研究資料 国立ギメ東洋美術館蔵 大政威徳天縁起 絵巻―解題―
著者 綿田 稔
雑誌名 美術研究
号 410
ページ 55‑65
発行年 2013‑09‑13
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006029/
国立ギメ東洋美術館蔵
大政威徳天縁起絵巻
解題 五五 研 究 資 料 国立ギメ東洋美術館蔵 大政威徳天縁起絵巻
綿 田 稔
一、経緯 二、基本情報 三、銘記 四、特徴 五、絵について
一、経緯
フ ラ ン ス・ パ リ の 国 立 ギ メ 東 洋 美 術 館 に 全 六 巻 完 備 し た「 大 政 威 徳 天 縁 起 絵 巻 」 (「 大 政 」 は 題 箋 表 記 の マ マ。 太 政 威 徳 天 縁 起 絵 巻、 い わ ゆ る 北 野 天 神 縁 起 絵 巻。 以 下「 ギ
メ 本 」 と 略 記 す る ) が あ る。 巻 第 六 奥 書 に 天 文 七 年 ( 一 五 三 八 ) の 銘 記 が あ り、 山 城 国 乙 訓 郡 開 田 庄 ( 現 在 の 京 都 府 長 岡 京 市 の 一 部 ) 「 薬 水 場 寺 」 の 什 物 だ っ た こ と が 判 明 す る が、 江 戸 時 代 に 当 地 の 長 岡 天 満 宮 ( 開 田 天 満 宮 ) 周 辺 に あ っ た か ど う か は 定 かではなく、あるいは比較的早くから地域の外に流出してしまったものかもしれな い。それが最終的にフランスに渡った年も不詳だが、美術館設立者のエミール・ギ メ ( Émile G uimet 、一八三六 ~ 一九一八) の収集品であるという。
本絵巻は学界にはすでに知られたもので、 『秘蔵日本美術大観
(
ギメ美術館』 (講 談 社、 一 九 九 四 年、 解 説 は 池 田 忍 氏 に よ る ) に カ ラ ー の 部 分 図 と モ ノ ク ロ の 全 図 が 紹 介 さ れ て い る が、 こ こ で は 巻 第 五 ま で の 不 完 全 本 と し て 紹 介 さ れ て い る。 そ の 後、 奥書を有する巻第六の存在が奈良国立博物館の調査団が中心となった『海外所在日 本 美 術 品 調 査 報 告
(
パ リ・ 国 立 ギ メ 東 洋 美 術 館
絵 画 』 ( 古 文 化 財 保 存 修 復 学 会、 一
九九六年) で紹介され、初めて奥書の翻刻が行われた。
日 本 へ の 里 帰 り は「 天 神 さ ま の 美 術 」 展 ( 東 京 国 立 博 物 館・ 福 岡 市 博 物 館・ 大 阪 市
立 美 術 館 を 巡 回、 二 〇 〇 一 年 ) で 実 現 し、 巻 第 一・ 第 四・ 第 六 の 三 巻 が 出 陳 さ れ た。 図録の作品解説は鈴木幸人氏により、 上宮天満宮本 (後述) との親近性が指摘された。
続いて二〇〇四年度から二〇〇五年度にかけて、東京文化財研究所の「在外日本 古 美 術 品 保 存 修 復 協 力 事 業 」 で 修 復 さ れ、 『 在 外 日 本 古 美 術 品 保 存 修 復 協 力 事 業 修 理 報 告 書
平 成 十 八 年 度 』 ( 東 京 文 化 財 研 究 所、 二 〇 〇 八 年 ) に 山 口 墨 仁 堂 に よ る 修 理 報告と相澤正彦氏による作品解説が付された。
この修復事業の間、稿者は東京文化財研究所側の担当者を務め、二〇〇四年九月 十日には修復経過を確認する中で本紙裏面の墨書を直接確認し、二〇〇五年十月二 十 四 日 に も 絵 巻 物 研 究 者 と 国 文 学 研 究 者 を 交 え た 合 同 調 査 を 行 っ た ( 稿 者 以 下 の 参 加 者 は 鈴 木 廣 之・ 津 田 徹 英・ 相 澤 正 彦・ 山 本 五 月・ 酒 井 美 奈・ 佐 藤 直 子 の 各 氏 ) 。 ま た 修 復前後の写真撮影もそれぞれ東京文化財研究所で行い、二〇〇六年に作品を返送し た後には、当時同僚だった土屋貴裕氏と当研究所でアシスタントをしてもらってい た佐藤直子 ・ 大月千冬両氏、都合三人の協力者を得て全六巻の詞書の解読を行った。 ただ、あらかじめ発表時期と媒体を定めなかったせいもあって、そこまでの作業に 二〇一二年三月までかかってしまった。
必ずしも専門家とは言えない稿者自身が気長に構えていたのとは別に、この絵巻 の存在は地元・長岡京市の注目するところとなり、このたび『長岡京市文化財調査 報告書
第六十三冊
長岡天満宮資料調査報告書
美術 ・ 中世編』 (長岡京市教育委員会、 二 〇 一 二 年 ) に 紹 介 さ れ た。 こ こ に 鈴 木 幸 人 氏 に よ る「 フ ラ ン ス 国 立 ギ メ 東 洋 美 術 館蔵・太政威徳天縁起 ︱ 天神縁起絵の系譜における位置 ︱ 」と仁木宏氏による「中 世 の 開 田 荘 ( 村 ) と 中 小 路 氏 ︱ 縁 起 絵 巻 制 作 の 地 域 史 的 意 義 ︱ 」 が 掲 載 さ れ、 稿 者 がいずれ調べようと思っていた種々の事実確認がなされた。
これによってギメ本の紹介はほぼ一段落したが、依然として巻第六の全貌が紹介 されておらず、詞書全部の翻刻はなされていない。つまり研究材料として研究者が 情報を共有できていない状況に変わりはない。断片的に紹介されているうちに情報 ︱ ︱
解題
︱ ︱
美 術 研 究 四 一 〇 号 五六
が混乱してきたような面もあり、訂正を要する部分も若干あるので、本誌に改めて 詞書の全文を翻刻して全巻の図版とともに掲載することにした次第である。多くを 先行研究に負い、 またそれと重複する部分が多いことはあらかじめご容赦願いたい。
二、基本情報
紙 本 著 色、 巻 子 装 六 巻。 国 立 ギ メ 東 洋 美 術 館 ( M usée national des Ar ts asiatiques-G ui -
met )蔵 (蔵品番号 MG8631 ~ 8636 ) 。添状などの付属資料はない。法量は次の通り (単 位センチメートル) 。
〔巻第一〕縦三一・三 全長九四四・七 第一紙 四〇・〇/第二紙 四一・二/第三紙 四一・二/第四紙 四一・〇/第 五紙 四一・〇/第六紙 四〇・九/第七紙 四〇・九/第八紙 四一・〇/第九 紙 四一・一/第十紙 四一・三/第十一紙 四一・一/第十二紙 四一・一/第 十 三 紙 四 〇・ 九 / 第 十 四 紙 四 〇・ 九 / 第 十 五 紙 四 一・ 一 / 第 十 六 紙 四 一・ 一/第十七紙 四一・一/第十八紙 四一・〇/第十九紙 四一・〇/第二十紙 四一・一/第二十一紙 四〇・四/第二十二紙 三四・〇/第二十三紙 四〇・九 /第二十四紙 九・四
〔巻第二〕縦三一・一 全長一一二五・六 第一紙 三九・七/第二紙 四〇・〇/第三紙 三〇・〇/第四紙 四〇・七/第 五紙 四〇・五/第六紙 四〇・六/第七紙 四〇・八/第八紙 四〇・六/第九 紙 四〇・五/第十紙 四〇・六/第十一紙 四〇・五/第十二紙 四〇・五/第 十 三 紙 四 〇・ 七 / 第 十 四 紙 四 〇・ 七 / 第 十 五 紙 四 〇・ 七 / 第 十 六 紙 四 〇・ 五/第十七紙 四〇・六/第十八紙 四〇・七/第十九紙 四〇・八/第二十紙 四一・〇/第二十一紙 四〇・七/第二十二紙 四〇・七/第二十三紙 四〇・七 /第二十四紙 四〇・七/第二十五紙 四〇・九/第二十六紙 四〇・五/第二十 七紙 四〇・六/第二十八紙 四〇・一 〔巻第三〕縦三一・四 全長一〇四一・〇 第一紙 二五・九/第二紙 四〇・八/第三紙 四〇・八/第四紙 四〇・九/第 五紙 四〇・八/第六紙 四〇・九/第七紙 四一・〇/第八紙 四〇・八/第九 紙 四一・〇/第十紙 四〇・九/第十一紙 四〇・九/第十二紙 四〇・九/第 十 三 紙 四 〇・ 九 / 第 十 四 紙 四 〇・ 九 / 第 十 五 紙 四 〇・ 八 / 第 十 六 紙 四 〇・ 八/第十七紙 四〇・九/第十八紙 四一・〇/第十九紙 四〇・九/第二十紙 四一・〇/第二十一紙 四〇・九/第二十二紙 四一・〇/第二十三紙 四一・〇 /第二十四紙 四一・〇/第二十五紙 四一・〇/第二十六紙 三三・三
〔巻第四〕縦三一・四 全長八三二・四 第一紙 三九・九/第二紙 四〇・七/第三紙 四〇・八/第四紙 四〇・七/第 五紙 四〇・八/第六紙 四〇・九/第七紙 四〇・七/第八紙 四〇・六/第九 紙 四〇・四/第十紙 四〇・九/第十一紙 四〇・九/第十二紙 四〇・七/第 十 三 紙 四 〇・ 六 / 第 十 四 紙 四 〇・ 八 / 第 十 五 紙 四 〇・ 六 / 第 十 六 紙 四 〇・ 九/第十七紙 四〇・七/第十八紙 四一・〇/第十九紙 四〇・七/第二十紙 四〇・六/第二十一紙 一八・五
〔巻第五〕縦三一・五 全長一一〇二・四 第一紙 二七・五/第二紙 四〇・九/第三紙 四〇・八/第四紙 四一・〇/第 五紙 四一・〇/第六紙 四〇・九/第七紙 四一・〇/第八紙 四一・一/第九 紙 四一・〇/第十紙 四〇・九/第十一紙 四〇・九/第十二紙 四一・〇/第 十 三 紙 四 一・ 〇 / 第 十 四 紙 四 一・ 〇 / 第 十 五 紙 四 〇・ 九 / 第 十 六 紙 四 〇・ 九/第十七紙 四一・〇/第十八紙 四一・〇/第十九紙 四一・〇/第二十紙 四〇・九/第二十一紙 四〇・八/第二十二紙 四〇・八/第二十三紙 四〇・八 /第二十四紙 四一・〇/第二十五紙 四一・〇/第二十六紙 四一・二/第二十 七紙 四〇・四/第二十八紙 一〇・七
国立ギメ東洋美術館蔵
大政威徳天縁起絵巻
解題 五七 〔巻第六〕縦三一・〇 全長一一四六・三 第一紙 二八・一/第二紙 四一・一/第三紙 四〇・八/第四紙 四〇・七/第 五紙 四〇・七/第六紙 四〇・八/第七紙 四〇・七/第八紙 四〇・七/第九 紙 四〇・七/第十紙 四〇・七/第十一紙 四一・〇/第十二紙 四〇・九/第 十 三 紙 四 〇・ 九 / 第 十 四 紙 二 〇・ 四 / 第 十 五 紙 一 〇・ 二 / 第 十 六 紙 四 〇・ 九/第十七紙 四〇・九/第十八紙 四〇・九/第十九紙 四〇・九/第二十紙 四一・〇/第二十一紙 四〇・九/第二十二紙 四〇・九/第二十三紙 四一・〇 /第二十四紙 四一・〇/第二十五紙 四〇・六/第二十六紙 四〇・九/第二十 七紙 四〇 ・ 五/第二十八紙 四〇 ・ 七/第二十九紙 四〇 ・ 九/第三十紙 二五 ・ 九 本紙の規格と材質は一貫していて、一部極端に短い紙もあるものの脱落や錯簡は 認められない。いくつかの箇所で紙継部分に乗った絵具は断裂していなかった。こ のため今回の修復以前には本格的な修復はほぼ被っていないようである。また、お おむね紙の途中で詞と絵が切り替わっている。つまり詞と絵はほぼ同時進行で作ら れたようで、字が絵を避けたような箇所もあれば、絵が字を避けたような箇所もあ る。ただ詞書について言えば、行間のつまった箇所もあれば、余白の生じた箇所も あり、巻頭から順番に作っていたものでは必ずしもないらしい。 詞と絵全四十一段に序文二種と奥書が付される。全体の構成は以下の通り。アラ ビア数字は通算の段数。 「*」を付した題目は詞のみあって対応する絵のないもの。
〔巻第一〕
真名序文
序文
(
第一段 道真化現/養育
(
第二段 幼少詩作
(
第三段 大戒論序
(
第四段 良香邸弓遊
(
第五段 吉祥院五十賀祝
(
第六段 一 時十詩作/ 羅 城門鬼 (絵は任大納言・大将)
**(
第七段 任 右大臣/家集奏覧
*〔巻第二〕
(
第一段 行幸密議
(
第二段 陰謀呪詛
(0
第三段 法皇佇立
((
第四段 紅梅殿別離 (絵は「配流陸路」を含む)
((
第五段 配流陸路 (絵は前段に入る) /配流海路
((
第六段 恩賜御衣
〔巻第三〕
((
第一段 後 江相公登省/ 長 谷雄嘆/天拝山
**((
第二段 道真薨去/安楽寺埋葬
((
第三段 柘榴天神
((
第四段 時平抜刀
((
第五段 尊意渡水
((
第六段 時平薨去
(0
第七段 公忠奏上
((
第八段 菅霊述奏
〔巻第四〕
((
第一段 清涼殿落雷
((
第二段 醍醐帝崩御
((
第三段 日蔵六道順歴 (籠居・出立)
((
第四段 日蔵六道巡歴 (地獄邂逅・閻魔王宮)
((
第五段 日蔵奏上
美 術 研 究 四 一 〇 号 五八
((
第六段 供養善根
〔巻第五〕
((
第一段 綾子託宣
((
第二段 太郎丸託宣
(0
第三段 社殿建立
((
第四段 九条殿信心
((
第五段 内裏炎上
((
第六段 虫喰和歌
((
第七段 官位追贈
〔巻第六〕
((
第一段 待賢門院女房
((
第二段 世尊寺仁俊
((
第三段 仁和寺阿闍梨
((
第四段 八月大祭/結語
((
第五段 西念往生
(0
第六段 銅細工師姉妹 (虐待・参籠)
((
第七段 銅細工師姉妹 (受福)
奥書/裏書
三、銘記
す で に 述 べ た よ う に 本 絵 巻 の 巻 第 六 末 に は 奥 書 が あ り ( 挿 図
か ら 第 二 十 九 紙 に か け て ) 裏 面 に も 直 接 墨 書 が な さ れ て い る ( 挿 図 () 、 本 紙 ( 第 三 十 紙
(、
次の通り。 () 。 全 文 は
〔奥書〕
城州乙訓群開田庄薬水場寺例宝也 右六巻縁起古本雖有之破損之条 新書写記於事書者愚翰甚憚 巨多也雖然応施主之懇志不恥諸人 嘲哢寔恐怖々々寺院再興鎮社瑞 籬安全庄内繁昌別而明神守護所願成弁 天文七年
戊戌十一月廿五日中少路山城守宗綱成之
〔裏書〕
其大願主蔵福寺之
当住長首座多年
之望忽令成者也
併氏子勧徴少之志
如此調之弥 天満大
自在天神自他円満
二世悉地所願如意
之冥応可願々々
右事書壹部右筆
木上山海印寺住侶東流
末資寂照院大阿闍梨
法印杲雄
春秋 五十二此内於四巻能勢与三
頼直
廿三俗弟子故為冥加
令書之畢
これらが一筆かどうかは定かではないが、裏書の書体は詞書本文の大半のそれと 同筆とみられる。奥書の二行目以降についてはこれとは別筆かもしれないが、裏書 の 書 体 と 極 端 に は 違 わ な い。 ま た 二 字 弱 下 が っ た 位 置 か ら 始 ま る ( つ ま り 返 し 書 き の 体 裁 を と る ) 奥 書 の 一 行 目 は 二 行 目 以 降 と は 別 筆 か も し れ ず、 裏 書 と は 同 筆 の よ
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大政威徳天縁起絵巻
解題 五九 うに見受けられる。 「右六巻縁起……宗綱成之」の部分が奥書の本文にあたり、 「城 州乙訓群……」は裏面の「其大願主……可願々々」と一体のもので本文の補記、こ れに続く「右事書壹部……令書之畢」は補記筆者による署名にあたるものなのだろ う。以上を勘案してこの銘記を読み下しておく。
右六巻の縁起、古本これありといへども破損の条、新たに書写し記す。事書に おいては愚翰すること甚だ憚り巨多なり。 しかりといへども施主の懇志に応じ、 諸人の嘲哢を恥じざること寔に恐怖恐怖。寺院再興、 鎮社瑞籬安全、 庄内繁昌、 別して明神守護、所願成弁。
天文七年〔戊戌〕十一月二十五日、中少路山城守宗綱これを成す。
城州乙訓群 (郡) 開田庄薬水場寺の例宝なり。それ大願主蔵福寺の当住長首座、 多年の望み忽ち成らしむるものなり。併せて氏子少しの志を勧徴し、このごと くこれを調ふ。天満大自在天神を称え、 自他円満、 二世悉地、 所願如意の冥応、 願ふべし願ふべし。 右 事 書 一 部、 右 筆 は 木 上 山 海 印 寺 住 侶 東 流 末 資 寂 照 院 大 阿 闍 梨 法 印 杲 雄 〔 春 秋五十二〕 。 こ の 内、 四 巻 に お い て は 能 勢 与 三 頼 直 〔 廿 三 〕 、 俗 弟 子 ゆ え 冥 加 の た め こ れ を書かせしめ畢んぬ。
この銘記から制作経緯がかなりはっきりとわかる。要約して箇条書きにする。
・この絵巻全六巻については「古本」があったのだけれども、破損したため、新調 した。 ・山城国乙訓郡開田庄 (荘) 薬水場寺の什物。 ・詞書と奥書本文は中少路宗綱の筆。 ・天文七年 (一五三八) 十一月二十五日 (月例祭の日) に奉納。 ・大願主は蔵福寺の長首座。その他、氏子が小額ずつ出しあって制作。
挿図 ( ギメ本 巻第六末 奥書
(修復後、(00(.(.(0 城野誠治撮影)
挿図 ( 同 裏面(修復後、(00(.(.(0 城野誠治撮影)
挿図 ( 同 裏書(修復中、(00(.(.(0 稿者撮影)
美 術 研 究 四 一 〇 号 六〇
・詞書一セットの右筆 (つまり宗綱の代筆) は海印寺寂照院の杲雄 (五十二歳) 。 ・ただし巻第四の詞書は杲雄の俗弟子である能勢頼直 (二十三歳) による。
となると結局、この銘記の全文は宗綱右筆の杲雄が書いたのではないか。宗綱が 「 筆 之 」 で は な く「 成 之 」 と し た の も、 そ う い う 事 情 か ら な の だ ろ う。 あ る い は 杲 雄が日ごろから宗綱の右筆を務めていて、結果的に書風が似ることになったのかも しれない。
さて、開田庄は現在の京都府長岡京市の阪急長岡天神駅一帯で、主に仁和寺と東 寺の荘園であった (以下、 参考地図
(を参照)
。もともとは菅原道真 (八四五 ~ 九〇三) の所領で、太宰府に流される途中、ここに立ち寄った道真が都を振り返った「見返 天神」の故地として知られている。中少路宗綱は当地の土豪で、この絵巻が奉納さ れ る 直 前 の 天 文 七 年 九 月 二 十 一 日 に 仁 和 寺 領 の 代 官 を 罷 免 さ れ た ら し い (『 大 館 常
興 日 記 』) 。 こ の 中 小 路 氏 は 菅 原 氏 の 支 族 で、 菅 原 道 真 が 太 宰 府 に 流 さ れ た 時 に 開 田 から太宰府まで付き従った中小路宗則、西小路祐仲、東小路祐房の子孫の三家のう ち、唯一この時期まで続いていたという家。この家柄からして中小路宗広なる者が 当 地 に 建 て た と 伝 え る 天 満 宮 ( 以 下、 古 開 田 天 満 宮 と 仮 称 す る ) の 氏 子 代 表 だ っ た こ とは疑いないし、あるいは神官も一族から出したかもしれない。それが応仁文明の 乱で当地一帯が戦場となって社頭退転を余儀なくされた後、明応七年に天満宮が再 建 さ れ た ( 棟 札 写 ) 。 当 時 の 当 主 は 中 小 路 宗 数 で、 宗 綱 は そ の 嗣 子 に あ た る と み ら れる。宗綱は「中少路」と自署し、江戸時代から代々長岡天満宮の宮司を務めるの は「中小路」氏で、両家の関係性は不分明なのだが、少なくともこの時期に宗綱の 中少路家が中小路一族を代表していたことは疑いない。
なお、 この中少路山城守宗綱は、 『言継卿記』享禄二年 (一五二九) 正月十一日条 に騒動の仲裁人として登場する 「仁木二郎内中小河 (路) 山城守」 と同一人物だろう。 ならば宗綱はある時期まで幕府の官吏として京都で活動していたことになる。
その宗綱が居館 ・ 開田城を構える開田庄の 「薬水場寺」 の什物だったというのだが、 奥書には「寺院再興」の文字もあり、応仁文明の乱で天満宮とともに退転したに相 違ない当寺の再興にあたってこの絵巻が新調されたのだろう。天神縁起という画題
参考地図 ((背景地図等データは、国土地理院の電子国土 Web システムから提供されたもの)
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大政威徳天縁起絵巻
解題 六一 と 開 田 庄 と い う 立 地 条 件、 二 十 五 日 と い う 奉 納 日 ( 二 月 二 十 五 日 は 道 真 の 命 日 ) か ら してこの寺が古開田天満宮と無縁のはずはなく、結局のところこの「薬水場寺」は 古開田天満宮の神宮寺であったと考えられる。 ち な み に こ の 古 開 田 天 満 宮 の 社 殿 は 短 命 だ っ た よ う で、 文 禄 四 年 ( 一 五 九 五 ) に も 中 小 路 宗 俊 に よ っ て 再 建 さ れ る も ( 棟 札 写 ) 、 翌 年 の 慶 長 大 地 震 で 倒 壊。 慶 長 三 年 ( 一 五 九 八 ) に 宗 俊 と 宗 守 に よ っ て 今 一 度 再 建 さ れ る ( 棟 札 写 ) 。 そ れ も 短 命 だ っ た よ う で、 開 田 庄 は 元 和 三 年 ( 一 六 一 七 ) に は 八 条 宮 家 領 に 編 入 さ れ、 ほ ど な く 境 内と背後の山林も宮家に寄進され、天満宮は山林の側へ遷座した。それから元禄年 間 に か け て 順 次 現 在 の 長 岡 天 満 宮 ( 挿 図
れによれば八条池の東側、現在の長岡京市天神一丁目十番に「古社の跡」が、同十 江戸時代の指図が数件伝えられており (石原義胤家文書・桂宮家領関係絵図など) 、そ 福寺がすなわち薬水場寺であったという可能性も考えられる。 中世の開田庄にこれら大規模な溜池はなかったわけである。幸い古社の位置を示す の出身なのではないか。そもそも天神縁起奉納が長首座の宿願だったからには、蔵 小路家由来書」 『長岡京市史 資料編二』 所収) 。天満宮東の八条池の掘削もこの時期で、 には中少路氏ないし開田周辺土豪の私寺だろう。長首座自身も中少路氏か周辺土豪 が晴れて中小路山城守家の筋目を相続することとなった (明治三年「長岡天神社・中 で あ る が、 「 首 座 」 の 役 職 名 か ら し て 禅 寺 で、 首 座 位 の 僧 が 当 住 を 務 め て い る か ら () の 境 内 が 整 備 さ れ、 宗 俊 の 子 孫・ 宗 信 それはともかく、大願主の長首座なる僧については不詳。蔵福寺についても不詳 そこは現在、個人宅数棟と賃貸マンションとなっているようである。 で に 形 跡 す ら 認 め が た い。 こ の た め 該 当 地 を 厳 密 に 特 定 す る こ と は 難 し い の だ が、 と こ ろ が 大 正 十 一 年 ( 一 九 二 二 ) 都 市 計 画 基 本 図 で は 完 全 に 田 地 と な っ て い て、 す 籍 全 図 」 ( 京 都 府 総 合 資 料 館 蔵、 官 有 地 籍 図 〇 九 〇 ) で は と も に「 林 」 と な っ て い る。 な お、 そ れ と 思 し き 場 所 は 明 治 十 九 年 ( 一 八 八 六 ) 頃 の「 山 城 国 乙 訓 郡 開 田 村 地 った可能性が高いことになる。 て い る。 こ れ が「 薬 水 」 の 出 る 井 戸 だ っ た の だ と す れ ば、 「 薬 水 場 寺 」 は こ こ に あ 一 番 に「 西 小 路 の 森 」 が あ っ て、 「 西 小 路 の 森 」 の 一 角 に は 井 戸 の 存 在 が 記 録 さ れ
宗綱の右筆を務めた杲雄は開田庄の西隣に位置する奥海印寺村の土豪・高橋氏の
挿図 ( 長岡天満宮((0((.(.(( 稿者撮影)
挿図 ( 海印寺寂照院((0((.(.(( 稿者撮影)
挿図 ( 上宮天満宮((0((.(.(( 稿者撮影)
美 術 研 究 四 一 〇 号 六二
出 で 永 禄 二 年 ( 一 五 五 九 ) に 没 し た こ と が わ か っ て い る ( 高 橋 伸 和 家 文 書 ) 。 木
このかみさん上 山 海印寺寂照院は真言宗の古刹で、現在も当時と同じ位置にある (挿図
() 。
その俗弟子である能勢頼直はやはり開田庄の北隣に位置する今里村の土豪・能勢 氏 の 一 族 と み ら れ る ( た だ し 江 戸 初 期 の 頼 直 と は 別 人 ) 。 そ の 頼 直 が 巻 第 四 の 詞 書 だ けを担当した。実際に巻第四の詞書だけが明らかに別筆である。ちなみに能勢氏の 今里城は当時、南禅寺末となっていた乙訓寺と隣接しており、蔵福寺もこれと関係 があるかもしれない。
このように神仏・諸派・聖俗・老若入り交じっての制作と奉納であった。この当 時、 「 西 岡 国 衆 」 と 呼 ば れ る 当 地 の 中 小 土 豪 連 合 が 細 川 家 の 代 官 が 当 地 に 直 接 入 っ ていることに抵抗を試みていた。その試みは結局のところ失敗に終わるのだが、こ の絵巻は乙訓地域団結のささやかな証左と言ってもいいだろう。天神ゆかりの土地 柄ゆえ、八幡縁起でも融通念仏縁起でもなく天神縁起が人々を結縁する格好のメデ ィアとなったのである。
四、特徴
ギ メ 本 は 詞 書 冒 頭 の 特 徴 か ら 甲・ 乙・ 丙・ 丁 に 分 類 さ れ る 天 神 縁 起 の う ち、 「 王 城鎮守の……」 で始まる甲類に属する。 その中でも序文中に 「建保の今にいたるまで」 の 字 句 を 含 む 建 保 本 系 統 に 属 し、 「 ( そ れ ) 王 城 擁 護 の ……」 で 始 ま る 点 は、 建 保 本 系 統 の 中 で も ス ペ ン サ ー 本 ( ニ ュ ー ヨ ー ク・ パ ブ リ ッ ク・ ラ イ ブ ラ リ ー 蔵 ) と 佐 太 文 明 本 ( 後 述 ) と 一 致 す る。 本 文 は 全 体 と し て 佐 太 文 明 本 に よ り 近 い。 た だ し、 そ の 序 文 の 前 に 丁 類 ( 安 楽 寺 本 系 ) 特 有 の 真 名 序 文 が つ き、 ま た「 尊 意 渡 水 」 と「 八 月 大祭」後半の詞にも丁類との関係が窺われる。さらに「一時十詩作」の段に丙類第 二種と丁類にしか存在しない「羅城門鬼」の詞だけが付け加えられている。
ちなみに、 真名序文では「北野太政威徳天神」とある一方、 本文では一貫して「大 政威徳天」とあって、やはり建保本出自の本文に丁類出自の序文が取って付けられ たような印象を与える。
加えて巻第二末の三段分において「紅梅殿別離」の絵に直接「配流陸路」の絵が 続き、 「配流海路」 の詞と 「配流陸路」 の詞がこの順に続けて書かれた後、 「配流海路」 の絵があり、 「恩賜御衣」 の詞と絵が続く。 「紅梅殿別離」 「配流海路」 「配流陸路」 「紅 梅殿別離」という、スペンサー本や佐太文明本に共通する流れに対して混乱を来し ているのである。もっとも、絵だけで考えれば「配流陸路」を「配流海路」の前に 持ってくることは甲類の承久本や、丙類でも一般的に行われているのだが。 同様の混乱が巻第六にも認められる。通常は最後に位置するべき「八月大祭」が 「 仁 和 寺 阿 闍 梨 」 と「 西 念 往 生 」 の 間 に 割 っ て 入 っ て い る の で あ る。 文 言 の 内 容 や 長短を無視して位置だけでいえばこれは丙類や丁類に共通する特徴でもあるが、甲 類「 八 月 大 祭 」 の 通 常 の 詞 に 続 け て、 全 巻 の 結 語 に あ た る 長 文 の 詞 ( 途 中 ま で は 宮
内 庁 三 巻 本 と 共 通 す る と こ ろ が あ る ) が 付 さ れ て い る に も か か わ ら ず、 そ う な っ て い ることは注意される。
この特徴が地理的にすぐ近くに所在する上宮天満宮本と一致することは見逃せな い。 上 宮 天 満 宮 ( 大 阪 府 高 槻 市、 挿 図
参 考 地 図 ロ メ ー ト ル、 水 無 瀬 を 経 て 西 国 街 道 沿 い に 歩 い て も 三 時 間 弱 の 距 離 に あ る ( 以 下、 () は、 開 田 庄 と は 天 王 山 を 挟 ん で 約 十 二 キ
御衣」 の段が続く。やはり通常の流れからすると若干の混乱がみられるわけである。 絵が続けて描かれ、詞も「配流海路」 「配流陸路」の順に続けて書かれた後、 「恩賜 巻第二については「紅梅殿別離」の絵と詞に続いて「配流海路」と「配流陸路」の 位 置 は ギ メ 本 と 一 致 し、 一 般 的 な 詞 章 に 続 く 特 徴 的 な 結 語 の 字 句 も ほ ぼ 共 通 す る。 全巻にわたって絵の基本的な図柄はギメ本と同様である。巻第六の「八月大祭」の のため、 冒頭の当初の様子はわからないものの、 やはり「大政威徳天縁起」と称し、 この上宮天満宮に伝存する天神縁起絵巻全六巻は巻第一と巻第四が江戸時代の補作 当地の天満宮が 「上宮」 すなわち聖徳太子の名を冠した理由はそこにあるのだろう。 手 彫 り の 観 音 菩 薩 像 が あ っ た と 伝 わ り ( 廣 智 寺 に 現 存 す る 木 像 は 大 阪 府 指 定 文 化 財 ) 、 の天満古社と称する。また当地の観世音寺 (現在の廣智寺がその後身) には聖徳太子 ま り と い う。 こ の こ と か ら 上 宮 天 満 宮 は 安 楽 寺 ( 太 宰 府 ) 天 満 宮 に 次 ぐ 我 が 国 第 二 正が太宰府から持ち帰った道真自画像を当地に祀ることにしたのが上宮天満宮の始 そこで当地の由縁を調べてみると道真の祖先である能見宿禰の墓があったため、幹 菅 原 幹 正 が 都 へ の 帰 途 に 当 地 を 通 っ た と こ ろ、 突 如 と し て 牛 車 が 動 か な く な っ た。 (を 参 照 ) 。 そ も そ も 太 宰 府 に 赴 い て 故 道 真 に 官 位 を 追 贈 す る 勅 使 を 務 め た
国立ギメ東洋美術館蔵
大政威徳天縁起絵巻
解題 六三 一見するとこの上宮天満宮本とギメ本には直接的な転写関係がありそうだが、そ うとも限らない。この上宮天満宮本にもやはり奥書があり、次のような制作事情が 判明する。ギメ本同様に全貌が紹介されたことのない作例であり、専門家による詳 しい検証と全貌の紹介が切望されるところなので、ここでは要点のみを箇条書きに しておく。 ・ 摂 津 国 嶋 上 郡 田 辺 村 ( 現 在 の
音寺の什物。 R J 高 槻 駅 付 近 一 帯 ) の 上 宮 天 満 宮 の 神 宮 寺 で あ る 観 ・詞書は嘉吉三年本と同じ行乗 (八十歳) による。 ・長禄三年 (一四五九) 二月二十五日 (道真命日) 奉納。 をもとに作りなおしたもの。 の大阪府茨木市北部に所在) 西坊の行聖律師が借り受けて田辺村の僧に寄せ、それ た も の が あ っ て 、 そ れ を 所 持 す る 人 が 三 宝 寺 に い た の で 、 忍 頂 寺 ( 真 言 宗 。 現 在 ・ そ も そ も 嘉 吉 三 年 ( 一 四 四 三 ) に 詞 書 を 書 写 、 長 禄 二 年 ( 一 四 五 八 ) に 絵 を つ け
土地の豪族の名前は挙がらないが、やはり諸派入り交じっての制作で、神宮寺に 納められたというところもギメ本と共通している。この場合、上宮天満宮と観音寺
( = 観 世 音 寺 ) に「 古 本 」 は な か っ た よ う な の だ が、 そ れ で も 三 宝 寺 に あ っ た ( 持 っ て い る 人 が そ こ に い た と い う 微 妙 な 言 い 回 し で あ る が ) も の を 参 照 し て 作 ら れ た こ と が わ か る。 三 宝 寺 と は 淀 川 下 流、 江 口 ( 大 阪 市 東 淀 川 区 ) に あ っ た 達 磨 宗 の 寺 院 を 指 す と 思 わ れ る。 そ の 近 隣 に は や は り 道 真 ゆ か り の 小 松 の 天 満 宮 ( 現 在 の 松 山 神 社 ) があり、結局のところ三宝寺には小松の天満宮の神宮寺という一面があったと類推 できる。その三宝寺所在本は嘉吉三年に詞書を書写したものというのだから、やは り何か典拠とするものがあった。そこに長禄二年になって絵をつけたという。詞書 と絵が別進行になっている点は、後代のものかもしれないが同じく上宮天満宮に詞 書だけの写本(いわゆる正嘉本、丙類)が伝わることや、上宮天満宮から南南西へ 約 十 二 キ ロ メ ー ト ル、 淀 川 の 対 岸 に 位 置 す る 佐 太 天 満 宮 ( 大 阪 府 守 口 市 ) の 文 安 三 年 ( 一 四 四 六 ) 本 ( 詞 は 甲 類、 絵 は 丙 類 ) を 想 起 さ せ る。 そ の 佐 太 天 満 宮 に は 建 保 本 系統として絵も詞も完備した文明十三年 (一四八一) 本もあった。
十四世紀から十六世紀にかけて各地で続々と天神縁起絵巻が制作されており、そ れぞれ何らかの影響関係がありそうなのだが、ギメ本と上宮天満宮本のように、地 域的にも内容的にも強い関連性が認められることは意外に珍しい。ここで注目すべ き な の は ギ メ 本 の 前 段 階 と し て「 古 本 」 が あ っ た と い う ギ メ 本 奥 書 の 記 述 で あ る。 その所在は必ずしも明記されてはいないが、そもそも室町時代の古開田天満宮付近 に「古本」が伝来していたということであろう。それはその「古本」を道真ゆかり の 中 小 路 ( 中 少 路 ) 氏 が 管 轄 し て い た こ と を 意 味 す る か ら、 こ の「 古 本 」 は 少 な く
参考地図((背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから提供されたもの)