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MedievalJapanintheEastAsia 東アジアの中の中世日本

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東 ア ジアの中の中世 日本

Me di e valJ apani nt heEas tAs i a

安 野 真 幸 *

MasakiANNO*

日 次

1 模倣国家 と交易国家

西嶋走生氏 の 「冊封体制論」への疑問‑

2 東 アジア交易圏の中の倭読

華夷秩序 の対極 にある 「倭」‑

3 漢字 ・かな ・ハ ングル

日本文化の多様性,朝鮮文化 の普遍主義 4 華夷の交易

中世 日本 と北方民族 の類似 ‑ 5 むす び

論文要 旨

日本 ・朝鮮 ・ベ トナム は中国の周辺 にある国 として 「冊封体制」 と云 う共通 した歴史的条件 の下 にあった。 しか し10世紀以降 において,朝鮮 ・ベ トナムが中国の強い模倣強制 の下 にあっ たのに対 して, 日本 は中国の模倣強制 の圧力 の外 にあ り,独 自な歴史 を歩 み出 していた。 その 端的な現れが 「かな文字」の発明であ り,民族宗教である 「神道」 の発展である。 その原因に は, 日本が貨幣商品である 「金 ・銀 ・銅」 の輸 出国 として,中国に対 して経済的 に優位 にあっ た こと,特 に元蓮以降 は日本が東 シナ海 の制海権 を握 り,中国に対 して軍事的 に優位 にあった ことの二点が考 えられ る

キーワー ド :冊封体制,華夷秩序,交易,模倣,倭冠,漢字,かな,ハ ングル

隻1 模倣 国家 と交易国家

西嶋定生氏 の 「冊封体制論」への疑問‑

19987月に亡 くな られた東洋史学者 の西嶋走生氏 は (日本の歴史 は東 アジア世界 の中で捉 え返 さなければな らない) との観点か ら,東 アジア世界 を貫 く中国 を中心 とした政治的な秩序

冊封体制」があるとして 「冊封体制論(1)」 を提唱 された。 この考 えの根底 には,戦前の学校 教育 における日本史教育が 〈日本神話 の物語)か ら始 ま り, 日本史が 「天壌無窮の神勅」や天

*弘前大学教育学部社会科学科教室

DepartmentofSocialStudies,FacultyofEducation,HirosakiUniversity

(2)

2

皇 を中心 に構成 されていた ことに対す る対決の姿勢が,当然 あった もの と思われ る。 と同時 に, 戦後 日本 を風廃 した公式マル クス主義 の歴史理解 としての 「世界史の基本法則」 の考 え方 に対 す る批判 もまた, ここには込 め られていた と想像す ることが許 され よう。

日本歴史の中に西欧の辿 った歴史 と同様 な,(全 ての民族 ・地域 に普遍的 に貫徹)すべ き 「 本法則」としての (古代奴隷制,中世封建制)等々 を発見す ることは,同時 に返す刀で,中国・

朝鮮 な どに封建制 のない停滞 したアジア社会 を確認す ることとなった。つ まり (西欧 と同様 な 発展 をす る日本)の認識か ら (発展す る日本 と停滞す るアジア) と云 う対比が生 まれ, これが 新 たな独善的 日本史像 の成立 に帰結す ることを恐れて,氏 はアジア停滞論批判 の上 に, 日本列 島 における国家 の形成,律令国家 の確立, あるいはその後 の 日本国家 の歴史 を捉 えるためには く中国皇帝 を中心 に形成 された 「冊封体制」 と云 う政治秩序 を考 えるべ きである) と主張 され たのである。

この 「冊封体制」と云 う政治秩序の存在 を前提 として始 めて,「卑弥呼」でお馴染 の3世紀 の

耶馬台国」の問題が よ く理解で きるのである。事実,氏 は戦後国民的な関心 を呼んだ (耶馬 台国 はどこか) を問 う耶馬台国論争 を,一貫 して理論的 に領導 して こられた し,晩年 のお仕事 のほ とん どはこの間題 の解明 に費や されている(2)。 日本 の奈良時代 の 「唐風文化」と同様 な ( 字 ・漢文,律令法,仏教,儒教) を共有す る世界が,中国 はもとよ り朝鮮半島,ベ トナム等々 東 アジアの世界 に見出 され ることか ら, このような唐帝国 を中心 とする 「東 アジア文明圏」 を 可能 とさせ た政治構造 を,漢 の郡 国制 の分析か ら明 らかにした ものが氏 の 「冊封体制」論 なの である。

水が高 きか ら低 きへ と流れ るように (漢字 ・漢文,律令法,仏教,儒教)がそれ 自身の力で 自ずか ら日本等へ と流入 したので はな く,(漢字 ・漢文)の伝来 は 「冊封体制」 と云 う一つの政 治構造 を媒介 に していた。 また唐末五代 の戦乱 は周辺 の冊封国に波及 し,唐帝国の滅亡 (907) 後,冊封国勃海 の滅亡 (926),新羅の滅亡 (935)があ り,朝鮮半島において は新羅 ・後百済 ・ 高麗 の後三国時代 を経 て新羅の滅亡,高麗 の統一 (936)とな り,唐帝国内の 「ベ トナム」は独 立 し,河西地方 に 「西夏」出現。同 じ頃 日本で も平将門・藤原純友 による承平 ・天慶 の乱 (935) が起 きた等々,東 アジア世界が全体 として一つの動乱 の時代 に入 った との説明 は「冊封体制論」

として大層魅力的である

唐帝国の崩壊が (東 アジア文明圏の崩壊)を もた らし, 日本 の場合,奈良時代 の 「唐風文化」

に対 す る平安時代 の 「国風文化」 としての 「かな文字」成立 となった。 これ とほぼ同時代 の10 世紀末 には契丹文字 ・西夏文字,12世紀前半 には女真文字 の成立があ り,中国周辺諸民族 の世 界 に (漢字文化圏か らの離脱,民族文化 の出現)が見 られた との世界史的な主張 も大層魅力的 である。 もっ とも冊封体制 の対象 となる東 アジア世界 にお ける く漢字文化圏か らの離脱,民族 文化 の出現) は, 日本以外で は14世紀ベ トナムのチュノム,15世紀朝鮮のハ ングルの成立であ り,他方,北方遊牧民 の世界 は本来 「冊封体制」 とは異 なる政治秩序の下 にあったはずなので はあるのだが。

しか し,唐末五代 の動乱 の時期 に武人 の台頭 を中国 ・朝鮮 と共有 しなが ら, なぜ 日本のみが 中央集権的な統一国家 の解体 と武人 による地方分権的な封建社会 の形成 に到達 したのか,氏 は 説明 していない。 日本 の歴史が この 「冊封体制論」 によって全て説明 し尽 くせ ない と知 ってい たか らであろうか (3)。氏 は日本史上 の 「古代」 に対応す る 「漠」か ら 「唐」 に至 る時代 には, 政治的な 「冊封体制」が意味 を持つが,「中世」に対応す る 「宋」代以降 には 「冊封体制」は崩

(3)

壊 し, む しろこれ と異質 な経済的秩序である 「東 アジア交易圏」が あった とし, 日本列島上 の

古代」か ら 「中世」へ の歴史展開 を支 える東 アジア世界 は 「政治」か ら 「経済」へ と原理的 に変化 した としてい る(4)0

つ ま り,冊封体制下 における貿易 は,原則 として王権 の管理下 に置 かれ,王様 同士 の贈与貿 易 ‑ 「朝貢貿易」 として行 われ るが,末代 の 「東 アジア交易圏」 において は国家 の統制 か ら離 れ た 「自由貿易」が行 われた としてい るのである。 この見方 は現在 の学界 の通説 で,例 えば 『ア ジアの中の 日本史1』 の中で,編集者である荒野 ・石井 ・村井 の三人 は東 アジア世界 の 「時代 区分論」を試 みてい(5)が,問題 の時代 は次 の ように三分解 され, 「東 アジア交易圏」に当たる 時代 は 「日 ・宋 ・高麗交易時代」 としている。

律令制的国家群 の登場 (6世紀末〜 8世紀半 ば),

大動乱 と交易 システムの生成 (8世紀後半〜10世紀半 ば),

日 ・宋 ・高麗交易時代 (10世紀後半〜13世紀 はじめ)

事実, 中世以降の 日本 は中国中心 の冊封体制 か ら比較 的 自由にな り,独 自な歴史 を歩 んだ と 云 える。 それ ゆえ日本古代史 には冊封体制 とい う (政治的な強制が〉強 い影響力 を持 ったのに 対 して, 中世以降 はむ しろ (経済的 な自由が〉 日中関係 の基本 で あった とす ることがで きよう。

西嶋氏 は室町幕府が明の冊封体制 に入 り 「勘合貿易」 を行 った こと,秀吉が朝鮮 出兵後 の明 と の和平交渉 の折,明の冊封体制 の論理 と直面 した こと, 日清戦争 の背後 に も冊封体制 の論理が 存在 す る こと等々 を指摘 してい る。 しか し日本史上 の南北朝期 の 「前期倭冠」や戦国期 の 「 期倭冠」 な どの 自由貿易 を前提 とす る限 り,氏 の指摘 は 「冊封体制論」 の例外的 な有効性 の よ

うに見 える。

一方, 中国文化 を受 け入れた中国周辺 の夷秋 の諸 国家 の立場 に立 て ば,中国文化 の受入 は中 国 との同化 を意味 し, その ことは同時 に中国皇帝 による直接支配 の危険性 を意味 していた。 そ れ ゆえ律令 国家 を建設 した古代 日本 と同様, 中国周辺の夷秋 の民が民族 としての独立 を保 ちな が ら中国文化 を模倣 しようとす る とき,彼 らに とって中国 は (模倣 のモデルであ ると同時 に, 競争相手 で もある(6)〉ア ンビバ レン トな もの とな り, 「冊封体制」下 の夷秋 の民 は,一般 に中国 文化 の模倣 と云 う課題 の前 に二重 に拘束 され,宙 吊 りにされたのであった。 それ ゆえ彼 らには 中国 と同 じ土俵 で中国 をうち負か し,中国以上 に中国 にな りきることが強 い られていた と云 う ことがで きよう。

高麗王朝 の行 った国家的な事業 である 「大蔵経」 の印刷 や,李氏朝鮮 にお ける朱子学 の発展 と社会への定着 な どは,現在 で も美術 ・骨董品 として高 く評価 され る 「高麗青磁 ・李朝 白磁」

と同様,周辺諸 国が中国 に対抗 して行 った 「離れ業」 を示 してい る。一方ベ トナムにおいて は, 中国皇帝か らは 「国王」の冊封 を受 けなが ら,他方東南 アジアの国々 に対 して は, 自ら 「皇帝」

を称 し,小 「冊封体制」を築 いていた。「守礼之邦」を称 した琉球王朝 もまた中国 を模倣 した 「 倣 国家」 の一 つである。諸 国 に国分寺 を造 り,唐 の長安 を摸 した奈良の都 には東大寺 とその大 仏 を作 り上 げ,「唐風文化」 の横溢 した古代 日本 もまた, 同様 な 「模倣 国家」であった。

唐帝国 を中心 とす る 「東 アジア文明圏」 における唐文化模倣 の点で は,島国 にある古代律令 国家 日本 の方が唐 と国境 を接 していた半島の新羅 よ りも進 んでいた。銭 の鋳造 は日本 にのみ行 われ,最近発見 された最古 の鋳造銭 「富本銭」や 「和銅 開珍」等々の 「皇朝十二銭」の存在 は

(4)

4 直 幸

有名 である。吉 田孝氏 の明 らか に した ところで は(7)同様 な ことは成文法である律令法 の制定 の 点で も認 め られ る と云 う。 また中国文化 に対 す る対抗意識 は,上代 の 『日本書紀』や 『万葉集』

な どに認 めることがで きる。 しか し日本古代 の こうした中国模倣 の 「先進性」 は中世 にお ける

後進性」 に とって替 えられ, 中世 日本 は半島の国家高麗 と比較 して も明 らか に 「模倣 国家」

で はなか った。

三上隆三氏 の 『渡来銭 の社会史』 によれ ば,1600年鋳造 までの 日本への渡来銭 を, 国,王朝 ご とに分類 す る と, その種類 は次 の ようになる(8)と云 う。

中国】

五代十 国 北宋 南宋

546048132

北 ア ジア】

西夏

973

東 アジア】

朝鮮 安南 琉球

7133

歴代 中国王朝 はもとよ り 「宋」代 の中国周辺諸 国が銅銭 を鋳造 しているのに, 中世 日本 のみ は自ら銭 を鋳造せず,輸入 した渡来銭 を自国の通貨 としていた。陶磁器 において も同様 である。

宋代以降中国の陶磁器 「白磁 ・青磁」 は大量 に 日本 を含 む世界各地 に輸 出 されたが,朝鮮やベ トナムな どで はこの中国製陶磁器 の模倣が行 われた。 中で も高麗青磁 や李朝 白磁 は有名 である

これ に対 して 日本 中世 は輸入陶磁器 の時代 で,江戸時代 になって初 めて銅銭 の 「寛永通宝」 を 鋳造 し,陶磁器 も国産 となったが, それ まで は中世 を通 じて銅銭 も日用品の陶磁器 もすべて輸 入 に頼 っていたのである。東 アジア世界 の中で 日本 の陶磁器作成 は遅 れ,秀吉 が朝鮮陶工 を位 致 して以来 の ことと云 う。

縄文土器,弥生土器,須恵器,土師器等々, さらに北海道 で は続縄文土器,擦文土器,オホ ー ツク土器等々,生活用具 の点か ら考古学上 の時代 区分がな され 「縄文時代 弥生時代」な ど と命名 されてい ることは良 く知 られてい る これ に倣 って云 えば, 日本 中世 は遺物 の上か らは

輸入陶磁器 の時代」であ り,一方近世 は 「国産陶磁器 の時代」 と明確 に区別 され る 中世 の 日本 は中国 と自由な交易 を行 っていた ことか ら, 中世 日本 を 「交易国家」 と名付 けることがで きよう 古代 日本 が中国か らの模倣圧力 の下での宙 吊 り状態 にあったのに, 中世 日本 はそ こか ら脱 す ることがで きたので ある 中世 日本が中国の模倣圧力か ら自由になれ たの は, どの よう な条件 によったのだ ろうか。

ところで, 日宋貿易 による 「宋銭」 の輸入が 日本社会 に中国社会 と同様 な流通経済 を もた ら した ように,本来商品 とい うハ ー ドは文化 とか生活様式 とい うソフ トを伴 い,〈文化 や生活様式 を真似 せ よ)と云 う模倣強制 を呼 び起 した はずなのである 東 アジア交易圏」が中国物産 の周 辺諸 国への輸 出によって始 まった ことか ら, 中国が 〈模倣 のモデルである と同時 に,競争相手 で もある)関係 は, この経済関係 において も成立 した と考 えることが出来 る それ ゆえ日本史 上 の 「古代」か ら 「中世」への展開 を支 える東 アジア世界 の構造が 「政治」か ら 「経済」へ と 変化 した として も,周辺諸国 は中国文化 の模倣 の前 に宙 吊 りにされ ることに変わ りが なか った

はずで ある

(5)

事実,中国 と国境 を接す る朝鮮やベ トナム は,宋代以降 も中国の冊封体制 の中に組 み込 まれ てお り,宋代以降の中国の皇帝専制政治 を支 えた官吏登用制度である 「科挙」制度 と同時 に, 宋学 ・朱子学 も社会 に定着 した。 これ によ り武人 の台頭 は押 さえられ,文人 による統一国家形 成が進んだ。特 に朝鮮 で は 「科挙」制度 は支配階級 「両班」の性格 を決定す る要素 となった と 云 う(9)。銭の鋳造,陶磁器 の生産 な どもこれ らの諸 国において は受 け継がれ,唐代 の (漢字 ・ 漢文,律令法,仏教,儒教) を超 えて,中国文化 の共有が (科挙,朱子学 ・貨幣の鋳造)等々

よ り一層高度化 した レベルにおいて再現 したのである。 しか し封建制 の国である日本 にはこれ らは定着 しなかった。

つ まり中国を中心 とした 「東 アジア文明圏」 は日本以外 の東 アジア世界 において は,宋代以 降の 「東 アジア交易圏」 と云われ る世界 において もなお有効 で,朝鮮やベ トナムな どは中国の

模倣国家」 として存続 していたのである。 これ に対 して 日本 は,中国か らの模倣強制 を受 け 流 し,「交易国家」としてや って行 くことがで きた。なぜ中世 日本 は 「冊封体制」を中心 とす る

東 アジア世界」か ら離脱 す ることがで き,「交易国家」として中国 と自由につ きあ うことがで きたのだろうか。 また, なぜ 日本 にのみ地方分権的な封建制や中世 の武家政権がで きたのだ ろ うか。 それ らを可能 とした歴史的な条件 や, その理 由 こそが新 たに問われなければな らない。

しか し中国古代史が専門の西嶋氏 に 「宋」代以降の ことを求 めるの はそ もそ も無理難題 であ ったのか も知れない。 それで も日本 の古代史で有効 な 「冊封体制論」が,宋代以降の 日本列島 の歴史 において はあ まり有効 でない と西嶋氏が認 めていた ことだけは確認 して も良いであろう。

それゆえ本稿 におけるわれわれの課題 は,く中世 日本 を東 アジア世界 の中にいか に位置付 ける か) となる。冊封体制 ・朝貢貿易 と云 い自由貿易 と云 い, どち らも物 の遣 り取 りに関わってお り, 自由貿易 を同次元交換 とす る と,冊封体制 ・朝貢貿易 には政治 と経済の交換 とい う異次元 交換 と云 う側面があることか ら,両者 は 「交換論」 として統一的 に捉 えることがで きるように 思われ る。

喜2 東アジア交易圏の中の倭逼

華夷秩序の対極 にある 「倭」‑

先 にわれわれ は宋代以降の東 アジア世界 を 「東 アジア交易圏」 と名付 けるとして も,朝鮮や ベ トナムで は,古代奈良時代 の 日本 と同様,中国 を強 く模倣 していた ことを見 て きた。つ まり, 東 アジア世界 の 「東 アジア交易圏」 は決 して 自由貿易のみを原理 にしていたわ けで はな く,中 国王朝側 の周辺諸国に対す る模倣圧力 もまた決 して減少 していたわ けで はなかったのである。

東 アジア交易圏」の特徴 とされ る (自由貿易) はむ しろ日宋貿易の例外的な特徴 だったので はあるまいか。

ここで はしば ら く西嶋氏 の議論か ら離れて,氏が 「冊封体制論」 を発表 したの とほぼ同時期 に発表 された中村栄孝氏 の論文 13,4世紀 の東亜情勢 とモ ンゴルの襲来 (10)」と最近 の川勝平 太氏の 『文明の海洋史観(ll)』の議論 とに耳 を傾 けたい。川勝氏 は日本 の歴史 は (海洋志向の時 代) と (内陸志向の時代)の交替 と概観 で きる としている。唐 ・新羅 の連合軍 と百済救援 のた めに戦 った 「白村江 の戦 い」 を境 に, 日本 は (海洋志向)か ら (内陸志向)へ と変化す るが, 元蓮 を境 に再 び海洋志向に転 じ,江戸時代 の鎖国令 までが海洋志向の時代 だ としている。一方, 遣唐使廃止以後 の 日唐, 日宋関係 や江戸時代 の 日清関係 は中国人海商 の 日本への一方的な渡来

(6)

6 直 幸

によっている。

ところで中村氏 は,中国 と周辺諸国 との政治的な関係 を次 の四つに整理 している。 中村氏 の この考 えに従 えば,中世以降の 日中関係 を理解す る上で考 えるべ きもの は,(2)を除いた(1×3×4) となろう。

(1)冊封体制 :中国皇帝 と君 臣関係 にあるもので, その事例 として は 「漢委奴国王」の金印 や卑弥呼が 「親魂倭王」に冊封 された こと,「倭 の5王」の外交, 日明関係 において足利義 満が 「日本国王源道義」 として明の冊封 を受 けた こと等々。

(2)会盟体制 :北方民族 との関係。唐 と突蕨が親子,唐 とウイグルが兄弟 の関係 を結 んだ こ と等々。唐滅亡後 は北方民族 との間の 「華夷秩序」 は逆転 し,契丹 と末 は兄弟,遠 と末 は 父子,金 と末 は君臣 (後 に叔甥 に改 める) となった。

(3)修貢体制 : 「遣隔使 ・遣唐使」 に見 られ るように,君臣関係 にはないが,中国皇帝 に朝 貢す る もの。

(4)体制外通商関係 : 「日末, 目元, 日清関係」の ように,国家間の正式外交関係 はないが, 平和 な通商関係 にあるもの。

唐末 に至 ると新羅人 は黄海 の制海権 を握 り, 日本 に も新羅 の海賊が現れたが,新羅滅亡後黄 海 ・東 シナ海 の制海権 は中国人 ‑末 の海商の手 に移 り,中国人海商 は平和的 に日本 に渡航 し, 交易 を行 った。内陸志向の 日本 はこれ らの動 きには消極的 に対応 し, このような経済的な関係 を保証す る国家間の政治的関係 は成立 しなかった。マル コ ・ポー ロは 『東方見聞録』 の中で,

黄金 の国ジパ ング」 を述べ る直前 において,当時の 日本が冊封体制 か ら無縁であった として

「ジパ ングは独立国で彼 ら自身の君主 をいただいて, どこの国の君主か らも撃肘 を受 けていな い」と述べている。「元」のフビライが 日本 に求 めたのは(3)の修貢体制 であったが, 日本側 はこ れ を拒否 し,二度の蒙古襲来 となった。

その後 日本人 は黄海 ・東 シナ海 の制海権 を握 り,積極的に海外 に渡航す る (海洋志向の時代) となる。 これ を 「前期倭冠」の時代,足利義満が 「日本国王源道義」 として明の冊封 を受 けて 以来 の 「勘合貿易」の時代,「後期倭蓮」の時代 と三分す ることがで きる。 日末, 日清関係 の よ うな中国人海商 の平和的 日本渡航,交易 の場合 には問題がないが, 日本人が中国 ・朝鮮へ渡航 す る際問題が起 きた。 それ はこれ らの諸国が 「自由貿易」 を原理的 に認 めていなか ったか らで ある。中国 ・朝鮮側 には明や高麗 の ような中央集権的な統一王朝が存在 し,外交 ・貿易権 は国 家の管理下 に置かれ,国家 は国民 の海外渡航や外国貿易 を原則 的に禁 じた 「海禁」政策 を採 っ ていた。

これ に対 して 日本 は封建社会 で,各領主が競 って貿易 に乗 り出す体制 にあった。 それゆえ日 本側が(4)の 日本人海商 による平和的な体制外通商関係 を 「自由貿易」と見倣 していて も,中国・

朝鮮側 に とって はそれ はあ くまで も 「密貿易」で,黙認 はで きて も正式 な承認 は原理的 に不可 能 な ものであった。 それゆえ朝鮮 の高麗王朝や中国の明王朝が貿易 を国家 の管理下 に置 くべ く, (4)の体制外通商関係 を禁止 した とき,「倭冠」と呼 ばれた海賊行為が発生 した。一方明が この「 禁」政策 を見直 し自由貿易 を認 める と,倭冠 は終息 し,同時 に中国人 の海外渡航 「華僑」 の開 始 となった。 それゆえ 「倭冠 こそは華僑 の母 であった」 と云 う宮崎市定氏 の言葉(12)は認 めて も

よいであろう。

(7)

一般 に考 えて,男たちが獲物 を求 めて遠征 に出か け,海や野 山で狩猟 ・漁捗 を行 う延長線上 に,遠 い異国での交易が考 えられ ることか ら,遠征 に成功 して多 くの獲物 を持 って帰還す るこ とを目標 に置 くな ら,平和的な交易 と暴力的な掠奪 との間には, あまり距離がない時代が本来 はあった と思われ る(13)。安定的継続的な利益の獲得 を考 えるな ら,後者 の掠奪で はな く,前者 の追求が試み られたはずである。 しか し平和的な通商関係が失敗 した とき,商人 たちは予定 し ていた利益 を確保す るため,多 くの場合海賊 に変身 したのである。 だか ら,(4)の体制外通商関 係 とい う平和的な相互関係 の外側 に,暴力的,一方的な掠奪行為 ・海賊行為 を設定す ることが で きよう。

倭冠」 の実体が高麗や明国の人々 を多 く含 み,「倭冠」 とは高麗や明の国内で通商 に関係 を 持つ人々が,王朝 に敵対 し 「倭」賊 に身 を投 じ, 自らも「倭」と称 した ことにあったのに, なぜ 中国や朝鮮 の王朝側 は彼 ら東 アジア世界 の海賊 を倭冠 と「倭」を冠 して呼び,高麗や琉球 や安南 等々の名 を冠 しなかったのだろうか。 それ は恐 ら く, これ らの国々が中国の模倣国家 として中 国皇帝か ら「冊封」を受 けていた ことと関係があろう。16世紀 に至 り東 アジア世界 にポル トガル 人が登場 した とき,「フランキ」と呼 ばれた彼 らもまた倭冠 の一員 に数 えられた ことが示す よう に,倭冠 の「倭」とは中国皇帝 を中心 とする 「華夷秩序」 に敵対 す る海上勢力全体 の総称 であっ

た 。

明王朝 は冊封関係 に入 った室町将軍 を 「日本国王」 と呼んだが, その場合 の 「日本」 とは, 中国 を中心 とす る国際秩序である華夷秩序 に組 み込 まれた限 りでの 日本列島内の政治組織 を指 してお り, そ こか ら外れた ものは「倭」と呼 ばれたのである。つ ま り,明代 の 日本列島 には中国 王朝か ら正式 に認 め られた国家 としての「日本」の他 に,華夷秩序の対極 にある海上勢力 として の 「倭」があった。 それゆえ(4)の 「体制外通商関係」 は,平和的な 「自由貿易」つ まり王朝黙 認 の 「密貿易」 としての 「非体制的な通商関係」 と,「倭冠」 とい う 「反体制的な通商関係」に 二分す ることがで き,中世以降の 日中関係 は次の四つに纏 め直す ことがで きよう。

(i)冊封体制, (ii)修貢体制,

(iii)非体制的通商関係, (iv)反体制的通商関係

これ は中国皇帝 を中心 とした国際秩序 ‑華夷秩序が強 く及ぶ ものか ら弱 い ものへ, さらには 秩序 の解体 か ら反秩序へ と並んでいることを意味 している。特 に明末 の 「北虜南倭」 の言葉が 示す ように, 中世 の 日本列島 は中国皇帝 を中心 とす る 「華夷秩序」 に敵対 し,中華帝国 をおび やかす 「倭」冠 の根拠地 とされ,中華世界の対極 と見徹 されていた ことにわれわれ は注 目すべ きであろう後の1871(明治4)年の 日清通商条約締結の際,直隷総督李鴻章や両江総督曾国 藩 はそれぞれ次の ように述べている(14)。 ここか らわれわれ は 「朝鮮」や 「安南」において は民 族文字ハ ングルやチュノムの成立 に も拘 らず,19世紀 において も宗主国 「清」 の冊封体制下 に あった ことを知 ることが出来 る。

長髪賊が江稀 ・漸江 を脅か した時 に日本が通商の要求 を提 出せず して,内乱 の平 らぎたる 今 日に及 んで通商 を求 めに来 たのは,強要の意 を含 んだ ものでない ことを知 るべ きである。

(8)

直 辛

日本 は昔か ら中国の属国で はな く,朝鮮や安南 とは全 く事情 を異 にす る。 もし拒絶す ること 余 りに甚 だ しければ, 日本 は欧米諸国 を介 して要求 を貫徹せん とし, 日本 は遂 に欧米 と党接

を結ぶ ことにな り,中国 として は‑与 国を失 うことになろう。

元 の世祖が 日本 に侵入せん として失敗 してか ら, 日本 は中国 を恐 るるの念 な く,平等な隣 邦 だ と信 じている 到底朝鮮や安南が中国に対 す る関係 と同一視出来 ない。 しか も日本 との 通商 は相互 の利益であるか ら, 日本 よ り提議 あ りたるを幸 い,速 やかに交渉 を始 めたが よい。

李鴻章 ・曾 国藩 は日本 の 「華夷秩序」か らの離脱 の事実 を認 めているのである。特 に曾国藩 が離脱 の時期 を 「元冠」 としていることは注 目に値 す る。中世 日本 を取 り巻 く東 アジア交易圏 は中国,高麗 ・朝鮮,琉球, ヴェ トナム等々の国々 を含 み,交易圏 それ 自身 はこれ ら諸国間の 相互の通商関係 として捉 えられ るが,相互 の経済関係 を支 える国際的な政治関係 は,基本的に 以上 の四つであ ろう 高麗 ・朝鮮,琉球, ヴェ トナム等々 と歴代 中国王朝 との関係 は,基本的 に (i)「冊封体制」で理解で きるのに対 し,唐末 ・宋代以降の 日中関係 は (iii)非体制的通 商関係」を基本 としなが ら,「倭遠」 と云 う (iv)「反体制的通商関係」や (i)「冊封体制」を

も伴 っていた。

日宋関係 において も,宋 は (iii)の 「非体制的通商関係」 に満足 していたので はな く, 日本 側 に朝貢 を求 め,(i)の 「修貢体制」に組 み込 む熱意 を持 っていた ことは石井正敏氏 の明 らか にした ところである(15)。元が 日本側 に朝貢 を求 め,中国 を中心 とす る東アジアの国際秩序への 復帰 を求 めたのに対 して, 日本側が この要求 を断 り,蒙古合戦 ‑元冠 となった ことは既 に述べ た。 それゆえ全体 として見れば,中世 の 日本列島の住民 は中国 を中心 とす る国際秩序 ‑華夷秩 序か ら比較的 自由な立場 を採 ることがで きた とな ろうO その原因の一つ として,「元蓮」以降黄 海 ・東 シナ海 の制海権 を日本人が握 っていた とい う軍事力 の問題 を指摘す ることがで きよう

この制海権が 日本 にあった ことと 「倭冠」の存在 とは恐 ら く密接 な関係 にあろう しか しそ うであればなお さら,他 の夷秋 の国 と比べて唐末以来の 日本,倭冠時代以前 の 日本が (なぜ中 国の圧倒 的な影響力 の外 に立つ ことがで きたのか) その理 由をここでわれわれ は新 たに問わな ければな らない。

§3 漢字 ・かな ・ハ ングル

日本文化 の多様性,朝鮮文化の普遍主義 ‑

既 に述べた ように, 日本 における 「かな文字」成立 の問題 を 「冊封体制論」 との関係で説明 す るには多少 の無理があった。 それゆえここで は日本 の 「かな文字」の問題 を中国の 「漢字」

と朝鮮 の 「ハ ングル」 との比較 の中で考 えてみたい。

中国 とは本来,北 の麦作地帯 と南 の米作地帯 の対比や 「南船北馬」の言葉 な どが示す ように, 多様 な生態系の下で生活す る多様 な人々の住 む大陸であった。現在 「漢民族」 と云われ る人々 の間で話 され る 「話 し言葉」 はまち まちで,中国語 の5大方言 として は,現在公用語 とされ る 北京語 のほかに,蘇州方言,厘門方言,広東方言,客家語 な どがある 中国にはこの「漢民族」

の外,多 くの少数民族が存在 していることは良 く知 られているが,「漢民族」 とは 「書 き言葉」

としての (漢字 ・漢文)文化 を共有す る人々 を指 しているのである。つ まり中国 とは本来話 し 言葉 を異 にす る多様 な民族 の世界が,(漢字 ・漢文) とい う文化 によって一つに統合 された もの

(9)

なのである(16)0

もともと固有 の話 し言葉 を持 っていた日本や朝鮮等の東 アジアの人々が,文法構造 の違 う書 き言葉 としての (漢字・漢文) を受 け入れた理 由 は,西嶋氏が明 らかにした とお り 「冊封体制」

と云 う政治的な構造 によっていた。例 えば 「漢委奴国王」や 「親貌倭王」 の金印 は国書 を封印 す るための もので,印綬 の下賜 とは漢字 ・漢文 による国書 を中国皇帝へ提出す る義務 を意味 し てお り,中国皇帝か らの 「冊封」の授受 とは漢字 ・漢文 による外交文書の取 り交わ しを意味 し ていたのである。 この ように (漢字 ・漢文) は,秦の始皇帝以来の政治支配 の道具 ‑公用語で あ り,冊封体制下 において は,皇帝 の政治支配 に関わ って (漢字 ・漢文)の使用が義務付 けら れていた。

それゆえ日本や朝鮮等々の東アジアの人々が漢字 ・漢文 を使用す る限 り,彼 らもまた原理上 は 「漢民族」 に数 えることがで きた。 この ような 「漢」化 と政治的な独立 の保持 との間で宙 吊 りされ るのが周辺諸民族 の運命 だ とすれば,中国の国内には政治的な独立 を維持で きず漢化 を 受入れた多 くの人々がいた ことになろう。それゆえ唐帝国が東 アジア文明圏内の国々 に(漢字 ・ 漢文,律令法,儒教,仏教)等々 を放射 していた とすれば,同 じことが国内向けに も考 えられ

よう。つ ま り中国世界 を代表す る (漢字 ・漢文,律令法,儒教,仏教)等々の普遍的文化 は, 本来多様 な人々の生活す る世界 を統合す る薄 い皮膜 に過 ぎず, その内部 には多様 な人々の伝統 的な世界があった。

ところで,征服王朝 の遼 ・西夏が漢字の影響下 に独 自な民族文字 ‑契丹文字,西夏文字 を作 った背後 には, このような公用語 としての漢字への対抗意識が あった。 その点で, これ らの契 丹文字や西夏文字等々 には遼 ・西夏の王が夷秋 の 「王」であるに もかかわ らず,中国 を統一 し た末の皇帝 と同様 「皇帝」 を自称 したの と同 じ政治的な意味 を認 めることがで き,征服王朝 と しての自負,中国文化 に対 す る対抗意識 としての (漢字文化圏か らの離脱,民族文化の成立) を認 めることがで きよう。14世紀 のベ トナムのチュノムに もこれ と同様 な意味 を認 めることが で きよう。 これ らの文字全てに共通す る特徴 は,漢字 の用例 にな らい皆縦書 きであること,漢 字 よ りも画数が多い ことである。

画数が多い ことは漢字 に対す る対抗意識 の現れで,見栄 えの良 い分,実用面で は不便である。

この点, 日本 の表音文字である 「かな文字」 は,漢字 の 「草書体」 をさらに簡略化 した 「平が な」 と,漢字 の一部分 を音符化 した 「片かな」の二つか らな り,道具 としての便利 さ,実用性 の点で優れてお り, その点が文盲 の多かった中国 と比べ, 日本社会 の識字率 の高 さを保証 した のである。事実契丹文字,西夏文字,女真文字,チュノムな どはいずれ も現在 は廃れて,使 わ れていない。 また後述す るように 「かな」 には本来公用語 としての使用意図がなか ったのであ るか ら,西嶋氏 の ように これ らの文字 と日本 の 「かな文字」 とを同列 に取 り扱 うことはで きな いのである。

平安 中期,政治的には藤原氏 の摂関政治の ころ,「かな文字」が普及 し 「かな」による人々の 感情表現が可能 とな り,和歌や物語,随筆が盛 ん となった。和歌 の代表作 には紀貫之の 『古今 和歌集』が,「女流文学 ・かな文学」の代表作 には紫式部 の 『源氏物語』や清少納言の 『枕草子』

が挙 げ られ る。 この 「かな文学」の他,貴族 の住 まいの 「寝殿造 り」や 「大和絵,絵巻物」 な どの成立か ら, これ までの 「唐風文化」 と区別 して平安 中期 の文化 は 「国風文化」 と名付 けら れている。 この国風文化成立 の背景 には,9世紀 における唐勢力の衰 え, それ に対応する日本 の遣唐使廃止 を挙 げるのが常である。つ ま り中国か らの模倣圧力 の減少が国風文化 を生んだ と

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10

い うので\ある。

しか し遣唐使 の廃止 をもって,江戸時代 の 「鎖国」 と同様 なイメージを持つのは間違 いで, 遣唐使 の有無 に関わ らず唐商 の 日本への来航 は盛 んで,唐か らの輸入品 「唐物」 は大量 に日本 に流入 し,唐物趣味 は貴族 の世界 に定着 していた し,政治向 きの公文書 にはこれ まで通 り公用 語 ‑漢字が使用 され,男手 としての「真名‑漢字使用 は相変わ らず盛 んであった。一方「かな」

は和歌や物語,随筆 な ど人々の感情表現 に関わ る新 しいジャンルにのみ使用 されたのである。

それゆえ (唐風文化か ら国風文化へ)で はな く,唐風文化 の中に新要素 ‑国風文化が加わ った のが真相である。 その後 日本 では純然 たる 「漢文」か ら 「漢字仮名混 じり文「かな文」と多様 な文体が存続 す ることとなった。

日本 の文字文化 を考 える と,漢字 の読 みには漢文調 で読 む 「音読 み」のほかに 「や まと言葉」

で読 む 「訓読 み」がある。「かな」は訓読 みの際の 「助詞」表記の必要性 な どか ら,主 に 「や ま と言葉」 を書 き現わす もの として,最初 は 『古事記』や 『万葉集』 の編纂のために生 まれ,発 達 した。「かな」 には 「片かな ・平がな」の二種類があ り,「音読 み」 もまた,漢音 ・呉音 な ど の 「多音読 み」と複雑 である。「真名」‑漢字が 「男性」なのに対 して 「かな」は 「 性」であることか ら,「かな文字」成立の背景 には,中国に対抗す る政治的な意味 は認 めること

はで きず, む しろ日本文化 の多様性 を制度的に保証 した ことを確認 しなければなるまい。

日本文学 ・国文学 の世界で は 「かな文字」の成立 は 「上代」 と 「中古」 とい う二つの時代 を 画す大事件 として取 り扱われて来 ている。 しか し日本史学 ・歴史学 の世界 で は「かな文字」の成 立があって も,公用語 の世界 は前代 とほ とん ど変化がない ことか ら, 日本歴史 の大 きな画期 と 見徹す ことは,今 までの ところ行われて はいない。 また「かな文学」をもって (漢字文化圏か ら の離脱,民族文化の成立) と云 うためには, 『古今和歌集』や 『源氏物語』 『枕草子』等々 を, 例 えば中国の 「四書 五経」や 「唐詩」等 に対抗 しうる世界文学 の 「古典」 とす る評価や判断 が必要であ ろう。 ここに本居宣長以来 の 「国学」の大 きな影響力 を見 ることがで きるのである。

それ までの 「素朴」 な 日本社会 に文明社会 の漢字 ・漢文が導入 され ると,「や まと言葉」の世 界 は大 き く変質 した。 ここに 「漢語」 と 「や まと言葉」 との棲 み分 けを指摘す ることが出来 よ

う。高度 な文明社会 を維持す るに必要な 「律令法」や 「儒教 ・仏教」 な どに関わ る抽象的概念, 理性的思考 は 「漢語」 によ りなが らも,具体的 ・感覚的な感情表現 は 「や まと言葉」 によった

のである。 ここか ら,恋 の歌 な ど 「もののあわれ」 を表現す る 「和歌」 は 「や まと言葉」で表 現 され ることとなった。 ここに 「真名」が 「公 ・男性」,「かな」が 「私 ・女性」 とされた理 由 がある。 また勅選和歌集の編纂 は和歌 の表現手段 である 「かな文字」の社会的正統化 に大 きな 役割 を果 た した。

日本で は一つの漢字 に対 して 「音読 み訓読 み」の二つの読 み方が存在す ることか ら,「 文訓読法」 とい う (漢文 をひっ くり返 して読 む)独 自な読み方が成立 した。 これ は 「漢文」の 日本的な読 み方であると同時 に,「漢文」の 「や まと言葉」への翻訳 と云 う側面 を持 ち,中国の

漢文」 に対 して は日本 の 「や まと言葉」が対立す るとい う後世 「国学」の主張 を原理的 に可 能 とさせ る側面 を持 っていたのである。一方朝鮮で は,古 くは 「Ill読み」の試み もあったがす ぐに廃れて しまい,漢字 の読 み も「‑音読 み」に限 られている。 それゆえ朝鮮 で は,中国の 「 文」 を受 け入れ るのみで相対化す る原理 を持 たず, 日本以上 に強 く (漢字文化圏に帰属) して いた となろう。

中国 ・日本 ・朝鮮三国における世界宗教 と民族宗教 ・民間信仰 を概観す ると,三国に共通す

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る世界宗教 には 「儒教」 と 「仏教」がある。 これ らは文明の中心である中国で育 まれた普遍的 な思想 ・宗教 であ り,中国か ら周辺 の朝鮮 ・日本へ と及 んだ。中国の場合 「儒教」が国教 とし て歴代王朝 に重視 され る一方,民間信仰 として 「道教」が存在 したの は,中国が本来多様 な世 界 か ら構成 されていた ことと関連 している。 日本 の平安仏教 の 「本地垂逆説」 とは仏教総体 に 対す る 「漢文訓読法」的な理解 の仕方であ り,一方で は日本社会 に 「神仏習合」 と云 うジンク レテ イズム を生 み出 したが,他方で は世界宗教である 「仏教」 と民族宗教 の 「神道」両者 の併 存 を強 く主張す ることになった。

以上か ら, 中国には世界宗教 儒教」の外 に民間信仰 道教」があ り, 日本 に も 「仏教」

の外 に 「神道」 と云 う民族宗教が成立す ることとなった。 日本 と中国 にはそれぞれ文化の多様 性 と云 う側面がある。 これ に対 して朝鮮 には世界宗教 としての仏教,儒教 はあって も,民間信 仰 として道教や神道 に対応す るものは認 め られない。 これ は朝鮮 に 「訓読 み」が存在 しない こ

とと対応 している。朝鮮 は中国以上 に中国であろうとして仏教や儒教 を重視 し,逆 に民族宗教 な ど文化の多様 な展開 を抑圧 したのである。柄谷行人氏 (17)は 「中国に隣接 しその政治的 ・文化 的圧迫 にさらされた朝鮮 において は, 中国 よ りも原理的・体 系的であろうとす る傾 向があった」

と述べている。

高麗王朝下で僧兵が蒙古の軍隊 と戦 った ことは,仏教が鎮護 国家 の建前 を貫 いている点で, 日本 の歴史 にはない新鮮 な驚 きである。中国世界 を統合す る薄 い皮膜 が朝鮮 においては厳格 に 社会 の末端 にまで浸透 しているのである。.しか し15世紀 になって作 られた 「ハ ングル」 はパス パ文字 モ ンゴル文字の影響下 に,子音字母14と母音字母10か らなる音素文字 を組 み合わせて, 約3000種類 の音節文字 を作 るもので,世界 の表音文字 の中で一番優れた もの と云 う。 日本が現 在 「漢字仮名混 じり文」の世界 にいるのに,朝鮮 ・韓国で は漢字 はほ とん ど追放 されハ ングル のみの文が一般である。 その意味で は,現代 の朝鮮 ・韓国,特 に北朝鮮 は完全 に漢字文化圏か

ら離脱 している と云 える。

しか し大局的 に見 ると,朝鮮半島 は中国の文化圏 に含 まれ るのに対 し, 日本列島 はその外 に あるとなろう。儒教 は人間生活 の最小単位 である 「家族」 の仕組 み と深 く関わってお り,儒教 の葬礼 を厳格 に守 ることが朝鮮 の支配階級 「両班」の資格 と関係 した ことか ら,儒教 の教 えは 人々の生活 を律す るもの として韓国 ・朝鮮社会 に強 く根づ き,朝鮮 は中国以上 に 「儒教 の国」

となった。 これに対 して 日本で は,儒教が強い影響力 を持 った江戸時代で も,「儒学」と云 う知 的な対象 として,様々な教養の一つ として受 け入れ られたに過 ぎず,「家族」のあ り方その もの には直接何 らの影響 も与 えなか った。 日本 の葬儀 には仏教 のみが関係 し,儒教 の介入す る余地 はなかったのである。

漢民族 の社会 の 「家」秩序 には 「同姓不婚異姓不養」の原則 がある。 この原則 は朝鮮半島 には及んでいるのに, 日本 には及 ばず, 日本の家族 は血縁 にない異姓 の人 を加 えることを拒否 しなかった。 これが中国 ・朝鮮 と比較 して 日本 にのみ封建制が成立 しえた ことと関係があろう。

逆 に中国・朝鮮社会の祖先崇拝 は日本以上 に盛 んで,「系図」が売買 され る日本 と異 な り,一族 の系譜 を記 した 「族譜」が大切 にされている。同様 な例 として仏教 の 「戒律」 を挙 げることが 出来 る。上山春平氏 は 「日本 に根づかなかった礼 と戒律(18)」の中で,鎌倉仏教 の中で も親鷲 の 浄土真宗成立 に至 る過程が 「戒律」排除の歴史であることを明 らか にされた。

これ はタイや ミャンマーな どの小乗仏教国において,「戒律」が人々の生活 を強 く律 している ことと比較 した とき, 日本 を同 じ仏教国 と言 うことにため らいが生 まれ る原因 に もなっている。

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以上か ら日本文化 の特徴 を多様性 として纏 めることが出来 るとすれば,朝鮮 のそれ は普遍主義 への傾斜 とす ることが出来 るので はあるまいか。

§4 華夷の交易

中世 日本 と北方民族 の類似 ‑

中国の皇帝の直接支配す る中華世界 と,皇帝の支配 の及 ばない夷秋世界 との対立 と相互依存 の関係 を理解す るための概念 に 「華夷秩序」がある。中国 と夷秋世界 との交易 ‑物 の遣 り取 り も, この 「華夷秩序」 によって考 えることがで きる

中国側 の考 え として は,中国 は 「地大物博」で 「自給 自足」の国で,夷秋の国に何 も依存す るもの はな く,本来夷秋 との交易 の必要 はない とされていた。 ここにア‑ ン戦争 ・アロー戦争 の際,中国側が西欧列強の開国要求 を断 った理 由が出て くるわけである。華夷の関係 において は,中国皇帝の 「徳」が四海 に及ぶの と同様 に, 中華の物産が四海 に及ぶべ きもの と観念 され ていたのである。事実,夷秋 の人々が求 めてや まない憧れの中国物産である 「」silkや 「 磁器」chinaな どは,世界商品 として文字通 り全世界 に運 ばれていた。 それが 「絹 の道」であ り,「陶磁器 の道」であった。 これ らの品物が皇帝直属 の工房で作 られていた事実 も注 目してお くべ きであろう。

夷秋 の民が中華 の物産 を求 めて遠方 よ り朝貢す ることは,皇帝の 「徳」が四海 に及 んだ と理 解 され, この朝貢 と回賜 の関係 の上 に冊封体制 は築かれていた。 この朝貢回賜関係 は 「贈与」

とその 「お返 し」 に当たるのだが,物 の遣 り取 りに政治的な関係が加わっていた ことか ら,皇 帝の側 は朝貢品 に対 して, これに数倍 す るものを回賜品 として与 えることが原則 となっていた。

それ ゆえ夷秋の民 は皇帝 に対 す る服属儀礼 と共 に土産 を奉 ることは,経済的な利益 となった。

逆 に中国皇帝 の側 は, この朝貢 回賜関係 を通 じて,経済的な損失 に倍す る政治的な威信 を獲得 したのである。 それゆえ朝貢回賜関係 とは経済的な利益 と政治的な威信 との交換 ‑異次元交換 と纏 めることがで きよう。

夷秋 の民 は冊封体制 に入れば,定期的な朝貢が義務付 けられた。 また皇帝 は朝貢 によりもた らされた遠方の物産 を威信財 として臣下 に再配分 した。 それゆえ中国側が夷秋 の物産 に憧れ, 飽 くな き欲望 を抱 くに至 った とき,つ まり夷秋 の物産 に依存 しなければな らな くなった とき,

地大物博」で 「自給 自足」 とい う中華 の建前 は崩れ,冊封体制 は根底か ら揺 らいだのである。

その具体例 として東北地方の狩猟民 を支配 した 「女真族」や交易の民 「サ ンタン人」 を挙 げる ことがで きる(19)。佐々木史郎氏 によると,東北地方の狩猟民 と中華世界 との間 には毛皮 を貢が せ,絹 を恩賞 として与 える 「収貢頒賞」 と云 う仕組 みで運営 された 「絹 ・毛皮交易」が長 いあ いだ行われていた と云 う。

中華 の住民が 「地大物博」の建前 に反 して 「毛皮」への飽 くな き欲望 をもった ことか ら,満 州 ・東北地方で この 「毛皮 ・絹交易」の利権 を握 る 「女真族」 は莫大な利益 を得た。 これが17 世紀 の 「清」王朝 を生み出す原動力 となった と云 う。 また 「サ ンタン人」 とはアムール河‑サ ハ リン‑蝦夷地間の交易 に関わ りを持つ交易民で, アイヌ と交渉 をもった人々である。近世初 頭 に北海道の松前 の殿様 が家康 に 「蝦夷錦」 を献上 した ことは有名 だが, その蝦夷錦 の運 ばれ た道(20)は,生産地中国の江南 をスター トして 「満州‑ アムール河‑サハ リン‑蝦夷地」 とな り, これ は 「中国一西域‑ペル シャ」 を結ぶ 「絹 の道」SilkRoadに対 す るもう一つの 「絹 の

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道」であった。

と同時 にこの道 を逆 に中国に向けて 「毛皮」が運 ばれた ことか ら, この道 は 「毛皮 の道」Fur Roadで もあった。 この 「北海道‑サハ リン‑ アムール河」のルー トは,義経 エデ ンギスカン説 による義経 のモ ンゴールへの経路 とも重 なることか ら, この伝説 ので きた近世初頭 における日 本 と北方世界 との交易路 を示 している と思われ る もっ とも岸本美緒氏 (21)は,「後金清」を 建 国 した16世紀 の東北 の狩猟民 ・女真族 について 「当時の女真経済 は,農業 とともに狩猟採取 に依存 していた といわれ るが,狩猟採取 といって も‑‑素朴 な自給 自足経済で はな く,国際交 易 と深 く結びついた舘や人参 な どの特産品の狩猟採取であった ことに注 目す る必要があろう」

と述べている

金」を建 国 した12世紀の女真族が,16世紀 の 「後金」と同様 に国際交易 と深 く結び付 き,「 皮」 を特産品 としていたか は疑問で, む しろ12世紀 の 「金」 は 「遼」 の後継 国家 として 「絹 ・ 馬交易」や 「茶 ・馬交易」 との結 びつ きの方が強かった もの と思われ る。 こうした東北地方の 狩猟民 と同様,中国側が 「冊封体制」下 に置 くことがで きなか った民族 に,北方の草原遊牧民 がいる。彼 らが 「冊封体制」に入 らなかったの は,「絹 の道」を通 じて中国文明 とは異なる西方 文明の影響下 にあった こともあるが,彼 らと中国 との交易が 「絹 ・馬交易 茶 ・馬交易」で, 中国側が遊牧民 の持つ 「馬」 を必要 としていた ことを挙 げなければな らない。

特 に馬 は蒸気機関車 の発明 まで は,人 の持 ち うる一番早 い乗 り物で,人馬一体 となった騎馬 兵 の軍事的破壊力 は圧倒的であった ことか ら,中国側 に とって軍事力の強化 には 「馬」が どう して も必要であった。つ ま り中国 は,北方の草原遊牧民 ・騎馬民族 と対抗す るために,彼 らの 持 つ 「馬」を必要 とす るとい う従属的な関係 にあった(22)。交易の必要性 と共 に,交易 の相手が 強力 な敵で もあるとい う関係 にあったのである 中国側 は北方騎馬民族 の持 つ 「馬」 に依存 し たため,「地大物博」の建前 を維持す ることがで きず, これが,彼 ら北方騎馬民族が南北朝時代 に華北 を支配 し,唐末 には 「五胡」 として登場 し,後 に 「西夏元」な どの征服王朝 を形成す る原因 となったのである。

秦の始皇帝」が戦国の世 を終わ らせ, はじめて中華世界 の統一 を成 し遂 げた とき,遊牧民の

旬奴」 もまた, これ と連動 して始 めて国家 を建設 したが,秦 と旬奴 とは 「万里 の長城」で対 略 し,互 いに接触 を持 たなかった。北方遊牧民 と中華世界 との関係 は 「漢 の高祖」 (207‑195) が 「旬奴 の冒頓単」 (207‑174)と戦 った時か ら始 まる。 この時高祖 は勝利 を得 ることがで き ず,皇女 を嫁がせ,毎年綿 ・絹 ・食料 を貢ず る約束で 「兄弟」の和 を結 んだ。「冊封体制」の原 則 か らの逸脱 の始 ま りである。「漢 の文帝」 (180‑157)と冒頓単子 とは衣類 (錦 ・綾),黄金の 装飾品,絹織物等々 とラクダ1頭,騎馬2頭,馬車用馬8頭 との交換 を行 った。

景帝」 (157‑141) と 「軍 臣単」 (160‑126)との間で は 「関市」の開催が決 ま り,旬奴側 が 「牛 ・馬」 を市 に出す と,中国側 はこれ を朝貢 とみな し,回賜 として 「賞賜待遇」 を行 った とい う。北方民族 との 「馬」 の遣 り取 りはこうして始 まったのである 一方,北方の遊牧民が

絹 ・茶」等 を入手す るには,「掠奪「中国側 の献上」の他,公貿易 ‑朝貢貿易 としての 「 市」や 「密貿易」 の方法 もあった。 日中間の (i)冊封体制,(ii)修貢体制,(iii)非体制的 通商関係,(iv)反体制的通商関係 との比較 をす ると,前二者 は (iv)に,「密貿易」 は (iii) に対応 しよう 中国側が 「関市」 を朝貢 と見倣 した として も,遊牧民側が優位 にあった ことか ら,(i)や (ii) は存在 しえないのである。

平凡社 『大百科事典』で 日宋貿易 の輸 出品 を調べ る と,「平安時代」の項 目で橋本義彦氏 は「

参照

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