期における待遇と慰霊
著者 岡本 真希子
雑誌名 社会科学
巻 41
号 1
ページ 49‑90
発行年 2011‑05‑31
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012428
台湾人巡査補をめぐる統合と排除
─ 前期武官総督期における待遇と慰霊 ─
岡 本 真希子
本稿は,植民地期台湾の前期武官総督期に警察機構の末端に傭員として設置された 台湾人巡査補を対象とし,彼等をめぐる統合と排除の過程を検討する 。1899 年に創設 され 1920 年まで存続した台湾人巡査補は,正規の官僚ではなく下級職員であるが,台 湾全土に配置され台湾人社会との接点を日常的に持っていた。本稿前半では,台湾人 巡査補制度の制定・運用と台湾人巡査補の対応,後半では台湾人巡査補の戦死者をめ ぐる総督府・陸海軍および台湾人社会の様相を検討する。分析の際には,台湾人巡査 補を,統治体制と台湾人社会とのインターフェースに位置する存在として,彼等をめ ぐる制度の “ 揺らぎ ” にも着目し,同時に内地人社会や内地人警察官との関係性に留意 することで,植民地期台湾と帝国日本にそれぞれに横たわる民族問題を体現する存在 として位置づけてゆく。
1 はじめに−課題と先行研究
本稿は,前期武官総督期に警察機構の末端に傭員として設置された台湾人巡査補を対 象とし,彼等をめぐる統合と排除の過程を検討する1)。台湾総督府では,台湾人を正規の 官僚として採用することは極めて少なかったが2),統治政策遂行のためには台湾人社会3)
の “ 協力 ” は不可欠であり,とりわけ台湾人社会と接点を持つ法院や警察などでは,台湾 人の下級官僚・職員の存在は重要であった。本稿の検討対象である台湾人巡査補は(以 下,巡査補と略すこともある),児玉総督期の 1899(明治 32)年に創設され 1920(大正 9)年まで存続した。正規の官僚ではない下級職員である彼等は,総督や局長などの高級 官僚のように政策を立案・実行するような権限を持つわけではなかったが,しかし台湾 全土に配置されており,台湾人社会との接点を日常的に持つ存在であった。
こうした植民地官僚組織における植民地出身者の下級職員について,従来の研究では 十分な蓄積があるとはいえない。統治体制に参入した植民地出身者を検討対象とするこ とは,必然的に “ 参加 ” や “ 協力 ” といったデリケートな領域に関わらざるを得ない4)。
しかしながら,従来の植民地研究が「支配対抵抗」という二項対立図式の枠組みで論じ られてきたことからすれば,彼等は対象化されづらい存在であったといえる。
ただし,こうした二項対立図式の枠組に還元されえない,植民地社会の重層的な構造を 明らかにする研究が,朝鮮史の分野では蓄積されつつある。1990 年代以後,朝鮮史研究 では橋谷弘や並木真人らにより,「解放」後との連続と断絶を視野に入れつつ 1930 年代後 半以後の総力戦体制期の朝鮮社会の変動が研究の俎上にのせられ,「政治参加」をする朝 鮮人下級職員の存在が明らかにされ始めた5)。これらの研究は植民地社会の多面性と日常 性を捉えようとする視点に基づき提唱され,韓国の尹海東による「植民地認識のグレー ゾーン」(灰色地帯)の提言や6),アメリカにおける「植民地近代性」をめぐる議論とも 呼応しながら,朝鮮人下級職員を対象とした具体的な研究成果を生み出している。とりわ け松本武祝の研究は,朝鮮の農村行政の最前線に位置した朝鮮人下級職員を検討しなが ら,彼等を「植民地近代」化を実践した存在としてとらえ,さらには「規律・訓練化」さ れた植民地社会像が提示されつつある7)。他方でこうした見方に対しては,朝鮮民衆史・
民衆運動史の視点から趙景達が,そもそも「参加」・「参入」した人々が朝鮮人社会にお いて普遍的な存在ではなく,過大評価の危惧があると批判している8)。また,愼蒼宇の研 究も民衆史の立場から,警察の最末端機構に設置された朝鮮人の憲兵補助員と巡査補な どを検討対象として,朝鮮社会における「近代」と「伝統」をめぐる政治文化の諸相を 抉り出している9)。このように,朝鮮人下級職員を主な対象として,多面的な検討が進行 中といえる。
他方で台湾史では,そもそも正規の官僚となった台湾人は僅少−特に高級官僚は稀少
−であるため,研究成果も多いとはいえない。しかしながら,台湾人下級官吏・職員が 存在した法院や警察に関しては,近年,研究が蓄積されつつある10)。巡査補に関する近 年の研究成果としては,李幸真の修士論文(2009 年)11)が筆頭にあげられる。李幸真論 文は日本統治初期(1898 〜 1906 年)の警察機構を日本人12)・台湾人双方を対象としなが ら,その制度構築過程を示した画期的成果である。ただし制度構築や訓練といった体制 内部および運営の問題に議論がやや収斂していること,また,時期が児玉総督期に限定 されていることなど,まだ検討の余地がある。
本稿においては,台湾人巡査補を,統治体制と台湾人社会とのインターフェースに位 置する存在として,彼等をめぐる制度の “ 揺らぎ ” にも着目しながら検討する。同時に,
内地人社会や内地人警察官との関係性に留意することで,植民地期台湾と帝国日本にそ れぞれに横たわる民族問題を体現する存在として位置づけてゆく。
むろん,台湾人巡査補といえば,呉濁流の文学作品「陳大人」13)や『台湾連翹』14)に 代表されるように,日本統治体制の「走狗」としての負のイメージが代表的なものであ ろう。呉濁流自身が植民地期台湾に生きるなかで,直接見聞きした体験をもとに描き出 した台湾人巡査補は,権力をかさに着て台湾人社会に臨む無慈悲な存在であり,具体性 を伴い充分に説得力を持つ。しかしながら本稿で見てゆくように,彼等は必ずしも体制 内に固着していたわけではなく,ともすれば体制から逸脱したり,台湾人社会との間に 流動性をも有していた。また体制の一端に位置しながらも,支配する内地人側は彼等を 決して同列に扱うわけではなかったため,必ずしも体制と一体化し得ない側面も有して いた。このように,台湾人巡査補の存在は,統治体制と台湾人社会との相関関係,また,
植民地期台湾と帝国日本にそれぞれに横たわる民族問題を考える上で,重要な対象と考 えられるのである。
また,本稿では分析対象期を児玉総督期のみならず佐久間総督期にまで拡大し,前期武 官総督期全般にわたり分析を加える。なぜなら,巡査補の存在は,佐久間総督期におい
て,
“ 民族の異なる戦死者 ” という新たな問題を帝国日本に対して突きつける契機となっ
たからである。佐久間左馬太総督(1906 年就任)期以後に展開された「五年理蕃計画」
(1910 〜 1914 年)の「討蕃」政策の遂行のなかで,台湾人巡査補は警察の一端に位置し ながら軍隊とともに戦闘に “ 参加 ” した。そのため,1910 年代以降には,戦闘行為に関連 した台湾人巡査補の慰霊方法は,複数民族から構成される帝国日本にとって,新たに “ 民 族の異なる戦死者 ” という重要な課題として浮上することとなった。
台湾人戦死者の慰霊問題は,従来の研究では,靖国神社における朝鮮人・台湾人戦死 者の合祀問題をめぐり,彼等が軍人・軍属として動員された 1940 年代のアジア・太平洋 戦争期を中心に祖述されてきた15)。これ対して近年の檜山幸夫の研究は,前期武官総督 期の台湾人巡査補・隘勇の戦没者も含めて初めて通史的に描き出した点で画期的である。
檜山論文は,佐久間総督期に台湾人戦没者が靖国神社合祀者から排除されてゆく過程を,
『台湾総督府公文類纂』を用いて,「台湾総督府と陸軍の激しい対立」と「外地間格差と 外地人間格差」という,「大日本帝国の構造矛盾」という視点から明らかにした16)。本報 告の用いる慰霊問題に関する『台湾総督府公文類纂』も,檜山論文が用いたものと重複 する。ただし本稿では,靖国神社合祀問題のみならず,同時期における台湾内における 招魂祭との相違を視野に入れ,台湾内における巡査補に対する慰霊の位置づけと台湾社 会の様子をともに検討する。このことは,日本統治期における台湾人戦死者をめぐる記 憶と台湾社会との関連の初発形態を確認することにもつながるであろう。
以下,本稿では,第一に,台湾人巡査補の創設(第 2 節)と待遇改善問題(第 3 節)を,
個別の台湾人巡査補の事例にも即しながら検討する。第二に,慰霊問題に関する陸海軍・
台湾総督府内部と台湾社会の動向を検討する(第 4 節)。これらの検討に際しては,台湾 総督府の作成した公文書である『台湾総督府公文類纂』(国史館台湾文献館〔台湾台中〕
所蔵)を主に用いながら,同時代の総督府系の御用紙である『台湾日日新報』(以下,『台 日』と略す)の日文・漢文欄,台湾総督府警務局編『台湾総督府警察沿革誌』17),アジア 歴史資料センター所蔵の軍部関連資料も使用する。
2 台湾人巡査補の創設
2.1 前史(巡吏・警吏など)
台湾総督府では,その設立当初から,台湾人を官吏に任用するための特別任用制度を 設けていなかった。台湾総督府の論理としては,台湾領有以前に台湾に赴任・勤務して いた清国官吏は日本の領有時に台湾外へ去ったので日本が引き継ぐべき官僚群は不在と して,土着の台湾人の官吏登用を忌避したのである。朝鮮総督府の場合,「韓国併合」と 同時に朝鮮人を朝鮮内限定で任用する特別任用令を制定したが,この両者の相違の違い について台湾総督府の説明は,「韓国併合」時には大韓帝国から引き継ぐべき官僚群があ り台湾と朝鮮とは日本領有時の歴史的経緯が異なるというもので,両者の比較自体も拒 絶していた18)。
しかし,台湾総督府は,正規の官吏(高等官・判任官)のほかに下級職員として,早く から台湾人を末端の補助的役割として組み込んでいた。警察はその最も早い部署にあた り,台湾領有当初から警吏・巡吏などの職名で,「土人」・「本島人」(漢族系台湾人。以 下,台湾人と称する)を対象として,警察事務を補助する雇・傭などの下級職員を設け た19)。台湾人に対して警戒心を持ちながらも用いたのは,予算の制約があるなかでの支 配体制維持という課題を抱えていたためである。例えば台北県の巡吏設置の際には,「巡 査〔内地人〕一人ノ費用ヲ以テ巡吏〔台湾人〕二人ヲ使用」できるメリットがあげられ ていたように,台湾人の賃金を内地人より低く抑えるという前提にたっていた20)。
2.2 台湾人巡査補制度の創設
1899(明治 32)年 5 月,台湾総督府は巡査補設置を決定した。設置の趣旨と経緯を『台 湾総督府公文類纂』21)からみると,「本島警察ノ普及ヲ期セント欲セハ本島人ヲ使用セサ
ルヘカラサル」とし,従来の警吏・巡吏は「組織ノ完全ナラサル為未タ効果ノ見ルヘキ モノ無之」ことを理由として全廃し,「警察費予算ノ範囲内ニ於テ適用ノ機関ヲ設クヘシ トノ議」が地方長官会議と警察部長会議において決定したため,資格を「従来巡吏警吏 ノ如ク傭員」とし,「巡査補ノ名称ヲ附シ」て,「専ラ巡査ノ職務ヲ補助セシメ其成績ノ 如何ニ依リ漸次適当ノ資格ヲ与フル事」としていた22)。
1899 年 7 月,従来は各地域に個別に設置されていた警吏や巡吏の制度は廃止され,訓 令 204 号により巡査補制度が制定された。それは,「台湾総督府巡査ノ職務ヲ補助セシム
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
ル
4
為」に警察費予算範囲内で「本島人中志願ノ者ヲ傭員
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
トシ使用スルコトヲ得」23)とい うように,対象を「本島人」と明記し,志願者のなかから,従来の予算枠内で傭員とし て使用することとした。ただし,その職権は限定的で,「巡査補ハ身分傭員ニシテ何等ノ 職権ヲ有セス故ニ警部巡査ト同行スル場合ニノミ之カ補助ヲナスニ過サル」ものとされ,
こうした点を総督府では「公表シ能ハサル性質」として非公表の内訓で通達していた24)。 採用と教習に関して定めた「巡査補特別採用及教習規則」(同年訓令 208 号)25)では,
その採用方針を「巡査補ハ学術及体格ヲ試験シ其ノ合格者ヨリ採用スルモノトス」とし,
試験任用制度を基本とし,その条件は,学術試験では,「台湾普通往復文ヲ作リ及楷書行 書ヲ書キ得ル者」,体格試験では,「姿勢容貌醜悪ナラス四肢完備シ全身諸機関ノ機能健全 ナル者」,身長 5 尺 1 寸以上(第 3 条)とした。資格(第 2 条)に関しては,採用不可者 は ① 18 歳未満 40 歳以上,②重罪の刑や重禁錮刑の罪に処せられたり監視処分中の者,
軽禁錮刑に処せらたり満期後 1 年未経過の者,③阿片吸引者,④酒癖・暴行癖,⑤身分 不相応の負債,家資分散処分があり未復権の者などであった。また,たとえ試験に合格 しても,本籍地の街庄長や身元確実者の保証なき者は採用不可とされた(第 5 条)。
また,巡査補教習所を県・庁に設置し(第 7 条),警部・巡査が教師となること(第 8 条),教習科目は,服務心得のほか,制服着装・帯剣・銃器携帯方法や礼式・懲罰法といっ た身体的な規律に関する事項,職務上必要な法律規則や,非常警戒・護送・興行の際の臨 監・警備・警護,報告書や公文書類記載方などといった職務に関する規律・所作,そして
「国語」(日本語)であった(第 9 条)。教習期間は 3 〜 6 ヶ月(第 10 条),授業時間は 1 日 7 時間以上である(第 11 条)。ただし,巡査補教習所は「経費ヲ配布セサルニヨリ当 分ノ内」は弁務署内に設置することとした26)。
創設当時の台湾人巡査補は,服装を見ただけで巡査補とわかり,巡査(内地人)と区 別可能な仕組みになっていた(【図 1】)27)。巡査補の制服を定めた「巡査補服制」(1899 年 7 月訓令第 205 号)では,上衣・袴・外套は鼠色,材質は小倉・天竺木綿とした。特
徴的なのはその形状で,内地 人である巡査が本国の警察 服制に倣ったのとは異なり,
台湾人である巡査補は,上 衣は「本島ノ旧慣ニ従ヒ衫 ノ製法ニ倣フ」,袴は「全ク 本島ノ旧慣ニ依リ䋞ノ製法 ニ倣フ」とし,帽子は円形の
「大甲産ノ藺(俗ニ大甲莚ト 称スルモノ)」28)というよう に,台湾の伝統的な衣服の形 態や材料で構成されていた。
また,携帯する武器はスナイ ドル銃で,これも巡査とは異 なる。
巡査補創設当時,そのメ リットの一つとして,巡吏 と同様にコスト削減があげ られていた。『台日』記事で は,巡査一人に要する一年間 の費用が 370 円,巡査補 120
円内外であり巡査 1 人の費用で巡査補 3 人を使用可能と指定し,「巡査補にして注文通り の勤務を為し遂げんには僅少の費用にて警察力を増加するを得る成算」という29)。そし て,むしろ巡査補に対する巡査の態度が問題視されていた。巡査のなかには「彼れは土人 なり我が部下にあらず出来得る限り我が手足として彼れを苦役せしめんとの不心得を以 て巡査補を待つもの」もあり,「固より己が上位にあるを鼻に掛けて暴威を逞しふするよ り生ずるの弊」が危惧され,「当局者は此際双方の間に一層其監視を厳重になすべき」30)
と指摘していた31)。
また,巡査補設置のメリットは,警察の職務遂行上からも指摘されていた。1900 年の 警察会議席上で,浦太郎民政部警保課長は巡査補採用制度の拡張を喫緊の課題とし,そ の理由として,巡査は渡台後数年経過しても言語や地方の人情風俗に通じず交迭も頻繁
図 1 巡査補服制(初期)
であるため,「本島警察の進歩改良」は「内地人のみを以て警察を組織する間は絶望のこ と」という状況にある,そのため「将来進んで本島人を採用し完全なる警察官を養成す るの急務」を唱えていた。そして,「本島人を官吏に採用するの弊害に堪へざるを憂ふる 者」に対しては,「現に欧州諸国が東洋殖民地に於ける警察機関として土人を多く採用し あるを見ても其の利害を判ずるを得ん」と反対論を退けていた32)。
2.3 人材の確保
巡査補制度は試験採用を基本としていたが,巡査補制度創設当初には特に例外が設け られていた。巡査補の配置までには一定期間の教習を要するため,「巡査補教習期間執務 上支障ヲ生スル」こと,および人材確保という喫緊の課題が生じていたからである。こ のため前述の「巡査補特別採用及教習規則」(同年訓令 208 号)のなかには,試験採用以 外に「再職ノ場合又ハ特殊ノ技能ヲ有スル者ハ学術試験ヲ要セス」と但書きを付し,学 術試験を経ない採用を可能とする途を残していた(第 1 条)。
こうした背景のなかで,従来の警吏・巡吏と,1898 年に制定された「軍役壮丁」33)(台 湾人)から巡査補への転用が行われた。これらの転用方針は,地方庁長からの要請に総督 府が応えたものであった。要請する台中県知事・木下周一は以下のように言う。すなわ ち,軍役壮丁は「蕃界ニ配置シテ警備護衛護送ノ任ニ当ラシメハ其職ニ堪ユルコト内地 人ノ比ニアラズ頗ル警察部内ニ使用ノ必要ヲ認メラレ」る,しかし「本人等ハ凡テ無学」
で「巡査補特別採用及教習規則」により採用可能なものは「殆ンド皆無」である,また,
警吏で「一ヵ年以上不都合ナク弁務署又ハ派出所ニ勤続セシモノ」は,たとえ「文字ナ キモノ」でも「警備護衛操作等ニ付テハ実際上顕著ナル成績ヲ呈シ」ているが,やはり 規則の条項に「適合致サス」,しかし「今ニシテ空シク之ヲ離散セシムルハ公益上最大ノ 関係」があるとし,軍役壮丁や警吏で巡査補適任と認められるものは特別採用を可能と するように要請していた34)。この意を汲んで総督は,「現今ノ警吏巡吏」は「従来警察事 務ノ補助ニ従事シ居ルモノ」で「相当ノ試験及実務ノ教育ヲ受ケタルモノ」,「軍役壮丁」
は「厳正ナル規律ノ下ニ養成セラレシモノ」として,警吏・巡吏・軍役壮丁に限り,「該 則〔前掲訓令第 208 号のこと〕ノ規程ニ拘ラス此際限リ特別ニ採用スルヲ得セシメ」る こととした35)。
また,軍役壮丁からの転用を促すために給与を高く設定する例外規定も設けられた。巡 査補の月俸は「巡査補俸給規則」で(訓令第 206 号)で第 1 級(14 円)から第 6 級(9 円)まで 6 等に分けられ(第 1 条),初任者には最低級の 6 等(9 円)が支給され(第 2
条),6 ヶ月勤務後にようやく昇給してゆく仕組みとなっていた(第 3 条)。これに対し,
例外適用を要求する稟申が,木下台中県知事から児玉台湾総督へ出された。木下知事は,
埔里社の軍役壮丁の台中県巡査補への採用を希望し,理由として「壮丁ハ数年軍事教育ヲ 受ケ居ル者」で,「実務ノ点ニ於テハ其優レタルコト通常志願者ヨリ採用スル巡査補ノ比 ニ非ラズ頗ル御用立候者」とし,しかし規則通りに「通常志願者ト斉シク初任者ハ必ス 六級俸即チ俸給九円ニ採用ノ外致方無」とすれば「到底巡査補ヲ希望スル者無之」とい う。しかもこれに先立ち軍役壮丁本部の星川中尉は「壮丁」で「巡査補ヲ志願スルモノ」
に対し「上ハ実収入(旅費月額服代等ヲ込メ)拾六円下ハ拾参円位ヲ支給スル」旨を口 達ずみのため,「都合悪シ」として,「該壮丁ニ限リ」初任給増俸を要請していた36)。対 する総督府では警務課長が「同県出張ノ際実地取調」の結果,「事情已ムヲ得サル」もの とし,軍役壮丁からの採用者の初任給増俸を許可しており37),人材確保の優遇措置が講 じられていた。
しかし当の台湾人巡査補は,その俸給の安さから巡査補に見切りをつけて給与の比較 的良い総督府の他事業への転職を試みる傾向があった。1900 年 12 月,村上台北県知事か ら児玉総督への稟申によれば,各地方の土地調査事業が「通訳若クハ雇員傭員トシテ比較 的多額ノ給料ヲ與ヘ使用」するため,「巡査補ノ現職ヲ去ラントシ訓諭ニ従ハス職務ヲ抛 棄スル者等続々発生」するため,「数月日薫陶養成シタル前途有望ノ者」に対しても「懲 戒処分ヲ為スノ止ムヘカラサル」状況,および「下級警察機関ノ発達上障害」が生じてい た。転職防止策として台北県知事は,懲戒処分者や誓約年限内の退職者には「官吏准官 吏ハ勿論何等ノ名義(小使迄ヲモ包含セシメ)ヲ以テスルモ官署ニ使用スヘカラサル事」
を提言し,総督府もこれを「至当」と認め,同月に「自今巡査補ニシテ懲戒ニ依リ免職セ ラレ又ハ誓約年限ヲ超ヘスシテ退職シタル者ハ官吏若ハ雇員傭員ニ採用スヘカラス」と の内訓第 51 号を発した38)。ここからは,末端行政の補助的役割の複数の選択肢の中から 主体的かつ柔軟に転職を計る台湾人の姿,これに対して法令を改変し規則を設けては人 材流出に歯止めをかけようとする総督府の姿が浮かびあがる。
では,巡査補の人数と比率はどの程度か。1901 年では,巡査・巡査補の合計 5,093 名,
うち巡査 3,359 名(66%)・巡査補 1,734 名(34%)であった39)。定員改正後の 1907 年で は,合計 4,549 名,うち巡査 3,075 名(68%)・巡査補 1,474 名(32%)である40)。巡査補 は全島にくまなく配備され,警察組織の 3 割強を占める程の不可欠の存在となっていた。
2.4 内地人社会との関係
台湾人が警察機構の末端に組み込まれたことで,“ 内地人を取締まる台湾人 ” という可 能性が生まれた。このことは,植民地権力の最末端であれ,植民地社会に厳然と存在す る民族間の上下関係に不協和音を生じさせかねない。
この問題につき,『台日』では,「新領土に於ける母国人の取締は随分困難なるもの」
で,「土人警吏を以て母国人の取締に任ずるか如き特に困難」という。「土人を警吏に採 用した」イギリスを例にあげ,「始めは土人の取締のみに当らしめ母国人は或意味に於て 警察外に置かれ」,のちに「母国人の数次第に増加するに及びて警察事項漸次増加し母国 巡査の手に余るに至りて止むなく土人警吏を母国人の居住地に配置した」というが,そ の業務は限定的で「現行犯の取押に限れる」という。翻って台湾人巡査補の場合,はじ めは「土匪専門の役目」だったが「次に土人の取締に従事」し「今や内地人の居住地に 配置せらるゝ」状況に至ったものの,「巡査補の内地人取締は随分困難」という。例えば ペスト発生時の家屋の交通遮断時には,もし「巡査補先生が交通の遮断を励行」しよう としても「内地人が聞き入れざるは勿論遂には双方の不為となるの恐なきにあらず」41), このように「内地人の取締に対して巡査補の威信が及ばざる」ことに対して,警察では
「直接内地人取締に使用するは成るべく避くるの方針」をとり,ペスト患者の交通遮断の 例では,「晝間より夜間十二時頃迄は巡査をして立番せしめ十二時以後翌日の交代時間ま で巡査補をして補助せしむることゝなしあり」42)というような,運用上の “ 配慮 ” が必要 とされていた。
また,両者の関係を具体的に示す事例として,内地人による台湾人巡査補侮辱・暴行事 件を見てみたい。1901 年 6 月,台中陸軍補給廠苗栗出張所の「役夫」である奥村順太郎 と村島俊治が「苦力ヲ使役」して軽便鉄道線路を修繕中,巡査補の呉景河が任務を帯びて 修繕線路の側を通過しようとしたところ,奥村等は「チャンコロ何処ニ行クカト嘲笑シテ 行通ヲ妨クル」ため,呉景河巡査補は「上官ノ命ニヨリ交通点ニ向フ途上ニ付キ職務執行 ノ妨害ヲ為スベカラザル旨諭シタ」が,奥村等は「聞キ入レズ終ニハ嘲弄暴行ノ末官帽 被服ヲ破リ且ツ帯剣ヲ奪ヒ取テ地上ニ突キ立テ傍若無人ノ挙ニ出テタル」始末となった。
奥村らは「官吏侮辱事件」被告として「一応ノ取調」を受けたが奥村らが「軍属ナルヲ以 テ一件書類証拠物件等ト共ニ苗栗憲兵隊ニ処分方移牒」されただけに止まる43)。「官」側 の一員として制服を着用し執務する台湾人巡査補に対し,「苦力」を使用する内地人「役 夫」が人種的な差別語を浴びせかけその制服・帯剣をむしりとり暴行を加えて侮辱する 姿,ここからは「官」側の台湾人に対して,あるいは「官」側の台湾人だからこそ,民
族間の序列を確認したいという衝動を抑えることのできない,植民地社会の母国人の心 性が露呈しているといえよう。
3 台湾人巡査補の待遇改善問題
3.1 創設当初の待遇改善
傭員として創設された台湾人巡査補は,当初はあくまで内地人の補助的役割とされ,そ の待遇も外見(服制)も内地人である巡査とは異なる状況に置かれていた。しかしその必 要性が増すにつれて,台湾総督府はその待遇を次第に改善せざるを得なくなっていった。
まず,総督府は台湾内で可能な待遇改善策として訓令
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により,1900 年 5 月に巡査補を 判任官と同等待遇を受けるものとした(訓令第 168 号)44)。さらに翌 1901 年には,判任 官待遇とする勅令
4 4
発布を目指した。天皇の命令である勅令で発令することは,訓令とは異 なり本国との交渉を要する。台湾総督府によれば,現状において巡査補の「職務遂行ヲ 妨碍スル等ノモノアルモ巡査ト同一ノ制裁ヲ加フル能ハス」,「近来軍役壮丁又ハ内地人 ノ為其等ノ事賓頻ニ生スル」にもかかわらず「法院及法官部トモ之ヲ罰セス」,そのため
「警察執行上影響不尠」という。これらを防ぐため,「寧ロ巡査同様判任ノ待遇ヲ与」え,
「相当勅令ヲ発」することを希望していた。対する本国の対応は「総督府限リ定ムルコト ニ法制局ニ於テ修正」という冷淡なものであった45)。しかし折衝を経た結果,同年 5 月,
勅令第 108 号で「台湾総督府巡査補ハ判任官ヲ以テ待遇ス」として発布に至っている。
判任官待遇となると,総督府は巡査補に休暇規程を適用した(明治 34 年 5 月訓令第 138 号)46)。また,従来は巡査補に関する懲罰審査規定がなかったが,巡査と同一の待遇で
「明治三十二年八月内訓大三十七号巡査看守懲罰審査内則ハ巡査補ニモノヲ準用スヘキ」
とし,巡査同様の懲罰規程の準用を受けることとした(明治 35 年 6 月内訓第 13 号)47)。 なお,巡査補と巡査は,その携帯する武器も異なっていたが,巡査補のなかから「巡 査同様ノ剣ヲ劎用セシメンコトヲ欲」する傾向があるため,「規律厳正ニシテ差支ナキ者 ニ限リ」巡査同様に「劎用セシメハ奨励ノ一端」にもなるとの理由から巡査同様の劎剣 が地方庁長から要請されたことを受け48),総督府は,「巡査補ニ劎剣セシムルノ件ハ機宜 ニ適スルモノ」として,1901 年 1 月,許可指令を与えた49)。
では,巡査補が死亡した際の待遇はどうか。1901 年の例では,判任待遇後の巡査補で
「職務ノ為メ死亡シタル者」に巡査同様の規定の適用可否につき50),民政長官の回答は,
「巡査補ハ雇員ニアラス」としつつも,巡査(判任官)なみの救助令ではなく「雇員死没
手当ヲ給スル」という。それはさしあたり巡査補死亡に関する「給与法無キ」ためとい うが51),死亡に関しては制度不備という理由をもって雇員扱いとされていた。
以上のように,台湾人巡査補の待遇は,内地人巡査の待遇に次第に近づけるように調 整されていったが,巡査補と巡査をあくまで個別の体系におきながらの調整であった。
3.2 制服と断髪
判任官待遇と期を同じくして,外見上の待遇改善も行われた。前述のように,巡査補 創設時の服制は,台湾の伝統的な衣服に倣っており,巡査とは一見して識別できるもので あった。しかし,1901 年 6 月に「警察官吏服制」(1901 年勅令第 330 号)でこれを改めた
(【図 2・3】52))。改正理由は,台湾で「新ニ警部補及巡査補ノ二職」ヲ設置したため,「警 察官吏ノ服制ヲ一定シ上警部長ヨリ下巡査補ニ至ルマテ均ク系統ヲ同フセシメントス」る というもので53),巡査補の制服も巡査と同じ形式とされ,衣服の型からは巡査と巡査補 の区別はなくなった。ただしほかの文官の官服54)同様に,官吏の身分に応じて袖章や肩 章の数を変えることで官僚組織内部の身分の識別は可能であった。帽子につける横章や
図 2 巡査補服制(1901 年)①
袖につける白色線の袖章の数が,巡査は 2 條で巡査補は 1 條とし,また肩章も巡査は黄 毛絲線 8 条で巡査補 4 条とされ,線の数で身分の違いを明示した。
なお,巡査補の帽は,当分は土耳古帽で代用することを可能としていたが,翌 1902 年 5 月には巡査補への土耳古帽の支給を漸次廃止し,以後は正式帽を着用することとした。
これは,台湾人の辮髪をなくすの断髪奨励とも関連しており55),「辮髪ヲ蓄フル者ト雖将 来総テ普通制帽ヲ着用セシムルコト」としていた56)。
この直後から『台日』では,しばしば台湾人巡査補の断髪を奨励する記事が掲載され ていった。6 月 20 日漢文欄では,巡査補が判任官待遇以後に,署長の勧誘もあって憲章 を定めて「剃髪改装」を行ったこと,これらが「開化」として報じられている57)。土耳 古帽との関連については,「改正の新制服と共に巡査補の断髪者には巡査同様の帽子を給 し未断髪者には土耳古形の帽子を給する由にて理由は断髪を奨励するものなり」と報じ,
「現在巡査補約五百名の内七十名は既に断髪」しており,「改正被服の下渡しに至れば続々 断髪者を出すならん」58)といい,また,10 月には「近来巡査補の辦髪を断つもの漸次其 数を増し全島を通じて殆んど三百名以上に達したる」が,その理由として,「陋俗を脱す
図 3 巡査補服制(1901 年)②
るの志」とともに「改正制帽を被むるに不便なるより断髪するものも多しと云ふ」59)と して,新制服の帽子の効果を指摘している。巡査補の断髪を報じる記事のなかには,そ の断髪式の様子を記すものもあった。例えば 1902 年の嘉義の新港支庁における巡査補の
「断髪慶祝之式」の様子を報じる記事では,複数の巡査補の断髪が,地方の有力者や官側 の人物の来賓数十人の前で,祝詞や演説などを伴い「慶祝」されながら,公然の場で挙 行された様がわかる60)。
このように巡査補の制服は,伝統的な形式の衣服から巡査と同様の制服を着用する制 度へと改変され,それとともに断髪を率先して行うことが求められてゆくことで,巡査 補は「近代的」な身なりへと改装する模範として位置づけられていた。
3.3 通訳兼掌者としての役割
複数言語で構成される台湾においては,行政機構の中に通訳を置くことは重要な問題 であった。しかし台湾総督府の警察では,専任の通訳の養成制度を採らず,既採用職員 に通訳を兼掌させる制度を採っていた。これが通訳兼掌制度である。
通訳兼掌制度は,1898 年勅令第 68 号により,支給対象職種を判任文官・巡査・看守と し,対象言語を「土語通訳
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ノ事ヲ兼掌スル者」として制定され,特別手当を 1 ヶ月 7 円以 内で支給可能とした。台湾人巡査補が創設されると,彼等が「国語」(日本語)通訳をす る事態が生じたため,1901 年に同勅令を改正し,対象職種に「巡査補」を加え,かつ,対 象言語から「土語」を削除し単に「通訳
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ノ事ヲ兼掌スル者」として,「本島人たる巡査補 にして国語に通じる者にも亦相当の手当を支給」して「熟達を奨励」することとした61)。 こうして,「国語」を習得した巡査補を通訳兼掌者に任命し,特別手当が支給される制度 が成立した。
では,巡査補の通訳兼掌者はどれくらいいたのか。1904 年 5 月の調査によれば,全台 湾(澎湖・台東を除く)の各地方庁の通訳兼掌者は合計 459 名,うち巡査補 133 名,巡 査 245 名,警部補 56 名,警部 25 名で,巡査補は約 29%を占めていた62)。
さらに台湾総督府は,1906 年には「通訳兼掌者手当支給細則」を一部改正した(1906 年 3 月訓令第 52 号)。すでに「巡査補中の多くは警察界に於ける通訳機関として重要の 位置に立ち居れり」という状況にあったにもかかわらず,その手当は 50 銭から 2 円まで 4 等級に分けて支給される制度であるため,1 等級の者は昇給は頭打ちとなり,また初等 の者は語学研究の月費も払えない状況にあるため転職が頻発していた。そのため,手当 額を増加し「巡査との権衡を保ち相当奨励の余地を置き有用の人をして永い警察界に留
まらんとの希望を懐かしむるの必要」から,改正が行われたのである63)。
言語が堪能な場合,ときには巡査補からの転職の契機をももたらした。例えば,1906 年の台東庁長の元巡査補であった陳永成の例では,1899 年に警吏に採用され 1900 年に巡 査補に転じ 1907 年まで勤続したのち,「病気退職」したが,「永年警察官吏奉職ノ結果国 語ハ勿論蕃語等ニモ通シ」ているとして,「公学校雇教員適当ノ者」として庁長から推薦 され,総督府も許可している64)。また,1906 年の澎湖庁の巡査補謝寶樹の場合,「性柔弱 ニシテ警察官吏トシテ発達ノ見込ナキモ能ク内地語ヲ解シ実直ノモノ」として,巡査補 から雇への転職採用を庁長が総督府に申請し許可されている65)。
なお,複数言語から構成される台湾では,言語によっては試験不能のまま,巡査補を 通訳兼掌者に任命した場合もあった。例えば 1907 年に斗六庁では,巡査補で「実父ハ福 建人実母ハ生蕃人トノ混血児」で「土語ハ勿論濁水蕃語ニ精通セル」者を,「蕃語通訳ノ 必要上」から巡査補に採用し「専ラ蕃語通訳ニ当ラシメ」ていたが,試験をせずに「従 来ノ経歴ニ依リ乙種通訳兼掌ヲ命シ」ていることの差支えの有無を警察本署へ問い合わ せている。これに対する警察本署長の回答は,「殆ント蕃人ニ均シキ操語ヲ為ス者」には 試験の必要を認めずとして,「其経歴及平素ニ於ケル通訳事務ノ成績」により銓衡可能と 応答していた66)。
3.4 補助的役割脱却の模索と民族間序列
①独立派出所担当の試み
内地人巡査の補助的役割にとどまらず,台湾人巡査補に独立して一派出所を担当させ ることを総督府が試みたこともあった。1906 年 5 月,民政局長は「将来発達ノ見込アル 優等ノ巡査補」に「試ニ独立シテ派出所ヲ担任セシメ其実績如何ヲ験シ将来ノ計画ニ資 シ度」として,その「準備トシテ人撰方」を各庁に依頼し,その推薦すべき人材としては
「材幹,品行,勤務成績共ニ優秀ニシテ国語ヲ能クシ将来発達ノ見込アル巡査補」として いた67)。これに対し同月中に各庁から該当する巡査補の有無の回答があったが,これら の回答からは,候補者の有無,候補者の経歴・履歴書,担当すべき地域の状況などが記 されており,台湾総督府が “ 理想 ” とする台湾人巡査補像,期待する台湾社会との関係の あり方も浮かび上がる。
各庁が候補者として挙げた台湾人巡査補を一覧表にしたものが【表 1】である。合計 33 名の候補者のうち,最終的に 11 名が選抜された(選抜者には網掛けを施した=【表 1】番 号 1・3・4・5・14・15・18・19・21・22・23)68)。
推薦された候補者たちの特徴は,まず言語面にある。候補者の多くが前述の通訳兼掌 手当てを受け,総督府の希望する「国語」(日本語)を執務上で活かす能力を有し,さら には「国語」以外の複数の言語能力を持つことも推薦理由となっていた。例えば阿緱庁 では,担当予定地が「粤閔〔閩ヵ〕両族ノ雑居地」で居住者は「粤族ハ多少 閔 語ヲ解ス ルモ閔族ハ粤語ヲ解セス」という状況にあるなか,候補の巡査補 2 名(曽桂添・李祈福。
番号 19・20)は,「 閔 粤両語ニ長スル」とともに「国語ヲ解シ通訳兼掌手当ヲ受ケ」る という,複数言語能力が評価されている69)。また,台東庁も 2 名を推薦し,一人目の曽天 發(番号 21)は,担当予定地域の居住者合計 180 戸のうち「本島人」13 戸・「蕃人」167 戸,人口合計 837 名のうち「本島人」53 名・「蕃人」784 名で多数を原住民が占める「プ ユマ族」の居住地区であり,候補者曽天發が「能クプユマ族ノ人情風俗及言語ニ通シ」て いることが評価対象となっていた。二人目の邱阿海(番号 22)は,担当予定地の居住者 合計 92 戸のうち「本島人」70 戸・「蕃人」22 戸,人口合計 418 名のうち「本島人」334 名・「蕃人」84 名で,邱阿海が「永年加礼宛警察官吏派出所ニ勤務シ能ク地方ノ人情風俗 ヲ知悉」していることに加え,「附近蕃社ノ語ヲ能ク解スル」こと,「国語及阿眉語ヲ能 ク」することが評価されていた70)。
各庁推薦候補者の多くは,巡査補制度創設の 1899 年前後から巡査補となり 6 〜 7 年継 続勤務し,この間,職務勤勉・精勤などでたびたび賞与・賞金を受けていた。そしてこれ らの賞金のなかには,「匪徒刑罰令違犯」や「土匪」の「所在ヲ聞知」して巡査と「協力 逮捕シタル段殊勝ニ付」賞金下賜(番号 4),「匪徒刑罰令違犯」の「捕獲」・「逮捕」(番号 11・17・18・21),「匪首」の「帰順誘導」(番号 21)などが評価対象となっていた。台湾 人の武装抗日運動への苛烈な弾圧に威力を発揮した「匪徒刑罰令」により,「匪徒」・「匪 族」・「匪首」等の該当者とされた台湾人に対して,台湾人巡査補は警察側の一員として
「協力」し,その功労として賞金を受けた経歴などが見られるのである。このほか,台湾 総督府が推進した臨時台湾戸口調査で「調査委員附通訳」・「従事」するなど(番号 4・5・
16・18),下級行政における補助なども賞与対象行為となっていた。なかには「犯罪事件 ニ関シ人民ニ対シ粗暴ノ行為アリタルニ付懲罰金」を受ける場合もあったが,これは「職 務熱心ノ結果犯罪捜査上生セシ失体」として(番号 5)問題視されていない71)。総督府側 が要請する「材幹,品行,勤務成績共ニ優秀」な人材とは,武装抗日運動と “ 対立 ” する 側面を包含していたのであり,翻って台湾人社会から「走狗」としての批判を受ける側 面を有していたといえよう。
表1 独立で一派出所を担当する巡査補の候補者一覧(1906年)
番号担当予定地履歴氏名現勤務地・内容年月人物評担当に相当する事由管内の状況人口戸数区域派出所名 士林支庁竹 1台北庁李䆲仔湖警察官 吏派出所 芝蘭二堡竹 仔湖庄及頂 北投庄ノ内 土名竹帽山
114戸747名
「山間ノ僻地ナルヲ以テ部内ノ人民 質朴温良ニシテ警察上注意ヲ要スヘ キ人物少ナク極メテ無事平穏ナリ」 「管内ノ戸数人口少数ニシテ加フル ニ警察事故極メテ少ク一名ノ巡査補 ヲシテ充分職務ヲ執行セシメ得ヘシ ト認ムルニ依ル」
「就職以来職務勉励成績良好ニシテ 将来発達ノ見込アリ」1877(M10)年9月26日出生 1899(M32)年11月13日巡査補ヲ命ス(台北庁)。巡査補教習生ヲ命ス 1899(M32)年11月30日巡査補教習生卒業。台北弁務署勤務大稲䭛支署ヲ命ス。6級俸 1900(M33)年9月19日5級俸 1902(M35)年5月2日士林支庁勤務ヲ命ス 1902(M35)年11月29日精勤証書附與 1902(M35)年12月23日職務勉励ニ付賞與(8円50銭) 1904(M37)年3月31日4級俸 1904(M37)年8月31日通訳兼掌(月手当1円) 1904(M37)年12月23日職務勉励ニ付賞與(5円60銭) 1906(M39)年3月31日3級俸。通訳兼掌(月手当2円) 1906(M39)年3月31日3級俸 2深坑庁 警務課許益謙深坑庁直轄 内第三管区
文山堡竹亭 坑庄土名竹 亭坑、灸仔 頭、鳥月庄、 土名鳥月、 旺䶜
92戸495名
「本管区ハ庁所在地附近ナルヲ以テ監 督上便利尠カラサルノミナラス区域 内ノ戸数及人口寡少ニシテ警察事故 ノ発生比較的少ナク且本人ハ従来此 ノ方面受持巡査ニ附属スルコト有テ 為メニ管内ノ事情ニ精通スルヲ以テ 独立シテ担当セシムルニ最モ適当ト 認ム」 ただし「目下各派出所共担当巡査ハ 何レモ漸ク管内ノ状況ニ通シ目下交 迭致シ難キ事情アルノミナラス当時 戸口調査等ノ復雑ナル事務アリテ以 上ノ巡査補ト雖亦幾分懸念ナキ能ハ ス」「依テ庁直轄内ニ於テ」「一管区内 ヲ担当セシメ其成績ニ依テ尚将来他 ノ派出所ヲ独立担当セシメ度見込ナ リ」
「巡査補トシテ材幹品行及勤務ノ成 績共ニ優秀ニシテ国語ヲ能クシ」「就 職以来ノ経過良好ナルノミナラス勤 務ヲ執ル正實ニシテ将来発達ノ見込 アルモノ」
1877(M10)年11月21日出生 1900(M33)年3月8日巡査補ヲ命ス(台北県・月俸6円)。巡査補教習生ヲ命ス 1900(M33)年4月15日巡査補教習所速成科教習科程ヲ終了ス 1900(M33)年4月16日6級俸(台北県) 1900(M33)年12月21日5級俸(台北県) 1901(M34)年8月30日通訳兼掌(4等手当・台北県) 1901(M34)年11月11日官制改正ニ依リ深坑庁巡査補 1902(M35)年9月30日4級俸(台湾総督府) 1903(M36)年3月23日精勤証書附與(深坑庁長) 1904(M37)年8月31日通訳兼掌(3等手当・台湾総督府) 1905(M38)年3月31日3級俸(台湾総督府) 1906(M39)年3月31日通訳兼掌(4等手当・台湾総督府) 3桃園庁 下䐹支庁邱石養中䐹支庁石 頭警察官吏 派出所
石頭庄、後 庄、嘁埔 頂庄450戸3,339名
「石頭警察官吏派出所部内戸数人口 ハ中䐹支庁管内派出所中最モ少数ニ シテ本人ハ屡々必要ノ注意報告ヲ為 シ成績ノ見ルヘキモノ少カラス将来 益々進歩スルノ気象ヲ有シ試験的派 出所担当ニ最モ適用ス」
「材幹、品行、勤務ノ成績 優秀」「国 語ノ熟否 通訳兼掌手当テ有セサ ルモ稍々国語ニ通シ尚発達ノ見込ア リ」 「本人ハ明治三十三年六月十五日巡 査補拝命中䐹支庁勤務ヲ命セラレ以 来勤務ノ成績優秀志操堅確ニシテ懲 戒処分ヲ受ケタルコトナク精勤証書 ヲ有シ未タ不正行為ヲ為シタル等ノ 悪評ヲ聞知セス」
1877(M10)年12月25日出生 1900(M33)年6月16日巡査補ヲ命ス(月俸6円)。巡査補教習生ヲ命ス 1900(M33)年7月31日巡査補教習課程ヲ修了ス。6級俸 1900(M33)年12月21日職務格別勉励ニ付賞與(1円) 1901(M34)年12月24日職務格別勉励ニ付賞金(12円30銭) 1902(M35)年12月22日職務格別勉励ニ付賞金(9円) 1903(M36)年3月31日5級俸 1903(M36)年12月22日職務格別勉励ニ付賞金(4円) 1904(M37)年12月22日職務格別勉励ニ付賞金(6円) 1905(M38)年3月31日4級俸 1905(M38)年11月25日精勤証書授與
表1 独立で一派出所を担当する巡査補の候補者一覧(1906年)(続)
番号担当予定地履歴 氏名現勤務地担当に相当する事由内容年月人物評管内の状況・人口戸数区域派出所名 大支庁䮇䮄桃園庁 支林維䮇䮄大4鳥 窟警察鳥 窟頭庄214戸1,185人 庁官吏派出所
「鳥 窟警察官吏派出所部内戸数人 口ハ大䮇䮄支庁管内派出所中最モ少 数ニシテ人民質朴加之警察上ノ事故 少ナキノミナラス目下本人ハ大䮇只 支庁直轄受持区ヲ担当セシメ技倆ヲ 試ミツゝアルモ普通巡査ニ比シ一歩 モ譲ル処ナク単独派出所ヲ担当セシ メ差ナキモノト認ム」
「材幹、品行、勤務ノ成績 優秀」「国 語ノ熟否 通訳兼掌六等手当ヲ有シ 尚発達ノ見込アリ」 「本人ハ明治三十三年一月十三日巡 査補拝命仝年三月七日咸菜 支庁勤 務ヲ命セラレ仝三十八年六月二十一 日大䮇䮄支庁勤務ヲ命セラレタルモ ノニシテ以来勤務ノ成績優秀志操堅 確未タ一回タモ懲戒処分ヲ受ケタル コトナク精勤証書ヲ有シ不正行為ヲ 為シタル等ノ悪評ヲ聞知セス」
1878(M11)年8月15日出生 1890(M23)年1月16日於咸菜 街修竹山房書室従王思温先生教読四書修業 (〜1891〔M24〕年12月6日) 1892(M25)年2月5日於咸菜 街横門書室従李松生先生教読五経修業(〜1894 〔M27〕年3月30日) 1895(M28)年1月22日於咸菜 街雑貨小売業ニ従事ス(〜1898〔M31〕年6月5日) 1898(M31)年6月6日於咸菜 街研究会従徳永榮松先生教読国語修業ス(〜1898 〔M31〕年12月28日) 1899(M32)年2月23日於咸菜 街公学校従石井文四郎先生教読国語修業ス (〜1899〔M32〕年7月12日) 1900(M33)年1月13日巡査補ヲ命ス(月俸6円。台北県)。巡査補教習生ヲ命ス 1900(M33)年3月7日巡査補教習所課程ヲ修了ス(台北県巡査補教習所)。 6級俸(台北県)。三角湧弁務署勤務 1900(M33)年3月8日三角湧弁務署咸菜 支署勤務 1900(M33)年12月21日職務格別勉励ニ付賞金(3円50銭) 1901(M34)年8月20日巡査補教習課程ヲ修了ス(台北県巡査補教習所) 1901(M34)年8月27日5級俸 1901(M34)年8月30日通訳兼掌(4等手当・台北県) 1901(M34)年12月24日職務格別勉励ニ付賞金(12円40銭・台湾総督府) 1902(M35)年5月19日明治34年12月28日匪徒刑罰令違犯の台湾人2名の「所在ヲ探 知シ」巡査3名と「協力逮捕シタル段殊勝ニ付」賞金下賜 (2円・台湾総督府) 1902(M35)年5月19日明治35年1月12日匪徒刑罰令違犯の台湾人1名を「逮捕シタ ル段殊勝ニ付」賞金下賜(2円) 1902(M35)年9月30日4級俸 1902(M35)年12月22日職務格別勉励ニ付賞金(13円50銭・台湾総督府) 1903(M36)年5月11日通訳兼掌(4等手当・桃園仔庁) 1903(M36)年12月22日職務格別勉励ニ賞金(5円・台湾総督府) 1904(M37)年8月31日通訳兼掌(3等手当・桃園仔庁) 1904(M37)年9月30日3級俸 1904(M37)年12月17日咸菜 支庁警察官吏学術講習会助手ヲ命ス(桃園仔庁) 1904(M37)年12月22日職務格別勉励ニ付賞金(9円60銭・台湾総督府) 1905(M38)年6月21日大䮇䮄支庁勤務 1905(M38)年9月21日臨時台湾戸口調査調査委員附通訳ヲ命ス(桃園庁臨時台湾 戸口調査委員長竹内巻太郎) 1905(M38)年12月22日事務格別勉励ニ付賞金(9円60銭・台湾総督府) 1905(M38)年12月25日精勤証書授與 1906(M39)年3月31日6等手当(台湾総督府)
番号担当予定地履歴 現勤務地氏名内容年月人物評担当に相当する事由・管内の状況人口戸数区域派出所名 中港支庁大 5新竹庁翁情流埔警察官吏 派出所 竹南一堡ノ 内、大埔庄、 崎頂庄、口 公館庄
397戸2,171名
「該派出所ハ中港新竹間ノ旧道ニ沿 ヒ且ツ沿岸ヲ管轄セルモ船舶ノ碇 泊スヘキ場所ナク又内地人ノ居住ス ル者更ラニナク従テ警察事故多カラ ス」 「該派出所ハ管内派出所中警察事項 比較的僅少ニシテ従テ平常至難ヲ感 スルカ如キ事故ナク又部内人民ノ如 キ他ニ皆悪漢尠ク沿岸鉄道等アルモ 是又常ニ事故アルニ非ラス巡査補ノ 力ニテ充分取締ヲナシ得ルモノト思 量セリ」
「明治三十三年十月一日拝命以来終 始職務ニ精励シ質性温順ニシテ能ク 上司ノ命ヲ遵守シ且ツ国語ニ通シ現 在通訳兼掌手当六等ヲ給セラレ又常 ニ法規法令ノ研鑽ヲ怠ラス従テ応問 ノ成績優等ニシテ執行務注意ノ周到 ナル平時巡査ヲ凌駕スルモノアリ去 ル明治三十七年中五円ノ罰俸ヲ科セ シモ職務熱心ノ結果犯罪捜査上生セ シ失体ニシテ従来ノ状況ニ置スレハ 充分将来発達ノ見込アリ」
1883(M16)年11月20日出生 1900(M33)年10月1日台北県巡査補ヲ拝命(月俸6円)。巡査補教習生ヲ命ス 1900(M33)年12月20日巡査補教習所課程ヲ終了ス。新竹弁務署勤務ヲ命ス・6級俸 1901(M34)年11月17日頭份支庁中港警察官吏派出所勤務 1901(M34)年12月21日慰労金給與(8円80銭) 1902(M35)年12月10日5級俸 1902(M35)年12月22日慰労金給與(10円) 1903(M36)年12月22日慰労金給與(5円50銭) 1904(M37)年2月1日三角店警察官吏派出所勤務 1904(M37)年3月11日阿片令違犯者台湾人1名逮捕の賞金給與(50銭) 1904(M37)年4月23日窃盗犯台湾人1名を逮捕の賞金給與(1円50銭) 1904(M37)年4月25日犯罪事件ニ関シ人民ニ対シ粗暴ノ行為アリタルニ付懲罰金(5円) 1904(M37)年5月14日大埔警察官吏派出所勤務 1904(M37)年7月13日貸與ノ銃器ヲ誤テ毀損シタルニ付罰俸金(10銭・但シ価換金 15銭ヲ賠償) 1904(M37)年10月13日通訳兼掌(月50銭) 1904(M37)年12月1日帰庁ヲ命ス 1904(M37)年12月22日慰労金給與(3円50銭) 1905(M38)年3月31日4級俸 1905(M38)年11月14日贋造貨幣知情行使犯1名の検挙の賞金給與(1円) 1905(M38)年12月22日慰労金給與(5円30銭) 1905(M38)年12月22日臨時戸口調査ニ従事セシ慰労金給與(3円) 1906(M39)年3月3日窃盗犯台湾人2名検挙ノ賞金給與(1円) 1906(M39)年3月31日通訳兼掌(6等) 6彰化庁 警務課林漢能「材幹品行勤務成績等優秀ニシテ派 出所ヲ担任セシムル者」に該当する が、「適当ノ人物ト認メ候モ普通勤務 ノ傍ラ通訳ヲ為サシムル等特別勤務 ニ服セシメアリ依テ両名共派出所ヲ 担当セシメ難ク侯」7彰化庁 員林支庁江思聰 8彰化庁楊連科
「第二流ノ人物」 「各一長一短アリテ未タ以テ派出所 ヲ担当セシメ難ク候」
1882(M15)年7月8日出生 1888(M21)年2月漢学修業(〜1895〔M28〕年3月) 1897(M30)年鹿港国語伝習所入学 1898(M31)年7月彰化公学校速成科卒業 1900(M33)年7月台南師範学校入学 1903(M36)年7月台南師範学校退学 1903(M36)年9月21日彰化庁巡査補ヲ命ス(7級俸)。彰化庁警務課勤務ヲ命ス 1904(M37)年12月1日通訳兼掌(月1円) 1905(M38)年3月31日6級俸 1905(M38)年4月7日殺人犯台湾人1名を「逮捕シタル段其功労顕著ニ付」賞與金(50銭) 1906(M39)年3月31日通訳兼掌(月2円) 9彰化庁黄煥栄 1878(M11)年9月5日出生 1890(M23)年師呉望蘇ニ従ヒ漢学ヲ修ム(〜1895〔M28〕年) 1901(M34)年5月20日台中庁巡査補ヲ命ス(9級俸)。台中庁彰化弁務署第二課勤務ヲ命ス 1901(M34)年11月11日彰化庁巡査補ヲ命ス(7級俸)。彰化警務課勤務ヲ命ス 1901(M34)年12月22日事務格別勉励ニ付慰労金賞與(8円) 1902(M35)年12月22日事務格別勉励ニ付慰労金賞與(6円) 1903(M36)年3月31日6級俸 1905(M38)年3月31日5級俸
表1 独立で一派出所を担当する巡査補の候補者一覧(1906年)(続)