やまがた ・明治の時代背景 一三島通庸と山形‑
◎ 岩 田 浩 太 郎 (山形大学人文学部教授)
はじめに
この講義では、「三島県令道路改修記念画幅」が措かれた時代背景 につい て考 えたい と思います。山形県令 として赴任 した三島通庸 はいかなる政治 をおこなったのか、高橋 由一が措いた道路や トンネルはいかなる目的をも ってつ くられた ものなのか、山形の歴史 における「三島時代」の意義 を考察 し、大 きな歴史の転換のなかに位置づけたい と思います。
‑、束北開発のなかの三島通庸 一宮の期待 ‑
まず、明治政府の東北開発政策について概観 したい と思います。そ して、
明治政府 は山形県令三島通庸 に何 を期待 したのか、三島はいかなる政治 を おこなったのかについて考えてみたい と思います。
1
政治のビジ ョン‑大久保利通の東北開発構想明治政府の東北開発 を進めた内務卿大久保利通の政策構想 について、 ま ずふれたいと思います。明治政府が東北開発 を進める背景 にあった課題 を、
大 きく三つに分 けて整理 してみましょう。
第一は経済的課題です。当時、 日本は輸出よりも輸入の方が多い状態 に あ りました。明治
8( 1 8 75)
年の場合、輸出総額18 61
万円に対 して、輸入総 額は2998
万円であ り、国際収支は113 7
万円の赤字です。 この貿易入超 を克 服するためには輸出で きる商品をふやす必要があ り、殖産興業 に力 を入れ ることが国家的な課題 となっていました。そのため明治政府は明治6( 1 8 73)
年に内務省 を設置 します。内務省 は勧業 ・警保 ・戸籍 ・駅逓 ・土木 ・地理 の六部局からな り、いわば殖産興業 と内政 (国内政治)に関わる重要な権限 を集中 した強力 な省庁 として設置 されたといえます。初代内務卿 に大久保 利通が就任 しました。大久保は輸出商品の主力である生糸の増産 をめざし、生糸産地 として幕末以来成長 しつつあった東北に注 目します。東北は 「其 土壌 ノ広闘ナル
」
「皇国ノ宝庫」と位置づけられ、広大な面積 を、もつ東北の 開発 と殖産興業 を重要な課題 としたのです。第二 は対外的課題です。北方 ロシアの脅威 に備 えるため、軍隊を迅速 に 送 り込めるように交通網 を整備する課題があ りました。「北辺の護 り」のた めには北海道 を開発する必要があ り、北海道 を開発するためには東北 も開 発する必要があると位置づけられたのです。
第三は政治的課題です。東北諸藩の多 くは戊辰戦争の際に官軍 と対立 し た経緯があ ります。また荘内港は戊辰戦争敗北後の処分 に際 して寛大な措 置 をとって くれた西郷隆盛 と親密 な関係 をつ くっていました。明治
6
年の 征韓論で破れて野に下 った西郷隆盛は、後 に明治10( 1 8 7 7)
年 に西南戟争 を 起 こすに至 りますが、西郷 と呼応 して旧荘内港勢が挙兵するのではないか と明治政府は警戒 していました。 こうした情勢にある東北 を鎮撫 し、「皇国 ノ徳化」
「開明ノ治化」を進めることを課題 としていたといえます。明治
9( 1 8 7 6)
年 に大久保 は自ら東北視察 をおこない、続いて明治天皇の 東北巡幸がおこなわれました。大久保の東北開発構想 にはいろいろあ りま・p■こ・
すが、ここでは巨大 プロジェク トとして位置づけられた野蒜港 を中心 とす る東北広域経済圏の構想 を紹介 しましょう。明治
2( 1 8 6 9)
年 には太平洋側 の松島湾寒風沢港 に蒸気船が就航 し、開港 した横浜港 との間を一週間で結 ぶ航路が出来ていましたが、松 島湾 より少 し北東 に位置する野蒜 にさらに 大型の洋式港湾 をつ くり東北の交通網の一大拠点 にしようとい う構想で し た。この開発構想 は壮大 なもので、野蒜港 と東北各地 を結ぶ交通網 も整備 することが盛 り込 まれていました。山形県域か らは関山街道一仙台‑塩釜‑松島湾一東名運河一野蒜 とい うルー トで、福島県域か らは阿武隈川一荒 浜一貞山堀運河一塩釜一松 島湾‑東名運河‑野蒜、秋田県城か らは鬼首峠 越え‑鳴子一鳴瀬川一野蒜、岩手県域か らは北上川‑石巻一北上運河‑野 蒜、の各ルー トで野蒜港 に物資 を輸送で きるようにする構想で した。陸路 と河川舟運 を活用 し、各河口か ら野蒜 までは上記の各運河 を開通 し太平洋 の外海に一度 も出ないで連絡で きる安全な運輸網 をつ くろうとしたプラン です。野蒜港は明治1
1( 1 8 78)
年 に着工 されましたが、明治17( 1 88 4)
年の台風で打撃 を受け、翌18年 に最終的に工事 中止 とな り、この巨大 プロジェク トは結局未完 に終わ ります。 しか し、大久保が野蒜港 を中心に海外輸出 と 結びつ く広域交通網 を整備 し養蚕製糸業 をは じめ東北各地の殖産興業 をお こない経済を活性化 しようとしていたことが指摘できます。三島通庸が山 形県令の任 にあった時期 は、まさにこの野蒜港開発が構想 ・推進 されてい た時期であ り、山形県における三島の諸事業 もこれ らの明治政府の東北開 発構想 を背景 としていた ものであったことをふまえて位置づけてい く必要 があ ります。
2
土木 と鬼の県令 ‑三島通庸の位置三島通庸は天保
6( 1 8 3 5 )
年 に薩摩藩士 (鼓の師範)の家 に生 まれ、幕末 に は尊皇摸夷の志士 として上京 し、西郷や大久保 と親交 を結びます。明治2 ( 1 8 6 9 )
年 に都城の地頭 (地方官)とな り地方行政の経験 を積みます。明治4
年 に東京府権参事 とな り銀座煉瓦街建設 に参画するなどの手腕 を発揮 しま す。明治5
年敦部省大丞 を経て、明治7
年 に酒田県令 に就任 します。親西 郷派に傾 きつつある荘内士族の動向やワッパ騒動で揺れていた庄内地方の 治定 とい う当時の緊要な課題 を抱 えて赴任 しました。翌8
年に酒田県が鶴 岡県に改称 となるにともない鶴岡県令 とな り、翌 9年 8月に鶴岡県 ・山形 県 ・置賜県が統一 されて統一山形県が誕生するにともないその初代県令 に 就任 します。明治1 5
年7
月に解任 されるまで約6
年間の長 きにわたって三 島は山形県令 として政治手腕 を振 るいます。その後の経歴 を追います と、まだ山形県令在任中の明治
1 5
年 1月に福 島県令兼任、翌1 6
年栃木県令兼任、翌1
7
年 に中央 に帰 り内務省土木局長、翌18年警視総監 とな ります。明治21( 1 8 8 8 )
年 に5 3
歳の若 さで亡 くな りますが、経歴か らみれば行政官僚 として 栄達を遂げた人物 として位置づけられます。丸山光太郎氏が三島の詳細 な 伝記 をお書 きになられています。三島の人柄 に関心のある方は読 まれるとよい と思います。
明治政府が三島に期待 した役割 を
3
点 にまとめました。一つは 「東北の鎮台」 としての役割です。庄内地方の情勢 をは じめ戊辰戦争の傷跡 を残す 東北の鎮撫 とそのための拠点 を築 くことが課題で した。第二は東北開発の 具体化です。道路 ・河川の整備 など土木事業 と殖産興業政策の推進が課題 で した。第三は東北の 「文明開化」です。天皇巡幸 による 「人心の収撹」と 教育による民心の 「離党」、富国強兵のための地方県づ くりが課題で した。
これ らはいずれ も先 に述べた明治政府の東北開発政策 を具体的に進める も ので した。明治
7
年12
月に内務卿大久保利通は三島に酒田県令就任を要請しましたが、これは大久保がおこなった最初の本格的な東北諸県人事であ り、まさに明治政府の東北開発 を担 うエース として三島は送 り込 まれて き たといえます。三島は専制的な政治をお こなった と評価 される場合があ り ますが、少々地元 と摩擦 を生 じて も明治政府の政策を忠実に実行する地方 官 として期待 され、 またそれに応 えた人物であった、言い換 えれば明治政 府 にとって 「期待 される地方官像」の典型 として三島を位置づけることが で きるのではないか と考 えます。
明治 9年 8月に山形県令 に就任 した三島が出 した県政方針は大 きく7点 にわた ります。
a
,道路運輸の開通 ・民力養成b
,学校開設 ・人材養成C
, 殖産興 業 ・実物教育d
,病院設立 ・医学教育e
,警察署設置 ・治安確立f
,河川改修 g,酒田港改修a
は本講義のメインとして取 り上げる土木事業です。交通網 を整備 し殖 産興業 と結びついて民力 を養成 しようとする方針です。b
は山形大学の前 身の一つである師範学校 などを設立 しました。
Cは博物館や製糸場などを 設立 し、実際に模範的な技術 を県民 に見せて手 に職 をつけさせて産業 を興 す方策です。 d
は済生館 に結実 しました。 e
により三島は警察 を活用 して 言論弾圧 をお こないました。 f
は最上川などに多数の堤防を築 きました。
gは江戸時代以来の山形の動脈である最上川の河口の酒田港 に蒸気船が着 けるように改修工事 をお こなうとする方針です。当時多数の山形県人か ら
1 6
51建 白書が提出され期待 されていた ものです。結局
、 g
だけは実現で きませ んで したが、 a〜 f
は実行 しています。それではa
の土木事業 を具体的に 三島はどのようにおこなったのか。山形大学附属博物館の今回の特別展で 展示 していましたが、三島は道路23(うち随道4)・橋梁65・堤防1 1(
最上川
・寒河江川 ・丹生川 ・赤川) ・建造物28の工事 をおこないました。この なかで土木事業の中心であ り総距離19 万 1 753
間(約349 km)
に達 した道路工 事 をとりあげてそのね らいや特色 について考 えてみましょう。以下の I〜lVを指摘 したい と思います。
l
は、荷車で交通 を可能 とすることです。牛馬や人の背で運ぶのではな く、荷物 を荷車に載せて引いていける道路 をつ くることを目標 としました。 Il は、東京 ・仙台 との連絡 を強化することです。 このことは 日本海側の酒田を 玄関 としていた山形の従来の交通体系 を徐々に変化 させ る結果 とな りまし た
。
日 は、三島の土木事業は民費 (協議費 ・寄附金)中心の負担 によりおこ なった点に特色が指摘で きることです。民費の うち協議費 とは、例えば村 山地方ならば村山四郡連合協議会が4
郡の住民 に対 して地租剖 ・戸数割 ・ 営業税割の各基準 を併用 して購課 し請け負わせた ものです。三島が県令 で あった明治9‑ 1 4
年の山形県の道路工事の総工費は41万 7007
円で したが、その内訳 は官費および国庫補助32.
1%、地方税1
.1%、協議費60. 1%、寄附金 6. 5%などとなってお り、民費は66. 6%に達することが判明 します。総工費
の 3分の 2は民費であ り、三島の道路工事 は民の負担 により実現 したのだ ということがで きますo協議費負担の問題 は後でまたふれます.JVは、最 新の欧米技術 を駆使 して道路工事 をおこなったことです。関山の トンネル を掘る際に、三島は世界で当時3
台 しかない と言われたアメリカ製の蒸気 力穿坑機 を注文 し、これが物凄い威力 を発揮 したことが知 られています。三島の意欲的な実行力が うかがえる事例です。
以上、高橋 由一が措いた三島県令道路が明治政府の東北開発政策におい ていかなる期待 をもって作 られた ものなのかについて説明 しました。
二、 三島県政をめ ぐる対抗 一民の目線 ‑
それでは、山形県の人々は当時、三島の政治や土木事業 をどのように受 けとめていたのか、今度 は民の目線で三島県政 をとらえてい きたい と思い ます。福 島県民 は三島の圧政 を批判 したが山形県民は賛美 したと比較対照 して言われることがあ りますが、そう単純ではあ りません。
1
三島県政 と批判まず、三島の政治手法はいかなる特徴 をもっていたのか、指摘 したい と思 います。この点については渡辺史夫氏や小形利彦氏の研究があ り参考 とな
ります。
1
つ 目は、専決実行です。 自由民権運動の展開のなかで開設 された山形 県会 にほとんど出席 しない、県会が決めた予算枠 を無視 して支出をおこな う、県会への報告 を軽視 しあまりしない、などの行動 をとったため、三島 は山形県会の民権派議員などか ら猛烈な批判 を浴びています。一方で三島 は専決実行 により迅速 に予算 を執行 し、各道路工事 を短期間で終了 し完成 させてい くのです。2
つ 目には、県会の権限を制約 したことを指摘で きます。県会の審議事 項は山形県民か らとった地方税 による施策 に限定 し、これについても県会 は審議権 はもつが最終的な認可権 は県令 にあると三島は定めています。そ れで も県会が決算 を承認せず県令 と対立 した場合には、最終認可は中央政 府の参事院が裁定することになっていたので、結局中央 と太いパイプをも つ三島県令の決定が最終的に認可 される制度 となっていました。三島はこ の制度 により、県会が認めない土木事業費の予算超過 を決算 として何 回 も 通 しています。専決実行 と県会の権限制約 とい う政治手法は 「上か らの地 方政治」 と評価 されます。民の意向をよく聞かず民権運動へ対抗 した とい う三島の政治は既 に山形県令時代か ら認め られるのであ り、後の福島県令 時代へ と引 き継がjtてい くことが指摘で きます。3
つ 目は、県職員や郡長 に藩閥 (鹿児島士族 ・部下 を重用) を徹底 して登用 した点があげられます。明治1
3( 1 88 0)
年の山形県職員の出身地の構成 をみます と、1
位 は山形( 46%
、ほとんどが士族)、2
位 は鹿児島( 1 7%)、 3
位 は東京( 1 5%)
です。 さすがに山形が多いのですが、鹿児島の比重が異常に高 く、かつ幹部職員 は鹿児島で占め られています。 また、郡長 にも鹿児 島や熊本出身者が登用 されています。 これ らの要職 に就いた藩閥出身者は 三島 とともに赴任地 を変 える人々が少な くな く、彼 らが県政お よび郡政の 中枢 を掌接 し三島をささえていたことがわか ります。
4
つ 目は、歳音律 により新聞言論の弾圧 を進めたことです。実際に、三 島県政 を批判 した山形新聞や東北新報 など七紙人件が「県令護誇」などの理 由で三島に告訴 され、裁判所で禁獄 ない し罰金処分 を受けています。後で またふれます。5
つ 目は、警官による威嚇 ・検束 ・拘置などを頻繁 におこなったことで す。例 えば、山形十 日町の巨大商人㊨長谷川音郎治に対 して1, ( X
対円にのぼ る巨額の寄附金 を命 じたが直ちに応 じなかったので3
日間検束 して詰問 し た とか、県庁舎予定地域 にある民家 を強制的に引越 しさせたとか、政治批 判 を言 った民権家 を一週間牢屋 にぶち込み食事 もろ くに与えなかったなど、寄附金強制 ・立 ち退 き強制 ・民権家弾圧などの手段 として警察権力 を活用 しました。 こうした弾圧は、既 に山形県令時代か ら三島はおこなってお り 常套手段で した。
6
つ 目は、広域的な郡協議会 ・連合会 を巧みに利用 して県政 を実施 した ことです。協議会は先 に述べたように道路工事費の捻出にとって大 きな基 盤 とな りました。協議会などの活用は、三島の専制的なイメージ とはやや 異 なるか もしれませんが、自らの県政の基盤 を官のなかだけではな く民の なかにもつ くり出すことを、三島は一方で怠 りな くお こなっていたといえ ます。 この点は三島県政が批判 されなが らも 「実績」 をあげた秘密 を解 く 重要なポイン トだ と思いますので、後でまた協議会をめ ぐる動向について 考察 します。それでは三島県政批判の言説や運動 について、主な事例 をあげて紹介 し たいと思います。
(1)米沢有志社五十嵐力助 らの万世大路閉塞の民費賦課 ・人夫徴発 に対す る建 白
明治1
0( 1 8 7 7)
年 に五十嵐 らは建 白書 を提出 して訴えています。三島は万 世大路 (菓子新道)の開整のために1 5‑6 0
歳の男女 を人夫に動員 し、応 じ ない者 には1
日5
‑10銭 を強制的に賦課するなど圧制 も甚だ しい、県令 に よる民費の賦課 には自ず と限界があるはずであ り、また三島に協力 した区 戸長は官選であ り人民の代表ではない、県民は法外 な賦課 を拒否する自由 権 を有する、 とする訴えで した。民費 に関する県民の協議権 を問題 にしたといえます。
( 2
)佐藤里治議員の県博覧会建築費 に対する動議明治1
3( 1 8 8 0)
年の県会で佐藤議員 (西村山郡)はこの建築費 を削減すべ き とする動議 を出 して三島の土木事業 を批判 しています。「これ不急の土木 を 起 し、徒 らに虚飾 をこととし、未だ人民は此事業 により著 しくその実効 を 見 ざるためにこの不平 を鳴 らす ものならん」 と述べ、三島の土木事業は不 要不急で虚飾なものであ り人民は利益 を得ていない と主張 したため舌禍事 件 とな りました。三島が佐藤里治 を県庁 に呼びつけ発言 を戒めたのに対 し て佐藤が反論 し、議長で もない三島が このような場で言えることではない と叱略 したことを扶桑新誌が記事 にしたため 「圧政県令の聞こえ高 き人が 県会議員 に叱 られたとの評論」 を記事 に したとの理由で同誌が歳誘律で罰 金刑 に処 される結果 となっています。言論や新聞に対する三島の弾圧 を象 徴する事件 に発展 したことがわか ります。(3
)佐藤伊之膏 ら東 ・南村山郡町村惣代 による関山新道民費撤 回の運動 天童の民権家佐藤伊之舌 らが東 ・南村 山都の7‑8
割の住民惣代 として 明治13
年 に提訴 した運動です。 この連動 については渡辺史夫氏の詳細 な研 究があ ります。関山新道開輩のための協議費 を村山4
郡の住民が受益の程167 1
度に関係 な く‑率 に同一基準で負担するとした連合協議会の決定はおか し いこと、また連合協議会の議員は町村会則の改変により人民代表たる資格 のない者 となってお り、彼 らによる決定 も法律上無効であること、などを 主張するもので した。 この運動の背景 には、関山新道の開通 による利益 は 北 ・西村山郡の方が大 きく、東 ・南村山郡の方が小 さい という受益 をめ ぐ る地域間の利害対立があ り、協議費負担の重 さか ら対立が表面化 したこと が指摘で きます。結局、この訴訟運動はつ ぎに述べる干渉ない し仲裁の動
きにより切 り崩 され、佐藤 自身 も提訴 を取 り下げるに至 り、運動 は終息 し ました。
以上のように、三島県政は多 くの批判 を浴 びなが ら進められたといえま す。三島が協議会を活用 して土木事業費 を民か ら調達する方式は福 島県令 時代 にも継承 されてい きますが、協議会 をささえたのはどのような人々で あったのか、つ ぎに検討 したい と思います。
2
ささえる基盤村山四郡連合協議会の議長 は西川耕作 (西里村)、副議長は細失巌太郎 (北 口村)であ り、いずれ も西村山郡の谷地郷出身の県議です。彼 らは大規模豪 農堀米実 (現在、河北町立紅花資料館 となっている堀米家の六代当主)を中 心 とする穏健民権派グループを形成 してお り、他 にこの時期活躍 した谷地 郷の柴田弥や大清水の松浦吉三郎 らも含 まれます。別の機会に考察 したこ
とがあるのですが、彼 らは江戸時代以来の大規模豪農一中小豪農の経営関 係 などのネッ トワークを培い、独 自に早 くか ら関山新道開整建 白 ・野蒜港 視察 ・養蚕生糸業奨励 などに積極的に動いた人々です。明治13年
4
月には 堀米実は山形県会副議長に就任 してお り、また翌1 4
年にはこれ らのメンバ ーを中心 に、特産物振興 と「百般共同ノ公益」を追求するとのスローガンを 掲げて民権結社特撮社 を結成 し政治活動 を展開 してい きます。彼 らは野蒜港開発 に大いに期待 し郡役所 とも連絡 をとりなが ら野蒜港開 発会社 (商社)の設立 を企画 していました。そ して、彼 らは同時に関山新
遣開聖の村山四郡連合協議会 を運営する中心メンバーで もあ り、野蒜港か ら関山新道 を通 り山形 まで行 く道路 を地元の谷地郷 を迂回するルー トにす ることを県 に働 きかけ決定 させていました。まさに当時、野蒜港開発 ・関 山新道開整により養蚕生糸など殖産興業 を推進 しようとする中心的な勢力 となっていたのです。そのため彼 らは、先 に紹介 した佐藤伊之苦 ら東 ・南 村山都町村住民による提訴 をなんとか早期 に解決 し関山新道開整 を円滑に 進めようとする立場 にたっていました。佐藤 らの訴訟運動 に対 して、三島 県令配下の郡長の指示 を受けて堀米 一西川 ・松滴 らは関山新道民費撤回運 動の仲裁 をおこなったことが確認で きます。具体的には、東 ・南村山郡の 協議費負担額のうち 1万円を北 ・西村山郡が負担するとい う修正案で、地 域間の利害対立 を調整するもので した。結局、この仲裁が効いて佐藤 らの 訴訟運動は終息 に向かいました。
三島県政は専制的で県民 に重い負担 を強いる側面 をもっていましたが、
一方で明治政府の東北開発政策 と結びついた地域の殖産興業推進 をはかる 現実的な施策 を実施 した側面 をもっていました。紅花か ら養蚕生糸へ と地 域産業の転換 ・振興 を志向 していた豪農層 は、三島の政策に活路 を兄いだ
し県政 をささえる役割 を果た したことが、これらの動向か ら指摘で きます。
三島の政治に対 して福島県では激化騒擾事件が発生 したのに、山形では そうした事態は起 きなかった背景の一つ として、両地域 における社会構造 の違いを指摘で きるのではないか、 とい う仮説 を本 日提出 してみたい と考 えます。すなわち、福 島県 よりも山形県の方が地主制が発展 してお り、山 形では堀米家 に代表 される地主豪農層のネットワークが三島政治を地域 に おいて支 える基盤 とな り、民衆内部の利害調整にも役割 を果た したため激 化事件は未然 に防がれたと考 えるのです。今後 さらに検討 してみたい と思
います。
また、三島政治を支持するか しないかについて、同 じ山形県の内部で も 地域差があったことが指摘で きます。三島が山形県令 を辞める明治
1 5 ( 1 8 8 2 )
年
7
月に、東置賜郡28ケ村 ・西置賜郡38
ケ村は三島の山形県令留任 を求め る陳情 をおこなっています。また、最上郡有志は三島に感謝 して、ななこ 織 を謹皇 しています。三島の土木事業による交通整備の恩恵 をもっとも受 けた県北部や県南部のこうした地域の人々‑もちろん階層差 はあると思い ます一が三島の支持基盤 となったことが指摘で きます。由一が描いた三島県令道路は、 このような民の様 々な想い と熱い視線 を 浴 びた ものであったといえましょう。
三、変革 される交通 一山形の地位変化 一
つ ぎに、三島時代 とい うのは山形県の人々にとってどういう意味 をもっ ていたのか、大 きな歴史の流れのなかで考 えてみたい と思います。
1
物流の変化まず、人々の日常生活を支える商品物資流通のあ り方が三島の道路整備 によりどの ように変化 したのか、について指摘 したいと思います。
図
1‑ 3
に、江戸後期か ら明治40(1 9 0 7)
年以降までの物流の変化の3
段㍉階を図示 しました。これは歴史地理の長井政太郎先生がかつて作成 された ものです。図
1
は江戸後期から明治初年 までの主要な物資運搬経路 を示 し た もので、最上川舟運 を大動脈 とした江戸時代のあ り方がわか ります0図
2
は明治20( 1 8 8 7)
年頃の図で、ちょうど三島による道路整備が終わ り、その後活用 された時期の ものです。 したがって、
図 1
と図2
を比較すると 三島の土木事業 により物流がいかに変化 したのかが、おお よそ把撞で きる といえます。一番の変化 は関山新道 (図2
の1
が関山峠)の開通整備 によ り、仙台方面か らの物資流通が活発化 し村山や置賜方面 まで入 り込んで き たことがあげられます。 この明治20年には仙台まで東北線が開通 し東京一 仙台の物流が東北経済の主幹 とな りつつあったので、これ と結びつ く関山 新道のルー トが利用 されたわけです。図2
の段階は、このあ らたな交通 に よる物流 と従来か らの最上川舟運 に結びつ く物流 とが併存 しせめ ぎ合っている時代 ということがで きます。
図
3は、奥羽線が山形 まで開通 した明治3 4( 1 90
1)年以降の状況 を示 した ものです。鉄道の輸送力が他 を庄倒 し基本的には奥羽線で東京方面か ら物 資が入って くるあ り方 となっています。最上川舟運は庄内地方への物資輸 送 に役割 を果た し続けていますが、全体 としては限定 されたものとなって います。三島が作 った道路の役割は終止符が打たれていることがわか りま す。 したがって三島の道路が活躍 したのは図2
の段階であ り、明治10年代 後半か ら3 0
年代 までの時期 ということにな ります。それではこの図2の段階、つま り三島の道路が活躍 した時代の交通の状 況や性格 について述べ ましょう。
第‑ に、三島の道路が利用 され活況 を呈 した様子 についてですが、明治
1 6( 1 8 8 3)
年11月に関山随道 (トンネル)西口を通過 した荷物の量は1
日平均 にすると、馬の背で運ぶ荷駄が70駄余、荷車が50
柄、牛馬車が2
頭、で し た。三島の道路のね らいであった荷車 による運搬が実際に活発化 していた ことが判明 します。また、明治20
年に仙台 まで東北線が開通すると山形の みならず秋田や弘前方面への荷物や郵便物 も関山新道 を通過 して運ばれた とする史料 もあ ります。明治20
年頃、関山には運送人夫50
人、人力車50
台、荷馬車20
0
台が常駐 して稼働 していた とする史料 もあ ります。江戸時代の関 山峠は馬の背で荷物 を運ぶ こともなかなか難 しく、ほとんどは人が荷物 を 背負 って越えていました。ですか ら、随道 を開整 してこれだけの荷駄や荷 車が通れるようになったのはまさに画期的なことであった といえます。ま た、当時関山には10
数軒の宿屋、20数軒の茶屋があったということですの で、一種の交通センターとで もい うべ き非常な活況 を呈 していたことが指 摘で きます。 しか し、明治34
年 に山形 まで奥羽線が開通すると、関山は寂 れ、北海道 に移住 した人 も出るとい う状況にな ります。第二に、図
2
の段階の交通の性格 は「川陸海の三漕」として特徴づけられ ます。鉄道 とい う陸運が他 を圧倒する図3
の段階 とは異 な り、河川舟運 ・l
hL'l図 1
明治初 年迄の物資運搬経路A
酒田 B
鶴岡C
大石田D
寺津E
山形F
米洋 1
北羽前街道2 鍋越越 ( 及び銀山 過) 3
ニロ峠4
笹谷峠5
金山噂 6
二 井宿峠7
板谷峠 8
宇津峠9
六十里越 美線は水路、点線は陸路、矢印は方向を示す。図 2
明 治20
年頃の物資運 搬経路A左淳 B山形 C 瀬野 目 D米洋 E荒砥 1関山峠 2笹谷峠 3二井宿峠 4宇津峠
図
3
明治40
年頃の物資運搬経路A酒 田 B鶴岡 C
清川
D本台海 E新庄F
米淳 G
長井陸運 ・海運 を全部利用 している、三つが混在 して利用 されている段階 とし てとらえることがで きます。 また、例 えばイギ リスでは鉄道敷設の前 に荷 車時代 という段階が1
00
年以上 も続いたのですが、日本の交通史においては それに匹敵するような固有な荷車時代 はな く、荷車が陸運の主役 となった のは明治中期の短期間であ り、 しか も「
川陸海の三漕」として性格づけられ る時代 として三島道路の段階を位置づけることがで きます。先 に述べた野 蒜港の構想 も「川陸海の三漕」を結合 させて東北広域交通網 を作 ろうとした ものであ り、三島の道路 とまさに同時代の交通政策であった といえます。第三は、東京 ・仙台中心の交通体系への過渡期の段階 として図
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の段階 を位置づけることがで きるとい うことです。全国の物資がほとんど日本海 側か ら入って きた段階か ら、日本海側 ・太平洋側の両方か ら物資が競合 ・競 争的に流入 して くる段階へ移 った、 といえます。そ して、米俵 などの重い 荷物 は日本海側へ、軽荷は仙台方面へ出す とい うように、両ルー トが使い 分けされなが ら併用 された時代 ということがで きますo三島の道路が山形の交通史において持 った意義 については、以上のよう に考 えます。
さて、こうした交通の変化が山形商業 にいかなる影響 をあたえたのか、に ついて具体的な事例 を挙げましょう。現在、山形の商業界で活躍 されている 小嶋家 ご一族の本家である山形三 日町の余小嶋源兵衛家 (硯ご当主伊三郎 氏)の古文書が山形大学附属博物館 に寄託 されています。少 しずつ分析 を進 めているところなのですが、小嶋家の商業経営は次のように変化 してい き ます。幕末期 は上方の物資 を仕入れて山形 はもちろん、七 ヶ宿 (図
1
の5)
のルー トを通 って福 島の伊達地方へ販売する中継商業 をしていましたが、明治1
0
年代以降は輸出産業の主力であった養蚕生糸業や製茶業 を営み三島 の道路 も活用 して上山か ら桑 を購入するなど当時の殖産興業の波 に乗 った 経営 を展開 してい きます。そ して、山形 まで奥羽線が開通 した直後の明治35
年以降はガラツと経営 を変えて、鉄道 を利用 した内外米 ・肥料飼料の商業取 り引 きを東京 ・横浜 と結びつ きなが らおこなってい きます。その後、
小嶋源兵衛 は昭和戦前期 に山形米穀商業組合長に就任 し山形商業界の中心 的な人物 とな りますが、いま述べた小嶋家の経営変化の三段階は、まさに 図
1‑3
の交通変化の三段階 と見事 に対応 しているといえます。交通の革 新 を見逃 さずにとらえて経営の発展 をはかった小嶋家の動向か ら、三島時 代 を含めた先の交通体系の変化が確かに山形の商業経営に大 きな影響 をも たらしていたことがわかるといえます。2 輝いた時代
さて最後に、高橋 由一が「三島県令道路改修記念画帖」を描いた時期、す なわち三島時代の山形 は、近代化 とい う大 きな歴史の転換のなかで どのよ うな地位 にあったのか、仮説 を交えてみなさんに問題提起 してみたい と思 います。
三島時代 とは明治
9
年か ら1 5
年の6
年間ということにな りますが、まず この時期の山形 を考 える際に、その歴史的な前提 として江戸時代後期の山 形商業の繁栄 と蓄積 について押 さえてお くことが非常 に大切であることを まず指摘 したい と思います。山形 とい うと、江戸初期 に57
万石の最上家が 改易 されて以降、山形藩主の交替があいつ ぎ、幕末は5
万石の藩 となるこ とか ら山形城下町は寂れていったとい うイメージがあ ります。確かに武家 地は寂れますが、 しか し町人地は繁栄 していたという事実をふまえなけれ ばな りません。 この点は別の機会にお話 ししたことがあ りますが、江戸後 期の山形は上方物資 を青森 (津軽)を除 く岩手 (南部)・仙台 ・秋田 ・福島の 東北各地 に販売する中継商業地 として繁栄 していたことを実証研究のなか でわた しはあきらかにしつつあ ります。おそ らく仙台商人 よりも山形商人 の方が商業的には巨大 な富 を蓄積 していたのではないか。山形十 日町の全 佐藤利兵衛家や㊧匠谷川吾郎治家あるいは四 日町の仝三浦権四郎家など山 形城下町の巨大商人は、山形のみならず江戸後期 に新興の紅花産地 として 成長 してきた東北各地に進出 して紅花 を集荷 し上方 ・江戸へ販売 し、古着1
7‥
や綿 ・呉服太物 などの帰 り荷 を仕入れて東北各地 に売 り込 む とい う巨大 な
「の こぎり商い」 をお こない成長 しま した。それがで きた条件 としては、
図
1
にみる交通体系の もとで当時 日本海側が上方 との交易 をお こなう地域 であったことや最上川 により内陸部 まで舟運が活用で きたこと、上方 との 商業取 り引 きネ ットワークを築ける紅花 とい う特産物の存在、 自由な商業 活動 を統制する大藩が村山地方 にはなかったこと、などが指摘で きます。城下町商人ばか りでな く、先 にふれた谷地の亨堀米家 (現紅花資料館)辛 尾花沢の粂柴崎家な どの大規模 な豪農商 も東北各地 に対 して金融 をした り、
あるいは紅花 を集荷 した りして富 を蓄積 してい ます。すなわち山形商業 は 幕末期 までに東北有数の繁栄 と蓄積 を してお り、化学染料の輸入 により紅 花が最終的にダメになる明治
1 0
年代 なかば、すなわち三島時代 までは山形 商人のス トックはなおあ り続 けた といえることです。つ ぎに重要 なことは、あ らたな交通体系への対応 を山形商人な りにお こ なったことです。維新後の交通変化 は徐 々に東京一仙台の物流 を基幹 とし た東北交通網 をつ くりだ し、最終的には仙台が東北経済圏の中心 となる結 果 を生みます。 しか し、交通変化 に対 して山形商人はただ手 をこまねいて 傍観す るばか りであったか といえばそ うではな く、それ まで培 った商業上 のネ ッ トワークやノウハウを駆使 してあ らたな交通網 を利用 した商業進出 を試みていったことに注意す る必要があ ります。例 えば、山形四 日町の
∈)
渡辺吉兵衛家の場合、松島湾 に来航するようになった蒸気船 より綿 を買い 付 け各地 に売 り込 んだ り、電信 を利用 した札商い (相場商い) を実施する な ど交通 と情報の革新 に対応 した経営 を展開 しています。山形北部商人 を 中心 に太平洋汽船取 り引 きへの進出が積極的にみ られたようです。明治35
( 1 9 0 2)
年 にe のご当主の渡辺徳太郎氏 は山形商業の ピークは明治1 2‑1 3
年 であった と語 ってお られますが、 まさに三島県令の時期 に山形商業 はいわ ば「輝いた時代」を迎 えていた ことがわか ります。その後の明治2 0
年の東北 線 開通 により東北経済 における山形の地位 は低下 しますが、その前の段階における、いわば江戸時代以来の山形商業の繁栄の最後の輝 きとで もい う べ き時代 として三島時代の山形 を位置づ けることがで きるのではないか と 問題提起 したい と思い ます。
三島時代の山形の地位 を考 える際 には、三島による県都づ くりの意義 に もふれる必要があ ります。 この点は来週のこの公 開講座で中用量先生が詳 しくふれ られると思い ますので ここでは割愛 させていただ きます。山形県 庁 を中心 とした洋館街 の出現 は、当時の山形の輝 きを象徴す るもの となっ た といえます。三島がそれまでの藩庁であった山形城 の武家地のなか にで はな く、三ノ丸の外 の町人地 に隣接す る地 に県庁 を建 てたのは、先 に述べ た武家地の衰退 と対照的な町人地の繁栄 とい う山形城下町の発展 のあ り様 を三島な りにふ まえた もの と、わた しはとらえてい ます。
以上か ら、三島時代 の山形 は江戸期 か らの繁栄の最終段階、転換 を前 に した頂点 としての歴史的な位置 にあった ととらえられると考 えるのです。
いかがで しょうか。
イザベ ラ・バー ドの『日本奥地紀行』とい う有名 な紀行文があ ります。彼女 は明治11(
1 8 78)
年 に山形 に来ていますが、次の ように書いてい ます。「山形 県は非常 に繁栄 してお り、進歩的で活動的であるとい う印象 を受ける」
「幅 広い道路 には交通量 も多 く、富裕で文化的に見 える」
「山形は県都で、人口21 , 0 0 0
の繁盛 している町である。(中略)日本 の都会 には珍 しく重量感がある」「山形 の街路 は広 くて清潔である
」
「県庁、裁判所、そ して進歩 した付属学校 をもつ師範学校、それか ら警察署 はいずれ もりっぱな道路 と町の繁栄 にふ さわ しく調和 している」など、当時の山形 を繁栄 した土地 ととらえ随分誉 め ています。 このバー ドの表現 に驚かれる方がい らっしゃるか も知れませ ん が、彼女の無理解 による表現では決 して無 く、三島時代の山形の輝 きを記 述 した もの として、先 に述べた この時期 の山形の歴史的な位置 をふ まえて 読 む と理解 しやす くなるのではないか と思います。おわ りに
高橋 由一 も、当時東北のなかで固有な輝 きをもっていた山形 を結果 とし て措いた と位置づけることがで きると考えます。 この講義では、「三島県令 道路改修記念画帖」 に措かれた明治の山形 を読み解 く際に、一つの前提 と なる時代背景 についてお話 しさせていただきました。わた しな りの仮説 も ふ くめて話 させていただ きましたので、みなさんの方で もご検討いただけ れば幸いです。
さて最後 に、小話 を入れて終わ りにしたい と思います。後 に秋田日日新 聞社長 となる白土清忠 という人物が当時、山形遷都論 を主張 していたこと を紹介 したい と思います。上越教育大学の河西英通先生 に教 えていただい た史料ですが、明治
12 年 12
月に東北巡幸 に来た元老院議官佐々木高行 に対 して白土が提出 した建 白のなかに書かれている主張です。山形市街 は「我国 天賦 ノ帝都 ノ地」であ り、内陸である山形への遷都 により海防が充実 し、肥 沃な土地が開拓 され、「北門」の要所 も万全 となるo山形遷都は 「国家不朽 ノ大業」であるとするものです。 日本の首都 を山形 に移すべ きだという大 胆な主張です。雄新後の 日本は万国対1時の状況の中で対外的な自立 をめざ していましたが、当時の政府高官はヨーロッパ列強が 日本 を侵略 して くる のではないか、東京は東京湾か ら攻め られると直 ぐに占領 される危 うい場 所 にあるとする認識 を持 っていました。三島通庸 もこの観点か ら帝都 をもう少 し内陸に移すべ きだとする遷都論 を主張 したことがあ ります。白土清 忠の山形遷都論 は、こうした外国か らの首都防衛 とい う観点 とともに、明 治政府の政策課題であった東北開発や北方ロシアへの備 えを万全 にすると い う観点 をも盛 り込んで、遷都の候補地 として山形 を推薦 しているのです。
結局、首都 は東京、東北の中心は仙台 という方針は変わ りませんで した が、当時の民間 レベルで山形 を首都 にふ さわ しい土地、あるいは東北開発 の拠点都市た りうるとする見方が存在 していたことを白土の遷都論は示 し ています。現在の感覚か らすれば、山形遷都 なんて !と驚かれる方がい ら
っしゃるかも知れませんが、都市や地域の発展の条件は長い歴史のなかで大 き く変化するものだとい うことを理解する必要があると思います。この講義でふ れました、江戸時代か ら三島時代の山形の地位 をふまえるならば、当時におい て山形遷都論 は一定の根拠のある主張であった と位置づけられると考 えるので すが、いかがで しょうか。高橋 由一の措いた三島時代の山形の歴史背景 を考 え る一つの素材 として、最後 に付け加えて紹介 させていただきました。
本 日は、長時間ご静聴あ りが とうございました。
参考文献
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