『 現代 世界思 想史 序説 上』 へ の補 い(2) ,外 国の部
倉 田 稔
も く じ
は じめ に 第1次 大 戦 の 結 果 ロ マ ノ ブ 家 の 最 後 シ ル ビ オ ・ゲ ゼ ル 20世 紀 の 技 術1929年 世 界 大 恐 慌 ナ チ ズ ム ナ チ ズ ム に関 す る 本 ア ン ネ ・フ ラ ン ク ム ソ リ ー ニ ポ プ リス モ,ペ ロ ニ ス モ20世 紀 の 大 事 件
は じ め に
こ れ は,拙 書 『現 代 世 界 思 想 史 上 』(丘 書 房)の 補 い で あ り,そ し て す べ て外 国 の 部 で あ る。
第1次 大 戦 の 結 果
第1次 大 戦 の 結 果,2千 万 人 の 死 者 が 出 た 。 資 本 主 義 社 会 の 安 定 的 発 展 が 疑 わ れ,人 間 の 理 性 に不 信 が 寄 せ られ,進 歩 の 思 想 が信 じ られ な くな っ た。 これ らの 思 想 が 打 ち砕 か れ た 。 資本 主 義 が 世 界 戦 争 を行 な い,各 国民 が 塗 炭 の苦 し み に会 っ た こ とで,人 々 は シ ョ ッ ク を受 け た 。シ ュペ ング ラー は 『西 欧 の 没 落 』 で,ヨ ー ロ ッパ とそ の 文 化 が 滅 び た,と 論 じた 。
戦 後 に,ウ ィ ル ソ ン は ア メ リ カ大 統 領 選挙 で 負 け て し ま い,世 界 政 治 か ら退 場 し た。 列 強 が ウ ィル ソ ンの 立 て た 梯 子 で2階 に上 っ た ら,梯 子 が はず され て し ま っ た とい う わ け で あ る。 気 が 付 い た 時,ア メ リ カ,ド イ ッ,ソ 連 が 国 際 連 盟 に入 っ て い なか っ た 。
〔1〕
この 戦 争(WW1)は,重 工 業 ・大 銀 行 に よ る,お くれ た 植 民 地 競 争 の 実 施 で あ っ た 。 ドイ ッ は,ト ル コ を狙 い,ベ ル リ ン ・ビザ ン ツ ・バ グ ダ ッ ドの 線 を 確 保 し よ う と した 。 こ れ で1890年 に,ロ シ ア を フ ラ ンス に追 い や っ た 。
第1次 大 戦 後,レ マ ル ク の 小 説 『西 部 戦 線 異 常 な し』 が 出 た。 大 戦 中 に起 き た ロ シ ア革 命 で,民 族 独 立 の 影 響 が 出 た 。 当 面,東 ヨー ロ ッパ で実 現 す る こ と に な る 。
ロ マ ノ フ 家 の最 後
ニ コ ラ イ2世(在 位1894‑1917,生 没 年1868‑1918)は,ア レク サ ン ドル 3世 の長 子 で,ロ マ ノ ブ家 最 後 の 皇 帝 と な っ た 。1613年 に ミハ イ ル ・ロ マ ノ ブ が 帝 位 につ い て,ロ マ ノ ブ朝 が 成 立 し て 以 来,ほ ぼ300年 に わ た っ て ロ マ ノ ブ 家 が ロ シ ア で 帝 位 に つ い て い た 。 そ こで ニ コ ラ イ2世 の 治 世 中,300年 記 念 が 行 な わ れ た 。 ニ コ ラ イ2世 は1891年,皇 太 子 時 代 に 日本 を来 訪 し,巡 査 ・津 田 三 蔵 に切 りつ け られ負 傷 した(大 津 事 件)こ とが あ る。彼 は そ の 後 皇 帝 に な り, 専 制 政 治 を望 ん だ。 ニ コ ラ イ は 意 志 薄 弱 で,皇 后 ア レ クサ ン ドラ に左 右 され,
晩 年 に は政 治 に も無 関 心 に な っ た 。第 一 次 大 戦 で は,自 ら最 高 司 令 官 に な っ た 。 そ して 内政 は 皇 后 と ラス プ ー チ ン に ま かせ た 。 ア レ クサ ン ドラ皇 后 は,ド イ ッ 出 身 で,ヘ ッセ ン大 公 女 だ っ た 。 こ の 時代,ラ ス プ ー チ ンが 権 勢 を ほ しい ま ま に した。 ラ ス プ ー チ ン(1872‑1916)は,ト ボ リ ス ク 県 の 農 民 出 身 で,各 地 の 修 道 院 を遍 歴 後,貴 族 と知 り合 い,帝 室 に 近 づ い た 。 彼 は,皇 太 子 ア レク セ イ の不 治 の病(血 友 病)を 治 癒 して,皇 帝 と皇 后 の信 任 を え た。 そ れ ゆ え,1914 年 か ら16年 に か け て絶 大 な権 力 を振 る い,国 政 に 関 与 した 。 彼 は 大 臣 の任 免 ・ 罷 免 まで と りし き っ た 。 だ が,1916年12月17日,右 派 反 対 勢 力 の ド ミ トリー 大 公,ユ ス ポ フ公 爵 らに よ っ て暗 殺 され た。
1917年2月 革 命 で 帝 政 が 崩 壊 し,3月2日 に ニ コ ラ イ2世 は退 位 宣 言 を した。
そ の 後,家 族 は シベ リア ・ トボ リス クへ 送 られ た。 夫 妻,4人 の 皇 女 つ ま り, オ リ ガ,タ チ アナ,マ リ ア,ア ナ ス タ シ ア と,皇 太 子 ア レ ク セ イ で あ っ た 。10
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の 補 い(2),外 国 の 部 3
月 革 命 後,エ カチ ェ リ ンブ ル グ(旧 ス ヴ ェ ル ドロ フ ス ク)へ 移 され,家 族 と と もに 銃 殺 さ れ た 。1918年7月16日 に家 族 全 員 銃 殺 され た とい うの が 定 説 で あ る。
責 任 は,地 方 ソ ヴ ィ エ トか レー ニ ン政 権 か,の ど ち らか で あ り,処 刑 し た理 由 は 白衛 軍 の 存 在 で あ っ た 。
だ が,皇 帝 は銃 殺 さ れ た が,皇 太 子 は病 死 し,皇 后 と4人 の 娘 が ペ ル ミに護 送 され,さ ら にモ ス ク ワ 方 面 に 向 か っ て,消 息 を絶 っ た,と い う説 が あ る。19 年 に,1人 の 女 性 が ベ ル リ ン運 河 に 飛 び込 ん だ 。そ れ は 末 娘 アス タ シア で あ る,
と も され,そ の 後,生 きて い た と も され る 。1)
シ ル ビ オ ・ゲ ゼ ル
ゲ セ ル は 経 済 学 者 。1862年 に,ベ ル ギ ー で 生 ま れ た 。1886年,ア ル ゼ ン チ ン へ ゆ き,商 売 で 成 功 し た 。 ス イ ス で 独 学 し,ミ ュ ン ヘ ン ・ レ ー テ 共 和 国 の 蔵 相
と な っ た 。 そ の 後 は,ベ ル リ ン で 活 躍 す る 。 主 著 は,DieNaturlicheWirt‑
schaftsordnungdurchFreilandundFreigeld.Berlin1920.で あ る 。 最 近 流 行 の 地 方 通 貨 論 に 影 響 を 与 え た 人 で も あ る1a)。
20世 紀 の 技術
1908年 に フ ォー ドが,自 動 車 の大 量 生 産 シ ス テ ム を作 っ て い た。1920年 代 は, ア メ リ カの 大 量 消 費 時 代 の 開 幕 で あ っ た。20世 紀 は 自動 車 の 世 紀 で もあ っ た 。
1931年 に,発 明 王 トマ ス ・エ ジ ソ ンが 亡 くな っ た 。 彼 は,ア メ リ カ資 本 主 義 の 良 い 面,ア メ リ カ社 会 の 健 全 な面 を代 表 す る 人 物 で あ っ た 。 エ ジ ソ ン は,生
1)ユ ル ・ブ リ ン ナ ー,イ ン グ リ ッ ド ・バ ー グ マ ン 主 演,映 画 『追 想 』 で,ア ナ ス タ シ ア 姫 は 有 名 と な る 。 参 考,サ マ ー ズ,マ ン ゴ ー ル ド 『ロ マ ノ ブ 家 の 最 後 』 中 央 公 論 。
1a)ゲ ゼ ル の 翻 訳 は,一 部 削 除 だ が,相 田 慎 一 訳 で,一 つ あ る 。
SilvioGesell,DasGeldwieesseinsollundseinkann,(所 収,『 専 修 大 学 北 海 道 短 期 大 学 紀 要 』33号,2000年12月)
涯,人 類 の 便 利 さの た め に 日 々活 躍 した 。 彼 は 千 数 百 の発 明 を し,特 許 を取 っ た。 だ が 彼 の 正 当 な 努 力 は,相 当部 分 が,ア メ リ カの 諸 財 閥 に 収 奪 さ れ た 。
19世 紀 が 蝋 燭 の 時 代 で あ っ た とす れ ば,20世 紀 は 電 灯 の 時代 と な っ た 。 エ ジ ソ ンの 白 熱 電 灯 の発 明 は,電 灯 時 代 の き っか け とな っ た。 これ は 人 類 の生 活 時 間 の観 念 と生 活 様 式 を変 え た 。
ま た20世 紀 は,電 気,電 信,飛 行 機,機 関 銃,自 動 車,戦 車 の 時 代 を切 り開 い た。 家 庭 電 化 製 品 が 売 れ,ア メ リカ が そ れ を代 表 した 。 こ れ は,す ぐ後 に お き る大 恐 慌 の 原 因 に な る の だ が,一 方 で,第2次 大 戦 後 の ア メ リ カの 繁 栄 の さ きが け で あ っ た 。
文 化 時 間 は 短 縮 した 。 だが 人 間 殺 傷 能 力 が 増 大 した 。 ま た20世 紀 半 ば に は, 人 類 の 不 幸 の刃 ・原 子 力 を握 る こ と に な る 。
1929年 世 界 大 恐慌
ウ オ ー ル街 の キ ン グ とい わ れ た ジ ェ シ ー ・リバ モ ア は,株 屋 につ とめ,鉄 道 株 で100万 ドル 以 上 儲 け た 。 銀 行 家 の 息 子 の ジ ョセ ブ ・ケ ネ デ ィは,ラ ジ オ株 で 儲 け た 。 一 般 投 資 家 が株 式 投 資 に 参 加 して きて,ブ ロ ー カー ズ ・ロ ー ンを借 りて株 式 投 資 を す る人 も急 増 し た。1929年,ア ー ヴ ィ ング ・フ ィ ッシ ャー 教 授 は楽 観 論 を述 べ た 。9月3日 が 株 価 の 最 高 で あ っ た 。 だ が ケ ネデ ィ は そ の 後 全 て の株 を売 り,撤 退 した。 リバ モ ア は,株 価 情 報 分 析 家 を 採 用 し,情 報 を得 て い た 。 そ こで イ ギ リス 中央 銀 行 が 金 利 を大 幅 に上 げ る とい う情 報 を得 た 。 そ れ で 資 金 が イ ギ リス へ 流 れ た 。J.P.モ ル ガ ンの 大 統 領 あ て レポ ー トは 景 気 に つ い て は楽 観 論 だ っ た 。
だ が 暴 落 が 始 ま っ た の だ っ た 。10月24日(木)朝10時 に取 引 所 が 開 い た 。25 分 後,GM(ゼ ネ ラル ・モ ー タ ー ズ)に 大 量 の 売 りが 出 た 。 驚 い た5千 人 の 投 資 家 が ウ オ ー ル街 に 売 りに きた 。 そ こで 警 官 隊 が 出 動 した 。 リバ モ ア は 空 売 り で 儲 け た 。 銀 行 連 合 は 買 い 支 え に 回 っ た 。 そ の た め 相 場 は 回復 した が,そ の ニ ュ ー ス が 全 国 に早 く広 く伝 わ ら なか っ た 。そ の ま ま3時 に,取 引 所 が 終 了 した 。
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の 補 い(2) ,外 国 の部 5
30億 ドル が1日 で 失 われ た 。 リバ モ ア は 数 百 万 ドル 儲 け た。10月29日 に は,下 げ幅 が 最 大 とな っ た 。 こ の恐 慌 で1300以 上 の銀 行 が 倒 れ,全 国 で4分 の1の 労 働 者 が 失 業 した 。リバ モ ア は そ の 後 失 敗 し,自 殺 した。ケ ネ デ ィ は,そ の 後 ル ー ズ ヴ ェ ル トの大 統 領 選 挙 費用 を 出 し,イ ギ リス大 使 と な り,ヨ ー ロ ッパ の 相 場 で 儲 け た 。 ア メ リ カ は 国際 貿 易=輸 入 を縮 小 した 。 安 値 に なう た株 を,ロ ッ ク
フ ェ ラー や モ ル ガ ンが 買 い 占 め て,後 に大 権 力 を 持 つ こ とに な る。
ナ チ ズ ム
ドイ ツ革 命(1918年)は,ま っ た く急 な急 進 的 な,上 か らの 革 命 で あ っ た 。 こ れ が,ワ イ マ ー ル 国 民 会 議 を導 い た 。 革 命 は,ビ ス マ ル ク 憲 法 の 根 本 的 改 造 に帰 着 した 。 予 期 せ ぬ,強 要 され た,民 主 主 義 で あ っ た。(Bracher)
1933年 に ナ チ ス(=国 民 社 会 主 義,以 下,ナ チ ス と略)が 権 力 を獲 得 した と き,賠 償 を払 う必 要 が な くな っ て い た 。外 交 的 自 由 もあ っ た。外 交 は,ヒ トラ ー (AdolfHitler)が 一 手 に引 き受 け た 。 目標 は,イ ギ リス(ゲ ル マ ン)・ イ タ リ ア(フ ァ シ ズ ム)と 結 び,フ ラ ンス と ソ連 を敵 視 し,オ ー ス トリ ア を 併 合 す る こ とだ っ た。 ナ チ ス が 求 め られ,国 民 に期 待 きれ た の は,失 業 の蔓 延 な どの 経 済 問 題 で あ っ た 。 ヒ トラ ー の 上 昇 理 由 は,ド イ ツ人 の戦 後 処 理 の不 満,大 恐 慌,日 本 と 同 じ く持 た ざ る ドイ ッ で あ った こ と,つ ま り原 料 を え られ な い こ と だ っ た 。 経 済 帝 国 の 必 要 が あ た っ た の で あ る。
ドイ ツ共 産 党 の 弾 圧 の きっ か け に な っ た ドイ ツ 国 会 放 火 事 件 は,フ ァ ン ・デ ア ・ル ッベ が1人 で す べ て を した 。 しか し ヒ トラ ー は,共 産 主 義 者 が 火 をつ け た と信 じ込 ん だ 。 そ し て蜂 起 を恐 れ た ゆ え に,例 外 法 を導 入 した 。
ヒ トラー は,1933年4月7日 に,反 ユ ダヤ 立 法 を 通 した。 ユ ダヤ 人 と反 ナ チ に対 して で あ る 。 しか し一 部 をの ぞ い た 。3代 前 まで にユ ダ ヤ 人 が い る ば あ い ユ ダ ヤ 人 に な り,そ れ を ナ チ ス が きめ る の だ っ た 。そ し て公 職 か ら締 め 出 した 。
1933年7月14日,ナ チ 党 は 唯 一 の 政 党 と な っ た 。 そ し て1元 化 (Gleichschaltung,均 制 化)を 行 な っ た 。 つ ま り 自治 体 を認 め な い の で あ り,
(国家 と州 の)中 央 集 権 化 を した 。 こ う し て ナ チ 指 導 を全 国 民 に浸 透 させ よ う と した。 これ が ナ チ 革 命 で あ っ た 。
ヒ トラ ー は,政 治 的 反 対 派 を沈 黙 させ,系 統 的 に 迫 害 した 。 現 実 に敵 が い な くな る と,敵 だ と勝 手 に想 像 した もの を迫 害 した 。 つ ま りユ ダヤ 人 で あ る 。 強 制 収 容 所 をSSに よ っ て 作 らせ,こ こ に放 りこ ん だ 。 お もに 迫 害 され た の は ド イ ツ のユ ダヤ 人 で あ る。 全 体 的 国 家 に は 敵 が 絶 対 必 要 だ っ た 。
ヒ トラ ー は,全 体 主 義 と国 家 の 権 威 を守 る絶 対 的 権 力 が 必 要 だ っ た。 内 閣 に 無 制 限 の 立 法 権 を与 え,行 政 と立 法 の分 立 を消 滅 させ た 。 そ して 総 統 が 国 民 の 決 定 に しば られ な い よ う に した 。
ドイ ツ は 一 党 独 裁 制 と な り,1933年11月 に,国 連 を脱 退 した 。 ま た軍 縮 会 議 を脱 退 す る 。 ヒ トラ ー は,再 軍 備 を狙 うの だ っ た 。1934年8月,ヒ ンデ ン ブ ル グ 大 統 領 の 死 で,ヒ トラ ー は 大 統 領 お よび 総 理 大 臣 の 位 置 に つ くの で あ る 。 ヒ トラ ー は,総 統 像 を ロ ー マ 皇 帝 に求 め て い た。
ヒ トラ ー は,1934年6月30日 に,殺 人 ・粛 清,弾 圧 を行 う。 競 争 相 手 のSA 隊 長 ・レー ム は,「 社 会 主 義 」 を真 剣 に受 け 取 り,第2革 命 を 狙 っ た し,国 防 相 を望 ん だ 。SAを 国 防 軍 の代 わ りにせ よ と要 求 した 。ヒ トラ ー は危 険 を感 じ, 粛 清 し た の だ っ た。1934年8月,ゲ ー リ ン グ はSAを 解 散 させ た。当時 ヒ トラ ー
と レー ム は,行 進 やパ レ ー ドで も一 緒 に 立 っ て い た し,こ れ まで は,ヒ トラ ー は まだ 独 裁 者 で は な か っ た。 ドイ ツ人 は指 導 者 を 求 め る(マ レー ネ ・デ ィー ト リ ヒ)。 ドイ ツ 人 は誰 か に 指 導 を させ た が る(レ ニ ・リー フ ェ ンシ ュ ター ル)。
1934年,ヒ トラ ー は,ド イ ツ ・ポ ー ラ ン ド不 可 侵 条 約 を結 ん だ 。1935年 に, 一 般 兵 役 義 務 を しい た。 こ れ は 再 軍 備 の 第1段 階 で あ っ た。 そ れ に対 して 各 国 は,相 互 援 助 条 約 を結 ん だ。1934年 の ナ チ ス 党 大 会 を,レ ニ ・リー フ ェ ン シ ュ ター ル監 督 は,映 画 「意 志 の 勝 利 」 に とっ た 。 こ れ は パ リで 金 賞 を貰 っ た 。 大 会 の テ ー マ は 雇 用 創 出 と平 和 と思 え た。
ナ チ ス の 思 想 的 代 弁 者 ロ ー ゼ ンベ ル グ は,国 家 よ り もナ チ 運 動 が 上 で あ り, 国 家 は ナ チ 生 活 哲 学 の 道 具 で あ る,と した 。 国家 は,道 徳 概 念 で も絶 対 的 理 念 の 実 現(ヘ ー ゲ ル)で もな く,人 種 的 民 族 の従 僕 で あ り,目 的 で な く手 段 だ と,
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の 補 い(2) ,外 国の 部 7 ヒ トラ ー は 考 え た 。 生 存 の 最 高 目的 は,国 家 ・政 府 の 維 持 で な く,民 族 の 維 持 で あ る と言 う。 この 考 えが,1934年6月,血 の粛 清 の 後,1934年9月 の 党 大 会 で 実 践 化 され た。
党 に よっ て 国家 が 決 定 さ れ る,と シ ュ ミ ッ トは語 る。 ナ チ ス の 理 論 は ば くぜ ん と して い た 。 ナ チ 党 員 は 党 首 に絶 対 服 従 す る とい う,指 導 者 原 理 が 出 来 上 が っ た 。 しか しこ れ で,ナ チ ズ ム は キ リス ト教 精 神 の 敵 に な っ た 。 個 人 の 良心 よ りも ヒ トラー と党 が優 位 した か らで あ る 。 教 会 も迫 害 され た 。 そ こで キ リス ト 者 の 反 ナ チ 精 神 が 生 まれ た。 ヒ トラ ー 暗 殺 計 画 も,す べ て失 敗 した が,い くつ も起 こ さ れ た 。 例 え ば,後 述 の 事 件 以 外 に,エ ル ザ ー 事 件,ト レ シ ュ コ ー事 件 な ど な どで あ る。 一 方 で,経 済 が 復 興 し,国 民 は 国 家 に忠 実 に な った 。
ヒ トラ ー は,1935年,ニ ュ ル ンベ ル グ 法 を通 した 。 こ れ で ユ ダヤ 人 の あ ら ゆ る権 利 を奪 った 。 ドイ ツ人 とユ ダ ヤ人 との 結 婚 も禁 じた。 ま た,ヒ ム ラ ー の 親 衛 隊 を 強化 し,ゲ シ ュ タ ポ 長 官 は ラ イ ンハ ル ト ・ハ イ ドリ ヒに な る。
1936年,ベ ル リ ン ・オ リ ン ピ ッ ク が 開 か れ た。 ヒ トラ ー は オ リ ン ピ ッ ク は嫌 い だ っ た し,興 味 が な か っ た。 「黒 人 が 勝 っ て,面 白 い はず が な い,彼 は 国 粋 主 義 者 だ か ら。」(リ ー フ ェ ン シ ュ タ ー ル)
ヒ トラ ー が,1937年 秋 以 来,戦 争 の準 備 を した こ と は確 実 で あ る。1937年, ヒ トラー の 計 画(ボ ス バ ッハ 大 佐 覚 書)が あ る。 そ れ は,「 ドイ ツ の 人 種 的 共 同 体 を確 保 ・維 持 ・拡 大 す る」 「そ の た め に 『国 土 の狭 さ の解 決 』 に よ る 生 活 圏 の た め に,力 の 道 しか な い 」 の 発 言 で あ る。 国 防 軍 は,い つ も た め ら った 。 そ こ で ヒ トラー は,国 防 相,陸 軍 総 司令 官 を解 任 した し,ヒ トラー は事 実 上 権 限 を握 っ た 。 外 交 も人 事 移 動 もそ う だ っ た 。
ヒ トラ ー は,1937年11月 の 秘 密 演 説 で,チ ェ コス ロ ヴ ァキ ア 粉 砕 の決 意 を語 った 。 チ ェ コス ロ ヴ ァ キ ア の ズ デ ー テ ン ・ ドイ ツ 人 の 自治 要 求 は 激 しい,そ し て ドイ ツ は そ れ を支 援 す る,と い う の もの で あ っ た 。1938年,ヒ トラ ー は オ ー ス トリア を併 合 す る。1938年5月30日 に,ヒ トラー は,チ ェ コ問 題 で 国 防 軍 へ 秘 密 指 令 を出 した 。
1938年,英 仏 独 伊 は,ミ ュ ンヘ ンで,ズ デ ー テ ン地 方 の ドイ ツへ の割 譲=接
収 案 民 族 自 治 に よ る 協 定 を認 め た 。 こ の9月 の ミュ ンヘ ン協 定 を, イ ギ リス の あ らゆ る新 聞 は,『 レイ ノ ル ズ ・ニ ュー ズ 』を例 外 と し て,賞 賛 した 。 ヒ トラー は しか し,初 め か らチ ェ コ全 部 を奪 うつ も りで あ っ た。1938年10月, ヒ トラ ー は 「チ ェ コス ロ ヴ ァ キ ア の残 りを片 ず け る」 秘 密 指 令 を 出 した 。1939 年 に,チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア を ヒ トラ ー に委 ね る 文 書 に,チ ェ コス ロ ヴ ァキ ア大 統 領 ハ ー ハ に署 名 させ た。ドイ ッ 軍 はす ぐチ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア全 土 を 占領 した 。 こ れ は 民 族 自治 を破 る決 定 的 転i換だ っ た 。
1938年,ナ チ ス は ユ ダ ヤ 人 虐 殺 を始 め た 。1939年5月,独 ・伊 軍 事 同 盟 が 成 っ た。 ドイ ツ は,ダ ンチ ヒ な どを 返 還 要 求 した 。英 ・仏 ・ソ連 ・ポ ー ラ ン ドは, 提 携 交 渉 に 失 敗 し,英 は,ポ ー ラ ン ドに 肩 入 れ を した 。 英 仏 と ドイ ッ の,ソ 連
を味 方 に 着 け る獲 得 競 争 が 始 ま っ た。 だ が,1939年8月3日,独 ソ不 可 侵 条 約 が な っ た 。 ドイ ツ は,2正 面 作 戦 を避 け た し,避 け る こ とが で き た。 ソ連 が 西 欧 を選 べ ば,ま た は 西 欧 が ソ 連 を選 べ ば,戦 争 は 起 こ らな か っ た の だ 。8月5 日,英 ・ポ ー ラ ン ド相 互 援 助 条 約 が な っ た 。
ドイ ツ は,ポ ー ラ ン ドを侵 攻 した 。1939年9月1日 で あ っ た 。 宣 戦 布 告 は な か っ た。 しか しす で に イ タ リア は,1935年 にエ チ オ ピ ア侵 略 して い た し,1932 年,中 共 は 対 日宣 戦 を し て い た 。 電 撃 戦 に よ っ て,ヒ トラ ー は 西 ポ ー ラ ン ドを 占 領 した 。 そ の 後,入 植 地 に ドイ ツ人 の み 送 っ た 。
ヒ トラ ー は,フ ラ ン ス 攻 撃 を し,征 服 す る。 ヒ トラ ー の ユ ダ ヤ 人 虐 殺 は, 1940‑41年 に計 画 的 に な り,ア イ ヒ マ ン に 国外 移 住 計 画 を作 らせ た。
ヒ トラ ー の 勝 利 は,列 強 が 戦 争 に気 乗 り薄 と見 た こ と,小 き ざみ な戦 争 を し た こ と,国 際 連 盟 が 一 有 効 で な い 一 を無 視 した こ と,ロ シ ア革 命 で 列 強 が ドイ ッ を ソ連 の 防 波堤 と見 た こ と,列 強 と左 翼 が ナ チ ズ ム の本 質 を分 か ら な か った こ と,ソ 連 の 反 ドイ ツ 呼掛 け を列 強 が 無 視 した こ と,ス ター リ ンが ソ連 の 政 治 家 ・軍 部 を狂 信 的 に粛 清 し,弱 体 化 させ い た た こ と,ス ペ イ ン市 民 戦 争 で の 失 敗(1936‑)に 独 伊 は援 助 した が,英 ・仏 ・ソ は援 助 しな か っ た こ と, に あ る。
ヒ トラ ー は,少 しず つ の 一 連 の 小 戦 争 に よ っ て 問 題 の 解 決 を計 画 した。 全 く
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の補 い(2),外 国 の 部 9
戦 争 を しな い で う ま く切 り抜 け よ う と した 。 大 戦 争 を準 備 して い る ふ りを して 実 際 に は そ う しな か っ た と こ ろ に,ヒ トラ ー の政 治 戦 略 の本 質 が あ る。ヒ トラー は 軍 備 を誇 張 した 。 彼 の 再 軍 備 の 動 機 は,赤 軍 へ の恐 怖 で あ っ た 。1935年 に 政 策 の 重 点 に若 干 の 変 化 が あ っ た 。1936年 春 まで ドイ ツ の 再 軍 備 は ほ とん ど神 話
に す ぎ な か っ た 。2)
ヒ トラ ー の ヨー ロ ッパ 大 陸 支 配 が な り,彼 は イギ リス攻 撃 を した 。 これ は失 敗 に 終 る の だ が,独 ソ戦 の カ モ フ ラー ジ ュ で もあ っ た。1940年 に,ヒ トラ ー は ソ 連 攻 撃 を説 い た 。 バ ロバ ロ ッサ作 戦 で あ る 。 これ は,ソ 連 を葬 り,そ の 民 族 を根 絶 す る もの で あ っ た 。 まず モ ス ク ワ を 占 領 す べ く準 備 を した。 三 方 か ら攻 め入 った 。1941年6月 に,宣 戦 布 告 な しで ソ 連 国 境 を越 え た 。 ドイ ッ 軍 はモ ス ク ワ の ほ とん ど手 前 まで 侵 略 した 。 ドイ ツ の 機 甲 部 隊 の 名 将 グ デ リア ン将 軍 の 指 揮 に よ っ て で あ っ た。 彼 は フ ラ ンス 戦 で も有 能 さ を発 揮 して い た 。 しか しモ ス ク ワ攻 撃 の ドイ ツ軍 の 前 に,ソ 連 軍 は,ね ば った 。 そ して ドイ ツ の 攻 撃 は予 定 よ り遅 れ させ られ た。 そ こ に ロ シ ア の 厳 冬 が や っ て きた の で あ る 。 ドイ ツ軍 は ソ 連 側 に反 攻 され て,退 却 す る の だ っ た。 そ の 後,レ ニ ン グ ラ ー ド(今 の ペ テ ル ブ ル グ)攻 防 戦 が 始 ま っ た。 レニ ン グ ラ ー ド市 民 は,ド イ ツ軍 に 包 囲 さ れ て 飢 餓 状 態 に お ち い っ た 。だ が こ れ を辛 く も しの い だ。1943年 に は ヒ トラー は,
ク ル ス ク戦 を計 画 した。 ドイ ツ は,ド イ ツ 史上 最 大 の 攻 撃 を準 備 した 。 ク ルス ク戦 は7月5日 に 始 ま っ た 。 ドイ ツ の ク リュ ー ゲ 元 帥 と ソ連 の ジ ュ ー コ フ元 帥 が 戦 い を指 動 した 。 ドイ ツは 奇 襲 を 考 えた が,ソ 連 に準 備 され て で きな くな っ た。 だ が ソ 連 の 防 衛 線 は2箇 所 破 られ た 。 ヒ トラー は,「 勝 利 に あ ら ざ れ ば 死 で あ る 」 と演 説 した 。 ドイ ツ は全 予 備 軍 を投 入 した 。 ソ連 は 不 利 に な っ た 。 大 戦 中 の 最 大 の戦 闘 プ ロ ホ フ カの 戦 い が 起 き た。 そ の 後,ス ター リ ング ラ ー ドの 独 ソ戦 で,ド イ ツ は敗 北 した 。 ヒ トラー は こ れ で,ド イ ツ 国 と ドイ ッ 国 民 と に 嫌 気 が さ した の だ っ た。 彼 に よ れ ば,強 い民 族 は 勝 つ の で あ り,ド イ ツが 負 け る こ とは 弱 い民 族 で あ る こ と に な る 。 この 時 点 か ら,彼 は戦 略 的 に は 自暴 自棄
2)BurtonH.Klein,Germany'sEconomicPreparationsforWar,1959.
に な っ た(『 ヒ トラー 最 後 の10日 間』)。 ドイ ツ民 族 が 滅 ん で も よい と考 え る の で あ っ た。
連 合 軍 が シ シ リア 島 に上 陸 した 。 イ タ リ アで,ヒ トラー とム ソ リ ー 二 の 会 談 が 行 わ れ た 。 イ タ リア 軍 は休 戦 を考 え た が,ム ソ リー 二 は,ヒ トラー に そ れ を 言 え なか っ た 。 参 謀 部 とム ソ リー 二 は矛 盾 した 。 こ れ で ム ソ リー 二 は イ タ リア 国 王 に逮 捕 され る の で あ っ た。 ヒ トラ ー は これ を 聞 い て,ム ソ リー 二 救 出 を命 令 した 。 彼 は イ タ リア を 占領 し よ う と も考 え た 。 軟 禁 状 態 の ム ソ リー 二 は,ド イ ッの 部 隊 に救 出 さ れ た 。 だが,彼 は も う ヒ トラ ー に従 属 せ ざ る を え な くな っ た 。
ス ター リ ング ラー ド戦 で,ク リュ ー ゲ元 帥 は ソ連 撤 退 を 主 張 した。 しか しヒ トラ ー と,取 り巻 き の カ イ テ ル ら幹 部 は,陣 地 の 死 守 を厳 命 した。 これ は戦 術 的 な 失 敗 だ っ た 。 ソ連 は,オ リ ョー ル,そ の 他 の 市 を奪 回 した 。 ドイ ツ軍 は ヒ トラ ー の 命 令 に もか か わ らず 退 却 し始 め た 。9月,ソ 連 軍 は ドニ エ プ ル 河 に進 撃 し,渡 河 に成 功 し,キ エ フ を奪 回 し た。
こ こで,1943年11月,連 合 国 の テ ヘ ラ ン会 談 が 持 た れ,第 二 戦 線 を作 る こ と が 話 さ れ た 。 そ れ をス タ ー リ ンが 要 望 し た。 ル ー ズ ヴ ェ ル トは 同 意 し,チ ャ ー チ ル は ユ ー ゴス ラ ヴ ィ ア か らの 上 陸 を主 張 した が,ス タ ー リ ン と ル ー ズ ヴ ェ ル トの い う フ ラ ンス か ら の上 陸 で 決 着 した 。 チ ャー チ ル のユ ー ゴ に上 陸 とは,ソ 連 牽 制 の 意 味 で あ っ た 。 チ ャー チ ル は 戦 後 の こ と を考 え過 ぎる と,ル ー ズ ヴ ェ ル トは 言 う。 連 合 軍 は,1944年5月 に 第2戦 線 を作 る,と 決 め た ヒ トラ ー は こ れ を考 慮 にい れ な か っ た。
ソ連 は,ウ ク ラ イ ナ を取 り戻 そ う と した 。1944年6月,ソ 連 は 白 ロ シ ア を攻 撃 した。 白 ロ シ ア ・パ ルチ ザ ン と共 に,ボ ブ ル イ ス ク,ミ ンス ク を解 放 した 。 こ こ で大 量 の ドイ ッ 兵 捕 虜 が 出 た 。
一 方,ド イ ツ 国 内 で は,ベ ッ ク,ゲ ル デ ラ ー,ク リ ュ ー ゲ,シ ュ タ ウ フ ェ ン ベ ル グ らの 軍 部 が,ヒ トラ ー を 殺 して 軍 が 実 権 を え る とい う試 み を敢 行 した 。 だ が 失 敗 して 鎮 圧 され た 。 こ れ は ラ ス テ ンベ ル グ で 総 統 の会 議 で 爆 発 物 で 暗殺 し よ う とい う もの だ っ た 。 ベ ッ クが 新 首 相 に な る予 定 で あ っ た。 反 乱 側 は ゲ ッ
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の 補 い(2) ,外 国の部 ヱ1 ベ ル ス の 逮 捕 に 向 か う が,ヒ トラ ー が 生 き残 っ た の で で き な か っ た 。
ソ 連 軍 は,ポ ー ラ ン ドへ 向 か っ た 。 ワ ル シ ャ ワ へ 向 か う 時,ポ ー ラ ン ド軍 が 加 わ っ た 。 ヨ ー ロ ッパ 諸 都 市 の 解 放 が 進 ん だ 。 こ の こ ろ か ら ヨ ー ロ ッ パ で の パ ル チ ザ ン 闘 争 が 広 が っ た 。1945年1月,ソ 連 軍 は 大 攻 撃 を か け た 。
1945年2月 に,ヤ ル タ 会 談 が 行 な わ れ た 。 英 ・米 は,ソ 連 よ り も,ベ ル リ ン へ の 到 達 が 遅 れ た 。 ソ 連 は ベ ル リ ン攻 撃 を 考 え た 。 ドイ ツ で は,グ デ リ ア ン が 辞 任 さ せ ら れ た 。 一 方,ル ー ズ ヴ ェ ル ト大 統 領 が 死 ん だ 。 ソ 連 は,4月,ベ ル リ ン攻 撃 を し た 。 兵 は,地 下 鉄 に も入 っ た 。 そ こ ヘ ヒ トラ ー は 水 門 を 開 け さ せ る 命 令 を 出 し た 。 そ こ に は 病 院 も あ る の に,で あ っ た 。 ドイ ツ 民 族 は 消 滅 す べ き と,ヒ トラ ー は 考 え る に 至 っ た 。 死 の 直 前,ヒ ト ラ ー は 結 婚 し た 。 だ が す ぐ, 新 妻 エ バ ・ブ ラ ウ ン を 薬 殺 し た 。 そ し て ヒ トラ ー は 銃 で 自 殺 し た と さ れ る 。4 月30日 で あ っ た 。 ド イ ツ は 結 局,敗 戦 に 追 い や ら れ る の で あ っ た 。
ヒ トラ ー は,党 を 国 家 よ り も 上 に お い た 。 ナ チ ー ズ ム と い う 思 想 を 国 家 や 民 族 よ り も 大 切 に し た 。
5月1日,ド イ ツ 国 会 議 事 堂 に ソ 連 旗 が あ が っ た 。 ド イ ツ 参 謀 総 長 が,休 戦 の 交 渉 に 来 っ た 。 デ ー ニ ッ ッ と ゲ ッ ベ ル ス の 新 政 権 を 作 る と い う の だ っ た 。 し か し ソ 連 は 無 条 件 降 伏 を 要 求 し た 。 ゲ ッ ベ ル ス は 死 な ざ る を え な か っ た 。
第2次 大 戦 の 死 者 は,フ ラ ン ス52万,イ タ リ ア40万,イ ギ リ ス32万,ア メ リ カ32.5万,チ ェ コ36.5万,ユ ー ゴ ス ラ ビ ア160万,ポ ー ラ ン ド602.8万,ド イ ッ 970万,ソ 連,2000万 で あ っ た 。
ナ チ ズ ム に つ い て の本
ドイ ツ ・ナ チ ー ズ ム の 人類 的 経 験 を踏 ま え て,い くつ か の 文 献 が 生 まれ た。
F.ノ イ マ ンの 『ビ ヒ モ ス 』(み す ず 書 房)は,ナ チ ズ ム を全 面 的 に 分 析 し た 優 れ た 書 で あ る 。 シ ャ イ ラー の 『第 三 帝 国 の興 亡 』(全5巻 創 元社)は,ジ ャ ー ナ リス トと して の 著 者 が 描 い た ナ チ ー ズ ム の大 規 模 な物 語 で あ る。 また,実 際 に ヒ トラー の 強 制 収 容 所 に 閉 じ込 め られ て 生 活 した 心 理 学 者 フ ラ ンク ル は,『夜
と霧 』 で,強 制 収 容 所 の 悲 惨 な 地 獄 の よ う な捕 虜 生 活 を描 い た。 こ こで,何 か 精 神 的 な 目的 を持 た な い と死 ん で しま う こ と,ど ん な 組 織 に も良 い 人 と悪 い 人 が い る こ と を語 っ た 。なお,児 島 の ぼ る 『ヒ トラ ー の戦 い 』(全10巻 文 春 文 庫) や テ イ ラー 『第2次 世 界 大 戦 の 起 源 』(中 央 公 論1977)も あ る 。 ヒ トラー に つ い て 最 も詳 しい の は,フ ェ ス ト 『ヒ トラー』(新 潮 社)で あ る。
ア ン ネ ・ フ ラ ン ク(AnneFrank)
1929年,ア ン ネ ・フ ラ ン ク が ド イ ツ で 生 ま れ た 。 数 年 後,1933年1月 に,ヒ ト ラ ー が 政 権 を 掌 握 し た 。1933年4月7日,ナ チ ス は,反 ユ ダ ヤ 立 法 を 可 決 し た 。
フ ラ ン ク 家 は,1933年 夏,ド イ ツ の フ ラ ン ク フ ル ト を 出 た 。 父 オ ッ ト・・・・・… フ ラ ン ク は,裕 福 な 実 業 家 だ っ た 。妻 工 一 デ ィ ッ トは,フ ラ ン ク フ ル トで 育 っ た 。 彼 ら は ま ず ア ー ヘ ンへ 行 っ た 。1934年 に,オ ラ ン ダ へ 行 き,3月,ア ム ス テ ル
ダ ム の 大 き な 上 品 な 家 に 住 ん だ 。 フ ラ ン ク は,ベ ク チ ン 製 造 の 会 社 を 持 っ て い た 。 当 時 オ ラ ン ダ に14万 人 の ユ ダ ヤ 人 が い た 。1934年,ア ン ネ は 幼 稚 園 に 入 り, 1935年 に 小 学 校 に 入 っ た 。
1935年 に,ニ ュ ル ン ベ ル グ 法 が 通 過 し た 。1938年 に,オ ー ス ト リ ア 併 合 が な さ れ た 。 同 時 に1938年 に,ユ ダ ヤ 人 虐 殺 が 起 き た 。1940‑41年 に,ヒ ト ラ ー は 計 画 的 に な り,ア イ ヒ マ ン に ユ ダ ヤ 人 国 外 移 住 計 画 を 作 ら せ た 。
1939年9月1日,ド イ ツ は,ポ ー ラ ン ド を 侵 攻 し た 。1940年,コ リ ー ン ・オ ラ ン ダ 首 相 は,安 心 宣 言 を 出 し た 。 しか し,1940年5月,ド イ ツ が 攻 撃 し,オ ラ ン ダ が ドイ ツ に 占 領 さ れ た の で あ る 。オ ラ ン ダ 女 王 は,イ ギ リ ス に 亡 命 し,「自 由 オ ラ ン ダ 」 を つ く っ た 。 そ し て 中 立 宣 言 を し た 。 オ ラ ン ダ 軍 は 降 伏 し た 。 ザ イ ス ・イ ン ク ヴ ァ ル ト(=オ ー ス ト リ ア ・ナ チ ス の 首 脳)が,オ ラ ン ダ 総 督 に 任 命 さ れ た 。
フ ラ ン ク 家 の 父 オ ッ ト ー ・フ ラ ン ク は,ト ラ フ ィ ー ス 商 会 と コ ー ル ン 商 会 を 経 営 し て い た 。 そ こ に 勤 め る 女 性,ミ ー プ ・ヒ ー ス は,ウ ィ ー ン 出 身 で,ド イ
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の 補 い(2),外 国 の 部 13
ツ国 籍 だ っ た 。 彼 女 は,ナ チ 青 年 団 に加 入 を勧 誘 さ れ るが,拒 否 した 。 さ て7 月2日 令,つ ま りユ ダヤ 人 届 出令 が 出 さ れ た 。7月,一 家 は,ユ ダ ヤ 人 登 録 を され る。 書 類 に栂 印 し,写 真 を と られ た。
ミー プ は,警 察 に呼 び 出 しを うけ,旅 券 が 失 効 して い るの で,ウ ィー ンへ 戻 れ と言 わ れ た 。 そ こ で オ ラ ンダ 人 の 恋 人 ヘ ン クが,彼 女 に結 婚 を 申 し込 ん だ。
1941年7月 に 結 婚 し,ミ ー プ は オ ラ ン ダ人 とな った 。 こ う して オ ー ス トリ アへ 行 く必 要 が な くな っ た。
1941年2月,最 初 のユ ダヤ 人 狩 りが 起 こ され た 。 そ れ に抵 抗 して,ユ ダヤ 人 らは3日 間 の ゼ ネ ス トを行 な い,そ れ に対 し,参 加 者 が 銃 殺 され た。
父 は,2つ の 商 会 を部 下 に譲 っ た 。 ア ン ネ は,小 学 校 を卒 業 し,ユ ダ ヤ 人 中 学 校 へ 入 学 した 。
1942年4月 に,ユ ダ ヤ 人 は,ユ ダ ヤ 人 章,ダ ビデ 星 をつ け う と命 令 され た 。 そ れ に 加 え て,6月30日 に,ユ ダ ヤ 人 へ 禁 止 令 が 出 た 。 ホ テ ル,図 書 館,映 画 館,レ ス トラ ン,カ フ ェへ,ユ ダヤ 人 は 出 入 り禁 止 と され た。 こ うい う状 況 で, 一 家 は 潜 伏 を きめ た。 そ れ を ミー プ が 世 話 を す る こ とに した 。 こ の直 前,ア ン
ネ は,1942年6月12日,父 か ら 日記 帳 を贈 られ た 。13才 の 時 だ っ た。
1942年7月5日,姉 マ ー ゴ ッ トは,16才 に な っ て い た が,強 制 キ ャ ン プへ の 出頭 命 令 が 出 た 。 これ を き っか け に,翌 日6日,一 家 は潜 伏 を決 行 す る の で あ る。 マ ー ゴ ッ トは,ユ ダ ヤ 人 に は禁 止 され た 自転 車 に の り,隠 れ 家(フ ラ ン ク の持 っ て い た 商 会 の 上 階)へ 行 っ た 。そ こ は プ リ ンセ ン ・フ ラ フ ト263〔番 地 〕 で,運 河 沿 い に あ っ た。 残 りの 一 家3人 は,す ぐあ と で行 っ た 。 そ こ は 家 か ら 4キ ロ 離 れ て い た 。 地 下 組 織 は,配 給 切 符 を手 配 した 。 一 方,ユ ダ ヤ 人 に つ い て の密 告 に は5ギ ル ダ ー の礼 金 が 払 わ れ る こ とに な っ た。
ア ンネ は 日記 を大 事 に した 。 も う一 家 族,フ ァ ン ・ダ ー ン家 が こ の 隠 れ 家 に 加 わ っ た 。 夫 妻 と息 子 ピ ー ター で あ っ た 。 次 い で,1人 の歯 医 者 デ ュ ッセ ル 氏 も加 わ っ た。 計8名 とな っ た 。 ア ンネ は,日 記 帳 を書 き尽 く した 。 そ の 後,紙 片 に書 き,そ の 後,金 銭 出納 簿 に書 い た 。
1943年1月,会 社 に泥 棒 が 入 っ た 。 そ して親 しい 八 百 屋 が捕 ま っ た。6月6
日,連 合 軍 が フ ラ ンス に 上 陸 した 。 も うす ぐ解 放 さ れ そ うだ っ た。
ア ン ネ の 日記 は,Aテ キ ス トが あ り,は じめ の 日記 で あ る。 つ い でBテ キス トが あ り,こ れ は小 説 風 に な っ て い る。 ア ンネ は,小 説 家 に な ろ う と し,日 記 を小 説 風 に書 き直 そ う と した の だ っ た 。 書 き直 しが 終 わ る 前 に捕 ま っ た 。8月
1日 で 日記 は終 わ っ て い る。1944年8月,家 族 は 見 つ か っ て し ま う。
8月4日,午 前11時,秘 密 …警察 の 事 務 所 に 密 告 の 電 話 が あ った 。 警 察 官 カ ー ル ・ジ ルベ ル バ ウ ア ■一・一一が そ れ を受 け た 。 彼 は,1938年 に オ ー ス トリア で 秘 密 警 察 に 入 っ た の だ っ た。 当 時 オ ラ ン ダで は,ユ ダヤ 人 は全 部 逮 捕 す べ し とい う命 令 が 出 て い た。11時 こ ろ,彼 は4人 の オ ラ ンダ ・ナ チ を 引 き連 れ て,ピ ス トル を持 っ て,隠 れ 家 へ 行 っ た 。 す で に 密 告 者 もそ こ にい た。 銃 を持 っ た オ ラ ン ダ 人 が 店 の 戸 を 開 け た 。 家 族 は こ う して捕 ま る の だ っ た。 彼 らは 隠 れ 家 に は2年
1カ 月 い た。 ジル ベ ルバ ウ アー は,写 真 よ り もア ン ネ は美 しい 子 だ っ た,と 言 う。 フ ラ ン ク の か つ て の 会 社 の 社 員 数 名 も連 行 され,ミ ー プ は 連 行 さ れ な か っ た。 そ の 後,警 察 の 自動 車 が き て,家 具 類 を持 ち 去 っ た。 また 金 目 に な る もの は没 収 した 。 ア ン ネ の 日記 は 金 目に な りそ う もな く,床 に捨 て られ た。 彼 ら は 囚 人 護 送 車 で ゲ シ ュ タ ポ本 部 へ 連 行 され た 。日記 帳 を見 つ け た 掃 除 人 か ら,ミ ー プ は そ れ を受 け取 っ た 。
オ ラ ン ダで は潜 伏 者 が1万 人 い た 。 半 分 が ドイ ツ軍 に,半 分 が 密 告 で,捕 ま っ た。 オ ラ ンダ の3/4の ユ ダヤ 人 が殺 さ れ た 。 当 初14万 人 の ユ ダ ヤ人 が オ ラ ン ダ に い た の だ っ た 。
ミー プ は,募 金 を集 め,賄 賂 で,フ ラ ン ク家 を救 お う と考 え た,だ が ナ チ に 拒 否 さ れ た 。 か の会 社 員 の コー プハ イ ス,ク ラ ー レル も,オ ラ ン ダ強 制 収 容 所
へ 連 行 され た 。
1944年,家 族 は,逮 捕 後,別 々 に オ ラ ン ダ北 部 に 送 られ た。8月,ペ ス テ ル ボ ル グへ 送 られ,こ こ で家 族 は 再 会 が で き た。 そ して9月3日,ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ(ポ ー ラ ン ド)へ 護 送 され,そ こで男 女 が 分 け られ た。 フ ァ ン ・ダ ー ン氏 (=ペ ー タ ー の 父)は,病 気 に な り,10月 に ガス 室 へ 送 られ た。父 フ ラ ン ク は, 12月 に病 院 へ 送 られ た 。1945年1月,ソ 連 の 砲 撃 が 近 づ い た。 妻(=ア ンネ の
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の 補 い(2) ,外 国の部 15
母)は,1945年 冬,1月6日 に 過 労 で 病 死 し た 。 こ こ で1万1千 人 の 囚 人 を全 部 ドイ ッ へ 移 せ と,命 令 が 出 た 。 だ が 父 は 病 気 で 残 っ た 。1月27日,ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ は ソ 連 に 解 放 さ れ た 。 そ の 直 前 に,ペ ー タ ー は ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ッ か ら 移 さ れ る が,そ れ ら 囚 人 た ち は,停 車 場 ま で の 強 行 軍 で ほ と ん ど 死 ん だ 。
時 期 は さ か の ぼ る が,1944年10月30日,フ ァ ン ・ダ ー ン 夫 人,マ ー ゴ ッ ト, ア ン ネ が,ベ ル ゲ ン ・ベ ル ゼ ン(ド イ ツ)へ 送 ら れ た 。 姉 妹 は 父 母 と 別 べ つ に な っ た 。1945年2月 に,2人 は チ フ ス に か か っ た 。 マ ー ゴ は,2月 末 に,ベ ッ ドか ら落 ち て 死 ん だ 。 ア ン ネ は,3月 初 め,つ ま り そ の 数 日 後,そ れ に 落 胆 し て 衰 弱 死 し た 。
1945年4月30日,ヒ ト ラ ー は 自 殺 し,ド イ ツ は 無 条 件 降 伏 を し た 。5月,オ ラ ン ダ は 解 放 さ れ た 。 父 は,ア ム ス テ ル ダ ム へ 帰 っ た 。 父 は,密 告 者 は 知 り た く な い,と ミ ー プ に 語 っ た 。8月 に 郵 便 が 来 て,ア ン ネ と マ ー ゴ の 死 を 知 らせ た 。 密 告 者 は オ ラ ン ダ 人 で,倉 庫 係 フ ァ ン ・マ ー レ ン が 容 疑 者 に な っ た 。 し か し掃 除 婦 ・そ の 妻 レ ナ ・ブ ラ デ レ ン だ と,ミ ー プ は 考 え て い る 。
ア ン ネ の 日 記 に つ い て は,父 は,Aテ キ ス ト,Bテ キ ス トか ら,Cテ キ ス ト を作 っ た 。1947年 に,Cテ キ ス ト 「隠 れ 家 の 家 」を 出 版 した 。"HetAchter‑huis", 1947,で あ る 。 こ れ は,初 め あ ま り売 れ な か っ た 。 ア メ リ カ で 劇 と 映 画 に な っ て,有 名 に な っ た 。 父 は,日 記 の 削 除 し た5枚 を,友 人 に 渡 し た 。 そ し て そ の 公 表 を 止 め た 。 そ し て 父 は 死 ん で 行 っ た 。 そ の 部 分 は,妻 工 一 デ ィ ッ ト論 と, ア ン ネ が 性 に 目 覚 め る 所 と で あ っ た 。 ア ン ネ の 日記 は38力 国 語 に 訳 さ れ た 。3)
ム ソ リ ー 二
ム ソ リー 二 は,初 め イ タ リァ 社 会 党 の 編 集 長 だ っ た 。 ロ ー マ進 軍 で 首 相 に な っ た。 イ タ リ ア は 国 王 制 で あ っ た 。 彼 は議 会 の 反 対 派 議 員 を暗 殺 も した。 フ ァ
3)伝 記 ミ ュ ラ ー 『ア ン ネ の 伝 記 』文 芸 春 秋 。;シ ュ ナ ー ベ ル 『ア ン ネ の お もか げ 』 み す ず 書 房 。
シス ト党 の 一 党 制 を作 っ た。
ム ソ リー 二 は エ チ オ ピア 攻 撃 を した 。 彼 の 理 想 は,「 再 び ロー マ 帝 国 を」 で あ っ た。 そ の 息 子2人 は飛 行 士 に な り,1人 は事 故 死 し た。
ム ソ リー 二 は,ヒ トラ ー の オ ー ス トリア 併 合 を牽 制 し,ブ レ ンナ ー 峠 へ 軍 隊 を出 す と言 う。 ミュ ンヘ ン会 談 で,彼 は平 和 を,と 言 う。 だ が 第2次 大 戦 に参 加 を決 定 した 。
ム ソ リー 二 の 娘 は,チ ア ノ伯,後 の外 相,と 結 婚 した 。 戦 争 中,会 議 で ム ソ リー 二 が 罷 免 され,娘 婿 ・外 相 チ ア ノ も反 対 派 に 回 っ た 。 こ う して バ ドリオ 元 帥 の 内 閣 が で きた 。 だ が チ ァ ノ は 後 に処 刑 され,日 記 を残 す こ とに な る。
ム ソ リー 二 は,ド イ ツ に救 出 され,ミ ラ ノで 政 府 を作 っ た。 亡 命 途 中 で,ゲ リ ラ に捕 ま り,愛 人 と と も に射 殺 され,死 体 は 吊 さ れ た 。
ム ソ リ ー 二 が 会 議 で 罷 免 さ れ て か ら,彼 の 没 落 が 始 ま った の だ が,こ う い う 事 は ヒ トラ ー の 場 合 に は 起 き な い 。ヒ トラー 方 が独 裁 力 が 強 い 。ま た イ タ リア ・
フ ァ シズ ム は 国 王 制 の も とで 行 わ れ た 。 そ の た め ドイ ツ ・ナ チ ー ズ ム と少 し違 う。 また ム ソ リー 二 は 浮 気 を した 。 ヒ トラ ー は独 裁 者 に な っ て か ら,エ ヴ ァ ・ ブ ラ ウ ン だ け と同 棲 して い お り,奇 妙 な禁 欲 性 が あ っ た 。 た だ し ヒ トラー は, 私 生 活 で は女 性 を蔑 視 して い た 。
ポ プ リス モ,ペ ロ ニ ス モ
ア ル ゼ ンチ ンは 独 立 して い た が,急 進 的民 族 主 義 に担 わ れ,非 共 産 主 義 体 制 を と り,資 本 主 義 の 枠 内 で 発 展 を め ざ した。1946年 か ら55年 ま で統 治 した ペ ロ ンの体 制 が,ポ プ リス モ(人 民 主 義)と い う政 治 体 制 の代 表 例 で あ っ た 。
エ バ
1919年5月7日,ア ル ゼ ン チ ン の 片 田 舎 で,マ リ ー ア ・エ バ ・イ バ ル グ レ ン が,ロ ス ・ トル ドス の は ず れ の あ ば ら 屋 で,私 生 児 と し て う ま れ た 。5人 兄 弟
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の 補 い(2) ,外 国の部 17
の 末 子 だ っ た 。 彼 女 の 母 は,あ る 地 主 ドゥ ア ル テ の 愛 人 だ っ た。1926年,チ ビ ル コ イ で,父 が 死 に,彼 女 の家 は ド ゥア ル テ と名 乗 れ た 。 だが1月8日 の葬 式 に は 出 られ な か っ た。 子 供 らは妾 の 子 だ っ た か らで あ る 。 母 は そ の 後,地 方 政 治 家 の 愛 人 とな り,田 舎 町 フ ニ ン に住 ん だ 。 エ バ は 中 学 を 出 て,女 優 に な ろ う
と した 。こ の 町 で,タ ンゴ歌 手 マ ガ ル デ ィ と愛 し合 っ た。最 初 の 男 だ っ た。1936 年,エ バ は,彼 に くっ つ い て,ブ エ ノス ア イ レス へ 出 た 。 だ が 彼 は 家 族 もち だ っ た 。 エ バ は 酒 場 な どで 働 い た 。 才 能 も美 貌 も魅 力 もな か っ た が,名 だ け の女 優 と な っ た 。 チ ョイ役 で 舞 台 ・映 画 に 出 た 。 だが しだ い に美 し くな った 。 エ ヴ
ァを好 き に な っ た 男 が 出 資 して,ラ ジ オ番 組 を提 供 して も ら っ た。 週 一 回 の メ ロ ドラマ だ っ た 。こ れ で エ バ は有 名 に な っ た 。雑 誌 に 写真 が 出 る よ う に な っ た 。 エ バ は,実 力 者 と知 合 い に な ろ う とや っ き に な る の で あ った 。
プ ア ン ・ ド ミ ン ゴ ・ぺ ロ ン
ペ ロ ン は,1885年,ロ ボ ス 町 の は ず れ に生 まれ た。 父 は,南 ヨー ロ ッパ の農 民 の子 孫 で,イ タ リ ア系 だ っ た。母 は イ ンデ ィ オ の血 の 混 じっ た 田舎 娘 だ っ た 。 ペ ロ ン は,小 農 場 主 の子 と して 生 まれ た。5才 の 時,パ タ ゴニ ア に 移 住 し,家
は,牧 場 を経 営 した 。 彼 は,た く ま し く育 っ た 。 父 が死 に,母 は,ブ エ ノス ア イ レス の 軍 事 学 校 へ,彼 を入 れ た 。 射 撃,フ ェ ン シ ング,げ ん こ つ で,ト ップ とな っ た 。 ペ ロ ン は,堂 々 と した体 躯 で,教 養 が あ っ た 。 個 性 的魅 力 と説 得 力 が あ っ た 。 ペ ロ ン は,イ タ リ ア に勤 め た時,ム ソ リー 二 を見 て,独 裁 者 に な り
た い と思 う の だ っ た。 彼 は,ブ ラ ジル で 秘 か に結 社 「統 一 将 校 団」 を作 っ た 。 そ して 書 記 長 に な っ た。 これ は全 国 組 織 に な る。
労 働 政 策 を担 当 した。ペ ロ ン は,労 働 者 に対 す る大 胆 な保 護 政 策 を展 開 し,ク ー デ タで も大 きな 役 割 を は た し た 。
エ ビ ー タ(Evita)・ ペ ロ ン と ペ ロ ン
エ バ は,そ の新 閣 僚=逓 信 大 臣 イ ンペ ル ト大 佐 の 愛 人 に な っ た。 これ で ラ ジ オ の オ ー ナ ー が,エ バ の 月給 を3倍 に した 。1944年 に,サ ン フ ァ ン地 震 が 起 き た 。ペ ロ ンの 主 宰 した 募 金 慈 善 バ ラ エ テ ィ ・シ ョー=コ ンサ ー トで,1月22日, エ バ は,フ ワ ン ・ ド ミ ン ゴ ・ペ ロ ンに 紹 介 され,「 お役 に立 て る」 と言 っ て 近 づ い た。 彼 女 は,彼 が 最 高 実 力 者 だ と知 っ て い た 。 そ の 日,2人 は秘 か に 別 荘 に行 くの だ っ た。 彼 女 は逓 信 大 臣 を捨 て た の で あ る 。 エ バ とペ ロ ン は,40才 近 く年 齢 が 違 って い た 。 エ バ は,ペ ロ ンの 若 い 愛 人 を 彼 の 家 か ら追 い 出 した 。 彼 女 は女 と して は,ス ゴ腕 で あ っ た 。
ペ ロ ンは,労 働 組 合 を従 わせ た 。 政 府 が,対 ドイ ツ断 交,対 ドイ ツ宣 戦 を し た の で,ペ ロ ン らは ク ー デ タ を起 こ し,フ ァ レ ル を 大 統 領 に した 。 ペ ロ ンは 国 防 相 に な り,そ して副 大 統 領 に も な っ た 。
ペ ロ ン は エ バ と 同棲 した 。 エ バ は,政 治 で 民 衆 の力 が か え りみ られ て い な い こ とに 気 づ い た 。 ペ ロ ンは,国 内 の 賃 上 げ を 実 施 した 。 労 働 組 合 を 自分 の労 働 組 合 に編 入 す る 。 彼 は ナ シ ョナ リス トだ っ た 。 ア ル ゼ ンチ ンで は食 肉 労 働 者 が 最 大 だ った 。 彼 ら は,ス トラ イ キ を起 こ し,こ れ をペ ロ ンは 解 決 した 。 賃 金 の 規 準 制 を廃 止 し,大 幅 賃 上 げ を し,再 雇 用 を し,再 賃 制 を つ くっ た 。 た だ し, ペ ロ ンの 体 制 は フ ァ シ ス ト的 色 彩 が あ っ た 。
だ が こ こで 政 変 が 起 きた 。 ペ ロ ンは 失 脚 し,逮 捕 さ れ た 。 ペ ロ ンは,軍 隊 を 去 っ た 。 エ バ は,そ こ で 若 手 軍 人,労 働 組 合 を 動 員 す る の だ っ た。 ペ ロ ン は, 釈 放 さ れ た 。
エ バ は ペ ロ ン と結 婚 した 。 エ バ26才 だ っ た 。 これ は美 貌 の ゆ えで あ っ た 。 彼 女 は,エ バ ・ペ ロ ン,ま た は エ ビ ー タ と な る。 後 の ミュ ー ジ カル 「エ ビー タ」
の ヒ ロ イ ンで あ る 。 エ バ は,映 画 の準 主 役 に な っ た が,女 優 と して の演 技 は と て もだ め だ っ た。
大 統 領 選 挙 戦 が行 な わ れ た 。 労 働 組 合 か ら絶 大 な支 持 を え た ペ ロ ンは,1946 年6月4日,大 統 領 に な っ た 。 労 働 者,下 層 国 民 を労 働 党 に組 織 し,こ の 体 制
『現 代 世 界 思 想 史 序 説 上 』 へ の 補 い(2) ,外 国の 部 19
を固 め た 。 ペ ロ ンは イ ギ リス 産 業 を放 逐 した 。
エ バ は,国 民 に エ ビ ー タ と呼 ば せ た 。 「特 権 階 級 の もつ 富 を と りあ げ て皆 さ ん 貧 民 の 手 に与 え る 」 と語 る の だ っ た 。 エ バ は,上 流 婦 人 の 慈 善 団 体 の 会 長 に させ て も らい た か っ た 。 し きた りと して は,大 統 領 夫 人 が これ に就 任 す る の だ が,依 頼 が こ な い の だ っ た。 そ の 会 長 は 大 地 主 夫 人 で あ っ た 。 エ バ は,上 流 階 級,軍 人 に 嫌 わ れ た 。 彼 女 は,下 層 出 で あ り,情 婦,娼 婦,成 り上 が り者,と 言 わ れ た 。
エ ビ ー タは,ヨ ー ロ ッパ 旅 行 を した。 ス ペ イ ンで は,フ ラ ン コ総 統 に 勲 章 を も ら っ た。 イ タ リア で は,法 王 に謁 見 した が,勲 章 は も らえ な か っ た。 エ ビー タ は,「 虹 の 高 み に た つ 」 と,語 っ た 。 彼 女 は,イ ギ リス に は 行 か な か っ た, 実 際 は行 け な か っ た 。1947年8月 に,帰 国 した。
エ ビ ー タは,婦 人 選挙 法 案 を 可 決 させ る 。 こ れ は ア ルゼ ンチ ン初 の 快 挙 で あ っ た 。 そ して彼 女 は,婦 人 ペ ロ ン党 をつ く り,そ の 総 裁 に な っ た 。 つ い で社 会 救 済 財 団=エ バ 財 団 を作 っ た。 寄付 金 は 国 内 中 か ら強 制 して だ させ た 。 賃 金 な どか ら も 出 させ た 。 か の 上 流 団体 の 慈 善 団体 の 予 算 を,政 府 か ら出 させ な く さ せ た 。 ま た彼 女 は,私 生 児 を認 め る法 律 も作 っ た。
エ ビー タ は,貧 民,弱 者 に 目を む け,労 働 組 合 を作 り,初 め て 女 性 参 政 権 を 与 え て,「 女 性 の 味 方 」 だ と言 うの だ っ た 。 彼 女 は,食 糧,家,毛 布 を,貧 民 に与 え,子 供 に は お も ち ゃ を与 え,「 エ バ 財 団 」 か ら入 れ 歯 を 送 っ た 。 こ れ ら の事 業 で は,面 倒 な の で 帳 簿 はつ け なか っ た 。
1951年4月,エ バ は,副 大 統 領 に な っ て くれ,と 言 わ れ た 。 労 働 総 同 盟 (C.G,T.)が 支 持 し,ペ ロ ン も初 め は支 持 した 。 エ ビー タ は,今 ま で何 をす る に も権 利 が な い と言 わ れ て き た の で,本 当 は 副 大 統 領 に な りた か っ た 。だ が, 軍 人 が 反 対 した 。 他 方 で,民 衆 は支 持 し た。 ペ ロ ン は,軍 部 を考 慮 して,彼 女 を副 大 統 領 に任 命 す る の を や め た。 そ れ に,彼 女 が 癌 に か か っ た こ と を知 り, そ れ を 告 知 した。 そ の た め エ ビー タは,副 大 統 領 立 候 補 を 辞 退 した 。 ペ ロ ンが 地 位 を保 っ て い る の は,エ バ の お か げ だ っ た 。11月11日 は,大 統 領 選 挙 で あ っ た 。 ペ ロ ン は 当選 し,大 統 領 に な っ た 。
1952年5月1日,エ ビ ー タ は 病 床 か ら立 っ て,大 演 説 を した 。 反 ペ ロ ニ ス モ に対 して 闘 う とい う もの だ っ た 。7月26日,エ ビ ー タ は,癌 で亡 くな っ た。 エ ビー タ は 夫 に,「 貧 し い 人 々 を 裏 切 ら な い で 」 と遺 言 した 。 彼 女 は ア ル ゼ ンチ ンの 大 地 主 の体 制 に敵 対 し た の で あ る。 夫 は,エ ビ ー タの 遺 体 に 防腐 剤 を使 っ て,保 存 した 。 エ ビ ー タ は死 ぬ 前 に,「 私 は 帰 っ て くる,何 千,何 百 万 と な っ て帰 っ て くる」 と言 っ た 。 人 々 は,彼 女 を 「聖 エ ビ ー タ」 と呼 ん だ 。 映 画 館 で は 映 画 を とめ て,彼 女 の 死 の ニ ュ ー ス を そ の 映 画 館 で 知 らせ る有 様 だ っ た。 皆 が,悲 し ん だ 。
エ ビー タ の死 後,ペ ロ ン は並 の 軍 事 独 裁 者 に な っ た。1955年,ヴ ァチ カ ンが ペ ロ ン を破 門 した 。そ して 革 命 が 起 きた 。1955年9月,軍 部 の 反 ペ ロ ン派 が ク ー デ タを起 こ し,政 権 は崩 壊 し た。 ペ ロ ン はパ ナ マ へ 亡 命 した 。 結 局 ス ペ イ ンへ 行 くの だ っ た。1955年,将 軍 ペ ドロ ・ア ラ ン ゴー ル 大 統 領 が,ア ル ゼ ンチ ン陸 軍 に,エ ビー タの 遺 体 を 隠 せ と命 令 した 。陸 軍 情 報 部 長 モ リ ・ケ ー ニ ヒ大 佐 が, 郊 外 の ビ ル の一 室 へ 隠 そ う と して車 で ゆ く と,そ の 前 の ビル が 爆 発 した 。 車 か
らお り る と,ロ ー ソ ク と花 が 並 べ られ て い た 。 遺 体 の場 所 を変 え て も,必 ず, ロ ー ソ ク と花 が 飾 られ た,と い う伝 説 が あ る。 そ こで 大 佐 は,部 下 の家 にお く こ とに した 。 部 下 は あ る 日,奇 妙 な物 音 が した の で,拳 銃 を うつ と,そ れ は 自 分 の 身重 の 妻 だ っ た 。 大 佐 は,エ ビ ー タ は生 きて い る,と 話 す よ う に な り,78
日後 に解 任 さ れ た 。1957年,政 府 は 遺 体 を 国外 に 運 び だ し,船 で ボ ンへ,そ し て ロ ー マ へ と,ヨ ー ロ ッパ 各 国 を 回 っ た 。遺 体 は ミ ラノ に送 られ た 。1969年 に,
ア ラ ン ゴー ル大 統 領 は,エ ビー タ の場 所 を言 わ な か っ た の で,誘 拐 ・暗 殺 さ れ た 。
1973年 に,デ モ が お き,エ ビ ー タ を 返 せ とい う声 が あが っ た 。 ペ ロ ンが 再 び 政 権 に 呼 ば れ る こ と と な っ た 。 遺 体 は,ス ペ イ ンの ペ ロ ンに戻 され た 。5月, ペ ロ ニ ス タ政 権 が18年 ぶ り に樹 立 さ れ,1973年10月 ペ ロ ン 自身 が 大 統 領 に復 帰
し た。だ が 彼 は,1974年7月 に死 去 した。そ の 後,そ の 夫 人 が大 統 領 に な っ た 。 1974年11月17日,エ ビ ー タの 棺 は帰 国 し た。19年 ぶ りに ア ル ゼ ンチ ンの 人 々 は エ ビ ー タ に再 会 した の だ っ た 。 だ が1976年3月,軍 部 が ク ー デ タ を起 こ し,権