シュムベーターとケインズ
193シュムペーターとケインズ
−彼等における動学の条件−
川田俊昭
° °
ケインズは,『一般理論』において,二つのタイプの理論を区別してい る。一つは,「全体としての生産及び消費に関する理論」であり,他の一つ は,「与えられた産出高とその分配に関する理論」である。(『雇用・利子 及び貨幣の一般理論』日本版への序)
° °
前者は,彼における<動学>,彼が同書においてまさに意志する方向であ
° ° ° °
り,後者は<静学>,彼の育ての親・彼の所謂「古典派」に拠るものであ る。「従って,この書物は,私自身の恩恵とその発展の上での反動であり,
イギリスの古典派的(もしくは正統派的)伝統からの離反を示すものであ る。……私が通説から離反する諸点を力説したことは,イギリスにおける一 部の人々から不当に論争的であると見られている。しかし,イギリス経済学 上の正統派のうちに育てられ一時はその信仰の伝道師でさえあった者が,
ひとたび新教徒となった場合,ある程度の論争的強調をどうして避けること が出来るであろうか。」
ケインズは,後者の理論について,それを更に次の様に特色づけている。
° °
日く,「価格及び生産の理論に関する大部分の論著は,主として次の問題を
° e
取扱っている。即ち,一定量の使用されている諸資源の各種用途への配分 と,この畳の諸資源の使用を想定して,それらの相対的報酬並びにそれら の生産物の相対的価値を決定する諸条件とが,それである。」(『前掲書』
訳5貢)
原書にして7行そこそこの本箇所の適確な理解乃至註釈は,その短かさに
も拘らず(というより,むしろ短いものであるが故に),極めて困難であ
る
o一歩誤れば,我々は,ケインズの本意乃至意味させるところとは,全然 臭った方向に注意を逸らすこととなる
o的はずれ,これである
Oケインズに関する内外凡百の解説書中,少くとも本箇条に関する限り,適 確にして正出を得た把握をなしている(と私に考えられる〉のは, D ・ディ
ラード~
J • M・ケインズの経済学』における場合である
oディラードは古 いている。
r古典派理論は何が雇用量を決定するかを解明する代りに,完全 雇用を前提し,進んで一定の資源、総量が如何にして生産に配分せられるか,
又生産から生じた所得が生産に参与した各程の資源の聞に如何に分配せられ
るかを解明しようとする
D生産の面で資源を配分し,分配の面で報酬を決定
する市場の力となるものは,供給と需要である
O供 給 と 需 要 の 一 般 関 係 が
個々の資源と商品の相対価値を決定する口乙の相対価値は貨幣で表せば価格
である
Dそして,価格決定組織はいわば無意識に存在する『計画』機桔であ
り,それを手掛りとして,民間の人々は,極大の個人的報酬を追求しなが
ら,経済組織の総資源を経済的且つ完全に配分するのである
oこれが古典派
経済理論の核心を形成する価値・分配及び生産に関する周知の理論の簡単な
概括である
D……古典派理論は,経済組織全体の中における佃々の企業と個
々の産業による一定の資源、量の利用の問題に,焦点をおいている
Dもし,一
産業に使用される資源が一層多くなれば,その資源の増加分は他の産業より
引き抜かれたものと想定されている。もし,一企業により使用される資源が
ー居多くなれば,その増加分は他の企業から引き抜かれたものと想定されて
いる
Oこのようにして,ここの雇用と,かし乙の雇用との聞に選択が行われ
るのであって,雇用と非雇用との問に選択が行われるのではない。一方向で
総産出量の一部を増加すれば,必ず経済組織のど乙か別なととろで総産出量
の一部が減少しているのであり,今迄使用せられていなかった資源を働かせ
ることによって,総産出量そのものを増加させる乙とを考えていない
O従っ
て,古典派経済学は,一定量の使用資源を何れの用途に用いるかを研究する
ものである。……ケインズの雇用の一般理論は,個々の企業や産業による一
定の資源量の利用に重点をおくのとは正反対に,使用資源、室の変動の結果と
して生ずる経済組織全体における産出量と雇用量の変動を,研究しているの
シュムベーターとケインズ
195である。」
本解釈は,私にとって二重の意味で重要である
o第ーには,その前半と後 半の二つの力点において,その二つの何れもが,私自身従来ケインズのこの 部分の解釈に用いた方法と,全く完全にと云ってよい位一致している乙と である。加えて,第二に,ディラードがその後半において用いた解題の材料 が,一一果して彼自身意識してそうしたものかどうか不明確であるが,私自 身そうであった如く一一,実は, リカアドの『原理Jl(
W経 済 学 及 び 課 税 の 原理Jl)中の(具体的な)一説明に典拠していることである
o一一恰も,前 半が, リカアドの「価値法則」の説明そのもの(後述)である如く。1"一商品 の価格は,貨幣で表したその交換価値である
oJ(リカアド)
換言すれば,ケインズが後者の〈タイプの〉理論の典型と看倣したものは,
実は,古くはリカアドに在ることである。
宜なるかな,ケインズ自身,先の本文に註して云う1"これはリカアドの 伝統に従うものである。何故ならば, リカアドは国民分配分の分配とその呈 とを区別し,後者については如何なる関心をもつことをも明らかに拒否した からである口この点において,彼は自己の理論の性格を正しく評価していた のである
Dしかし,彼の後継者達は,明察力之しく,古典派理論を宮の成因 に関する論議に使用した
Dリカアドの
1820年
10月
9日附のマノレサスへの手紙 を見よ。
W経済学は,あなたの考えでは,宮の性質と成因との研究である 一一一私の考えでは,それは,勤労の生産物がその形成に協力する諸階級へ分 配される関係を規定する諸法則の研究,と呼ばるべきものである。呈に関し ては,なんらの法則をも指定することは出来ないが,割合については,ほほ
E確というべき法則を措定することが出来る口日に日に私は,前者の研究は 無益でありかっ人を惑わすものであって,後者のみが斯学の其の目的をなす
ものであるという確信を深めている。
J( r前掲苔:J訳
5頁)
従って又,他の箇所で,ケインズは言う1"現代のすべてのイギリス経済
学者は,アノレフレッド・マーシャノレの『経済学原理』によって育まれて来た
のであるが,そのマーシャノレは,自己の思忽がリカアドの思想と述続してい
ることを強調するのに特に苦心を払っていたロ彼の仕事は,大部分限界原理
と代用の法則とをリカアドの伝統に接ねすることにあった
J,と。(
r前
f局 書』日本版への序)
いわば,ケインズにあっては,その表現と体裁にこそ差はあれリカアドと マーシャノレとの聞には一つの述綿たる文字通りの:i3i続があった,と考えられ るのである
o斯くて,彼の有名な「古典派」なる定義が成立つ。日く,
rU"古典派経済 学者
Jとは, リカアド及びジェームス・ミノレ並ひ、にその先行者達, リカアド 経済学においてその頂点、に達した理論の建設者達を包括するために,マルク スによって発明された名称である
o私は,おそらく語法違反ではあろうが,
たとえば
J・
S・ミノレ,マーシャノレ,エッジワース及びピグー教授をも合め たリカアドの追随者達,即ちリカアド経済学の理論を採用し完成した人達を もU"古典学派』の中へ包摂することを,習慣としている
oJ ( r前掲書』
訳
3""'4頁)我々自身,以上のケインズによる御託宣のいくつかに,数々の問題をもつ ことが可能である。但し,本稿で問題となる限りに,しかも最小限に問題を 限定するならば,少くとも以下三つが,不可欠なものとして,看過され難
いo先づ,第一は,ケインズが「古典派」と云う時,我々は,アダム・スミス をその例外として認めるべきだ,ということである
oおそらくケインズ自身,それを認めていたに違いない。と云うのは,彼の
「古典派径済学者
J中に,我々はスミスの名を発見し得ないし,と同時に,
彼の援用したリカアドのマノレサス宛の手紙(前述)の中に,明瞭に
r包の 性質と成因との研究
anenquiry into the nature and causes of wea1thJなる言葉を発見し得るからである。云うまでもなく,スミス『国富論』の 正式な呼称は, U"諸国民の富の性質と成因との研究
An lnquiry into theNature and Causes of the Wea1th of
Nations~ である口
おそらく,この点に関しては,
r古典派」なる最初の命名の人,マルクス
シュムベーターとケインズ
197さえもが,スミスを遠慮し,敬遠した節がある
oというのは,スミスの体系 がケインズの所謂量の問題をも同時に包摂していたからに外ならない。
このことは,スミス『国富論~ ,殊に第
l編,第
2編の構成を見れば明白 である。
第 l 編 労働の生産性改善の原因と,その生産物が諸階級の人々の間に 自然的に分配せられる順序について
第 l 章 分 業 に つ い て
第 2 章分業を発生させる原理について
第
3辛 分業は市場の広さによって制限されること 第 4~ 貨幣の起源及び効用について
第
5章 物品の実質価格と名目価格,即ちその労働価格と貨幣価格に ついて
第
61手商品の価格の構成部分について 第
7章商品の自然価格及び市場価格について 第
8辛 労 働 の 賃 銀 に つ い て
第 9章 資 本 の 利 潤 に つ い て
第
lQ]f:労働及び資本の種々なる用途における賃銀及び利潤について 第11i
rr:土地の地代について
第 2 編 資財の性質・蓄積及び、用途について 序論
第 l~ 資財の分類について
第 2 章 社会の総資財中一種特別の部門としての貨幣,即ち国民資本 の維持貨について
第
3辛資木の者積について,又は生産的及び不生産的労働について 第
4f
i ;不Ij子附で貸付けられる資財について
第
5:4i:資本の種々の用途について
いわば,第
1編第
1辛より
3平1こ至る部分は分業論,第
4:!~:より 11章は fí
情論,価格論(価値論),分配論,第 2 制は全体として資本蓄積論を椛成して
いる,ということが出来る
D然して,スミスの<勤学>に相当するものこそ,突に,分業論と資本蓄積 論の部分なのである
o両者の関係は,分業は重要乍ら結果的にはむしろ分業 は資本蓄積に依存……資本蓄積こそ「国宮」増進の根本的な推進力,とされ ている。
それに反し,貨幣論,価格論(価値論),分配論の部分は,むしろスミスの
<静学>を構成する
oそして,これこそ,まさにリカアドの『原理』にそのま ま引き継がれ一一但し「原理』の場合,
I!i'lt序は価値論,貨幣論,分配論と 変る一一,以後,ケインズに至る古典派,新古典派(大陸の経済学者達を合 む)に一貫,且つ精級化を遂げた所謂問題の部分なのである
O他方,スミスのく勤学>については,別の後継者を期待せしめた。スミス の<勤学>一一それは経済学の歴史上揺がし難い二つの結果に導く
O即 ち,スミスの<勤学>は,そこにおける資本の強調がマルクスを目玉胎せしめ ると同時に,分業(資本と表裏の関係、にある)の提示がフリードリッヒ・リ ストによる(社会的分業としての)そのー屈の拡張をみる,といった如く新
しいしかもユニークな<勤学>の形成を可能ならしめる根拠となった。
このことは,たとえばリストによるスミス(の分業論〉の批判が,その 実,スミスにおける分業の概念を狭いとする(所謂前向きの)方向で批判せ られたことをもってしても,殊更に明白である。むしろ,リストによれば,
スミスが分業につき小成に甘んじたととが,却ってスミスをして真の<勤 学>として,一一いわば「彼の学説を完全な形態において叙述するのを
J,
自ら鎖さしめた,と云う
o I彼(スミス 筆者)は
r分業」なる理念に与
えた大きな価値に明らかに迷わされて,労働そのものを諸国民のすべての 富の『源泉』として説明するに至った
J, と
o ( r政治経済学の国民的体
系J])即ち,リストにとって
I学派が分業と呼んでいるかの自然法則」は,
「国民的作業分割と国民生産諸力の結合」にまで拡大・伸張されねばならな
かったのである。
I学派は,作業分割のみをこの自然法則の本質的なものと
看倣す乙とによって,諸法則を単に個々の工場もしくは農場のみに適用す
るという誤謬を犯すに至った。学派は,同じ法則がすべて
ω工業力及び良栄
シュムベーターとケインズ
199力即ち国民の全経済一般にその効力を及ぼすものであることを,看過したの である
oJ ( r前掲書
J)マルクスにおいても,分業(殊に社会的分業)の問題は資本(資本蓄積) の問題に劣らず重要である
oたとえば彼は書いている。
I分業は商品生産に とって必要な条件であるが,しかし,それとは逆に,商品生産が分業にと って必要な条件である,ということにはならない。原始的なインド人の社 会においては,商品生産がなくても,社会的分業がある。……夫々独立に行 われ, しかも個人のために行われる種々の労働の結果たる生産物のみが,他 のものに対して商品となる
oJ ( r資本論
J)もっとも,斯かるリスト(マノレクス)による継続のスミスの一面は,他 方,潔癖な純粋理論家シュムベーターによって,まさに批判の的となるので ある
Dシュムベーターの言う
I分業,土地私有権の成立,自然に対する支 配の漸増,経済の自由と法的保障 一一ー乙れらこそ,まことにアダム・スミ
スの『経済社会学
Jを成立せしめた最も主要な要因である
o乙れらは,容易 に看取し得る如く,経済的経過の社会的外国に関わるものであって,この経 過に内在する何等かの自発的なるものに関わるのではない
J( r経済発展の
理論』訳1
51頁)然して,シュムベーターの斯かるスミス批判の方法は,次の第二の点にお いて,ケインズの古典派<勤学>批判の行き方と全く同一である点,極めて 重要である
O然して,そこで,我々は,再びシュムベーターの言及を問題に する
D第二の点として,問題になるのは,ケインズがリカアド(体系)に<勤 学>を認めていないことにある。
が,果して,このことは正しいことであろうか。我々も又,先の第一の点
の扱いに際して, リカアドがスミスの<静学>に相当する部分を引継いだ旨
を諒承した。しかしながら,この箇所に関しては,実は,若干問題があった
のである。というのは,スミス或はリカアドの当時における<静学>,たと
えば分配論の部分は,現今における程厳密に静態的なものではなし可からであ
る
Oそれはむしろ(比愉的に言えば)前進的分配の理論ともいうべきもので あり,斯かる
iE味では,動態と無縁の存在であるべきどころではなく,むし ろ<勤学>の重要な部分でさえある
Oしかしながら,我々とても,次のことは認めざるを得なし、。艮iJち,彼等:の 分配論は静学的条件下で充分考慮し得る程の理論であること,従って,それ らはその様な条件下で考慮することこそ,より正確な叙述と展開が可能であ ること,これである。
古い経済学が.<静学>と<勤学>の区別について暖昧さを有していたこ と,更には引続いての後継者達が,先達の用具と装置を遂には静学的安定条 件なる窮屈な慌の中に封じ込めるに至ったこと……については,たとえば R ・F ・ハロッドも又,彼固有の立場からではあるが,それを認め,次の椋 に書いている。
r昔の古典派の理論は,私が静態的要*と動態的要素として 定義するものをほぼ等しい割合で包含している,と敢て主張したい。
動態的要素は,経済学原理の遺産と現在認めているものからは脱落してしま った。静態分析が,限界概念の使用と数学的表現によって洗練され,完成さ れていくにつれて,動態分析は視界の外l こ去った。このことは,特に,勤学 が限界分析に対してこの様な余地を与えなかったことに起因するのかもしれ ない。
J( W動態経済学への途j])
ハロッドは又, リカアドの理論,殊にその分配論をく静学〉として処理す る我々の今日的なやり方に対しては,むしろリカアドに一一我々にではな く一一一同情的である。日く
rその序文(リカアド『原理」序 筆者)中 に.
Wこの分配を規定する諸法則を確定すること,それが経済学の主要問題 であるj] .という有名な言葉を見出すことが出来る。当代の読者は,文字通 りに,これらの言葉が,現在では分配の静態理論として知られているものに 連関するのだと,考えても無理はない
Oただ,我々は,それらの語句を,そ の前に述べられている文章に照して,考えなければならぬ。日く
w社会の 段階の異なるに従って,地代,利潤及び賃銀なる名の下 l こ,これらの階級に 割当てられる生産物全体の割合は,本質的に異なるのであろうj] .と
Oも
し,その著書を読んだ後に序文を読み返すならば,初めの引用文を後の文章
シュムベーターとケインズ
201と照合して解釈しなければならなくなる,即ち,分配論を動態的な芯味で解 釈することになり,経済学者の第ーの仕事は,或る一時点において生産物が 生!主要素の問にどのような割合で分けられるかを決定することではなくて,
生産物が生産要素間にどのように継続して再分配されていくかを知ることに ある
Oリカアドの「動態理論』の骨組を,諸君 l こ想起させてみたい口それ は,彼の理論全体の大部分をなすものである
oJ ( r前掲書 j )
即ち, リカアドは,
rr原理』序に,次の様 l こ頭書している。
r土地の生産 物一一即ち労働と機械と資本との結合投下によって土地の表面から取得さる る一切のものは,社会の三階級の聞に分たれる
D土地の所有者,耕作に必要 なる財の蓄積即ち資本の所有者及びその勤労によって土地の耕さるる労働 者,これである。……しかしながら,社会発達の様々なる段階においては,
地代,利潤及び賃銀なる名仰の下に,これら諸階級の各個に割当てらるべき土 地全産物の比例も又大いに具なるのであろう
O然して,それを主として左右 するものは,土壌の現実の肥市,資本の蓄積と人口及び、民業上 l こ用いられる 熟練と工夫と用具との如何である。……この分配を左右する諸法則を決定す ること,これが経済学の主要問題たるものである
D然して,チュノレゴー,ス チュアート,スミス,セイ,シスモンディその他の著作によってこの学問は 大いに進歩したけれども,尚且つ, j 也代・利潤及び賃銀の自然的行程に関し て我々に教うるところは,甚だ満足するに足らざるものである
oJ私をして云わしむれば,こ
ω序一段目にはリカアドの社会学が,二段目に 彼の経済学としてのく勤学>が,第三段自に彼の<静学〉が暗示されてい る。一段自の所謂「社会の三階級」が,リカアドに倣ったマルクスによっ て「二大階級」として読み替えられたことは, リカアドの経済学がマノレクス のそれに密接をもっていることと同総,ごく周知の事柄である
r全 社 会
は,敵対する二大陣営,互いに直接に対立するこ大階級一一一フツレジョア階級 とプロレタリア階級に,段々と分れてゆく
J,と
o(マノレクス・エンゲノレス
『共産党宣言~ )
ホノレスト・ワーゲンプューノレ『国民経済学における体系思考~ ( 1
933)によ
れば,
rリカアド体系の椛造」は次の椋に図示される。
需 要
人口の増大 食糧品需要の増大
財 貨 使 用 価 値 一 寸 一 一 交 換 価 値
│ 価 値 法 則 │
自 然 価 格 市 場 価 格 競 争
市 場
供 給
一 物 一 価 の 法 則
穀物価格の騰貴 労銀の騰貴
劣等地の開拓
│土地収獲逓減の法則
l生 産 貨 の 騰 貴 │
→地代の騰貴
↓一一一一一一 一一一一〈
草 本 利 潤 の 下 降 〈 自 然 価 格 市 場 価 格 : 一 般 的 利 潤 率 偶 然 的 利 潤 率
蓄積の停頓
農業利潤 工 業 利 潤
直塑杢雪空ー金法旦:J
停滞的状態
利子率
シュムペーターとケインズ
203いわば,前者が,主としてリカアドの<静学> (価値論 ワーゲンフュ‑
J
レの言葉によれば「価値法則」乃至「静態的安定価格
J)を,後者が<勤 学 >(分配論 「発展法則
J)を,夫々,表示しているといって差支えない であろう
o r周知の如く,リカアドはその学説を斯かる体系的な形で説かな かった。
J(ワーゲンフュール)
何れにせよ,後者の表示における如く, リカアドにく勤学〉がないと言い 切ることには,むしろ,多分の難さえあると言ってよい
oが,ケインズはリ
カアドを<静学>として考慮している…… が,ハロッドはむしろ逆の意見 である
o(我々は徒らに右顧左阿の時を過すのみである
o )では,一体,いかなる理由で,ケインズはリカアドをく静学>視したので あるか。
しかし,乙の聞に対して,しかもケインズに即して答えることは,極めて 困難である
oそれが如何に困難であるかは,乙の問題乃至該問題の周辺に関 わる解説の類が,見当違いの例外を除いて,絶無と云ってよい現状からしで も明白であろう。一つには,ケインズの叙述の仕方,表現におけるアングロ・
サクソン風の不親切と無愛想が,他の一つには,我々自身におけるケインズ に比較しての学的感党の欠如と理性的無能力が,一緒して,本問題の理解の 困難を助長,乃至絶望的なものにしている,という乙とが出来よう
oケインズは書いている
o r使用可能な諸資源の量に関する問題も,雇用可 能な人口数とか,天然宮源の大きさとか,者積された資本設備とかいう怠味 では,乙れまで屡々記述的に取扱われては来た。しかし,何が使用可能な諸 資源の現実の使用を規定するかについての純粋理一論
puretheoryが,特に i 手納に吟味されたととはない
J.と
o ( r前掲書』訳 5 ' " " " 6 頁)
即ち,ケインズのこの叙述に乙そ,彼の<勤学>の基本的・方法論的性格
ば明瞭に表れている
D「占典派理論の忽定している状態は,いくつかの可能的な均衡状態のうち の一つの極限点に過ぎない
J,とケインズは予め吉くことによって(
r前招
苫』訳
3瓦) ,古典派のやり方が本来<勤学>に向かないものであること,
乃至は,それが古典派の直接の目的 一一「斯学の其の目的
J(リカアド〉
でないことを,彼は既に前提している
oしかし,ケインズにとって,その松 なことは,彼の言わんとするすべてでは決してない
D彼が我々に本当に強調 したい点は,何よりも,古典派の方法が<勤学>でないこと,その椋なもの として成っていない,ということの表明なのである
D古典派,就中リカアド l こ発展法則があることは,がとして否定し得ないこと を,我々としても先に認め得た
oしかし,大事なことは,それが発展理論
( I純粋理論」の志味における)でないこと,通常におけるが如き所謂「経 済発展の理論」であること,これである。
換言すれば,それは「人口」とか
I天然富泌」とか,或は「蓄積された 資本設備」とかいう
I純粋理論」にとっては与件であるところのものの理 論への介入によってのみ可能となるところの,いわば条件附の<勤学>なの である
Oいみじくも,ワーゲンフューノレは, リカアドの場合についてのこの聞の事 情を,次の様に極めて適切に表現している
o I価値法則のそれと,発展法則 のそれ……価値法則の現象は経済そのものの本質から生じたものであり,こ こには経済の自律性が妥当する。……これに反し発展法則の現象は経済の拠 って立つ前提,即ち自然法則的事件を共に引き入れて考える場合にのみ理解 される
oJ先のワーゲンフュー
Jレによるリカアド体系の図示にあった如く, リカアド の発展法則は,
I人口の増大」がその原因になり,
I土地収穫逓減
J,更には
I(資本)蓄積の停頓」その他が相伴ってこそ,初めて可能となるところの く勤学>である
o Iリアカドは,人口法則及びその結果として生ずる土地収 穫逓減の法則を,理論的研究の過程の中へ組入れる
oJ(ワーゲンフューノレ)
いうなれば,それは,水まじりの・水たくさんの酒 一一理論家にとって
シュムペーターとケインズ
205ば安心して飲めない・気分よく酔えないところのいわば悪酒なのである
oノ
kまじり一一一それは一義的な自律体系としての経済学を,結局不可能にす るものである
Dリカアドの体系は,経済学における「最初の自律休系の試 み
J(ワーゲンフューノレ)であるかもしれない。たとえば,アノレフレッド・
アモンの云う,
rリカアドの『原理』において,初めて,完全に明瞭且つ一 義的でないとしても,論理的に一定せる方法で,理論経済学の根本的内容と 見なければならぬところの問題の領域が,現れてくる
oJ ( r理論経済学の
創始者としてのリカアド j )
たしかに, リカアドにおいては,スミスにおけ.るとは比べるもない鋭さで 純 粋 理 論 が 獲 保 さ れ て い る 一 一 ス ミ ス 『 国 富 論 』 中 , 純 粋 理 論 と し て の く静学>が抽出されたが故に,自明ともいえるが。 が , リ カ ア ド の 体 系 は,アモンも承知している如く,決して完全な意味での自律体系ではなかっ た
Dむしろ, リカアドには尚,体系が欠けていた
r彼自らある
11おこ言った
通り,体系的に明らかにする才能が彼には欠けていた
oJ(ワーゲンフュー
¥﹄
ノB
レ
ノ批判を生命とする科学(学問)の世界においては,殊更に後 I I ' l は先
'u' i . に 対 して酷である
r純粋理論」としての<勤学>を志向するケインズが, リカ アドの「発展法則
J(ケインズの所謂「記述」を伴う)に対して批判的であ った如く,シュムベーターも又, リカアドに対して批判的であった
oしか も,ケインズと金んど同じといってもよい同一論点によって! ケインズの 論理は又,シュムベーターについても,共通のものである口即ち,シュムベー ターは, リカアドの「発展法則」を評して言う
rリカアドの発展理論…・・・
彼は『仮設的に(次の如く)予測している
oj 即ち,資本及び人口の不断の
増加は,地力の問問的消耗一一一それは生産の進歩によって単.に一時的にのみ
中附さるべきものーーを伴うことによって,いつかは一つの静止状態一一
それは近代理論の均衡という理念的・瞬間的な
iF止状態とは徹頭徹尾区別さ
るべきものであるーーが出現すべく,乙の状態における経済事情ば,地
代の肥大投びに他のすべての所得の肥大によって特徴づけられるという乙
とが,これである
oこれは,与件の形成に関する仮定からその ' 1 ;T'結を『静 態的』に導出したのみであって,上l こ発展理論の名の下に理解されたも のとは全く別個のものであり,尚又,我々が本吉において発展理論という時 理解せんとするものとも一回甚だしく異るものである口
J( r発展」訳
151頁)
シュムベーターが<勤学>における方法として<静学>・<到
J学:>共l こー 賞せしめるのは, リカアドの<静学> (
r価値法則
J,所謂リカアドの純粋 経済学)におけるが如き理論にある乙とに,変りはないのである
D換言すれ ば,シュムベーターの終始問題とするところは,
r r国民経済学
National‑ okonomie J又は『政治経済学
PolitischeOkonomie Jの名をもっ広般な 全領域」でなく
rただ我々が『純粋経済学
Reine Okonomie Jと呼ぶか
の極めてがと隆な領域」である
o(シュムベーター『理論経済学の本質と主要 内容』訳30 頁)
従って,たとえばゾムパノレトにおけるが如き<勤学> (史的〔経済〉社会 学,広義の発展理論)は,一一ー与件を考慮するリカアドの<勤学>における と同様ー一一, 彼には無縁の筈のものである
rゾ ム バ ル ト … … そ れ は 理 論,しかも我々が一応考える志味での経済発展の理論であるに相違ない。け れども,それは,本書(
r発展」 筆 者 ) の 第 一 章 の 内 容
C<静 学 > 筆
者)が経済理論であり又リカアドの時代以来『経済理論」として理解されて いる意味においては,決して経済理論ではない。この後の芯味における経済 理論は,ゾムパノレトの理論の如きにおいても或租の役割を果しているものの,
それは全く従属的なるものに過ぎない。……問題とする点が発展又は歴史的
経過の理解であり,それも単に個別的経過のみではなく,能う限り多くのも
のを包摂する範囲についての理解である場合,又は問題とする点が或状態の
形像を特徴づけたり又は或経過を規定すべき諸要因の摘出である場合,一一一
これはやや狭義においては歴史的経過に対する経済社会学者又は国民経済
学者の特殊課題とも或は又発展理論とも呼ばれ得るものであるがー←, す
べてこれらの場合に対しては,かの価値ー一一価格一一貨幣という問題系列の
シュムベーターとケインズ
207経済理論は,何等の貢献をもなしていないのである
oJ ( r発展』訳1
49""'50 頁) r本書においては……固有の意味の,或は通常の怠味の発展理論は,
乙れを取扱わない。即ち,我々は,それが,たとえばアメリカの金生産の出 現が1
6世紀のドイツに粛した影響の如き個別的事件たると,又,経済人の精 神状態,発見された世界の広安,社会組織,政治的状勢,生産技術その他の 変化の如き『ヨリ一般的な』事
J市たるとを問わず,斯くの如き歴史的発展要 因を挙証することをなさない
o又個別的な場合に対しても,或は一般的に出 来得る限り多数の場合に対しでも,その影響の仕方を記述する乙とを行わな い。むしろ本書:で果されるところは,単l こ第一主主において充分読者にその性 質を明らかにせられたところの経済理論をば全くその本来の目的のために改 善し,これに増築を加えて,一層有効なるものとなすべきことに外ならぬ。
そうしてこれが結果として,たとえこの理論が上の目的以外に尚ソゃムバルト の著作について読者が最もよくその本質を知るが如きその発展理論において も従来以上にその役割を充し得るに至るとしても,しかも乙れら二つの観察 方法はその志味においてもその目標においても兵る平面の上に立つものなの である。
J( r前掲書]訳1
53"'"4 JfOケインズにとって, リカアド及び「リカアドの追随者達
J(1"たとえば
J • S
.ミノレ,マーシャノレ,エッジワース及びピグーをも含めた」が)静学 的であると考えられた如く,シュムペーターにとっても,彼以前の経済学は 悉くが静学的であると考えられた。シュムベーターが1"従来の理論の『静 態的』基本性質」を云々する所似である口 「アダム・スミス……彼は多数の 発展現象についても語っている。しかし,彼の思考過程が確実なる形を示す あらゆる湯合においては,その視察方法は本質的に静態的である。このこと は彼の第一章について一一但しそれは『労働の生産力における改良の諸原 因について』云々と表題されているけれども一一そうであり,又特 l こ事物 の中心において,即ち価格理論及び分配理論においてそうである。……理 論の核心が経済の静態であるということは,後の諸学者において尚一回明ら かである,就中リカアドにおいて。スミスは,理論の筒囲を広く拡張し,笠
iZ
な材料をもってが 1 3 した。それから先の発展は,まさにその中から基本原理
の統一的なる一体系を蒸溜して,その外に立つ一切のものを特殊原理とし て,殊に歴史的性質をもっ特殊原理として指示すること……にあった口
…リカアドは,今や彼の著作を構成するところの一束の諸研究の中に,確か に静態の基線l 乙外ならぬものを,即ち経済循環の論理の要素に外ならぬもの を描き出した。……その状態は,ただ与件の変動によってのみ撹乱せられ,
その与件変動への反作用のみが『進歩』の概念の下に把握されている リカアドの後継者たるジェームス・ミノレからケアンズ及び、ニコルソンに至る までの人々は,彼から引継いだ諸原理即ち経済的静態の完成に,彼等の活動 の領域を見出した。……主観的価値論による理論の大改革も,理論構造の 静態的性質を変えなかった。 いかなるお(述と雌もレオン・ワノレラスのそれ より『ー屑静態的』ではない。我々の科学の創始以来の理論の諸基本原理 は,最も厳密なる形で彼の手の中に結;もしている
Oオーストリー学派の諸学 者……彼等の叙述すると乙ろも勿論経済の循環以外の何ものでもない口
J( r
前掲吉
J訳
131‑‑‑‑41頁 〉
最後に,第三の点として,次のことが指摘され得る
O即 ち , そ の 問 所 前
「限界草命」を経過したとはいえ, リカアドの体系が文字通りの静態的体系 (純粋経済学)としてワノレラスに継承された一一ーというのがシュムベーター の意見である一一一ことによって,ワノレラスを自己の<静学>として枢めた シュムベーターに, リカアド一一ーワ
Jレラス一一ーシュムベーターという興味深 い一系列の結末を,我々が発見し得る点にある
o IL・ワルラスとフォン・
ウィーザーとが,著者自ら最も近いと信ずる学者である
o J ( r本質
J序言)
「 ワ
Jレラス……後の生涯の著作を綜合した三巻の古……第一巻の第
2‑‑‑‑6編に含まれた思想行程は,青銅の如く永久
aereρ
erenniusである
oJ( 同
『十大経済学者 j )
大陸においてのみならず,イギリスにおいても,事情ーは変りなかったロケ
インズは書いている
o Iマーシャ
Jレは,自己の思想がリカアドの思想と連続
していることを強調するのに,特に苦心を払っていた
O彼 の 仕 事 は , 大 部
シュムペーターとケインズ
209分,限界原理と代用の法則とをリカア Fの伝統に接穂、することにあった。
……私は乙の様な雰囲気のうちに成長し,私自らこの様な学説を教えて来 た。私がその不完全さを意識する様になったのは,漸く過去1
0ヶ年以来のこ とである。
J([1前掲書』日木版への序)
即ち, リカアド一一マーシャノレ一一ケインズの系列,乙れである。
そして又,このことは,同時に,ケインズの<静学> (奇妙な言い方であ るが一一一彼の<静学>は,彼の所謂「古典派」がそれを充当する)が,シュ ムベーターの<静学>と略一致することを妨げない一証明となり得ること を,我々に暗示する
Oもっとも,前者における<静学> (静態)が,その索材において,恰もリ カアド(或は
J• S・ミノレ)の場合に象徴される如く,かなり存在論的規定 を有する比較的に実世界的様相のものであるに反し,後者の場合,ごく理念 的(認識論的)なものを強調するいわば理論的便宜のものであるという相違 は,白から(たとえ別途にせよ)考慮されなければならないし,又その必 要がある
Dたとえばシュムベーターの言う1"純粋
i語学的経済学は,一定の 経済事実の抽象的形像,即ちその事実の記述の役を果すべき一つの図式に外 ならぬ。それは,一定の仮定を基礎とし,その限りにおいて我々の迩、志の所 産であること,↑合も他の精密科学が何れもそうであるに異ならない。それ 故,歴史家が,我々の理論を幻想の椛成物であるというならば,或意味にお いて彼は正当である。確かに,現象の世界そのものの中には,我々の『仮 定』も我々の『法則』も独立には存在しない
Dしかし,このことからは,未 だ仮定や法則に対する抗議は生じない。何故なら,この事は,仮定や法則が 事実に適合するのを妨げるものではないからである
o斯かる適合は何に由来 するのであろうか。それは,単に,図式の構成に際して,我々が浴、志的では あるが,しかも合理的な方法を採り,図式を全く事実に顧慮して企画したか
らに過ぎない
oJ ([1本質』訳5
13頁)
結果, シュムペーターの場合,<静学>の問題は1"肉のない骸骨
J( シ ュムペーター自身の評)よろしく,極めて限定された,抽象協まる表現をも
J
コ コ
文字通り「端的に
J, シュムベーターの言う, 「我々が何れか一つの国民 経済を展望するならば,我々は各経済主休が一定財貨の一定量を所有してい るのを発見する
D斯くて,経済学の基礎には次の認識が横たわっている
o即 ち,我々が簡単に『経済的諸
ill:okonomische Quantitaten~と呼ぶ乙れら すべての諸呈が,その一つが変動すればこれに続いて他のすべても変動する というが如き絞式で,相互に依存関係、に立つこと,これである
Cそれは単純 な経験的事実であって,殆んどこれ以上の説明を必要としない程明白であ る。我々はこの事実を,かの諸呈が一つの体系の要素
Elementeeines Sys‑ temesを椛成するという言葉をもって表現しよう
oそれ故,かの諸宣:がれ;;
合的には怒;立的,偶然的或はその他何であろうとも,又それに如何なる芯味 が結びつけ
aられようとも,個々のそれ自体は偶然的であり独立的であること は出来ない。……さて,これらの諸呈が次の如き結合関係,即ちそのうち 一つ又は若干の諸呈のある所与の大さには他の諸呈のある所与の大さ,しか もただ一つの大さが所同するという結合関係にあることを見出すならば,我 々は体系が一義的に規定せられていると名づけよう。ここで『所属する
Ge‑h ヲren~ という怠味は,所与ならざる諸量の上の大さがひとりでに発生しょ
うとし,且っこの大さが一度実現するならば, より以上の変動への一切の傾
向が体系のうちに消滅するということであるロ我々はこの状態を均衡状態と
名づける
O又,この状態における個々の諸量を正常的或は自然的と命名す
る。……斯くして,我々の課題は,一つの国民経済の何らかの状態が与え
られる時,もし予期せざる事象が何事も起らないならば,次の瞬間に生ずる
筈のかの諸量の変動を導出することである
Oこの導出は,我々が『説明
Er‑ knrungj と名づけるものである。それはかの依存関係の記述によって果さ
れるために,我々の課題は又,我々の体系とその迩勤傾向との記述として定
義されることが出来る
o乙の課題が思想過程の進行に際して,他の諸科学の
実質的命題を顧底する必要なくして一義的に可能であるならば,ここに経済
学なる自己完了的なー学科が存在する。記述を構成する諸命題を,それらが
充分な重要性をもっ時には『経済法則』と命名する
oその全体が『純粋経済
学 』 又は 『理論経済学
Jなる学科を形づくる。
J( r本質』訳 2 5 " " "6 頁)
シュムベーターとケインズ
211斯かるシュムベーターの「純粋経済学
J~é 対して, 当 然 批 判 の あ る と と は,実際分り切ったことである。たとえばカーノレ・ディー
Jレ の 批 判 して云
つ
,
「すべての組織,即ちすべての空間・時間上の一定基礎から無関係で あり,そして単に財の量と経済主観との量的関係のみを説明するに止まり 且つ自動的に明らかにされるような純粋経済学が,我々に何を意味する筈だ ろうか。交換なき経済にも交換経済にも等しく妥当する殺な経済法則が,我 々にどんなに役に立つ筈であろうか。まさに厳密な方法と理論の立場から要 請されるべきところの巌格主義は,結局人々がシュムベータ一流に純粋理論 を企てる場合, どこに到達するかを示すに至った口即ち, それらの前提を承 認する人々は,何人もその絶対的に正しさを否定し得ない様な諸命題に達す るのである
oだが,決定的なことは,それらの前提が余りに狭きに失して,
何ら経済関係の理解に役立つ様な結果に達する筈がないということである。」
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