北村透谷と増野悦興のキリスト教認識 : 内部生命 論と信仰的実験(一)
著者 滝澤 民夫
雑誌名 同志社談叢
号 33
ページ 33‑72
発行年 2013‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013415
三三北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)
北村透谷と増野悦興のキリスト教認識 ―内部生命論と信仰的実験―(一)
滝 澤 民 夫
はじめに 一
『基督教青年』期から北米留学期の増野悦興のキリスト教認識と信仰 二 晩年の北村透谷のキリスト教認識と信仰―北村透谷の内部生命論―(本号)
三 北米留学後の増野悦興のキリスト教認識と信仰―増野悦興の信仰的実験―
四 晩年の増野悦興のキリスト教認識と信仰 おわりに
はじめに一八九三(明治二六)年一〇月、北村透谷は『聖書之友雑誌』の編集業務を七〇号で解任された。次の七一号に掲載されるのが増野悦興の「聖書之保存」である。翌九四年五月、透谷は二五歳で自裁する。『聖書之友雑誌』での透谷最後の主要評論は「心の経験」(九三年一〇月)で、翌年霊南坂教会牧師を辞任直後の増野が『六合雑誌』
三四北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)一六六号に発表するのが「信仰的実験を論ず」(九四年一〇月)である。二四歳の北村透谷「心の経験」と二九歳の増野悦興「信仰的実験」とはいかなるものであったのか。これまでキリスト教信仰にかかわって「経験」「実験」の語のあるこの二つの論に着目して、評論家・詩人北村透谷と教役者・教育者増野悦興のキリスト教論の関係性については論じられてこなかった )1
(。このすれ違った明治青年のキリスト教の内面的な受容過程と実際とはどのようなものであったのであろうか。創作と信仰と生活のはざまで懊悩しつつも、北村透谷は「各人心宮内の秘宮」(一八九二年九月)・「内部生命論」(九三年五月)・「心の経験」(九三年一〇月)・『エマルソン』(九四年四月)と基督教論を深めて他界する。その直後に、まるで後を引き継ぐかのように、北米から帰国して霊南坂教会牧師に迎えられたものの、正統派神学と自由神学のはざまで進退きわまり辞任する増野悦興が「基督論(上)」(九四年六月)・「信仰的実験を論ず」(九四年一〇月)・「基督の完全」(九五年一月)・「基督論(下)」(九五年三月)・「神権の源を論ず」(九六年、草稿)と独自の『教理講話』を発表した。この過程で、増野は日本ではじめてPersonal God を「霊 ポルソナルゴッドなる神」と訳した(佐古純一郎 )2
()とされているが、その内実は明らかにされていない。本稿では、北村透谷の「内部生命論」・「心の経験」と増野悦興の「信仰的実験」の検討を通して、当時の青年教徒におけるキリスト教の内在化過程を論じる。
注(1) 電影北村門太郎透谷と雷軒増野悦興の知名度・研究状況には大きな隔たりがある。こうした研究状況と、アメリカンボードなどから「異端」視されたこともあって、増野の思想的営為はかえりみられてこなかったと考えられる。(2)佐古純一郎『近代日本思想史における人格観念の成立』、朝文社、一九九五年、三〇九~三一一頁。
三五北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) 一 『基督教青年』期から北米留学期の増野悦興のキリスト教認識と信仰 一八八九(明治二二)年春、日向の高鍋教会牧師の任を辞して(正式辞任は九〇年四月)、大阪で伝道活動をはじめた増野悦興は、浪華教会仮牧師のかたわら )1
(、同年九月の『基督教青年』発行に向けて奔走した。大阪基督教青年会の機関誌として刊行された『基督教青年』は、関西連合青年会機関誌となる。九〇年夏の北米留学まで、短期間ではあったが、同誌四号から一〇号までの編輯人となった増野は青年教徒の自立と「青年教役者」育成に全力を傾注した。現時点で確認できたこの時期の増野の活動と主要な著作は1表のとおりである )2
(。
青年教役者を自認する渡米前の増野の伝道活動は、熱誠と一途さによる教会と信徒の伸長に向けられていて、直情的、教条的、英雄主義的な言辞があふれている。それはたとえば「年少教役者」(『基督教青年』第一号)で次のように主張されている。教会の内部には睡眠の徴なきか、伝道の運動には沈滞の迹なきか、三万の信徒頭を挙げて勇将の号令を待つの色はなきか、千万の未信徒飢ゑて救を絶呼する声はなきか、伝道会社の改良は如何、教役者養成の方法は如何、教会合併の問題は如何、其他信徒の起業と云ひ、慈善主義の働きと云ひ、教会と政治の関係と云ひ、国粋家仏教家の反対と云ひ、其間豈活溌雄飛なる年少教役者が、身を抛て痛快豪爽の運動を試み、其技倆を現はすに足るの余地なからんや、…豈徒らに時勢後れの老輩を学び、安閑散逸老成の仮面を粧ひ、萎靡不振の事業の間に空しく日月を消するの秋ならんや )3
(、「明治二十三年の基督教徒」(『基督教青年』第五号)ではさらに具体的になる。ここでは「明治二十三年は果たして如何なる歳なりや」と、条約改正の処置、帝国議会の開設、「其議員の撰挙」、政党の「合離結散」をあ
三六北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)
年 和暦 歳 事項 著作等
1887 明治20 22 8.「日本基督教会の病根」『基督教新聞』213号 1888 明治21 23 7.高鍋教会設立、初代牧師
1889 明治22 24 4.浪華教会仮牧師 3.「基督教に対する青年学生の感情」
『青年之手綱』6号
9.浪華教会伝道主任 9.「基督教夫婦余論」『青年之手綱』11号 9.「史伝 ジヨンノツクス」『基督教青年』1号 「年少教役者」『基督教青年』同
11.『英国清教徒紀事』
12.『基督教青年』編輯者 12.「本紙の改進」『基督教青年』4号 (4~10号)
1890 明治23 25 1.「明治二十三年の基督教徒」『基督教青年』5号 「近国青年会巡訪記」『基督教青年』同 「特別附録 内外基督教諸名士の感味聖語数十
節」『基督教青年』同 2.「制慾論」『基督教青年』6号
3.「「つぼみ」記者の好意を謝す」『基督教青年』7号 「国民新聞の無休刊」『基督教青年』同 4.高鍋教会牧師辞任 4.「学校の礼拝規則」『基督教青年』8号 4.浪華教会牧師辞任 「関西基督教青年会の連合」『基督教青年』同 「行為上のユニテリアン」『基督教青年』同
「十分一献金」『基督教青年』同 「故澤山保羅君」『基督教青年』同 「同志社文学会雑誌」『基督教青年』同 5.「神学説改進の微光」『基督教青年』9号 「伝道の精神」『基督教青年』同 6.「告別の辞」『基督教青年』10号 「年少教役者 其六 括論」『基督教青年』同
7.『汝温納屈斯小伝』
8 .渡 米 、ボストンのアンド バー神学校へ
10.「米信 洋行者の自棄」『基督教新聞』378号 10.「米信 洋行者の自棄」『基督教新聞』379号 11.「米信 洋行者の自棄」『基督教新聞』380号 1891 明治24 26 3.「米国某学校にある某氏より当地の友人に寄せた
る書簡の抜粋」『基督教新聞』398号 6.「教勢振起策と新神学」『基督教新聞』410号 8.バンゴアのバンゴア神学
校へ 8.「海外事情 書簡」『基督教新聞』420号 1892 明治25 27 4.「亡師ストルンス博士を弔悼す」
『基督教新聞』453 号 1表 『基督教青年』時代の増野悦興の活動と主要著作
三七北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) げたうえで、「我基督教社会は年久しく、世と隔離し居たるにも拘はらず、其信徒の数尚少きにも拘らず…我社会の一現象と認められ」ており、「今年は亦是れ事務頻繁運動多端の歳にならんか」として、社会的運動と教会と教役者の役割を提起している。予輩が周ねく教心の人心を振捉して、先づ着手せしめ以て、本年に於ける社会的運動の端緒と為さんと欲するものは、廃娼の運動是なり、抑公娼廃止の一事は、苟も世の基督教徒―一夫一婦を以て人生の大倫と確信し、早晩此の主義を天下に行はれしめんと希望する人々の、均しく熱求する所にして…群馬を始め各地府県陸続として之が主唱の士を起し、隨て建議すれば隨て可決し、今や已に社会を風靡する一大問題となるに及べり、勢已に是に至る、予輩豈断然口を開て賛成の意を表し、更に (ママ)々の論皷を撃て一大運動を促さゞるを得んや )4
(、関西各地の廃娼運動は一八八七年一二月二八日の神戸での演説会、八八年一月三日の三条での廃娼同盟会組織、大阪青年会の活動など、広がりつつあった。増野は「教の内外を問はず周ねく同志を結合して、世論を振起せんと期する者なれども、此運動の盟主となり柱石となるの任に至ては、吾党特担の職命なりと確信する所なかる可らず」としている )5
(。しかし、「教徒の意向社会的企業の一方に熱衷すれば、自ら心霊的信仰の一方に冷かなるに至れる」ので、「昨年以来教内の信仰沈眠の色を呈し、伝道活溌を欠き、献身祈祷の精神大に衰微し来れる今日」は、「教会の内部を以て天よりの聖火充満せる所となす」必要があり、そのためにも教役者に対して、「日本基督教会の講壇に立つ諸士に望む、願くは諸士が満腔の熱血と、満眼の熱涙とをして、焦熱焼くか如き砂漠の中に、能く群羊の唇を湿ほし、生気を保持せしむる飲料とならしめよ」と鼓舞している )6
(。ただし教会は政治と違い、「轍 (ママ)頭轍尾基督
三八北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)の教会たるべく、正義真理の教会たるべくして、大同改進若くは自治自由諸党派の教会たる可らず」であった )7
(。さらに翌月の「制慾論」(『基督教青年』第六号)では、廃娼運動を「我帝国開闢以来、未曾有の神聖なる運動」としたうえで、「我青年信徒の状態を見渡すに、彼等は妓楼に遊ばず、私に淫せず、淫辞を吐かず、其腐敗極たる輩流にして、始めて僅に酒を飲み煙を吸ひ、不潔なる小説を嗜むと云ふに過ぎ」ないのだが、「神聖なる運動の主唱者たる」には、「慾情を制す」る必要があり、「制慾の道なりと確信するものは、勉めて其アムビシヨン(志望)を大にし、極めて其アイデアル(理想)を高くする事是れなり」とする。固より帝国大学院の秀才中にも、舞姫小説の主人公なる大田豊太郎氏某人の如き、偽秀才無きにしも非らざるべしと雖、其中亦必私かに東洋のカント、スペンセルを以て自ら任じ、身不惑の齢に垂なんとするも、学窓の中に独居の生 ライフ活を送り、品行上一点の非難すべき所なき人あるは、予輩が知る所なり )8
(、その一方で、一夫一婦の「人生の大義なる婚姻」は賤むものではないとしつつも、シーザルとアントニーを擒にした美妃クレヲペツラの誘惑を冷然と斥けた若シーザルなるオーゴストの例をあげ、アンビシヨンゆえにジヨセフインを離縁したナポレオンを「真成の人倫を知らざる人なり」としつつも、「壮なり」と紹介している )9
(。我同教の青年諸士よ、願くは諸士が志望を大にせよ、諸士が理想に古今の英豪を描け、而して聖書に所謂「凡そ婦を見て色情を起す者は、中心既に姦淫したるなり、若し右の目爾を罪に陷さば、ぬき出して之を捨てよ、若し右の手爾を罪に陷さば、之を断て棄てよ」との聖訓を服膺し、猛断果行以て清潔の信徳を養成せよ、是に於てか始めて日本基督教青年たる高貴なる地位に立ち得べく、此清潔の心情にして、始めて真に不義姦淫の悪むべきを解し、今の神聖なる一大運動の勇 チャンピヲン将たるを得べきなり )((
(、
三九北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) このように、増野の勇ましい廃娼論は公娼の存在を「悪」、登楼を「不潔」と断定していた。この「不義姦淫の悪むべき」に対して、「アムビシヨン(志望)を大にし、極めて其アイデアル(理想)を高くする」ことが「制慾」の根本対策であり、そうした「高貴なる地位」に立った、「清潔を愛し正義を愛する」青年教徒こそが「神聖なる運動」を担えるとする。廃娼運動は「公娼全廃」をめざす「美挙」ととらえられていた。ところで、関西の廃娼運動を実際に主唱していたのは、大阪青年会会長で大阪教会牧師の宮川経輝であった。八九年一二月二八日の多聞教会での宮川の演説「廃娼論」(『基督教青年』第六号・七号)は、ロシアの農奴解放とアメリカの奴隷解放と「人権壊滅」娼妓の解放を結びつけて廃娼の必要性を訴え、「娼妓を全廃するの主義なれども先づ公娼を廃し然る後進で密娼をも駆逐せんとする」もので、「一夫一婦の大義を奉じ廃娼の大旗を翻へし宜く基督の配下に立て活戦を試むべきなり )((
(」としていた。宮川は増野の論には見いだせない貧困問題が苦界(貸座敷制度)の背景にあることにも言及している。而して女性の身を苦界に沈むる者の中十に八九迄は貧困に迫まられて然る者なれば先づ之が為めに職業学校なり授産場なりを設置して可憐の女子を未だ苦界に堕落せざるの前に救はずんばあらず而して彼父母兄姉の為めに身を売るを以て却て孝弟の道なりと誤解するの迷夢を破り其如何なる名目を以てするも人身売買の天理に背反する事を教へ以て正道に誘掖すべきなり )((
(
またこの頃、増野は「学校の礼拝規則」(『基督教青年』第八号)とする短文のなかで、かつて自身の導きで日向教会において入信した二人の宮崎師範学校生徒が、学校が「両陛下の真影を拝する規則」を生徒に強いたことに対して、全国の重立だった基督教者に意見を請うたことにふれ、「予輩が良心の示す所」の答えの要旨を載せている。
四〇北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)学校は斯る規則を設け、生徒に強ゆる権あるものにあらず。之を奉ぜざればとて、毫も憲法に所謂国の安寧秩序を妨ぐ云々の、個 (ママ)条に抵触するものにあらず。却て斯る校則を強ゆる、学校の処置こそ、該条に触るゝものならざるか。基督教徒は、出来る丈忍耐と平和を保ち、苟めにも自ら進んで軽々しき進退を為すが如き、挙動ある可らずと雖、万已むを得ざる場合に於ては、如何なる処分を受くるとも「偶像を拝する勿れ」てう、神の戒を全ふする覚悟なかる可らす )((
(。あるいは、「十分一献金」(『基督教青年』第八号)では、「安息日を破らず、真影を拝せず、一夫数妻を是認せずとも、若し貪りの罪を犯さば、亦た是れ神の誡を破るものにあらざるか、敬虔なる諸士よ、何ぞ一歩を進めて十分一献金を実行せざる )((
(」とも記している。「偶像を拝する勿れ」とする手紙が掲載されたのは九〇年四月で、増野は八月にボストンに旅立つ。内村鑑三の勅語事件はその四カ月後である。渡米前の増野のキリスト教認識と信仰が神学的に表れている文章は少ないが、「神学説改進」(『基督教青年』第九号)には多少の言及がある。惟一活神の存在を信じ、キリストの中保を悟り、来世の必有を望み、献身の実行を遂ぐるを得ば、基督教の要理已に尽きたりと云ふべく、神の所在は何所なりや、贖罪の方法は如何なりや、人死して後日までは知覚ありや無きやの如き、不急なる問題は、之を神学者の研究に委ね、其説く所に任して可なり )((
(、増野は「無益なる信仰箇条的の弁論」、「活信の生長を妨げたる、信仰箇条的の蔓蘿」という言い回しで、教義や「要理」で説かれる神の所在や贖罪の方法などは「目前に迫りたる伝道の運動」には緊急な問題ではなく、神学者に任せておけばよいとしていたが、ユニテリアン主義の学説や「独国派」の学説の流入は日本基督教会の神学説上の「一大改進」になると期待を寄せている。ただし、「新説に傾くの余り、遂には基督教の由て以て
四一北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) 立つ所の、心 スピリチユアル霊的の資質」が排斥されることはあり得ないとして、「天父は依然として天父なり、来世は何時までも我等が安宅なり」、「神学の潮流も侵す能はざる、特殊の世界存在せるを承認せざる可らず )((
(」と考えていた。『基督教青年』の諸論を検討してみると、渡米前の増野のキリスト教認識と信仰は、必ずしも神学的にあとづけられてはおらず、同志社英学校以来の正統的な教えを忠実、誠実に伝えようとするものであったと言えよう。アンドバー神学校・バンゴア神学校での学びと祈りのなかで、その認識と信仰は大きく転換することになる。北米での留学に関しては、すでに報告している )((
(のでここではふれないが、修学のなかで増野は、「基督教に対する予の「アイデヤ」の甚だ卑陋なりしを悔ゆ、予が既往の伝道は殆ど木草禾稿に均しかりしを悔ゆ )((
(」と記している。
(1)『基督降誕一千八百八八年 明治二十二年一月ヨリ二十三年一月迄 教会費出納簿浪華教会執事』(浪花教会蔵)によれば、一〇銭、二〇銭の信徒の献金から支払われた増野の給料は、四月~五月が六円、六月~八月が八円、九月~一月が一〇円である。九月には牧師になったと考えられるが、たとえば、五月の収入総額は二一円二四銭二厘で、そのうち仮牧師給料は三分の一を占めていた。敬虔な信徒が牧師を養っていたのである。(2)『基督教青年』については、拙稿「増野悦興と『基督教青年』」『同志社談叢』(三〇号、二〇一〇年三月)・「『基督教青年』と関西キリスト教青年会運動」(同三一号、二〇一一年三月)。以下、同誌からの引用はすべて、復刻版『基督教青年』(不二出版、二〇一〇年)による。(3)復刻版『基督教青年』第一号、五~六頁。(4)前掲書、第五号、六頁。(5)前掲書、第五号、七頁。(6)前掲書、第五号、八~九頁。
四二北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)
(7)前掲書、第五号、一〇頁。(8)前掲書、第六号、三頁。(9)前掲書、第六号、五~七頁。(
( に対して増野は「「つぼみ」の記者の厚意を謝す」(『基督教青年』第七号)とする懇切な弁明をしている。 10)前掲書、第六号七頁。増野の「制慾論」には梅香女学校の雑誌『つぼみ』の記者(一少女)から反論が寄せられた。これ
( 11)前掲書、第六号一一頁。
( 12)前掲書、第七号一三頁。
( 13)前掲書、第八号二〇頁。
( 14)前掲書、第八号二一頁。
( 15)前掲書、第九号二~三頁。
( 16)前掲書、第九号三~四頁。
( 支援に関する総合的研究』。、二〇一〇年三月)代表細井勇〕〔平成一八年度~二一年度科学研究費補助金研究成果報告書 17次ー児院におけるネットワク山形成と自立十井石稿「拙孤岡とか増野悦興―出会い・別れら(『バーナードの紹介)で―」ま 18)「米信(第一回)洋行者の自棄(つゞき)」(『基督教新聞』三八〇号、一八九〇年一一月七日)。 二 晩年の北村透谷のキリスト教認識と信仰自由民権運動での挫折を経て石坂ミナ(美那子)との恋愛を契機にキリスト教徒となり、平和運動と創作・評論活動のさなかに二五歳の若さで自ら生命を絶った北村門太郎(以下透谷)については、作品研究とともに政治と文学、宗教と文学の観点からも多くの研究が蓄積されてきた。しかし、そのキリスト教の内面的な受容過程と信仰の実際については、必ずしも多くの言及があるとはいえない。ここではまず、いくつかの先行研究を手がかりに、到達点と課題を整理してみる。
四三北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) 戦後のキリスト教にかかわっての透谷研究は一九五〇年代の笹淵友一・勝本清一郎にはじまり、六〇年代の平岡敏夫・桶谷秀昭・鹿野政直、七〇年代の佐藤泰正・藪禎子・笠原芳光・北川透、八〇年代の渡辺和靖・佐藤善也、九〇年代の清水均・色川大吉・新保祐司・尾西康充、二〇〇〇年代の永淵朋枝・槇林滉二らへと受け継がれてきたといえよう )1
(。鹿野政直は、『資本主義形成期の秩序意識』において、「精神の世界を確立する過程で、北村門太郎はキリスト教の力をかりた」としたうえで、それは精神世界を独立させたが、この地点で、「キリスト教への訣別がはじまった」とする。「キリスト教徒たちが「わが内」には「神性」のみが存在すべきだとするのにたいして…醜とされるようなものの存在をも肯定し」、「キリスト教さえ外面的道徳となった」とする。「「人性」に対して眼をとじる教えは「心の奥の秘宮の門を鎖 とざし、軽浮なる第一宮の修道を以て世を救はんとする」もので、「心の知覚なくして神の知覚あるはなし」(「心の経験」『聖書之友雑誌』七〇号)とした透谷のまなざしは「神的なもの」から「人間的なものにひらかれていった」とする )2
(。「内部生命」の謳歌は精神主義的見地からの人間への賛歌であり、精神のそうしたありかたは、「個人主義的な国家観」と「虐げられてゆく生命への無限の共感」を成立させ、「強者の論理をとる権力の論理とは対極点にある認識を成立させた」とする )3
(。文学研究者からはあまり論じられていないが、笠原芳光は笹淵友一・勝本清一郎の仕事を評価したうえで、それを批判的に継承しつつ、日本文学研究資料刊行会編『日本文学研究資料叢書・北村透谷』(有精堂、一九七二年)の諸論考をふまえて、透谷の信仰の内実についての分析をおこなった )4
(。笠原による「北村透谷の信仰」(『日本の近代化とキリスト教』)の骨子を整理してみる。1.桶谷秀昭は「北村透谷論」でキリスト教の生動する「影響」を重視すべきであるとし(『近代の奈落』
四四北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)三六~三七頁)、藪禎子は「透谷における『思想』」で「大切なのはキリスト者北村透谷ではなく、それを領略して立っている透谷である」(『叢書・北村透谷』二二七頁)として、透谷を原始キリスト教の立場だとした勝本清一郎の「透谷の宗教思想」(同前書四八~五九頁)を批判した。透谷の信仰を「福音的信仰時代」と「生命的信仰時代」とに区分した笹淵友一に対しては、佐藤泰正が「透谷とキリスト教―評論とキリスト教に関する試論」で「そうした「裁断」で区切らずに、矛盾を担いつづけた」(同前書一五六頁)とみてよいと批判した。笠原は、透谷の回心・信仰は「不定形の混沌としたもの」(『日本の近代化とキリスト教』一七三頁)とする。2.透谷の信仰は、勝本清一郎のいう「あやふやな甘さ」(『叢書・北村透谷』五〇頁)をもっていたものではなく、「原始性・不定形性・独自性を有して」(笠原一七四頁)おり、聖書に関する精密な知識ではなく、八七年八月の「真神の功徳」(手記「《北村門太郎の》一生中最も悲惨たる一週間」)とは信仰的理解・神学思想といったものではなく、九一年の長詩『蓬莱曲』には自然信仰や仏教にもわたる混合した宗教観がある(笠原一七七~一七九頁)とする。3.それは『平和』での評論でも同様で、「「平和」発行之辞」(『平和』一号)では諸宗教に関心を寄せる信仰態度がある。一方で、「最後の勝利者は誰ぞ」(同二号)では「イエスは真理そのもの」とする正統主義キリスト教の混在もある。「トルストイ伯」(同二号)ではキリスト教の原初を希求し、「一種の攘夷思想」(同三号)では外来のキリスト教の形式主義を「頑迷にして局量狭き宣教師的基督教思想」と批判している。「真―対―失意」(同四号)では「偉大の士は常に世の風潮に逆ふなり」とし、「電影草蘆談話」(同四号)では教会の説く愛が偽善的で自発的でないと批判して、「人間の至愛は、必ず人間の胸臆より出でざる可らず」とする。「各人心宮内の秘宮」(同六号)では、宣教師は「福音を説かずして其字句を説く」と批判し、「凡て心の基督に通じたるとき、
四五北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) 即ち心が基督の水に溶したる時」に「真に基督の弟子となりたるなれ」、「心の奥の秘宮開かれて、聖霊の猛火其中に突進したる瞬時に於いてこそ」と主張している(笠原一八〇~一八一頁)。藪禎子は「透谷における『思想』」で、透谷の「心」「精神」は透谷の全思考の核(『叢書・北村透谷』二七七頁)だとしているとしたうえで、笠原は「透谷のいう「心」や「精神」は狭義の信仰的概念ではなく、その人間存在のあり方を示す語」であり、「単純なる宗教」(『平和』一一号)で「精神を以て聖書を読み、精神を以て神に接せしむるの謂なり」としているように、「「信仰のみ」によって救われるとするパウロ、ルターらのプロテスタンティズムの正統思想とは異なる」。それは、「心池蓮」(『平和』一一号)の、「己の悪を知ることは、悔改の一大要素なり。『知』といふことは罪をうち消すべき基礎にして、『悔改』とは、この『知』に『行 おこなひ』を加へたるものならずんばあらず。已に罪を知る、而して後に行あり、この二 ふたつのもの者相待つて、始めて再生したる生命に入ることを得るなり」との主張にも表れている(笠原一八四~一八五頁)とする。4.勝本清一郎の「解題」(『透谷全集』三巻「解題」六八二頁)で明らかなように、『聖書之友雑誌』での評論は一部を除いて、生活のための正統主義的な文章が多い。勝本も笠原も編集方針における透谷の信念と正統主義との齟齬が『聖書之友雑誌』編輯者解任の理由だとする。「復讐・戦争・自殺」(『平和』一二号)で透谷は、「吾等の信仰をして皮相の迷信たらしめず、深く人間と神との間に、成立たしめんことを」としている。最後の編輯号に署名記事で掲載された「心の経験」(『聖書之友雑誌』七〇号)では「心は人間の神聖なる枢府なり」とある。透谷の「心」とは「精神」、「内部生命」、「心 ソール」=魂であって、「実存とか主体に近いものであり、精神と肉体を含めた全人的な人間存在における根源的なもの、あるいはありかたとも言うべきものではないか」(笠原一八三~一八四頁)とする。「復讐・戦争・自殺」と同時期の「内部生命論」(『文学界』五号)では「宗教の
四六北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)泉源は愛にあり」としており、透谷にとって「生命」とは「神の問題を含む人間の問題」であり、透谷の宗教観は独自なものであるが、その信仰や宗教が信念とどのように区別され、あるいは芸術とどのように相違するかについては不明な点が少なくなく、その宗教観は論理的に明確ではなく、「原初的な混沌とした生命」で、思想はユニテリアリズムに近く、それが最後の著作『エマルソン』と結びついて行く(笠原一八九頁)とする。透谷がエマルソンから学んだ新しい宗教思想は「自然教」で、それは透谷の命名であり、「自然の美と真を探ることであり、西洋と東洋の自然観を統合すること」であった(笠原一九一頁)とする。こうして笠原は、透谷のキリスト教観を、①回心・信仰は不定形で混沌としている、②信仰的理解・神学思想ではなく自然信仰や仏教にもわたる混合した宗教観で、③その「心」や「精神」は狭義の信仰的概念ではなく、人間存在のあり方を示す語で、「信仰のみ」によって救われるとするパウロ、ルターらのプロテスタンティズムの正統思想とは異なる、④「生命」とは「神の問題を含む人間の問題」で、宗教観は独自なものだが、信仰や宗教が信念や芸術とどう異なるかについては論理的に不明確で、「信と不信、信仰と懐疑とをともに含んだ原初の混沌とした生命」である、としている。北川透は、「内部生命の構造」の考察で、彼我の文学を比較した透谷にはキリスト教の〈他界〉が問題なのではなく、文学の表現としての〈他界〉が重要であったとしたうえで、「心の経験」=「内部生命」=「人間の根本の生命」ととらえている )5
(。渡辺和靖は、近代における市民社会の成立とキリスト教の関係に着目して、「神と人との垂直の関係こそ、キリスト教が日本の伝統思想および伝統社会に対して課した、最も根源的な問いであった」としたうえで、日本の伝統に対するキリスト教の意味を、世界観の問題として捉える場合に、北村透谷は人間の根拠を突きつめつつ、
四七北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) 新しい倫理の創出へと立ち向かったとする。透谷にとってのキリスト教は人間そのものの矛盾に満ちた構造と格闘しながら、明治の立身出世主義を否定して、心の奥に「第二の秘宮」を設定することで、新しい地平を切り開こうとしたのであり、「人生の再建」にあたって「人間の生涯は心の経験なり」とした透谷にとって、「事業」とは価値の実現という水平の関係だけでなく、価値の検証という垂直の関係、人間の根拠を問うものであったとする )6
(。色川大吉は、「透谷はほんとうにキリスト教を信じていたのだろうか。信じていたとしたら、いつ、どのように棄教したのか。棄教したのでないとしたら、なぜ教会から離れ、神にそむいて自殺したのか」と自問したうえで、勝本清一郎と笹淵友一はどちらも透谷がキリスト教的な教義の世界にいたと肯定的な評価をしているものの「自殺をあえてしたというのは、要するにキリスト教を信じていなかったからである」としている )7
(。新保祐司は、「透谷における『他界』」において、「他界に対する観念」(『国民之友』一六九号・一七〇号)を検討して、「日本思想史骨」ともいうべきものだとする。「透谷が、キリスト教から最も衝撃的につかんだものは、「一神教」の力」であり、「ハムレット」を熟読した透谷は「幽界に対する観念」が東洋の唯神的思想にはないことを見抜き、ハムレットの父の幽霊(他界)から「主観的願 デザイア望」=人間の意志と「客観的圧 プレツシユア抑」=神の意志の違いを論じたとする。「内部生命論」の内部生命は「神の外は之を動かすこと能はざるなり」であり、内部生命を観るのではなく、神によって「再造せられたる生命の眼を以て」観るとしたのだとする。内部を動かす神の力が「客観的圧 プレツシユア抑」として、まず存在し、人びとの「主観的願 デザイア望」とは「遥に違ふ」というのだ。透谷は『蓬莱曲』の舞台である他界を伝統的な東洋的ユートピアとしか描けずに苦悩したとする )8
(。それは、その後の柳田国男の「化け物」の世界や太宰治・大岡昇平の「ハムレット」理解、小林秀雄の「ハムレットとラスコーリニ
四八北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)コフ」理解にも共通する「他界に対する観念の欠乏」だとしている )9
(。佐藤泰正は、「透谷とキリスト教」において、加藤周一が『日本文学史序説』(平凡社、一九八〇年、三七九頁)のなかで、透谷が洗礼を受けながら漠然と汎神論的な「内部生命」を論じていた、としたことを批判して、〈内部生命〉は「漠然たる汎神論」に終わるものではなく、その逆で、キリスト教的一神論から汎神論へという単一な構図が安易に語られるべきではないとする。「内部生命論」(『文学界』五号)で透谷が主張したのは、汎神論的風土とは無縁ではない実利的、功利的思考の病弊を問い返そうとしたことであり、「宗教にして若し政治と相渉る」ことがなければ、思想は極端な虚妄派と実際派を起こさざるを得ず(「明治文学管見」『評論』一号)、現実への変革の意志を貫くことが宗教の役割で、透谷はその想いを〈濃情〉(「情熱」『評論』一二号)と呼んだとする )((
(。尾西康充は、『北村透谷論―近代ナショナリズムの潮流の中で』において、透谷の文学理念と透谷詩の検討をおこなっている。そのなかで、一八八〇年代末の自由主義神学の潮流のなかで、小崎弘道が提起した「聖書のインスピレーション」論争を取りあげて、透谷は神が内部生命を再造するための「感応」が「インスピレーション」だと定義して、その「内部生命」は大きな何ものかに向かうことで自己の実存を回復する「癒し」の働きを持っていたのではないかとする。「思弁」(Speculation)という言葉には、人間が神なるものに出会うことで初めて自分自身の姿を知るという意味があり、そこには新しい信仰の可能性が開かれていたのではないかとしたうえで、透谷は神秘・観念の世界に逃避したのではなく、実存的な自己意識を確認しつつ社会的現実にも異議を唱えようとしたとする )((
(。また、「他界に対する観念」論を検討して、透谷は現実の見え方の態度変更を促そうとして、人間の精神と照応関係にある「他界の精神」による自己救済の信仰を持っていたとする。さらに、
四九北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) 透谷は自殺を選んだが、ヨーロッパのプロテスタント集団での自殺率の高さから、カトリックに比べて教会の統制力の弱いプロテスタントには、拠り所の喪失による「自己本位的自殺」(デュルケーム『自殺論』)が多いことをあげて、その縊死が必ずしも棄教ゆえではなかったとする )((
(。永淵朋枝は、『北村透谷―「文学」・恋愛・キリスト教』において、「透谷におけるキリスト教」を検討した。「北村透谷という一人の文学者にとってキリスト教とは何だったのか、ということは、意外にも正面切って論じられていない )((
(」としたうえで、笹淵友一の「キリスト教への回心」(『「文学界」とその時代上』)説に対して、透谷は「自己否定」から入信したのではなく、「自己分析」から入信したのではないかとする。桶谷秀昭の「精神の奈落」(『近代の奈落』)説に対して、透谷の自覚、表現には、落ち込むだけでなく、それまでの「名誉と功業」から離れて自己を客観視させる、新しい視点が必要だったとして、透谷の入信を妻美那子の信仰の面から再考している )((
(。受洗後、透谷との恋愛・結婚を経て三年間をかけて信仰を確立した美那子は、宣教師ピアソンの教えた「人生の正路を取つて進む可き事」を透谷に誓約させ、この誓約で透谷は「生の激烈なる性質」を知り、神よりも、打ち砕かれた自己を凝視したとする。神に自己をゆだねるのではなく、神という異質の存在からの自己凝視をとおして、透谷は「世に尽くし民に致さんとする誠情」の回復をみ、それが回生であったとする )((
(。さらに、「各人心宮内の秘宮」(『平和』六号)や「心の経験」(『聖書之友雑誌』七〇号)などのキリスト教評論を検討するなかで、透谷が「内部」と「外なるもの」の「冥交」体験により、「心の奥の秘宮」という「内部」の新しい境地を発見したことを評価すべきとしている )((
(。それらの評論は透谷の「我が心」と「神」「天国」などの「外なるもの」との冥交体験の実感の追求、表現であり、キリスト教への入信のあり方こそが透谷に文学への道を開いたとしている )((
(。
五〇北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)以上のように、網羅しきれてはいないが、北村透谷におけるキリスト教の内面的な受容過程と信仰の実際についての先行研究を概観すると、次のように整理できよう。(1)入信の動機と意味:自由民権運動から離脱後の石坂美那子との出会いのなかで、恋愛感情を契機とする政治から文学への転生ではあったが、それは「自己否定」ではなく、「自己分析」であり、絶対とされる神から見た自己存在の凝視を通して、新たな価値観の構築に目覚めたことではないか。(2)信仰の内実:その信仰は厳密な神学的教義にもとづくものではなかったが、一神教を受け入れたとする見解と、汎神論・エマーソンの自然教に傾斜していったとの解釈に分かれている。後者は自殺も含め棄教したととらえる。(3)キリスト教と文学の関係:「内部生命論」の解釈が外部の「他界の精神」との関係で論じられるようになり、「内部(人間)」と「外部(神)」の「冥交」体験(「心の経験」)をどう理解するかが論議されている。キリスト教をとおして「宗教のための文学」から「文学のための宗教」への転換があったのではないか。(4)信仰と思想の関係:キリスト教に入信してからは現世的価値観から未来志向の価値観へ移行し、それがすなわち文学活動そのものであった。個人主義的な国家観と虐げられてゆく生命への無限の共感は、権力の論理とは対極点にある認識を成立させた。このように整理をしてみると、透谷とキリスト教の関係についての研究は、思想史研究者がキリスト教への訣別、キリスト教の棄教と見るのに対して、文学研究者がキリスト教による文学・思想の新たな境地の開拓ととらえてきたと言える。明治青年のキリスト教の内面的な受容過程に北村透谷を位置づけるとき、その難解な著作を読みつつ、研究史をひもとくなかで、私は透谷はキリスト者として自裁したのではないかと考えるに至っ
五一北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) た。それにしても、北村透谷のキリスト教信仰の内実はやはり曖昧なままである。それを明らかにするうえでは、尾西康充と永淵朋枝の提起から学ぶことが多い。尾西は前掲『北村透谷論―近代ナショナリズムの潮流の中で』において、ドイツの神学者ルドルフ・オットーの『聖なるもの』とカール・バルトの神学論、哲学者カール・ヤスパースの『悲劇論』をとりあげて、透谷の「ハムレット」解釈とキリスト教徒の原罪、贖罪意識について考察している。それによると、透谷の〈他界に対する自然の観念〉(「他界に対する観念」)は〈世界の普遍性なり〉とされ、「人間が持つ原初的な宗教性」=「不可測の天や不可知の神に畏怖するような本能的性質が前提とされて」おり、「他界に対する観念」の提起により、「自然的観念としてのカミ」から祭祀体系をそなえた「文化的概念としてのカミ」への歴史的転換が把握され、「自己の属する文化への批判が試みられた」とする。R.オットーによれば自然的・一般的な恐怖からだけでは宗教は生まれず、宗教的畏怖(ヌミノーゼ)が必要とされるという。それは〈絶対他者〉への〈被造者感情〉でもあり、合理宗教としてのキリスト教の底流に非合理部分が重要な役割を果たしているとされる。そのうえで、尾西は「日本の宗教風土において、キリスト教的〈一神教〉が〈被造者感情〉をともなって定着できるかという究極の課題」を透谷は提起したとする。さらに、この問題を考察したK.ヤスパースが、キリスト教においては〈罪は解脱のきっかけであるところの幸福な罪に転ずる〉としていることや、K.バルトが「人間の罪は神と人間との出会いの場、対話」でもあるとしていることを紹介している。また、K.ヤスパースは透谷とは逆に、〈多神教〉の世界でこそ「神々の闘い」としての悲劇の創作が可能だ
五二北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)としているという。悲劇を成立させるためには〈逃れられない闘争を直視〉する〈悲劇的な知〉が必要とされるとし、〈調整のできない対立〉が存在するからこそ〈悲劇性〉が存在するとしているという )((
(。ちなみに、第二次大戦終結直後の一九四五年から四六年にハイデルベルク大学で「ドイツにおける精神的状況に関する」連続講義をおこなったK.ヤスパースの内省は、〈調整のできない対立〉の結果としての大戦により失われた厖大な生命に対するドイツ人の戦争責任問題に向けられている )((
(。ここからは、入信後の透谷にとってのキリスト教の信仰や神の存在が、贖罪意識から発して創作意識へと自らを駆り立てた支えであったと見ることができるのではないか。この点は、永淵が『北村透谷―「文学」・恋愛・キリスト教』において、透谷のキリスト教は「生きることそのものと結びついた信仰、思想であった」としている )((
(。そこで、キリスト者透谷にとっての信仰の内実は晩年の著作でどのように表白されていたのかを検討してみる。この時期の透谷のキリスト教関係を中心とする活動と著作は2表のとおりである。
キリスト教評論と文学作品・文学評論とを峻別することはできないが、2表の著作一覧を眺めると、晩年の透谷の関心事が著作の表題に表れていることがわかる。管見の限りにおいて、これまでの北村透谷研究では、透谷の諸作品のなかでキリスト教関係の用語がどのような形で用いられているかについて、全体的・編年的な検討は行われてこなかったと思える。ここでは以下、冗長にはわたるが、一八九一年五月頃から一八九三年一二月頃までの約二年八カ月の間に書かれたキリスト教
五三北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)
年 和暦 歳 事項 著作等
1887 明治20 18 8.石坂ミナに惹かれる 1888 明治21 19 3.数寄屋橋教会入会
11.石坂ミナと挙式
1889 明治22 20 ブレスウェイトの翻訳・通訳者 4.『楚囚之詩』
1890 明治23 21 2.「福音書を筆く人々」翻訳『基督教新聞』344号 3.「福音書を筆く人々」同『基督教新聞』345号
9.コーサンドの翻訳者 11.普蓮土女学校英語教師 1891 明治24 22 1.イビーの翻訳者 5.『蓬莱曲』
1892 明治25 23 1.ジョーンズ通訳者 2.「厭世詩家と女性(上)」『女学雑誌』303号 2.「厭世詩家と女性(下)」『女学雑誌』305号 3.ジョーンズと東北伝道の旅 3.「「平和」発行之辞」『平和』1号
5.「最後の勝利者は誰ぞ」『平和』2号
「トルストイ伯」同
6.「一種の攘夷思想」『平和』3号 7.「真ー対-失意」『平和』4号
「電影草蘆談話」『平和』同
10.ウッドウォルス通訳者 9.「各人心宮内の秘宮」『平和』6号 9.「心機妙変を論ず」『白表 女學雑誌』328号 10.「他界に対する観念」『国民之友』169号・170号 1893 明治26 24 1.「心の死活を論ず」『平和』10号
2.「人生に相渉るとは何の謂ぞ」『文学界』2号 3.『聖書之友雑誌』編輯者 3.「単純なる宗教」『平和』11号
(64~70号) 「心池蓮」『平和』同 3.麻布クリスチャン教会に
転会 4.「明治文学管見」『評論』1号[~4号]
4.「今日の基督教文学」『聖書之友雑誌』64号 「恒になんぢの神を仰ぐべし」『聖書之友雑誌』同 麻布クリスチャン教会で 5.「復讐・戦争・自殺」『平和』12号
日曜日朝に聖書詩篇を講義 「伝道師の将来」『平和』同 「組合教会と宣教師」『平和』同 5.「内部生命論」『文学界』5号
6.「聖書をして自由ならしめよ」『聖書之友雑誌』66号 7.「主のつとめ」『聖書之友雑誌』67号
8.「エマルソン」執筆へ 8.「人に対する神の旨」『聖書之友雑誌』68号 9.「哀詞序」『評論』12号
「情熱」『評論』同
9.「聖書を濫用する勿れ」『聖書之友雑誌』69号 10.『聖書之友雑誌』解任 10.「心の経験」『聖書之友雑誌』70号 「聖書を読む事に就きて」『聖書之友雑誌』同
「神を畏るゝ事」『聖書之友雑誌』同 12.「エマルソン」脱稿 11.「一夕観」『評論』16号
12.自殺未遂 1894 明治27 25 1.宗教を信じられず
(島崎藤村回想) 4.『エマルソン』
5.16.自裁 6.「慈善事業の進歩を望む」『評論』25号 2表 晩年の北村透谷のキリスト教関係を中心とする活動と著作
五四北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一)に関わる作品・評論中の「神性」「人性」「生命」「心」「精神」「奥の宮」「霊心」「冥交」「宇宙」「自然」「自力」などの用語の使用例を『透谷全集』から抜粋してみる。
一八九一5.『蓬莱曲』素 。 おもへばわが内には、かならず和 やはらがぬ両 ふたつの性 さがのあるらし、ひとつは神 か性 み、ひとつは人 ひ性 と。このふたつはわが内に、小 こ休 やみなき戦ひをなして、わが死ぬ生 いのち命の尽 つくる時までは、われを病ませ疲 つからせ悩ますらん。(『透谷全集』一巻、一四一~一四二頁)一八九二
(『透谷全集』一巻、三二五頁)なり」宙大精神宇び個物的に通徹して存せる ユニバーサルスピリツト 5」『物てり―即ち凡てのにを衆合的及イトスルト持者平ら和』二号伯伯は言へく、内「吾等は惟.「の案一 たゞ
三八〇頁) 7.「電影草蘆談話」『平和』四号人間の至愛は、必らず人間の胸臆より出でざる可らず(『透谷全集』一巻、
三七五頁)(『透谷全集』一巻、過夢の如くに思はるゝ事もあるなり。て一睡を貪りたる時の、 7失沈を厭ふ時、浮世の浮は意腕を枕にし対―真塵け、をを」『平和』同―思ひ心遠宮の奥に注ぎ、慾.「 いととほざ
を者経聖て以し、な断教判て以を心し、とにとゆする思の近最は、る想とんは行をろこと ち灼炳光曙て、り上平立に上線る地く漸のたてもの鏡明以を心し、と礎基て以を心…るあ へいしゃく 及仰信び想し思遷はおもろきこと限りなし。…皮相的てるすと礎基以信を心て、れ破仰変 9人』想理の州欧に号六和心平」『宮秘各の内宮界.「形日の界想思のでる至に今而…りよてり興の派上ま
五五北村透谷と増野悦興のキリスト教認識―内部生命論と信仰的実験―(一) 奉じ自由の意志に従ひて信仰を形 かたちづくるものなりけり。(『透谷全集』二巻、五~六頁)心こそ凡てのものを涵する止 し水 すゐなれ。迷ふも茲にあり、悟るも茲にあり、殺するも仁するも茲にあり、愛も非愛も茲にこそ湛ふるなれ。(同、七頁)心に宮 みやあり、宮 みやの奥に他の秘宮あり、その第一の宮には人の来り観る事を許せども、その秘宮には各人之に鑰 かぎして容易に人を近かしめず、…第一の宮は常に開 あけて真理の威力を通ずれど、第二の宮は堅く閉ぢて、真理をして其の門前に迷はしむるもの多し。(同、九頁)洗礼を施すは悪きことにあらず、然れども其を以て基督の弟子となるに欠くべからざるの大礼となすは非なり、心を以て基督に冥交する時、彼は無上の栄ある基督の弟子なり、(同、一一頁)彼が心の照々として天地に恥るところなきは、彼自らの力なり、彼を救ふと救はざるとは彼の関 あづかり知らざるところなれど、救はるべき者になると否とは、彼の自力なり、…今の世往々にして聊かの自力をも恃まずして他力を専らにするものあり、神に祈念するを以て惟一の施為となすや、恰も彼の念仏講の愚輩の為すところを学ばんとするものゝ如し。告ぐ、基督は救ふべきものを救ひ、救ふべからざるものを救はざる事を、…祈祷は一たび基督を仰ぎ見るの徳に若かず、仰ぎ見るは心を以て仰ぎ見るべし、(同、一二頁)人須らく心の奥の秘宮を重んずべし、…大罪大悪の消ゆるは此奥にあり、大仁大善の発するは此奥にあり、…永遠の生命の存するもこの奥にあり、(同、一四頁)
9.「心機妙変を論ず」『白表女學雑誌』三二八号神の如き性、人の中にあり、人の如き性、人の中にあり、