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─瀬戸内海を中心に─

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1.はじめに

2.出島の三学者が見た瀬戸内海の水生生物 2. 1 ケンペル

2. 2 ツュンベリー 2. 3 シーボルト

2. 4 出島の三学者と瀬戸内海の魚介類 3.瀬戸内海産の標本に基づく記載

3. 1 シーボルトによる記載:ヘイケガニの事例 4.標本と図譜資料

4. 1 『衆鱗図』について

4. 2 『衆鱗図』と栗本丹洲の転写図に関する先行研究について 4. 3 栗本丹洲(瑞見)とシーボルトの出会い

4. 4 『衆鱗図』の西欧博物学への貢献 アサヒガニの事例 5.図譜資料にもとづく記載:イイダコの事例

6.むすび

1.はじめに

江戸時代の初期以降、幕府はキリスト教を禁じるとともに、貿易を統制す るため、オランダ以外の西欧諸国との通商を禁止した。1630 年代の一連の「鎖

西欧人による江戸時代の生物研究史

─瀬戸内海を中心に─

滝 川 祐 子

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国令」により、いわゆる鎖国政策が整えられた(トビ,2008;大石,2009)。

それ以降、日本は 1854 年の日米和親条約による開国まで、約 200 年の間、

この政策を維持した。この間、オランダ以外の西欧諸国にとって、日本は地 理的・空間的に離れた国であるのに加え、鎖国政策により接触もほぼ不可能 な国であった。

西欧では大航海時代以降、世界的な海洋貿易ルートの確立により、西欧以 外の異国からも大量の交易品が到達するようになった。異国からもたらされ た珍品・稀品は西欧人の好奇心を刺激し、珍重されるようになった。そのよ うな珍品・稀品には、美術品、工芸品だけではく、異国の動物(角、皮、毛皮、

甲羅など体の一部を含む)や植物(花、果実、種)も含まれた。やがてそれら を熱心に収集する王侯貴族、知識人などの中には熱心なコレクターも多く現 れるようになった。このようにヨーロッパ内外から様々な文物が収集・蓄積 され、博物学が発達した。

18 世紀後半、西洋の博物学は大きな転換点を迎えた。それはスウェーデ ンのリンネ(1707-1778)が、生物の種に対して二名法を用いて学名を与え、

自然界を分類して体系化を図ったことであった。リンネによる分類法は、同 時代の西欧人に熱狂的に支持された。リンネの弟子や信奉者は、世界中へ探 検旅行に赴き、あらゆる困難にもかかわらず、標本を収集しようとした(西村,

1997)。こうして、世界中の生物に対し、標本に基づく学名の記載が加速度 的に行われるようになった。

このような博物学の隆盛の中、西欧の博物学者は日本の動植物相にも非常 に高い関心を持っていたが、厳しい鎖国政策ゆえに、来日して調査すること は難しかった。それにもかかわらず、少数ではあるが鎖国中に来日した西欧 博物学者らによって、日本の生物相に関する資料と情報が持ち帰られるよう になった。リンネの時代以降に来日したツュンベリー(1743-1828)、シー ボルト(1796-1866)が収集した生物資料は、分類学的な研究資料として用 いられた。学名のない日本産生物に対し、標本に基づき二名法で学名が与え られ、種が記載された。特にシーボルトは膨大な数の標本を持ち帰り、その 中には、学名を担う根拠資料として用いられた標本(タイプ標本)が多く、日

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本の生物分類学のための重要な資料となっている(Boeseman,1947;山口,

1993,山口・馬場,2003;山口・町田,2003)。

このように生物標本の重視性は十分に認識されてきた一方、生物標本以外 の資料については、その学術的価値が見落とされがちであった。しかし、近 年の研究により、日本の書籍の絵図や博物図譜といった生物標本以外のもの が、西欧の博物学者によって日本の生物標本の代替資料とみなされ、活用さ れていたことがわかってきた(山口,2001;Yamaguchi and Holthuis,2001;

滝川,2008,2013)。

このような西欧人による江戸時代の生物研究史を調査すると、瀬戸内海の 生物の研究についての一連の疑問、すなわち、いつ、誰が、どのように記録 し、あるいは記載したのか、またその根拠資料が何であったか、という疑問 が生まれてきた。そこで本稿では、鎖国時代、西欧人による日本の博物学的 研究記録から、瀬戸内海にゆかりのある動物、特に魚介類について検討する。

さらに、生物以外の資料として、日本の絵図、特に瀬戸内海を代表する博物 図譜が生物学に果たした役割について考察する。

2.出島の三学者が見た瀬戸内海の水生生物

「出島の三学者」として知られるドイツ人ケンペル(1651-1716)、スウェー デン人ツュンベリー、ドイツ人シーボルトは、出島のオランダ商館の医師と して来日した。スウェーデンのリンネは、二名法を用いて種に学名を与え、

生物界を分類し、体系化を図った。動物学における学名は、1758 年のリン ネによる『自然の体系』第 10 版を起点とする。「出島の三学者」の中で、二名 法に基づき日本産の動物の分類と命名を行ったのは、1758 年以降に来日し たツュンベリー(来日:1775-1776 年)とシーボルト(来日:1823-1830 年)

である。一方、ケンペルが日本に滞在したのは 1690-1692 年で、リンネに よる二名法確立以前であったため、彼の業績に学名の命名は含まれない。し かし、ケンペルは鎖国時代の日本に関する学術的知見を西洋に伝えた、最も 初期の博物学者として重要である。3 名とも江戸参府を経験しており、その 道中に瀬戸内海を航行した。ここでは、彼らの著作、特に江戸参府の紀行文

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から、瀬戸内海の水生生物に関する観察や記録を抽出する。

2. 1 ケンペル

ケンペルは、1691 年春と 1692 年春の 2 回、江戸参府を経験し、『日本誌』

(1727)の中にその紀行文をまとめた。ケンペルは『日本誌』第 5 巻の江戸参 府の紀行文の冒頭に、「私は、この 2 回にわたる旅行中、毎日体験した注目 すべき事柄を、順を追って本書において記述しようと思うのである(以下略)」

と述べた。瀬戸内海の道中は、ケンペルの地理学・地誌学的観察に基づき、

詳細に記述されている。瀬戸内海の海洋生物に関し、1 度目の江戸参府の復 路、1691 年 4 月 30 日、仙島(山口県)から向島(山口県)に向かった日に「われ われは今日たびたび小さい鯨を見た。」と記録している(斎藤訳,1977)。こ れは周防灘におけるスナメリの目撃情報と考えられる。しかし、この件以外 には、ケンペルの紀行文中、瀬戸内海の水生生物に関する記述はみられな い。ケンペルにとって、江戸参府は出島を離れて日本を見聞する貴重な機会 であったため、観察・記録すべき事項が多かった。瀬戸内海の魚介類の記録 が欠如していることから、道中では、魚介類を十分に観察することができな かったか、特記すべき生物を見かけなかったことが推測された。

一方、ケンペルは『日本誌』(1727)の第 1 巻第 11 章において日本の魚介類 を紹介した。その冒頭で、魚介類が日本人にとって日常の食材として多く用 いられることを述べている。またこの魚介類の中から自分が現に見たり食べ たりしたものを名称とともに記すが、それは後に日本の食物と料理について 書く予定の文章の下書きである、としている。つまり、ケンペルは同書にお いて、魚介類を海産物とみなし、日本の食文化を紹介する土台としての執筆 意図を述べている。しかし、その記述は魚介類に関する食文化に加え、魚介 類の生物としての形態や生態、和名やオランダ名、魚介類を用いた民俗風習 についての伝聞も含んでいることから、博物学的な記述といえる。

ケンペルが『日本誌』の中で紹介した魚介類には、タイ、クロダイ、スズキ、

イトヨリ、サワラ、サヨリ、ボラ、等々、瀬戸内海でもよく見られる普通種 が多く含まれている。しかし、前述のとおり、江戸参府の紀行文に瀬戸内海

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産の魚介類に関する観察記録が欠如している点と、本文中に散見する地名か ら判断して、長崎周辺を中心に九州での見聞に基づく魚貝類の記述であると 考えられる。例えば、ボラについて「からすみ用の鮞(はららご)を持つ鰡が 野母崎の沖合で捕れるので、長崎はからすみの産地」、サヨリは「長崎で鈴魚

(すずのうお)という」、タイラギは「最上のものは Arima 湾(有明海)に棲息」

と記されている。長崎以外の産地が明記されている場合もある。例えばハマ グリの産地である桑名、タカアシガニの産地である駿河湾、等々の事例であ る。それらを除いて、産地の記載がないものうちの大半は、長崎とその周辺 地域で捕れた魚介類について記述していると思われる。

また、『日本誌』の中に魚介類の図版があるが、それらの図版は、中なかむらてきさい が編集した『訓きんもう』(1666 頃)の第 2 版から転写されたものである(上野,

1987:127)。『訓蒙図彙』は、日本最初の百科図鑑で、各図に簡単な漢文の解 説が添えられ、その図はシンプルながら生物の特徴をよくつかんでいる。上 野益三(1987:126)は、「その描き方も中々生態的で、若干のものを除けば、

動物の形態を科学的に表現するのに成功し、すぐれた動物図譜をなしてい る。」と評価している。転写された『日本誌』の中の図には、ハモ、イカ、タコ、

ガザミ、タイラギ、等々、瀬戸内海でもよく見られる魚介類が含まれている。

これらの図はケンペル自身の転写ではなく、ケンペルのドイツ語原稿を英訳 したショイヒツァーが、ケンペル収集の日本書籍から図を活用して編集した ものであるという(ブラウン,1996:220)。一部、魚類図とローマ字で書か れた名称が一致しないというミスがあるものの、ショイヒツァーが転写した 挿絵のおかげで、日本産の魚介類は、『日本誌』の中で大まかな形態もあわせ て、わかりやすく紹介されたといえる。

先に述べたように、ケンペルはリンネの二名式の学名命名法の確立より古 い時代の博物学者であるため、ケンペルが紹介した魚類と学名との関係はな い。しかし、ケンペルの『日本誌』は、動植物の紹介を含めた鎖国時代の日本 に関する貴重な情報源として、後々まで重要な文献であった。

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2. 2 ツュンベリー

ツュンベリーは「分類学の父」と称されるリンネの弟子である。そのため、

彼が日本の動植物を研究し、二名法に基づき学名を与え、記載した種には、

記載の年代が古くても、今日も学名が有効なものが含まれている。ツュンベ リーは植物学者として有名であるが、昆虫や魚類等の動物学においても業績 がある。

ツュンベリーは全 4 巻の旅行記“Travels in Europe, Africa, and Asia, made between the years 1770 and 1779”(スウェーデン語原著:1788-1793;英訳:

[1793]-1795)を執筆した。その中の第 3 巻と第 4 巻の一部に、日本の旅行 記や日本研究をまとめ、記している。彼は 1775 年 8 月に来日し、1776 年春 に江戸参府に随行した。その後、彼は 1776 年 12 月に長崎を去った。

ツュンベリーの旅行記のスウェーデン語原著から、日本滞在部分を翻訳し た『江戸参府随行記』(高橋訳,1994)には、彼が道中に日本の自然誌をよく 観察していた様子が記録されている。しかし、その中から瀬戸内海沿岸の部 分に限ってみれば、植物の記録に比べると、動物の描写はかなり少ない。往 路、下関の部分では、海岸で岩海苔と呼ばれる海藻のアオサ属植物

Ulva

に ついて、乾燥し、火にあぶった後ごく細かい粉末にして、味噌汁に入れて食 べると記している(高橋訳,1994:113)。このほか、ツュンベリーは瀬戸内 海の風待ちの港である御手洗[広島県呉市の芸予諸島、大崎下島]でシガキ[イ シガキ?]という地元産の牡蠣の一種を食し、おいしかったと記している(高 橋訳,1994:124)。また、船舶で有害なフナクイムシ

Teredo navalis

の防 虫対策について観察し、記録している(高橋訳,1994:124)。

ま た 往 路 の 兵 庫 ま で の 道 中、 何 種 類 か の 鴨 類、 特 に オ シ ド リ

Anas galericulata

(=

Aix galericulata)が群がる様子を観察している。しかし、

これら以外、瀬戸内海での動物の記録は見当たらない。特に復路では、大阪 で鳥通りを見たことを記すのみで、兵庫からすぐ下関到着となっている。

江戸滞在中に、ツュンベリーは多くの日本人の訪問を受けたが、彼らは 多くの自然史標本や珍品を彼に贈った。その中に「讃岐地方の小豆島で採れ る赤い厚い『ジュクツ』というハイドロサンゴ(ママ)

Millepora

も含まれてい

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た」(高橋訳,1994:190)。この該当部分の英訳版は第 3 巻の“a thick red Millepora, from the island Sjosusima, in the province of Sannoki, Djukuts”

(Thunberg, 1795: 204)に該当する。ジュクツという地方名は不明であるが、

備讃瀬戸海域で赤く厚いサンゴというと、オノミチキサンゴと推定される。

オノミチキサンゴは環境の変化により激減し、絶滅が危惧されたが、近年、

備讃瀬戸海域の男木島での群生が確認された(2009. 8.さぬき市雨滝自然科 学館展示より)。ツュンベリーが記録したサンゴ標本の有無は不明であり、

記述だけではオノミチキサンゴであるという種の同定はできないものの、18 世紀後半、江戸時代の備讃瀬戸海域における生息情報として貴重な記録とい えよう。

この他、ツュンベリーは「日本の自然誌」と題する項を設け、日本人が広大 な海の深いところからも極めて熱心に魚類を収集していることに着目した

(高橋訳,1994: 316)。この記述は、日本人の漁業と魚食文化がツュンベリー に強い印象を与えたことを示唆している。ツュンベリーは多くの魚類をアル コール漬けにしてバタビア、オランダと祖国スウェーデンに送ったが、その うちの多くを送付途中の事故で失った。ツュンベリーは失った魚類のうち、

分かっているものを記録している。それらの魚類は、サケ類を除いて、長崎 で入手可能な普通種が多い。瀬戸内海でも採れる種も含まれているが、江戸 参府の道中、瀬戸内海での魚類に関する記録が極めて少ないことから、長崎 滞在中に入手したと考えられる。そのほか、「出島で持ち込まれ、食物とし て売られているもの」として、からすみを紹介した。その他、出島の項では、

マツカサウオ、フグ、マハタについて書いている(高橋訳,1994: 74-75)。ツュ ンベリーは標本に基づいて日本産魚類を記載しているが、その中にオニカサ ゴがある(Motomura, et al., 2011)。このように、記載に用いた日本産魚類 の標本は、長崎で入手したものが多かったと考えられる。

2. 3 シーボルト

シーボルトは、江戸時代に来日した西欧人の中でも最も有名な人物であろ う。シーボルトは出島のオランダ商館の医師として日本に赴任したが、オラ

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ンダ東インド植民地総督から、日本の博物学に関する総合的な資料収集の使 命を受けた(栗原,2009:21-22)。その任務遂行のために、自然史標本を 中心に、日本研究の資料を総合的に、また大量に収集した。シーボルトの『江 戸参府紀行』(斎藤訳,1967)は、博物学的使命と彼自身の自然科学への深い 関心を反映し、地理、歴史、地形、地質、気象、動植物、文化風習と、あ らゆる自然現象や文化的事象を観察した記録である。1826 年 2 月 15 日に出 島を発ち、往路での瀬戸内海通過は、同年 2 月 22 日の下関到着から 3 月 9 日 朝の室(室津)出発までである。室からは陸路を大阪まで移動した。復路の瀬 戸内海通過は同年 6 月 14 日の大坂から 6 月 30 日下関出発までである。以下、

シーボルトの瀬戸内海の紀行文から、瀬戸内海にゆかりの深い水生動物や自 然史の観察記録を抽出する。

【往路】

○ 2 月 23 日、下関:門人からヘイケガニを含む天産物をもらう。門人から、

壇ノ浦の海戦で沈んだ平家一族の話を聞く。早鞆:海岸でヒトデ、ウニ、

カニ、カイ、ハボウキガイ(イガイ)を門人、ビュルガーに採集させる。

○ 3 月 4 日、屋代島の東南端、牛の首崎:象[ナウマンゾウか]の臼歯の化石 を発見。播磨灘の小豆島で、象の化石の骨がよく発見されることを聞く。

○ 3 月 6 日、日比:海岸でイカ類のバイ貝による漁法[イイダコ釣り]を見る。

○ 3 月 11 日、兵庫:塩漬けしたイカの卵をもらう。

【復路】

○ 6 月 21 日、日比半島と讃岐の海岸の間[備讃瀬戸]、海底で貝混じりの砂地 を確認。与島の村で人々が船の周りで藁を燃やし、火でフナクイムシから 船を守る様子を見る。

シーボルトの江戸参府紀行全体としては、旅先で見た日本の動植物の記録 が詳細に記録されているのに対し、瀬戸内海の通行中には、瀬戸内海の魚介 類に関する記録がかなり少ないといえる。

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2. 4 出島の三学者と瀬戸内海の魚介類

ケンペル、ツュンベリー、シーボルトによる江戸参府の紀行文には、瀬戸 内海の道中について詳細に描かれているが、その中に魚介類に関する記述は 極めて少ないことが分かった。その理由として、大きく 2 点の理由が考えら れる。1 点目は、行動上の制約である。3 人の西欧博物学者は、江戸参府随 行という目的のもと、瀬戸内海の海上を船で移動していたため、彼らが自由 に生物を採集したり、市場で魚介類を購入することができなかったためであ る。もっともシーボルトはこの点を補うため、門人らを同行させ、自分の代 わりに自然史標本を収集させていた。2 点目の理由として、瀬戸内海の魚介 類に特化した研究や観察目的がそれほど強くなかったことがあげられる。江 戸参府の道中の体験は(ケンペルの 2 度目の参府を除き)全てが初めての体験 であった。彼らの鎖国日本に関する観察対象が自然科学だけではなく、人文 社会学的な面まで多岐にわたっていたことは、それぞれの紀行文が示してい る。彼らは植物への関心が非常に高かったため、植物への情熱と比較すると、

魚介類の優先順位は低かった。また、彼らが日本で滞在した長崎周辺の海産 魚介類が豊富であったため、内海ではあるが、同じ海産の瀬戸内海の魚類に さほど注目していなかったとも思われる。これに対して、紀行文から琵琶湖 や箱根の淡水魚類には注目していたことがわかる。

このように、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトは瀬戸内海産の魚類を積 極的に採集することができなかったと思われる。彼らは紀行文や論文などの学 術文献に日本産の魚類について記述したが、結果としてその魚種の中に瀬戸 内海にも生息する魚種が含まれており、西欧に紹介されていたといえよう。

3.瀬戸内海産の標本に基づく記載

シーボルトは、助手のビュルガー(1806-1858)が収集した標本を含め、

標本を用いた研究を 3 名の専門家に依頼した。しかし、ごく一部ではあるが、

シーボルトが自分で論文を執筆し、来日直後に記載した種が甲殻類のヘイケ ガニであった。その上、その記載は瀬戸内海産の標本に基づくものであった。

ここでは瀬戸内海にゆかりの深い種であるヘイケガニの研究史を、生物標本

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を用いて種を記載した事例として取り上げる。

3. 1 シーボルトによる記載:ヘイケガニの事例 ヘイケガニの名称は、瀬戸内海を舞

台とした源平合戦の平家に由来する。

本種の最大の特徴は、まるで目をつり 上げて激怒した人面のように見える甲 羅の模様である(図 1)。また瀬戸内海 に多く生息することから、源平合戦の 後、敗者となり瀬戸内海に沈んだ平家 の武士たちの怨念がカニと化した、と いう伝説が生まれた。シーボルトは『江

戸参府紀行』の中で、江戸参府の道中、下関にてヘイケガニの標本を贈呈さ れたことや、平家の伝説について記し、関心を示している(斎藤訳,1967:

89-90)。ヘイケガニは瀬戸内海に多産するが、実は瀬戸内海以外にも広く 分布する。太平洋側では駿河湾から土佐湾にかけ、日本海では石川県以南、

また韓国と中国北部に分布することが知られている(武田ほか,2011)。

シーボルトは 1823 年 8 月 12 日に長崎の出島に到着した(石山・宮崎,

2011)が、その約3か月後の 11 月 11 日に、ラテン語の論文「日本博物誌」を 書き終えた。そのタイトルは“De historiae naturalis in Japonia statu, nec non de augment emolumentisque in decursu perscrutationum exspectandis dissertation, cui accedunt Spicilegia Faunae Japonicae”(日本国博物誌─直 ちに役立つ論文ではなく、やがてこれを基礎にして日本の動物観察集を増す ような研究のなされることを期待する論文)であった(酒井,1975:21)。シー ボルトは、商館長ヤン・コック・ブロムホフが収集していた標本の活用を許 可されたため、来日直後にこの論文を執筆することができた。そしてシーボ ルトが乗船して来日した船で、コック・ブロムホフがバタビアに戻る際、本 原稿が委託され、1824 年にバタビアにて出版された。なお、この論文には 誤植が多かったため、1826 年にビュルツブルクで再販された際に訂正され

図1.ヘイケガニの標本

(産地:小豆島、大部沖)

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た(酒井,1975:21;山口,1993:50-51)。

この論文は全 16 ページで、合計 25 種が記述された。その中で甲殻類は、

新種が6種記載されたほか、既知種は8種含まれ、合計 14 種が記述された

(山口,1993:126)。この論文中、シーボルトは前述のコック・ブロムホフ が収集した下関産(Zimonozeki)の標本に基づき、Dorippe japonicaとして 新種記載した。本種の和名が、瀬戸内海で多産するヘイケガニである。シー ボルトは学名の横に「Japonice Heike Kani」と記し、「日本語で平家カニ」と 補足した。また脚注のシーボルトの記述は 4 行と大変短く、図もないが、こ の学名が現在でも有効である。

その後、『日本動物誌 甲殻類編』を担当したデ・ハーン(1801-1855)は、

ヘイケガニを本文の 122 ページに報告した。デ・ハーンは、本文中に和名の

「ヘイケガニ」を日本の活字を用いて示したが、横書きの文章中に、日本の縦 書きを尊重したせいか、文字が左に 90 度回転している。

Japonice dicitu ヘイケガニ Heike gani. Heike, antiquae cujusdam stirpis principum Japonensium nomen.

この部分の大意は、「日本語でヘイケガニと言われる。平家は、日本の古 い家系の支配者の名前である」となる。デ・ハーンは和名の由来や歴史に関 して、シーボルトの論文(von Siebold,1824: 14)とビュルガーのメモを参照 したと考えられる。またビュルガーのメモには、本種が夏に長崎周辺で地 引き網で捕獲されることや生体の体色が記されている(ホルサイス・酒井,

1970:116)。デ・ハーンはこのメモを参照し、本の末尾に「長崎で生きて いる時の色は赤味を帯びた紫」と記述した。よって、デ・ハーンが体色を描 写したシーボルトとビュルガーの収集標本は、長崎産と考えられる。山口

(1993:300-303)はライデンの国立自然史博物館、フランクフルトのゼン ケンベルク自然史博物館、パリの国立自然史博物館に所蔵されているシーボ ルトとビュルガー収集のヘイケガニの標本について、写真を掲載して報告し た。それによると、ライデンには液浸標本が 11 個体、乾燥標本が 18 個体、

加えて口器の標本が確認された。また、交換または売却された標本は、ゼン ケンベルク自然史博物館に液浸標本が 1 個体、パリの国立自然史博物館に乾

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燥標本が 1 個体存在したため、3 博物館合わせて、液浸標本 12 個体、 乾燥標 本 19 個体、合計 31 個体が保管されていたことが明らかになった。

本種の図は『日本動物誌 甲殻類編』の図版 31、fig.1 に掲載された。図版 を担当したのは図版下のサインから、ムルダー(1804-1841)と確認でき る。彼はライデン大学で自然科学の博士号を得た後、画家になった(山口,

1993:722-723)。彼はシーボルト・ビュルガー標本の観察に基づき、科学 的な図を描いた。ムルダーが作成した図版は、動物学を修めた知識に裏打ち されており、精密でかつ美しい生物図である。ムルダーの図版以外に、デ・

ハーンは参照した図として“Suiken, Tab. pict. Crust. Jap. fig. 41. 42.”と記し た。これは「栗本瑞見の日本の甲殻類の画集、fig. 41, 42」の意である。この 日本の画集については後述する。

その後、分類学的再検討が重ねられるにつれ、属名の見直しが行われた。

Holthuis and Manning(1990)は属名

Heikeaを提唱した。しかし、Heikea

の 属名が 1934 年に Isberg によって先取されていたことから、Ng, et al.(2008)

は そ の 置 換 名 とし て、 新 属 名

Heipeopsisを 提 唱 し た。 現 在 の 学 名 は、

Heikeopsis japonica

(von Siebold, 1824)である。つまり、シーボルトが新種 記載したヘイケガニの学名は、属名の見直しはあったが、現在も有効なので ある。そして、シーボルトの記載は、瀬戸内海と日本海をつなぐ交通の要衝 である、下関産の標本に基づくものであった。

4.標本と図譜資料

シーボルトと、1825 年にジャワから出島に派遣された助手のビュルガー は、膨大な数の自然誌標本を収集し、オランダに送った。その後、エビ・カ ニを含む甲殻類の研究は、ライデンの国立自然史博物館の無脊椎動物のキュ レーター、デ・ハーンが担当した。デ・ハーンは、研究成果を『日本動物誌 甲殻類編』(1833-1850)にまとめ、多くの新種を記載した。生物標本の精 査に加え、デ・ハーンはシーボルトらが収集した日本の博物図譜を資料とし て参照していた。ここではそのような日本の資料から、瀬戸内海の文化財で ある『衆しゅうりん』の事例を考察する。

(13)

4. 1 『衆鱗図』について

『衆鱗図』は高松藩松平家第 5 代藩主松平頼よりたかの命により 18 世紀半ばに制 作された、魚介類を中心とした博物図譜である。頼恭は博物趣味を持つ大名 として有名であった。頼恭が平賀源内に博物図譜の制作を命じたことが文献 に記録されていることから、源内の『衆鱗図』への関与が指摘されている(城 福,1976)。また『衆鱗図』の見事な描写は当時から高い評判を呼び、宝暦 12 年(1762)に第 10 代将軍徳川家治に『衆鱗手鑑』を献上した記録が残っている

(香川県教育委員会編,1979;磯野,1994)。さらに城福(1976)と磯野(1994)

は、第2帖の表紙が破損した箇所に記された装丁・製本の日付である「明和 四年(1767)」を、制作年代の下限を推定する根拠として指摘した。

『衆鱗図』の魚介類は非常に精緻に描かれており、その描写力や用いられ た技巧の高さにより、従来から高い評価を受けてきた(城福,1976;芳賀,

1981;荒俣,1985;木村,1988;磯野,1992)。『衆鱗図』の図録全 4 巻と研 究編の写真から、見事な描写であることが伝わってくるが、特別展示等で原 本を見る度に、細部にわたる精緻な描写と写実性の高さに驚き、目を奪われ る博物図譜である。

4. 2 『衆鱗図』と栗本丹洲の転写図に関する先行研究について

栗本丹洲(1756-1834)は、江戸本草学草創期の中心人物である田村藍水

(1718 - 1776)を父に、田村元長(1739-1793)を兄とする本草学の名家に 生まれた。後に幕府医官の栗本家の養子となり、4 代目の瑞見となった。号 が丹洲であった。丹洲は幕府の奥医師を務めた。動植物の優れた写生図を多 く描き、特に『千蟲譜』という、当時あまりなかった昆虫図譜を残すなど博物 学上の業績で有名である(上野,1987;磯野,1994)。

上野益三(1987:363)は、デ・ハーンが『日本動物誌 甲殻類』において、シャ コの記載に栗本丹洲の『蟹蝦類写真』を引用していることを指摘した。このよ うに、丹洲の図譜がデ・ハーンによって引用された業績は、以前から指摘さ れていた。

磯野直秀(1994)は、『衆鱗図』の転写の経緯を詳細に研究した結果、『衆鱗

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図』が江戸時代の博物誌に対して大きな影響を与えていたことを明らかにし た。この中で磯野は、後藤梨春(1696-1771)と栗本丹洲が『衆鱗図』を大規 模に転写したこと、特に丹洲が『衆鱗図』に描かれた魚介類を、忠実かつ精密 に転写したことを、詳細な分析結果とともに示した。

山口隆男(1993,2001)は、シーボルトが日本から持ち帰り、オランダの ライデン大学図書館が所蔵する『蠏蝦類写真』について詳細に分析した。そし て、栗本丹洲(瑞見)がシーボルトにこの図譜を贈ったこと、そしてデ・ハー ンが『日本動物誌 甲殻類編』の中で『蠏蝦類写真』を活用したことを写真とと もに報告した。また丹洲の博物図を多く含む図譜として知られる東京国立博 物館所蔵の『博物館虫譜』と『蠏蝦類写真』とを比較し、転写の経緯を示した。

そして『博物館虫譜』に含まれる丹洲の図の多くに、『衆鱗図』からの転写が含 まれていることを指摘した(山口,2001)。

滝川(2008)は、香川県歴史博物館(現、香川県立ミュージアム)に保管さ れている『衆鱗図』第 3 帖の甲殻類と、ライデン大学図書館所蔵の『蠏蝦類写 真』を比較検討した結果、『衆鱗図』の甲殻類図の一部が転写を経て、『蠏蝦類 写真』としてシーボルトによってオランダに持ち帰られていたことを報告し た。さらに、『日本動物誌 甲殻類編』を執筆したデ・ハーンが、『蠏蝦類写真』

を参照しており、その参照された図にも『衆鱗図』を由来とする図が含まれて いることを確認した。

4. 3 栗本丹洲(瑞見)とシーボルトの出会い

シーボルトは 1826 年(文政 9)、オランダ商館長の江戸参府に随行した際、

江戸滞在中に栗本丹洲(瑞見)と面会した。シーボルトは『江戸参府紀行』の 1826 年 4 月 25 日の出来事に、以下のように記している。

幕府の本草家栗本瑞見(Suigen)はたくさんの植物の絵巻とたいへん多く の日本や支那の魚類・すばらしい甲殻類の画集を私に見せてくれる。

(斎藤訳,1967:197)

シーボルトは多くの本草図譜を日本からオランダに持ち帰っているが、江 戸参府の記録から、栗本丹洲の魚介類の画集の素晴らしさに一際強い印象を

(15)

受けたことが示されている。『江戸参府紀行』には書かれていないが、この時、

シーボルトは丹洲に依頼し、この画集の写しを作成し、後に贈呈してもらっ たと思われる。ライデン大学に現存するシーボルト蒐集の図譜資料『蠏蝦類 写真』は、栗本丹洲からシーボルトへ、図譜が贈呈されたことを示す資料で ある。

『蠏蝦類写真』は甲殻類の図譜で 2 帙からなり、カニの図を中心とした 32 葉と、エビの図を中心とした 12 葉で構成される。シーボルトがオランダで 作成した『シーボルト蒐集日本図書目録』(1845)では、267 番が与えられ、「蟹 類寫真 桂川栗本瑞兀」とあるが、桂川は間違いである。また『セリュリエ 目録』(1896)には「1018.蟹鰕類寫真 Kai-ka rui siya-sin.」と記録されている。

4. 4 『衆鱗図』の西欧博物学への貢献 アサヒガニの事例

瀬戸内海に面する高松藩松平家が制作した『衆鱗図』が、転写を経てシーボ ルト『日本動物誌 甲殻類編』に参照利用された経緯を示すため、ここではア サヒガニの図を事例として取り上げることにする。

アサヒガニは瀬戸内海には生息しておらず、広島大学理学部附属向島臨海 実験所編『瀬戸内海の生物相Ⅱ』(1988)には「偶存種(偶来種)」として記録さ れている。アサヒガニはカニの中でも大きく、特徴的な形態を持つ。『衆鱗図』

にはアサヒガニの見事な図が描かれており、その描かれ方の特徴を比較し、

転写の経緯を追跡しやすい。また、『衆鱗図』のアサヒガニの図は、高松藩松 平家の『衆鱗図』の制作者らが、瀬戸内海に限らず、日本海域の生物に対して 広く関心を持ち、制作した博物図譜であることを示す良い事例である。そこ で、高松松平家所蔵『衆鱗図』、東京国立博物館所蔵『博物館虫譜』、ライデン 大学図書館『蠏蝦類写真』を、描かれた時代の古い順番に示し、転写の経緯を 検討する。

『衆鱗図』のアサヒガニ図には、付箋に「鎧蟹」と名称が書かれている。全体 的に見事な描写である上、細部まで精密に描かれている。例えば、甲羅の表 面の突起を細かく描くことで、甲羅の丸みを帯びた立体感が表現されている。

甲羅や歩脚の輪郭にびっしりと生えた毛の様子は細い線で丁寧に描かれてお

(16)

り、その毛を含めた図の輪郭を切り抜いて台紙に貼っていることから、立体 感がある。

東京国立博物館所蔵『博物館虫譜』のアサヒガニ図には、栗本丹洲による特 徴ある字体で「紅蟹 俗称鎧蟹 薩州方言朝日蟹」と書かれている。この図を 見ると、『衆鱗図』からかなり正確に転写していることが分かる。これは、日本 画の透き写しの画法を用いて転写したためと考えられる。甲羅などの着色が

『衆鱗図』よりもやや濃い着色となっているが、精密で見事な転写である。磯 野(1994)が指摘するように、『博物館虫譜』には丹洲が『衆鱗図』から正確に転 写した図が多く含まれている。これらを見たシーボルトが感服した様が容易 に想像できる。なお、『博物館虫譜』は、明治初期の博物学者である田中芳男 が丹洲の図を原本から切り抜いて貼付し、編纂したものである(磯野,1994;

山口,2001)。このため、『衆鱗図』と図の配置が変わったり、『衆鱗図』以外か らの転写図、丹洲以外の人物が描いた図が混在している。現在、『博物館虫譜』

は東京国立博物館の動植物データベースから画像が閲覧可能である。

シーボルトが持ち帰った『蠏蝦類写真』は、ライデン大学図書館の東洋文献 室に所蔵されている。アサヒガニの名称部分は、丹洲以外の字体で「七三」「ヨ ロヒガニ」と書かれている。「七三」の上方には、鉛筆書きで「73」と記入され ている。アサヒガニの図は、洋紙に描かれていることから、シーボルトが丹 洲に洋紙を渡し、転写を依頼したと考えられる。しかし、転写された図は、

丹洲による『博物館虫譜』の図と全く異なり、形態がかなりひずんでいるなど、

正確ではない。筆致や着色、転写の仕上がりから判断して、丹洲自身の転写 ではなく、別の人物が丹洲の図を転写したと考えられる。『蠏蝦類写真』のア サヒガニは、転写の技量は劣るが、鋏の向き、細部の描写から、丹洲による

『博物館虫譜』のアサヒガニを転写した図であることは確認できる。

シーボルトとデ・ハーンは『蠏蝦類写真』のアサヒガニ図を科学的資料と してみなした。図の下には、デ・ハーンが鉛筆でこの種を

Ranina dentata

Latr. ♂ と同定し、その上からシーボルトがインクで

Ranina dentata Latr.

と上書きしたことがわかる(山口,2001)。

デ・ハーンは『日本動物誌 甲殻類編』の本文 p.139 アサヒガニの記述中に、

(17)

西欧人による生物文献に続いて、“Suiken, Tab. pict. Crust. Jap. fig. 71-73.”

と記述した(図 5)。シーボルトは栗本丹洲(瑞見)を「瑞見(ずいけん)」と呼び、

“Suiken”と綴った。この部分は、「瑞見の日本の甲殻類の画集、fig.71-73.」 の意味である。前述のように、「73」は『衆鱗図』を由来とする『蠏蝦類写真』

のアサヒガニの図版番号である。『蠏蝦類写真』の 71、72 番の図は、『衆鱗図』

を由来とせず、出典が不明であるが、日本の本草図譜からのメスのアサヒガ ニの図(同一個体の背面と腹面の図)の転写である。

デ・ハーンは、『蠏蝦類写真』の文献と図版番号に続いて和名をカタカナ活 字で示し、その読みをアルファベットで綴り、その意味を訳している(図 5)。

ラテン語を訳すると、大意は次のようになる。「日本人はオスをヨロヒガニ と言った、Jorohi gani, i.e. Cancer loricatus[鎧をつけたカニ]、メスをアサ ヒガニ、Asahi gani, i.e. Cancer Sol oriens[登る太陽のカニ、つまり朝日蟹],

薩摩州の方言。」この部分の文章は、雌雄の解釈は別として、『博物館虫譜』の アサヒガニ図に書かれている「俗称鎧蟹 薩州方言朝日蟹」の正確なラテン語 訳である。『蠏蝦類写真』にはオランダ語の解説文があり、図に対応するよう 番号が与えられ、甲殻類の名称や産地に関する説明がある。Yamaguchi and Holthuis(2001:152)によると、これはシーボルトが 2 人の日本人に日本語 をオランダ語に訳させたものである。この解説文には 73 番のオランダ語訳 はない(Yamaguchi and Holthuis,2001;筆者確認)。しかし、『博物館虫譜』

のアサヒガニ図の日本語が正確にラテン語に訳されていることから、この部 分のオランダ語訳が存在していたことが推察された。

『日本動物誌 甲殻類編』のアサヒガニの図版 Tab.34-35(図 4)は、シーボ ルトとビュルガーの標本(図 3)をもとに、ムルダーが描いたものである。ム ルダーに作図させたのは、標本を精密に再現する、科学的な生物画が必要で あったためである。なお、分類学的再検討を経て、現在、日本産のアサヒガ ニの学名は、Ranina ranina(Linnaeus, 1858)である。

以上、アサヒガニ図に関して、要点を 3 点にまとめる。1)『衆鱗図』が栗 本丹洲により『博物館虫譜』へ転写され、それをさらに転写した図が、『蠏蝦 類写真』に含まれる。2)『蠏蝦類写真』はシーボルトが栗本丹洲から転写図

(18)

『衆鱗図』第 3 帖 鎧蟹 高松松平家歴史資料

(香川県立ミュージアム保管)

『博物館虫譜』紅蟹

俗称鎧蟹 薩州方言朝日蟹 東京国立博物館

『蠏蝦類写真』ヨロヒガニ ライデン大学図書館東洋文献室

©Leiden University Library Ser. No.1018, Kai-ka rui siya-sin 図 2.アサヒガニの転写事例。

『衆鱗図』から『博物館虫譜』、『蠏蝦類写真』への転写図。

(19)

をもらい、オランダに持ち帰った図譜である。3)デ・ハーンが『日本動物誌 甲殻類編』アサヒガニの項の本文に、生物文献として『蠏蝦類写真』の図を参 照したことを明記した。これらの 3 点を総合すると、『衆鱗図』が転写図を媒 介として、『日本動物誌 甲殻類編』に生物資料として参照されていたことが

図 3.アサヒガニの標本(一部)。

ナチュラリス生物多様性センター所蔵。

©Naturalis Biodiversity Center, Leiden, The Netherlands

図 4.『日本動物誌 甲殻類編』

アサヒガニの図版。

ナチュラリス生物多様性センター図書室所蔵。

© L i b r a r y C o l l e c t i o n , N a t u r a l i s Biodiversity Center, Leiden, The Netherlands

図 5.『日本動物誌 甲殻類編』アサヒガニの本文(部分)。

ナチュラリス生物多様性センター図書室所蔵。

©Library Collection, Naturalis Biodiversity Center, Leiden, The Netherlands

(20)

明らかになった。つまり、江戸時代、18 世紀半ばに瀬戸内海沿岸に位置す る高松藩松平家が制作した『衆鱗図』の図が学術的な価値を有しており、それ を 19 世紀前半の西欧人シーボルトやデ・ハーンが認め、日本の生物の資料 として参照した。このことから、『衆鱗図』は転写図を通し、19 世紀の西欧 の博物学の進展に寄与していたといえる。この事実は、『衆鱗図』の科学史上 の学術的価値を高めるのと同時に、『衆鱗図』制作の背景にある、江戸時代に 流行した博物学が果たしていた役割を再評価するものと考える。アサヒガニ 以外の『衆鱗図』の甲殻類図については、全体を詳細に分析し、別の機会に改 めて検討したい。

5.図譜資料にもとづく記載:イイダコの事例

イイダコは、瀬戸内海の住民にとって、馴染みの深い水産物である。イイ ダコは、成熟した大人の個体でも小さい。ここでは、瀬戸内海を代表するイ イダコの現在の学名と、その根拠資料について取り上げたい。

イイダコは、フランス人の生物学者であるフェリュサックとドルビニーが

『一般と個別の頭足類史』(1834-1848)の中で記載し、学名を与えた。この 年代からわかるように、江戸時代の終盤に出版された。

イイダコの学名は、日本の 2 つの文献、すなわち絵入り百科事典である『和 漢三才図会』(1713 頃)の記述文と、絵入俳諧書『海の幸』(1762)の図にもと づいて記載された。そして『和漢三才図会』に漢字で書かれた名称「飯蛸」(イ イダコ)が、中国語の発音により「飯蛸」fang-siao(ファンシャオ)と表記され たことが明らかになっている(Sasaki, 1929;Gleadall and Naggs, 1991;滝川,

2013)。また、『海の幸』の図は、絵師である勝間龍水が描いたものであるが、

標本の代わりに、特徴を記載するための資料として用いられたうえ、図も転 写された。つまりイイダコは、標本をもとに記載した種ではなかったのである。

佐々木望まどかは、日本近海産頭足類のモノグラフの中で、北海道大学所蔵の『魚 尽くし』(表紙を欠く『海の幸』に与えてあった仮の書名)と紹介し、このイイ ダコの絵に描かれている 2 点の特徴を挙げた。それは、第 2・3 腕の付け根 の膜状にある金色の斑紋と、眼の間にあるダンベル型の紋という、イイダコ

(21)

の種としての特徴が、きちんと描かれている点である(Sasaki,1929)。

Gleadall and Naggs(1991)は、『海の幸』の図の検討に加え、『和漢三才図会』

のイイダコの記述文と、イイダコの記載文を担当したドルビニーによるフラ ンス語訳を詳細に比較した。その結果、漢文からフランス語への翻訳が正確 であることと、種を決定づける特徴である、卵のサイズが大きく、蒸飯いいのよ うな形態である点と、成熟個体のサイズが小さく、マダコと区別できる点、

早春の抱卵時期、ドルビニーが『和漢三才図会』を“Encyclopédie Japonnais

[sic]”(正しくは、Encyclopédie Japonaise)とし、巻の番号やページという 出典を明記している点を評価した。

滝川(2013)は、ドルビニーが用いた日本の文献の由来について報告した。

『和漢三才図会』は、オランダ商館長であったティチング(1745-1812)がパ リの国立図書館に寄贈した書籍であった。一方『海の幸』については、オラン ダ総督のコレクションとしてハーグに保管されていたが、1795 年のフラン ス革命軍の侵入によりパリに持ち帰られ、現在はフランス国立自然史博物館 の中央図書館に保管されていることを確認した。さらに、フランスにおける 東洋学、特に中国学の発展により、漢文で書かれた『和漢三才図会』が東洋学 者アベル・レミュザの弟子、スタニスラス・ジュリアンによってフランス語 に正確に訳されていたことを検証した。

現在、イイダコの学名は

Amphioctopus fangsiao

(d’Orbigny, 1839-41)と して有効である。これは、『和漢三才図会』の記述文が生物学的にも正確であっ たこと、並びに『海の幸』の図が特徴をとらえ、標本の代替資料として活用可 能であったことを示している。つまり、江戸時代の日本の 2 つの文献が、19 世紀前半、日本との国交のなかったフランスの研究者にとって、日本の生物 資料として新種記載に十分な学術的価値を有していたことを示している。

6.むすび

本稿では瀬戸内海の魚介類を中心とした生物についての情報、研究史とそ の根拠資料について検討した。その結果、江戸時代に来日した出島の三学者 の江戸参府の紀行文から、非常に限られた記述ではあるが、瀬戸内海の海洋

(22)

生物の見聞や目撃情報が得られた。出島の三学者によって記録された瀬戸内 海産の魚類情報はなかった。これは、江戸参府の道中で、しかも瀬戸内海を 船で航行する中での行動上の制約と、日本に関する観察や標本収集活動の中 での優先順位の低さによるものと考えられた。

シーボルトが自ら記載論文を執筆したヘイケガニは、下関産の標本をもと に記載したものであることが確認された。江戸時代に記載された瀬戸内海産 の甲殻類としては、貴重な事例であると考えられる。

生物標本以外の図譜資料について、瀬戸内海に面する高松藩松平家で制作 された博物図譜である『衆鱗図』と、絵入俳諧書である『海の幸』に焦点を当て て検討した。その結果、『衆鱗図』と『海の幸』の図が、生物資料として西欧人 博物学者に活用されていたことが確認された。『衆鱗図』は転写を重ねた図が シーボルトに持ち帰られた。その図は、デ・ハーンが標本に基づく記載を行っ た際、参照資料として用いられた。そして研究成果をまとめた『日本動物誌 甲殻類編』の本文中に、参照資料として活用されたことが明記された。一方、

瀬戸内海に多産するイイダコの記載は、標本を用いたものではなく、『海の幸』

の図と、『和漢三才図会』の記述を活用したものであった。これらの2点の文 献が生物標本の代わりを果たし、フランス人研究者に活用されたという事実 が確認された。

18 世紀半ばまでに日本で作成された文献や図が、日本の生物に関する「知」

を媒介する役割を果たし、さらに 19 世紀前半の西欧で、生物学という近代 科学の「知」を生み出すための資料として活用されていた。この事実は、江戸 時代に日本でも流行した博物学の科学的価値と、その果たしていた役割を再 評価するものである。瀬戸内海にゆかりのある資料が端緒となり、江戸時代 の博物学について、新たな研究が展開することを期待したい。

謝辞

本稿執筆の貴重な機会を下さった、西田正憲奈良県立大学名誉教授に厚く お礼を申し上げる。また原稿を校閲下さった、松田清博士と瀬能宏博士に感 謝申し上げる。また本研究は、これまでに多くの方々、諸機関の皆様のご協

(23)

力とご支援のもと、継続することができた研究成果の一部である。ここに氏 名を記し、改めてお礼を申し上げたい。(敬称略)

大山十三士、岡市友利、鹿間里奈、多田邦尚、

野高宏之、堀辺理子、松岡明子、山口隆男、吉野哲夫、

Charles Fransen, Martien van Oijen, Arnoud Vrolijk

香川県立ミュージアム、東京国立博物館、公益財団法人日本科学協会、

公益財団法人福武財団、公益財団法人松平公益会

Leiden University Library、Naturalis Biodiversity Center, Leiden

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