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アユーイにおける思考論の特質
一思考と行動との統合(連続)の理論一
教育学研究室 関 勤
(1968年11月11日 受理)
研究の意図
第一章 デューイにおける思考論の根本的特質 第一節 思考と行動との統合の理論 第二節 思考論展開の教育哲学的意図
第二章 デューイにおける思考論の科学的基礎 第一節 生理学的・心理学的・生物学的基礎i (精神的活動と肉体的活動との連続の理論)
第二節 連続の原理および「精神生活の生物学的基礎」の強調 第三章 デューイにおける思考論と時間的観点
第一節 経験の時間的発展と思考の地位 第二節 思考の中間的・再構成的地位
第三節 デューイの思考論と実験論理学(道具主義)の立場 第四章 デューイにおける精神の概念の転換
第一節 初期の理論における精神の概念の転換 第二節 肉体と峻別された精神観に対する批判 第三節 行為の過程・生活の機能としての精神の概念 結 語
研究の意図
本稿は筆者がかってデューイの反省的思考のもつ本質あるいは骨格を明らかにする意図 ω
をもって,「デューイの反省的思考の本質」と題する論述を行ないその素描を試みたこと の基礎の理論に関係する。その際の研究の意図は,デューイの中心理論は探究としての思 考の理論であると述べながら,その根本的意味の解釈について基本的理解を欠いたまま,
単に問題解決学習の基礎理論として反省的思考の状態の構造を考察することであった。
しかし,デュ・一一イ思想についての理解の範囲が多少とも拡大し,またその意味関連の把 握も多少は深化するにつれて,ようやくデューイの思考論が単なる教育方法としての問題 解決学習の基礎論であるばかりでなく,実に彼の教育哲学における重要な方法原理である
ことの意味が多少把握せられてきたのである。勿論「ジョン・デューイが教育的経験の方 2)
法として,思考の方法を最も重視したこと」については,今更それを強調する必要はない。
しかし,デューイにおいては思考の方法が,単に教育的経験の方法として重視せられるの みならず,それが反省的思考として,コミュニケイションとともにデュー一イの教育哲学に おける重要な方法原理であることが明らかにせられ,「このコミュニケイションはデュー イの教育哲学におけるもっとも重要な方法原理の一つであるが,これとともにデュ・一一イが 重視しているもう一つの方法原理は反省的思考である。この反省的思考は近代科学の実験 (3)
的方法と本質的に同一の思考形式である。」と説かれるにいたっているのである。
本稿は,問題解決学習の基礎論として展開された前記拙稿の反省的思考の理論が・主と して思考の状態の構造の理論であったのに対して,もう少し視野を拡大し,デューイの教 育思想の根本との関係において,デューイの思考の理論を考察することを意図している。
第一章 デューイにおける思考論の根本的特質
第一節 思考と行動との統合の理論
デューイの思考に関する理論を考察する時,われわれに最初に注目される事実は,その 思考の理論が,単にいわゆる思考それ自体に限定された思考論ではなくて,思考と行動と が連続をなすものとして,不離不即の関係にあるものとして,相関的に,しかも統一的に 把握されているということである。思考を離れて意味のある行動はないし,行動を離れて 意味ある思考はない。デュ 一一イの思考の理論は,この基本的態度を一貫して保持しながら,
展開されていることである。以上の事実に基づいて考察する時,常識的とのそしりをまぬ かれえないとしても,デューイの思考の理論は,思考と行動との連続の理論あるいは思考
と行動との統合の理論として,とらえられなければならないという点に,根本的な統一的 な特質を有するものと言わなければならない。この観点を見失う時,われわれは彼の思考 の理論の根本的特質を把握しえないものと思われる。
『操作主義哲学(Operational Phi!osophy)』の著者A・ラポポートは・デューイを操 作主義哲学の先駆者の一人であり,デュ 一一イの関心は,マルクス,フロイト,アインシュ タインと同じ線に沿っていたとしながら,デューイの研究の意図および彼の教育の過程に
関:デ=、・一イにおける思考論の特質 3
ついての主張が,思考と行動との関係にかかわるものであることを,次のように述べてい る。「彼は,人々の行動と考え方との間の関係を発見することを意図していた。彼は本来 が教育者であったから,彼がこの関係に興味をもった理由も容易に理解できるわけであ る。……しかし,デューイが最初に,教育は操作的でなければならないという考え方を提 唱した時,つまり教育とは思考と行動とを結合させる過程であるべきだと唱えた時には,
(4)
この考え方は革命的だと受けとられた。」
第二節 思考論展開の教育哲学的意図
デュ・一一イが思考と行動との連続(統合)の理論として彼の思考論を展開したことは,よ り根底的には精神的活動と肉体的活動との連続(統合)の理論を展開したことは,彼が鋭 い教育哲学的な意図をもって,教育における諸多の相対立する諸観念を統一止揚するため の原則を構成しようとする態度においてなされたものと考えられる。
彼は古典的二元論の哲学(認識論)が精神と肉体,認識と行為,人間と自然,理論と実 践等を明確に分離対立させており,それはまた,労働と閑暇,実際的活動と知的活動,個 人と社会,教養と職業等をも画然と区分対立させるものであることを認めた。彼はこれら 種々の二元論,あるいは種々の対立に関する知的系統的叙述が上述の種々の分離され区分 されたものを対立轡るものであることを認めると同時に・「これらの種々の対立の基底 にある基本的仮定は,物理的諸条件,肉体的諸器官,物質的装置および自然物を包含して
e e (5)
いる活動から精神を引き離すことである。」と解し,二元論の極致を精神と活動との分離 対立にあるとするのである。特に彼は,教育上の諸問題,相対立する諸概念の生起が,こ の精神と活動との,即ち,認識と行為との既に当然とされた分離対立に基づくものである とするのである。
他方,彼はこれらの二元論の古典時代における起源,原因,生起の条件が,社会の階級 的分裂に根ざすものであり,これらの哲学が社会の現実の反映・描写として成立したこと を反復して論述している。『民主主義と教育」において彼は言う。「われわれはこれらの 分裂の起源が,社会的諸集団を区別したり,一集団の中で諸階級を区別したりするところ の,しっかりとした隔壁,即ち,富者と貧者との,男と女との,貴人と賎人との,統治者と (6)
被治者との隔壁の中にあることを知る。」と。更に彼は,これをより明確に「われわれは,
この二元論の原因が,物質的な生計の資を得るために筋肉を使って労働している階級と経 済的圧力から解放されて,芸術的表現や社会的指導に身を捧げている階級とに社会が分裂 (7)
していることにあるということを再び繰り返えさない」と述べている。
したがって,デューイは,古典的哲学の二元論が,ギリシャ時代における社会階級的分
裂の現実を目前にして,プラトンやアリストテレス等がこの現実の正確なる説明の理論と して構成したものであると考えるのである。この点から古典的哲学者たちのよって立つ基 盤が批判されるのである。デューイは,例えばアリストテレスが,労働と閑暇とを,即ち 実際的活動と知的活動とを峻別し,前者を劣として後者を優とするのに対し,その根本的 正当性と誤謬性とを次の如く批判する。「仕事を遂行するための単なる熟練と物質的生産 品の単なる蓄積とは,理解,鑑賞的共鳴,観念の自由なる活動よりも劣等なるものであり 従属するものであると考えたことにおいて,アリストテレスは永遠に正しかった。若し,
アリストテレスに誤謬があるとすれば,それは,その二つのものに必然的区別があると仮 定したことにある。即ち,品物を生産し,そして奉仕をするための能率と自己指導的思考 との間に,また重要な知識と実際的業務との間に自然の分離があると想像したことにあ る。若し,彼(アリストテレス)の説明が偽りであるとすれば,それはその説明が社会的 慣習(としてできた二階級の対立)という言葉を自然的必然という言葉と混同したからで
ある.(瘁Dデ_イにとって,古典的哲学の根本的誤謬は,二元論備多の対立と,それの
e .
起源となった社会階級的対立とが,ともに社会的慣習にすぎないものであり,自然的必然 でないにもかかわらず,当時の哲学者たちが,あたかもこれを自然的必然の如くに構成し たことに存するのである。即ち,基本的仮定としての精神と活動との分離を,社会的慣習 のつくり出せるものであるにもかかわらず,これを自然的必然の如くに解釈説明したこと
にある。
デューイはかかる古典的哲学の誤まれる二元論的対立観を克服し,教育上における諸々 の対立的問題,対立的諸概念を統一的に解明しようとする意図をもって,精神と活動との 連続の理論,認識と実践との連続の理論を建設し,力説したのである。
まさに彼は,以上に述べたところの二元論的古典哲学に対し,「環境を統制するための (9)
活動における精神の起源,地位,機能を認めるところの新哲学」を提示したのである。こ の新哲学こそ,連続の原理を中心思想とし,生物学的立場を尊重し,経験を重視する彼の 実験主義の立場であり,それを貫くものこそ思考と行動との連続統合を主張する思考の理 論である。それは彼の教育哲学の最も重要な意図をあらわすものである。
第二章 デューイにおける思考論の科学的基礎
しかし,デュ 一一イの思考と行動との統合の理論は,本来二元論的なものとして,思考と 行動とを対立させ,それに超自然的なものを基礎とする論理的操作を加えることによって 両者を結合させて構築される抽象的な架空的な理論ではない。
関:デュ.一一イにおける思考論の特質 5
第一節 生理学的・心理学的・生物学的基礎
(精神的活動と肉体的活動との連続の理論)
第一に,デューイの思考論は,精神的活動と肉体的活動との連続を主張する近代諸科学 の論理に支えられて,思考と行動との連続を主張する。デューイは,精神と肉体との古く からの二元論が,脳と身体の他の部分との二元論に入れ換って存在するために,従来しば しば精神的活動と神経系統の活動とが結合しているという認識が阻止されていたという根 本的欠陥を是正するために,精神的活動と神経系統の活動との連続を主張する当時の進歩
した生理学的立場,および生理学と結びついた心理学的立場に立って,両者の明白な連続 の関係を次のように述べる。 「事実において,神経組織(nervous system)は,すべて の身体的諸活動を統一的に働らかせるための特殊な機構(aspecialized mechanism)に すぎない。認識の器官が運動的反応の諸器官から分離しているのではないと同様に,神経 系統も身体的諸活動から分離しているのではない。神経系統は身体的諸活動をして,反応 的に相互作用させるための器官である。脳(brain)は本質的には,環境からうけた刺戟
と環境へ向けられた反応とを相互的に調和適合させる器官である。この調節が相互的であ ることに注意しなければならない。即ち,脳は感覚的刺戟に対する反応として,有機体の 活動を,環境のある対象に対して,有効に働らかせるだけではなくて,この反応がまた次 ao)にいかなる刺戟が来るかを決定するものである」。更に彼は重ねて脳について,「脳は活 動の連続を維持するために,絶えず活動を再組織するための機構(machinery)である。
即ち末来の行為を,既に実行されたところのもののために,要求されているように変容す (ID
るための機構である。」と説明をより具体的にしている。
以上に述べられたデューイの所説は,精神的活動を,環境からうけた刺戟と環境へ向け られた反応とを相互的に調和適合させる有機体の活動と見るものであり,しかも精神的活 動を神経系統の活動に帰属させる,特に中枢神経たる脳の活動に帰属させるものである。
また,神経系統の活動は肉体的活動と密接な連続の関係にあること,したがって,精神的 活動と肉体的活動とが連続するものであることを明らかにするものである。彼は,「認識
と神経系統との関係,および神経系統と新らしい諸条件に適合するための連続的な活動の 調節との関係という事実の真の意味を認識する者は,認識がそれ自体で完全で,すべての
活動から分離したあるものなのではなくて,再組織の活動と結びついていることを疑うこ
とはできない。」と述べているが,これは,デューイが,神経系統に基礎をおかない精神 概念,即ち生理学,あるいは生理学と結びついた心理学に基礎をおかない精神概念,つま
り超自然的な存在としての精神の概念を根拠のないものとして徹底的に否定したものとも
考えることができる。
更に,デューイは生物学の発展は進化の事実の発見によって,上述の精神的活動と肉体 的活動との「連続」を確かめたとして,その理由を,「進化論の発展の哲学的意味は,そ
の進化論が,より単純な生物から,われわれ人間のごときより複雑な有機体にいたるまで 連続していることを強調したことにある。有機体の発達は,環境と有機体との適合が明白 であるところの構造をもってはじまり,精神(mind)と称せられるものがほとんどなか
oた構造をもってはじまったのである。しかし,活動が一層複雑となり,時間上も空間上 もますます多数の要素を整合するようになるにつれて,知性(lnteMgence)がますます明 確な役割を演ずるようになる。何故なら知性が予想し,計画すべき未来の範囲がますます ⑬
広がるからだ。」と基礎づけている。
なお,デューイは道徳論に関して,二つの相対立する学派,即ち,一方は道徳性を内的 な精神の状態と見る内的道徳観の学派,他方は道徳性を外的な行為およびその結果と見る 外的道徳観の学派,の統一的克服を意図している。彼は外的な活動と内的な活動とを対立
させることに反対し,その連続を主張する叙述,即ち道徳論的にいわれるところの「内な るもの」と「外なるもの」との連続を主張する叙述をしているが,それは最も明解で直接 的な精神的活動と肉体的活動との連続の理論を形成している。彼はいう。「目的を有する 活動においては,最初に純然たる心理的過程があり,その次に突然,まったく異った肉体 的(物理的)過程が来るのではない。はじめのより不確実な,分裂している,躊躇する状
e
態から,より明白な,決定的な,あるいは完全な状態へと進行する一つの連続的な行動が あるだけなのだ。最初の活動は,主として,身体内部のいろいろの緊張や調節からなりた つものである。これらのものが統一された態度へと調整される時,全体としての有機体が 活動する。即ち,ある明白な行為がとられるのである。勿論,この連続的な活動のうちの 一層明白に意識的な面を精神的な,あるいは心理的な面として区別してもかまわないかも
しれない。しかし,精神的なもの,あるいは心理的なものというのは,一つの活動の,即 ち,それが完成された時には,環境を変容するために明白に外にあらわれるエネルギーを a4
あらわしてくるところの活動の,未決定的な,形成的な状態を意味しているのだ。」と。
ここに説かれるところは一つの目的ある活動における精神的過程と肉体的過程との連続,
および,一つの活動における精神的(心理的)なもののもつ状態の説明であるが,彼は精 神的な過程のもつ意義に関して,もっと具体的に次のように論じている。「目的を有する活 動は思慮を必要とする活動である。それは意識的に目的を予見し,賛否両様に考慮すべき 事柄を心理的に比較して優劣を考える活動である。さらに,目的を有する活動は,目的に 対する憧憬または欲求の意識的状態をも含んでいる。目的の慎重な選択および欲求の確定
関:デューイにおける思考論の特質 7
した傾向の慎重な選択は,時間を要する。この時間内には,完全に明白に外にあらわれる 活動は停止している。一単一の明白な方向の活動が停止の状態にあるその時間内におい て,彼の活動は決定的行為の準備となるように,身体内部のエネルギーの再分配をするこ
とだけに限定されているのだ。」。さらに彼は心理的過程の重要性に関して,「われわれの 意識的な思考・観察・願望・嫌悪などは,それがわれわれのはじまったばかりの,初期の 活動を示すが故に重要なのである。それらのものは,より後に,特殊の,しかも明白に外 部的に認められる行為となることにおいて,その運命を完結するのである。しかも,これ
らのはじまったばかりの・芽を出したばかりの有機体の調節(Organic readj ustments)
は,それらが常規的習慣や盲目的な衝動の支配からのわれわれの唯一の遁路であるが故に 重要なものである。それらは活動の発展の過程において新しい意味を得る活動である。し たがって,通常の場合,われわれの本能やすでに形成された習慣が,新しい諸条件によっ て妨げられた時には,いつでも個人的意識の緊張が生ずるのである。しかる時,われわれ は,明白で確定した行動へとつき進むに先立って,われわれ自身の態度を改造するために 退いて自分自身に還えるのである。われわれが全くの暴力によって,自分の道を突進しょ うとするのではないかぎり,われわれがその中にいる事態の特別な特徴に適合するように 自分の有機的諸資質(Crganic resources)を変容しなければならない。明白に外にあら われる行為に先立つところの,意識的な熟慮や欲求は,しかる時,不確定の事態の中での a6)
活動にふくまれている秩序のある個人的調節なのである。」と説きあかすことにおいて,
有機体の活動における精神的活動の機能と役割を確認しているのである。
第二節 連続の原理および「精神生活の生物学的基礎」の強調
以上のように要約せられたデューイの理論は,デューイの思考の理論の根本的特質とな っている「思考と行動との連続の理論」または「思考と行動との統合の理論」の基礎に深 く横たわるものとしての,「精神的活動と肉体的活動との連続」に関する理論である。し かもこの理論は近代諸科学の論理によって支えられていることを根本特色としている。
この理論の展開にあたって遺憾なく発揮せられていると思われるデューイ的特色の第一 は「デューイ思想の基本的な特色の一つである連続の原理」が最も典型的に示されている ことであり,第二は「精神生活の生物学的基礎の強調」がおこなわれていることであろう。
第一のデューイ思想の基本的な特色としての「連続」の原理について大浦猛教授は『周知 のように,デューイ思想の基本的な特色の一つは,「連続」(continuity)の原理にある。
そして広くこの「連続の公理は,生起する諸変化の原因(cause)として一つのま二たそ 新しい外部の力が登場すること,を拒否する。」このことは,現実の事象が変化の過程と
して推移して行くこと,を示すと共に,変化の原因がたんに外在的なものでないこと,を も意味している。同じ見解を彼は,人間の経験に適用して,もっと具体的に次のようにも 述べている。「習慣の基本的特色は,行なわれたり受けたりするすべての経験が,当の行 なったり受けたりする人を変えるのに対し,この改変が,我々の欲すると否とにかかわり なく,後の経験の性質に影響すること,である。……経験の連続という原理は,あらゆる 経験が,前に起こった経験から何かを取り上げもするし,また後に生ずる経験の性質を何 e eかの仕方で変えもする,ということを意味している。……あらゆる場合に何らかの種類の
連続がある拓とデ。.,.一イの躰的支献の灘吟味をした上で基本的・躰的耐兼の説 明をしておられるが,この「連続の原理」が精神的活動と肉体的活動との連続を主張する 彼の理論に最も典型的に具現されているのを見るのである。精神的活動と神経系統の活動
との連続,神経系統の活動と肉体的活動との連続,つまりは精神的活動と肉体的活動との 連続,有機体と環境との連続が事実に即して語られ,そこに何等の断絶を許していないの
である。
第二の「精神生活の生物学的基礎の強調」はまた「近代科学の論理に基礎をおいた,人
間存在の自然的次元の構造過程に対する解釈」とも相関連するものであり・これらの強調 や解釈がデュ_イにおける精神的活動と肉体的活動との連続を主張する理論に貫徹されて いるのを見るのである。彼は「超自然的なものを否定する以上は生物学的でなければなら ないし,如何なる権威をもって言われようとも,有機体との関係で言われねば・これを信 用することは出来ない2①」という群的態度をこれらの齢の展開にあたって一esして{呆 持しているのである。「デューイにとって,人間は一個の有機体であり,世界はこの有機 体の住む環境である。そして思惟や論理を含めて,人間の諸活動は・すべて環境に対する 有機体の翫にほかならない.㌦のである.彼は生物学的立場を堅持することにおい
て,まさに超自然的なものを徹頭徹尾否定しょうと企わだてたのである。
彼の思考の理論は,このように思考をそのうちに含むものとしての認識的活動あるいは 精神的活動と肉体的活動との連続を明らかにする近代諸科学の論理に基礎をおいて,思考
と行動との連続を主張する特質を有している。
第三章 デューイにおける思考論と時間的観点
デューイの思考論は,時間的観点におかれた,あるいは時間的地位におかれた思考の理 論として,思考と行動との連続を主張する点に特質を有する。それはより具体的には,経 験の時間的発展に位置づけられた思考の理論として,思考と行動との連続を主張するとい
関:デューイにおける思考論の特質 9
う点に特質を有する。
第一節 経験の時間的発展と思考の地位
デューイの根本的な,徹底的な見解がそこにたつねられるとされているところの1916年 の著書『実験論理学論文集(Essays in Experimental Logic)』の序文の 胃頭において,
彼は「この論文集の学説を理解する鍵は,経験の時間的発展に関する過程の中にある。」
こと,および「この論文集が示そうと試みる要旨は,第一に思考とか,反省とか,判断と かというような言葉は,探究,あるいは探究の結果を意味すること,そして第二に,探究 ⑬
は,経験の発展における中間の,仲介的な位置を占めることである。」と述べている。こ れらの要旨は言い換えると,第一に,思考,反省,判断などという言葉は探究と同じ意義を もつものであって,問い尋ね,答えを求めるという動的態度であり,いわゆる冥想的な作 用でないこと,つまり生理学的に言うところの大脳皮質,あるいは大脳皮質と発声器官と の中でのみ,発生し,機能し,終結する作用でないこと,言うならば「客観的な追究的な 実験的な過程であること」を意味している。第二に,探究は経験の発展における中間の,
仲介的な位置を占めるということは,思考あるいは反省が,思考あるいは反省に先立つ経 験事態の中におこり,思考あるいは反省の後の経験事態の中に終結し,前後の経験事態の
中間に位置し,両者を仲介し,経験の質を高める位置と役割を占めることを意味する。
思考過程の出発点,即ち,思考の発生事態と思考過程の終結点,即ち,思考の終結事態 とを時間的に明確に区別して,思考の過程をその中間に位置ずけて,思考の構造と機能と を明らかにしょうとする観点は,デューイの思考論展開の定型をなすものであって,デュ
ー一Cの思考論の重要な特色といわなければならない。この観点は,実験論理学論文集の場 合は言うまでもなく,論文集と同年の著書,『民主主義と教育(Democracy and Educ−
ation)』における思考論の場合にも,1933年の著書,『思考の方法(How We Think)」の 場合にも常に思考の理論を論究するための土台として据えつけられているものである。こ の観点は論文集において次のように明白に述べられる。 「時問的順序の観点から見れば,
反省あるいは思考が,中間の,しかも再構成的の地位を占めることがわかる。反省あるい
e e
は思考は,時間的に先立つ事態一一能動的で感知的な経験の諸要素の組織化された相互作 用,そこでは諸要素のあるものが調和しない,そして両立しない状態にある一と時間的 により後の事態一反省的探究の発見したものに基づいて,作用することにより,最初の 伽
事態から構成されたもの一との間に生ずるものである。」。 この観点は「思考の方法』
においてもまた,同じ趣旨をあらわすものとして次のように表現されている。「あらゆる 思考作用には,二つの限界,即ち,前反省的事態(Pre−ref工ective situation)と後反省的
事態(Post・reflective situation)と呼ばれるものがある。前反省的事態は,発端において の,わずらわしい,困惑した,混乱した事態であり,その事態が解決することを必要とす る問題を提起し,その問題から反省が解答することを必要とする疑問が生れる。後反省的 事態は,終結においての,整頓され,統一され,解決された事態であり,その事態におい ては,疑問は消散せられ,そこに支配,満足,享受という直接的経験が結果する。反省は ㈱
この二つの限界の中で起こる。」のである。
第二節 思考の中間的・再構成的地位
このように厳密な時間的区分,時間的順序の中で発生し終結するものとして,思考(反 省)を論究するデューイの態度は前述の三著書を通じて一貫しているのであるが,思考の 発生や機能に関して論文集の表現をかりれば,「反省(したがって論理的性質をもつ知識)
は,経験的事態の中に調和できない諸要素が出現することから起こるのである。調和でき ないとは,単なる構造上の,あるいは静的の意味においてではなくて,能動的の,前進 的の意味においてである。かかる時,相対立した反応が刺戟されて生起するのであるが,
それは明白な行動の中において,同時におこることのできないものであり,しかもそれら は,分析的な分解と綜合的な想像的な概観によって,要するにそれらが受理され,審理さ れることによって,組織化された行動の計画の中へ,もちこまれた後で,1はじめて同時的 あるいは連続的,いずれにも処置される。」 ものである。同じく思考の発生や機能に関し て「民主主義と教育』においては「あらゆる思考過程の出発点は,現に進行しているある もの,そのままでは不完全であるか,あるいは未完成であるあるものである。あらゆる思 考過程の要点,その意義は現に進行しているあるものが,何になりつつあるのか,それが いかにして変化しつつあるのか,ということである。現在の事件とまだ起こらない将来起 ㈱
こるであろうことの関係を考察することが思考することである。」 と述べられているが,
同じ趣旨の内容は同著書において,更に次のように反復される。「思考がまだ進行中であ り未完成である事態に関して起こるということは,思考は,事物が不確かで,疑わしく,
解決が困難である時に起こるということである。ただ完結,完成せるものは確実である。
反省のあるところ必ず不安不確定がある。思考の目的は,既知の材料を基礎にして結論に ㈲
到達し,可能なる終結を案出するのを助けることにある。」
以上の思考の起源あるいはその機能に関する論考を通して,われわれが銘記すべきこと は,「思考は自然発火(spontaneous combustion)の如き状態ではない。思考は 普遍的 原則 (general appeals)に基づいて生ずるものではない。何かがあって思考を惹き起こ
し,思考を喚起するのである。人を悩まし,そして人の心の平衝状態を素すある困難を自
関:デューイにおける思考論の特質 11
分自から経験するという実際の場面を考慮せずに,子供(や大人)に対して,思考させる 普遍的原則があるとするのは,自分の靴紐で自分をつり上げようと工夫するのと同様に無 ⑱Φ
益のことである。」 ということである。
まことにデューイにとって「その独特の特徴と過程とを有する思考(反省)は,その中 間の地位,枢軸的働らきをする地位,時間的地位におかれた時にのみ理解することができ るもの,即ち,再構成によって非論理的な性格の材料を統制する地位におかれた時にのみ (3D
理解することができる。」 ものなのである。
第三節 デューイの思考論と実験論理学(道具主義)の立場
以上に述べきたったように,デューイが思考を,時間的に先立つ事態と時間的により後 の事態との中間の位置に生起するもの,再構成的な地位を占めるものとしたことは,彼の 思考論が厳密な時間的観点に立って考察された思考論であることを示すものとして,思考 と行動との時間的連続を主張する思考の理論であることを示すものとして,従来の思考論 ㈱
に比較して重要な特質とせられねばならない。何故ならば,彼自からも言うように,この 観点こそ,観念論的論理学とデューイの実験論理学とを区別せしめる根拠となるものであ るからである。思考(反省)の中間的,再構成的,道具的役割を無視したもの,即ち,思、
考(反省)の本質的特徴を無視したものこそ,観念論的論理学であり,これに対して彼の 実験論理学は,この思考の中間的,再構成的,道具的役割を重視する,むしろ,それをこ そ基本構造として構築せられるものであるからである。
デューイにとって,思考は環境の統制に対する道具的なもの,混乱した事態における統 ㈱
制を獲i得するための道具的なものである。複雑な事態を確実な要素とそれに附随する可能 性の考察へと先立って分解することがなければ,即ち,思考がなければ,とられなかった
であろう行為によって,実行せられた環境の統制に対して,思考は道具的なものである,
ということが,彼の実験論理学,道具主義の立場が論証しょうとする命題である。
この実験論理学,道具主義の立場はまた,周知のように思考あるいは知性の定義を,そ の機能によって,なされたはたらきによって,実行された結果によって,するという顕著
⑳な特色を有する。
思考を環境の統制に対する道具的なものと観念し,思考を,その実行された結果によっ て定義せんとするデュ・一一イの思考観は,デューイの思考論をして,まさに思考と行動との 連続の理論,あるいは思考と行動との統合の理論として特質づけることを結論的に保障す
るものと考えられる。
第四章 デューイにおける精神の概念の転換
前に述べたように,デューイは精神的活動を神経系統の活動に,特に神経系統の中枢た る脳の活動に帰属させるものであり,したがって,神経系統に基礎をおかない精神の概 念,即ち,生理学,あるいは生理学と結びついた心理学に基礎をおかない精神の概念・つ まり超自然的な存在としての精ネ申の概念を根拠のないものとして徹底的に否定したものと 考えられるのであるが,彼の思考の理論を基礎的見地から更に深く考察するためには・思 考の概念と密接な関連にある精神(mind)の概念がデューイの場合にいかなるものであ
るのかを確かめておくことが必要と思われる。
第一節 初期の理論における精神の概念の転換
デューイ以前の精神観とデューイの精神観との対照が比較的初期にしかも彼自身によっ て最も端的に述べられているのは,1915年に改訂版として出された彼の著書「学校と社 会(The School and Society)」の第四章「初等教育の心理学(The Psychology of Elementary Education)』であろう。本章は1899年の初版には集録されておらず,1915年
8月に改訂版が出されるに際し,実験学校の記録「初等学校の記録(The Elementary ⑱s School Record)』 のなかから他の四つの論文とともに新らしく加えられたものである。
いまMilton Halsey Thomas著のJohn Dewey:A Centennial Bibliography,1962によ って「初等学校の記録」を見ると1900年に出版されているのを知ることができる。したが って,「初等教育の心理学』に叙述されているデューイの精神観を考察することは,彼の 比較的初期の理論における精神観を考察することになると思われる。
彼は『初等教育の心理学」において,旧い心理学と新らしい心理学との比較対照をなし ており,しかも同時に,旧い心理学と対応関係にあった教育実践および新しい心理学と対 応関係にあるべき教育実践を明らかにしている。この新旧の心理学の比較対照はほとんど そのまま新旧の精神の概念の比較対照と解釈することができるから,デューイにならっ て,以下三つの点に分けてこれらを要約することにする。
(1)旧い心理学は,精神を外界と直接に,じかに接触する純粋に個人的なものとみなし
た。
しかるに現代の心理学の傾向は,個人の精神を,(人間の)社会生活の一機能として,
(as a function of social life) すなわち,それ自身としては作用することも発達する こともできないで,社会的諸力から連続的な刺戟を求め,そして,その栄養を社会的供給
関:デューイにおける思考論の特質 13
にまつものとして一考えるのである。特に進化の観念によって,精神は個人的な,独占 的な所有物であるのではなくて,人類の努力と思考の所産を代表するものであるという一 般観念請神は自然的であると同時に社会的である環境の中で発展するとL, ・う一般齢,
更に社会的必要および社会的目的が精神を形成するにあたって最も強力なものである・.・…
という一般観念がもたれるようになった。
(2)旧い心理学は,知識の心理学であり,知性の心理学であった。感情や努力は附随的 派生的な地位しか占めていなかった。感覚ということに関しては多くのことが述べられた が・運動(movement)については,ほとんど何も述べられなかった。……観念の起源が 行動の必要の中にあり,行動の必要から発するものではないかという可能性は無視されて しまっていた。それらの観念の・行為や行動におよぼす影響は外部的附随的なものと見な
された。
現代の心理学は・知性・即ち感覚や観念の本領は,それがたんに一つの本来的機能しか もちえないこと・即ち,直接的たると間接的たるとを問わず,われわれの行動がとるべき 方向を決定する機能しかもちえないこと,を信ずる。したがって究極的なものでなくて,
中間の部分であることを信ず譜
㈲ 旧い心理学によれば,精神は精神であった。それだけて精神に関する話しはつきて いた。精神は子どもであろうと大人であろうと,同じとり合わせの諸能力を具備するよう にできあがっていたから,精神は徹頭徹尾同一のものであった。もし,精神になんらかの 差異があるとすれば・それは,これらのすでにできあがっている諸能力のうちのあるもの が比較的早い時期にはたらきを開始するが,一方,他の能力がより後にはじめてあらわれ てくるということぐらいのものであった。そこに認められる唯一の重要な差異は,量的の 差異,大きさの差異であった。あらゆる点において,子どもの精神は大人の精神と同一で
ある。
現代の心理学は,精神は本質的に一つの過程一成長の過程であって,固定したもので はない一であるという精神の概念をもつ。精神を成長するものとして,したがって,本 質的に変化するものとして,時期を異にするにつれて,さまざまな異ったすがたの能力と 興味をあらわすものと信じている。
以上,デューイの『学校と社会』第四章にあらわれた新旧の精神概念の比較を三点にわ けて要約したのであるが,これを基礎にして,デューイによって把握された新しい精神概 念を更に二つに要約することができる。
① 個人の精神は固定したものではなくて,一つの過程であり,成長の過程であり,自然 的社会的環境の中で発展し形成されるものである。
② 個人の精神は人間の行動との関係でみるとき,人間の社会生活の機能であり,人間の 行動がとるべき方向を決定す磯能であり,それ自体究極的なものではなく・そ働と行 動との問の中間的なものであること。
以上に要約された精神観,特に精神の概念をある固定した実体と見るのでなく・社会生 活の機能,行動の方向決定の機能と見る精神観は,デューイの精神観の本質を,素朴では あっても極めて忠実に現わしたものと考えることができる。しかもそれは・思考を中間の 再構成的の地位と役割を占めるものとするデューイの思考論にとって,矛盾なく妥当する 精神の概念と言えるわけである。
第二節 肉体と峻別された精神観に対する批判
思考と行動との連続を主張し,その基礎として,精神的活動と肉体的活動との連続を主 張するデュ_イにとって,批判し抵抗せざるを得ない精神の概念は・外界から孤立したも
のとして固定的にとらえられる精神の概念であった。『民主主義と教育』において彼は言 う。「過去の哲学においては,あまりにもしばしば精神は,知られるべき事物や事実の世 界と対立させられている・購精神は外界と1よ独立して擁すると ??フ心的状態や作 用をもつところの,外界とは孤立して存在するあるものと見倣された。」。特に彼は精神と 肉体とを峻別するところの二元論にこそ,その批判の鉾先を向ける。「精神あるいは意識
(mind or consciousness) と呼ばれるものは,肉体的な活動の器官から峻別されてい る。前者は純粋に知的な認識的なものと考えられ,後者は筋違いの,邪魔をする物質的要 素と考えられている。活動とその結果をうけること一それは意味の認知へと導く一と の密接な結合はうちこわされている。その結合の代りにわれわれは切り離された二つの部 分,即ち,一方では単なる肉体的活動,他方では精神的活動によって直接とらえられる意 味,をも讐.」.同じ榊翻もつものとして彼は獺的楯の支儲たちの哲学四餉 ける。彼等の哲学は「精神と経験の過程の面とを切り離す,即ち,精神と事物に基礎をお
きそして事物を扱う行為とを切り離す幽である.鱒の群では「精神的なものは・
独立自足的,孤立的領域であると考えられているので,肉体的活動および運動も同様の運 命に陥る。それらは最善の場合でも,精神に対する単なる外的な附随物と考えられるので ある。肉体的必要の満足とうわべだけの体裁をとりつくろい,うわべだけの楽しみを身に つけさせるためには腰かもしれな…したがって精神の中において必要とせられ
ア姻
鮪していないし,また思考の完成のために必歎くべからざる役割を演じもしない・」と 考えられているのである。要するに二元論哲学,あるいは実用的学科のカリキュラムへの 導入に反対する教養的教育の支持者の哲学は「外界や肉体から孤立させられた精神概念」
関:デューイにおける思考論の特質 15
磐器対して・デ・一イの哲学では「岳鰻轍あ紬三葡紬舳晶導麟
素である・」とする精神概念をもつのである.更を・彼は思考の創造性ということに関して あやまった考え方があるのは,古いあやまった一般的精神観があるためであるとして,そ の間の事情を次のように具体的に述べている。「思考の創造性ということについて既に述 べたことが若しも,普通人の能力以上の教育を要求するものとして,過度に緊張すること を必要とするものだと思うならば,その窮境はわれわれが迷信のとりこになっていること にある。われわれは大きくは精神について,知性的方法について,万人が共通であるとい う一般観念をもっている。その時,個人は彼等がせおわされている精神の量の相異せるも のと見倣される。しかる時,普通人というのは,普通の精神の分量の人だと思われている。
例外的な人(異常例外の人)のみが創造性をもつものと考えられる。平均的な学生と天才 との相違を測定する尺度は,前者には創造性が欠除しているという尺度である。しかしこ
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のような一般的精神観は一つの虚構(fiction)にすぎない。一人の学生の能力を他の学生 の能力と量的に比較してどちらが多いかなどということは教師の職分に何の益もないこと だ。それは教師の仕事に無関係のことだ。教師に要求されることは,一人一人の子どもに 意味をもった活動において,彼自身の能力を発揮するそのような機会をもたらしめること である。精神とか,個人的方法とか,創造性ということばは,相互に転換しうる言葉であ って・いずれも目的である行為,また1よ鱒された行為嘱を意味す謂。
以上に述べられたことは,デューイによって徹底的に克服すべく焦点づけられたものと しての精神の概念,二元論哲学や教養的教育の支持者たちの哲学のもつ精神の概念,即ち 精神を外界から孤立した固定的なものとする精神の概念,精神と肉体とを峻別する精神の 概念である。
これらの精神(活動)と肉体(活動)とを峻別する精神観は,次の三点において,思考 と行動とを統合しょうとする教育に弊害を与えるものとして,批判される。それは,
① 肉体的活動は精神的活動に対する一種の邪魔物と見られる。肉体的活動は精神的活動 と全然関係ないものと考えられており,即ち戦い克服されるべき害悪であると考えられ
ていぎ1
② 感覚器官や筋肉は教育的(有益)な経験をもつ場合の有機的な協力者としてではなく て,外界に対する精神の出入口として用いられる。感覚器官の使用と意味の把握との関 係が無視される。また目的から行為を切り離すことによって,その行為を機械的なもの
とすぎ1
③ 知的な方面において,精神を事物との直接交渉から分離することは,事物をあまり重 視して,事物の関係または結合を無視することになる。知覚や観念を判断から分離する
ことは極めて普通のことである。判断は知覚や観念を比較するために,知覚や観念がで きた後で生ずるものと考えられている。精神は事物をその関係から引き離して事物を知 覚するのだと見倣されている。精神は事物の関係から離れて,即ち,先行のものや後来 のものから独立して,事物の概念をつくると見倣されている。判断あるいは思考は「知 識」の分離せる項目を結合して,それらの類似または因果の結合関係を明らかにする役 目をもつと思われている・(しかし・それは観であって・報の問題と ̀チは)あら ゆる知覚や概念は,ある事物の諸関係,効用,原因の認識(asense)である。
と要約することができるであろう。
第三節 行為の過程・生活の機能としての精神の概念
本章第一節「初期の理論における精神の概念の転換」および第二節「肉体と峻別された 精神観に対する批判」において,デューイの主張せんとする精神の概念が・近代諸科学の 論理によって基礎づけられた精神的活動と肉体的活動との連続を主張する立場から,ある いは批判的な姿を取り,あるいは積極的な形を取って,既に力強く打ち出されている。そ れらは反復を圧わず列挙するならば次のごとくに示される。
① 個人の精神は固定したあるものではなくて,行為の一つの過程であり,成長の過程で ある。
② 精神は人間の社会生活の機能であり,人間の行動がとるべき方向を決定する機能であ り,しかも行動と行動との中間的なものである。
③ 精神とは経験の発展における目的的,指導的な要素である。
④ 精神,個人的方法,創造性などという言葉は,みな同じ意義を示す言葉であって,い ずれも目的ある行為,または指導された行為の質を意味する。
⑤ これらの精神観の基底には精神を肉体と峻別することを許さない連続的観点が一貫し ている。
これらの精神の概念は,精神を行為の過程として把握し,精神を生活の機能として認識 するものであると搬化しうるのであろう.C・A・ピー・ドとM・R・ピー・ドは『アメ
リカ精神の歴史』において,アメリカ哲学の「人間の心」,「思想の機能の価値」に関する 特異な解釈について,アロンソン(Aronson, Moses J・)の言葉を借りて次のように述べ
ている.「凱縄想の流行のもとで1よ,頴商競1というものも一つの生命的な礁
体として考えられ,生存競争裡における生存価イ直をもつものとして考えられてくる・、° 思 想も,人間という経営体において一つの機能を果すものと考えられ,その機能の価値は,
危険と驚愕とに満ちた現世において人類を栄えしめるその能力の効率性に照して,決定さ
関:デューイにおける思考論の特質 17
れるものとなる。学者たちが,知識哲学における用具主義理論の影響を受けるに従って,
彼らは〔事物の〕の起源の探究とか,目的論的定義の追求などを棄てて,もっぱら,彼ら の精力を人間存在をもっとも豊かならしめるような諸目的の構想・定立に集注すること ㈹
と,なってきたのである。」
デューイの精神の概念もまたビーアドによって述べられたアメリカ哲学的人間精神観と 当然に軌を一一にするものと考えられる。あるいは,むしろ最も典型的にアメリカ哲学的人 間精神観をあらわしていると言った方が正しいかもしれない。デューイは言う。 「籍卿と はそれ自体で完全なるものに対してつけられた名称ではない(Mind is not a name for something complete by itself・)。精神とは賢明に指導されている限りにおいての肴為あ
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過程につけられた名称である。即ち,行為の過程の中へ目的や終局が入り,目的の達成を 助長するための手段の選択をも含む限りにおいての行為の過程につけられた名称である。
知性(intelligence)とは人が所有する特殊な所有物ではない。人がその中で一つの役割を 果しているその活動が,上述したような性質をもつ活動である限り,人は知性的であるの だ。人の為す活動というものはそれぞれが聡明になされると否とにかかわらず,その人の 独占物ではない。それらの活動は,それに人が従事し,参加するところのあるものなの だ。即ち,他の事物の推移や他の人々の変化によって共働され,あるいは妨害されるもの である。個人の行為が,事件の過程の発端となることはあろう。しかし,その事件の過程 の結果は他の作用物(agencies)(事物や人)によって与えられる力と彼の反応との相互
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作用に依存するものだ。結果を生みだすために他の要素と協力する一つの要素と考えない 99)
で,何か独立のものと精神を考えれば,それは無意味なものとなる。」。 デューイにおい ては,精神とはあくまでも行為の過程であり,生活の機能であるのであり,それはわれわ れが,これまでに論究してきたところの思考の概念とまったく一致するものである。
結 語
デューイにおける思考論の特質は,思考と行動との統合の理論として把えられる。それ は現代諸科学の論理に支えられた精神的活動と肉体的活動との連続の理論を基礎とする。
それは経験の時間的発展の中に思考を位置づけて,思考の中間的・再構成的地位と機能を明 らかにする。それは必然的に精神の概念の転換を要請し,精神を行為の過程・生活の機能 として把える立場,即ち,精神即思考と見る立場をとる。デューイの思考論展開の教育哲 学的意図は,精神と活動との分離対立を基本的仮定とする古典的二元論の哲学を克服し て,教育上の相対立する諸観念,諸問題を解明統一することにある。そのためにこそ,彼
は精神と活動との連続を,認識と行為との連続を主張する。故に彼の思考論は,二元論克 服のために彼が提唱した「環境を統制するための活動における精神の起源,地位,機能を 認めるところの新哲学」の中核の理論であると考察されるのである。
(1968. 10. 31)
註
(1)拙稿「デューイの反省的思考の本質」茨城大学教育学部紀要第13号,1963.
(2) 日本デューイ学会編:ジョン・デューイーその人と思想一,1959.P. 22.
(3) 日本教育学会:教育学研究,第32巻,第4号,P. 61.
(4)錨蟹手嚢操作犠哲学,H召・42・ P・5・
Anatol Rapoport:Operational Philosophy−lntegrating
Knowledge and Action−一一一一一d,1953.
J。h。 D,w。y・D。m・・racy and Ed・cati・n, Th・M・・mil1・n C・mp・ny,1916・P・377・
Ibid.,
Ibid.,
Ibid.,
Ibid.,
Idid.,
Ibid,,
Ibid.,
Ibid,,
Idid.,
Ibid.,
Ibid,,
P.388.
P.391.
P.299.
P.377.
PP.391〜392.
P.392.
P. 392,
PP.392〜393,
P.403.
P,403.
P.404.
大浦猛:実験主義教育思想の成立過程,昭・40・PP・33〜34・
(18)吾藤蟻・学校と社会・ 昭・25・P・ 132・
「ジェイムズによる精神生活の生物学的基礎の強調,ミー一ドによる有機体としての人間と環境 との相互作用の解明,さらに後者のコミュニケーションの理論,これらのものがデュー一イの哲 学の出発点としてうけつがれている。」
(19) 杉 浦 宏:デューイ教育思想の研究,
(2・)蘇編繍・哲学の改造・(岩波文庫)・
清水幾太郎:現代思想入門,
(21)蘇癒繍・哲学の改造・
日召.37.PP.58〜59.
昭.43.P.187.
昭,34.P.145.
昭.43.P.187.
(22)
(23)
(24)
(25)
(26)
(27)
(49)
関:デューイにおける思考論の特質 19
大島正徳:現代実在論の研究,昭.18.P.103.
John Dewey:Essays in Experimental Logic,(1916)D,ver Publications, Inc.,1953. P.1.
大島正徳:現代実在論の研究,昭.18.P.127.
John Dewey:Essays in Experimental Logic,(1916)Dover Publicat三〇ns, Ins.,1953.
PP.18〜19.
John Dewey:How We Think,(1910)1933(revised ed.). PP.106〜107.
John Dewey:Essays in Experimental Logic,(1916)Dover Publications,Ins.,1953,
PP.9〜11.
Tohn Dewey:Democracy and Education, The Macmillan Company,1916, P,171.
Ibid., P.173.
John Dewey:How we Think,(1910)1933(revised ed.). P.15.
John Dewey:Essays in Experimental Logic,(1916)Dover Publications, Ins.,1953. P.19.
Ibid., P.22,
Ibid., P.17, P.30.
Ibid., P.31.
永野芳夫:デ=一イの伝記,昭.23.PP.19〜20.
John Dewey:The Sohool and Society,1899,1915(revised ed). PP.90〜91.
Ibid., PP.90〜93.
Ibid., P.94.
John Dewey:De!nocracy and Education, The Macmillan Copany,1916. P.153.
Ibid., P.164.
Ibid., P.190.
Ib隻d., P.191。
Ibid., P.191.
Ibid., PP.202〜203.
Ib董d., P.165.
Ibid., PP.166〜167.
Ibid., PP.167〜168.
M:食:El:列著、アメリカ精神の歴史, 196_8.
覆奈盆謝訳
John Dewey:Democracy and Education, The Macmillan Company,1916. P.155.
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