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アルトーにおける思考

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アルトーにおける思考

臼 井 純 子

はじめに

アントナン・アルトー

(Antonin Artaud 1896

1948)

の初期の代表 的作品,『冥府の臍』

(L’Ombilic des Limbes

1)

)

の読みを通じて私たちがこ の論考で明らかにするのは,アルトーにおける思考のあり様である。この 問題を取り上げる理由に,アルトーの精神の病が挙げられる。確かに,彼 は若い頃より精神の病に起因する思考の混乱に苦しむこととなるけれど も,病んだ精神のなす思考が考察の対象となるのではない。むしろ,病に よって奪われることのない思考の明晰さが存在すると2)アルトー自身が作 品の中で訴えるように,精神破壊にもかかわらず存在する思考が問題とな る。この思考とはいかようであるか,いかようにして形成されるのか。こ れがこの論考の主要な論点である。確かに,アルトーを分裂症の妄想型に 分類する病理学的観点からすると,アルトーの言うところの精神の破壊に 屈しない思考の明晰さは信憑性に欠け,妄想の一種と見なすこともできる であろう。だが,私たちは,自分の精神──たとえ病理的であるとみなさ れようとも──に立ち向かい考察したアルトーの観点から,精神の病に抗 してなお存在する思考を解明しようと思う。ではなぜこの方法を採るか。

ひとつに,アルトーから距離を取るべく何らかの知の体系や分析の枠組み に依拠することなく,むしろ他に論拠を持たずアルトーに密着した形で探 究するこの方法は,確かに分析から客観性を奪うものであるかもしれない が,それでもなおその方法を採るとすれば,それはアルトーにおける思考 のあり様を,いかなる知にも還元することなく,いわばアルトーの考察に 忠実なという意味で純粋な形に表出するためである。ふたつめに,精神の 病にかかわる心的身体的状態を当の精神を病むとされる者が考察する場 合,その考察が何処まで妥当かが問われなければならなくなろうが,しか し,この問いが生じるとすればそれは既に,狂気と理性の区分がなされて からであり,その区分を根拠にしてである。だが,私たちはアルトーの自

(2)

分自身の精神についての思考を分析する際,理性と狂気の区分に立脚しな い。それは,アルトーにおいては,その思考のあり方が理性と狂気の対立 を越えていると読むからであり,アルトーに則してそのような思考のあり 様を描き出すためである。

ところで,私たちの提起する問題は,アルトー自身に焦点を合わせて いるけれども,哲学の次元において照らし出されるなら,一つに,思考の 所在の新たな問い直しとなるだろう。というのも,デカルトのコギトを伝 統にもつ西洋知において思考は理性の統べる精神にその形成の場をもつと されてきたが,アルトーにおいては,その精神が破壊されても思考が存在 するとすれば,その思考が成されるのはどこにおいてであろうか。このよ うに,アルトーにおける思考のあり様の解明は,思考の形成の所在を問い 直すことに結びつく。ふたつめに,この解明は,思考の形成のプロセスと その結果たる思考すなわち概念に焦点を当てている点で,概念とはなにか という哲学の根本的問題に取り組むことにもなる。

さて,『冥府の臍』をテクストに採用する理由についてであるが,第一 に,私たちの論点である精神破壊に抗して存在する思考の明晰さをアルト ーはこの作品で訴え,そしてその思考の明晰さについて論を展開している からである。第二に,この作品はガリマール全集第一巻に含まれるにもか かわらず,全集一巻ではなく『冥府の臍』を使うのは,この作品の編者が テクスト編纂の理由に挙げているように,思考が主題となって書かれたテ クストを中心に『冥府の臍』は編まれているからである。換言して,ガリ マール第一巻の使用を控えるのは,日常の煩雑な問題を含めての諸事情を 綴った手紙や青年期からの未発表の詩や散文をも含めたガリマール全集第 一巻は私たちの主題に的確に応えるものではないからである。

精神の病にもかかわらず存在する明晰な思考を分析するための道筋と して,まず第一に,そのような思考が形成される環境条件を明らかにする。

というのも,その条件が思考の形成を決定するからである。第二に,思考 がどのように形成されるかを考察する。第三に,このような思考の性質を 分析することとなる。

1 精神の破壊,思考が形成され存在するための環境条件

精神破壊にもかかわらず思考が形成される条件がまさしく当の精神破 壊であることをアルトーは一度ならず,表現こそ違うが主張している。中 でも,この主張が的確に表されているのが,精神破壊によっても剥奪され

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ない思考の存在を明言した文にアルトー自身が付け加える注釈である。私 たちのこれからの論考の中心はこの注釈の解読にあるのだが,上記の命題 を支持するために以下に一部を引き合いに出そう。その件は,アルトーが 一般的に考えられる精神病理の型から自分の精神状態を峻別する意図で書 いているため,思考の形成を条件付けるところのアルトーの精神破壊が何 であるかを具体的に知ることにもなる。一般的精神病理をアルトーは意識 が,確かに損傷を受けてはないものの,意識する個人から疎外される症状 とみなしているのに対し,自分の精神状態については,「それほど重症で なく,いうなれば,本質にそれほどかかわらない精神障害があるが,しか し,この障害ははるかに苦痛を伴い,人格により重大な結果をもたらし,

いわば生命力を台無しにしかねない。それは,意識が,己の物質性の破壊 する場において己の力の瓦解と溶解という一連の現象を己に帰属するもの と認め,我が物とする時である」(L’Ombilic des Limbes,p.69) と,説明す る。アルトーの精神破壊は,精神のもつ生命力への打撃がまずをもって挙 げられ,その現状とは意識がその力及びその物質性において破壊すること である。だが,この自己破壊の場でまさに意識はかかる破壊を己の所有と し,その破壊に己の実質を認める。自己破壊を自己のものとすることは矛 盾であるけれども,アルトーにおいては,精神の破壊の中でそれを糧にし た意識がある。このように,精神破壊はその否定的現象にもかかわらず,

そこにおいての意識の形成に参与するのである。

ところで,この意識とは,アルトーが精神破壊について加える説明

(「意識のひとかけらを無傷で残した思考の解体」)によると,「思考の解体」

という暴力を免れたひとかけらの意識であるが,この意識とは何であろう か。この暴力を被る精神の残滓であるのか,そうであるならば,その精神 と同質のものでありえようが,しかし,問題の意識は破壊を我が物とする ことにその存在があるのだから,破壊する精神とは異質でなければならな い。では,精神とはまた別の知的活動であるにせよ,いかにして破壊を被 る精神から分離して形成を確保するというのか。この点とあわせて,問題 の意識が何であるかを,精神破壊が別様に記述された段落で見てみよう。

アルトーがそこで説明することによると,精神破壊とは,高度な知的活動 に連結する直観の働きがなされる下層部を剥離解体することとされ,この 解体によって「損なわれ,脇にそらされるのが神経のように筋張った思考 の経路・思考の神経でできた経路である。」(ib.p.123)確かに,問題の意識 はそこから分離されることになるところの精神とともに破壊の損害を被る

(4)

けれども,精神のようには解体せず,むしろその破壊の衝撃によりいわば 解体する精神の外へそらされる。かくして,問題の意識は精神破壊によっ て現出されるが,アルトーはこの意識を

« le trajet nerveux de la pensée »

と表現する。引用で既に示したように,二通りに解釈する可能性がある。

ひとつは「神経のように筋張った思考の経路」である。神経は比喩的に解 釈され,「思考の経路」なるもののメタファーであり,「思考」がまるで畝 を刻むように身体を走る物質的で線状のものと想像できよう。もう一つの 解釈「思考の神経でできた経路」については,まさに神経網そのものが

「思考」の伝播に使われるか,若しくは「思考」の形成の場が神経網その ものであるとも考えられよう。双方の解釈で問題になるのは,思考が神経 のメタファーか若しくは神経が思考のメタファーかを決定することにある のではなく,アルトーの言うところの「思考

(pensée)

」と神経という観 念の結びつき,あるいは「思考」と神経という語が想起させる線状のもの との結びつきである。つまり,神経−思考の一致が,精神破壊によって現 出する意識の特徴である。

そしてアルトーは,精神破壊を糧に生じる意識,もしくは思考にして 神経なるものを「神経の秤」と,以下に見るように,他を排して絶対的な 形で定義する。

作品でもなく,言語でもなく,言葉でもなく,精神でもなく,なに ものでもない。美しい神経の秤以外のなにものでもない。精神の真 っ只中にある理解不可能にして直立した一種の態勢。(ib.p.107 )

「神経の秤」とは,身体の態勢であるにしても,人間身体の表象とは無関 係であり,また精神の中にあるにしても思弁の産物ではなく,むしろその 理解を越え,人間全体をその精神と身体の区別無く縦断する神経にして思 考の線,およびその緊張と,解釈しえよう。だが,精神破壊を契機にして 生まれる「神経の秤」をアルトーが掴んだのであれば,それは精神破壊と いう思考不可能の体験をどうにか生きる中で,いわば精神的死に晒されつ つもかろうじてである。換言すると,生と死の狭間の体験におけるアルト ーは,意識と知覚,認識の混乱に襲われているのであるから,「神経の秤」

を対象として認識するのではない。むしろ,精神破壊の作用をうけて現出 する「神経の秤」は,その危機的体験の中で主体性を剥奪されているアル トーに己を知らしめ,把握させるのである。この意味で,「神経の秤」は

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主体としてのアルトーから分離されたものである。この「神経の秤」の自 己発露を以下に見よう。

この不在,この停止が感じられるのは四肢と血の中においてである。

(ib.p.123)

「不在」と「停止」とは,「神経の秤」が張力によって不動となった線であ り,認識と理解の対象としては確定されえないという点で,「神経の秤」

の言い換え表現と考えられるが,それが「感じられる」。即ち,己を感じ させる。感覚に対してその存在を訴えるということである。けれども,ア ルトーはこの場合,安定した感覚機能を身体にもちえているだろうか。そ うでないとすれば,いかなる身体状態にあるのだろうか。確かに身体が問 題なのだが,身体構成要素の分離が強調されている「四肢と血」という表 現からすると,四肢と血がそれぞれに有機組織から脱している身体の解体 である。この解体した身体には,「神経の秤」の存在を察知する感覚がな おも残されている。しかも,その感覚は感じる主体が精神破壊を被ってい るという点で,その主体から独立して反応するものと考えられる。

しかし,「神経の秤」は,己をこのような感覚に訴えるにすぎず,感覚 に感じられるに止まらず,むしろ反対に,その感覚の表出に能動的に関与 する。このことは,「神経の秤」がいかなる病にも抗して存在することを 述べた文に続いて,明らかにされる。

この明晰さは私の身体的生の感情を私に書き取らせる。(ib.p.69)

明晰さ,即ち,「神経の秤」は,解体する身体の感覚(「私の身体的生の感 情」)を測定し,アルトーにかわって具体化し,アルトーにそれを記述さ せる。いわば,「神経の秤」は主体の精神及び理性にかわって思考する知 性であると考えられる。(「神経の秤」に特有な思考のあり方は後に改めて 問題にする。)

このように,精神破壊と身体解体の中で自己発露する「神経の秤」は,

感じる主体からその解体によって独立した感覚に己の存在を訴え,同時に,

その感覚がそこにおいて機能する当の荒廃した精神身体状態,換言すると,

荒廃の中の感覚,即ち,アルトーの死に瀕した生の感情を表現する。

このことから引き出せるのは,「神経の秤」が感じられるもの(感覚反

(6)

応の対象)であると同時に感じる機能(感覚反応を表すもの)でもある,

という二重性である。つまり,「神経の秤」は己を感じ,同時に,己に感 じられる。この特色から問われなければならないことが一つある。まさに,

感覚(感じること) とはなんであるか。この問いは,次に「神経の秤」の 思考活動を考察する中で解明されることとなろう。

最後に,「神経の秤」の形成される環境条件がまさしく「神経の秤」の 形成を決定するのであれば,それは,環境条件である精神と身体の破壊が,

「神経の秤」の内実となる荒廃した状態に反応する感覚を生じさせるから である。

2「神経の秤」の思考形成

「神経の秤」は,主体としてのアルトーに代わって,彼の心身荒廃の中 で稼働し出す知性である。では,「神経の秤」は知性としてどのように思 考するのか。思考はどのように形成されるのか。上記に言及したことを具 体的に分析することとなるが,一点,「神経の秤」の思考活動は能動と受 動,主体と対象の区分を越えて,自動的である。二点目に,思考活動は感 じること,即ち,感覚にある。

「神経の秤」の第一の特色である思考の自動性については,「神経の秤」

の存在を述べた文に付記した注釈でアルトーは次のように明言している。

肝心なのは,この思考

(pensée)

が自らを生産することである。

(ib.p.69)

「神経の秤」の思考

(pensée)

としての自己生産とは,フランス語では

« se

produire »

と表記されるが,思考するという活動によって自らの内実とし

て思考を産出することである。「神経の秤」は主体として思考するという 能動的働きをし,かつ,その働きの結実としての思考でもある。すなわち,

思考するものであり思考されたものが「神経の秤」である。ここで,哲学 の古来からの問いである,概念とは何かを考えるなら,概念とは抽象的思 弁でも,思考以前の決定された観念でもなく,概念形成のプロセスをその 内実にもつ思考の産物である。確かに,概念は抽象であるとしても,その 背後には具体的な思考の現実をもつのであり,概念を理解することはこの ような思考の現実に触れること,あるいはその現実を再び生きることとな る。

(7)

具体的に,どのように「神経の秤」は思考するのか。この点をアルト ーは,視覚の正確さを基礎にし見る主体を前提とした 思考する ことの 通常の意味を退け,この意味では思考しえないことを自認した後,以下に 見るように,明らかにしている。即ち,心身荒廃を被るアルトーにおいて,

思考が可能であるならば,それはどのようにしてか,どのように思考は形 成されるのかである。

avoir de la pensée, pour moi, c’est maintenir sa pensée, être en état de se la manifester à soi-même.

(ib.p.70)

原文を引用したのは使用された語の解釈を通して問いを解き明かすためで あり,これをもって訳文に代える。まず,

« maintenir sa pensée »

の動詞

「そのままの状態で保つ」の主語を前提にしてはならない。アルトーの内 においてながらその主体的権能の外で現状保存の作用は働くからである。

思考はよって,いかなる主体にもいかなる知にも還元されることなく,そ の生成のままに保たれる。主体は逆に,その権能を放棄して,思考の自己 生成の場でしかない。すると,思考

(sa pensée)

の所有形容詞をうける所 有者の特定が問題になるが,主体としてのアルトーではないことは言うま でもなく,所有形容詞

(sa)

は思考それ自体にかかる。このことは,先の 表現の言い換え

(« être en état de se la manifester à soi-même »)

から明 らかにされる。思考

(sa pensée)

をうけた直接目的語

(la)

は顕現されるが,

それは己自身

(soi-même)

に対してである。この己自身とは,思考を表す 能動的主体が前提されていず,その主体においての思考の自主的顕現の過 程の他ないのだから,この過程,即ち,思考の顕現を許す状態を指し示す。

それは,思考の生成そのものである。平易に言うと,思考の生成状態だけ がその顕現に寄与する。これが,「神経の秤」の思考形成である。

しかしながら,この思考形成は,己を生成するという限りで確かに内 在的であるけれども,閉鎖を意味するのではない。「神経の秤」は,自ら がそこにおいて生じるところのアルトーの心身荒廃の状態に 対応 する。

上記に引用された文に続いて思考はこう説明されている。

思考は感情と生の状態のすべてにわたって対応することができると いうこと。(ib.p.70)

(8)

思考は自らを顕現するのにこのような状態(心身荒廃の状態,「感情と生 の状態」)に 対応 する

(répondre à)

のであれば,顕現される思考とは,

思考の顕現とは,その状態そのものである。故に,生の危機的状態は 対 応 によって思考の顕現するところとなる。

けれども, 対応 するとはいかなることか。この問いは先に言及した

「神経の秤」の思考活動についての第二点にかかわるが,上記の引用と同 じ注釈中にあり,幾行か後で, 対応 は思考のあり方,即ち,感じるこ とであると,言い換えによって説明される。

思考することは,私にとって死に瀕しているということとは別のこ とである。それはすべての瞬間に合致すること,一時もやまず内的 存在の中で自らを感じること,形の定まらない生の塊,現実の実質 の中で自らを感じることであって,己に重大な間歇,生の不在を感 じることではない。(ib.p.70)

「対応する」は,思考するという意味で,「合致する

(se rejoindre à)

」と

「感じる

(sentir)

」と言い換えられている。「対応する」が相互の繋がりへ

の拘束あるいは参加であるけれども,「合致する」の解釈が加えられると,

繋がりは結合および合流の意味合いをもつ。そして,物理的な情動の振動 と解される感覚が考慮されるなら,繋がりは共振の運動と考えられる。こ れが,思考することの内実である。

従って,思考するとはもはや,何ものかに意識を向けてこれを対象と して知覚認識することでもなく,だがまた,対象との間に主体が情動の感 覚をもつことでもない。それが,純粋に,主体も対象もない,物理的かつ 情動的運動であるのなら,思考の運動は,上記の引用の下線部─原文で は

« se sentir dans son être interne »

と表記されている─から強調され るように,情動,感覚,感情という振動として己を生起させ,その振動は 生起の場と共振する。即ち,このような場において,この場との共振運動 から情動,感覚,感情が生起し,思考として形成される。そして,このよ うな場は振動の感覚および思考への生成変化を通して顕現されることとな る。

付記すると,「神経の秤」の思考が物理的運動にあることは,その名称 にアルトーが使用する語の語源的意味の解釈からも判る。秤る

(peser)

と は,思考する

(penser)

と語源を同じくし,斟酌する,熟慮するという比

(9)

喩的意味を派生させるが,この抽象的次元以前に,思考すると秤るとの語 源的結びつきは,思考活動が,力,圧力,重みとの直接的接触及びそれら 力の伝達による測量を基にしていることを明らかにする。従って,「神経の 秤」の思考については,その物理的作用が強調されてしかるべきである。

話を戻すと,問題の場とは,上記の引用によると,「死に瀕し」た状態 でも,「己に重大な間歇,生の不在」を穿たれた生の枯渇した状態でもな く,むしろそれは充溢した生,「形の定まらない生の塊,現実の実質」の 場である。しかもその生の充溢した場とは,どこでもない「己の内的存在」

において開かれる。ところで,これまでその思考活動を考察してきたとこ ろの「神経の秤」がアルトーの心身の破壊を契機に作動しだすのであれば,

それはいかなる場においてなのか問い直してみなければならない。つまり,

「己の内的存在」とはいかなるものなのか。

この問いは,アルトーのテクストの分析によってそれを解明しようと する私たちにとっては,客観的であろうが,アルトーにとって主観的であ るどころか,知ろうとする主体の認識のあり方,あるいはその限界を越え るものである。というのも,問題の場が開示されるのは心身の破壊を契機 にしてであるからだ。しかし,その場が 知られる のであるのなら,ま さしくアルトー自身が主張するように,「神経の秤」がアルトーに,この 場がなんであるかを 知らしめる からである。しかも,その場において

「神経の秤」は振動,感覚,思考の形で自己を生起し形成するのであるの だが。つまり,「神経の秤」はこのような場において 思考 し, 思考 として己を生み出すと同時にその場を思考として顕現する。私たちはその ような思考活動の結果をテクストを通じて得るのである。

3「神経の秤」の生まれ,知るところとなる場 ─

「神経の秤」の

形象

アルトーが「冥府の臍」を書く意図にあげているのは,以下に引用す るように,「神経の秤」がアルトーに知らしめる場,己の存在についてア ルトーがもちうる直接的知識

(« la connaissance immediate que je puis avoir de mon être »

p.72

)

を明らかにすることである。

私は,精神と生が全ての次元にわたって交流するのだと言う。私は 人間を混乱させるような書物を作りたい,開かれた扉のようなもの で,人間が足を踏み入れるのをこれまで同意したことのないところ

(10)

に連れてゆき,現実と直接連結した扉である。(ib.p.52)

この「書物」が実際にアルトーの意図を満足させるものであるのかどうか はさておき,上記の言表から私たちが問題の場について知りうることは,

それが人間存在にとって接触できない現実であり,そこに到達するのであ れば人間の存在は混乱をきたすことになるが,そこにおいて精神と生とは 十全の交流を果たすということである。

人間存在と両立しえない精神と生の十全の交流とは何であるか。アル トーはこの交流を「来るべき私の自我

« mon moi à venir »

」として追求 するけれども,実際,具体的な説明も描写もテクストには見当たらない。

しかし,アルトーが精神的混乱によって自ら苦しむところとなった人間存 在のあり方について述べるところの言表から逆に推し量ることは私たちに 許される一つの解明の道ではなかろうか。アルトーの不服とする人間存在 のあり方は次の通りである。

精神が生の中になく,生が精神でないことに私は我慢がならない。

私は精神−器官

(l’Esprit-organe)

,精神−翻訳

(l’Esprit-traduction)

, 事物を精神の中にいれさせるための精神−事物の威嚇に苦しんでい る。(ib.p.51)

アルトーが苦痛とするのは,精神がその語の物質的直接性の意味において 解される生を制御し,生を有機的組織(器官)に立ち上げ,その身体を己 の具現とすること,即ち,精神と身体(器官組織)の一致である。だが,

このような身体形成において,精神は己を身体の形に移し替え,生は器官 組織に転移され,その直接性を失う。これが「精神−翻訳(移し替え)」

である。そして,身体の形成において支配的主導権を握るのは,「威嚇」

という語で示されるように,精神であり,精神がその領分に物自体もしく は生を収容する。だが,アルトーが生と精神の十全の交流として求めるの は,そのような精神の優越性が顕著な生の支配でなく,逆に,「精神が生 の中に入る」という生と精神の一体化である。しかも生の物質的直接性に おいてである。そこではもはや,精神の具現としての身体器官は成立しえ ない。では,生と精神の一体化はどんな形象を持ちうるだろうか,アルト ーはどのように描写しているか。この問いは,生と精神とが一体化する場 において生まれ,それを知り,知ったものを思考として己の内実とする

(11)

「神経の秤」の形象を求めることに他ならない。

自ら生起する充溢した生を思考する「神経の秤」の形象が「肉体

« la

chair »

」であることを知りうるのは以下の件からである。

存在の形而上学,生の決定的知を私に与えるにちがいない肉体のこ の意味を検討する必要がある。(ib.p.190)

だが,「神経の秤」の形象としての「肉体」を通常その語の意味するまま に解してはならず,アルトーにあわせて検討してみなければならない。先 の引用と同じエッセイ「肉体のあり方

« Position de la chair »

」の中の数 段落前でアルトーは次のように「肉体」を説明する。

知的叫びがあり,「脊髄の繊細さ」に起因する叫びがある。それを,

私は,肉体と呼ぶ。思考と生を私は切り離さない。自分の舌が振動 する度に,肉体の中に思考の道筋を造りなおす。(ib.p.189)

「肉体」とは,身体を走破する「知的叫び」であり,この舌の振動は身体 に思考の畝を刻み込み,そして,思考は身体の中を線状に走る生の振動と いうことになる。実際,「肉体」の知的側面をアルトーはこの様に強調す る。

肉体の中に精神があり,だがそれは稲妻のように素早い精神である。

けれども肉体の動揺は精神のもつ高度の実質を備えている。(ib.p.191)

迅速さをその特徴とする「精神」,即ち思考は,その知的精確さと明晰さ において通常の意味での精神に劣ることのない生の振動(情動,感受性)

と同一のことである。

このように,「神経の秤」は身体において生命力の発散として生起する が,知覚,測定及び認識能力を備えた振動であり,その振動は身体の中を,

そして身体を貫通する。

ここで思考の形成の場を問い直すのであるなら,それは身体や外界か ら隔離された抽象的点にあるのではなく,身体の中であり,だが身体の表 象にも機能にも限定されえないところ,即ち,身体の有機組織が否定され,

破壊され,凌駕される次元,もはや身体の内と外が区分され得ない場にお

(12)

いてである。このような場において思考は形成され,即ち,「神経の秤」

は己を生起する。

ところで,自己生成をその特質とする「神経の秤」は,一方から言え ば,非人間的次元に於いて思考する限りで思考として己を生み出すのだが,

他方から言えば,「神経の秤」はそこにおいて己が生起する場そのものを 思考する。精神が破壊され,身体がその器官の有機的機能を麻痺させ,生 がその直接性のままに露呈するという非人間的次元を思考するのであれ ば,その思考は,伝統的な意味での主体の享受する理性ではなく,その精 神から見れば狂気ということになろうが,実際のところ,アルトーに則し ていえばいかなる性質であろうか。アルトーは以下に見るように,混沌を 思考する可能性を明らかにしている。確かに,「神経の秤」という表現を 使用してはいないし,混沌を「神経の秤」が測定するとも述べてはいない。

けれども,かかる可能性を考察することは私たちの問いに応えうるものと 思える。

推論的理性に疲れた私の精神は,新たな絶対的重力の歯車の中にも ってゆかれることを望む。それは私にとって,非論理の法だけがそ こに加わるところの至高なる再組織化であり,そこにおいて誇らか に新たな意味

(Sens)

が発見される。この意味とは精神の自己征服で あり,理性に還元されないものの,意味は存在し,しかも精神の内 部 に で あ る 。 意 味 は 秩 序 で あ り , 知 性 で あ り , 混 沌 の 記 号 化

(signification)

である。この混沌を意味

(Sens)

はそれとして受け付 けず,カオスを解釈

(interpréter)

する。解釈するのであるから,意 味は混沌を失う。意味は非論理的なるものの論理である。(ib.p.193)

「意味の発見」までの件は,精神が破壊を来すのだが,そこから「神経の 秤」が生起することを別様に描写している。要約すれば,「神経の秤」は,

従来の意味での精神─非理性的なるものに対しては否定か疎外するか,

もしくは精神病理の次元において対象化する他ない─を克服し,革新さ れた精神であり,物質的かつ宇宙的規模をもつ。では,いかにして「神経 の秤」は狂気,非論理的なるもの,あるいは混沌を思考するかというと,

引用の後半部で明らかなように,それは,混沌自体をその直接性ゆえに放 棄し,だがその記号を抽出するという記号化の作用である。その記号にお いて非論理的なるものは顕現する。

(13)

しかしながら,この記号化の作用の中で「神経の秤」は混沌とどのよ うに渡りを付けるのか,という点をアルトー自身は明確にするに至らない。

「神経の秤」は,従来の意味での精神のように,混沌に対して優位に立つ のかどうか,この点を見るべく,アルトーの思考を踏まえて自己の哲学を 構築したジル・ドゥルーズ

(Gilles Deleuze

1925―1995

)

が『哲学とは何 か』3) の中で同様の主題を論じている箇所を参考にするとしても,それは 論を逸脱することにはならないであろう。ドゥルーズは,「絶えず混沌と 力を競いあうのでなければ,思考するとは何であるというのか」

(Qu’est- ce que la philosophie ?,

p.196

)

と,逆説によって強調する。この主張によ ると,思考する「神経の秤」は混沌との戦いで己の力を測り,己を発揮す る。言いかえるなら,「神経の秤」はその存在,思考活動のためには,あ くまでも混沌を,混沌との戦いを必要とする。

要するに,混沌の記号による抽出には「神経の秤」の思考が必要であり,

他方「神経の秤」が思考するには混沌が不可欠である。こうして,混沌と

「神経の秤」の関係は相互的である。この相互関係ゆえに,「神経の秤」は 従来の精神が混沌と対峙するその対立関係を乗り越えている。

結 論

私たちの論考はアルトーにおける思考のあり方を問うものであるが,

それはとりもなおさず「神経の秤」を分析することに他ならない。

ひとつに,「神経の秤」の思考のあり方は自己生成と結びついている。

思考する主体が思考する以前に存在するのではなく,思考することによっ て,思考主体,即ち,「神経の秤」が生成する。しかも,思考されたこと としてである。かくして思考することと思考は同一であり,それに基づい て,「神経の秤」の思考の内在性がある。

しかし,内在性は閉鎖を意味するのではない。「神経の秤」は己が生起 する場の現実を知ることになるからである。それは物質的かつ情動的振動 を通じてである。

そして,このような振動はその混沌とした現実を記号化した思考に発 展するのであるが,思考と混沌との関係は競合における相互性にみられ る。

(14)

1) L’Ombilic des Limbes, Gallimard, 1968, Paris.

2) ib., p.69 « Lucidité ou non lucidité, il y a une lucidité que nulle maladie ne m’enlèvera jamais. »

3) G.Deleuze et F. Guattari, Qu’est-ce que la philosophie ?, Minuit, 1991, Paris.

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