はじめに
日本統治期台湾新文学のなかで︑日本語作家の第一世代にあたる楊逵︵一九〇五
楊逵と同世代にあたる日本語作家の呉濁流︵一九〇〇 たものである︒ 日本時代に公表した作品に修正を施して光復後に再公表し は︑光復後に初めて公表したものであり︑残りの三編は︑ し︑光復後に公表した小説が計五編ある︒そのうち二編 −八五︶には︑日本時代に執筆
−
七六︶は︑日本統治期末期の台湾で植民地政策に対する強い批判を込めた作品を書きためて光復後になり発表した︒また︑中国語作家の楊守愚︵一九〇五
−五九︶も︑日本統
治下の三〇年代の台湾で発禁処分となった︑日本人に搾取される台湾農民の姿を描いた作品を︑光復直後にほぼそのままの表現で再公表してい ﹀1
︿る︒ 一方︑公表あるいは未公表を問わず︑日本時代に書いた作品に大幅な改訂を加えて世に送り出したという点で︑楊逵の光復後の創作活動は他の台湾人作家とは明らかに様相を異にしている︒このような楊逵の改訂については︑これまでにも先行研究において度々指摘されてきた︒しかしながら︑改訂が行われた理由について時代状況を踏まえた上で十分な検証がなされて来たとはなお言い難いところがある︒従来の研究では︑楊逵の光復後の文学活動のうち︑魯迅思想の紹介や両岸文化統一事業︑また台湾人の新世代作家の育成といった文化建設の理念に関わる側面について集
光復後初期の台湾における文化再建 ──楊逵の作品改訂を例として── 豊 田 周 子
●●●●● 論 説 ││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││
中的に検討されてきた︒しかし︑彼が創作という実践活動のなかでその理念を如何に遂行しようとしたかは︑それほど重視されてこなかったように思われる︒今日にあって深化し続ける楊逵作品の研究においては︑テクストに依拠した細かな検証も必要ではないだろうか︒ 本稿では︑楊逵が光復後に行った小説テクスト改訂の様相を検討し︑その改訂の理由を光復後︵一九四五
−四九︶
の台湾という時代に照らして探求する︒このような作業を通じて︑光復後台湾の新たな言論統制下に︑日本統治期以来第一線で活躍してきた作家が目指そうとした文化構想の一齣が浮かび上がるだろう︒
一 楊逵の略歴
まず︑楊の文化活動の足跡について︑光復後のテクスト改訂と関わる部分を中心に概観した ﹀2
︿い︒
楊逵は一九〇五年︑台南の新化に生まれ︑地元の公学校や中学校での初等教育を経て︑二五年に「内地」の日本大学に留学した︒この時期に彼は︑プロレタリア文学が席巻する日本文学界で徳永直らと交流があり︑彼らから大きな影響をうけた︒二七年に︑留学を終え帰台するが︑以降は農民運動や文化協会の活動に参加し︑そのかたわら︑出世作となる「新聞配達夫」を︑頼和の紹介によって『台湾新 民報』に発表する︒しかしこの作品はすぐに連載禁止となり︑作品の後半は台湾で公表できなくなった︒そこで︑東京の『文学評論』の懸賞作品に全編を投稿したところ︑第二席を獲得し︑植民地出身のプロレタリア作家として一躍その名が知られることとなった︒ 三〇年代には︑自らが創刊した雑誌『台湾新文学』に︑台湾の農村を舞台とした小説「田園小景」を掲載するが︑病気によって連載を中断せざるを得なくなる︒その後︑植民地の台湾人作家の作品掲載紙面を確保するため︑「内地」の雑誌編集者と交渉をするべく東京に赴き︑この時に︑先の「田園小景」を「模範村」と改題し脱稿する︒しかし当時︑「内地」の文学界はプロレタリア作家の大検挙によって混乱を極めており︑そのような状況下に︑「模範村」はついに日の目をみることはなかった︒ 四四年には︑日本語小説集『芽萌ゆる』を出版しようとするが︑これも印刷途中で差し押さえられ︑以降は︑決戦期の国民総動員体制下に︑当局の求めに応じて戦意発揚を旨とする作品の執筆も余儀なくされていった︒ 四五年の日本敗戦によって︑台湾が光復の喜びに湧くなか︑楊は農園の名を冠した『一陽週報』を創刊すると︑孫文の三民主義思想や五四新文化運動以来の新文学を次々に転載してゆく︒さらに︑四六年頃には︑日本語小説のアンソロジーである『鵞鳥の嫁入り』を出版し︑上海の進歩的
知識人である范泉にこの著書を送り届けた︒また︑民間紙『和平日報』を創刊し︑文芸欄「新世紀」には︑中国左翼作家やゴーリキーなどの社会主義的リアリズムの色彩が濃い作品や︑魯迅を記念する文章︑さらには外省系知識人による文化統一論などもしばしば取り上げ︑両岸文化界の団結を目標に据えた編集活動を行った︒その他にも︑中日対訳による『新聞配達夫』の出版や︑学術性に優れた雑誌『文化交流』を編集したり︑「中国文芸叢書」と銘打った『阿Q正伝』の翻訳出版を行うなど︑両岸の交流に関わる仕事に専念したのだった︒ だが四六年以降︑省政府による言語統制に拍車がかかり︑日本時代に発刊された書物や雑誌の粛清が始まる︒それと並行して国語推進運動が促進されると︑公的教育機関やマスメディアにおける日本語使用が禁じられ︑これによって日本統治期に活躍した作家の多くが筆を折り︑楊自身も創作言語を中国語へと切り替えざるを得なくなる︒ 四七年の二・二八事件の発生は︑こうした強硬な言語政策が大きな誘因であったとされるが︑この時に︑楊は夫婦で逮捕され︑約一年の執筆活動の空白期間を生じたのだった︒翌四八年︑許寿裳暗殺事件が起こると︑文化人の間に危機意識が高まり︑文化統一戦線の気運が一気に盛り上がりを見せる︒その中で楊は︑率先して政府系の新聞である『台湾新生報』︵以下『新生報』︶の文芸欄主筆であった歌 雷︵?
−一九九四︶に文芸座談会の開催を求め︑作家の民 間における創作や省内外の作家の連帯を呼びかけた︒また自らが主筆を務めた民間紙『力行報』の文芸欄「新文芸」でも︑文芸大衆化や社会主義的リアリズムを提唱してゆく︒そこでは例えば︑現実の人民の闘争を迅速に反映する短小の文学形式である「実在的故事」を掲げた香港の左翼系雑誌『大衆文芸叢刊』から多くの評論を転載して︑台湾の文芸大衆化や現実の描写︑文芸座談会の開催︑また閩南語歌謡による「方言文学」の実践を訴えた︒さらに︑雑誌『台湾文学叢刊』を創刊して︑省内外の文化交流・連携・統一をより積極的に推し進めようとする︒ しかしながら︑四九年に国民党が内戦に敗北し︑党本部の本格的遷台が始まるなか︑自らが起草した「和平宣言」が上海の『公論報』に掲載されたことが︑省政府主席陳誠の逆鱗に触れ︑楊は緑島に流され公的な場における活動の自由を十数年に亘り奪われてしまうのだった︒ 以上に見た経歴からだけでも︑光復直後から四九年までの激動の期間に︑数々の難局に突き当たりながらも︑台湾新文化の建設を貫徹しようとしたこの作家の不屈の精神が見てとれよう︒
二 先行研究の検討と本論の位置
次に本節では︑光復後の楊逵の文化活動に関する代表的先行研究について概括する︒ まず︑光復後の台湾文化建設について論じた最初の著書である黄英哲の『台湾文化再構築︵1945〜1947︶の光と影││魯迅思想受容の行 ﹀3
︿方』では︑光復後台湾の文化再建のために大陸から台湾省編訳館に招聘された許寿裳を中心として︑許と旧知の仲だった魯迅の文学と思想が如何に受容されたかが詳細に論じられ︑楊逵をはじめとする日本時代以来の新文学作家がその受容過程に深く関与していたことが明らかにされている︒ また︑丸川哲史は「光復後の文化空間││楊逵を中心とし
﹀4
︿て」において︑四八年前後から四九年にかけて『新生報』の文芸欄「橋」に掲載された楊逵の言論を主な分析対象とし︑楊逵が外省系知識人と如何に文化を構築しようとしたか︑また本省系若手作家に対してどのようなモデルロールを示そうとしたか︑この時期における楊逵の不断の文化構築活動には一体どのような意味があったかを考察している︒ そして︑台湾における楊逵研究の第一人者である黄惠禎の「楊逵與戦後初期台湾新文学重建││以︽台湾文学叢 刊︾為中心的歴史考 ﹀5
︿察」では︑四八年に楊逵が創刊した総合雑誌『台湾文学叢刊』の収録作品を詳細に解説している︒ここでは︑この雑誌に関わった外省系作家の経歴が提示されるとともに︑収録作品の傾向分析に加えて︑彼らと楊逵との接点が検討されている︒ 次に︑本論に直接関係する先行研究として︑以下の三編が挙げられる︒ a 塚本照和「楊逵の『田園小景』と『模範村』のこ ﹀6
︿と」 b 黄惠禎「楊逵的小説創作││作品的改 ﹀7
︿写」 c 清水賢一郎「台︑日︑中的交会││談楊逵日文作品的翻 ﹀8
︿訳」 a塚本は︑楊逵作品のテクストの「定本」問題を論じている︒ここでは︑楊逵の「模範村」に数種類のテクストがあり︑文章表現のみならず構成においても相当な違いがあることが指摘されている︒また︑テクストによっては日本への抵抗・批判や民族意識の昂揚を意図した加筆や修正が認められ︑依拠するテクストにより作品解釈に差が生じるため︑詳細な比較検討を行った上で︑「定本」に基づく研究が必要であることが示唆されている︒筆者も氏の見解に賛同するが︑この論考では︑テクスト変容の理由に関する詳細な分析は行われていない︒ b黄惠禎は︑「模範村」を含む楊逵の数編の小説テクストに︑複数の版本があることを指摘した上で︑『楊逵集』
︵前衛出版︑一九九一年︶に収録された小説と︑それらの初版とを照合し︑表現の異同が例示されている︒本稿が検討しようとする小説も︑ここで指摘された作 ﹀9
︿品とほぼ一致しており︑改訂箇所の指摘も一部重複する︒ただし︑分析に用いられた『楊逵集』には︑明らかに四〇年代以降に書き加えられたと思われる箇所も含まれており︑また氏による改訂の理由付けは︑作者が日本統治下では書くことのできなかった表現を光復後に復活させたとの指摘に止まっている︒ c『楊逵全集』の編集者の一人でもある清水は︑楊逵の手稿に基づきながら「模範村」の改訂の経緯を論じている︒ここで氏は︑複数存在する「模範村」の日本語手稿を取り上げ︑筆記具のインクの種類によって改訂段階を推測しており︑一九四〇年以降に第一回目の改訂があり︑四五年以降には最も多く修正された第二回目の改訂が行われ︑さらに時期の確定はできないものの︑第三回目の改訂も行われたことを指摘する︒極めて緻密な作業を経た論考ではあるが︑aやbと同様に︑改訂が行われた理由について光復後台湾における文化や言論空間というコンテクストを踏まえて踏み込んだ探求はなされていない︒ このように︑楊逵の小説テクストの改訂については︑これまでにも指摘されてきたものの︑それがどのような文化的政治的磁場において意図的に行われたかというテクスト 改訂時の文脈を顧慮した議論は現在までほとんど見当たらないことが確かめられる︒
三 光 復 後 の 楊 逵 作 品 に お け る テ ク ス ト 改 訂
では︑光復後の楊逵のテクスト改訂の検討を進めてゆく︒分析対象として取り上げるのは︑表「光復前後の楊逵改訂小説一覧」に挙げた︑「模範村」「鵞鳥の嫁入り」「無医村」「芽萌ゆる」「犬猿隣組」の計五編の小説である︒これら各作品について︑光復前に書かれたテクストと︑光復後に改訂されたテクストを比較し︑改訂の傾向を見ることとす ﹀10
︿る︒
楊逵の小説テクストに見られる改訂は︑単に日本統治期に抑圧された表現を復活させたというだけでなく︑台湾人の連帯︑虐げられた農民の目覚め︑女性の覚醒︑社会制度の矛盾︑平等な社会の提唱といった小説本来の骨子を温存させたまま︑㈠台湾人の皇民化や日本植民地主義への抵抗︑㈡知識人の民衆啓蒙のあり方︑㈢社会問題への批判︑㈣台湾女性の啓蒙と自立︑㈤台湾の言語や文化に関わる表現に︑光復後の社会情勢や思潮を意識した修正が施されたものと考える︒またその過程で︑㈥作品に本来あった修辞性が著しく削がれてしまったことも見過ごせない︒以下︑この順に検討を加えることとする︒
㈠ 台湾人の「奴隷化」︵「皇民化」︶と「抗日」の記述
⑴ 「犬猿隣組」における削除 人々の連帯や滅私奉公の精神が描かれた「犬猿隣組」では︑四五年の『一陽週報』での公表に際して「台湾人の皇民化」に関わる表現が削除されている︒例えば冒頭部分にあった︑ 一億が一心に堅められ︑滅私奉公が隣組の精神として昂揚し︑親切と助け合いとが実践されつつあるこの時︑︵略︶吾々総ての隣組から︑吾々総ての国民が︑峻厳なる精神を以つて自省して︑吾々の心の一隅に巣喰ふこの不逞を叩き出し︑以つて真なる隣組精神の徹底に質したい為である︒︵略︶斯かる「犬猿隣組」より毅然として立ち上がりつゝある本島青年の母︑︵略︶『日本の母』たらんとするこの林堅の母に感謝と感激を表したいものであ ﹀11
︿る︒といった︑戦時動員の覚悟を促す扇情的な表現が大幅にそぎ落とされているのである︒ さらに︑最終部分にあった「林堅にとつては︑牛車ひきや□百姓達の家族達のその飾り気のない『万歳』の声が心強く思はれて愉しかつた︒/御国の為に安心して死ねると思ふのだつ ﹀12
︿た」︵□は判読不能︒傍線引用者︶という箇所においても︑「万歳」が「いたわり」や「励まし」となり︑ 「御国の為に」が「台湾の同胞のためな ﹀13
︿ら」と変更されている︒ここから︑滅私奉公の受け手が大日本帝国から台湾同胞へと挿げ替えられたことが確かめられる︒
⑵ 「犬猿隣組」における加筆 一方︑この削除に反比例するように︑日本植民地主義の暴力性が強化されていることにも注意を要しよう︒主人公の老婆が盲人になった経緯として︑もともとは「この時に︑どこから手に入れたのか︑銃をもつた匪賊が林譲達のゐる村に侵入して来 ﹀14
︿た」と書かれていたが︑「匪賊」が「警 ﹀15
︿察」へと入れ替わり︑さらに続けて「然而殺了我的丈夫︐弄瞎了我的眼睛的︐是什麼様的民族呢 ﹀16
︿?」という表現が加えられて︑植民の象徴である警察の暴力性がはっきりと表されているのである︒光復後の台湾史の叙述において︑日本統治下で「匪賊」扱いされてきた反乱軍が︑次々に「抗日英雄」に書き改められたことは︑すでに先行研究の指摘するところだ ﹀17
︿が︑この「犬猿隣組」の改訂においても︑悪の形象が「日本」に変更されるという同種の現象が認められるのである︒ 四六年二月︑省政府は︑台湾人が日本帝国主義の文化的思想的毒素に深く染まっているとの理由から︑既刊出版物の中でも「「大東亜」戦争への参加を奨励したもの」や「「皇民化」奉公隊の運動を宣揚したもの」への取締を規定
光復前後の楊逵改訂小説一覧
体制
年月 掲 載 誌 言語 作 品 名
⒜ ⒝ ⒞ ⒟ ⒠
日本統治下
1936年
6月 『台湾新文学』
1巻4号
日本語
田園小景
1937年 不掲載原稿所在不明 模範村 1942年
2月 『台湾文学』
2巻1号
手稿:
1回目改訂
(40年以降)
2回目改訂
(45年以降)
3回目改訂
「模範村」
無医村 1942年
1月 『台湾芸術』
3巻11号 芽萌ゆる
1942年
11月 『台湾時報』
274期 鵞鳥の嫁入り
光復 45年 8月
1944年 『芽萌ゆる』
組版中発禁 鵞鳥の嫁入り 無医村 芽萌ゆる 犬猿隣組 1945年
10・11月『一陽週報』
7,8,9号 犬猿隣組
1946年 『鵞鳥の嫁入り』 鵞鳥の嫁入り 無医村
国民党政権下
1948年
10月 『新生報』
中国語
(李炳崑訳)無医村 1948年
12月 『台湾文学叢刊』
第3輯 模範村
(蕭荻訳)
1949年
1月 『新生報』 萌芽
(陸晞白訳)
注:太字は本論において比較検討したテクストを示す。
出所:筆者作成。
し ﹀18
︿た︒小説「犬猿隣組」は︑この法令が発布されるよりもやや早く公表されたものだ︒しかし︑光復当初からメディアで盛んに取り上げられてきた脱・植民地化/奴隷化の風 ﹀19
︿潮を念頭に置けば︑日本時代に書いた作品をこの時点で公にするための世論を見据えた改訂があったとしても不思議はないだろう︒
⑶ 「芽萌」における変更 同じく︑日本植民地主義の暴力性の強化に関しては︑「犬猿隣組」公表の四年後にあたる四九年に公表された中国語訳版「萌芽」においても大幅な変更が指摘される︒一人称の書簡体により女性の内面が独白されるこの小説には︑日本統治下の台湾で農業にいそしむ女性主人公「わたし」の現在の暮らしとかつての女給時代の生活とが対比的に述べられる︒そこでは︑「わたし」が人として目覚めた経緯や︑将来的に民衆啓蒙運動に身を投じたいと願
う姿などが描かれている︒物語の冒頭には「わたし」が夫である「あなた」に台湾の現況を伝える場面がある︒元のテクストでは︑ 台湾では︑今︑戯曲がひつぱり凧で︑粗製濫造されてゐます︒十月十三日からありきたりのものは上演まからぬと言ふ御達しが出てゐます︒︵略︶この仕事はあなたの専門です︒あなたにとつては︑働くのに非常にいい機会です︒精神的にも︑経済的にもこれを書くことに依つて多く慰められるところもありませうけれども︑今のあなたにとつて肉体的には到底耐へられないことと思ひます︒暫くお待ち下さ ﹀20
︿い︒と︑決戦体制下の台湾の文化総動員の様子が表面的に書かれていた︒ところが中国語訳版「萌芽」では︑ 台湾的文芸界︐最近堕落了︐有許多真実地擎著日本侵略主義的提燈在露頭角︒有心肝的縱然是有心肝的︐他們陰手匿脚的已近静止的事実︒︵略︶無論社会上情形是怎様︐可是你在牢獄里不管如何的掙扎或著集也是無效的︐但是請你把目前的一種民衆運動的潜力印在心上吧!惟有能早些健康地出来︐這才是你的責 ﹀21
︿任︒とのように大きく変化を遂げ︑日本侵略主義による言論統制が︑台湾人の文化活動を抑圧していた事実が明示されている︒また︑夫である「あなた」の人物設定として︑もともとは︑「学校を出ると早々」に「肺病患者として療養所に 行かなければならなかつ ﹀22
︿た」というように︑病に犯された青年と説明されていたところが︑「可是畢業不久的你︐為了台湾解放運動事件的関係︐竟被禁入監 ﹀23
︿獄」となり︑台湾の抗日解放運動に関与した廉で逮捕された政治犯へと変更されていることが分かる︒このような政治運動に関わり投獄される男性というキャラクター設定の変更には︑反植民の意味合いの外にも︑同時代的な問題である二・二八事件後の抑圧を暗に示しているとも捉えられよう︒ 中国語訳版「萌芽」について︑本省系若手作家の呉阿 ﹀24
︿文は︑帝国主義下の台湾人母子の生活環境が楽観的に描かれすぎており︑日本統治の残虐性を客観的に描写できていないし︑現実感のない片寄った人物が作られており︑「新聞配達夫」に比べて作品の思想性も芸術性も退歩し ﹀25
︿た︑と辛辣な批判を加えた︒呉のこうした批判は︑日本統治期台湾新文学にとって最も重要なことは︑日本帝国主義が植民政策により︑台湾で如何に同胞を圧迫し︑欺き︑搾取し︑蹂躙したかという残酷な事実を描くことであって︑如何にして台湾人民がそのような現実から教訓を得て立ち上がり︑冷酷極まりない統治者から自由や解放を勝ち取るために激しく戦ったかを重点的に描くこと ﹀26
︿だとする立場から発せられたものであった︒こうした強烈な批判からは︑四九年という時点において︑植民地に生きた人々の惨状を突出させて描くべきとする︑いわば「台湾抗日物語の創造」が本省
系作家にも相当程度求められていたことがうかがわれる︒
しかしながら確かに︑「萌芽」で語られる「抗日」は︑台湾人のアイデンティティを揺るがす植民地制度の問題を真正面から描いたものでもなければ︑植民の傷痕を抱えて生きる台湾人の現実を扱ったものでもない︒それは︑夫の身の上に起きた間接的な「抗日」が︑いくぶん穏やかな女性の視線により希望的観測をともなって展開されているにすぎないのである︒では何故この小説がこの時期に『新生報』文芸欄「橋」に掲載されたのだろうか︒この問いについては︑後述の㈣「台湾女性の啓蒙と自立」で再度考えてみたい︒
㈡ 知識人の農村回帰と民衆啓蒙の提唱
⑴ 「鵞鳥の嫁入り」における加筆 四六年に再発表された「鵞鳥の嫁入り」は大きく二つの話から成る物語である︒前半では︑東京で︑清貧の学生である「僕」と︑裕福な家庭出身の善良な林文欽という二人の台湾人留学生が知り合い︑二人が美術や経済について語り合ったり︑「僕」の経済的困窮を林が助けるエピソードを通じて︑二人が「平等な社会」の建設に向けて階級を超えた友情を育む様子が描かれている︒後半では対照的に︑台湾に戻って花園を営む「僕」が︑強欲な病院の院長に自分が育てた鵞鳥を奪われる話を通じて︑前半で語られた 「平等な社会の建設」が現実には如何に困難であるかが語られている︒ さて︑この小説では「平等の理念」を提唱する場面や︑「理念」から「実践」へと歩みだす知識人の姿に加筆が集中している︒小説の前半部では︑林文欽が「一人巨万を積めば万人飢ゆる個人主義経済」︵ここではマルクス経済学を指す︶に傾倒することなく︑全体の利益を目的とする「共栄経済」︵「資本家さへ原始人のやうに質朴純真に還つて呉れれば︑この共栄で以つて階級闘争を喰ひ止めることができる」という意味︶の理念を︑故郷台湾における農業生活の実践を通じて立派な書物に結実させるくだりが大幅に書き加えられ ﹀27
︿た︒後半部では︑そんな「共栄経済」の理念も︑社会的弱者が犠牲を払うことで成立し得ているという皮肉な現実が出てくる︒しかしここでも︑厳しい現実に向き合いながらも︑「僕」は林の理念を正しく継承して「何ものの犠牲をも求めることなく︑相共に扶け合ひ︑相共に栄 ﹀28
︿え」る日の到来を切望するのだったという結末が新たに設けられているのである︒ 光復後︑台湾の新聞の社説や評論では︑農業重視や農村復興に関する論考がしばしば掲載され ﹀29
︿た︒しかし︑小説という形式を用いて︑土地とじかに向き合い暮らすものの姿や疲弊する農村が抱える問題を如実に描いたものは管見の及ぶ限りではほとんど見当たらない︒唯一︑葉石濤が︑革
命に失敗し追われる身となった男性知識人が潜伏先の農村で善良な農民に助けられたという一件を通じて︑彼らとともに労働し自由の獲得にむけて奮闘すべきだと改心する革命戦士の小 ﹀30
︿説を書いているが︑これも農民や農村の実態を深く捉えたものとは言い難い︒台湾の農民こそが真の土地所有者だという︑日本時代以来一貫する楊逵の価値観は︑四六年に出版された初の日本語小説集『鵞鳥の嫁入り』の中に︑「薯作り」や「帰農の日」といった農村を舞台とする小説を収録したところにも見てとれる︒小説「鵞鳥の嫁入り」の改訂には︑日本時代よりも悪化した光復後の台湾民衆の生活状況を鑑み︑今こそ自分たち知識人は民間︵農村︶に入って平等な社会を建設し︑相互扶助や共栄精神を重視すべきだとする︑この作家の原点回帰の思いが色濃く反映されているのだろう︒
⑵ 「模範村」における加筆 同じ「農村もの」として︑四八年一二月に発表された中国語訳版「模範村」は︑日本時代の一農村の統治の実態が︑暴露風刺的に描かれた作品である︒小説のテーマは︑統治者により虐げられた農民が台湾人知識人に導かれつつ自我に目覚めてゆくところにある︒この作品は︑農業の体験に裏打ちされた完成度の高い労作と見なし得るが︑雑誌『台湾文学叢刊』での掲載には︑作者自身の自負も十分に 込められていたことだろう︒ この作品が発表された頃︑新聞メディアでは︑台湾の農業が軌道に乗れば︑国家全体の農業が復興してゆき国家の基盤形成にも繋がるといった内容の記事が盛んに報道されてい ﹀31
︿た︒また︑この作品が掲載される数か月前にも︑『新生報』の文芸欄「橋」において外省系知識人の揚風︵一九二四
−?︶が︑文芸工作者はこれまで看過してきた農村に 入り︑民衆の目線でものを感じ︑大声を張り上げ︑大胆に描写することが重要であり︑それによって台湾の文学運動は多くの共鳴を得られるだろうし︑強固な礎が築けると主張してい ﹀32
︿た︒そして先述のとおり︑楊逵自身も知識人が民間に入るべきことを評論において再三強調していた︒こうした四〇年代後半における知識人らの「民間」重視の発言は︑『台湾文学叢刊』が手本にした香港の左派系雑誌『大衆文芸叢刊』による強い影響が窺われ ﹀33
︿る︒だとすれば︑中国語訳版「模範村」の再公表も︑両岸に跨るこのような文化的共通認識を睨んでのことという可能性が出てこよう︒仮にそのような視点から『台湾文学叢刊』収録の中国語訳「模範村」を再読した時︑百姓たちのよき理解者である地主の息子阮新民が︑大量の本を百姓青年に送り届ける最終場面において︑大陸で出版された『翻身道理』を彷彿させる『農民怎様翻 ﹀34
︿身』と題する本が書き足されていることに気づかされる︒このような加筆はまさに︑「大陸」という要
素を書き足すことで︑知識人を介した両岸の連帯 00000による台湾民衆の立ち上がりを印象づけた結果ではないだろうか︒ 「農村もの」というジャンルにおいて︑同時期の作家による作品を見渡せば︑葉石濤が異民族の統治下に虐げられる台湾民衆の姿や︑彼らが意を決して立ち上がる様子を描いてい ﹀35
︿る︒しかし葉の作品は︑オランダ統治下の台湾という舞台設定であり︑「模範村」に登場した民衆に比して主人公である知識人の内面を主として描くものであり︑農民の階層描写やキャラクターの書き分けもなく︑さらに小説空間が台湾内部に限定されているといった点において︑中国語訳版「模範村」とは農民や農村の捉え方に明らかな質的相違が見てとれる︒
⑶ 「萌芽」における加筆 先述の四九年に公にされた中国語訳版「萌芽」においても︑元のテクストにあった「民衆とともにある啓蒙文化活動」に関する表現が目立って増やされていることが分かる︒それは︑物語の登場人物である「わたし」の夢の中で︑夫の「あなた」の創作劇が成功を収めた場面に顕著に現れる︒元のテクストでは︑「︹劇の内容の=筆者注︒以下同︺為に観衆は一時に狂ひ立ちまし ﹀36
︿た」とシンプルに描かれていた箇所が︑中国語訳版では「舞台上的群衆和観衆大成了一片︐情愛像怒濤般向他們撃来︐正同著撃在他們的身 上一 ﹀37
︿様」と変化し︑劇の内容が観衆の心を打ち舞台上の役者と観衆とが一体になる様子が力強いタッチで書き込まれているのである︒こうした変化と︑四八年六月に楊逵が示した「文化工作者は協力して民間に入り︑民衆の生活や習慣や心情を理解し︑彼らを助け相互協力の基礎を作るべき ﹀38
︿だ」という訴えとは重ねて読むことができるだろう︒演劇による民衆啓蒙や体制批判は︑劇本「吼えろ支那」︵一九四四年︶に代表されるように︑この作家の日本時代以来の常套手段だが︑この小説ではそれが見事に成功を収める様子が改訂を通じてより理想的に表現されているのである︒ また︑物語の最後で「わたし」が述べる︑「︹「わたし」の将来の夢は︺この畑から︑働くものの力強い芝居を作り出して︑働く人々にわたしが夢で見たやうな感激を與へる事でありま ﹀39
︿す」という表現においても︑中国語訳版では︑この後に続けて「可以説︐這也是貢献給人類前進的日子的到来」と︑人間と社会と文学の緊密な繋がりを意識した言葉が新たに加えられている︒この箇所においても︑「人民の真の心情を表した文学は︑低迷する国家をも覚醒させ ﹀40
︿る」とする楊の文学観に通底する加筆が行われていることが分かるのである︒
㈢ 社会問題への批判 四八年一〇月に中国語訳によって再公表された「無医
村」は︑文芸愛好家で新米開業医である「僕」の初めての患者が︑死の間際まで医者を呼べない困窮者だったという話を通じて︑貧富の差が著しく開いた光復後の台湾社会の矛盾が批判的に提起された話である︒もともと物語の最後には︑「だが︑︹詩を︺書上げた喜びのかはりに︑大変な悲哀に僕は襲はれたのであつ ﹀41
︿た」とだけ書かれていたが︑中国語訳版では︑「然而︐雖然詩已写好︐可是一種激烈的悲哀跟著侵襲来︒悲哀之餘︐竟成激憤︐覚得這政府雖有衛生機構︐到底是在替誰做事呢?」と︑貧しい者が救われない現状を目の当たりにした「僕」が︑そのやり切れない心情を政府批判へ繋げてゆく様子が書き足されている︒ この小説の最終部分を指して︑本省系若手作家の林曙光︵一九二六 べ 42﹀ 会現実への深い理解を読者に求めたかったからだと述 テーマが末尾でことさらに描き込まれた理由について︑社 −二〇〇〇︶は︑物語りの中で述べられてきた
︿た︒では︑この小説に書かれた光復後の台湾の医療はどのような状況にあったのだろうか︒その答えの一端は︑四六年に雑誌『新新』に掲載された張建︵生没年不詳︶の文章に窺うことができる︒当時︑『新生報』の記者であった張は︑光復後の台湾社会の不況に人々があえぐなか︑失業問題が深刻さを増し︑技術者である医師ですら︑全省に二四〇〇人も失業者が出ていることを報じた︒張によればその背景には︑日本「内地」や南洋から続々と帰台した医者 が医療品不足によって開業がままならない事情があったのだとい ﹀43
︿う︒こうした事柄を踏まえれば︑新米医師の「僕」の開業が如何に困難だったかは容易に推測がつくだろう︒とりわけ貧しい人々の医療品不足の問題が大きく影を落としていたことは︑まさしく小説の描写のとおりだったのである︒作者はこの「無医村」の再公表に際して︑芸術作品としては蛇足を感じさせる一文を書き込んでまで︑日本統治以降も依然として好転しない医療問題を︑世に強く訴える必要に駆られたのだと考える︒四八年一〇月という作品の公表時点からも︑加筆に現れた批判の矛先は明らかに︑元のテクストの対象であった日本植民地政府だけでなく︑光復後の社会の混乱を招いた省政府にも向けられる両義性を有していたのであ ﹀44
︿る︒
㈣ 台湾女性の啓蒙と自立 先に見た︑四九年一月に公表された中国語訳版「萌芽」では︑台湾女性の自己覚醒に関わる表現に加筆が見られる︒ 女性主人公「わたし」の書簡には︑女性の職種が極めて少なく︑社会的地位が確立されておらず︑職業婦人であっても男性上司の愛人となり庇護されているという現状を︑夫の「あなた」に告発する場面がある︒本来のテクストでは︑そうした事態に陥る理由として「女が弱いのでせうか? それとも男が獣 ママ性であるからでせうか ﹀45
︿?」と書かれ
ていたが︑中国語訳版では「在你概 ママ又是社会制度的罪悪;而我却以為這是一種人類意志的作用吧 ママ了?」と「わたし」自身の考えが足されていることが確かめられる︒また「わたし」が︑「一難又去了一難又来了︐大凡人就這様的磨練才会堅強和果幹的吧 ﹀46
︿!」と︑生活の糧である花栽培の苦労を通じて︑逞しく生きることに目覚める姿も書き加えられている︒ この作品が掲載された『新生報』では︑四七年六月頃より︑台湾の女性の社会的地位や人権に関わる記事が掲載され始めた︒さらに同年八月には「台湾婦女」週 ﹀47
︿刊という専門欄が新しく設けられることによって︑台湾の女性問題が集約され議論されるようになった︒例えば︑中国語訳版「萌芽」の掲載以前にも︑この専門欄では︑男性の接待を生業とする女性の人権について論議した記 ﹀48
︿事が数多く掲載されている︒また︑文芸欄「橋」に作品を発表した作家が︑この「台湾婦女」にも︑台湾女性に関するルポルタージュ風の作品や新詩を書くといった興味深いタイアップ現象も窺われ ﹀49
︿る︒政府系の同紙における如上の傾向は︑編集の背後に︑富国強兵を下支えする女性を如何に養成するか︑そしてそのためにはどのような理想的女性像を提示すべきかという政治的思惑があったことを思わせる︒思うに︑中国語訳版「萌芽」の掲載も︑こうした掲載媒体の政治的動向に即するかたちで可能となったものだろう︒ ここで︑台湾人女性の人権をテーマにした小説を︑同時期の本省系作家の作品に尋ねれば︑例えば楊守愚は︑日本統治下の台湾で︑日本人雇主から性的虐待をうける台湾人女性や︑その夫である片足を失った台湾人男性が絶望して自ら命を絶つ話をほぼそのままの形で再発表してお ﹀50
︿り︑龍瑛宗︵一九一一
−九九︶は︑光復後の不景気により困窮し た本省人女性が自殺する話を描いてい ﹀51
︿る︒また呉濁流は︑台湾の漢民族の陋習である聘金結婚や蓄妾制についても赤裸々に言及し︑光復後の台湾を舞台として外省人男性に騙されて結婚した本省人女性が陥る悲劇についても活写してい ﹀52
︿る︒張冬芳︵一九一七
−六八︶は︑光復後︑渡台した外 省人将校に結婚を強いられた本省人女性が︑相手に家族があることを知らぬまま結婚し悲惨な結末を迎える ﹀53
︿話を︑また呂赫若︵一九一四
−五一︶は︑カフェーの女給であった 未亡人の本省人女性が︑外省人男性に強姦され結婚を強要された挙げ句に娼婦に堕する ﹀54
︿話を︑さらに︑葉石濤は︑台湾の家父長制下の台湾人女性の人権や︑虐げられる台湾人女性の精神的経済的自立を訴える作品を数多く描いてい ﹀55
︿る︒ これらの過半を占める︑性別の描写に省籍矛盾が投射された作品群から分かることは︑二〇年代から台湾新文学の主流テーマであった「女性問題」が︑加害者と被害者の関係を「日本人男性対台湾人女性」から「外省人男性対本省
人女性」へと変えながら︑光復後になっても脈々と書き継がれたという事実であ ﹀56
︿る︒ただし︑光復後に公表された楊逵の作品では︑上記の作家たちのように︑植民地の統治者と被統治者の関係を︑本省と外省の溝や性別に転化したり仮託するといった手法は取られず︑社会的弱者である女性が描かれたとしても︑その末路が救いのない悲惨な状態で終わることはな ﹀57
︿い︒ では︑楊逵と文化再建設という目標のために同じ方向を向いていた外省系作家の女性描写はどうだっただろう ﹀58
︿か︒楊逵とともに『台湾文学叢刊』を立ち上げた揚風は︑中国人知識人︵男性︶の目線から台湾女性の社会的地位の低さを描き︑この雑誌の投稿者だった俞若欽︵生没年不詳︶は「堕 ﹀59
︿胎」という︑母子の人命や女性の人権に関わる問題を取り上げており︑また歐坦生︵一九二三
−?︶
は︑二・二八事件の頃に渡台した外省系エリート青年が︑中国語が分からない台湾少女の心を弄ぶ様子を描写してい ﹀60
︿る︒このように見ると︑外省系作家の作品に登場する堕落したり欺瞞に満ちた外省人青年も︑本省系作家の人物像に一脈通ずるように思われる︒ つまり︑光復後の急進的左翼作家の文学作品では︑先に見たようなステレオタイプ化した新しい男女の文学形象が定着しつつあったのであ ﹀61
︿り︑大陸と歩みをともにする文学の促進を唱え ﹀62
︿た呉阿文のような若手作家からすれば︑「萌 芽」に登場する日本人に凌辱されない台湾人女性の物語は歓迎すべきものではなかったのだろう︒しかしその一方で︑健全な人間として生まれ変わり︑敵と戦う夫に献身的に尽くす妻の美徳を映し出したこの作品は︑当局の目指す政策に合致する物語でもあった︒中国語版「萌芽」の掲載を後押ししたのはそうした要素であったと考える︒ だが︑表現をめぐる時代の制約や思潮とは別に注意すべきこともあるように思う︒それは光復後の台湾で本省人女性の人権が様々に議論されてきた中 ﹀63
︿で︑この作品では改訂後もなお︑女性主人公が夫の仕事の補助的立場に甘んじる存在であり続けていることである︒例えばそれは︑女性の社会的立場の弱さの根拠が「一種人類意志的作用」︵人類の意志の作用︶というあいまいなものに求められている点に顕著だろう︒このように階級問題の描写を得意とし︑変転する台湾情勢を睨みながら巧みな書写戦略を展開したこの作家でも︑性別問題の描写に限界が感じられることは︑やはり指摘しておく必要があるだろ ﹀64
︿う︒
㈤ 台湾の言語・文化に関する処理
⑴ 「模範村」における台湾土着の風俗の削除 四八年に発表された「模範村」では︑台湾土着の習俗に関する描写の削除が注目される︒例えば︑「模範村」の認定検査の際に︑巡査が村の見栄えを良くするべく百姓たち
に農具や薪を家の中に取り込むよう命じる場面がある︒元のテクストではここで︑「彼ら︹百姓たち︺の崇拝し敬仰する媽祖様や観音様の仏像迄これらのガラクタと同居を強制され」たものの︑「老人達は仏像を拝まなくてはご飯が咽頭を通らないと言ふやうに」︑「夜中に仏像を出しては線香を立て︑朝早くそれを寝床の下などに押し込 ﹀65
︿ん」だことが書かれていた︒しかし︑中国語訳版では︑こうした信仰に関わる表現が全て取り去られているのである︒これは︑光復直後から楊逵が提唱した︑五四新文化運動の「科学と民主」の精神に民間信仰が反すると考えての措置なのだろうか︒それとも︑四七年四月に︑大陸帰りの台湾人により制定された「新文化運動綱領」に︑三民主義信仰確立のため迷信や共産主義の邪説を正す︑と記されたことを意識した削除なのだろうか︒またあるいは︑外省人や原住民などからすれば必ずしも重要ではない媽祖信仰を︑新文化建設の一環として作品に書き込むことを躊躇した可能性も考えられよう︒しかし中国語訳版「模範村」発表の数か月前に︑楊逵本人が「台湾を理解するには台湾の習俗を理解するべき ﹀66
︿だ」と公言したことを想起すれば︑それと相矛盾するように行われた民間信仰に関する表現の削除について決定的な理由を述べることは難しい︒よってここでは︑改訂理由として幾つかの可能性を指摘するに留めておく︒ ⑵ 「模範村」における台湾語表現の削除
習俗と同様にして翻訳版「模範村」では︑台湾語表現もまた大幅な削除対象となっている︒例えば︑「阮固爺は彼の肩をもんでゐた㜁某 ﹀67
︿嫺兼第三号に言ひつける ﹀68
︿と」という箇所では︑台湾語の「㜁某嫺兼第三号」が中国語の「婢女」と訳され︑台湾独自の封建性を表す女性蔑視の言葉がなくなっている︒また︑オートバイを表す「“貨 たいせつあー切仔︑貨切 ﹀69
︿仔”」が「摩託車」に︑「隴 ろんべてつ不直」 ﹀70
︿が「不夠用」へと変化し︑「步兵掮銳︑乒乓乒乓︑衝倒賣寀粽!」︵兵隊さんが︑歩調をそろえてやってきて︑売り物の粽とぶつかっ ﹀71
︿た︒筆者訳︶といった百姓の子どもが使う生き生きとした台湾語の会話についても削除されている︒
ところが不思議なことに︑四八年に楊逵が創刊した『台湾文学叢刊』には︑台湾語表記で「抗日」を訴える詩や童謡が数編収録されているのである︒また同誌に収録された外省系知識人の小説には︑地方色を表すために「台湾語」が用いられているものすらあ ﹀72
︿る︒当時の台湾語表記の問題としてまず思い浮かぶのは︑外省系作家の陳大禹︵一九一六
−八
﹀
73
︿五︶が日本語と台湾語の混交文体で書いた話題作「台北酒場」だろう︒本省系作家の林曙 ﹀74
︿光は︑この革新的な演劇台本を指して︑台湾新文学の建設にとって最も重要な表記言語の問題に挑んだ力作と称賛しながらも︑台湾語でなければ台湾の特殊性を描けないとする考えには異議を
唱えた︒それは表記の定着していない閩南語を創作言語として用いるのは非常に困難であるため︑慎重な検討と選別を経てからにすべきとする非難だった︒同時に林は︑台湾方言を使用するのは︑その表現が固有の名詞や国語には存在しない場合や︑それを用いることで文章に精彩が加わる場合︑地方の特性がそれにより表れる場合︑また国語では著しにくい場合に止めるべきだと提案したのだっ ﹀75
︿た︒ このような︑台湾語表記と台湾の「特殊性」をめぐる省内外の知識人の認識の差を踏まえれば︑この論争の数か月後に︑楊逵が『台湾文学叢刊』において︑台湾の歌謡については閩南語表記を遂行しながらも︑小説「模範村」の表現においてはそれを排した理由も︑あるいは同一線上のものに捉えられるのではないだろうか︒つまり︑郷土を描く題材にこと欠かず︑「方言」により台湾の「特殊性」を出す必要がない本省系作家にとって︑外省系作家と共有し得る新文化を建設するためには︑表記が定まっていない閩南語使用を極力控えて「国語」表記に徹する必要があったと考えるのである︒そして当然ながらそこには︑四八年当時の言語環境として︑表記問題をめぐる絶対的圧力としての国語推進運動への意識もあったことだろう︒
㈥ 修辞の消滅
最後に︑中国語訳版「模範村」では︑元来の日本語テク ストに特徴的に見られた弁士のような語りが減少していることを指摘したい︒例えばそれは︑「たらたらと三分も五分もかかつた辨明が︑直截な一句でグーの音も出ないやうにやり込められてしまつ ﹀76
︿た」︑あるいは︑「壁の鏡に気がつかなかつたことは︑堅くなり過ぎたこのばあさん四十年来の不覚であつ ﹀77
︿た」といった楊逵作品に特徴的なユーモラスな表現である︒また︑愚鈍な登場人物に対する語り手の愛情のこもった揶揄的表現についても︑例えば︑ルンペンの日雇い百姓を形容する際に用いられた「あの鈍重な姿」や︑「模範村に用のないこの薄馬鹿な ﹀78
︿男」などといった修飾語がみな消え︑単なる翻訳の際の取りこぼしとして見過ごせないレベルで︑この作家に特有の機知に富んだ文体が面白みのないものになってしまっている︒楊逵の小説は全般的に︑悲惨な社会問題を描きながらも︑希望を残した結末が用意される傾向がある︒しかし上述してきたように︑めまぐるしく移り変わる情勢に応じながら文化建設を成し遂げようとする当時の文化界においては︑そうした楽観性や娯楽性を感じさせる叙述は︑許容され難かったのかもしれない︒光復後の改訂と中国語への翻訳の過程で︑味わいのある独特なレトリックが失われたことは︑楊逵の作品における最大の損失と言うべきであるが︑それはこのような光復後の文化推進の動向と結びつけて検討する必要があるのだと考える︒
おわりに
本稿では︑光復後に公表された楊逵の小説テクストの改訂のあり様を検討し︑この作家が目指そうとした台湾新文化建設の一側面を探ってきた︒ 楊逵作品と同時代作品とを比較して改めて気づかされるのは︑楊が光復後に公表した小説には︑他の作家のように︑光復後の台湾に取材して一から創作した作品が存在しないという事実である︒楊にとって光復の後の台湾の現実を描くこととは︑日本統治期の描写内容から「現」台湾社会に通底するものを抽出し︑そこに時代に即した改訂を施して世に送り出す方法以外にあり得なかったのではないか︒日本時代に書いたテクストへの︑加筆︑変更︑削除という一連の改訂は︑日本植民地時期に萌芽した台湾新文学の遺産に繋げつつも︑台湾の新たな構成員が共有し大陸とも連帯し得る文化を︑できるかぎり早急に建設する上で︑最善の方策であったに違いない︒
︹付記︺ 本稿で使用した資料の一部は︑黄英哲先生︵愛知大学︶ならびに黄美娥先生︵台湾大学︶にご提供いただきました︒また︑資料収集に際して︑楊逵文学紀念館や台湾文学館︑そして陳淑容氏に多くのご助力をいただきました︒ 記して深くお礼申し上げます︒注︿
︿ 『台湾文化』に掲載された︒ 録︶を参照︒「鴛鴦」は光復後になり︑「阿栄」と改題され 文学││検閲と抵抗の系譜』研文出版︑二〇〇九年に収 年︒後に同論文は同題目により︑同著者『翻弄された台湾 禁止をめぐる諸問題」︵『成蹊論叢』第四〇号︑二〇〇三 台湾文化・台湾新文学状況││新聞漢文欄禁止と中文創作 た︒発禁の詳しい経緯については︑河原功「一九三七年の に『台湾新文学』第一巻第一〇号に収録発表予定であっ 1﹀この作品は原題を「鴛鴦」といい︑一九三六年一二月
︿ 本台湾学会報』第六号︑二〇〇四年︶参照︒ 版︑二〇〇六年︶︑上村ゆう美「銀鈴会の投稿活動」︵『日 想」︵張錦忠・黄錦樹編『重写・台湾・文学史』麦田出 交迫的台湾新文学変奏曲││論戦後初期的社会主義文芸思 文学系博士学位論文︑二〇〇四年︶︑徐秀慧「内戦與冷戦 ││四十年代楊逵文学與思想的歴史研究」︵政治大学中国 緑蔭書房︑一九九九年︶︑黄惠禎「左翼批判的精神與鍛接 年譜」︵『日本統治期台湾文学台湾人作家作品集』一巻︑ 保存研究中心籌備処︑一九九九年︶︑河原功編「楊逵著作 八六年︶︑彭小妍主編『楊逵全集』一四巻︵国立文化資産 2﹀本節は︑陳芳明「楊逵的文学生涯」︵台湾出版︑一九 194519473﹀黄英哲『台湾文化再構築︵〜︶の光と影││
魯迅思想受容の行方』創土社︑一九九九年︑一三一
−一七
一頁︒︿
三 二八事件前後の文学運動から』明石書店︑二〇〇七年︑四 4﹀丸川哲史『台湾における脱植民地化と祖国化││二・
−七三頁︒
︿
二〇〇四年︒同論文は黄惠禎・前掲学位論文︑一 5﹀『楊逵文学国際学術研討会論文集』国家台湾文学館︑
−二五頁
に所収︒︿
える台湾文学』東方書店︑一九九五年︑三一三 6﹀下村作次郎・中島利郎・藤井省三・黄英哲編『よみが
−三四四頁︒
︿
一三二 7﹀黄惠禎『楊逵及其作品研究』麦田出版︑一九九四年︑
−一四〇頁︒
︿
二冊︑北海道大学︑二〇〇二年︑一七一 8﹀『大学院国際広報メディア研究科言語文化部紀要』四
−一九三頁︒
︿
︿ 組」「模範村」を指す︒ 9﹀「無医村」「泥人形」「鵞鳥の嫁入り」「萌芽」「犬猿隣 10﹀五編の小説のテクスト情報を以下に示す︒
⒜ 「模範村」は︑三六年︑「田園小景」として『台湾新文学』に連載中中断される︒四八年︑『台湾文学叢刊』三輯に︑蕭荻による中国語訳で公表された︒蕭荻は以下のように経緯を述べている︒「︵略︶楊氏から模範村の原稿を見せてもらった︒原稿は日本語で書かれ︑楊氏はそれを中国語に訳してもらい︑私にその中国語原稿の手直しを頼んできた︒︵略︶中国語の原稿を一通り精読したところ︑中国語に大きな問題のあることが分かった︒原文より表現が粗 く︑土地や人民に対する楊氏の真摯な思いが伝わらないかもしれなかった︒そこで︑表現上の改訂ではあるが︑これまでになく慎重にこの仕事をすすめた︒/その後︑楊氏に会った時に︑楊氏から渡されたもとの中国語訳を下敷きにして書き直したいことを伝えた︒︵略︶入稿後︑楊氏と誤りがないか検討し改訂を加えた」︒ここから︑蕭荻の中国語訳に楊逵との検討結果が反映されたことは明白である︒よって︑四五年以降に手が加えられた第三回改訂稿と四八年の蕭荻訳を比較検討する︒ ⒝ 「鵞鳥の嫁入り」は︑四二年︑『台湾時報』掲載︒『芽萌ゆる』に収録予定だった︒組版テクストは残存せず︒四六年︑日本語小説『鵞鳥の嫁入り』台北三省堂︑収録︒よって︑四二年と四六年のテクストを比較検討する︒ ⒞ 「無医村」は︑四二年『台湾文学』発表︒『芽萌ゆる』に収録予定だった︒テクストは残存せず︒四六年︑『鵞鳥の嫁入り』に収録され公表に至る︒四八年︑『新生報』に李炳崑の中国語訳で掲載︒四二年と四六年のテクストに大きな変化は認められない︒よって︑四六年と四八年のテクストを比較検討する︒ ⒟ 「芽萌ゆる」は︑四二年︑『台湾芸術』に掲載︒四四年︑『芽萌ゆる』に収録予定だった︒組版テクストは残存︒四九年︑『新生報』に陸晞白の中国語訳で掲載︒四二年と四四年のテクストにはほぼ変化がないため︑四四年と四九年のテクストを照合する︒訳者の陸晞白については詳細不明︒『新生報』に翻訳や新詩を多数発表している︒