられる。この際,西が兵学校のために起草したのが「徳川家兵学校綻書」である。な お,徳川家兵学校には予備教育機関として附属の小学校が設置されていた。小学校についても「徳川 家兵学校小学校掟書」が残されているが,大久保利謙によれば,「徳川家兵学校小学校綻書」を起草

したのは西ではなく,一等教授となった赤松大三郎の可能性が高い(2)。

徳川家兵学校は1869(明治2)年の静岡藩藩制改革の際に今日の通称となる沼津兵学校と改称され たが,明治政府に目 ̄をつけられてしまい,1871(明治4)年, ̄開校してからわずか3年で兵部省に接 収されてしまうことになる。

兵学校の入学は14〜18歳に限るという年齢制限があり,また条件の第一に「其父杏徳川家御家臣 之列こ相違無之候事」とされてあり,あくまで徳川家の家臣の子弟を対象とした学校であった(3)。学 科は歩兵将校之科,砲兵将校之科,築造将校之科の3科に分かれており,4年間の資業生で基礎を学 んだあと,3年間本業生として学ぶという教育課程になっていた。試験に合格した本業生は得業生と なり,陸軍士官になる資格を得るとされており,将校養成を目的とした機関であったと言える。3科 共通の資業生教育課程は【表1】に示す通りである。

陸軍将校養成が目的の学校なので,軍事的訓練が教育課程にあるのは当然といえよう。軍事的意味 合いの強い科目としては「乗馬(調馬)」「銃砲打方(試銃砲)」「操練」の3つが規定されている。

「操練」は「生兵小隊井二大砲ハセキチー運転位マデ」,「銃砲打方」は「銃ノ組立的打等打交セ」と 説明がされている。そして,本業生の教育課程には「戦法」が含まれるなど本格的な軍事教育を受け る課程となっていた(4)。

なお,兵学校に関しては兵学専攻に加えて文学専攻を設置することを規定した「徳川家沼津学校追 加捉書」という文書も存在する。ただし,大久保利謙によれば,これは1869(明治2)年に制定され たものの,お流れとなって実際には実施されなかったようである(5)。この「追加綻書」においては,

文学専攻として「政律」「史道」「医科」「利用」の4科を設けることが構想されている。このうち,

「政律」は「古今律令之利害を講究し治術之基を立る」ものであり,「史道」は「天下古今道理之本源 を講究し教化之源を探うする」ものだとされている。また,利用之科は「土木之功器械之製合水利 砿山樹芸農耕等之事を司り候人材を致教育」ことを目指すとされており,今で言うところの「理科系」

の専攻といえよう(6)。つまり,ここで言う「文学」とは「兵学」に対する普通学全般の学問を意味し ているのである。

4科のうち,「政律」「史道」の2科の資業生は「試銃砲操繰之所日課相緩め其時間を以温古前課講

(3)

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外国語学

数学書史講論

調

英仏之内一科 第四拾六億 資業生之学課は左之通り

『西周全集』第2巻,453−454頁

究可致候事」とされているが,医科資業生は「試銃砲」を除いて他の学課をあて,また利用科につい ても「試銃砲操錬ノ課を除」いて他の学科にあてることが規定されている(7)。そして,4科の本業生 の学科目には「試銃砲」も「操練」も入っていないのである。つまり,この時期の西には「文学」専 攻の学生に対して軍事的訓練を積極的に施す意識はなかったようである(8)。

なお,上述したように兵学校は附属小学校を併設していた。小学校は「最寄在方町方有志之者は通 稽古御免相成候事」と,兵学校本体とは異なり受け入れ対象を徳川家家臣だけでなく「最寄在方町方 有志之者」にも開放していた(9)。「徳川家兵学校小学校提書」中の附属小学校の教育課程は【表2】

に示す通りである。

【表2】の課程の特徴として,第8条に「体操は休日を除く之外日クー小時演習」するものと,休日 を除いて日々実践すべきものとして体操が導入されていることが指摘できよう。能勢修一によれば,

1870(明治3)年に制定された静岡藩の小学校掟書は,その内容が「徳川家兵学校小学校投書」とほ とんど同じであり,また,徳島藩や福井藩の小学校の教育課程にも「徳川家兵学校小学校捉書」が影

(4)

52        西周「文武学校基本井規則書」における「学校教練」構想(奥野)

講 水

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中 孝 庸 経

雑 乗 私 往 ≡∠百聞 雑 除 用 来

文 物

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雑 分 題 数

±乙 元 十

明__八 史 史

略 略

『西周全集』第2巻,463−467頁

第五條  小学修業は年期無之事尤兵学校資業生入相願候者ハ拾八歳限り之事

小学課程は左之通り

右日課定書之通修業可致候事

第八條  体操は休日を除く之外日ク一小時演習いたし身体之強壮を養ひ可申

講釈聴聞は日曜日朝毎こ出席いたし徳義之方向を弁候横可致此両科は是非とも校内二而修業可致候事水練は毎夏土用中稽古可致右規則

第十一條 剣術上馬は体操之間二修業可致上馬は躾馬二跨り候を覚候而巳二而

輩を置き馳駆いたし候儀は不相成侯事

童生学科表

響を与えた可能性が高い(10)。

なお,明治維新後各藩で行われた学制改革で体操を学科目に取り入れたのは数藩にすぎない(11)。

体操を重視している点に徳川家兵学校の課程の特徴があるのである。ただし,徳川家兵学校小学校の 体操のねらいはあくまで「身体之強壮を養」(同第8条)うことだと言える。他に剣術・乗馬・水練

が課せられてはいるものの,兵学校の科目にはある「試銃砲」は附属小学校にはないからである。

前述のように,西の沼津学校「文学専攻」の教育課程構想においては,「試銃砲」や「操練」は全 く軽視されていた。仮に附属小学校から文学専攻の医科や利用科へと進んだ場合,「試銃砲」や「操 練」は全く履修しないことになるのである。従って,西は将校の養成を目指す兵学専攻と普通学専攻 の学生を分けて考えており,将校の道を選ばない学生に対する軍事的訓練についてはあまり重視して いなかったといえよう。

‖「文武学校基本井規則書」における「学校教練」構想

「文武学校基本井規則書」とは1870(明治3)年,徳川家から百日の休暇を得て帰郷した西が津和 野藩主亀井玄監の諮問に応じて提出したものである。西はこの中で,「四海古今学校施設之制度ヲ比

(5)

較講究」した結果,大中小の三校を設けることが「四海とも一散之義二有之」という結論に至り,

「府」には大学,「藩願」には国学,「郡郷」には小学を「被為置候様相成候事当然と奉存候」として いる(12)。この全国的な視野で大学・国学・小学という三段階の本格的学校体系を構想していること が「文武学校基本井規則書」の特徴である。

西は,小学については「在来之寺子屋素読師匠剣術道場」などにあたるものであるが,「公之費用」

を「半は」かけて,これら「諸術」を「合併」して教授することにより,「童生も東奔西走之患無之 自分進歩も速カニ有之」という利点を持つものだと説明している(13)。この小学の課程表は【表3】に 示す通りである。

剣 体

曇五日ロ

三こ百冗

七 六 国   大 三

月  月 尽   学 字

廿 朔 日  日

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テ リ 剣 体 術 操 四 四 分 分 之 蔓

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国   仁 名 春 子

国   遠 遣

郡   答 賓 四 之 客 季 分 諸 書 類 贈 凶

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高 口 届 札 達 出 拾 留 願 札 布 書 類 口』二

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」、 和 和 仕 言 徴 外 左

史 文 法 上 文 史 史

購 書 ∃≧ 童

白  日

読 法

『西周全集』第2巻,489−490頁

小学学科は大略左之通二而可然哉と奉存候

(6)

54        西周「文武学校基本井規則書」における「学校教練」構想(奥野)

【表3】と【表2】の徳川家兵学校附属小学校の学課表と比べると,全体として似通った印象を受け るが,「体操」については大きな相違が見られる。【表2】では,体操,剣術,乗馬,水練は級によっ て行う内容が細かく分けて規定されていないが,【表3】では三級と二級で「体操」を「剣術」と3対 1の割合で学んだ後,一級で「小銃用法」,級外で「小隊運動」を学ぶというように,段階を迫って 履修する課程となっているのである。「乗馬」が課程から消えている一方で,「小銃用法」「小隊運動」

が課程に入っていることも特徴である。

また,小学科目「体操」の目的については西は「体操は童生身体之強健を保候為二是を設け兼而練 兵之基礎を立テ他日国中皆兵となすへしと申候独逸国之制習積二御座候(14)」と「練兵の基礎」と

「体操」を位置づけている。つまり,「体操」の軍事的意義を重視しているのである。確かに,【表3】

に見られる通り,その内容も「小銃用法」や「小隊運動」という軍事的色彩の濃いものを含むもので あった。「文武学校基本井規則書」小学の「体操」課目は,沼津兵学校附属小学校の体操関連課目よ りも,「試銃砲」「操練」を規定した沼津兵学校資業生の膏果程に近いものだといえよう。

なお,西は「二六時中文事二而巳心ヲ用ひ候而は身体之為不宜諸種之病根と相成或は否さる時も柔 弱二相成」という理由から,「常く多病二有之杯之弊を矯候為二而必要之科目(15)」であるとも説明し ている。つまり,軍事的見地だけではなく,「体育的」見地から教育的効果についても言及してもい るのである。能勢修一は「健康の増進」という「近代的体育観」をこの西の説明の中に見ている(16)。

「体操」の目的として軍事的意義と体育的教育効果の両方を挙げている点は「文武学校基本井規則 書」の大きな特徴で,「後に何人かによって展開された兵式体操論の全てが蔵されているといっても 過言ではない」とする評価もある日7)。

小学の次の段階に位置づけられたのが国学であった。国学は大きく「文学」専攻と「武学」専攻に 分かれた。これを併せて文武学校としたのである。さらに,「文学」専攻は「政律」「史道」「医科」

「利用」の4科に分かれ,「武学」専攻は「歩兵科」「砲兵科」「築造科」の3科に分かれたが,これは

「徳川家沼津学校追加捉書」で構想された幻の沼津学校文学専攻の4科と「徳川家兵学校捉書」の3 科と同じである。

国学は3年若しくは4年を一期と定め(18),2年若しくは3年資業生として予備教育を受けたあと,

本業生に進むと規定されていた(19)。沼津兵学校の資業生・本業生制度を踏襲したものといえよう。

このうち,武学生資業課目は【表4】の通りである。

軍事的意味合いの強い課目としては「調馬」「調練」「操砲」の3つであり,沼津兵学校資業生の教 育課程と似ている。沼津兵学校資業生教育課程では「操練」とされていたものが,「調練」となり,

「生兵調練ヨリ小隊マテ 大隊以上算木二而 目算測量術等」と細かくなり,「日々1時間」行うもの と規定されている。そして,本業生は,歩兵科は「操練」,砲兵科は「大砲操練」,築造科は「築造操 練」という課目が規定されている(20)。ここで西は基本として武学生資業生に課すものを「調練」と

し,専門課程の本業生に課すものを「操練」として呼び分けている。

また,文学専攻4科のうち,「政律」「史道」の2科資業生学科は【表5】の通りである。1週1時間

(7)

調 調

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日 二 ハ 次

日 数

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間  ヨ

(『西周全集』巻2第,504−505頁)

武学生資業課目は左之通

の「練兵」が1過早朝2時間の「調馬」

と並んで課程の中に位置づけられて いる。「練兵」については「銃砲打方 ヨリ小隊運動マテ」と説明されてい る。「徳川家沼津学校追加捉書」にお ける「政律」「史道」2科資業生教育 課程では「試銃砲操練之所日課相緩

め其時間を以温古前課講究可致候事」

と大まかに規定されていたものをよ り具体的に規定したと言えよう。さ らに,武学生の行う「調練」とは異 なる「練兵」という語を用いて区別 している点が注目される。

なお,「医学」「利用」2科資業生課 目については,「医科利用科二而は乗 馬練兵等は自身好尚二任せ責むる所 二無之尤療用掛り士官二被補候者は 兼而此二術とも講究可致候事(21)」と されているだけである。そして,本 業生になると,文学専攻の4科とも

「練兵」の類の課目は表に載っていな

い(22)。

「徳川家兵学校提書」及び「徳川 家沼津学校追加投書」では一律「試 銃砲」「操練」とされていたものが,「文武学校基本井規則書」国学においては,「調練」「操練」「練 兵」と用語の使い分けが行われてより緻密な構想になっていることがわかる。将来の将校を養成する 武学専攻の場合,基礎を「調練」で学び,その応用が「操練」と位置づけられたのである。そして,

普通学を修める文学専攻の場合,今でいうところの「文科系」にあたる「政律」「史道」の2科には

「練兵」課目が課せられたのであった。武学専攻の学生の学ぶ「調練」「操練」とは異なる,「練兵」

という名称は小学学科体操の説明にあった「練兵之基礎」とも重なるもので,将校でなく兵士として の訓練をするという意味だと思われる。一方,「医科」と現在の「理科系」にあたる「利用」の2科 には「練兵」は課されていない。普通学を修める文学専攻においても,この2科については兵士とす ることは考えられていなかったと思われる。

(8)

56       西周「文武学校基本井規則書」における「学校教練」構想(奥野)

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経 格 済 物 学 学

物  日 大 本 門 書 之 紀 類 之

週 過 過

時 時

間 間

『西周全集』第2巻,495−496頁

政律史道二科之資業生学科は左之通

lV 本稿の意義と課題

以上,西周の「文武学校基本井規則書」の教 育課程における「学校教練」構想を,「徳川家兵 学校捉書」「徳川家兵学校小学校掟書」「徳川家 沼津学校追加掟書」に見られる「学校教練」構 想と比較しながら検討してきた。その結果,ま ず指摘したいのは,西が「文武学校基本井規則 書」において,小学の段階から「小銃用法」や

「小隊運動」といった軍事的色彩の強い「体操」

を「練兵の基礎」として導入することを構想し ていたことである。「小銃用法」や「小隊運動」

は「徳川家兵学校小学校捉書」には見られず,

むしろ,「徳川家兵学校掟書」における「試銃砲」

や「操練」に近いものである。「徳川家兵学校小 学校掟書」は西の起草によるものではないとす る説を裏づけるものだといえよう。

そして,次に「徳川家兵学校投書」及び「徳 川家沼津学校追加掟書」では一律「試銃砲」「操 練」とされていたものが,「文武学校基本井規則 書」においては,「体操」「調練」「操練」「練兵」

と用語の使い分けが行われてより赦密な構想に なっていることを指摘したい。

西の教育体系構想の基本は小学・国学・大学 という三段階の体系である。まず初等教育段階 では「国民皆兵」の観点から全員に「練兵」の基礎として「体操」を謀する。「体操」という名目で はあるが,「小銃用法」「小隊運動」をも含む点で軍事的色彩の濃いものであった。そして,中等教育 段階では,将来の進路に従い,大きく3つの専攻に分かれるのである。つまり,将来の将校となる

「武学」専攻生に対しては,軍事訓練の基礎として「調練」を施し,応用として「操練」を課す。そ して,普通学を修める文学専攻の場合,今でいうところの「文科系」にあたる「政律」「史道」の2 科の学生に対しては将来兵士となるべく,「練兵」課目を課すのであるが,「医科」と現在の「理科系」

にあたる「利用」の2科の学生は「練兵」を免除されたのである。

このように中等教育以降も視野に入れてかなり赦密に学校教練を構想しているところに「文武学校 基本井規則書」の大きな特徴があると言える。ちなみに,「文武学校基本井規則書」の3年後の1873

(9)

(明治6)年に起草され,明治初期における「学校教練」構想の代表例として先行研究で引用される ことの多い山田顕義建白書において山田は「文部所轄ノ諸小学校学則二増加スルこ,陸軍所要ノ技 術・体術・演陣ノ如キ者ヲ以テシ,童子年齢十歳ヨリ十六歳迄ノ者ヲシテ毎日一時間又ハ三十分時間 之ヲ教練シ,毎日曜日二於テー村落又バー郡二招集合併シ,之二付スルニ其地在住ノ陸軍下等士官ヲ 以テシ障法ヲ演ゼシムベシ(23)」という構想を展開しているが,小学校学則に加えるのは「陸軍所要 ノ技術・体術・演陣ノ如キ」ものと大まかであるし,「童子年齢十歳ヨリ十六歳迄ノ者ヲシテ毎日一 時間又ハ三十分時間之ヲ教練」と一律に訓練を課す構想になっている。西ほど緻密な構想ではないの である。

西の構想は同時代の他の学校教練構想の中でどのように位置づくのか。また,その後西の学校教練 構想は変化したのかどうか。今回未解明に終わった課題は多い。今後の課題としたい。

注(1)島根県立大学西周研究会『西周と日本の近代』ペリカン社,2005年,2頁。

(2)大久保利謙「解説」『西周全集』第2巻,宗高書房,1962年,753頁。

(3)「徳川家兵学校掟書」第4條(『西周全集』第2巻,447頁)。

(4)『西周全集』第2巻,454−456頁。

(5)同前書,754頁。

(6)同前書,471頁。

(7)同前書,472−473頁。

(8)同前書,473−476頁。

(9)同前書,462頁。

㈹ 能勢修一『新体育学講座第37巻 明治体育史の研究』造造書院,1965年,2−4頁。

(団 同前書,12頁。

個『西周全集』第2巻,486頁。

個 同前書,487頁。

仕㊨ 同前書,491頁。

個 同上。

(16)前掲,『新体育学講座第37巻 明治体育史の研究』,13頁。

囲 塩入隆「兵式体操の起源と発達」『軍事史学』第1号,1965年5月。

㈹ 前掲,『西周全集』,494頁。

(19)同前書,498頁。

榊 同前書,506−507頁。

餌 同前書,497頁。

細 岡前書,498−502頁。

幽『日本近代思想大系4 軍隊 兵士』岩波書店,1989年,108頁。

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