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生きた言葉と図書館の課題 : 粗悪言語を売りつけ られる時代に : 2007年11月8日、臨光館204番教室 において

著者 影浦 峡

雑誌名 同志社大学図書館学年報

号 34

ページ 49‑76

発行年 2008‑07‑31

権利 同志社大学図書館司書課程

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011798

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生きた言葉と図書館の課題

―粗悪言語を売りつけられる時代に―

影 浦   峡

1.はじめに

 本日は、学校図書館の話をし ますが、視点を言葉と図書館の 関係に絞ります。それとは別に、

一点、今日の話をめぐって注意 事項があります。教育の話に関 しては、大体において因果関係 というのは成立しません。ある 人がこういう教育を受けてきた

からこうなった、という場合、うまくいったことを遡るとその教育ゆえにう まくいったように思えますし、うまくなくいったときにも教育ゆえにうまく なかったように思えたりします。けれども、別の人に同じことを適用してう まくいくとは限らない。別の人に同じことを適用してうまくいかないとも限 らない。ですから、今日これから私が話すことは、人によっては正しいかも しれないし、人によっては間違っているかもしれません。

 けれども、それを超えてあえて言うと、ものすごく徹底的にエリート主義 的にやるならば、多分これが正しい、というお話しをします。例えば、オッ クスフォード大学とかケンブリッジ大学は、「とりあえずうちは1000年こう やってやっていますから、変える必要はありません」と開き直っているわけ です。極めていやらしいことではあるのですが、同時に、ある種、そこには 見るべきことがあります。教育の出口はわからないもので、現在の要請にあ

〈特別講演〉

2007年11月8日、臨光館204番教室において

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わせたからといって30年後によい結果が出る保証はありませんし、1000年前 からのやり方でよい結果が出る保証もない。どちらも保証がないならば、私 たちはこう決めます、と言い切るわけです。

 それと同じ意味で、最初に、単純にものすごく傲慢に言い切ってしまうと、

誰かがどこかで、私はこうやってやっています、私は皆さんより優れている でしょう? というかたちで、絶対基準で言わなくてはいけない、と最近考 えるようになりました。私がその絶対基準を体験しているわけではありませ んし、私自身がそんなに偉いかというとそうでもないのですが、それにもか かわらず、相対的な基準でどうこういうのではなく、何がどうかあってもこ れが絶対基準です、 少なくとも近代の500年は、 と私が真剣に考えているこ とを背景にしてお話しをします。

 本日のテーマに戻ります。図書館の話をするのですが、その際、まず言葉 の話から入って図書館の話にもっていきます。本を読むことは言葉にとって どういうことか、言葉というものはそもそも生活にとってどのようなことか、

という問題設定を、生活にとって言葉はどういうものか、そしてその言葉と いうのは本を読むこととどう関係しているのか、と逆行させる形でお話しし ていきます。

 話は次のように進めます。ま ず、いささか乱雑に問題提起を した後で、言葉を学ぶことにつ いて、それから本を読むという と必然的に書き言葉の問題にな りますから、書き言葉と言語の 位置づけについてのお話をしま す。それから、本は「教育」に

とって大切なのか? 大切だとするとどうして大切なのか? という話と、

本は「学習」にとって大切なのか? 大切だとするとどうして大切なのか?

いう話をします。そして、最後に学校図書館の課題、これは中村百合子先生 の課題なので、中村先生に話を代わってもらうかもしれません。

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2.問題提起

 では、いささか乱雑な問題提 起のひとつめから始めましょう。

新聞を読む人? 読まない人?

 新聞を読みますか?(「読み ます。」)なお、私にとってのこ の授業は何かというと、大学院 のリクルートでもあります。大 学を卒業した後働きたくない

人? 大学院をちょっと考えたいなという人いますか? ですから、こうい うお話で少し関心を持ったりとか、中村先生のようになりたいとか、中村先 生のようになりたくないとか、そういう方は、この授業を取ったあとで、私 の所属する大学院への受験も考えて、中村先生を通してでも私に直接でも、

相談にきてください。

2.1 言葉とメディア

 さて、 新聞読みますか?(「読まないです。」) 読まないですか? 新聞読 まなきゃだめじゃん、と言われたらどうします?(「一人暮らしなので…」)

携帯は持っていますか?(「はい。」) 携帯の料金と新聞の料金、 どちらが高 いですか?(「携帯です。」) 携帯ですよね? では、 携帯の料金を我慢して 新聞ぐらい読まなきゃだめじゃんって言われたら、どうやって反論しますか?

必ずこういうこと言う人がいるんですよ。いますよね? 新聞ぐらい大人な んだから読まないと、とか。しかも就職のシーズンになると必ず日経新聞が 就職の時には新聞ぐらい読め、そしてうちの新聞を、と宣伝するわけです。

朝日新聞は入試のときに宣伝しますし。そのときの反論の仕方。分かる人?

 「ニーチェはこう言っています。大衆とは新聞を読む生き物である、と。

私は大衆ではないので、読んでいませんと答えるとよい、と影浦さんに習っ たことがあります。」はい、そんなふうに答えましょう。絶対そう答えなきゃ いけません。そう答えると、自分が新聞読んでいるだけでえらいと思ってい る、勘違いしたすごいいやみたらしいオヤジなんかをとりあえずちょっと引

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かせることができます。

 あと、この講義には、粗悪言語を売りつけられる時代に、というサブタイ トルをつけたのですが、この粗悪言語を売りつけられる、ということに対し て、テレビ観る人? 観ない人? テレビを観る人に質問です。NHKの視 聴料を払っている人? NHKは観なくて民放ばかり観る人? 民放はタダ ですね、普通。なぜ民放はタダなのでしょう?(「CM」)ということは民放 は一体何を売っているんでしょうか? 誰に?(「視聴者にスポンサーの商 品を売る。」)視聴者に商品を売っているんですか? 本当は何を売っている んですか?「スポンサーの商品」今と同じですよね。何か意見ある人います?

「スポンサーに、スポンサーの商品を説明するための媒体を売っています。」

はい、大分近いですね。お金を払うのはスポンサーだけですから、とにかく 何かをスポンサーに売っているわけです、テレビは。何を売っているかと言 うと、媒体を売っているのと、あとは、一定の消費行動を取る私たちを売っ ているわけです。これがポイントです。だから、粗悪言語を売りつけられる というのは全くでたらめな言葉遣いでした。

2.2 英語教育

 それからもう一点、小学校からの英語教育ですが、小学校から英語をやっ ていればよかった、という人? 私は結構自分ではやってればよかったと思 うのですが、小学校5、6年生に週一時間で足りると思う人? 足りないん じゃないかと思う人? 最近の議論では、英語教育とか学校教育カリキュラ ム、とりわけ小学校の教育カリキュラムでは、小学校から英語教育を導入し ましょうという議論と、それに対抗して、国語もしっかりできないのに、と いう議論が結構あります。私はいずれの議論も妥当ではないと思っていて、

そうではないところでこれに関する問題を考えたいと思っています。

2.3 本・読書・図書館

 次です。本は大切か? 中村先生の授業で、それから、図書館の授業では、

誰もが、 本は大切です、 と言うんですね。 本は大切ですか?(「大切なもの も大切じゃないものもあると思います。」) どういう本が大切ですか?(「自

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分にとって価値のあるもの」) 例えば? プライバシーに関わらないところ までで言える範囲で教えて下さい。(「僕は大学の授業がおもしろくなかった ので、そういった授業がこうしたらおもしろいんじゃないか、とか、要点を 整理する本とか、自分で大事だと思ったものは大切だと思います。」)本は別 に大切ではない、と思う人? 本は捨てちゃいけないと思う人? どんどん 捨てましょうと思う人? 本は捨てますか、捨てませんか? 古本屋にどん どん売っていい?(「売っていい。」)(「私もそうです。場所がないから。」)

 小学校から高校まで図書館使っていましたか?(「中学校の時は使ってい ました。)何してました、図書館で? 学校図書館? 公共図書館?(「学校 図書館です。読みたい本あるかなぁ、とか。」)買う本と、図書館の本は、違 いますか?「特に違わないです。」図書館使ってました?(「使っていない。」)

使わなくてよかったと思う?(「そうですね。」) そうすると、 中村先生の学 校図書館論はいまいち説得力がないと思う? そういうわけではない?(「個 人的には、図書館とか本というのの必要性は明確には分からない。」)本はよ く読みますか?(「読まないです。」)

 さて、以上がいささか乱雑な問題提起で、とりあえず問題の枠組みを定め てみました。

3.言葉を「学ぶ」こと  まず、言葉を「学ぶ」ことに 入ります。一番最初に言いまし たけれども、この授業では、本 の位置づけを純粋に言葉との関 係だけで捉えることにします。

その理由についても、言葉を学 ぶこととの関係から線を引いて きちんとおさえます。

3.1 基本概念

 キーワードは、母語と母語以外、自分の言葉、他人の言葉、それから習得

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と学習、意識と無意識、話し言葉と書き言葉、一次言語・生活言語と二次言 語・学習言語、積極的知識と消極的知識、英語の居場所と外国語、バイリン ガリズムとプルリンガリズムです。さて、この中で、普通にバイリンガル、

あるいはトリリンガル、マルチリンガルという人はいますか? 母語と母語 以外、第一外国語は皆さん英語ですか? 英語以外が第一外国語だった人は いますか?

 母語と母語以外には大きな差があると思う人? 大した差がないと思う 人? 手をあげたあなたはなぜ大した差がないと思いますか?(「考え方が 同じで、それを翻訳するだけだから、別に差はないと思う。」)あなた自身に とっては、自分が実際にコミュニケーションに使う言葉としては、実用上大 きな違いはありますか?(「まず英語を実際にコミュニケーションに使う機 会がないので…」)日本語は?(「?」)では、これから英語でやりましょうか?

(「たぶん、 できないと思います。」) それにも拘らず、 そこに違いはないの ですか?(「前の回答ではそう思ったんですけど。」) 前の回答は前の回答で 大変まっとうだったと思います。つまり、まずいったんふたつの言葉という のを対象化して、それを自分と切り離してみたら、そんなに両者に違いはな いのではないか、と考えるのは、観察者としてはまっとうだと思います。で すが、それは私の質問に少し曖昧性があったからで、もうちょっと丁寧に質 問をする時に、自分が具体的な場で個々にコミュニケーションをとる時には、

実用上やっぱり違いがありますか? という質問だとすると、使ったことが ないけど、多分仮に使ってみたら違いがありそうだ、ということになります か?(「コミュニケーションすることによって、 …そういう点で大きな違い があるとは思いますが、感覚的にそんなに大きな違いはないのではないかと 思います。」)大変よい整理をありがとうございます。

 ひとつの仮説を出しておきましょう。言語の観点から言うと、本を読むと いうことは、母語と母語以外の距離を近付けて、その差異をなくすことに役 に立つのではないか、という仮説を提案しておきます。

 次です。習得と学習、意識と無意識、話し言葉と書き言葉、一次言語・生 活言語と二次言語・学習言語、ここあたりまでは、よくある二項対立で、比 較的誰もが考えることですが、テクニカルな用語で、なぜか、第一言語、つ

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まり母語の時には子どもが母語を獲得していくことを言語獲得とか、言語習 得と言います。 知っていた人? あなたは知っていました?(「知らないで す。」)

 ところが、いきなり外国語、第二言語になると、通常、言語学習という言 葉になります。言語習得は学問領域で言うと言語心理学で扱われていて、言 語学習とか言語教育というのは応用言語学系という全く別のところで扱われ ています。もちろんこれは非常に大雑把な類型化ですから、本当はそんなに 単純ではありませんが、一般的に言うと、言語習得は無意識になされ、学習 は意識的になされる、と理解されています。

 さて、話し言葉と書き言葉なのですが、最近よく―NOVAがつぶれまし たけれども―小学校から英語を導入しようという話が出ています。このよう な話が出るときには、とても多くの人が不安に駆られて話をしているようで す。多くの親が不安に駆られて早いうちから英語教育を始めた方がいいと言っ ているわけです。では、小学校から英語を導入して英語を学ぶときのターゲッ トは何か? 目標としては、話し言葉が中心に据えられています。はっきり そう言われてもいますし、それからネイディブのALTをつけようと言われ ていることからもそれはわかりますし、また、そもそも小さい頃から英語を 導入しようという流れが起こってきた背景には、中学高校6年間で英語をやっ ても、全然使えるようにならないじゃないか、という世に広まった不満があ るからです。あなたは6年間英語をやって使えるようになりましたか?(「全 く。」)6年間英語をやってきて使えるようにならなかったと言う人? 使え るようになったという人? あなたは6年間英語をやって、教科書は全部覚 えましたか?(「いや、教科書は覚えていないです。」)

 ここで、話し言葉と書き言葉の社会的な位置づけを考えてみよう。

 その前に、一次言語・生活言語と二次言語・学習言語を区別しておきます。

この区別がわかる人? 一次言語・生活言語というのは、通常、習得、生活 の環境に埋め込まれたかたちで無意識に覚えるものを指すために使われます。

二次言語・学習言語というのは、大雑把にいうと小学校に上がって漢字の練 習をしたり日本語の文法を学んだりなど、意識的に身につけていた言語と考 えればよいでしょう。

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 積極的知識と消極的知識というのは、次のようなことです。聞いたり読ん だりしたときにわかる範囲や言葉のかたちと、自分が書いたり話したりする ときに使う範囲や言葉のかたちは随分違います。例えば、夏目漱石の小説は 今でも多くの人が読んでそこそこわかるはずですが、そこで使われている語 彙、あるいは文体その他をきちんと使えるかというと、自分が書くときや話 すときは使えません。言語における積極的知識とは、自分が書き手とか話し 手として使う側に立ったときに使える言語の知識で、消極的知識とは、他人 が書いているもの、話しているものを受け取るときの知識です。

 次に、英語の居場所と外国語を考えます。日本で一番使われている日本語 以外の言語は何ですか(「英語です。」) 英語ですか? 日本で母語としての 話し手が一番多くいる日本語以外の言語は何ですか? 小学校に先生として 就職するときに、何語を学んでいると一番有利でしょう? 先生になりたい というときに、外国語として何語を学んでいると、日本の小学校では全体的 に有利でしょうか? 場所によって違うのですが、非常に多くのところ、例 えば、群馬とか岐阜とか愛知ではポルトガル語です。なぜでしょうか。(「分 かりません。」)(「ブラジルとかの…」) はい、 その通りです。 日系ブラジル 人の人口が多いからですね。したがって小学校で言語のフォローアップをす ることが非常に強く求められている。岐阜ではポルトガル語の重点化をやっ ています。

 それからバイリンガリズムとプルリンガリズム、これの違いが分かる人?

バイリンガリズムというのは、ふたつのものを母語としよう、という感じで す。カナダでやっている英仏のバイリンガル教育が有名ですね。イマージョ ン教育と呼ばれます。一方、プルリンガリズムというのは、とりあえず実際 上ビジネスや政治交渉やその他で使える言語、使えるための第二言語、第三 言語の力をつけよう、というもので、これはEUが推進している言語政策で す。

 さて、ここまで箇条書きでとりあえず関与する概念要素を並べました。思 考のプロセスとして、20世紀初頭以来、ヒルベルトが幾何学を合理化して以 来、あるいは数学の基礎論に集合論がきちんと入ってきて以来、物事を考え るにあたって、まず、徹底的に要素を並び挙げてみる、というのは思ったよ

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りも大切です。その集合を定義した上で、集合の上に関数を乗せていきましょ う、という道筋で話をすることは別に悪いことではないので、それを想定し て、まずは概念要素を並べ上げました。ただし、聞いている側から見ると見 通しがなくてよく分からないですね。

3.2 基本概念の配置

 ですから、言葉を学ぶことについて、この中から少しだけ次の議論に入る 前に整理しておくことがあります。まず、私たちが母語と言っているものは、

実は複数の言語から成り立っている、ということ。就職活動をしたことがあ る人はいますか? 就職活動をしたことがある人は、もしかしたら多少その 感覚を持っているかもしれませんが、普通、大学で友人と話している言葉と、

就職の面接で使う言葉は大分違いますね。同じ「日本語」なのですが、大分 違う。ごく大雑把に分けると、先ほど言ったように、一次言語・生活言語と 二次言語・学習言語という分け方が普通なのですが、この両者は同じ「日本 語」と言われていても、かなり違うものです。多分、今、私が話しているよ うな言葉というのは、皆さんが6歳までに生活に含まれたかたちで学んだ言 語では理解できない。どうして今皆さんが理解できるかというと、小学校か ら高校、大学で言葉そのものを学んでいるからです。

 次に、これは図書館の授業ですから、いささか強引に図書館への前振りを しておくと、その二次言語・学習言語というのは、そもそも、話し言葉と書 き言葉の区別で言うと、書き言葉の側に大きく依存した言葉です。さらにも うひとつ、二次言語・学習言語を学ぶことは、積極的知識を意識して身につ けるということでもあります。つまり、情報の受容者、あるいは文脈に依存 してお互いに分かっている人同士で話し合うのではなく、新たに、何か他の 人には分からないかもしれないことを話す、というときにどうするか、に関 わります。ねぇあれとってよ、ではなく、あそこのこういうものをとってき てください、と言えるようにするとか、あるいは現在目の前にないもの、あ るいはこれまで人が想定したことがないようなものの論理的な組み合わせか ら物事を構成するときに必要になってくる、自分が発信するという意味での 積極的な知識を身につける方向と結びついていきます。このような言語の層

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は、実は、母語において学習する場合でも、母語以外の、例えば英語を学ぶ とか、これまで私たちが中学高校でやってきたプロセスにほぼ等しいんです ね。

 ですから、大体大雑把に言うと、日本語の場合は一次言語・生活言語とし て学んだ層があって、その上に多くの人は学習言語として中学高校大学で学 んだような言語の層を持っている。

 ところで、外国語の場合は、一次言語の部分をなしにして、二次言語の部 分を学びましょう、というのが、これまでの学校教育での英語学習とか英語 教育のポイントでした。ここから、それでいいのか、という問題が起こって きます。これには簡単な答えがあって、もちろんバイリンガルでうまくいく 環境があれば、最初からバイリンガルでやった方がいと思います。その方が 言語能力もつきますし、論理的な思考能力もつ、ということが一応これまで の研究から明らかになっています。

 ところで、現実には、一次言語・生活言語のレベルでバイリンガル教育を やる環境はどのようなものかを考えなくてはいけません。これが結構微妙で、

カナダのイマージョン教育というものが、体系的なバイリンガル教育として は成功しているものと言われています。小学校の途中ぐらいから、英語の母 語話者にフランス語の教科の授業、フランス語の母語話者に英語での教科授 業をやるものです。さて、カナダでは、ケベック州を中心にフランス語を母 語とするグループと、英語を母語とするグループが主な二大言語圏です。そ の両者を比べたときに、バイリンガル教育を経て英仏のバイリンガルになる 人の比率は、フランス語を母語とする人たちのグループと英語を母語とする 人たちのグループとでどちらが高いでしょう?(「英語。」) 英語を母語とす る人がフランス語を学ぶよりも、フランス語を母語とする人が英語を学んで バイリンガルになる人の方が高いんです。ちょっと逆でしたね。なぜでしょ う?(「英語を話す人口の方が多いから。」) 大体いいのですが、 ちょっと違 います。答えは単純で、生活上、ケベック州というのはフランス語人口が多 いのですけれど、ケベック州に行っても英語でやっていけるのですね。でも、

アルバータ州にいってフランス語だけでやっていくことはできないわけです。

 ここにあるのは何でしょうか? 一般に、通常マイノリティ言語を母語と

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する人のほうがバイリンガルになりやすいのです。マダガスカルの私の友人 は大体バイリンガル、マラガシとフランス語のバイリンガルか、さらに英語 も母語程度に話せるトリリンガルという人が多いです―もちろんこれにも制 限があって、ある種の教育を受けたり、環境が整っていたりといった人に限 られるわけですが。では、なんでそうなるか。必要だからですね。必要がな かったらやっぱり学びません。これはもちろん私が仮にもし大金持ちで秘書 もいて料理屋さんもいて運転手もいたら免許なんて取りませんから、それと 一緒です。ですから実は、バイリンガルとか外国語を学ぼうというときに本 当に必要があるのか、というポイントがちょっと関係してきます。必要性が あった上で一定の環境があると、バイリンガルを最初からやることはできま す。それは異例のことではなくて、ある環境が与えられればごく普通に人間 の能力でできるようになります。それにもかかわらず、普通はそういう環境 はあまりありません。必要性もありません。

 特にバイリンガルになる必要のない状況に暮らしているならば、一次言語・

生活言語のレベルでは日本語だけを習得して、その上に日本語の二次言語と もう一つ別の言語をのせていいか、という問題になります。それでうまくい くと思いますか? それとも,英語を学ぶ時には文法とか学習言語とか読み 書きが中心ではなくて、自然に話すようなこともあった方がいいと思います か?(「はい。」)

 さて、一次言語の習得については、3歳臨界期説というのがあって、でも それは眉唾で、結構遅くまで環境があればそこそこチューニングできるとい うことに最近の研究ではなっています。それでも、20歳を過ぎるとできない ようです。15歳を過ぎるとかなり難しいかな、という感じになります。では 15歳を過ぎた後ではどうすればいいか、15歳を過ぎたあとでここのところを カバーするというのは難しい。つまり、二つめの言語でも一次言語のような 能力をつけてバイリンガルになろうというのは難しい。とりわけ、言語の構 造が大きく違うときには難しいです。そうすると、選ぶところはプルリンガ リズムになります。ではプルリンガリズムに何か問題があるでしょうか。実 は、そんなに問題はありません。一方、バイリンガリズムを追求しようとす るときに、最近は使われない言葉ですが、セミリンガルという言葉がありま

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す。二つの言語のいずれも、普通に話す時には話せるのだけれど、高等教育 についていく能力がない、ドイツ語と日本語をペラペラしゃべるのだけども、

日本語で本も読めないし、ドイツ語でも本を読めない、より正確には、本は 読めるのだけれども、どちらも外国語を読むようなつらさがある、というよ うな状況に陥ることがあります。

 さて、以上がとりあえず、概念要素を並び挙げたうえでの、言語習得ある いは言語の学習の全体的な配置です。

3.3 言語学習の目標

 次にいきます。先ほどのポルトガル語の例でもないですが、大人になって 必要とされる言語能力とは何か? という問題。極めてプライベートなとこ ろの問題を除けば、実は必要な言語能力は、二次言語・学習言語なんですね。

大学に行ったり、ものの契約をしたり、家を買うときの重要事項説明を読ん だりするときに必要になるのは二次言語・学習言語です。パブに行ったりク ラブにいったりして友達とお酒を飲みながら話す言語能力はなくて、そこは 分からなくても、普通に契約文書を読み解いて契約ができるという人はいっ ぱいいて、それは二次言語の能力を身につけているからです。ですから、こ こでは割り切って、二次言語・学習言語は社会的に大切で、それは別にペラ ペラしゃべれなくても身につけられるんだ、というかたちに中間的・暫定的 な言語を学ぶ時のターゲットを定めておきましょう。

4.書き言葉と話し言葉  さて、その上で、書き言葉と 言語の位置づけをもう一度考え てみます。D・J・オングって いう人を知っていますか?『声 の文化と文字の文化』という本 を書いた人ですが、文字文化が 発達して書き言葉が出てくると 人間は書くように話す、非常に

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大雑把に結論するとそのようなことを言った人です。江戸時代の日本文学を 読めますか? 大体読めないんですね。ちょっとここで奇妙な問題が生まれ ます。私たちが日本語、日本語と言っているようなものはいつできたのだろ う? 少なくともコミュニケーションの可能性、ある言葉を使った相互の理 解可能性を考えるならば、江戸期の言葉だと、大体それなりの教養があると 読めます。でも、もう少し遡るとなかなか読めません。ということは、そこ にある「日本語」は、コミュニケーションの観点から言うと、別の言語だと 捉えた方がよい。これは、日本語はどこから来たかというような、言語学者 がやっている奇妙な話とは全く違う、純粋に、コミュニケーションの成立可 能性の観点から見た場合です。

 ところで日本語はどこからきたのでしょうか? 実は、私たちがそんなに 不自由なく普通に読めるのは、仮名遣いを除けば、明治期の文章からです。

一体なぜ明治期からそうなったか。鹿児島出身の方いますか? 鹿児島のお 年寄りの話し言葉は私にはまったく分かりません。それにも拘らず、今、私 達は日本語と言うものを今この授業で使っていて、皆さん聞いている人も結 構分かっていると思います。皆さんがお互い話していて、日本語を使えば通 じ合えると思っています。話し言葉として。では、その日本語の話し言葉は どこからきたのでしょうか?「言語学的」には、日本語はどこからきてウラ ルアルタイ語のどこかとかいろいろそういうことが言われるわけですが、日 本語はどこからきたでしょう?(「もともとあったものだと思います。」) も ともとあったものと言っても、私達は正直に言うと江戸期のものは何か分か りづらいし、それより前だとあまり分からないですよね。ということは、ど こかから私たちが自分達がこれが日本語だと思う範囲というのを決めている わけですよね。

 普通にアンケートをとると、大体、明治ぐらいからの小説は読めるんです ね。夏目漱石は読めるのですね。言文一致体でも山田美妙だとちょっとつら いのですが。 では、 その日本語はどこからきたでしょう?(「分からないで す。」)あなたは分かりますか?(「分からないです。」)分かる人?(「お母さ ん。」)でも、お母さんから来たのだったら、平安時代から分かるはずではな いですか?(「お母さんからもらった。」) けれども、 それではどうして江戸

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時代の言葉はわからないのですか?(「お母さんが江戸時代に生きていなかっ たから。」)お母さんがもらったのであれば、江戸時代に生きていたお母さん から江戸の末期に子どもがもらって、その子どもがお母さんになったりお父 さんになったりして、明治の初期にそれの子どもがもらって、というかたち で連続性があるはずですよね? これを言うと怒る人が、特に中年以上のコ ミュニケーション能力のない男性の中に少なからずいるのですが、でも日本 語はいきなり明治にできています。

 一般に、言葉は、大体一世代から二世代でできます。一世代から二世代で 絶えます。人が死に絶えれば言葉は死滅します。実は、日本語は、明治にで きました。誰が作ったか? 言文一致運動の文学者および明治の初等教育の 義務化が作ったのですね。

 別の例もあります。ドイツ人と話をしていると、ドイツ人は、16世紀のル ター訳聖書が読める、そのまま。それはなぜかというと、16世紀からドイツ 語が変わっていないからではなくて、ドイツ語が16世紀のルター訳聖書によっ てできたからです。それまであったのは諸ゲルマン語で、隣の村同士ではわ かり合えるけれど、その隣の村はちょっときつくなる、というかたちで話し 言葉というのはそれぞれの村で随分違っていたようです。

 日本では読書文化が一部の階層を中心に江戸期から広まっていたと言われ ていますが、それでも、話し言葉的には日本語としてまとめるようなものを コミュニケーション上定義することができなかったのですね。どういうこと かというと、100キロ離れた村に行って話が通じるか、 といった時に、 今の ポルトガル語とスペイン語の関係ほど通じたかというのが本当のところはよ く分からないような状態だった、と言えます。

 さて、日本語のように、ある言葉ができるとします。いったん言葉ができ ると、言葉というのは私たちの頭の中にあって、それで私たちが言葉を学ん で計算する、言葉を学んで、文法を学んで、そして話すことができるように なる。そんなものだ、というふうに見なされます。

 ところが実は、その言葉自体を私たちがどうしてわかるかというと、どこ かで誰かが作たものを私たちが無理やり押し込まれるからです。そして、押 し込まれたあと、自分の言葉だと思い始める。典型的には、在日韓国、朝鮮

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人の人たちが、第一世代は親の母語は朝鮮語であるにも拘らず、子どもが第 一言語に相当するものとして日本語を話し始めるというのはいくらでもあっ て、そこでではなぜ子供の言葉が日本語になるのかというと―これは個人に おける言葉の成立であって社会における言葉の成立ではありませんが―単に 押し込まれるから、ということになります。

 (p.12の)スライドの下線部を読んでみましょう。分からないですよね?

こんなこと書かれても通じません。なぜ通じないか? 誰も使っていない言 葉を勝手に作ったから通じないのです。さてここでさっき言ったことと矛盾 します。さっき言ったのはいきなり突然明治の時期に言葉ができた。言葉を 作ったわけです。でも、言葉を作ったということは、それまでは誰も使って いないものだったはずです。実際、それまでは誰も使っていませんでした、

経済という言葉は明治期にできましたし、印税という言葉は確か福沢諭吉が 作ったものですし、というかたちで言葉は作られているわけですが、それに も拘らず、私たちはそうした突然作られた言葉を使っています。なぜか? 

無理やりそう使えと言われてきたからです。

 その時に、言葉を押し付けるために使われたメディアが新聞や本で、それ を押し付けるために、押し付けるメカニズムを保証した制度が小学校の教育 です。

 さて、世界中に言葉はいくつあるでしょう?(「6000ぐらい。」)はい、6000 ぐらいですね。これは確かユネスコの普通の統計で使われるものです。言語 学者によって3000から1万2000まで揺れます。でも、よく考えてみると、自 分の家で話している言葉、あるいは自分が最も親密な人と話している言葉は、

ある種独特なもので、他の人にはそれと全く同じ言葉遣いはできない、とい うことがあると思います。自分と最も親密な人と話している時に、自分のこ とを私とか僕とか言わずに、自分のことをPと呼んだり、相手のことをQと 呼んだりすることはいくらでもあるわけですね。

 したがって世界にはいくつ言葉があるか? それを本当に恣意的にではな く細かく考えていくと最低ユニット分あります。60億人の世界で60億人から ペアワイズで2人を選ぶ。潜在的にはそれぐらい言葉があると見たって別に 問題はありません。

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 よく、言葉は文化で、言葉は文化が違うと分かり合えないと、とりわけ中 年以上のコミュニケーション力はないのに権威主義的で威張った男の人が言 いますが、これもよく考えて見ると、いやよく考えてみなくたって変な話で、

では文化というのはどう定義されるのでしょうか? 多くの人にとって、大 学で仲のいい友人とそれ以外の人という分割のほうが、日本語を共有する人 とそれ以外という分割よりも現実感があるのではないでしょうか。

 それから、言語の系統図で日本語は孤立していると言う言語学者がよくい ます。これも全く嘘で、何で嘘かというと、だいたいこれは19世紀のダーウィ ン主義の植民地主義的解釈と結びついた悪しき伝統からくるものであって、

日本語は孤立していると言いたい人は、単に日本語の孤立しているように見 える側面を恣意的に重視しているからそう言えるだけなのです。日本語はい まやカタカナ語で溢れていて、語彙としては英語とかフランス語とかともの すごく重なりがあります。そんな中で実を言うと言葉のひとまとまり性とい うのは、話し言葉のレベルで考えるならば、どんどん分断されてしまって、

最終的には最も親密な人との会話はひとつ独立した言葉であるというところ までいきかねません。

 さて、それにも拘らず、日本語なら日本語、フランス語ならフランス語と いうものをひとまとまりとして見せるために大きな役割を果たしたのが書き 言葉です。例えば17世紀初頭に、アカデミー=フランセーズができた時、フ ランスと呼ばれる統治体の中でいわゆるフランス語を話せる人は半分もいま せんでした。 それが18世紀になるとほぼ100%話すのです。 なぜか? 絶対 王政下で教会の権威を剥奪しようとして王様が初等教育の世俗教育を始めて、

小学校みたいなものを作ったのです。それでフランス語を無理やり教えるよ うになったから話せるようになった。こうして強制により強引にひとまとま りの言葉ができます。

 ですから、今私達は日本語というものを話していますが、この話している 日本語というのは社会的に言えば書き言葉からできたものです。もちろん、

皆さんの中で、いまでもローカル色の強い、方言と称せられる地域地域の言 葉、もとからあった言葉を話している人がいたら、その話し言葉は別ですけ れども、そうではない場合は、明治期に強引に作られた言葉を強引に教え込

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まれて、それを母語と考えている、ということになります。

5.言葉から本へ

5.1 言葉のまとまりと印刷メディア

 さて、少し話の道筋を整理しましょう。以上のことを踏まえた上で、言葉 の観点から見ると、ここから本の話に持っていくために、大体次のようなこ とが言えます。個人の歴史から見ると、一次言語・生活言語があって、その 上に学習言語・二次言語を積み重ねる。これが個人の学習史です。ところが 社会的に見るとプロセスは全く逆なんですね。少なくとも、近現代社会が成 立しているところでは、プロセスはまったく逆で、今私たちが話している日 本語というもの自体が、実は二次言語・学習言語という、書かれた言語に基 づいており、それが話し言葉に還元されることによって日本語という共通の 言葉になります。それを支えたのが、新聞や本などの印刷メディアと初等教 育だ、ということになります。

 ではその中で、一体、印刷メディアのうち―明治の、日本語が出来たとき は印刷メディアが中心でラジオというのはその後徐々に出てきましたけれど も―新聞と本というのはどう違うのだろう? 他のメディアとの役割はどう 違うのだろう? ということを考えるのが次の課題になって、その問題を介 して、学校図書館や本の教育における役割などが授業の話題になっていくこ とになります。

 もう一回整理すると、私たちが話し言葉と言っているものは、実は書き言 葉からできている。これが一つめ。そして、そのようなかたちで日本語と呼 ばれる言語の単一性を日本と呼ばれる政治的統一性の中で広める役割を担っ たのは、印刷メディアと初等教育である。これが二つめです。ここまでが、

大体社会的な側面です。

 一方、個人に関しては、それにも拘らず私たちが個人として言葉を身に着 けるときには、親から伝えられて生活の中に埋め込まれた言葉として一次言 語を修得し、その上に学習言語を積み重ねる。だから、個々人が言葉を見る ときには社会的なプロセスとは逆に、まずは話し言葉というのがあって、そ の上に書き言葉を積み重ねる、ということになります。ところが、あくまで

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今の日本を含め多くの地域で、社会的には逆です。

 ただし、もちろんねじれた例というのはあって、先ほどの在日韓国人の第 一世代から第二世代への移行とか、初等教育を受けずにあくまで方言だけ話 していた親の子どものような場合は、家庭で学ぶ一次言語はその方言と呼ば れる言語で、その上に小学校とか何かでそれとは少しかたちの違う日本語と 呼ばれるものを身につける。そのギャップはどれぐらいあるかというと、例 えばポルトガル語の家庭の子どもがスペインの学校に行くというのと同じ程 度にはギャップがあるわけです。

 ここから地球上の「言語の数」がいくつあるかについて数値の幅が大きい 理由もわかります。つまり、何々語と呼ばれるものの配分は実に極めて恣意 的で、例えば、日本人が英語を十分に話せるようになったあとで、フランス 語やポルトガル語やスペイン語を学ぼうとすると、なんだどれも方言じゃん、

と感じる程度にそれらの言語は近く、少なくとも日本語と鹿児島弁との間と の距離しかなくて、それにも拘らずフランス語とか英語が独立したまとまり を持つ言語と見なされているのはどうしてか? しつこく繰り返しになりま すが、書かれた言葉が蓄積されて、政治的な統治体における初等教育の中で 教えられ、引き継がれていくからです。

5.2 本・新聞…

 さて、ここまでで、言葉の位置づけの話から本の役割の入り口まで、少し 強引に話を持っていったわけですが、では、新聞と本ではどう違うのか? 

単純です。新聞は本質的に大衆のものです。本は、共通部分は大衆のもので すが、和集合の中には様々な変異があります。ジェームス・ジョイスの『フィ ネガンズ・ウェイク』を読んだことがありますか? マラルメの詩を読んだ ことがある人? ジョイス、言葉遊びから成っていて、ほとんど訳が分から ないですね。もちろんジョイスの『ダブリン市民』だと非常に写実的でわか りやすい英語を使っていますから、これは読めます。ところが『フィネガン ズ・ウェイク』になるとまるでわからない。新聞が共通部分を求めるのに対 して、本というのは、このような領域では、最大集合として和集合の範囲を 拡散させる働きを持ちます。

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 日本では、だいたい発行部数の多い新聞というのは全国紙が3つに日経で すね。そして各都道府県に地方紙のメジャーなものが一紙あります。なぜ都 道府県に一紙なのでしょう?(「県の中で必要とされる情報があるから。」)

実は、第二次世界大戦の時に、軍国主義の中で言論統制のために無理やり政 府が新聞をまとめて、各県に一個だけ大政翼賛新聞を残したのです。それが 残っているわけです。

 それからもう一点。今、日本で一年間に出版される本の点数はどのぐらい ですか? 固有名と数値と、それから論理的に構成された言語表現というも のは、実はとても大切です。政治的な要請をするために外務省と交渉に行く ときとか、国際会議に出てほかの研究者と議論をするときとか、それから契 約や何かのとき、嘘をついているセールスマンの嘘を見破るときにとか、そ ういうときには、数値と固有名と、論理的な言語の構成はかなり大切で、数 値だけでも、足し算して小学校の時に習った検算をしてみると、セールスマ ンの嘘が分かったりということはたくさんあります。さて、一年間に今日本 では大体8万点ぐらいの図書が出版されています。とても大きな数です。そ れから一番最初に少しお話ししたテレビの問題に戻って対比的に考えてみる と、本について特徴的なのは、広告がないことです。もちろん後ろにちょっ と紙が余ったらあるのですけれども、自分の出版社のものです。つまり、本 を読むとき、経済構造としては、少なくとも我々が売りものになっている訳 ではない。

 さて、この講義の流れの中で、本の役割とは大体こうです。そもそも言語 を作ったのは本である。その上で、言語の共通部分は新聞と初等教育が担っ ている。ところが、言語の最大集合は、本が担っている。これが実は社会的 な構成なのです。その中で私達は、そのごく一部に相当する、新聞が担って いる共通部分に基づいて話し言葉というものを環境に埋め込まれたかたちで 一次言語として学び、その上で学校教育か何かでその共通部分を少し広げる かたちで二次言語・学習言語というのを身につけるわけです。

6.本・教育・学習 6.1 本と教育

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 さて、以上をふまえ、本は教 育にとって大切か? という話 を考えてみましょう。第一に、

社会的に言うと、今の日本語と いうのは本がなければ成り立た なかったという意味では大切で す。今の英語もそうです。英語 なんていうのは、ドライデンと

かあの辺の人たちが作っていて―少なくともヴォルテールはそんなことを 言っていて―、いまやシェイクスピアを読んでみると、英語の母語話者は何 でこんなに平凡な表現ばかり使っているんだろう、と思うらしいのですが、

これは逆で、英語というものがシェイクスピアを取り込んで成り立ったから そうなっている。

 従って本というのは―ちょっとここでは個人と社会の役割を区別せずにま ず行きますと―二次言語・学習言語の確立―これは個人的な問題です―そし て社会的にはひとつの言語の確立に関係しており、それが教育にとっての本 の大切さの大元にあるものです。

 では、これは何でしょうか。これはつまり、みんな画一的になるという方 向です。みなさんこのぐらいをやっておかないと後で損しますよ、少し民主 的によく解釈すると、そういうところです。ちょっと話がそれますが、朝10 分間の読書運動やブックスタートはどう思いますか?朝の10分間の読書運動 は好きですか?(「好きじゃないです。」) ブックスタートはどうですか?

(「ブックスタートの方がまだ・・・」)私はどちらも嫌いで、そういう点で は学校も嫌いで、学校教育も嫌いで、学校図書館も嫌いで、学校の存在をほ とんど必要としていない家庭で育ったという傾向があるので―本当は嘘なん ですよ、学校は大切です―これらのことはすべて苦手です。

 けれども、とりあえず学校は大切です、学校で学ばないとあとで損をしま すから、というかたちで割り切るとすると、本は教育にとって大切です。朝 10分間の読書運動というのは、教育としての本に関する位置づけとしては、

個人的な好き嫌いは別にして、やり方としてはありかな、という気もします。

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でもこれは、あくまでも、あなたたちが、別の言語をでたらめに使うように なって、それが私達にわからないと困るから、私たちの言葉をきちんと覚え てください、という方向性の一環です。つまり押し付けです。一方で、今度 は、自分たちの自主的な観点からいきましょう。自主的な観点から、本は学 習にとって大切か?

6.2 本と学習

 学習と教育いうのは本質的に 別です。教育というのはみんな を画一化するものであって、

従って自主性を伸ばす教育とい うのは語義矛盾だと私は思いま す。そもそも、赤ん坊の頃から 親が私達は子どもに対して自主 性を伸ばす教育をしますといっ

て、言語をちゃんと伝えなかったら、自主性といっても泣き叫ぶしかないん ですね。これは赤ん坊に生きる力をつけるな、と言っているのと同じです。

だから、どうしても強制的にある種の本能ではカバーしきれない社会的な約 束事を教育として教えることが必要です。

 でも学習はそれと少し違います。学習とは何か。教育が本の中で共通部分 の押し付けだとしたら、学習はそれを押し付けられて気に入らないという人 たちがそれに対して、それを踏まえながら、別のものを別のところから取っ てくるためのものです。ここでもう一度言語の話に戻って、実は、このぐら いの層の学習言語の知識がついていたら、さきほど一番最初の時に英語と日 本語とそんなに変わらないんじゃないか、といった感覚にちょうどのっとる 形で、読むものは日本語である必然性が全くなくなります。

 ちょっとこれは飛躍しすぎなので、少し間を埋めましょう。まず、ありう る表現と知識の最大集合を獲得する、あるいは最大集合を想定した上で自分 の好みのものとか自分に合ったものを獲得する、これが学習側の基本的なイ メージです。共通部分を無理やり押し付けられるのとは随分違いますね。こ

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れを本以外の他のメディアでやることができるでしょうか? 実は、残念な がら今のところできません。どういうことかというと、本以外のほとんどの メディアは分かりやすいからです。分かりやすいと言うのは分かっていると いうことで、限りなく分かっているということに近くて、分かっていること はすでに学んでいることで、学んでいるのはどこで学んだか、共通部分を教 えられる部分で学んだものです。したがって、そんなものをわざわざ学習す る必要など定義上あり得ないし、現実的にもない。

 では学習にとっての本のポイントは何かというと、わからないということ です。数学の教科書とか、先ほどのジョイスの小説とか、一回読んでも訳が わからない。わかりやすいということに抵抗して平然とわからないヘーゲル の精神現象学というのは、全くわかりません。

 ここでのポイントはいくつかに分解できます。まず本というのは学習のと きに絶対的にわかりにくいこと。わかりにくいというのはどういうことかと いうと、共通部分ではなくて、人と差異化できて自分がわかっている、仮に マスターできたら自分がわかる、そういうことです。ですから、わからない ことが重要で、すでにわかっているならば、何一つおもしろくもおかしくも ありません。

 ただし、これは結果としての知識から見た特徴付けであって、学校図書館 の人などが、いろいろ本を読むことが大切だと言っている場合、そこでは読 書のプロセスが問題となっているわけですから、ちょっと違います。プロセ スの観点から本の何が大切かというと、まず一つめは、分からないリズムの 確立です。

 ここでさきほどの外国語と日本語の差異というのがどんどんなくなってく ることに注意して下さい。いずれにせよ難しい内容は日本語でだってわから ない、わからないことについてわかろうとするために何をしなければならな いかというと、わからないでも読むという力が必要です。

 ところで、中身がわからないときには、何を読むのでしょうか? 表現を 読むのです。言葉を読むのです。中村先生、これを読んでみてください。(読 めない。) これは私が自分で書いて変換してるから私は読めるんですけど、

他の人は読めない。でも、一文字一文字意味は分からなくたって、漢和辞典

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を引けば読めるわけです。漢和辞典を引いて読んだら、それがひとつの論理 表現として心に残って、その上で新たな表現の可能性が広がります。こう言 われると、嘘じゃないか、という疑問を持つ方もいると思います。けれども、

よく考えてみると、一次言語としての母語の習得は、そうやって成り立ちま す。言葉を身につける前は、定義上、言葉の意味なんてわかるわけがないで すね。言葉を持っていないんだから。ということは、言葉を身につけるとき は何をしているのかというと、ただ言葉を身につける。言葉のかたちを身に つけて意味は後からついてきます。ポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・

デッサン』という本の中に興味深い下りがあります。ドガがマラルメに、「考 えはたくさんあるんだ、ありすぎるほどあるんだ。でも、詩が書けない」と いったところ、マラルメが「でもね、ドガ、詩は考えで書くものではないん だ、言葉で書くものなんだ」と答えた、というのです。読むときも同じで、

本は考えを読むものではなく、言葉を読むものです。関係ありませんが、大 学院生が、英語の論文を色々読んでいるはずなのに、自分では全然書けない。

これもやはり、言葉を読むことができていないからなのではないか、と思い ます。確証はありませんが。

 母語について生活の中でたどったのと同じように、書かれて歴史的に集積 されたあらゆる表現に対してその表現を自らなぞる可能性をメディアとして 唯一保持しているのが本だ、ということになります。従って、このときに本 を読むというのは、中身を読むということではなく表現を読むことでなくて はなりません。こう言うと怒られるのですが、全く中身は読めなくても表現 は読めなくてはならない。従って、名作のさわりだけを読もうとか名作の要 約、あれは意味を取るために読むので、ああやって読んでもその作品を読ん だことにはなりません。

 これらは、話し言葉との対比および教育との対比からのお話しですが、も うひとつ、現在様々にある様々なメディアとの対比で本の特徴を考えること もできます。このとき、本の大きなメリットの一つとしてローテクだという ことが挙げられます。例えば、映画を見て感動した、この映画を自分でもう 一度再現したい、と思ってもできないのですね。写真でも建築でも彫刻でも 絵画でもそれをもう一回自分で再現したいと思ってもできません。

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 ところが、本の中心は言語表現で、言語表現というのは非常に単純な離散 系の表現から成り立っているので、これは簡単に再現できます。頭の中でで も書き写してでも。さらに、本の装丁まで再現しようと思っても、結構ロー テクでできます。この再現可能性が、あらゆるメディアの中で自分が単に需 要者であるだけではなくて、生産者であるための練習をするのに最も安直に、

お布団に入ってごろごろしながらできる、という意味で、実は労なしにでき る大変大きなポイントになります。

 表現を読むことをきちんと確立させ、生産者をシミュレートして表現を再 現することを覚えれば、英語だろうと日本語だろうとフランス語だろうと、

ちょっとした文法書を参考にして本はがんがん読めます。日本語で自分がわ かっている範囲の意味だけを拾い読みして満足している限りは他の言語は読 めませんが、表現のかたちを読めるようになると、多少馴染みのない言語で も、かなりの範囲で読めます。

 逆にそういうかたちで表現を読むことが確立したら、次はどうなるかとい うと、言語のひとまとまり性というものを解体して様々な実験的な言語を自 ら生産していく方向に向かうことができるんですね。それによって、言語が 違えば文化が違うから分かり合えないというアホなオヤジを軽蔑する余裕が 出てきます。さらに、ここまできたら新聞読んでないの? という人たちに 対して、え? あんたまだ共通部分にこだわっているの? そんなのもう30 年前に終わったよ、と言える余裕が出てきます。

 ですから、本来自分の個人的な学習のためには本というのは表現を読む、

わからないものをただ読む、そしてそれを生産の実験として読む。わからな いリズムとかそういうものを読む。そんなかたちになります。なぜこれが大 切かというと、非常に功利主義的にまとめると、世の中の問題の中で本当に 真面目に取り組まなきゃいけないというものは、その場でわかるようなもの はないことがほとんどなわけです。これは会社に行ってもそうだし、人間関 係でもそうだし、結婚して子どもができてもそうだし、学会の研究でもそう です。研究の中ですっとわかるようなものなんて研究する価値はないですね。

それから、会社の中で他の会社よりも一歩先に行ってお金儲けをしよう、と した時には、当然それは他の会社が経験していない、社会的に経験されてい

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ないものを世に出すということですから、そこではわからないリズムという ものがどうしても必要になります。それらのある種極めてローテクで、かつ 範囲として練習範囲が広いものが本だ、ということが少なくとも言語表現に 関しては言えます。ここのところは実は、学校教育で共通部分を学ぶ、とい うことの上に乗っかりながら、けれどもそれとは本質的に違うプロセスです。

個人にとっての位置付けも本質的に違います。もう一つは、今のところ、時 代を超え、空間を超えて最も広い範囲でコミュニケーションが可能なかたち で流通しているメディアは本だという点も重要です。

7.(学校)図書館

 さて、以上の枠組みの中で、

ついに学校図書館の課題という ところにきました。学校図書館 というのは一体、教育と学習の どちらにつくべきか? この選 択次第で、学校図書館の役割は まったく異なったものになりま す。共通部分を教える側につく

のか、共通部分の上に自分たちが勝手に何かを積み重ねて、共通部分を踏ま えながらもこれまでの共通部分を既得権益として生きている大人に対して、

軽蔑する立場を自ら大人として身につける立場につくのか。この選択は学校 図書館を全く違ったものにします。

 授業の補足として、というのは共通部分を強化するための学校図書館です ね。保健室と図書館というのが仮に類似のものとしてみなすことができるな らば、学校をさぼりたい時は少なくとも私の頃、皆さんの頃はよく分かりま せんが、よく保健室に行っていました。同じような形で学校をさぼってでご ろごろお茶を飲んだりするために図書館がある。こちらが学習場所としての 図書館です。このように学校図書館を考えるならば、図書館と保健室はもう ひとつ類似性があります。保健室には、少なくとも絶対的な基準を持った専 門家がいます。数百年間、数千年間続いてきた医学知の最低限の訓練を受け

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てきちんとした基準を持って資格を持った看護士さんなり何なりがいる、あ るいはそれに相当する人がいるというのが保健室の想定です。図書館はどう か? 本当は図書館も、自分達が学習のために使うというときには、人間の 言語表現的な限界や論理的思考能力の臨界について、数千年蓄積されてきた 中での絶対的な基準があるはずです。ところが学校図書館では、ほとんどの 場合、それが何なのか分かっていないんですね。類似のことですが、英語学 習に話を戻して言うと、圧倒的多数の英語教師は私自身はまったく役に立た ないと思っていて、それというのも、私がこれに関しては絶対基準にこだわっ ていて、ローレンス・スターンやシェイクスピア、ジョイスとかドライデン とか、スウィフトとか、フォークナーとか、そういうものを読んだこともな いような、たまたま英語の母語話者であるというだけの人間に言葉を教わっ たって全く役に立たないと思っているからです。

 本来学校図書館の司書というのは、人にとってそういう立場であるべきで、

つまり、英語教師としては、スターンもシェイクスピアもジョイスもドライ デンもスウィフトもキングジェームズ訳聖書も読んでいて、それなりの表現 は文字通り覚えていてという教師に相当する存在であるべきで、そのうえで、

だからうちは学校図書館でございます、従ってそんなつまらない本は置いて いません、と言い切れることが、逆説的ですけど、つまんない本と言われる ものを置いてもそれが本質的に生きてくる条件だと思います。

 学習と勉強の違いについて補足しておくと、学習の部分というのは、それ ぞれの人が、仮に社会が今の社会体系と全く別のものになったとしても何か 考えて自分の判断で生きて責任を取れる、というコアの部分を構築すること です。勉強というのは今の社会体系の中でそれなりに生きていきましょう、

ということで、この違いは、実は倫理と道徳といわれるものの違いにかかわっ てきます。

 最後に、本を薦めるならば、ということで、学校図書館員に質問してみま しょう。読まない方がいいもの、読んだ方がいいもの、どちらでもいいもの。

これは誰が一体判断して、誰が握るべきか。これは図書館についてはよく分 かっていません。でも、保健室に行ったときには―誤診はあるにせよ―、自 分では症状がわからないときには、保健室の人の判断をあおぎます。学習の

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ための図書館の絶対基準を示す、というときには、それに相当する判断が必 要で、それがあって初めてちゃんとした図書館が成り立つ可能性がある、と いうことになります。世界に存在するあらゆる本のなかで自分はこれが絶対 基準にかなったものである、という集合を定める意志を持たない図書館員が、

「利用者の主体性に任せるのがよい図書館」と称するのはまったく無意味な ことだと思います。図書館員は、世界に存在してきた本の集合(これはつね に有限ですから)について、誰よりもよく知った上でかつ価値についても誰 よりもきちんと判断できる存在であることを専門家として意志しなくてはな りません。それが不充分で誤っているかもしれないという謙虚さは、その自 負と両立します。自負がないから民主的にという立場は、それとはまったく ちがうものです。

 一番最後に言語の話に戻ると、このようにのべてきた世界の枠組みの中で は、個別言語の違いというのは、最終的には、一番最初にお答えくださった 方が、本質的には違わない可能性だってある、と言ったように、本質的には 違わなくなる可能性があります。最後の方は極めて抽象的でしたけれども、

大体これが言葉の配置から見た本の役割と学校図書館の役割ということにな ります。授業の補足的に、共通部分を担うものとしての学校図書館の役割以 外のところは、実は、ほとんどの図書館員や図書館学研究者が、本当は何を やっていいのか分からない状況なのかな、という気がしています。それでも、

学習のための図書館を想定するならば、図書館員は世界の知的集積を誰より もよく把握した専門家として、それも単に量を把握しているだけでなく質的 判断を誰よりも適切に下せるような絶対基準の擁護者でなくてはなりません。

 そういうと、独りよがりだとか非民主的だという非難を浴びそうですが、

そのような存在であることと権威主義的であることとは違います。そのよう な存在であることはむしろ、どこに行っても一人ぼっちであること、それに もかかわらず同時に話し相手でもあることです。現在は、図書館に限らず一 般に、絶対基準を擁護する知識への希求とそれを支える勉強が不足している 人に限って今、たまたま通用している権威によってその欠如をごまかそうと いう方向性ばかりが強く感じられるように思います。同様に、知識と勉強量 と責任ある意志決定の欠如を、利用者の「自主性」にすり替える、あるいは

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多数の人の「合意」にすり替える、そうした傾向も―残念ながら少なからず 見られる傾向ですが―、図書館にとっては自殺行為だと思えます。

(かげうら きょう。東京大学大学院教育学研究科准教授)

参照

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