家政学の方法についての反省
一枝術・家庭科の男女共修に関連して‑
乗 本 秀 樹
AReflectiononMethodologyofHomeEconomics
‑relatedwithT占chnical‑HomemakingEducation
forBothSexes‑HidekiNoRIMOTO
1.は じめに
すでに昭和56年度から、中学校における技術・家庭科は、男女共修という方式に移行してい る。現在のところ、部分的であり、履修形態や履修内容についての現場における決定自由度
が大きい。それだけに、さまぎまな努力が、試行錯誤的になされているようである。このような教育制度の変更は、技術科ないし家庭科の現代的な意義を考慮してのことであろうし、
それゆえにさまざまな角度から評価されるものではあろう。
しかし、技術・家庭科の男女共修への移行にともなって、一方では混乱も生じている。共 修の主体となる生徒や教員の配置、共修の対象とすべき内容や教材をめぐる問題など、教育 現場で生じているさまざまな混乱がまずあげられる。この種の混乱のうちには、教育制度の
変化にともなう過渡的または摩擦的なものも含まれるし、より本質的なところに根ざす問題 も含まれている。そして、後者の問題について、とくに見過せないのが、技術科と家庭科と
の内容的なむすびつき、あるいは現代社会における家庭科の存在意義にかかわる問題である。
こうした問題について、統一的かつ説得的な見解を見い出せていない事態にあるのではない かと思われる。
ところで、いまや共修の対象になりつつある技術・家庭科について、それにふさわしい統 一的な教科理念をいまだ見い出せない事態において、技術科と家庭科の関連をめぐって、必 ずしもそのままには肯定しがたい議論が生まれつつある。ややらんぼうな表現ではあるが、
家庭科は技術科に併呑されてよい、技術・家庭科の男女共修化はその契機だ、といった内容
の見解がそれである。たとえば、「『家庭科』が普通教育として成立するかは賛否両論があり、
見解の分かれるところであるが、『技術科』は如何なる見地からみても、普通教育として成立 する」という指摘がなされているし(ミ)さらには、各方面から「『技術科』を中心にして(技 術・家庭科を)再編成する」(括弧内は筆者)見解や「『技術科』のみ考える」見解が提起さ れつつあるという誓)論調に強弱はあるものの、多くは家庭科の存在意義もしくは教科として
の独自性を過少に評価しているようである。しかも、このような傾向は、中学校における技術科と家庭科という比較的狭い範囲での問題にとどまらない。たとえば、小学校における家
庭科教育の内答の一部が実質上家庭科としての体をなさない内容のものに変えられようとし
ており、その試みがすでに実行に移されているという指摘もある慧)教育体系全体、カリキュ
ラム全体のなかにおいて、家庭科の存在が問われようとしているのである。
家庭科とは何か。そもそも、現代社会において家庭はどのような意味をもつのか。ことは、
より根源的な問題にかかわる。そして、この間いかけは家庭科の背後に控えているといわれ る家政学のあり方に及ぶ。家庭科の危急存亡にかかわる事態にかりに家政学が対処しえない とするならば、それは家政学自体に問題があるからではないか。あるいは、家庭科における
危機の発生自体が、多少なりともこれまでの家政学のあり方に由来しているのではないか。
このような問題意識にもとづいて、本稿では、まずこれまでの家政学の展開過程をふり返
り、不十分な点または欠落している視点を指摘する(2.)。そして、必要とされるであろう 新たな視点について検討する(3.)。その後に、家庭科の内容のあり方について若干示唆し ておきたい(4.)。
2.わが国における家政学の展開と問題点 (1)家政学の展開一系譜論的な把握一
家政学には、栄養学・衣料学等の自然科学的な研究、調理・被服製作等の技能習熟を中心
にした研究、家族関係や家庭目標についての人文科学・社会科学からの研究など、きわめて多様な領域と方法が含まれる。ここでは、そのうちから、「家庭ないし生活の改善と合理化を 方向づけるための総論的な研究」をとりあげよう。このような研究には、現在さまぎまな名 称が付されているようである。たとえば、家政学、家政学原論、家庭経営学、家政経営学、
家庭管理学、生活管理学、……等々の名称がある。もちろん、これらの名称によってさし示
されるものは、それぞれ、後に述べるような立場ないし方法上の特徴をもっている。しかし、
過度ともいえる名称の細分化は、あたかも研究の対象と方法をまったく異にするかの印象を
与え、共通の場での議論を困難にすることがあるので、場合によっては好ましくない。ここでの議論のように、「家庭ないし生活の改善と合理化を方向づけるための総論的な研究」のあ わが国における家政学の系譜
明 治 維 新
第一次世界大戦 昭
和 恐 慌
第二次世界大戦 高廣経済成長
明 治
20年
〈近代経済学〉‑‑‑‑‑‑ 主体均衡論的家政学
り方に、全体的な反省を試みようとする場合には、むしろこれらのすべてを家政学とよんで
おく方が適切であろうピ)
さて、この意味での家政学には、当然のことながら、その立場と方法に多様性がみられる。
これを系譜的に示すと、前頁の図のようであろう慧)
以下、ここに示されたいくつかの家政学の考え方について、特徴を要約しておこう。
i)人間生活にとって家庭という場ないしわくぐみが本質的に重要であるという認識のうえ に、家庭生活主体が家庭の内的外的な条件変化に適応してゆくための方途を、具体的・実際 的に示してゆこうとする。これは、伝統的家政学とよぶ考え方にみられる特徴である。ただ し、家庭という場ないしわくぐみがなぜ重要であるのか、家庭運営上のさまぎまな方策がど の程度に客観的な根拠にもとづいて与えられるのか、こうした点を強調するとき、伝統的家
政学のうちにも時期的に三つのヴァリエーションが見い出される(g)
幕藩期には儒教教義や家訓などに形式化された家政思想が家庭運営上の拠り所になってい
たようであるが、この傾向は明治期にも受け継がれたど)一方、文明開化とともに断片的にで はあるが、西欧の家政思想も紹介され始めた。これらが統合され始めるのは、大日本帝国憲
法や民法(旧民法第一次案)が制定される明治中期である。意識的にまとめられ始めたこと を重視して、ここに形成されたものを、伝統的家政学(1)とよぶことにしよう。
しかし、いちおう家政学とはよばれるものの、伝統的家政学(1)は内容的には必ずしも
体系的な性格や近代科学としての性格を備えるものではなかった。規範的な「家」維持藷と
西欧的個人主義観にもとづく家政論との形式的な折衷、ならびにこれらと論理的な関連をも たない家事処理事項の説明にとどまっていた。むしろ、伝統的家政学の展開は、この限界が 長い期間を経て克服される過程であった。
まず、家庭というわくぐみと家庭運営改善の手だてを、客観的・分析的にとらえてゆこう
とする気運が、家庭生活の全般的な疲弊を契機に生まれる。すなわち、部分的にはすでに明 治中期頃からすすみつつあった農村生活や都市生活の疲弊が、第一次世界大戦後から昭和初
期の経済恐慌にかけて、さらに広く深〈進行する。これを直接的な契機に、当時展開し始めていた自然科学や社会科学の影響のもとで、種々の角度から家庭生活が分析的にとらえられ 始める。栄養学、住居学、社会学、経済学等の分野で、家庭生活を対象にした研究がなされ
始めるのである。たとえば、社会学では、当時ようやく開始された統計調査(第一回国勢調
査;大正9年)の結果を駆使して、家族構成についての研究が行なわれる誉)ァ・プリオリに措
定された分析不可能な「家」ではなく、形式的、擬制的な見方ではあれ、個人の結合によって形成される集団としての家族という見方があらわれ始めるのである。あるいは、農家生活 の立て直し、とくに農業経営の合理化については、農業経営主体における適切な費用意識へ のめぎめとそれをふまえた費用節約的な行動こそが、まず望まれた。そのために、経済学の
立場から、農家会計ないし農家簿記の理論的わくぐみの整備や農家・農業経営における費用
概念の確立などの研究が始められるようになる望)もちろん、これらの諸研究は、既存の家政
学ではなく、家政学の周辺に位置する領域においてなされたものである。したがって、こう した研究の発生を家政学自体の自律的な発展としてしまうことは誤りである。だが、ここに あらわれた研究方法や研究成果は、やがて既存の家政学にとりこまれ吸収されてゆく。その
意味で、ここに伝統的家政学が新たな段階にたち至った、すなわち伝統的家政学(2)が形
成されたとみることは許されるであろう。こうして方法的、内容的に豊富化され始めたものの、戦前期の家政学は、いわば宿命とし て、「家」の維持昂揚を不可欠の命題として課せられていた。一種のイデオロギーとしての「家」
が払拭されて、客観的ないわゆる科学としての家政学があらわれるのは、第二次世界大戟後 の民法改正以降においてである。ここに至ってようやく、家庭の構造と機能の分析的把握、
「家」から演鐸される目標ではなく家族員の結合体ということから派生する家庭目標の模索、
そしてこれらと整合的でありしかも科学にうらうちされた管理手段の提示をめざそうとする
観点が明確になったのである。これをもって、伝統的家政学(3)の形成ということができ
よう。
ii)ところで、家庭運営の合理化は家政主体の目的合理的ないし機能的な行動により実現さ れる。そこで、目的合理的ないし機能的な行動とは何か、この点をつきつめることが、ある 意味で決定的に重要である。目的意識が希薄な肉体労働のみからなる家事労働過程ではなく、
精神的、目的意思的な意味での主体性をともなう家事労働過程とはどのようなものであるか、
ということを示すことの重要性である。
この点について分析し定式化するための有効な素材は、現代の社会で最も機能的な存在で
ある資本制企業の組織と行動に求められる。すなわち、多額の資本を基盤に膨大な量の人(労
働力)と物(資本財)を擁する現代企業において、効率性を維持する重要な鍵の一つは、情 報伝達をめぐる分業システムにある。Plan(計画)‑→Do(実行)‑→See(評価、調整)
というマネジメント・サイクルが円滑に作動する組織を形成してこそ、企業目的は達成され るのである。成功的な資本制企業に見い出されるこの事実を経営的な特質をもつすべての組
織にあてはまる普遍的な原理として抽象化したうえで、家庭という人的物的な組織に擬制的 に適用しようとする立場があらわれる竺0)これが、経営管理論的家政学である。そこでは、複 数の主体からなる分業システムではなく、家事労働を担う個別主体(たとえば主婦)の行動 が着目される。そして、家事労働を担う主体の行動に、肉体労働である熟練技能(Do)だけ
でなく、事前的な計画意思(Plan)や事後的な反省意思(See)がともなっているか、ということが問題にされるのである。
iii)大正末期から昭和初期にかけて発生した生活問題はきわめて深刻なものであったが、そ の打開をめぐっては、大きく二通りの考え方があった。一つは、伝統的家政学に端的なよう に、個々の家庭や個々の生活主体をして、合理的な生活意識にめざめさせかつ合理的な生活 態度を堅持できるように誘導してゆく方向である。いま一つは、生活の困窮を、資本主義経 済体制がもたらす社会的、構造的な問題ととらえ、その止揚を社会的ないし集団的な取り組 みに求めようとする方向である。たとえば、資本主義経済体制自体の超克を意図する種々の
社会運動、体制内的かつ体制批判的な協同組合運動などが、その有効な手だてとされた。
後者の方向での生活問題の止揚は、それ自体家政学の範囲におさまりうるものではない。
また、農村における地主対小作関係や都市における資本家対労働者関係という生産関係の改 変を積極的に目論むことは、当時の情勢下ではきわめて困難であった。むしろ、このような 方向を意識する人々が比較的容易に着手しえたのは、生産関係の改変ではなく生産力の増強 にかかわる部分についてである。その場合、とくに、国策遂行という時局の要請に沿いしか も現実の生活問題の改善にとっても緊要であるところの、銃後における労働力の再生産の円 滑化とそのための物質的条件の模索が課題にされた。最低生活費の研究や、日常生活にみら
れる非合理性の指摘などは、その例である。そして、ここで特徴的なのはその視点である。
消費生活だけでなく労働生活をも含む生活全体が問題にされ、しかも社会経済的条件に強〈
規定される構造的なものとして生活がとらえられたのである。以上のような考え方を、生活 構造論的家政学とよぶことにしよう。
この考え方の基調は、戦後にも受け継がれる。高度経済成長期以降、わが国の家庭生活に は大きな変化があらわれた。生活の社会化が多くの生活領域で進行し家庭に自己完結的な機 能を見い出すことが難しくなる、あるいは公害、消費生活上のトラブル、さまざまな局面で の人間疎外など経済成長のかげで有形無形の弊害が生じる、といった変化である。こうした
事実は、消費生活、労働生活をとわず、われわれの生活全体が資本主義経済体制(その担い 手である独占資本)に強く規定されていることを、あらためて印象づける。そして、これに
気づいたとき、伝統的家政学や経営管理論的家政学のような環境への適応という消極的な態 度ではなく、より積極的な態度に向かわざるをえない。資本が生活を規定している実態を正確に把握したうえで、資本による支配を監視しこれに対抗(countervail)してゆく方向での 研究こそが重要になる。こうした立場を強く表わすものを、生活管理論的家政学とよぼう̀ご' (2)家政学の問題点一家政目標の検討‑
i)わが国の家政学の展開は、以上のような諸潮流においてとらえられるが、ここでは現在 支配的である伝統的家政学(3)、経営管理論的家政学、生活管理論的家政学について、その 性格を検討しておこうど)その際、とくに家政(家庭)目標のとらえ方を中心に検討する0け だし、家政(家庭)についての基本的な認識態度は、目標のとらえ方に最も端的に反映され
るからである。
家政の目標を一義的に示すことは難しいが、家族全員の幸福の実現や福祉の向上と考える ことにまちがいはないであろう。幸福の実現や福祉の向上は、物質的(経済的)な安定と内 面的(精神的、情緒的)な安定という二大要因に依存している0したがって、物質的安定と
内面的安定とを家政の目標と考えて、そのための手段を選択する過程を問題にすることがで
きる。このような理解は伝統的家政学(3)にみられるが、経営管理論的家政学においても、
ほぼ同様のことが「価値」という側面から展開される。たとえば、以下のようである㌘)幸福 すなわち「真の意味」の「人間形成」は、「其・善・美」という「本質的価値」を実現するこ
とによって達成される。そして、「本質的価値」の実現という最上位の目標は、「健康、安全、
快適、平等」という「手段的価値」(最上位の目標に対しては下位目標)の実現によって達成
される。この「手段的価値」を実現するためには、さらに相対的に下位の目標を設定し、それを実現する手段を模索し選択しなければならない。こうした一連の過程を追求することを、
家政研究の課題とするのである。
このような目標論について、否定はしないものの、主観的(願望的、理想的)に過ぎると いう指摘が生活管理論的家政学でなされる。客観的な観点からとらえられた家政目標こそが
重要だというのである。すなわち、資本が家庭にきびしく要請しかつ家庭にとってもそれを 無視すれば生活の危機につながるであろう「労働力の再生産」、これこそが資本主義という特
殊な歴史的条件とのかかわりにおいて、第一に認識されるべき目標だというのであるoii)以上のような家政目標論とのかかわりでみるとき、家政学にはどのような問題点が見い 出されるであろうか。これを検討するには、家政(家庭)と社会との関係をあきらかにして ぉく心要があるが、さしあたって次のようなとらえ方に依拠することにしよう。すなわち、
家政(家庭)はそれがおかれた客体的条件において、これに規定されながら、しかも主体的
にはたらきかけることにより、生活を継続してゆく0いいかえれば、「社会経済から相対的に
自立化し、一定範囲内で自律的運動をする」のである竺4)
さて、伝統的家政学(3)や経営管理論的家政学でいわれる幸福の追求や「本質的価値」
の実現が、われわれの家庭生活においてきわめて重要であることは、いうまでもない。だが、
こうした目標は、家庭という場を共通にする集団があらゆる地域とあらゆる時代において、
主観的(願望的、理想的)には常に追求するところの、超歴史的な目標である。この点につ いては、生活管理論的家政学が指摘するとおりである○家政(家庭)と社会との関係をめぐ る上述のとらえ方に即していえば、伝統的家政学(3)や経営管理論的家政学は、個別家庭
の自律性あるいは個別家庭内での主体的努力を過大に評価しているのである。一方、生活管 理論的家政学にみられるように、資本主義社会という外的な条件によって家政目標がいわば 他律的に規定されてしまうという見方は、「相対的に」ではあれ個々の家庭がもつであろう自 律性を無視しているという意味で、規範的に過ぎる。以上のような家政目標のとらえ方によれば、実在的な家政目標を客観的に把握することは 困難である0そして、このことは、家政学がその出発点においてすでに現実把握を放棄して
いることを意味するのではなかろうか。
目標のとらえ方に端的にあらわれる現実把握力の欠如は、家政学にさまぎまな問題をひき 起こす0たとえば、歴史的な観点をふまえた類型的な把握にむすびつけられようとはしない
実態調査とその安易な累積、必ずしも適用の場があきらかにされない家事処理技術研究、と いうように、家政研究のいくつかの分野の間に生じる不整合もそのひとつである。このこと
は、草創期よりこのかた家政学が終始求めてきた実践的性格を逆に減殺してしまうものではなかろうか。
それにもかかわらず、しいて実践性を強調するとき、家政学の独自性と体系性は破られる。
たとえば、すでに述べたように、伝統的家政学(3)や経営管理論的家政学において、家政
ないし家庭運皆の合理化は目的合理的な人間行動に依存する。その場合、まず問題にされなければならないのは、目的合理的な行動をとりうる人間(類型)はとのような条件すで生ま
れてくるのかという点であろう0同様に、生活管理論的家政学の実践性は、家庭生活上の矛 盾を社会経済の歴史的発展法則の上に位置づけてとらえ、かつ家政主体自身が行動する、と
いう意味での主体性の如何にかかっている0そして、ここでも、まず問題にされなければな らないのは、このような主体的行動をとりうる人間(類型)がどのような条件下で生成する
のかという点であろう0このような点を実証的に検討しようとする配慮を欠いたまま、性急 な実践論に向かうとき、問題と方法はもはや家政学の領域から逸脱する。主体性をもった人
間をいかにしてつくり出すかという、ある種の能力育成論または教育論に陥らぎるをえなくなるであろう。
3.家政学の基本的なわくぐみ
(1)経営学としての家政学
現実把握への配慮に欠けていた(もちろん、アンケート方式などによる個別的、局部的な
実態把握は数多くなされている0しかし、これらを体系的な視野で総合してみようという意識はあまり感じられない0)こと、このことが実践性をも後退させる結果に導いたことが、家
政学の展開過程にみられる傾向である。ところで、実践性といい現実把握といい、両者はどのような関係にあるのであろうか0実 践性の追求という目的のもとになされる自然科学的な研究、家計・時間・家族関係を管理す
るための技術的・制度的な研究、あるいは家政主体の能力を育成滴養するための研究などと、
家政目標論を中心に据えてなされるべき現実把握のための諸研究とは、どのようなかかわり にあるのであろうか。これは、家政学における基本的な立場と方法をめ〈‑る問題である0
この点について考えてゆく場合、経営学(企業経営学)においてそれが対象とする企業(経 営)をどのようにとらえているのか、このことからみてゆくのが好都合であろう0家庭とい
ぅ組織についてそのしくみとはたらきをみようとする家政学は、企業経営学、農業経営学、
官庁等の非経済的(営利を追求しないという意味での)組織の経営学などからなる広い意味 における経営学の特殊分野を構成する隻5)その意味で、同じく広い意味での経営学の一特殊分 野である経営学(企業経営学)の成果をふまえつつ、一定の範囲内においてではあるが、ア
ナロジカルに考察することができると思われるからである0(2)経営学における「企業」と「経営」
i)企業および経営という用語に着目してみよう。両者は、通常は、ほぼ同義のものとして
用いられる。しかし、やや立ち入ってみると、両者の間には看過しえない、本質的ともいえるちがいがあることがわかる。通常用いられるところの広い意味でのあるいは漠然とした企
業(経営)概念に対して、狭い意味でのあるいは厳密な意味での企業および経営の概念が存
在するのである。企業(Unternehmung)概念および経営(Betrieb)概念の明確な定義と区別は、ヴューバ
ー(M・Weber)に始まるといわれる慧)それによれば、両概念は以下のような内容である0
近代においてもそれ以前においても、経済活動は、営利の追求という目的意識に導かれて 遂行される。この営利追求という目的意識こそが、「企業」の本質である0
だが、営利追求を内容とする「企業」の活動が拠り所とする客体的・主体的な基盤、なら びに営利追求という目的意識に導かれてとり行なわれる管理活動の性格に着目するとき、近 代(資本主義化した社会)とそれ以前とではちがいがみられる。すなわち、「市場における自
由な競争」の一般化という客体的条件において、「専門的な修練を積み特定のSache(ものご と)に対して義務として献身するような人間類型」である「『専門人』Fachmenschenturm」
の発生という主体的条件において、近代は、それ以前とは異なる0そして、この条件をふま ぇて、「『貸幣計算』Geldrechnungとして現れてくる形式的合理性(formaleRationalitats) が、市場関係のうちに貫徹され、さらにまた経営体の内部においても、合理的な『資本計算』
Kapitalrechnungとして貫徹される」ようになるなど、エートス面での変化もあらわれるど) 労働力(「専門人」)と物的生産手段(とくに増加する固定資本財)の持続的なむすびつきと
いう技術的な特質と、技術的な特質を内面から支えかつこれに規定される形式的合理性とい うエートス面での特質によって、近代の経済活動は特徴づけられるのである。そして、この ような諸特質を備えた技術的な組織体とこれを基盤にして〈りひろげられる活動こそが、「経 営」なのである。歴史上にあらわれる「企業」が、必ずしもすべて「経営」としての属性を 備えているのではないのである。
経済史的な観点からここに提出された「企業」および「経営」の概念は、経営学の展開過 程においても重要な役割をはたす。たとえば、いわゆるドイツ経営学方法論争では、経営学
の対象を「企業」に求めるかそれとも「経営」に求めるか、ということが主要論点の一つで
あった0論争の過程で「企業」および「経営」の概念がさまぎまに定義されたが、前者が経 済活動を支配する目的意思的カテゴリーに属し、後者が経済活動の掛)所である技術的カテ
ゴリーに属すということでは、多くの見解はほぼ共通している。ただし、「経営」概念につい ては、技術的な組織体という特質の方が形式的合理性というエートス面での特質よりも強調
され、特殊に歴史的(近代的)な性格は希薄化する0逆に、「企業」概念については、人間に
普遍的な性向である営利追求意欲ではなく資本主義という歴史的条件によって賦与される営 利追求意識が強調され、特殊に歴史的な概念という性格が濃くなる。つまり、歴史性という
観点から両概念を対比するとき、ヴューバーの見解とドイツ経営学にあらわれる諸見解とは 一致せず、むしろ逆の傾向を示している0そして、後の経営学においては、後者の見解の方 が支配的になる。
ii)「企業」および「経営」の概念をめぐっては諸説があるが、われわれにとってさしあたっ て重要なのは、両者の絡みあいにおいて具体的な企業(経営)がとらえられるという認識で ある0かくて、歴史的に展開してゆく企業(経営)に内在する「企業」、「経営」という二つ
のモーメントのうち、いずれのモーメントがより規定的であるかという点が問題になる。現実の企業(経営)は、そのうちに資本財や労働力などの生産要素を長期固定的に結合さ
せている0そして、長期固定的な生産要素の結合体は、それ自体、固有の管理を要請する。たとえば、固定設備等の物的基盤を永続的に維持してゆくに足りるだけの償却資金の蓄積、
常備労働力に給付しうるだけの成果の達成、そのための稼動率の向上が必要であろう。ある いは、生産量を増大させるために、生産段階に応じた適切な管理も当然必要であろう。技術 的組織体あるいは生産技術、いいかえれば技術的カテゴリーによるこのような要請は、上述の 議論に即してみれば、厳密な意味での経営から発する要請ということができる。
しかし、「経営」から発する要請が企業(経営)における経営管理のあり方を全面的に決定
するのではない0むしろ、技術や「経営」に固有の論理を把握したうえで、これを意識的に利用するところにこそ企業(経営)活動の特徴がある。すなわち、目的意思的カテゴリーに よる技術的カテゴリーの包摂であり、「企業」による「経営」の規定である。
iii)「企業」と「経営」の緊張関係、前者による後者の包摂としてとらえられるのであるが、
さらにすすんで、「企業」、すなわち企業(経営)の目的意思を支配する要因は何かという点 を問題にしよう0この点についての積極的な展開は、経営学の一分野である企業形態論にみ
られる乞粉企業形態論においては、企業(経営)と他の経済主体との社会的ないし経営経済的 な結びつきと関連づけて、企業(経営)目標が考察される。なかでも重視されるのが、生産 要素とりわけ資本をめぐる所有関係(信用機構、資本集中のあり方)である。所有関係に規 定される企業(経営)の目標、目標に導かれてとり行なわれる経営管理の形態について、客 観的把握を行なおうとするのである。
ちなみに、そこに見い出される目標は、企業(経営)者が主観として抱くものでも、経済
体制とのかかわりで他律的に措定されるものでもない。私的利益の追求という主観的なところから発する目標にはちがいないが、企業(経営)をとりまく外的な条件のもとで客観化さ
れた目標である0また、利潤追求という資本主義経済体制に規定される目標にはちがいないが、個別的、具体的な次元においてとらえなおされた目標である。
(3)家政学の対象と方法
i)試論的にではあるが、同様の議論を、家政(家庭)を対象に行なってみよう。その場合、
家政(家庭)において、企業(経営)における「企業」や「経営」にあたるカテゴリーない しモーメントは何か、この点がまず問題になる讐
家庭は、家族員の集合体という人的組織、および土地・家屋・耐久消費財をはじめとする 種々の生活資材からなる物的組織のうえに成り立っている。そして、われわれは、随時この
人的物的組織にはたらきかける。食料や衣料の調達と準備、住居や耐久消費財の調達や修繕、
余暇と労働の配分、育児、教育、看護などは、その例である。いうまでもなく、このような
管理が行なわれるのは、「健康に」、「安全に」、「快適に」、「平等に」生活しようとするためで
あり、究極的には「幸福であろう」、「本質的価値の実現をはかろう」とするためである。さまぎまな家庭でこのようなはたらきかけまたは管理がなされるのであるが、具体的ない
し歴史的にあらわれる家庭管理の形態には差異がみられる。たとえば、明治期における家庭と現在における家庭、都市家庭と農村家庭、「終身雇用」・「家族ぐるみ」という日本的雇用体系 に〈みこまれた家庭とそうでない家庭、……これらの間には、消費行動や家族関係の維持の しかたなどをめぐって、何がしかの差異が見受けられるのではなかろうか。このような比較
考察を、数多くの家政(家庭)を対象にさまざまな管理の局面について多面的にかつきめ細
かくすすめてゆくとき、家庭管理の形態は多様でありしかも類型的把握が可能であることに 気づくのではなかろうか。家族員の多少や年令性別構成などの個別家庭的要因、家政主体の価値観、好みや能力などの個人的要因、こうした要因が作用するために、家庭管理の形態は、
食事準備や掃除のしかたといったご〈局部についてさえも、無限といってよいほどに多様で
ある。しかし、自然的条件、社会的な生産力(それを基礎にした所得水準や家事技術の水準)、
家庭と他の主体(企業、政府、伝統的な相互扶助組織、近代的な協同組織など)とがとり結 ぶ社会的諸関係、さらに広くは文化的諸環境などの客体的諸条件と関連づけてみるとき、管
理形態の多様性を類型的な差異としてとらえなおすことができると思われるのである。ここで客体的ないし外的な諸条件をとりあげるのは、これらが家庭における管理にとって 次のような意味をもつからである。すなわち、所与の目的と一定の制約条件のもとで最も効 果的な手段を選択し行使することが管理だとすれば、外的諸条件の変化による家庭管理への 影響は、第一に制約条件の変化を通してあらわれる。所得水準の上昇や家事技術水準の高度 化などは、概ね、予算的制約の弛緩、選択可能な代替的家事技術の種類の増加をもたらす。
その結果、消費内容の高度化や省力的家事技術の導入など、家庭管理の形態に変化が生じる のである。
外的諸条件による家庭管理への影響は、第二に、家政目標の変化を通してあらわれる。家 庭管理の一つの局面である財・サービスの購入を例に、この過程をみておこう。
ア)耐久消費財の購入過程において、デモンストレーション効果が存在することが指摘さ
れている。購入者(家庭)自身にとって真に必要であり購入可能だからというよりも、
周囲の人々(家庭群)の購入状況に触発されて購入してしまう傾向があるというのであ
る。
イ)生産物に対する需要を生産者である企業自らが創出するということが、よくいわれる。
いわゆる依存効果であり、消費者主権の危機を意味する。自己の満足度を最大にすべく
財・サービスを購入しているものと、個々の消費者(家庭)は確信しているかもしれな
い。しかし、「満足感」の内容を客観的にみるとき、それは、寡占企業体制のもとで創出
された社会的価値観に強く支配されているのである誉)
いる0これについては、ア)、イ)による影響も大きいが、一方、個別家庭における主体 的要因が作用していることも見逃せないのではなかろうか。主婦をも含む家族員の多就 労化や所得水準の上昇が、家事労働に対する機会費用意識の発生を促したり、家事労働 の苦痛度と所得から得られる効用との相対関係に変化をもたらしていることも考えられ
るのである乞1)
財・サービスの購入という家庭管理過程を導く家政目標が、他の家庭や企業などとの間で
の社会的な結びつき、あるいは経済発展の状況などによる影響を受けることを、上のいくつかの例は示唆している0このことから推察されるように、家庭の管理過程を支配する家政目
標は、一般に、外的諸条件による規定を免れないであろう。
以上のように家政(家庭)の展開をとらえるとき、そこに二つのモーメントを見い出すこ
とができる0その一つは、人的物的な組織を基盤に主観的な目標に導かれて問題解決的な行動をとる、というモーメントである0これは、家政(家庭)という組織体に超歴史的にみら れる特質であり、あえてなぞられえれば家政における「経営」的側面といえよう。他の一つ
は、具体的な管理過程を支配する目標が歴史的に変化するという、外的諸条件とのかかわり でとらえられるモーメントである0これは、企業(経営)における「企業」に相当するモー
メントともいえよう(㌘)
ii)以上の議論をふまえるとき、家政研究においては、次のような課題が求められる。第一 の課題は、家政(家庭)が展開してゆく前者のモーメント、ならびにこれに関連する諸問題
を明確に把握することである0家庭という社会的経済的組織体が他の種類の組織体に比べて 示す基本的な特徴‑とくに目標について‑を、人文科学・社会科学全般にわたる広範な 視野においてとらえてゆくこと、家庭運営の基本的な原理を定式化すること、あるいは現実に生起している技術的、制度的な諸問題の把握などが、その内答である。第二の課題は、家 政(家庭)の展開を導く後者のモーメントの把握についてである。さまざまな社会的諸関係 や文化的環境のもとで、家政(家庭)は現実にどのような行動目標ないし行動原理をもつよ うになっているのか、こうした点での多様性を類型的に把握してゆくことである。従来の家 政研究は、第一の課題に重点をおいていたといってよいであろう。今後、第二の課題へと研 究の重点を移行してゆくことが望まれる。
このことは、家政学の実学志向のあり方に変化を促す。すなわち、現実把握を軽視してい
きなり問題解決に迫ろうとするのではなく、家政(家庭)主体の展開の客観的把握から得ら
れる成果を十分にふまえて、むしろ家政学の埼外において問題解決のための政策論ないし技 術論を展開すべきであろう0かくてこそ、間接的ではあれ、家政学は実践性という究極的目的により十分に寄与しうるのではなかろうか。
4.家政学と家庭科一家庭科教育の目標一
前節で、家政(家庭)の展開を二つのモーメントの緊張関係においてとらえることの必要 性をみた0これは、家政学をして、家政(家庭)の展開に関する客観的把握の学たらしめよ
うとする意図による0しかし、客観的把握の学(Sein論)である家政学と、何らかの意味と
程度においてあるべき姿に関する議論(Sollen論)を含むであろう家庭科教育論とを同一視
することはできない0かといって、両者を互いにまったく独立的なものとしてしまうことも許されない。家政学上の接近方法またはその成果が家庭科教育の内容にどの程度に反映され うるか、という視点こそが重要であろう。
周知のように、文部省学習指導要領によれば、家庭科の教科目標は、日常生活上必要とさ れる基礎的な知識や技能(技術)を修得すること、および家庭生活をよりよくしようとする
実践的態度を養うこと、という二点におかれている讐)これらが教科内容として具体化されて
いる実態についての詳細な検討を経ない推測的な議論は危険であるが、ここに示された教科目標をみるかぎりでは、前述の家政(家庭)展開上の第二のモーメントが意識されていない のではないかと懸念される。社会経済の激しい変化とともに進行する生活形態や価値観の多
様化が指摘される今日、家庭管理のさまざまな局面や過程を支配する目標も複雑化しているであろう。社会経済条件とのかかわりにおいて形成されるこの家政目標と、主観的・理想論 的に与えられる家政目標とをきびしく対比させ、そこに見い出されるであろう甑歯吾ないし矛 盾を認識し自覚してゆ〈過程が、上の家庭科教育目標からは十分に読みとれないのである0
現代社会において家庭管理を支配し導いている目標が十分に把握されないままに、問題解 決的態度のみが強調されるとき、あるいは家政(家庭)の目標が超歴史的な価値観のみにむ すびつけられるとき、家庭科は容易に技術科や美術科等の他教科のうちに分散解消してしま
うであろう。これを避けようとするのであれば、上のことはなおさら重視されなければなる まい。
以上、家庭科をめぐる現状から出発して家政学の対象と方法へ、そして再び家庭科教育の 目標へと、試論的に議論をすすめてみた。だが、ここでは、家庭科や家政学が対象とする家 事技術と技術科が対象とする技術との間の本質的な相異についての検討や、現行家庭科の教 科内容についての詳細な検討など、議論の前提として十分つめておくべき諸問題にはふれる
ことができなかった。こうした点についての検討は、他日を期したい。
(註)
(1)神谷清・加藤英雄「技術・家庭科教育における男女相互乗り入れの意義」(『技術・家庭科の男
女学習に関する研究』、1981年、愛知教育大学技術・家庭科研究会、愛知技術教育学会)、3頁。
(2)神谷清・加藤英雄・水谷誠「『技術・家庭科』の性格と問題点一教科別勺の検討‑」(前掲
『技術・家庭科の男女学習に関する研究』)、19、20頁。
(3)たとえば、いわゆる「上越プラン」について、い〈つかの報告がある0
(4)本稿で「家政学」というとき、以後、とくに断らないかぎり、この意味での家政学をさす0 (5)本稿で用いる「伝統的家政学」、「経営管理論的家政学」、「生活構造論的家政学」、「生活管理論
的家政学」、「主体均衡論的家政学」などの用語は、大方の了承を得たものとは必ずしもいえない0 その意味で、暫定的な用語法といってもよい。なお、ここでは、とくに経済学、経営学と関連づ
けながら系譜論的把握を試みている。
(6)常見育男『家政学成立史』(1971年、光生館)が参考になる。ただし、同書は、系譜論的な整理 という点において十分とはいえないようである。
(7)もちろん、この種の家政思想が当時のすべての家庭を支配していたわけではない0川島武宜氏 は、封建武士的「家」および民衆的「家」という二類型の家政思想が存在していたという0川島 武宜『日本社会の家族的構成』(1950年、日本評論社)を参照のこと。
(8)たとえば、『家族構成』(1936年:1970年復刻版、新泉社)に代表される、大正末期から昭和初
期にかけての戸田貞三氏の業績をみよ。
(9)たとえば、大槻正男氏は、限界効用学派の経済理論に依拠することにより、農家簿記の基礎理 論を構築し始めた。
(10)一定の目的を軸にした人や物の集まりで、永続性を予定するもの。そして、そこに、人が物を あるいは人が人を管理する過程が見い出される0このような場合に、「経営的な特質」が備わって
(11)家政学に含めてしまうことは必ずしも適切とはいえないが、このほかに主体均衡論的家政学が ある。稀少資源の適正配分が経済学(とくに近代経済学)の重要な課題の一つであるが、この命 題を家庭という場を対象に検討しようとする(家計の理論)のである0家庭が保有する労働(力)、
資産、貸幣を効用最大化目標と一定の制約条件のもとで最適に配分し、消費選択、長期的な資産 管乳余暇と労働への時間配分などのあり方を示そうとするのである。「不確実性」概念の導入な どによって、近年、研究内容は複雑化されつつある。
(lカ
ニれらの考え方を代表すると思われるものを挙げておこう0伝統的家政学(3)については、松平友子『家政学原論』(1968年、光生館)、経営管理論的家政学については、松下英夫・今井光 映編『新家政経営論』(1967年、法律文化社)、生活管理論的家政学については、宮崎礼子・伊藤 セツ編『家庭管理論』(1978年、有斐閣)などをみよ。
(1劫
加勢川尭『新家政論』(1979年、明文書房)、80〜82頁。(14)吉田息編著『農業経営学序論一対象と方法‑』(1977年、同文舘)、80〜82頁。なお、この ような見方については、家族農業経営を対象に論じている、拙稿「家族農業経営の構造的把握に ついて一方法論的考察‑」(『農林業問題研究』第14巻第3号、1978年)、拙稿「家族農業経営 における経営構造の展開と『農業所得』の変質」(『三重大学教育学部研究紀要(社会科学)』第33 巻、1982年)を参照のこと。
(用
平井泰太郎氏に代表される個別経済単位説の立場である。(1O大塚久雄「≫Betrieb≪と経済的合理主義」(『大塚久雄著作集・第九巻』、1973年、岩波書店)、
448頁。
(17)同上、457頁。
(用
占部都美『企業形態論』(1969年、白桃書房)などを参照のこと。(畑「家政からの分離という事実を、近代西洋における経営の、あるいは完成した姿における経営 の決定的な特徴」とみるヴューバーにおいては、家政(家庭)に「経営」を見い出すことはでき ない0家政が、「有目的的行為としては、断続常ならず、そもそも技術的な持続性など備えていな い行為」だからである(前掲大塚「≫Betrieb≪と経済的合理主義」、446、447頁)。対照的に、ド イツ経営学、なかでもニッタリッシュ(H・Nicklisch)のように、「価値を捉えて生産することばか
t)ではなく、欲求充足のために価値を準備することをも……経営の問題とする」場合には、あら ゆる種類の経済単位が「経営」としての性格を備える(中村常次郎『ドイツ経営経済学』、1982年、
東京大学出版会、525頁)0当然、家政(家庭)にも「経営」的契機が含まれる。
伽)J・K・ガルブレイス(久我豊雄訳)『経済学と公共目的』(1975年、河出書房新社)を参照のこ
と。
¢1)G・S・ベッカー(宮沢健一・清水啓典訳)『経済理論』(1976年、東洋経済新報社)などにみら れるシカゴ学派的理解である0ベッカーらの¶極端〝な見解も、それぞれの時代や地域における 経済風土的脈絡のなかでとらえなおすと興味深いであろう。
¢カ家政(家庭)の展開を、二つのモーメントからなる二元的なものとみようというのではない。
家政学および後に述べる家庭科がかかえる問題を明確にするために、二つのモーメントをあえて
分離しているのである。いずれのモーメントを規定的なものとみるかについては、詳しい検討が 必要であろう。