著者 山口 航, 中谷 直司, 阿部 亮子, 西村 真彦
雑誌名 同志社アメリカ研究
号 52
ページ 57‑78
発行年 2016‑03‑31
権利 同志社大学アメリカ研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015371
部門研究 3 インタビュー記録
小島誠二大使インタビュー
山口航・中谷直司・阿部亮子・西村真彦編
2016 年 1 月 14 日(木)16:30 ~ 於 同志社大学
〇外務省入省から条約局国際協定課課長補佐まで
小島: 入省後、イギリス担当課で、西欧二課って言いましたけれども、そこで研 修を受けて、次の年の秋から、オックスフォード[大学]に行って 2 年間 国際政治と国際経済を勉強しました。在外研修を終えて、エチオピアに
[三等書記官として]1 年 5 ヶ月くらい勤務して、革命政権下の内外政を観 察し、アディス・アベバに本部のあった OAU[Organization for African Unity、アフリカ統一機構]に日本を理解してもらう仕事をして帰国しま した。最初に行った調査部では、アメリカ内外政や非同盟運動を担当しま した。調査部というところは、実務を担当する地域課から独立して、国際 情勢や各国情勢を分析し、その結果に基づいて見通しに関するペーパーを 取りまとめていました。どこが担当したらよいか判断に困るような、例え ば中ソ論争、中ソ関係なんていうのは調査部が主管課として担当していま した。ソ連課や中国課で見るより、客観的に見ることができるということ だったのでしょう。非同盟っていうのも、どの地域課が担当したらよいか 困ります。また、年末には国際情勢について、その年を振り返り、次の年 の見通しをまとめたペーパーを作成していました。私がいた分析課という ところには、中国の専門家、ソ連の専門家がいて、いろいろなことを教え てもらいました。次に勤務したのは条約局ですね。今はありませんが、国 際協定課というところで、ワシントン条約だとか、ロンドン条約とかを担 当しました。ロンドン条約は廃棄物による海洋汚染を防止するための条約 で、当時日本は、低レベル放射性廃棄物の投棄を検討していました。今は そんなことは考えられませんが。ワシントン条約は、今でもときどき話題 になる絶滅の恐れのある動植物の取引を禁止・規制するものです。それか
ら、GATT[General Agreement on Tariffs and Trade、関税及び貿易に 関する一般協定]の下で行われた東京ラウンドで作成された政府調達協定 などについて国会承認を得る仕事をしました。それと当時は IMCO[Inter- Governmental Maritime Consultative Organization、政府間海事協議機構]
と呼ばれており、その後 IMO[International Maritime Organization、国 際海事機関]と名前が変わった国連の専門機関が条約や決議を作成する際 に、日本政府としての法律的な意見を述べるお手伝いをしていました。国 際協定課は、多国間の条約・協定の作成過程に関与することと、作成され た協定について国会承認を得るための仕事をしていました。当時は、前者 を平時の仕事、後者を戦時の仕事と呼んでいました。国際協定課は、貿易、
航空、環境、宇宙、海洋、労働、人権、動植物といった世の中の森羅万象 を相手に仕事をしているという感想を持ちました。
〇欧亜局西欧第二課首席事務官
小島: 欧亜局には、1 年だけいました。西欧二課は、普通は修羅場になるような ことがあまりない課なのですが、フォークランド戦争っていうのが起きて、
時差の関係もあって仕事場でしばしば泊まるようなこともしました。外務 省の喧嘩の相手は、普通は通産省などの各省ですが、フォークランド戦争 の場合には、外務省の中で、戦争って言うと言いすぎですが(笑)、アル ゼンチンを担当する中南米局とイギリスを担当する欧亜局との間に対立関 係が生じたわけです。苦労したことは何かっていうとイギリスからの要請 にいかに応えるかということでした。イギリスが何を言ってきたかってい うとアルゼンチンに対する武器の輸出を止めてください、アルゼンチンに 対する信用供与をやめてください、アルゼンチンとの貿易を止めてくださ いという 3 点だったと思います。それに対して、当然のことながら中南米 局や通産省はそれぞれの立場から、これらの要請に応じた場合の問題点を 指摘しました。ただ、結局それなりに回答を出したんじゃないでしょうか。
つまり日本はもともと武器を輸出していませんから問題はないわけです。
信用供与についていうと、こういう状況の中でそういうものは自然と止 まっちゃうでしようと答えたわけです。当時は「天気予報」と言っていま した。貿易についてどういう措置をとったかよく覚えていませんが、日本 政府としてアルゼンチンとの貿易を促進するようなことはしませんと回答 したような気がします。私は途中からいなくなっちゃいましたけれど、紛 争終結後も国連でいろんな議論が続いていました。国連文書にはフォーク
ランド諸島に加えて必ず、マルビナス諸島という名称が付け加えられてい たことを覚えています。英国は、機動部隊を派遣するわけですが、アルゼ ンチン海軍巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ戦艦が撃沈されるとか、英国海軍 駆逐艦シェフィールドがエグゾセのミサイルで攻撃されるとか、そんな場 面をずっと見ていましたね。戦闘期間はわずか 3 か月でしたが、今でも深 く記憶に残る光景です。
山口:その時アメリカから何らかの働きかけはありましたか。
小島: それは覚えてませんけど、むしろ米国はしなかったんじゃないですかね。
サッチャー[Margaret Thatcher、英首相]さんは、まさにレーガン[Ronald Reagan、米大統領]さんを説得したわけでしょう。レーガンさんは、は じめはむしろ武力解決を支持していなかったように思います。サッチャー さんは、民間船も徴用して機動部隊を派遣するわけです。結局アメリカも 支持しました。機動部隊の長い航行の過程では、いろいろな形で支援もし ました。アメリカは直接には言ってこなかったんじゃないですかね。むし ろヒュー・コータッツィ[Hugh Cortazzi]っていう[駐日英]大使、そ の後私は英国在勤時代非常に親しくなったんですが、しょっちゅう欧亜局 長のところに来ていました。カウンターパートは加藤[吉弥]欧亜局長です。
コータッツィ大使には、不満が残るところでしたが、中南米局の側は、多 数の日系人に影響が生ずるのではないかと心配しているわけですから、英 国の要請をそのまま受け入れることは難しいと判断したわけです。アルゼ ンチンに日系移民がどのくらいいたか知りませんけれども、ブラジルには 100 万人を超える日系人がいるわけですから。一方で日系人に対する配慮 をしながら、他方で長い付き合いのあるイギリスにどういうふうに配慮す るかっていうことですよね。日露戦争の時は、英国から日進・春日を購入 するわけですが、あれは元々アルゼンチンに売却されようとしていた。
中谷:そうです。それをこっちに。
小島:すごく面白い。非常に複雑な関係ですよね(笑)。どっちにも恩義がある。
中谷: ほんとうはイタリアの造船所からアルゼンチンに行くはずだったんですけ れど、イギリスの仲介もあって回してもらいました。
小島: そうでしたか。いずれにしても、両国に恩義があるんですね(笑)。それ からフォークランド紛争への対応を通じて、正義の問題は別として、日本 国民の中に判官びいきのようなものがあると感じました。
〇在オーストラリア日本国大使館 一等書記官
小島: 豪州に行って何をやったかっていうと、経済班の実質トップを務めました。
調整役といった方が適切かもしれません。それはどういうことかというと、
経済班には出向者がたくさんおられたんですね。出向者はみんな私より年 次が上だから、外務省の公使が名目的に経済班長をやっていて、実際は私 がとりまとめをやっていました。このポストは、後にアメリカ大使をされ た加藤良三さんなんかもやっておられたと聞いています。在勤中は牛肉交 渉が山場を迎えていました。それから毎年石炭・鉄鉱石の交渉をやってい て、これは民間がやっていた話だから直接には関係ありませんが、報告は 聞いておりました。牛肉交渉は確かまとまったと思うんです。合意文書を 作成した記憶がありますから。豪州が何を問題にしてたかというと、日本 は自分たちを犠牲にしてアメリカに利益を与えるのではないかということ です。どういうことかというと、日本は牛肉輸入枠を設けていて、その中 にアメリカが関心を有する高級牛肉枠がありました。高級牛肉枠の拡大は、
牛肉全体の枠の一部を食っちゃうのではないか、食わないまでも、全体を 増やす以上に高級牛肉枠を増やすのではないかと豪州は心配しているわけ です。当時アメリカは、日本に輸出する前に濃厚なグレーンを食べさせた 牛の肉を高級牛肉として売っていました。豪州はグラスフェッドだから、
豪州はアメリカの犠牲になると、アメリカと交渉している時にしばしば日 本側に言ってきました。これはもうホーク[Bob Hawke、豪]首相マター で、首相の秘書官が柳谷謙介大使のところによく来ていました。柳谷大使 は、帰国して事務次官になられるわけですが、帰国に当たり、「自分は当 たり前のことをきちんとやってきた。」という言葉を残していかれました。
柳谷大使がそのことに誇りを持っておられると思いました。外交を含めあ らゆる仕事において、このことが基本だと今でも思っています。もう一つ は、ミナミマグロ漁業交渉が大変でした。毎年ミナミマグロの漁獲割当を 決めるわけです。この問題は、その後海洋法の仲裁裁判に行くわけです。
結局、仲裁裁判所には管轄権がないってことになりました。その当時はど れだけ獲るかということで、延々と 1 ヶ月くらい交渉をしていました。日 本からの交渉団は、ホテルに泊まりこんで、自炊のようなこともしていま した。豪州側は、外務省じゃなくて当時は第一次産業省が担当していまし た。日本側の交渉の主席代表としてその後次長をされた水産庁の斎藤[達 夫]審議官などが来られて、延々と漁獲割当について交渉していました。
当時は日本側も、豪州の漁業者が小型マグロを獲ることを問題にしていた と思います。それから観光が黎明期を迎えていて、豪州側から日本人観光
客の増加に協力してほしいと言われました。日本側は、それは政府の仕事 じゃないですよって言いつつも、日本の業界団体に協力をお願いしたよう に思います。今はものすごい数の日本人が訪問していますが、当時は豪州 に行く人はそんなに多くなかったんです。
中谷: それは相手側からの要請で、もっと多くと。
小島: そうそう。日本側は、そう言ったって日本語を話せる人いないじゃないで すかとか(笑)、お土産だって良いものがないですよと答えていました。
もう一つ印象の残るのは、コアラが日本に行くのをお手伝いしたことです。
当時、コアラを日本に持って行きたいということで、東京だと上野動物園、
それから名古屋の東山動物園、それこそほとんど日本中の動物園からコア ラくださいという陳情が行われていました。
中谷:それは外務省を通じて(笑)。
小島: 動物園の側が直接交渉するわけですけれども、相手の動物園とそれから野 生動物を管轄する政府機関との橋渡しをしてほしいということであったと 思います。動物園の交渉団は、大使館にきて、交渉の中間報告をして帰っ ていかれました。大変な熱気がありました。
〇アジア開発銀行
西村: 霞関会 に ADB[Asian Development Bank、アジア開発銀行]に行かれ たのは先生が最初だったって書かれてましたけども、ADB に行かれると きは先生が手を挙げられたんですか?
小島: 私は手を挙げていません。当時の藤岡[眞佐夫]総裁が、中国の加盟問題 における経験から、日本の外務省から、条約のことを知っている人がいた ほうが良いだろうと判断されたと聞いています。外務省から誰か出しませ んかと言われて、私よりずっと先輩の人を送ろうとしたんですが、大蔵省 から行っている理事さんっていうのがその人とそれほど年次が違わない人 だったわけです。加藤隆俊さんですよね。加藤隆俊さんは大蔵省をお辞め になって IMF[International Monetary Fund、国際通貨基金]の副専務 理事になられ、国際金融の分野ではすごく有名な人ですよね。加藤さんの 年次と局長クラスで出向しておられた大蔵省からの出向者の年次も考慮し て、もう少し若くて、条約局の経験者はいないかということで、私のと ころへ話がきたっていうことです。大蔵省からの出向者の年次との関係 もあって、Senior Counsel で出向することになりました。ADB の法務部 は、この話を進めたトップの法律顧問[General Counsel]を除けば、当
然 Counsel で来ると思っているわけですから、Senior Counsel で受け入れ てもらうのに時間がかかりました。
中谷:そうですか。
小島: 政治任命のような場合は別として、普通のレベルで受け入れるとすると Counsel ということになるわけです。そういう意味でいうと、ADB に行く にあたり年次で苦労しました。私がその後経協[経済協力]をなぜやった かというと ADB に行ったからです。言ってみればアクシデントですよね。
ADB に行ったことで、法律から開発に専門が代わったということでしょ うか。
〇経済協力局国際協力課長・調査計画課長
小島: 経済協力の分野で、日米関係がどうであったかと言われるとあまり申し上 げるようなことはないんですが、ただ、USAID[United States Agency for International Development、米国国際開発庁]とは定期的な協議をやっ ていました。私が出席した協議には両国の NGO も入っていたように思い ます。それは、湾岸戦争の時に行われたもので、日米協議が終わって、ホ ノルルの空港で待っているときに実際の戦闘が始まったことをテレビ・
ニュースで知ったことを覚えています。パキスタン援助は、戦略援助とよ く言われますが、別に米国の肩代わりをしているという意識はなかったの ではないでしょうか。確かに、核開発疑惑があって米国がパキスタンに出 せず、日本が出していた時期がありますが、あの地域におけるパキスタン の安定が重要であるという判断のもとに援助をしていたと思います。後に 駐パキスタン大使になって、そのことを改めて認識しました。
山口:では、安全保障と援助のリンクというのはさほど意識されていなかった?
小島: 私はしていませんでした。経協というのは、まあ地域局もそうですけど、
開発途上国の側に援助需要があれば、それに応えていきたいと考えるもの です。私が経協で一所懸命やっていた 90 年代は、援助が伸びた時期です しね。パキスタン援助に限らず、日本が援助を増やすことはアメリカなん かも支持していたでしょうね。どういうわけかアメリカは自分では一位に なろうとはしなかった。日本が一位になっていたわけです。だからアメ リカがその後どうしてあんなに増やしていったのか未だによく分からな いんですよ。アメリカはご存知のとおり、MCC[Millennium Challenge Corporation]っていうのも作りました。今や、援助額では、日本なんか 足元にも及びません。
山口:しばしば言われるのは、テロの影響で増やしたと。
小島: テロの影響といったって、ODA[Official Development Assistance、政府 開発援助]によって、テロの温床になる貧富の格差をなくすには時間がか かるでしょうから、直ちにテロ活動が収まるとは思えません。ODA を増 やすことで国際正義に訴えようとしたのかもしれないという気もします。
欧州では、イギリスも、ドイツも、フランスも増やしている。日本はこれ までグロスで威張ってきたわけですよね。ネット[支出純額]じゃ円借款 の回収金が多いから少なくなってしまうけれど、グロスじゃ多いと言って いた。そしたら今、グロス[支出総額]でも四番目くらいになっていますね。
中谷:日本の順位が落ちてきていることについては何か?
小島:それはもう残念な話ですよね。
山口: 経済協力に関して、米国と政策のすり合わせをするような機会は多かった ですか?
小島: それがまさに政策協議ですし、お互いの出張者が相手国のカウンターパー トのところに行って、議論をすることもありました。
山口:どういうすり合わせをしたのですか?
小島: それぞれが自分たちの援助政策を説明して、相手国に理解を深めてもらう。
特に、最近政策の変更が行われたような場合には、その部分を詳細に説明 していたと思います。あるいは、特定の国を選んで、一緒に援助協調を提 案することもありました。
山口:援助協調というと一つのプロジェクトにお互いがお金を出すと。
小島: お金を出すというか、一つのプロジェクトからお互いが得意な分野を取り 出して、それぞれの援助を実施するということですね。あるいは日本のやっ たプロジェクトを一緒に、ポストエバリュエーション、事後評価ですね、
これを一緒にやるようなこともありました。すみません、アメリカとの間 では実際にやったかどうか。すぐに思いつくのは UNDP[United Nations Development Programme、国連開発計画]と一緒に実施した例です。世 銀[世界銀行]に対する政策について、日本とアメリカのすり合わせかな んかをその場でしたかもしれませんが、むしろ重要なのは世銀との直接協 議の方だったと思います。それは JICA[Japan International Cooperation Agency、国際協力機構]もやっているし外務省もやっています。外務省は、
世銀のほかには、UNDP などと援助協調、援助対話っていうのを今でもやっ ていると思います。
中谷: アメリカとのすり合わせっていうのは、もちろん他の国ともすると思いま すけども、アメリカの方が頻度が多いとか密度が深いとかそういうことっ
ていうのはありますか?
小島: そういうことはないんじゃないかな。欧州で言えば、EU[European Union、 欧 州 連 合 ] と も や っ て ま す よ ね、DfID[Department for International Development、英国国際開発省]ともやってますが、協 議の内容が大きく違っていたとは思いません。ちなみに私が在英国大 使館でナンバー 2 の頃はしょっちゅう DfID の事務次官と会っていまし た。そういう意味では協調というか意見交換は大使館レベルでも行われ ていると言えます。ちなみに、当時の次官はスマ・チャクラバルティ
[Suma Chakrabarti]という人ですが、今は EBRD[European Bank for Reconstruction and Development、欧州復興開発銀行]の総裁になってい ます。話を戻しますと、米国も日本の政策に手を突っ込んで、ああせいこ うせいっていうのはなかったと思います。それはお互いの政策を説明して、
最近こういう風に一般政策を変えましたとか、こういう問題を抱えていま すとか、そういうことだったと思います。特定の被援助国をとりあげて、
今こういうふうに見ているけどもとか、こういう風にやろうとしています と言って相手の同調を求めるようなことも当然したと思います。
山口:それは課長級ですか?
小島: 課長級が多いですね。局長級でやることもあって、私は日加援助政策協議 に出席したことがあります。つまり、局長級の協議に課長として陪席した ことがあるということです。
西村: 省内に関してはどうだったんでしょうか? 地域課がありますよね、アジ アであれば特定の地域の課があって。
小島: それぞれの地域で何が起きているかっていうのは皆にシェアされているわ けですが、その政治的な意味合いのようなものは経協局では、よくわから ないわけです。だから、地域局から情勢についての説明を受けるわけです。
地域課との関係は、なんと言ったらいいんでしょうか、陳情し、陳情され る関係とかそういう感じかもしれませんね。ただし、経協局の後身である 国際協力局では、「地域アプローチ」ということで、国別開発協力一、二、
三課ができたわけですよね。そうするとそこと地域局との関係はもっと微 妙になっているかもしれません。国別開発協力課が開発に関わる問題を考 え、地域課が援助の政治的な意味合いや必要性を考えるという整理になっ ているのかもしれません。私がいた頃はそうなってなくて、地域課が直接 スキーム課と相談する体制になっていたわけです。ややこしくなりますが、
経協局の複数の課が関わるような場合には、政策課が取りまとめをしてい たように思います。
西村:陳情する側が地域?
小島: そうです。地域課です。地域局と経協局の関係は、一種の陳情をする側と される側という関係だったのでしょうね。予算があって、実施するにあた りその予算を貼り付けていくわけですから、どう貼り付けていくかという と、それは地域課の方で、今度こういうイニシアティブをとるからつけて もらえませんかとかいう陳情をする役割を担っていたんですね。
西村:それは課ごとに激しい競争があったりするものなんでしょうか。
小島: それはあまり感じませんでした。課同士での競争はないと思いますね。何 か重要なイニシアティブを日本がとるような場合、みんなそれなりにその 重要性を理解していたんではないでしょうか。その関連でおもしろいと 思ったのは、課長の頃かな、対東欧支援っていうのがあって、それはソ連 課の上月[豊久]っていう今度ロシア大使になったソ連の専門家と一緒に ワシントンに行って、関係ドナーによる技術支援のための会議っていうの に出席したことです。地域課も熱心でしたけど、米国も熱心で、さっき言っ た米国と一緒にやった典型的な例かもしれませんね。その後の実施につい ては、飯村[豊]さんっていう方が技術協力課長で、飯村さんがハンガリー とポーランドの調査に行かれ、開発協力課長の私はユーゴとルーマニアに 行きました。
中谷:それは冷戦が終わってから? 終わる前ですか?
小島:89 年か 90 年です。終わるか終らないかくらいですね。
〇政府開発援助
小島: ODA 四原則のもとになった ODA 四指針というものがありました。これ は海部[俊樹]総理が国会で答弁する形で発表しました。ここでは、日本 が援助を行うにあたって、四つのことに十分注意を払うと言っているんで す。それは、被援助国の軍事支出の動向、大量破壊兵器などの開発・製造、
武器の輸出入、民主化促進・市場経済の導入、そして人権の保障状況であ り、これらの状況を動向として見ていこうとしています。ここには、援助 の額を決める要因が書かれていて、援助の内容、つまり軍事的な内容の援 助は控えるというようなことは書かれていません。それが付け加わるのは、
1992 年になって、ODA 大綱ができるときです。ただし、援助というもの は中期・長期にわたって、計画し、実施していくものですから、この四指 針を機械的に適用して、増額したり、減額したりすることは必ずしも適当 ではないわけですし、国際情勢、被援助国との関係全般、経済・社会状況、
援助需要といった事柄も考慮して、総合的に判断するのが当然ですから、
そういうことも書いてあります。当時、ODA にも原則のようなものが必 要であるとか、ODA 基本法みたいなのものを作るべきであるという議論 がなされていました。実はそういう法律を持ってる国は少数派で、3 分の 1 くらいのドナーじゃないですかね。我々としては、基本法のようなもの を作ると機動的な運用ができなくなってしまうおそれがあると言っていた んです。ただし、透明性とかアカウンタビリティとかいうようなものはき ちんと確保されるようにします、そういう説明をしてきたんです。イライ ラ戦争[イラン・イラク戦争]の後、日本を含む国際社会の援助がイラク の軍事大国化を助けてしまったのではないかという反省がありました。日 本も発電所建設や肥料工場建設などの援助をしていました。日本の援助は プロジェクト援助が中心ですから、日本の援助が直ちにイラクの軍事力の 強化につながったわけではありませんが、お金はファンジブルだから、我々 の援助で浮いた資金を使って軍事力が強化されたという議論もできるわけ です。1991 年の海部四指針はそういう議論に応えるものであったと思いま す。何もないところから作るわけですから、初めは原則というと何か厳格 に適用すべきものであるというニュアンスがあるということで、指針とし たわけです。この四指針がもととなり、環境と開発との両立とか、軍事的 用途・国際紛争助長への使用回避が付け加わって 1992 年の ODA 大綱の 原則になりました。それからこの大綱が 2003 年に改定されて、昨年開発 協力大綱になった、こういう流れになっています。だからその時にあった 考え方としては、援助基本法はないけれども、閣議決定をした、それに匹 敵するような大変に重要な文書ができたということですよね。
中谷: そういう形で指針ができてきて、それが原則になり、大綱になっていく中で、
それが実務上何か?
小島: そこですごく心配したのは、非常に機械的に止めたり減らしたりすること にならないかということです。つまりネガティブなリンケージですよね。
非常に大きな事件が起きれば、例えば天安門事件とか、インドとかパキス タンの場合には核実験が行われたとか、あるいはクーデターが起こっちゃ うとか、非常に大きな事件が起こった場合には、全部とか一部とかを止め ざるを得ないでしょう。でも止めた例は数が少ないと思います。ODA 大 綱ができた当時の ODA 白書を見ると実際の運用の仕方を詳細に記述して います。先ほども言いましたが、もともと海部四指針とか ODA 大綱は注 意深く書かれているわけです。機械的な適用はしませんと。だからそれは 通産省も含めて、関係者は、それが段々と機械的な適用になっていくんじゃ
ないかということを心配したんです。結局私はそうはならなかったと、思っ てるんですけどね。天安門事件の時は止めると言ったのかな。状況に応じ て、いろいろな対応をしてきていると思います。例えば、新規はやらない けれど、実施中のものは続けますとか、人道的なものはやりますとか、あ るいは円借款は続けるけれども、無償資金協力などは止めますとか、いろ んなやり方をしていたんじゃないですかね。ただ、大きな事件が起こると、
実際上動かせなくなるんです。新規案件であれば、準備のためのミッショ ンが派遣できなくなります。数年前にコミットして実施中のものは途中で やめる訳にいかない。ちなみに、別の理由、具体的には環境への影響に対 する配慮から途中で止めるようなことは、インドの水力発電プロジェクト で起きました。確か発電機購入のための頭金は出したけれども、残りは出 さなかったという円借款案件はありました。普通は継続案件はやるってい うことです。
中谷: なるほど。そういう意味ではどうですか。2003 年の ODA 大綱が実務的な 観点から見て、何か意義があるとすればどのような?
小島: まず、日本の ODA の哲学、理念、原則などを、援助の受け取り国を含め て内外に示したってことじゃないですか。あとは、ODA の実施上のこと がいっぱい書いてあるわけです。それまでに援助の実施を通じて積み上げ てきた経験・知恵のようなものを書き込んだということでしょう。ODA は、
もちろん、ODA 大綱、あるいは開発協力大綱だけで実施されているわけ ではなく、例えば、重点事項みたいなものをまとめて、外務省が毎年出し てるわけです。それから、昔は重要な受け取り国について国別援助計画を 作っていました。最近は国別援助指針・事業計画と名前を変えて、すべて の国について作っていると思います。大綱だけでは、援助を実施すること はできず、実際にはそういう指針があり、さらに毎年行う援助対話を通じ て方針を決め、案件を決めていくことになります。言ってみれば大綱は政 策枠組みのピラミッドの頂点にあって、その下に様々な政策文書・実施文 書が幾層にもなって支えているという構造になります。大綱は全体の指針 ということになります。こういう政策枠組みの中で決まっていくという話 ですね。それから、増やすとか減らすとかって話について言うと、昔は案 件の積み上げが基本にあって、そこに政策的な配慮をするということでし た。今はもっと政策的な判断が重視されているという印象を受けます。ア フリカにこれだけ、他の地域にいくらっていう発想がされていると思いま す。昔は予算といっても積上げで要求するものではなかったと思います。
大蔵省主計局とは、無償資金協力、技術協力などの個別の予算項目につい
て協議し、具体的なプロジェクトの選択にあたって、主計局と実行協議を しながら決めていたと思います。
山口:では予算がまずあって。
小島: 予算があって、これを貼り付ける段階になって、主計と相談する。相談の 仕方も、あらかじめ合意したメカニズムができていて、小さな案件を一件 一件やっていたわけじゃないようです。私は直接やってたわけではありま せんが、横で見ててそういうふうに理解しました。
山口:その額を決めるときに、政治側からの働きかけというのはありましたか?
小島: 当時言われていたことは、ODA 一般に関心がある政治家の方はあまり多 くないということです。ただ、特定の分野、保健医療とか、農業とかに関 心のある政治家はおられました。個別の案件ということであれば、それは 相手国からの要請があって、相手国と協議して決めるのが原則でした。国 内には、農業、上下水道、運輸などの分野ごとにコンサルタント団体があっ て、途上国で様々な調査をしています。そういったコンサルタントはそれ ぞれの分野の案件に関心はありますよね。そこで政府の側には政策的な意 図が大切になるわけです。ただ、こんなこと言ってしまうと身も蓋もない けども、予算はあっても、継続案件がいっぱいあるから、新規案件に振り 向けられる額はものすごく限られることになります。私は、開発協力課長 の時、数多くの年次協議をやっていましたけれども、それで苦労したのは 新規案件を採択する余地がすごく小さいということです。通常は相手国か らの要請をほとんど断るような結果になります。だからこそ、方向性を決 めるっていうことが大事だったかもしれませんね。つまり、メリハリをつ けていくということですね。例えばインドネシアで言えば、コメの自給の ためにどういうプロジェクトを進めていったらよいか、自給が達成された 後に、何を目標にすべきかということですね。私がいた頃は、援助協議では、
無償資金協力とか技術協力といったスキーム別、あるいは運輸とか農業と いった分野別に議論をしていました。国内の方も、それに合わせた体制に なっていました。つまり、経協局も、JICA もスキーム別になっていまし たし、それに加えて分野に関心がある各省庁があったわけです。それが段々 途上国全体の開発の在り方に関心が向けられるようになり、被援助国の側 でも、分野とともに、開発課題に関心を向けるようになりました。だから 今は国際協力局も JICA も、組織が国別に分かれていますよね。昔はそう じゃなくて、スキームごとになっていました。それが国別になってきてい るっていうことです。それから農業セクターとか運輸セクターということ じゃなくて、例えば貧困削減、環境保護あるいは経済成長とかいった課題
別になってきています。それは援助の世界だけじゃなくて、科学技術の世 界でも、政府が作っている科学技術基本計画を見ているとそういう印象を 受けます。いろんな世界でセクター別ではなく、課題を決めて、それにど う取り組むかが大事になってきているということなのでしょうか。プラス もマイナスも両方あるのかなって気はしますが。
中谷:プラスでいうと例えば?
小島: プラスでいうと、やっぱりインドネシアにとっては円借か、無償か、技協 かが大事ではなく、国全体として開発課題にどう取り組んでいくかが関心 事です。
中谷:相手のニーズに応えると。
小島: ニーズに応えるということです。しかも、我々はプロジェクト型援助が中 心ですけれども、我々の援助はスタンドアローン・プロジェクトの集まり ではなく、それにストーリーというか、シナリオが必要ですよと言ってい るわけです。例えば小学校教育の質を向上させるというのがストーリーに なります。そのためには、教職員のレベルをあげることも含まれてくるで しょう。プログラムといいますけども、プログラムがあって、その中では じめて学校を作りましょうって話になったり、先生を教育するために専門 家や協力隊員を出しましょうというということになったりするわけです。
私が現場にいたころは、まだそういうふうになってなくて、やっぱりスキー ムごと、セクターごとに議論をする世界でしたね。ちょっと飛んじゃいま したけれども。
山口:デメリットといえばどういうことが考えられますか?
小島: デメリットといえば、やっぱり制度やスキームを知らない人が多くなった ことでしょうか。たとえば、それぞれのスキームがどう動いているのかと いうことについての知識が職員の間で共有されなくなっているのではない かな。それからセクターに対する知識も深まらないのではないでしょうか。
農業セクターや交通セクターにどういう課題があるのかが分からなくなっ ている。セクターについてあまり関心を持たなくなっているのではないか と想像します。だからこそ、それぞれのセクターの専門家の知見を活かす ことが大切になります。ただ、最近保健医療に関心が向けられるように なったことはいいことだと思います。教育もそうですね。これは、ミレニ アム開発目標(Millennium Development Goals: MDGs)の効果かもしれ ませんね。それから、安倍政権になって、基礎インフラ重視の姿勢が復活 してきていますね。昔は援助において電力なんていうのはすごく大事なセ クターで、電力セクターをどうしていくかっていうことをすごく考えてま
したよね。今でも電力分野の協力をしていると思いますが、今は電力は民 営化の世界だから、その比重は下がってきているかもしれません。通信な んかはもっと民間の世界だから、真っ先に日本の ODA の対象から外れて いく。でも人を育成するというようなことは、今でもやっていると思いま す。私がインドにいた頃は、ブータンの電話網建設が重要案件でした。私 がいたパキスタンには、パキスタン水・電力開発公社(Water and Power Development Authority: WAPDA)という巨大な公社がありましたが、パ キスタン政府は水資源開発は政府の仕事であるが、電力は民間の世界だっ て言ってましたね。政府としては、民間に任せればお金がかからないから このような流れになると思うのですが、政府の責任をきちんと果たすこと も重要ですよね。
〇冷戦の終焉
中谷:外交官時代に冷戦の終焉をご経験だったと思うんですが。
小島: そうですね、皆さんにとっては冷戦の終結は歴史に属することなんですよ ね。これは、何か目立った形で結果が現れてきたという感じはしなかった ですね。北米局や当時はまだは欧亜局と言っていた現在の欧州局で働いて いた人たちは別かもしれません。私にとっては、仕事の内容ややり方が変 わったとは思われません。同志社大学に来て、国際関係について学者の書 いたものを読む機会が多くなったのですが、非常に多くの事象が冷戦の終 焉の結果だと書いてあります。私などは、時々本当にそうなんだろうかと 疑ってしまいます。そういう事象は、冷戦の終結の前にすでに起きていた んではなかろうかとか、冷戦の終焉とは直接関係がないのではないかと考 えてしまいます。冷戦の終焉って何かと似ていないかと思って、思いつい たのがウエストファリア[体制]です。実際には前と後でそんなに変わっ てない。1648 年に突然国家を中心とする体制ができたわけではなく、それ 以後もたとえば教会の力は残されていたのではないか。ソ連が崩壊して、
冷戦終焉の結果がじわじわと出てきたってことですかね。現在の時点から 見て初めて冷戦の結果が目に見えるようになっているのかもしれません。
ウエストファリア会議の結果だって、きっと 50 年 100 年単位で出てきた んでしょう。冷戦終焉に立ち会った者には、何が変わりつつあるのか、よ く分からなかったのではないでしょうか。
山口:ソ連の崩壊に関して言いますと?
小島: 私の仕事の分野では、それはあまり感じませんでしたね。ソ連課にいた人
たちは、むしろ過大評価するくらいそういうことを感じたかもしれません。
でもその後の動き、領土問題なんか見ても、冷戦の終焉が問題解決につな がったとは思われません。ユーフォリアはあったかもしれませんけどね。
中谷: 冷戦の終焉とソ連の崩壊との間に起こったいわゆる湾岸戦争についていか がでしたか? 大きな変化だとかそういう感想というか印象というのは。
小島: 湾岸戦争の時は、経協にいましたからね。あまりそういうのを直接感じたっ ていうことはありませんでした。むしろ私たちの関心は、いかに周辺国に 対して支援をしていくかということでした。結局、海部総理と中山太郎外 務大臣が、130 億ドルの支援と周辺国支援を苦労しながら取りまとめてい かれることになります。
中谷: 例えば伝統的な安全保障政策とのリンケージというのは意識されました か? つまり自衛隊は派遣できないから、軍事的な貢献が難しいから援助 政策で頑張るんだという意識ですね。
小島: それは何か真ん中に立ってる人がいう話でしょうね。我々のような援助を やってる者には、援助で貢献していきたいっていう気持ちが強くあったん です。経協局としては、周辺国支援が大事だと考えていました。エジプト、
トルコ、ヨルダンに対して総額 20 億ドルの援助を実施しました。これは、
130 億ドルとは別に出しています。
山口:世間では 130 億ドルのトラウマって言われるわけですが。
小島:最初は 40 億ドル出したのかな。
山口:それで too little, too late って言われて。
小島: 一部の人たちにはそうかもしれませんが、多くの国民にとっては必ずしも トラウマにはなってないんじゃないかという気もします。それに、人を出 さなきゃだめだっていうのはずっと分かっていたことだったのではないで しょうか。
中谷:外務省としてはトラウマというよりは、当然だろうというような。
小島: おそれていたことが、少しドラマチックな形で出てきてしまったというこ とでしょうか。
山口: 当時 130 億ドル出して、アメリカに感謝されなかったっていうのはお感じ になりました?
小島: 最終的には、アメリカに感謝されたんじゃないですか? アマコスト
[Michael Armacost、駐日米国大使]さんは一所懸命頑張って結果を出し たわけですが、協議の過程では感謝しますとはあまり言わなかったんじゃ ないでしょうか。話を元に戻すと、いろんな形の人的な貢献は本当に大事 ですよね。そのことは、それは分かっていたけれども、改めてその重要性
に気づかされたのが湾岸戦争だったのでしょう。
〇アジア局地域政策課長
小島: 私がいた地域政策課というのは、アジア局の取りまとめ課で、担当分野は 非常に幅広いんです。新しい問題が起きると取りあえず、その面倒を見 て、その方向性が明らかになってきたところで、他の課に事務を移管す るようなところがありました。その例が APEC[Asia Pacific Economic Cooperation、アジア太平洋経済協力]です。大来[佐武郎]さんには、
経協局時代にお世話になったのですが、APEC との関連では賢人会議に ついてたびたびお話をする機会がありました。米国の賢人はバーグステン
[Fred Bergsten]さんでした。1993 年 2 月のある日大来さんから電話が かかってきて、バーグステンさんが話をしたいと言っていると言って来ら れたのです。大来さんによれば、バーグステンさんの用務は、どうやら賢 人会議座長の人選であり、自分[大来]は ASEAN[Association of South
‐ East Asian Nations、東南アジア諸国連合]から出した方がいいと言お うと思ってるんだけど、それでいいですよねという確認の電話でした。[私 は]もちろん、それで結構ですと答えました。その日は風邪を引いておら れたというので、自宅からかけてこられたようでした。大来さんは、その 後バーグステンと話をしている間に具合が悪くなり、その日に亡くなった んです。最後に話されたのはもちろん奥さんですが、それ以外の日本人は 私じゃないかなと思っています。座長には、結局バーグステンさんがなっ たんです。アメリカとしては、バーグステンさんを座長にして APEC を引っ 張っていこうと考えたのでしょうね。
阿部:東南アジアにおける国際貢献についてどう思われますか?
小島: それは逃げちゃいけないと思います。東アジアには、様々な協議の場があ ります。ARF[ASEAN Regional Forum、ASEAN 地域フォーラム]と か、東アジアサミット[East Asia summit: EAS]というような場での協 議や協力を通じて東アジア地域の安全保障に貢献していくべきでしょう。
南シナ海問題については国際法のルールに則って、海洋の安全保障と秩序 を守っていくことに貢献すべきです。また、関係国に巡視船をあげるとか、
海上法執行能力を高める支援をするとか、あるいは情報交換するとかそう いうことが大切と思います。そういうことをやっぱりやって行く必要があ ると思いますね。さらに、合同訓練とかいろんなことも考えていかなけれ ばいけないと思います。
阿部:フィリピンとかは見てると、日本に対する期待はすごく高いと。
小島: フィリピンとかベトナムの期待はすごく高い。日本からは巡視艇を供与し ました。
阿部:タイに関しては?
小島: 南シナ海問題についての ASEAN 内の議論を聞いていると、カンボジア、
ラオスは非常に慎重ですよね。ベトナムとフィリピンは自国の国益がか かっているわけですから、中国が埋め立て活動をやめるように強く主張し ています。その他の国の間にも温度差があるようですが、タイはこの二つ のグループの中間的な立場をとっていると言えるでしょうか。その中でも、
タイはあまり ASEAN 会議の場でめだった動きはしてません。大切なこと は ASEAN が一枚岩となって、声をそろえて、埋め立て活動の中止と海洋 法の順守を求めていくことだと思います。
〇在アメリカ合衆国日本国大使館 公使
小島: アメリカでは何をやっていたかというと、例えば総理や外務大臣が訪米さ れるような場合、大使館員を動員して準備するとか、日程を決めるとか、
議題をどうするとか、そんなことをやっていました。私がいた頃、最初は 橋本総理[龍太郎総理]が来ようとされていて、参議院選挙敗北の責任を 取って辞められちゃったんで、小渕総理[恵三総理]が来られることにな り、したがって準備を二つやりました。準備の過程で、たとえば宿泊先で あるブレアハウス、それからホワイトハウスの中のオーバル・オフィスに は 二回も見に行ったことになります。それから記者会見するところとか、
その他の訪問先を隅々まで点検しました。私のカウンターパートは 主に NSC[National Security Council、米国国家安全保障会議]と国務省でし た。具体的には NSC のアジア部長と国務省の日本課長ですね、私がいた ころはプリチャード[Charles L. Pritchard]さんが NSC のアジア部長、
日本課長は初めがリース[Robert C. Reis]さん、その後ホワイト[Robin White]さんという女性に代わりました。
中谷: NSC がカウンターパートだったっていうのは、先生の公使としてのお仕事 が?
小島: そうですね、大統領が絡む案件とか行事の場合、例えば、小渕総理の訪米 の日程や議題を決めるような話は NSC としていました。
中谷:その場合 NSC なんですね。国務省ではなく。
小島: NSC でしたね。それから、たとえば、日米首脳の間で電話会談をしょっちゅ
うやっていて、その調整も NSC がやっていたと思います。
中谷:それは通常の状態ですか? NSC が訪日云々というのは。
小島: NSC だと思います。総務公使の仕事というのは、人事とか、予算とか、大 使館業務の調整、大使の補佐とか、そういうことでしたね。だから外に出 て行くことはあまりありませんでした。ただ、そういうことに加えて、歴 代の総務公使は自分の関心のある案件にいわば個人の資格で関与していた ように思います。もちろん、交渉ということではなく、シンクタンク、学者、
ジャーナリストなどとの付き合いになります。私の前任者の中にはロシア・
スクールの方が何人かおられてソ連・ロシアの勉強をしておられたようで す。政務班とか経済班とかは別途あるわけですから、政策にかかわること はそちらがやる体制になっていました。私は経協が専門だから、経済班の テリトリーを侵害しないように配慮しながら、ジャーナリストなどと付き 合っていました。
山口:それはどういう形で棲み分けをされていたんですか?
小島: それが結構細かく決まっているんですよ。カウンターパートの所属やレベ ルに応じて、大使館側の担当者が決まっていました。暗黙の了解がありま した。相手の役所ごとに、こちら側の担当者が決まっていました。正式な 申し入れは、財務関係の問題であれば財務公使から米国財務省に行うこと になります。それから同じ省庁からの出向者の間においても、こちらのレ ベルに応じて米国側のカウンターパートが決まってきます。具体的には、
国務次官補あたりだと、国務省側は日本側のカウンターパートは大使だっ て言ってたかもしれませんね。それを承知の上で、こちらの政務公使は、
人間的な魅力と情報力で、国務次官補と良好な関係を築いておられたよう な気がします。
中谷:日程調整を NSC とするっていうのは、それは?
小島: 大統領の行事ですから。ただ、儀典関係については、国務省の儀典長が大 統領の儀典事務も担当していたと思います。在ワシントン商工会議所の取 りまとめは、どういうわけか経済公使ではなく、総務公使がやってました ね。科学技術班の班長もやりました。科技[科学技術]班には倉持[隆雄]
さんというとても優秀な人がいました。思い出に残っているのは、科技協 定の改定をやったことです。内容はあまり覚えていませんが、知財の帰属 をどうするかでもめていたように覚えています。
中谷:それは特に先生が公使をされてた時代のメイン?
小島:普段の科技関連の仕事は、倉持さんなどの専門家がしていました。
山口:先生のポストは大体その科学技術班のヘッドに。
小島:そうです。総務公使の仕事でした。
山口:歴代ですか?
小島:歴代そうでしたね。
中谷:商工会議所に関しても歴代?
小島: 歴代やってましたね。何か特別の事情があったのかもしれません。あとは 太田文雄参事官をヘッドとする防衛班がありました。防衛班は仕事面で重 なる部分がありますが、政務班からは独立していたと思います。太田さん すごく仕事熱心な方で、一日一本は報告をまとめておられました。太田さ んの後に来た人が山口昇さん。太田さんは海[上自衛隊]でしょ?
山口:海ですね。
小島:山口さんは?
山口:山口さんは陸[上自衛隊]。
小島: 防衛班長、プライムと言いましたが、三年ごとに代わるわけですよね。三 自衛隊から計 6 名の方が来ておられました。その後色々なところで活躍し ておられるのは嬉しいことです。
西村:マネジメントというのは庶務班とかの?
小島: 庶務班は、その他の官房事務を扱う班とともに大官房を構成していて、こ の大官房というのは、総務公使の指揮のもとにありました。当時、例えば 車の手配とかそういうのは、庶務班がやっていて、そこに三羽烏と言って、
車の手配をすることの大ベテランの現地職員がいて、アメリカ中で何か行 事があると駆りだされていました。意外に思われるかもしれませんが、大 使館にいると配車をいかに効率的にやるかは非常に大切なことなんです。
庶務班があって、会計班があって、領事班があって、電信班、当時はもう 通信班と言っていましたかね、そういうのを束ねるのが総務の仕事ですね。
人事班とかそういうのはないですね。
西村:先生は総務担当公使っていうふうに理解すればよろしいですか?
小島: 総務担当公使です。大使館によって呼び方が違いますね。米大[在米国大 使館]の場合ですと総務公使です。ロンドンだと総括公使って言ってます ね。ロンドンの総括公使ってもっと偉いかもしれませんね。ワシントンの 総務公使っていうのは、政務公使とか経済公使より年次が下ですから。ロ ンドンの総括公使は他の公使より年次が上じゃないですかね。私は実はそ の後、ロンドンで特命全権公使をやりましたが、総括公使がすべてを束ね ているっていうそんな感じでしたね。
中谷:特命全権公使の下に総括公使があって。
小島:そうですが、特命全権公使っていうのは非常に微妙な立場ですよね。
中谷: 大使ではないし、でも全権だし。特命全権公使というのは、いわば副大統 領のようなポストですか?
小島: そういうことですかね。世の中、公使と呼ばれる人がいっぱいいますけど、
あれはちゃんとした正式なタイトルではなく、参事官が使用を認められて 使う名称なんです。特命全権公使というのは、閣議の発令があって、天皇 陛下から認証された役職なのです。アメリカとの付き合いの関連で APEC のことを付け加えたいと思います。1993 年に初めての首脳会議であるシア トル首脳会議がありました。寺田貴先生によると首脳会議のアイデアは豪 州がアメリカに伝えたということですが、少なくとも我々には NSC アジ ア上級部長であるサンドラ・クリストフ[Sandra Kristoff]から打診があ りました。みんなびっくりしました。今までは閣僚レベルでやってたこと を首脳レベルに上げるということになったわけですから。
中谷: 在米大使館は、例えばロンドンですとかその他の大使館と比較して、大使 館自体の機能などについて違いはありましたか?
小島: 基本的には同じじゃないですかね、規模は全然違いますけど。アメリカは 私がいたころでも 100 人を超えていました。ちなみに、私の大使は斉藤邦 彦大使です。大使は毎週記者ブリーフィングをされていました。記者の方々 は、本当に斉藤大使を尊敬し、温かい目を向けていることが記事からよく 分かりました。よくご夫人とピアノの連弾しておられて、常に余裕をもっ て仕事をしておられました。テレビで『レイプ・オブ・ナンキン』を書い たアイリス・チャン[Iris Chang]と対決されたこともあるんですよ。ちゃ んと正面から受け止めて、日本の立場を説明しておられました。いつも部 下に対しては、仕事を早く切り上げるように言っておられました。ご自分 がお好きなのか、アメリカ人が好きだからというのか、スピーチの冒頭に は必ず心温まるジョークをいれておられました。
〇特命全権公使 在英国日本国大使館在勤
西村:イギリス時代は何をご担当だったのでしょう?
小島: 大使が不在の折とか、日程が重なるようなときに、大使の代理をしていま した。それから、私がやっていたことは、発信するということ、それから 人に会うこと。イギリスで言えば、外務省の Director General クラス、つ まり次官の次ですね、それが私のカウンターパートでしたので、これら の人には軒並み会っていました。後に駐日大使になるグレアム・フライ
[Graham Fry]さんとは本当に仲良くしていました。
中谷:それは何名いるんですか?次官の次は。
小島: 7 ~ 8 人いるんじゃないですか。全部公邸にお招きしていました。そうい う意味ではイギリスの方がよく付き合っていたということになります。
阿部:先生がイギリスにいらっしゃった時にイラク戦争?
小島: そうそう、そうでしたね、大変な反対運動がありましたね。あの時はブレ ア首相[Tony Blair]が大変な勢いで国内や野党を説得しようとしていま した。
中谷: その時、イギリスからイラク戦争の時は、支持してくれとかそういう働き かけはありました?
小島: 少なくとも、在英大にはなかったと思います。支持を求めてきたのは、む しろアメリカですよね。
中谷: イギリスとアメリカを比較して似ているところと大きな違いとか何かあり ました?
小島: 難しいですね。イギリスの方が懐が深い。よく言われるように、社会に入っ ていくのが難しい。オックスフォード大学にいるときも、イギリス人の友 達を作るのに苦労しました。アメリカの方がストレートですかね。それか ら、イギリスはアジェンダの設定が得意ですよね。日本だったら自分が金 を出すということでイニシアティブを取るでしょ。イギリスはそうじゃな いですよね、仲間を集めてきて、アジェンダを理解してもらって信奉させ、
それに賛同させてみんなからお金を出させる。会議なんかでも記録をちゃ んと作る。自らが記録を担当する効果はばかにならないと思います。そう いうのがイギリスの外交アセットじゃないですかね。アメリカもそういう 所があるけど、もうちょっとストレートかもしれませんね。アメリカは、
そんなことをする必要がないかもしれませんね。
中谷:先生としてはどちらが居心地がよかったですか。
小島: まあ局面によりますよね。一例をあげれば、財政支援、バジェットサポー トという考え方があります。イギリスはバジェットサポートを推進してい ます。日本はやっぱり旗を立てたいと思うわけです。違いますよね、考え 方が。そういう意味でいうと、援助の世界ではアメリカの方が付き合いや すいんじゃないですかね。日本と似てますから。まあアメリカの場合は民 間を通じてやる分が多いからそこは日本と違いますけど、援助哲学みたい なものは似てますよね。
小島誠二大使 略歴
昭和 47(1972)年 4 月 外務省入省
52(1977)年 1 月 大臣官房調査部分析課 54(1979)年 7 月 条約局国際協定課課長補佐 56(1981)年 7 月 欧亜局西欧第二課首席事務官
57(1982)年 10 月 在オーストラリア日本国大使館 一等書記官 61(1986)年 3 月 アジア開発銀行
平成 元(1989)年 3 月 経済協力局開発協力課長 2(1990)年 12 月 経済協力局調査計画課長 5(1993)年 1 月 アジア局地域政策課長
6(1994)年 8 月 在インド日本国大使館 参事官 9(1997)年 6 月 在アメリカ合衆国日本国大使館 公使 11(1999)年 9 月 大臣官房審議官兼経済協力局
13(2001)年 1 月 内閣官房遺棄化学兵器処理対策室長
兼内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室長 14(2002)年 2 月 特命全権公使 在英国日本国大使館在勤 16(2004)年 10 月 国際協力機構理事
18(2006)年 5 月 特命全権大使 パキスタン国駐箚 20(2008)年 9 月 科学技術協力担当大使
21(2009)年 7 月 儀典長
22(2010)年 8月 特命全権大使 タイ王国駐箚
24(2012)年 10 月 特命全権大使(関西担当)、政府代表 26(2014)年 4 月 同志社大学法学部政治学科 客員教授