• 検索結果がありません。

著者 大越 哲仁

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "著者 大越 哲仁"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

暮らした場所はどこか

著者 大越 哲仁

雑誌名 新島研究

号 107

ページ 54‑77

発行年 2016‑02‑29

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015596

(2)

新島襄と百足屋と愛松園

―最晩年の新島が大磯で暮らした場所はどこか―

大 越 哲 仁

はじめに

昨年(2015年)は新島襄永眠125年の記念の年であった。

ママ

新島が永眠した1月23日には、神奈川県大磯町の「新嶋襄終焉之地」碑

(以下、「終焉之地」碑)1)の碑前祭に加えて、聖ステパノ学園での記念講演 会が行われた。

私は、「終焉之地」碑自体は、30〜20年ほど前に二度訪ねたことがある が、毎年永眠の日に行われている碑前祭には参加したことがなかったので新 島永眠125年を記念する今回初めて参加した。

新島の「終焉之地」碑は、大磯町の真ん中を通る国道1号脇のほぼ三角形 の狭小な公園の中にあるが、170名を越える碑前祭の列席者は当然公園内に 入れず、車が頻繁に往来する国道脇の狭い歩道を埋め尽くす状態となった。

そのために一般の歩行者の往来が困難となっていた。

公園内には、式辞を述べられた大谷實同志社総長、挨拶をされた中﨑久雄 大磯町町長、竹村慶三神奈川県支部長と、水谷誠同志社理事長がおられ、碑 前祭は厳かに行われた。

その後、「終焉之地」碑から大磯駅方面の愛宕山に徒歩で移動して、山頂 にある聖ステパノ学園の「海の見えるホール」に移動した。

聖ステパノ学園は、三菱財閥総帥の岩崎久弥の娘・澤田美喜が創設した児 童養護施設であるエリザベス・サンダース・ホームの敷地内にあり、学園の 講堂である「海の見えるホール」は、客席から見ると演台の背の全面ガラス 張りの壁越しに美しい大磯港と海を見下ろす。

(3)

「終焉之地碑」の碑前祭の主催者は、現在は学校法人同志社であるが、も とは同志社校友会東京支部(現・同志社東京校友会、以下同じ)の主催によ って1976年に始まり、最初の四半世紀ほどは校友会東京支部が主催して行 われた2)。「格上げ」になって学校法人同志社が主催者となったのは2000年 代に入ってからのことである3)

実は私は、校友会東京支部の主催当時、支部の中心メンバーの方から「終 焉之地」碑は長く草むらに放置されていて、その後に「発見」されたのだと いう話を伺っていた。そのために、私は、新島襄が大磯で過ごしたとされる 百足屋の場所が、現在の「終焉之地」碑のある場所に本当にあったのかどう か、かねてから疑問に思っていた。

そこで本論では、かつて校友会東京支部に伝わっていた「終焉之地」碑の 放置と「発見」の話が事実なのか?事実とすれば、「終焉之地」は、もとも とはいったいどこにあったのか?そして、そこで新島が暮らし、逝去した家 は百足屋だったのかその場所は大磯町のどこにあったのか?を論じることと する。

1.「新嶋襄終焉之地」碑の放置・「発見」説

「新嶋襄終焉之地」碑

「終焉之地」碑は、台石の上に建てられた高さ1.3メートル程度の長方形 の碑で、徳富蘇峰の筆により、縦書きで次のように刻まれている。

(表面)「新嶋襄先生終焉之地」

(裏面)「新嶋先生永眠五十周年ニ際シ門生建立 昭和十五稔十月 蘇峰 徳富正敬書(落款)

石 先生故郷碓氷ノ産ニシテ半田善四郎君ノ寄贈ニヨル」

この碑文によって、碑に用いられた石が群馬県産の碓氷石であることが、

そして、同碑は、新島襄永眠50周年記念事業の一環として行われたことが 分かる。ちなみに、今出川キャンパスの良心碑と東京神田の「新嶋襄生誕之

(4)

地」碑(碑文:天保十四年一月十四日/新嶋襄先生生誕之地/門人 徳富正 敬書)もこの事業の一環として建てられている。

ただし、「終焉之地」碑の除幕式は、碑文にある1940(昭和15)年ではな く、翌年の1941年、太平洋戦争突入直前の11月25日であって、「生誕之 地」碑の除幕式と同日に行われた4)。そして、同式では、記念事業会委員長 であった蘇峰の式辞は代読されている5)。蘇峰はおそらく「生誕之地」の除 幕式に出席したのであろう。

「終焉之地」碑の放置・「発見」説

「終焉之地」碑が長く草むらに埋もれており、その後発見されたというこ とは、同志社タイムス社(同志社校友会)の発行するThe Doshisha Times 上で、校友会東京支部が主催していた当時の「終焉之地」碑・碑前祭の報告 記事に記載されている。

その記事は次の通りである。

「碑前祭は校友会東京支部常任理事氏平裕明氏の司会により、大磯町詩吟連 盟の人々の、新島襄作「寒梅」の詩朗読からはじまった。次いで校友会東京 支部長徳弘勢也氏の挨拶があり、(中略)徳弘支部長はとくに、この永眠碑 の発見者である尾崎憲治牧師が昨春亡くなられたことを惜しみ...」(The Doshisha Times、第476号、1994年2月15日号)

「碑前祭も終えて、一つ残念なことがある。それは永く草むらの中に放置さ れていた終焉碑を探し出してくれた尾崎憲治先生が、すでに亡いことであ る」(法人部文書課 東京分室 氏平裕明〔筆〕)(The Doshisha Times、第484 号、1995年2月15日号)

これらの記事には、尾崎憲治牧師が「終焉之地」碑の発見者とある。

尾崎牧師は、1926年に京都に生まれ、1954年に同志社大学大学院(旧約 聖書神学課程)を修了され、1961年から6年間、日本基督教団在外教師と してドイツの教会に招聘された方である6)。上記のタイムスによれば、1993 年に亡くなられている。1989年に同志社校友会が刊行した『関東地区校友 名簿』によれば、晩年は大磯町にお住まいであった7)

しかし、尾崎牧師は1990年に発行された『同志社時報 新島襄 永眠100

(5)

周年記念増刊号』において「終焉の地・大磯」と題する論考を寄せておられ るが、そこには、「終焉之地」碑の「発見」の事情に関しては一切述べてお られない8)

また、管見によれば、上記の資料以外に「終焉之地」碑が放置された後に 再度「発見」されて再度建立されたことを記す資料は無い。また、記事にあ る徳弘勢也氏も2011年に逝去されており、事情をご存知である方とすれば、

当時東京支部の世話役をされておられた氏平裕明氏がほとんどお一人だけの ように思われる。

そこで私は、旧知であった氏平氏に碑の「発見」について手紙で問い合わ せを行った。そうしたところ、氏平氏からは、「尾崎先生が当時の私の勤務 先であった同志社東京分室に訪ねて来られて『よもやま』話の最中でこのこ とにふれられた」が、この碑がかつてあった場所から移動されたかどうかに ついては尾崎先生からはお聞きしていないような気がする、との丁重なご返 事を頂いた9)

「2つ」の「終焉之地」碑の写真

「終焉之地」碑が「永く草むらの中に放置されて」いた後に、尾崎牧師に よって「発見」された、ということは、現在の碑は改めて建立したことにな る。

そうであれば、碑の放置以前の古写真があれば、その写真と現在の碑を比 較することによって、放置の事実が確認できるはずである。

そこで私は、同志社大学同志社社史資料センターに碑の古写真があるかを 調べて頂き、あったら送って頂くように依頼を行った。

その依頼に対応して下さった方が資料調査員の布施智子氏であった。布施 氏は大変な労力をかけて古写真一枚一枚を調べて下さって、「いつ誰が撮影 したか不明」とのコメントとともに、2枚の写真を送って下さった。

そのうちの人物と共に碑が映っている写真が写真1である。一方、2015 年6月に私が撮影した碑の写真が写真2である。

まず、写真1の撮影年代であるが、男性が鍔が短く顎紐付きの国民帽(戦 闘帽)を被っていることから、おそらく「終焉之地碑」の除幕式(1941年)

(6)

から戦時中の1943年頃の間であろう。日本では1940年に勅令第725号「国 民服令」で、男性には上衣、外套、帽子等を指定した国民服の着装が奨励さ れた。そして、戦争後期から末期の1944〜45年にはほとんどの男性国民が 国民服を着るようになり、「贅沢な」背広は着なくなった。日本の成人男性 がそれ以前の服装である背広と鍔広の帽子になるのは戦後のことである。な お、この古写真は元々ガラス乾板の写真を紙焼きにした物なので、それもま た戦中までの撮影であることを裏付ける。

写真1(古写真)と写真2(現在)を比較すると、つぎのような相違があ

る。

(1)古写真の碑は横と奥行きに広がる土地に建立しているように思われ る。男性に向かって右側に奥へ続く土の通路がある。

一方、現在の碑は、頂点が鋭角な「三角形」の土地(67頁図1、地番1104

−3の土地)に、北東の「三角形」の鋭角の頂点の方向を背にした状態で建 写真1 古写真

(同志社社史資料センター蔵)

写真2 現在の碑

(2015年6月 著者撮影)

(7)

立してあり、碑の左右はすぐに公園と道路を分ける石垣と植え込みとなって いる。

(2)古写真の碑は盛り土の上に立っており、盛り土に座っている男性が立ち 上がっても碑を見上げるような高さにある。一方、現在の写真は私が立って 撮影したことから明らかであるが、碑石は地面に直接置かれた台石の上にあ り、全体も人が見下ろす高さになっている。

(3)古写真では、碑の後ろ側に大きな家が見える。しかし、現在の碑は、碑 の後ろが、弧を描く国道一号の東京方面の道路の正面となっており、後ろに 家があるはずがない。

(4)碑石と碑文および台石は同じ物のように思われるが、古写真の碑石は、

同時期に同じ碓氷石によって建立された良心碑や生誕之碑と同様に白っぽい 灰色をしているが、現在の碑石はどちらかというと御影石のような黒っぽい 灰色をしている。またこの写真では分かりにくいが、古写真では碑石と台石 は同じ石材のように思われるが、現在は少し石質が異なるようにも思える。

(5)台石と碑石の「つなぎ目」(写真3と写真4)を比べると、台石と碑石 の「地」の文字の間の間隔が、現在の方が広く、特に中心から右にゆくにつ れて、その間隔が広がっているように思われる。

以上から考えると、現在の「終焉之地」碑は、かつての碑とは場所も碑の 建て方も、向いている正面の方向も異なっていることが明らかである。

台石に固定した台石の状態も異なっていることから、現在の碑はかつて台 石から外れて、その後に再度台石に固定されたことが分かる。

そして、以上のように大変大きな相違点があるということは、碑を再建し た方々が、以前の碑がどのように建っていたのかを知らなかった、それほど 永く碑が放置されていた、ということと、台石までが以前の場所から大きく

写真3 別な古写真

(同志社社史資料センター蔵)

写真4 写真2の部分

(8)

異なった場所に埋もれていたことを物語る。なぜなら、台石が当初の位置に あれば、おのずと碑の場所も向きも以前と同一のものになるはずだからであ る。

ここで気になるのは、古写真の台石の下の盛り土である。碑石と台石の重 さで盛り土が崩れてしまって台石ごと崩れてしまった可能性が考えられるの である。

なお、石質が微妙に違うように見えるということは、もしかしたら、碑石 自体が当初の碑とは異なる可能性もある10)

碑が草に埋もれていた期間

手元に、大磯町郷土資料館の学芸員・富田三紗子氏より頂いた1984年11 月27日発行の「広報おおいそ」の写しがあるが、そこに掲載されている

「終焉之地」碑の写真は現在の碑であり、広報の性格からその発行当時の1980 年代の写真であると考えられる。その写真には、碑の回りに植えてある小さ な木や植え込みも写っているが、それらの木々は現在うっそうと茂ってい る。そこから考えると、木を植えたのは、撮影の数年前と考えられる11)

校友会東京支部が碑前祭を始めたのが1976年であるとするならば、碑の

「発見」と再建を契機として碑前祭を始めたと考えるのが一番妥当である。

碑の古写真が遅くとも1943年頃だとすると、1976年頃の「発見」まで三十 数年。その間、敗戦と混乱、戦後復興、高度成長、モータリゼーションと国 道の舗装・改良と続く中で、1976年頃の「発見」まで、以前の状態を知る 人がいなくなるほどの「永い間」(20〜30年間)草むらの中に放置されてい たのである。

しかし、現在「終焉之地」碑がある場所は、大磯町の観光の中心地だが、

どうしてそれほど碑が永く草むらに放置され得たのだろうか?諫言すれば、

1970年代の半ば(?)に尾崎牧師が「発見」するまでの長い期間、誰にも 顧みられることなく放置されることがなぜ可能だったのだろうか?

それよりも、当初、碑が建てられた場所とはいったい何処なのだろうか?

(9)

2.百足屋と愛松園

百足屋の所在地

前章の最後で述べた大きな疑問については、それを解決しようにも、これ までの情報では徒手空拳なために、まずは百足屋のあった場所を特定する作 業を行うこととする。

新島が大磯に滞在したのは、1889年12月27日から逝去する1890年1月 23日までの28日間だが、滞在を始める4ヶ月前の1889年8月に出版され た『大磯名勝誌・相州大山記』には、大磯の「旅店」(旅館)の項目の筆頭 に「「百足屋」(南本町)」とある12)

1907年刊の『大磯誌』にも百足屋の名はあるが、特に『大磯誌』では

「大磯略図」として大磯の町名が記載された地図が掲載されており、その地 図によれば、南本町とは、旧東海道から北側の愛宕神社に向かう参道から江 戸方面、北本町までの一帯であり、現在の「終焉之地」碑を含む国道1号の 拡巾工事で削られた土地から北側周辺を指す13)。なお、大磯町を通る国道1 号の拡巾工事は、1938〜1940年に行われたようである14)

管見によれば、上記以外に百足屋の場所を示す資料は無い。そこで私は、

まず、現地を訪れて、「終焉之地」公園のすぐ西側、「創業明治拾壱年〔1878 年〕」という老舗の井上蒲鉾店の女性の方にお話を伺った。

その方のお話では、井上蒲鉾店は創業以来現在の場所にあって、百足屋は 同店と和菓子の老舗の新杵さんの間にあった、当時百足屋は、愛宕神社の参 道の東側奥まであった、ということであった。

この新杵とは、創業1891年の老舗の和菓子店であり、土地にちなんだ虎 子饅頭や西行饅頭が有名である15)。なお、新杵は、もとは井上蒲鉾店の旧東 海道を挟んだ斜向かいで現在の真壁豆腐店の北隣、愛宕神社の参道の東側に あった。それが、国道1号の拡巾工事でほとんどを削り取られて南本町の現 在の地に移り、真壁豆腐店は旧東海道沿いに残ったのである16)

以上のことより、百足屋があった場所は、やはり、現在の「終焉之地」碑 の公園の辺りであることが想定された。

(10)

次に私は、前出の大磯町郷土資料館の学芸員・富田氏を訪ねた。

すると、富田氏は、同館で所蔵する1894年発行の「神奈川懸大磯明細全 図」の実物を見せて下さった上で、同図を見ると、百足屋は「終焉之地」碑 のある大磯町1104辺りにあったと思われる、とお話し下さった。

同図は複写ができないため、私が許可を得て撮影したのが写真5である。

写真5を見ると、はたして、道が く の字型に折れる旧東海道の突端東 の内側に百足屋があった。現存する地図の中で百足屋の位置を示すものは管 見の限りこの地図だけである。私はこの精密な絵図の実物を拝見できて大変 な喜びを感じた。

絵図を見ると、百足屋の西隣にはハイカラな玉突(ビリヤード)があっ た。この玉突きは淡路亭(南本町)である17)。この玉突が南本町の西端であ り、その西側の油屋と杉本の二軒の旅館の住所は茶屋町である18)。この絵図 を見ると、富田氏のおっしゃるとおり、百足屋は「終焉之地」のある辺りに あったと思われる。なお、絵図を見ると、愛宕山の山頂には岩崎氏荘、百足 屋の東には「岩崎氏扣〔控〕荘」がある。

写真5 「神奈川懸大磯明細全図」

(明治27年7月20日印刷、同年同月31日発行)(大磯町郷土資料館蔵)

(11)

なお、『大磯名勝誌・相州大山記』によると、大磯には玉突のほかに、寄 席の末廣亭、大弓射的の養気亭、牛乳搾取販売店、藝妓屋もあった19)。写真 5には写っていないが、この地図の海側には海水浴場と海水浴客用の大規模 旅館(祈(祷)龍館)が描かれている。

この絵図は当時、まさに海水浴場として日本中に名を知れた大磯の活況が 描かれている絵図であった。

百足屋と愛松園

写真6 久保田米僊筆「百足屋謙吉家宅」(部分)

(社史資料センター蔵)

写真7 久保田米僊筆「百足屋 離れ屋敷 新島襄氏 終焉之家」

(社史資料センター蔵)

(12)

ところで、新島が大磯で実際に暮らした 家については、滞在中に新島自身が書簡の 発信元として「相州大磯百足屋 新しま 襄」などと記載していることもあって20)、 一般には旅館・百足屋であると理解されて いる。

しかし、新島の最期の姿を絵にした久保 田米僊の現地でのスケッチでは、世に知ら れる東海道に面した正面総二階建ての百足 屋のスケッチ21)(写真6)に「大磯驛百足 屋謙吉家宅」と添え書きがある一方で、細 い路地に面した平屋建ての建物のスケッ

22)(写真7)に「百足屋 離れ屋敷 新

島襄氏 終焉之家」と誌されている。

また、新島が八重に書き送った書簡に添 えた図には、新島自身の筆で「大磯之家之

つ〔図〕」と誌し、写真8のような間取りの家が書かれていた23)

この家は上から見ると 逆L字 型の平屋建てで、南側に八畳間と六畳 間の居間、北西側に水回りを備えた家である。特に八畳間は一軒廊下越しに 庭に面していて大変陽当たりが良い部屋である。

玄関は家の東側、六畳間と廊下を挟んだ北側にあり、玄関を入った土間の 正面に二畳、その北隣に四畳半の和室を持つ。八畳間の西、床の間の隣の出 入り口から廊下に出ると、大・小用の厠、風呂、勝手口付の台所へと続く。

新島の描いたこの間取りの家は、久保田の描いた「新島襄氏終焉之家」の 外観図と符合している。

新島が平屋建ての家に逗留したことは同所から蘇峰に宛てた書簡でも裏付 けられる。すなわち、新島は、この家に入って三日後の1889年12月30日、

蘇峰に対して「部屋も都合よろしく離れ家故、烟艸〔煙草〕之嗅ハ来らす大 ニ静ニ有之候」と書き送っているのである。同書簡で新島は「殊ニ小生喜申 候ハ暖かなる気候ニ御座候、本日なとハ日中ストウ〔ストーブ〕ニ火を入れ 写真8 新島筆「大磯之家之つ

〔図〕」

(13)

不申、障子ハ明け放し午前午後も少々運動いたし候ニ少しも寒きを覚へ不申 候」とも述べているが、それは、大磯の気候に加えて、彼が日常過ごしてい る居間が陽当たりが良いこともあったからであろう24)

この百足屋の「離れ家」に関して、1891年刊行の『大磯名所案内』を見 ると「愛松園 但百足屋の貸席」とあり25)、また前出の『大磯誌』で「百足 屋。宮代謙君、同別荘愛松園。」ともあることから26)、この「離れ家」とは、

宮代謙吉の経営する百足屋の貸別荘であって、別荘名が「愛松園」であるこ とが明らかである。最晩年の新島は大磯では百足屋の「離れ家」(貸別荘)

である愛松園で暮らしたのである27)。なお、蘇峰も『蘇峰自伝』で、新島が 滞在していたのは「百足屋の別荘」と述べており28)、その別荘には「垣

〔根〕」があったという29)

ただし、新島が愛松園で暮らしたことは、すでに尾崎牧師も指摘しておら れることである30)。さらに尾崎牧師は、「愛松園跡には、最近になってモダ ンな高級マンションが出来た」31)とも指摘しておられる。ところが、残念な がら、尾崎氏はその住所や場所を書き残しておられないので、その具体的な 場所を特定し、検証する作業は残されているのである。

なお、百足屋の主人について、『大磯誌』では「宮代謙君」とあるが、正

みやだい

しくは宮代謙吉である。

この宮代謙吉は、維新後に廃れた大磯の復興の立役者である。

大磯といえば、1885年に陸軍軍医総監松本順が日本最初の海水浴場を開 いたことで有名だが、実際は、松本順の話に刺激を受けた宮代謙吉が有志を 糾合して海水浴場を開いたのであった。

松本順の自伝『蘭疇自伝』によれば、1884年、松本順が、熱海で遊んだ 後に小田原で土地の人に海水浴場を説いても見向きもされず、次いで「駅

〔宿場〕中の疲弊甚だしく、その質〔資金〕あるもの多く他に移転し、家あ るもの稀なり」というさびれた大磯の宮代屋に泊まり、同地が地勢と海潮に 優れていることから地の人に「海水浴の人に益ある」を説いた。しかし、や はり誰もとりあわなかった中で、「すこぶる識あり。また人望」ある「旅館 宮代謙吉」に告げたところ、謙吉は大いに喜んだが、「郡長甚だ愚にして論 ずべからず」だったので、謙吉自らが奔走して同志を募り、翌年海水浴場を

(14)

開いた。更に1887年には鉄道も開通したので大磯が隆盛することとなった のである32)。したがって宮代謙吉こそ大磯の再興と発展の功労者であったの である。彼は後に大磯町長になり、大磯の観光行政に尽くしている。

なお、米僊が、上記の通り、宮代謙吉を「百足屋謙吉」と書いたのは、松 本が自伝で「此〔大磯〕の地、宮代姓甚だ多し」33)と誌していることより、

同地に宮代姓が多いために、他の宮代氏と区別するために宮代謙吉の旅館の 屋号を取って百足屋謙吉としたのであろう。また、『大磯誌』で「宮代謙君」

としたのは、謙吉が町長を務めたことから敬称の「君」を付けたようにも思 われる。

3.百足屋と愛松園はどこにあったのか

新島の上記の「離れ家」の間取り図には、愛松園の場所を示す極めて重要 な内容が記されている。すなわち、この家の敷地の南面と西面が道路であ り、特に南面の道路にある門の道路を挟んだ向かい側の土地の門に「本家う しろ入口」とあり、門から南側が百足屋の本家の土地であることを示してい るのである。そして、前出の『大磯名勝誌・相州大山記』には、愛松園が百 足屋の離れ家であるとの明確な記述は無いが、それが「百足屋の後園中にあ り」と誌されており34)、新島の記述を裏付けるのである。

この記述を踏まえて大磯町郷土資料館蔵の「神奈川懸大磯明細全図」(62

頁、写真5)を見ると、愛宕神社の参道の東側に長方形の平屋建ての建物が

描かれており、確かに「愛柗園」と記述されているのである(「柗」は「松」

の異体字)。つまり、新島が書いた左側の道路とは愛宕神社へ続く参道だっ たのである。

それでは、その愛松園の正確な場所を特定することは出来るだろうか。

私が学生時代に金田章裕講師(当時)から学んだ人文地理学の知見によれ ば、過去の遺構の多くは、現代における空中写真や地図にその痕跡を残して いるのである35)

この知見に基づけば、旧東海道に面する百足屋の「後園」にあった愛松園 は、新島の書いた間取り図や「神奈川懸大磯明細全図」から、愛宕神社参道

(15)

から東へ延びた道路、もしくは道路跡の北側にあるはずである。

そのような場所があるかと調べると、はたしてそれはあった。

それが図1の公図のBの場所である(地図外だが、Bの土地の左側に南 北に通る愛宕神社の参道がある)。

そして、Bが愛松園のあった場所ならば、百足屋は、Bの前の東西に通る 道の南側まであったことになるから、現在の「終焉之地」碑のある土地であ

るA(地番:大磯町1104−3)を含めた破線A’枠内にあったことになる。こ

のA’枠は、ほぼ大磯町1104番の全域である。

この場所が正しいかどうかを検証するために、私は所轄の法務局である横 浜地方法務局 西湘二宮支局に問い合わせた。

そうしたところ、同局の登記官の佐藤雅彦氏がご親切にも現在同局に残っ ているAおよびBに関する旧土地台帳の全てを送って下さった。

1 公図「中郡大磯町大磯字南本町 地番11043」

(プライバシー保護のため、地番1104番3以外の地番は消去した)

(16)

まずAに関する旧土地台帳の写真(部分)が上の旧土地台帳1、2であ る。

旧土地台帳1は、大磯町大磯字南本町1104番2のそれである。これをみ ると、明治23(1890)年6月11日に宮代重之から謙吉に相続され、その

後、大正4(1915)年に宮代謙次が所有した後、大正7(1918)年に一年ほ

ど岩崎久弥が所有したが、翌年に宮代喜代治に所有権が移ったことが分か る。

この南本町1104番2は、現在の公図に無いのでその後に分筆されて地番 が変わったと考えられるが、大磯町の地番は駅舎から近い順に発番されてい るので、Aの地番(1104番3)に隣接する北西の土地であることが明らか である。

また、旧土地台帳2は「終焉之地」碑のあるAの地番(正確には大磯町 大磯字南本町1104番3)のそれである。この旧土地台帳は大正年間の宮代 喜代治の所有の記述から始まる台帳だが、昭和4年以降競売や売買で所有権 者が変わったが、昭和15(1940)年6月に再び宮代喜代治が所有権者にな り、同年9月16日に同志社の所有となった。この地番について現在の登記

旧土地台帳1 旧土地台帳2

(17)

事項証明書(不動産登記簿)を入手すると、1940年の9月以降、同志社の 所有であり、地目は宅地、地積は33.12 m2であった。

以上のことより、米代謙吉経営による百足屋はA′枠すなわち大磯町大磯 字南本町1104にあり、現在の「終焉之地」碑は、旧東海道に面した百足屋 の正面の部分があった土地であることが明確になった。ただし、百足屋の土 地が、南本町1104番の左右の1103番及び1105番にまで及んでいたかどう かについては今後の研究課題としたい。

そして、地番1104番3を1940年の9月に同志社が購入したということ は、同年10月に蘇峰が「終焉之地」碑の碑文を認めていることから、同碑 を建てるために同志社が購入したことが明らかである。そして、同土地は、

以来同志社が所有してきた土地なのであった。

Bについては、土地の現況は、3軒の個人の方の住宅となっているが、旧 土地台帳は、1888年11月30日付での宮代謙吉の「買得」の項から記載が 始まっており、1915年5月に宮代謙次が所有、翌年に岩崎久弥に所有権が 移転して戦後の1947年まで及ぶ。その後、いくつかの会社の所有になった 後、昭和30年代に個人の方の所有となっている。したがって、新島が滞在 した1889年12月から1月の所有者は百足屋の主人の宮代謙吉であり、同土 地が愛松園のあった場所であることが土地台帳からも立証されるのである。

なお、Bの土地に接する北隣に大きなマンションが建っている。尾崎牧師 の言う「愛松園跡のモダンな高級マンション」とはこれを指す可能性が高い が、私が現地調査したところ、マンションの敷地若しくは南面に過去に新島 が描いたような東西に通る道路があったとは想定できなかった。

4.「終焉之地」碑の放置・「発見」説を解く

以上のことから、現在「終焉之地」碑がある公園は、百足屋(本館)の正 面の一部分があった土地であり、「終焉之地」碑を建てるために同志社が購 入したものであった。したがって、「終焉之地」碑は建立当初から同敷地内 に建てられていたのである。

(18)

しかし、敷地内のどの場所にどの方向に向けて建てられていたのかという と、それは現在の碑とはまったく異なっていた。

建立当時の古写真によれば、碑はその横と奥行きに広がりのある地面が見 えることより、おそらく土地の中程(もしくは少し南西寄り)に、碑の正面 を旧東海道に向けて、碑の後方は、国道1号に削り取られた旧百足屋とその 左手奥の愛宕山の中腹にあった愛松園を背にして建てられていたものと考え られる。その建て方であれば、参詣者が碑を臨むときに後方の愛松園も望め るからである。

そして、碑のある土地が、建立当初から同志社の所有による「宅地」であ ったことが、碑が長く草むらに埋もれていたことに大きな関係があったと思 われる。それが大磯町所有の公園であったのならば、当然放置されることは なかったであろうが、その土地が特定の個人もしくは法人が所有する土地で あれば、その所有者の許可がなければ立ち入ることすら出来ないのであり、

仮りに碑が盛り土の風化によって崩れてしまっても、所有者以外の誰も手が 付けられる物ではないのである。

後述する通り、「終焉之地」碑を建てるにあたっては、校友会と大磯町の 有志の功績があった。おそらく、土地は同志社が購入したが、実質的な管理 については、もともとは、関東もしくは東京の校友が行う話になっていたの ではないだろうか。その後、戦争や敗戦の混乱等、関係者の代替わり等があ って、なかなかボランティアとしての管理が継続できなくなったのではない かと推測されるのである。

なぜ現在の土地に「終焉之地」碑が建てられたのか 本論考によって、百足屋と愛松園の場所はほぼ特定できた。

百足屋の正面は、現在の「新嶋襄終焉之地」碑のある公園の土地を含んだ 旧東海道側にあった。そして、この碑は、やはり一度、その公園の中で草む らに埋もれてしまい、その後に再度建てられていたことも明らかになった。

なお、碑石まで再建されたものかどうかは今後の研究課題としたい。

そして、新島が大磯で最晩年に暮らし、終焉の家となった百足屋の「離れ 家」・愛松園は、愛宕神社の参道の東側と百足屋の「後園」から出た東西に

(19)

通る道路を結ぶ北東にあった。

それでは、どうして同志社は愛松園のあった場所ではなく、現在の場所を 購入し、同地に終焉之地碑を建てたのだろうか。

既述の通り、この碑は、大学今出川キャンパス正門奥の良心碑と東京神田 の「生誕之地」碑と共に新島襄永眠50周年記念事業の一環として建てられ ている。手元にこの事業に関する資料は無いのであくまで推定であるが、同 事業が行われた1940〜41年当時の状況を想定して考えてみよう。

その当時に、新島襄永眠50年を記念して、新島の同志社大学に対する思 いを最も強く表す言葉の碑(良心碑)を建て、あわせて、新島の生誕の地と 終焉の地を記念する碑を建てようとした場合の最大の問題は用地の確保であ ろう。良心碑は大学校内に建てることから、学内で決定されれば問題はない が、生誕と終焉の記念碑はそうは行かない。

生誕の地の記念碑については、新島が生まれたのは、一橋門御門外の安中 藩江戸上屋敷邸内の長屋であった。

安中藩上屋敷は、平面図でいうと、東62間4尺(約114 m)、南61間半

(約112 m)、西78間半(約143 m)という塀で囲まれた広い台形の屋敷で、

中央には藩主が住んで藩務の行われた御屋形、その回りに稽古場や蔵や馬 屋、その回りのぐるりを塀にそって上位藩士の家や長屋が並ぶ三重構造であ る。

西側に表門があるが、塀に沿った長屋は、西側には表門をはさんで14軒 と9軒、屋敷の南側に17軒、東側に5軒と7軒、北側に4軒と2軒、合計 58軒ほどあった36)。新島がこの中のどの長屋で生まれたのかは不明である。

ちなみに、現在の学士会館の住所は千代田区神田錦町3丁目28だが、安 中藩上屋敷があった場所は、現在の住所でいえば、同丁目の24〜28をまた ぐ広さがあり、学士会館の敷地は旧安中藩上屋敷の西側三分の一程度ほどし か無い。なお、現在、新島の「生誕之地」碑が建っている場所は、上屋敷の 物見台があった場所である37)

したがって、新島の生誕の記念碑を建てるのであれば、厳密に言えば、充 分な考証を経た上で上記の場所を特定して、その土地を購入するか、土地の

(20)

所有者に許可を得る必要があるが、それは資料的にも金銭的にも相当な困難 を要するだろう。そのためにおそらく記念事業会委員長だった蘇峰が、敷地 内の学士会館の一角に建てられるように動いたのであろう。

学士会館は、主に旧帝大出身者で構成される学士会の会館だが、同会初代 理事長の阪谷芳郎(1863〜1941、理事長職:1920〜1937年)も2代目理事 長の山田三良(1869〜1965、理事長職:1937〜1958)も蘇峰と親交があっ た38)。したがって、蘇峰の人脈によって学士会館の敷地内に新島の生誕の地 の記念碑を建てさせてもらったことが考えられるのである。

問題は新島の終焉を記念する碑を建てる用地である。

蘇峰は当然ながら、新島が逝去した愛松園の場所を承知していたはずだ が、既述の通り、1940年当時は愛宕山一帯を別荘に拡大していた三菱財閥 総帥・岩崎久弥の所有であった。その一方で、ちょうどその頃、上述の通 り、国道1号の拡巾工事が行われて、百足屋本館のあった場所が国道の大き なカーブの建設のために削られて、公図1の地番1104番3という狭小な宅 地が生じていたのである。

旧土地台帳2のとおり、同地番の土地は、1940年に同志社の所有となる までに、2月、6月、9月と短期間に3回も所有権が移転している。「終焉之 地」碑の除幕式のための式辞で蘇峰は、碑の建立のために功績があった「校 友及び大磯町有志諸氏」に対して感謝の意を表しているから39)、この頻繁な 所有権移転は、百足屋の正面の一部があった場所を碑建立の用地にするため に宮代喜代治ほか大磯町の有志の方々が尽力した現れと言えよう。

さらに、百足屋の正面は、実際、新島の危篤に駆けつけた同志社人たちに とっても思いの強い場所であった。横井時雄の母に依頼されて東京から大磯 に駆けつけた医師・遠藤銕太郎は、その手記に「(一月某日)午後八時頃先 生の宿所なる大磯の百足屋へ到着し、表二階に案内せらる、同所には、同志 社出身の知名の諸氏二十余名を以て満たさる」と記している40)

「終焉之地」碑がある百足屋の正面玄関付近所は、その2階に、新島の危 篤を聞いて駆けつけた同志社人が心配しながら集まっていた部屋があったの である。

当初の「終焉之地」碑が盛り土の上に建てられたことも、私には意味があ

(21)

るように想われる。盛り土の上に碑を建てると碑を見上げることになり、そ の碑の後ろに愛宕山中腹にあった愛松園のあたりを望めるからである。

終わりに

最晩年の新島が大磯で暮らし、彼の終焉之家となった百足屋の離れ家の愛 松園は、国道や近代的なマンションの下に埋もれてしまって跡形も無くなっ てしまっていたのではなかった。もちろん現在は一般の方のご自宅であり、

改変は当然所有されている方の随意であるが、その現況が、木造住宅と庭と いう当時を偲べる様子であったことが分かって私は心から嬉しかった。

同地は、「寒梅」や「送歳休悲病羸身...」、「いしかねも...」など新島の 詞藻の舞台である。

なお、現在の「終焉之地」碑が当初あった場所や向きでないことが明らか になったことより、関係各位には、いずれ「終焉之地」碑を当初あった場所 と向きに移動していただくようにお願い申し上げたい。そして、現在のよう に公園の入口を国道1号側ではなく、おそらくかつてあったであろう旧東海 道側に移して頂きたいと存じ上げる。そうすれば、碑を詣でる方が、碑に面 した際に、その後ろにかつてあった百足屋や愛松園を忍ぶことが出来るし、

碑前祭に多くの方が集っても安全な旧東海道側に集まることが出来、国道1 号の歩道を歩く方々に気を遣う必要もなくなる。なにより、碑を建てて新島 を偲んだかつての同志社の先輩方と同じ思いを共有することが出来るからで ある。

さいごに、本論考をお読みになった方に特にお願いを申し上げるが、愛松 園の跡地は、現在は一般の方のご自宅なのだから、そのご自宅の前に複数人 で立ち止まったり、話し声を上げたり、ましてや笑い声を上げたりして、お 住まいの方々にご迷惑をおかけすることは絶対に無いようにしていただきた い。同志社人としては、愛宕神社へ登る参道は、若王子へ詣でる山道と同じ と考えて頂いて、静かに黙々と新島を偲びながらその坂道を登って頂くこと を願って本論考を終えることとしたい。

(22)

1)新島襄の「島」は、「新嶋襄終焉之地」においては異体字の「嶋」となっている。

それは、揮毫者の蘇峰が「嶋」を用いたことに依るが、そのために大磯町におけ る出版物やガイドブック、案内図の多くでは、「新島襄」は「新嶋襄」と誌され ている。

2)The Doshisha Times第388号3頁(1986年2月15日)に「校友会東京支部がこ の碑前祭を実施してから今年で11回目になります」とある。

3)手元にあるThe Doshisha Timesは欠番があるので正確には不明だが、2001年の 碑前祭は主催が同志社校友会東京支部のままであり(The Doshisha Times 第553 号、2001年2月15日)、2005年の碑前祭は、主催が「学校法人同志社」に変わ っている(The Doshisha Times597号2頁、2005年2月15日)。

4)『創立90周年記念出版 同志社九十年小史』674頁、学校法人同志社、1965年。

5)徳富蘇峰『新島襄先生』379頁、学校法人同志社、1955年。

6)尾崎憲治『ドイツにおける心の四季−礼拝式と精神風土』奥付、近代文芸社 1992 年。

7)『同志社校友会関東地区校友名簿』52頁、同志社校友会東京支部、1989年。

8)尾崎憲治「終焉の地・大磯」『同志社時報 新島襄 永眠100周年記念増刊号』

(No.88)学校法人同志社、1990年。

9)氏平裕明氏から大越宛2015年7月4日付書簡。

10)この可能性を最初に指摘されたのは、本論文の元となった2015年8月8日の新 島研究一日研究会での私の研究報告の後でコメントを寄せられた吉海直人教授で ある。

11)「大磯の今昔(四)」『広報おおいそ』1984年11月27日号。

12)一囊一!道人『大磯名勝誌・相州大山記』43頁、天籟書屋、1889年。

13)河田羆『大磯誌』口絵(「大磯略図」)冨山房、1907年。

14)鈴木昇『大磯の今昔(10)』105〜108頁、私家版、2002年。

15)かながわグルメガイド http : //www.kanagawa−kankou.or.jp/gourmet/search /detail.

php?gid=g00036(2015/9/22調査)。なお、虎子饅頭は、大磯町延台寺にある蘇我 十郎祐成と虎女(虎御前)の伝説が伝わる虎子(御)石にちなんだ饅頭。讃岐屋 の虎子饅頭は新島生前に松本順が大磯の海水浴の宣伝に用いたことから(http : //

www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/miryoku/hassyou/kaisuiyoku.html)、甘党の新島も 食したものと思われる。歌川広重の東海道五十三次、「大磯 虎ケ雨」の画題は、

蘇我十郎が敵討ち後に討たれた悲恋に涙する虎女の涙に依る。

16)鈴木前掲書105頁。

(23)

17)前出『大磯名勝誌・相州大山記』44頁。

18)同書43頁。

19)同書44−45頁。

20)たとえば『新島襄全集』第4巻、298頁、同朋舎出版、1989年。

21)社史資料センター新島遺品庫、資料名「大磯風景・先生御臨終・百足屋」等のス ケッチ13枚」、図録番号1308(2);画像ファイル名11308 B 13。

22)同資料、画像ファイル名11308 B 10。

23)『新島襄 生誕150年記念写真集 新島襄 −その時代と生涯』137頁、学校法 人同志社、1993年。および前出『新島襄全集』第4巻356頁。

24)前出『新島襄全集』第4巻304頁。

25)三宅藤兵衞編『大磯名所案内』34頁、私家版、1891年。

26)前掲『大磯誌』16頁。

27)なお、宮代氏経営による旅館は、百足屋と愛松園のほかに、宮代屋があった。現 在は宮代屋の隣に親戚筋の大内氏による老舗旅館の大内館が1898(明治31)年 以来営業を続けておられる。

28)徳富蘇峰『蘇峰自伝』261頁、中央公論社、1935年。

29)徳富蘇峰前掲『新島襄先生』355頁、同志社、1955年。

30)尾崎前掲論文。

31)同論文、前出『同志社時報』(No.88)80頁。

32)『松本順・長与専斎自伝』(東洋文庫386)94頁、平凡社、1980年。

33)同書同頁。

34)前出『大磯名勝誌・相州大山記』43頁。

35)詳しくは、矢野一彦編『空からみた歴史景観』大明堂、1976年。

36)『安中市誌』(安中市誌編纂委員会、1964年)、228頁掲載の上屋敷絵図より読み 解いた。長屋はほかに屋形の側に4軒ほどあったようだ。なお、長屋はそれぞ れ、六畳二間と台所、それに応じた二階があったようだ(湯浅與三『新島襄伝』58 頁、改造社、1936年)。

37)なお、2015年5月には、安中藩上屋敷があった土地の東側、旧博報堂本社ビル の土地に大型複合ビル テラススクウェア がオープンしたが、その敷地内に設 けられた広場は、地元の神田錦町三丁目町会・前田智彦町会長のご尽力で、町名 と新島襄の幼名から「錦三・七五三太公園」と名付けられた。蘇峰を記念する公 園(熊本市・徳富記念園、東京都大田区・蘇峰公園)と蘆花を記念する公園(東 京都世田谷区、蘆花恒春園)に加えて、二人の師である新島を記念する公園が出 来たのである。

(24)

38)阪谷の蘇峰宛て書簡:明治期7通、大正期2通、昭和期10通、計19通。坂谷は

『国民之友』に「営業税を論ス」他多くの特別寄稿があった。山田の蘇峰宛て書 簡:大正期1通、昭和期1通、計2通ある。いずれも徳富蘇峰記念館書簡検索に よる。http : //soho−tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/2015年9月27日調査。

39)徳富前掲『新島襄先生』378頁。

40)遠藤銕太郎「新島先生の病床に侍して」『新島研究』(No.29)4頁、同志社新島 研究会、1963年。

参考文献

The Doshisha Times 第388号、1986年2月15日 The Doshisha Times 第553号、2001年2月15日 The Doshisha Times 第597号、2005年2月15日

『安中市誌』安中市誌編纂委員会、1964年

一囊一!道人『大磯名勝誌・相州大山記』天籟書屋、1889年

「大磯の今昔(四)」『広報おおいそ』1984年11月27日号

尾崎憲治『ドイツにおける心の四季−礼拝式と精神風土』近代文芸社、1992年 河田羆『大磯誌』冨山房、1907年

鈴木昇『大磯の今昔(10)』私家版、2002年

『創立90周年記念出版 同志社九十年小史』、学校法人同志社、1965年

『同志社校友会関東地区校友名簿』同志社校友会東京支部、1989年

『同志社時報 新島襄 永眠100周年記念増刊号』(No.88)学校法人同志社、1990年 徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、1935年

徳富蘇峰『新島襄先生』学校法人同志社、1955年

『新島研究』(No.29)同志社新島研究会、1963年

『新島襄 生誕150年記念写真集 新島襄 −その時代と生涯』学校法人同志社、1993 年

『新島襄全集』第4巻、同朋舎出版、1989年

『松本順・長与専斎自伝』(東洋文庫386)平凡社、1980年 三宅藤兵衞編『大磯名所案内』私家版、1891年

矢野一彦編『空からみた歴史景観』大明堂、1976年 湯浅與三『新島襄伝』改造社、1936年

なお、本稿執筆に当たっては、横浜地方法務局西湘二宮支局登記官 佐藤雅彦様、

大磯町郷土資料館学芸員 富田三紗子様、同志社大学同志社社史資料センター資料調

(25)

査員 布施智子様に特にお世話になった。お名前を記して謝意を表します。また、本 論考の元となった2015年度新島研究一日研究会における私の研究報告にコメントを 下さった水谷誠先生、本井康博先生、吉海直人先生、北垣宗治先生、伊藤彌彦先生に も御礼を申し上げます。

参照

関連したドキュメント

では,フランクファートを支持する論者は,以上の反論に対してどのように応答するこ

1.海女の町 ふげし

 神経内科の臨床医として10年以上あちこちの病院を まわり,次もどこか関連病院に赴任することになるだろ

地盤の破壊の進行性を無視することによる解析結果の誤差は、すべり面の総回転角度が大きいほ

※1 13市町村とは、飯舘村,いわき市,大熊町,葛尾村, 川内村,川俣町,田村市,富岡町,浪江町,楢葉町, 広野町, 双葉町, 南相馬市.

層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑

当法人は、40 年以上の任意団体での活動を経て 2019 年に NPO 法人となりました。島根県大田市大 森町に所在しており、この町は

過温という観点では,今回選定した大 LOCA シナリオより緩慢に推移することか ら,大