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序論 : カントの演繹的行為規範学 (7)

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身の既得財産のほかに,なお別の資金源をあらかじめ考慮しているのかど うか,あるいは年を取るについて全く予期していないのかどうか,あるい はいつか困窮した場合には必ず遣り繰りしてゆけると考えているのかどう か,といった事情である。ところで,必然性を含んでいなければならない 規則は,すべて理性からのみ生じうるが,この理性はかかる実践的指定に もなるほど必然性を据えはするけれども(なぜならそのことなしにはそれ は全く命法ではないであろうから),しかしこの必然性は単に主観的にだ け条件付けられたものであり,これをすべての主観において,同じ程度に 前提とする訳にはゆかない。しかし理性の立法・法則定立のために要求さ れるのは,理性がただ単に自己そのものだけを前提としている必要がある ということなのである。なぜならこの規則は,ある理性的存在者を他のそ のような存在者から区別する偶然的・主観的条件なしに妥当する場合にだ け,客観的・普遍的に妥当するのだからである。ところで,ある人に決し て偽って約束すべきではないと言明せよ。するとこれは彼のもっぱら意思 だけに関わる規則である。そしてこの人の抱くかもしれない諸々の意図に ついては,この意思によって達成されうるかもしれないし,達成されない かもしれない。つまり,あの規則によって完全にア・プリオリに規定され るべきところのものは,もっぱら意欲のみなのである。そしてこの規則は, 実践的に正しいものであると明らかになるとせよ。するとそれはある法則 である。なぜならそれは,断定的命法だからである。そのような訳で,実 践的諸法則は意思にだけ関係し,それの起因性によって達成されるものを 顧慮しないし,また実践的法則を純粋に保持するために,それの起因性 (感性界に属するものとしての)は考えから除外しうるのである(318) § 命題 欲求能力のある客体(実質)を,意思の規定根拠として前提するすべて

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の実践的原理は,残らず経験的であり,いかなる実践的法則をも与ええな い。 私が欲求能力の実質というのは,それの現実性が欲せられているところ のある対象のことである。もしこの対象への欲望がともかく実践的規則に 先行し,その実践的規則を原理として得るための条件であるならば,私は (第一に)この原理がその場合に常に経験的であると言明する。というの もその際には,恣意選択の規定根拠はある客体の表象であり,またこの表 象のその主観に対する関係─欲求能力がそれを通じて客体の現実化に規定 されるところのそのような関係─なのだからである。ところで主観に対す るこのような関係は,ある対象の現実化における快を意味する。それゆえ この快が,恣意選択を規定する可能性の条件として前提されなければなら ないだろう。しかし,何かある対象の表象がどのようなものであろうとも, それが快と結び付けられるのか,それとも不快と結び付けられるのか,そ れとも無作用であるのかという事情は,ア・プリオリに認識されえない。 それだからこのような場合には,恣意選択の規定根拠は常に経験的なもの でなければならず,従ってまたかかる規定根拠を条件として前提するとこ ろの実質的な実践的原理も,常に経験的でなければならない。 ところで(第二に)ある快もしくは不快(これは常に経験的にしか認識 されえずそこからすべての理性的存在者に一様に妥当するものではありえ ない)の感受性の主観的条件だけに基づく原理は,なるほどその感受性を 保有する主観に対してはそれの格率(信条)として役立ちうるが,しかし 主観そのものに対して法則として役立ちうるものではない(なぜならかか る原理にはア・プリオリに認識されねばならないところの客観的必然性が 欠如しているから)。従ってそのような原理は,決してある実践的法則を 与ええない(319)

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な区別の語義規定なのである(320) § 命題Ⅲ ある理性的存在者が,普遍的な実践的法則となるような彼の格率(信 条)を考え出すべき場合には,実質についてではなく,形式についてだけ 意思の規定根拠を含むところの格率(信条)のみがそのような原理として 考えられうる。 実践的原理の実質は,意思の対象である。この対象は意思の規定根拠で あるか,それともそうではないか,のどちらかである。もしそれが意思の 規定根拠であるならば,意思の規則はある経験的条件(規定的な表象の快 と不快の感情との関係)に従わしめられ,それゆえいかなる実践的法則で もないだろう。ところで法則から,一切の実質即ち意思のそれぞれの対象 (規定根拠としての)をすべて取り去ると,ある普遍的立法・法則定立の 単なる形式の外には何ものも残らない。すると理性的存在者は,彼の主観 的・実践的原理即ち格率(信条)を,同時に普遍的法則として考えること ができないか,それともそれによって格率(信条)が普遍的立法に適合す ることとなるそれの単なる形式(321)が,それ自体のみでその格率(信条) を実践的法則とするか,のいずれかである。 注 記 格率(信条)のいかなる形式が普遍的立法・法則定立と適合し,またい かなるものがそうではないかというのは,指導を待つまでもなく普通の知 力が区別しうる。例えば,私があらゆる確実な手段によって,私の財産に ついて増加させるのを私の格率(信条)にしたとしよう。そこで今,私の

(320) Kant, praktische Vernunft, S. 40-48.

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ある時はその傾向性が,ある時にはある別の傾向性が優位な影響のものと なるのだからである。このような条件の下にあっては,それらのものを残 らず統治する,換言すればあらゆる面にわたる一致を伴った,ある法則を 見つけ出すのは絶対に不可能である(324) 。 § 課題Ⅰ 格率(信条)の単なる立法・法則定立する形式(325)だけがある意思の十 分な規定根拠であることを前提として,それによってのみ規定されうると ころの意思の性質を見出すこと。 法則の単なる形式は,理性によってのみ表象されうる,それだからいか なる感官の対象でもない,従ってまた諸現象の内に属しているものではな い。すると意思の規定根拠としてのかかる形式の表象は,起因性の法則に 従う自然における諸事象の一切の規定根拠とは異なるものである,なぜな ら後者の場合には,規定根拠そのものが現象でなければならないからであ る。更にまた,ひとりその普遍的に立法・法則定立する形式の外には,い かなる意思の規定根拠もそれに対して法則の用をなさないのであれば,か かる意思は現象の自然法則即ち起因性の法則とは全く独立したものとして, 各々が重層的に考えられなければならない。そしてこのような独立性は, 最も厳密な理解・意味での,換言すれば先験的理解・意味での自由を意味 する。ゆえに格率(信条)の単なる立法・法則定立する形式が,それだけ で法則たりうるところの意思は,自由な意思である(326) § 課題Ⅱ

(324) Kant, praktische Vernunft, S. 48-51. (325) 前掲注321参照。

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砲な企てはしなかったであろう。しかし経験がまた,我々における諸概念 のこの序列(道徳的法則の意識が初めて自由の意識を生じさせるという─ 筆者)を証明している。誰かが彼の情欲を起こさせる傾向性について,好 きな目当てとそれのための機会が彼の前に現れるときには,その傾向性は 彼にとって全く抗しがたいと申し述べるとせよ。彼がこの機会を見出した 家の前に,情欲を享受するや直ちにそこに彼をくくり付けるために,絞首 台が立てられていても,その際に彼の傾向性を制御しないのだろうか。彼 が何と返答するかを,長く推量する必要などありはしない。そうではなく 彼にはこう問うが良い。もし彼の君主が,同じ即刻死刑の威嚇の下で,こ の君主が見せかけの口実で滅ぼしたいと思っているある忠実な家臣に不利 な偽証をせよと不当に要求するとしたら,彼はそこで生への彼の愛がどれ ほどに大きいとしても,よくそれに打ち克ちうるとみなしたかどうかと。 彼がそうするだろうともあるいはそうしないだろうとも,おそらく彼には それが可能であると請け合う勇気がないであろう場合には,彼は躊躇なく 認めるに違いない。すると彼は,彼がそうであるべきだと意識していると いうその理由で,何かあることができるというについて,その意義の何た るかを判じており,またさもなければ道徳的法則なしに知られないままと なっていたであろうところの自由を,自己の内に認識するのである(328)

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叡知者に帰する神聖性の概念は,なるほど彼をして一切の実践的法則を超 越せしめるというのではないが,しかし実践的に拘束する一切の法則を, 従って拘束力と義務とを超越させるのである。にもかかわらず意思のこの 神聖性は,すべての有限な理性的存在者になしうる唯一のものがそれに無 限に近づいてゆくにあるところのその原型として,必然的に役立つある実 践的理念なのである。また意思のこの神聖性は純粋道徳法則(拘束性と義 務を伴わない法則─筆者)というもの─そのゆえにそれ自体が神聖と呼ば れるところの─を彼らの眼前に永続的にそして正当に掲げるある実践的理 念なのであり,かかる法則(前述の意味での純粋道徳法則─筆者)によっ て有限な実践理性が生ぜしめうる最高のものは意思の格率(信条)の無限 に進行する前進とそのような永続的な歩みに対するそれら格率(信条)の 不易性とが確実だということ,即ち徳なのであるが,他方ではこの徳は少 なくとも自然的に獲得された能力として決して完全なものではありえない のである。なぜならそのような場合における確信は,決して必然的な確実 性とはならず,そして過信として非常に危険なものだからである(333) § 命題Ⅳ 意思の自律は,すべての道徳的法則とそれらに相応する諸義務の唯一の 原理である。恣意選択の一切の他律は,これに反していかなる拘束性も全 く根拠付けないだけでなく,むしろこのもの(拘束性─筆者)の原理と意 思の道徳性に相反する。すなわち,法則の一切の実質(即ちある欲せられ ている客体)からの独立性,そして同時にしかし恣意選択の単なる普遍的 立法の形式─ある格率(信条)がそれを受け入れえなければならないとこ ろの─による規定とが,道徳性の唯一の本体なのである。しかしかの独立 性は,消極的理解・意味での自由であるが,しかし純粋なそしてそのよう なものとして実践的な理性のこの自身の立法は,積極的理解・意味での自

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の帰結となる。第一には,ここに提示された原理はすべて実質的であると いうこと,第二には,それらはおよその実質的原理を含んでいるというこ と,である。そしてそこからの結論はこうなる。すなわち,実質的諸原理 は最高の道徳法則としては全く役立たないのであるから(証示されたごと く),純粋理性の形式的・実践的原理─それに従って我々の格率(信条) によるある可能的な普遍的立法の単なる形式が意思の最高のそして直接的 な規定根拠とならなければならないところの─が,断定的諸命法即ち実践 的諸法則(諸行為を義務とする)のために,そして総じて判断においても 並びに人間の意思の規定におけるそれへの適用においても有用な,唯一可 能的なものだということになる(337) ( )純粋実践理性の諸原則の演繹 (a)人間が有する実践的諸原則の特質 これまで我々は,カントがこの上ない懇切さで用意した導きに付き随い ながら,感性界(現象的世界)における対象認識のための経験的思考様式 から離脱して,悟性界に属すると想定される純粋理性の思考様式に移行す る目標のもとに,両者の綿密な対比・区別を十分に理解しつつ,経験的認 識に基づく実用的規則とは全く異質な,それ自体で正しいとされる(無条 件に正しいとされる)自立した思想としての実践的法則を着想できるとい う意識(内面的自己確認)にまで歩を進めてきた。確かに,我々が無条件 的に着想する実践的法則については,かかる法則が実在するということを, 条件と条件付けられたものの関係によっては証明しえない。しかしこれを (336) 我々は自己の実践的原理によって着想しうる道徳的法則について,それに従 い至福性に至当となる行為をなすように義務付けられているものと内的に意識して 初めて,その行為が神の命令であるとみなすのであり,この先行する原理なしに神 の意思に従おう(神の意思と一致しよう)とすることは他律となるのである(前掲 ・( )参照)。

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と,これによって感性界に属するものとしてのある理性的存在者の意思は, 自己を他の作用原因と同様に,必然的に因果性の法則に従っている事実を 承認するが,しかしまた同時に他方では,即ち実践的であるというのにお いては,存在者自体としての事物の叡知的秩序において規定されうる自己 の現存在を意識しているということである。なるほどそれは,それ自身の ある特定の直観に従ってではないが,自己の起因性を感性界において規定 しうるようなある種の力学的法則によって意識するのである。というのも, もし自由が我々に与えられるとすれば,この自由は我々を事物の叡知的秩 序へと移行させるという事情は,他の箇所で十分に証明されているからで ある(前掲 ・(8)・(c)・(d)参照─筆者)」(338) こうして実践理性は,道徳的法則による作用によって,意思に自己の自 由を意識させる(純粋意思とさせる)のであるが,この作用は純粋意思に 感性界においていかなる役割を果たさせようとするものなのか。意思が感 性界で道徳的法則に従って自然を創出できる能力である以上は,実践理性 の作用もこの役割に有効なものでなければならないが,そうであるならこ の理性は,現前の感性界において創出できるはずの自然(人間について の)をかかる法則によって意思に示して,その実現を命じなければならな い。これは例えていえば,ある素材から創作をなそうとしている芸術家の 意思には,この素材にあってどんな創造がなされるべきかに関する「ひら めき」が必要であるごとく,この現前の感性界という素材においてはどん なあるべき自然を創出せよというのか,純粋実践理性が道徳的法則によっ て純粋意思に理念として指定しなければならないということになろう。カ ントは道徳的法則によるこのような作用を,感性的直観から切り離された カテゴリーはただの論理形式にすぎないゆえに,経験を超えた可想的存在 を認識しえず綜合的原則をもちえない純粋思弁理性との対比で論じるとと

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諸法則が実践的なのであるから,超感性的自然とは,我々がそれについて のある概念を与えうる限りでは,純粋実践理性の自律の下にある自然に他 ならない。さらにこの自律の法則が,道徳的法則なのである。それゆえに 道徳的法則は,ある超感性的自然と純粋悟性界とにおける根本法則であり, そしてこの悟性界はそれの感性界における対照・写し(Gegenbild)が, しかしながら同時に感性界の諸法則の損傷なしに存在すべきであるところ のものなのである。我々は,かかる前者を我々が理性においてのみ(理念 的に─筆者)認識する原型的自然(nature archetypa)と名付け,更に後 者を意思の規定根拠としての第一のものの理念の可能的結果を含む模写的 自然(nature ectypa)と呼びうるであろう。というのも,道徳的法則は実 際にこの理念によって我々をある自然─そこ(理念的に認識される超感性 的自然─筆者)においては純粋理性がもしそれに相応する物理的能力に伴 われているとするならば,最高善を作り出しうるであろうごとき─へと移 し入れ,そのようにして道徳的法則は理性的存在者の一つの全体であるも のとしての感性界の形式を我々に与えるべく,我々の意思を規定するので ある」(341) 道徳的法則に基づく理念としての自然(超感性的自然)は,それゆえ感 性的自然一般が自然法則に従って生じているごとく,意思がそれのみに 従って自然を創出しうる(換言すれば自然原因からの影響に優先させるこ とができる)模範となりうるものでなければならず,そして現に我々の意 思が自然を創出するといえるかの実践理性による吟味は,行為の格率をあ る普遍的自然法則のごとくに妥当させうるか(格率・信条にそのような普 遍妥当的法則の形式をもたせうるか)によってなされている実例からも容 易に理解される。これらが次に論じられる。「かかる理念が,実際にも 我々の意思規定に対して,あたかも手本のごとくに模範として存している

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一つの自然全体を構成しているが,しかし純粋な実践的法則に従う我々の 意思によってのみ可能となる自然を構成しているのではない。にもかかわ らず我々は,理性によって一つの法則を意識しており,それにはあたかも 我々の意思によって同時にある自然秩序が発生せねばならないごとくに, 一切の格率(信条)が従わしめられるのである。従ってこの法則は,経験 的に与えられたものではないが,にもかかわらず自由によって可能なそれ ゆえまた超感性的な自然の理念でなければならない。我々はかかる超感性 的自然に,少なくとも実践的見地においては客観的実在性を与えるのであ る。なぜなら,我々はこのような自然を,純粋な理性的存在者としての 我々の意思の客体とみなすからである。 それだから,意思が従属しているような自然の法則と,意思に従属して いるような自然の法則(意思がそれの自由な行為に対する関係でもつとこ ろのものに関する)との区別は,前者の場合には意思を規定する表象の原 因は客体でなければならないが,これに対して後者の場合には意思が客体 の原因であるべきである,という事情に基づいている。その帰結として後 者の場合には,意思の起因性はその規定根拠を純粋な理性能力にのみ蔵し ており,それゆえにこの能力はまた,純粋実践理性とも呼ばれうるのであ る」(343) ところで,いまなしている純粋実践理性が道徳的法則によって意思を規 定し,自由な自然創出を意欲させるのはいかなるようにしてであるかの解 明は,どんな客体の認識とも異なっている。この作用が叡知的なものであ るからには,思弁的理性批判が明らかにしたように,我々がもちうるのは 感性的直観だけで叡知的直観をなすのが不可能であるがゆえに,かかる作 用そのものを客体として認識しえないし,欲求能力と客体の関係はもちろ ん,意思が普遍妥当的法則の形式をもった格率(信条)(344)によって実際に

(343) Kant, praktische Vernunft, S. 75-77.

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のは,純粋理性は実践的であるのかどうか,それはいかにして可能か,換 言すれば意思を直接に規定しうるのかどうか,それはいかにして可能か, ということなのである」(347) こうしてなされてきた理性的存在者一般に妥当する分析的推論の,人間 という特殊な理性的存在者への演繹という綜合的推論は,我々に実践的自 由があるとすれば唯一このようにしてであるとの「自由の理念」を,我々 の内面的自己確認のために得ようとするものであるが,そうであれば思弁 的理性が「ないとはいえない」として許容している悟性界・叡知界でそこ に属すると想定できる純粋理性が,そのゆえに自由に着想できる普遍妥当 的な(無条件に正しい)道徳法則の現存在と,同じくそこに属する純粋意 思(無条件に正しいこの法則に進んで従い自己の意欲・起因性の無条件 性・必然性を意識している意思)からかかる理念の形成を始めてよいし, ここから始めなければならない─いまなされているのは実践的自由に関す る内面的自己確認のための理念形成(対象認識ではない)なのであり,そ してそこではこれらが最上位において前提される必要があるのは,理性的 存在者一般についての分析的推論で既に明らかにされているから(前掲 ・( )参照)。「そこでこの仕事においては,批判は純粋な実践的諸法 則およびそれらの現実性から始めて差し支えないし,またそこから始めな ければならないのである。しかしこの批判が直観に代えてこれら実践的法 則の基礎に置くところのものは,叡知界におけるそれらの現存在の概念, 言い換えれば自由の概念である。というのも,自由の概念はこのこと以外 の何ものも意味しないし,またこれらの法則は意思の自由との関係でのみ 可能であり,更にその前提の下で必然的なのだからである。あるいは逆に 言えば,それらの法則が実践的要請として必然的だから自由が必然的なの だからである。ところで,道徳的法則のこのような意識,あるいは同じこ

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とになるが自由の意識がいかにして可能であるかは,これ以上は説明され えない。しかしそれの許容性だけは,理論的批判において確かに十分に弁 護されているのである」(348) もちろん,道徳的原則についても我々によるそれの意識(内面的自己確 認)を待つのではなしに,その客観的実在性を対象認識に関する純粋悟性 原則のごとくにそれ自体として演繹できれば,それに越した事柄はないだ ろう。しかし後者の場合には経験的対象がすべて我々の感性に具わる空間 と時間に必然的に従っているという事情から,経験的認識が必ず従わなけ ればならないカテゴリーとともに証明できたのであるが,無条件的に存在 する(普遍妥当的な)道徳的法則やそれを着想しうる根源的能力について は,そこまでの客観的実在性(可能性についてさえも)の演繹は不可能で あり,やはり内面的自己確認を迫りうるまでの理念の演繹ができるだけで ある。「以上で,実践理性の最高原則(道徳的原則・法則のことを指す─ 筆者)の解明はなされた。すなわち次の事柄が示されたのである。第一に はそれが何を内容とするか,それは全くア・プリオリにそして経験的原理 からは独立してそれ自体で存立するということ,続いてまたこの最高原則 はいかなる点で他のすべての実践的原則から区別されるか,ということで ある。ところで我々は,かかる最高原則の客観的普遍妥当性の演繹即ち正 当化,およびア・プリオリな綜合的命題の可能性の洞察については,理論 的純粋悟性の諸原則について行われたのと同様に,順調に進むと期待して はならない。というのも,後者の諸原則は,可能的経験の対象すなわち現 象に関係するものであり,そしてこれらの諸現象がかかる諸法則に応じて カテゴリーのもとに従わしめられるというそのことによってのみ,これら の諸現象が対象として認識されうるということ,それゆえにまた一切の経 験はこれらの法則に適合せねばならないという事情が証明されえたのであ

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この客観的実在性はそれ自体で確立されているのである(349)(350) しかしこのような道徳的法則は,それを自己に拘束的なものとして意識 する者にとっては,自己の実践的自由の能力を唯一それだけが積極的な内 容において知らしめるという大きな意義を有している。ここからはア・プ リオリな諸概念が,我々に感性的世界で客体を創出させるという意味での, それらの実践的実在性の考察が本格的に始められる。「以上の無益に試み られた道徳的原理の演繹(理念の形成ではなく客観的実在性そのものの演 繹─筆者)の代わりに,全く思いもよらないある事柄が生ずる。すなわち 逆に道徳性の原理が,そのままある探究しがたい能力を,演繹する原理 (「自由の理念」として演繹する原理─筆者)として役立つということであ る。この能力はいかなる経験も証明しなかったが,しかし思弁的理性はこ れを(思弁的理性が自己矛盾を避けようとしてその宇宙論的理念の内で起 因性についての無条件者を見出すために)少なくとも可能なものとして想 定せざるをえなかった(しかし可能性の証明には至っていなかった─筆 者)ものであり,その能力とはすなわち自由の能力である。それ自体いか なる正当化する根拠を必要としない道徳的法則は(前掲注349参照─筆者), この法則がその者にとって拘束的であると承認する存在者にあっては,こ の自由の現実性をも証明するものである。実際に道徳的法則は,自由によ る起因性の法則であり,それゆえにまた超感性的自然の可能性の法則であ る。それはあたかも,感性界における諸事象の形而上学的法則が,感性的 自然の起因性・因果性の法則であったのと同様である。だから道徳的法則 は,思弁的哲学が未決定のままにしておかなければならなかったところの (349) 無条件的に正しい思想としての道徳的法則は,その理由から何かの条件によ って客観的実在性を証明できないのは確かであるが,これを逆にいえば我々によっ て着想されたかかる法則が無条件的に正しいと考える外ないのであれば,それはそ れほどの正当性を我々に意識させることによって,我々に客観的実在性を示してい る(同時に示すほかない)ものだということになろう。

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ものを規定する,換言すれば思弁的哲学においてはその概念が消極的なも のに過ぎなかったところのある起因性に対しての法則を規定し,そしてそ れゆえにこの概念に初めて客観的実在性(我々がそれを感性的世界で実現 できるという意味での─筆者)をえさせるのである」(351) 。 我々の思弁的理性は条件の系列の遡及という分析的原則によって,この 系列を始める「先行する原因なしの起因性」(先験的自由)の実在可能性 を感性的世界の外に想定せざるをえなかったが,しかし決してそのような ものの実在可能性を証明するまでには至らなかった。この理論理性の必要 を,道徳的法則は実践的なだけではあるが充たしうる。なぜならこの法則 は,それによって実践理性が純粋意思に自由な起因性をもたせる─従って 自分の起因性を自ら規定する─ものとして実在性(意思を通じて行為によ りかかる起因性を感性界で実現しうるという意味での実在性で自由そのも のや実践理性そのもののあり様までに達する理論的実在性ではないが)が あるということを,我々に意識(内面的自己確認)しうるようにするのだ からである。また,ここでの無条件者としての理性の実在性(実践的な) は,それが純粋意思に与える起因性を受け入れうる感性界との関係でだけ 示されるのであるから(そこで自由に創出された対象からのみその実践的 実在性をいうだけでそれの実在のあり様をいおうとするのではなくなるか ら),それによって理性の超越的使用が内在的使用に変ぜられるようにな る。 「道徳的法則のこの種の信任状─この道徳的法則それ自体がそこにあっ ては純粋理性のある起因性としての自由の演繹の原理として表象されてい るところの─は,理論理性が自由の可能性を少なくとも想定せざるをえな かったのであるから,ア・プリオリな一切の弁明に代わって理論理性の必 要を補充するに完全に十分なものである。というのも,道徳的法則はその

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の理論的意義と適用とをもつものではなく,ある客体一般に関する悟性の 形式的ではあるがしかしながら本質的な思想というだけとなるが。理性が 道徳的法則によって,この概念にあてがうところの意義は,全く実践的な ものである,つまり(意思の)ある起因性の法則という理念(我々に実践 的自由の能力があるとすれば起因性をもつと前提としなければならないと ころの法則の理念─筆者)が自ら起因性をもつか,さもなければ起因性の 規定根拠なのだからである(357)(358) 純粋実践理性が,どうして道徳的法則によって意思に作用を及ぼし,意 思にその格率(信条)について普遍妥当的法則の形式をもたせる仕方で意 欲させうるのかは,遂に解明できない課題なのであるから,ここに形作ら れつつある「自由の理念」は,我々に実践的自由の能力があるとすれば, 道徳的法則には純粋意思にそのような起因性をもたせる(自覚させる)作 用があると前提されなければならないという事柄だけを知らしめるのであ り,それに実践的実在性(感性界で対象を実践的に創出できるという意味 での実在性)を承認するためのみに起因性─究極的原因─の概念を用いる (この起因性を対象として認識するために用いるではなく)のであるから, 何らの越権もないしまた「自由の理念」の形成には不可欠なものなのであ る。そこでいまいえるとすれば,この哲学者によって完全な思想的一貫性 をもって説示されてゆくこの理念が,遂にその無条件な正しさによって, 我々に叡知的起因性としての実践的自由の能力について完璧に意識(内面 的自己確認)させる力をもつだろうとの確信だけということになる。 (357) いま形作っている我々が唯一もちうる「自由の理念」においては,断定的命 法としての道徳的法則にのみ規定された純粋意思の無条件性・必然性を意識した起 因性が必ずなければならないのであるから,もし我々がかかる法則をもつとすれば, その法則は我々にそのような無条件的起因性を純粋意思にもたせる(自覚させる) と考えさせるようなものでなければならず,そのことが同時に起因性そのものであ るか,純粋意思の起因性の規定根拠でなければならない。

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それで私は,経験の対象との関係での原因をそれの客観的実在性について 証明しえたばかりでなく,この概念をそれが携えている結び付きの必然性 のゆえに,ア・プリオリな概念として演繹できた,換言すればそれの可能 性を,経験的源泉なしに純粋悟性から,明らかにしえたのである。こうし て私は原因の概念の起源に関する経験論を排除した後に,その論の不可避 的結果を即ち懐疑論を,可能的経験に関係せしめられる二つの学のうち, まず自然科学について除去し,また次に全く同じ諸根拠から完全に由来す る帰結のゆえに,数学についても除去した,そしてこれと共に理論理性が 洞察しえると主張した一切のものについての全懐疑をことごとく根底から 取り除きえたのである」(361) 続いて,カテゴリーは悟性が感性の形式から演繹した概念であるから, 感性界を超えて可想界(悟性界)における客体を理論的に認識するために は無益であるが,実践的に純粋理性を悟性界に位置付け,それの道徳的作 用を通じた純粋意思への作用によって,後者が自覚して行使しなければな らない無条件的・必然的な起因性(362)を思想として表すために,思想形成 の一要素として使用することは許容されるだけでなく(ヒュームの理論に よって阻止されないだけでなく),使用しなければならない理由が説示さ れる(なお前掲注356参照)。「ところで,この起因性のカテゴリーを(更 にまた残余のすべてのカテゴリーをも─なぜならおよそそれらなしには存 在するもののいかなる認識もなされえないから),可能的経験の対象では なく,それの限界を超えて存する事物に適用するとしたら,それはどうな

(361) Kant, praktische Vernunft, S. 87-94.

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において存する限りにおいてではあるが─,また客観的だが実践的にのみ 適用可能なものに他ならない実在性をもちうるのである(363)。にもかかわ らずかかる実在性は,これら諸対象の理論的認識─純粋理性によるそれら の本性の洞察としての─には,それを拡張するためにいささかの影響もも つものではない。実際また我々は,後に以下の事柄を知るであろう。これ らのカテゴリーは常に叡知者としての存在者だけに関係する,それもかか る存在者での意思に対する理性の関係だけにであり,従ってまた常に実践 的なものにだけ関係するということ。だからこれらカテゴリーはそれ以上 に,そのような超感性的なものの理論的表象様式に属するところの特性に ついて,なお更にそれらとの結合に引き寄せられるかもしれないもののい かなる認識もわがものとすることはないということ,これら超感性的な事 物はこの場合に知識に算えられるものではなく,それらを想定し前提しう ることの権能に(実践的見地においてはしかし十分な必然性に)算えられ るものであり,この事情は我々が類推によって,言い換えれば我々が感性 的存在について実践的に利用しているところの純粋な理性関係に従って超 感性的存在者(神のような)を想定する場合においてさえもそうであると いうこと(前掲注363参照─筆者),そしてそのようにして超感性的なもの への適用─しかし実践的目的でだけの─によって純粋理論理性に過度の熱 中のための援助を少しも与えようとするものではないということ,であ る」(364) (363) 無条件者に適用された究極の起因性のカテゴリーである自由に,我々が道徳 的法則に依拠してなす自由な行為により経験を創出しうるという意味での客観的実 在性が認められると,無条件者に適用された究極の実体のカテゴリーである「不死 なる心神」も,無条件者に適用された究極の共存性のカテゴリーである「神」も, かかる道徳的法則に依拠した自由な行為を厳命し動機付ける役割を果たすことによ って,実践的意味においてその客観的実在性を有するに至るのである(前掲( ) (b)参照)。

参照

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