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現代日本社会における「人文学擁護論」の批判的考察

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中央大学政策文化総合研究所準研究員

Associate Fellow, The Institute of Policy and Cultural Studies, Chuo University

「日本社会の持続可能性:経済と環境と福祉の相互補完の総合政策研究」プロジェクト

現代日本社会における「人文学擁護論」の批判的考察

―人文学と「生きづらさ」の出会い損ねについて―

山 内 勇 人

Critical Consideration of the Discourses against the Crisis of Humanities in Contemporary Japanese Society:

On the Failed Encounters between Humanities and Angst

YAMAUCHI Hayato This paper considers the defending discourses against the crisis of Humanities in contemporary Japanese society. It focuses on the relevance between the usefulness of Humanities and the potential “needs” in those who suffer from angst (ikizurasa). In the first part, it delineates people who are suffering from angst and their features. Those with such features are not defined by sense of belonging. They may be compatible with social norms. They are trapped between individual desire and social norms. Also, they may lack analytical tools to segment and describe their condition or desire. The second part displays three models of Humanities discourses found in Japanese society emphasizing on its “usefulness.” As a conclusion, this paper shall argue that all three available models tend to alienate the people suffering from angst.

キーワード:人文学の危機,人文学,人文学擁護論,生きづらさ,有用性

Key Words : The Crisis of the Humanities, Humanities, discourses against the crisis of Humanities, Angst, Usefulness

は じ め に

 近年「人文学の危機」に関する論考や著作の発表が相次いでいるのは,間違いなく 2015 年 6 月 8 日に文部科学省大臣決定として通知された「国立大学法人等の組織および業務全 般の見直しについて」の影響である.この通知は,「教員養成学系学部・大学院,人文社会 科学系学部・大学院」について,「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」を国立大 学法人に求めるものと読めるものであったため1),その発表直後からマスコミや学界が批

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判の声をあげ,人文学の価値を論じ,守ろうとする言説,すなわち本論が「人文学擁護論」

と呼ぶ言説が大量に生み出されることになった.

 雑誌の特集やシンポジウム開催など盛り上がりを見せた人文学擁護論においては,教養 ある市民の涵養,自文化・他文化の理解の深化,自立的思考の確立,批判的認識の獲得な ど多岐にわたる人文学の有用性が提示された.これらのいずれもが個々人の生の在り方や 社会の持続可能性に関わる要素であることを考えれば,「人文学の危機」は社会全体に関わ る問題であり,上記の人文学の価値の妥当性も含めて,考察を必要とする課題である.し かし,その一方で植上一希(2016:160-161)や稲垣惠一(2010:3)による,そもそも人 文学的知が研究者やその予備軍といった一部の人々以外からは「遠いもの」「関係のないも の」として認識されているという指摘を踏まえれば,「人文学の危機」が人文学者などの狭 義の人文学関係者を超えた人々にどこまで共有され,学界を超えた人々にも関係があるこ ととしてどこまで受け止められたのかという点については疑問が残る.

 このような状況に際し本論が試みるのは,人文学擁護論の限界を理論的に考察すること である.より具体的には,人文学擁護論が人文学の価値を訴える中で,研究者や産業界と は異なる価値観やニーズを有する現代社会に生きる人々と人文学との橋渡しに失敗してき た,という可能性についてである.藤原辰史(2015:59)は,「人文学の生成は,〔……〕

自分の生きたい世界がこの世界ではないと感じる人々と,この世界との絶望的な乖離のな かにしか存在しない」ものである,と述べた.人文学がこの乖離から「しか」生成しない のか,という点には疑問が残るが2),過去において人文学的知のいくばくかは,この乖離 から生まれ,また乖離を埋めることに一役買ってきたのも確かだ3).とするならば,そも そも人文学そのものが「遠いもの」「関係ないもの」として認識されてしまう背景の一つ は,人文擁護論のように人文学を社会的に位置づけようとする試みが,藤原がいうところ の「乖離」を抱えた人,言い換えれば現代社会において「生きづらさ」を抱えた人に語り かけることに失敗してきたことの現れではないか?

 なぜ,そのように考えることができるのか.その点を明らかにするために,本論は以下 の作業を行う.まず現代社会における「生きづらさ」について論じる.現代社会において

「生きづらさ」は,「ひきこもり」「ニート」といった状況にいる人々を例にして論じられる ことが多いが,そのような状況に必ずしも陥っていない人々でも「生きづらさ」を抱えて いる場合があることを提示する.次に,人文学擁護論の 3 つのモデルを素描し,それぞれ が人文学にどのような価値があると提示してきたのか,それらの限界は何かを論じ,なぜ,

人文学擁護論が「生きづらさ」を抱えた人々への語りかけに失敗してきたと考えられるの か,探っていきたい.

 具体的な考察に入る前に,本論における「人文学」を簡単に定義しておきたい.人文学

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とは,「人間にかかわる問題をどう考え,どう解釈すべきかを広い視野から模索する学問」

であり,解釈であるが故に正解はない分野である(松浦 2017:iv).特定の領域を指すこ ともできようが,近年の学際領域の誕生に見られるように領域間の境界があいまいになっ ているのも事実である.そこで本論では野家(2013:166)の議論にならい,「『人文学』と いう名称を厳密に定義することはせず,大まかに大学の文学部や人文学部で教育・研究が なされている学問分野を指すもの」として用いることにしたい.

 人文学を巡る議論においては,人文学と「教養教育」や「リベラルアーツ」といった,

来歴を厳密に紐解けば,人文学とは同一ではないものが分離されぬまま論じられているこ とは批判的に論じられてきた(cf.吉見 2015a:89-91).従って,本論が「人文学」として 特定の領域を名指さないことが批判を招きかねないことは承知している.だが,あえてこ のように広く定義したのには 2 つの理由がある.

 まず,後に言及する人文学擁護論においても,「人文学」が広い領域を指すものとして論 じられているからである.人文学を特定の領域に絞って議論を試みる重要性は否定しない が,その場合,内部に矛盾や差異を抱えつつも全体としては「生きづらい人々」を周縁化 してきた「人文学擁護」言説の在り方を見落としてしまうと考えられるからである.

 第 2 に人文学とは何か,という問いへの答えが「学問領域」によってのみ決まるもので はなく,対象を前にしたときの「知の在り方」によって規定されるものであると考えられる からだ.リチャード・ホフスタッターの議論に基づきながら竹内が論じたように,知には,

「ものごとを『把握し,処理し,再秩序化し,適応する』」知能と「『吟味し,熟考し,理論 化し,批判し,想像』する」知性がある(竹内 2015:41).例えば哲学といった一般的に 吟味や熟考を行う,つまり知性の発動とみなされている領域であっても,その営為が単に 高名な学者の知を「真理」として受容するだけに留まっていては,それは「知能」が問題 となっていることを意味している.知能と知性は相補的なものであり,両立が不可能なもの ではない.だが 2015 年の大臣通知に端を発する人文学擁護言説が,大臣通知を大学の知を もっぱら「知能」の問題へと切り詰めるものとして危惧し,批判してきたことに鑑みれば,

特に人文学擁護論を論じる上では,人文学を特定の領域ではなく,「知性」を涵養・擁護す る営為に与えられた名称として捉えることが妥当であると考えられるからである.

1.現代社会における「生きづらさ」

属性や出自や欠損で差別されることの少ない『普通』の『中流』の『多数』のほうが,

傷が少ないとはだれにも言わせない./時間がかかっても,私はそのことを証明する.

そうしなければ生きにくすぎるほどに,すでに普通の人々は追い詰められているのだ.

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(赤坂 2001:102)

 作家の赤坂真理が「普通の人」の抱えた「生きづらさ」について,このように述べたのは 2001 年のことであった.この文言に続けて赤坂は読者に「ねえ,違う?」と問うた.しか し,それから 15 年以上経過し,「普通の人」の中にも「生きづらさ」を抱えた人がいる,と いう認識は,もはや「ねえ,違う?」と問う必要はないほどに広がっているように見える4)  この「生きづらさ」を一言で定義するならば,「個人化した「社会からの漏れ落ち」の痛 み」である(貴戸 2018:90).ライフコースが多様化された現代社会において,マイノリテ ィとされる人々の中にも「成功」を収める人々がいる一方で,マジョリティに属する人で も,就職や進学その他人生の様々な場面で「苦しさ」を抱えている人々がいる.また,一 度「成功」しても,その地位の安定性は以前に比べて相対的に低下しており,「転落」の可 能性がつきまとうようになった(貴戸 2018:43-44).このような中,現代社会における「生 きづらさ」とは,(マイノリティには総じて重くのしかかりがちではあるが)ある特定の属 性を持っている人々が共有しているものではなく,周囲からみて,例えば経済的事由といっ た「合理的な理由」もない場合でも,本人に感じられているものである(貴戸 2018:45).

 現代社会における,「生きづらさ」を抱えた人々としてしばしば議論に登場するのは,「ひ きこもり」「ニート」「フリーター」等である.だが,彼らのようなカテゴリー化された状 態に陥らずとも,大学生活を過ごしつつも,社会的に求められている生き方に違和感を覚 え,かといって別の道も見つからない,という状態にいる若者の存在が指摘されている.

 例えば,佐々木一也は今日,「現代社会が望む欲望全開,競争力極大といった傾向に必ず しも馴染まない」,あるいは初めから「競争から距離をおこうとする学生たちも少なからず 存在している」と指摘する.しかし,それでいて学生たちは「単純に競争に負ける,ある いは競争から降りて敗者の生活をすることは好まない」という.学生たちが望んでいるの は,「自分らしく無理なく他の人びとと共に生きられる秩序」であるが,「その構築のため に自らが依拠してそれに倣うべきモデルがもはやな」いという状態に置かれているという のだ(佐々木 2015:22).彼らはまさに「乖離」を抱えた状態と言えるだろう.

 乖離を抱えて生きる若者を前に,しばしばキャリア教育等を通じ「働くことの意義の伝 達」ということが行われるのだが,(その重要性を否定しないものの)注意しなければなら ないのは,彼らが一般的なイメージとは異なり必ずしも社会性を欠いているわけではない,

という点である.「生きづらさ」が現象化したものの一つとして語られる「ひきこもり」の 例でいえば,ひきこもりの人々が抱える生きづらさの要因の一つは,「働かなければならな いのはわかっているが,なぜかできない」というものであり,彼らの生きづらさは,働く べきだ,という社会的価値観を内面化しているが故に生じているのである(石川 2007:25

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-26).

 このように「生きづらさ」は,社会的要請と自分の希望の「間」で揺れている状況にあ るのだが,当人達にとって折り合いは簡単につくものではない5).また,彼らの生きづら い状況は,周りが注意深く彼らの言い分に耳を傾ければ解消の道を踏み出せる,というも のでもない.この点について,貴戸は次のように述べている.すなわち,

いくら耳を傾けられても,自分がいったいどういう状態にありどうしたのかが茫漠と しているため語れない,説教されるに違いないと先回りして「社会の要請」を反復す る,そういう人は少なくない.それはつまり,「自分とは何か」が言語化できるかたち で本人によって掴み取られていない,ということだ.(貴戸 2018:187)

 「生きづらさ」をこのような状態として理解するのであれば,生きづらさを抱えている 人々にとって,他者や社会との関係を(再)構築していく上で必要な過程の一つとして,

自己像や自己の希望を言語化することが浮かび上がってくる.むろん,それによって問題 が解決するわけではない.だが,言語化することによって初めて「『こうしたい』と自己を 主張」し,「異なるニーズを持つ相手と『相互に調整』する」,その一歩目をかろうじて踏 み出すことができる,と考えられるのだ(貴戸 2018:188).この意味で,人と社会との関 係を解釈するものとして自己を定義してきた人文学的知は,生きづらさを抱えてきた人々 に「苦しさ」や「生きづらさ」を説明する概念や理論を供給し,彼らと社会との関係の

(再)構築の一助となる可能性を有している6)

 もちろん,先に挙げた「競争全開」の社会と,それに違和感を覚えつつも捨てきれない 自己,という「乖離」以外にも現代社会に生きる若者が抱える「生きづらさ」は多様であ ろう.また,多くの若者は「生きづらさ」を抱えながらも周りの助けをかり,社会と自分 との折り合いをつけられる場合もあるだろう.

 それでもこのような教室における「生きづらさ」を抱えた若者の存在について言及した のは,とかく「受け身」に見える今日の学生の,別の側面を提示するためである.それは,

一見受け身の学生であっても,彼らの中には「生きづらさ」に苦しみ,しかし,それを問 うこと自体の是非にすら迷い,問う言葉を持たず,問う方法も知らないが故に「答え」が 教授によって供給されることを待っている存在もいるという可能性である7).これを学生 の甘えや受け身に過ぎるとして批判するのは簡単だ.だが,そこからは「自分の生き方」

という極めて個人的なものを考えたいというニーズを持ちつつ,答えをもらう以外に考え る方法を知らない,という学生の姿も同時に読み取れるのである8)

 では,社会にこのような「生きづらさ」を抱えた人々がおり人文学的知の潜在的ニーズ

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があると考えられる一方で,人文学の価値を謳い,擁護しようとする人文学擁護論は,ど のように人文学を価値づけてきたのだろうか?

2.現代日本社会における人文学擁護論の認識論的枠組みとその限界

21.人文学擁護論における人文学の有用性

 現代社会における人文学擁護論の射程は,例えば文科省の通知の背景を探ったり,人文 学,あるいはそれと同一視される教養教育や大学の歴史を振り返るものなど多岐にわたる.

現代社会における人文学擁護論の全てを網羅することは不可能である.しかし,「無用の 用」や学問そのものの維持・発展以外の有用性に基づいて人文学を擁護しようという議論 に注目する限り,人文学擁護論には大きく分けて 3 つのモデルを見出すことができると考 える.すなわち,①人文学に経済的な有用性を見出すもの(実利的価値モデル),②人文学 に公的な役割があるとするもの(公的価値モデル),③人文学の私的な有用性を見出すもの

(私的価値モデル)の 3 つである.

 ただし,一つの人文学擁護論の中にいくつかのモデルが混在して見られる場合や,同じ 論者でも異なる著作においては擁護の力点が変わる場合もある.従って,ここであげる 3 つのモデルとは厳密に分かれたものというよりも,「強調点の違い」に近いものである.ま た,言及している議論においては「人文学」が意味するところには差異があるが,いずれ の議論も 2015 年の大臣通知の後に大臣通知に対する批判,「人文学の危機」への対処とし て発表されたものであり,相互の差異を含みつつ,全体として「人文学擁護論」を形成し てきたと考えられるものである.

 そのことを確認した上で,それぞれのモデルの人文学擁護論を見ていくことにしよう.

 まず,実利的価値モデルに基づく人文学擁護論は,人文学的知がビジネスや外交などの 場で活躍しうる人材育成に有益であるとし,人文学を擁護する立場である.このモデルが 最も端的に現れているのは,産業界からの文系学部等に寄せられている要望である.例え ば,文部大臣通知に対しては産業界の中枢である経団連も異議を唱えたが,その中では「幅 広い教養」「課題発見・解決力」「外国語によるコミュニケーション能力」「自らの考えを論 理的に発信する力」などの育成が人文学系科目に求められていた(日本経済団体連合会 2015 ).こういった能力は,汎用的能力やジェネリックスキルなどの名称で今日議論され ているが,小方(2013:68)が指摘するように,それらの育成はアカデミックな基礎力に も通じるため,アカデミック側からも一定の理解を得やすいものである.

 例えば,佐和隆光は人文学を直接的な利益という点から擁護している.彼は,人文学系

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の知を軽視することによる将来的な問題として,外交で重要となるパーティ文化には人文 知がなければ対応できず,人文学の軽視が将来的に外交に悪影響をもたらすとして危惧し ていた(佐和 2015a:8).同様に,立花隆も教養がない人は欧米では全く通用せず野蛮人 とみなされること,その意味でグローバル化された社会において教養は不要不急のもので あるどころか,ビジネス的にも重要であるとして文科省を批判した(立花 2015:206).立 花の次の言葉は,彼の人文学擁護論の中で人文学的な教養が個人に利益をもたらすものと して位置づけられていることがよくわかる.立花( 2015:206 )はこう述べていたのだ.

「教養なんて要らないという人もいるかもしれません.しかし,日本で生活するだけならそ れでいいのでしょうが,その考えは世界では,特に欧米では全く通用しません」.立花は教 養レベルは,西欧のパーティの中で否応なく明らかにされてしまい,そこでその社会の通 念・常識からあまりに反する意見表明をしていると,社会的に拒否されるようになり商売 もできなくなる,としており(立花 2015:206)人文学擁護のポイントとして「実利的な 価値」をあげていることがよくわかる.

 だが注意しなければならないのは,このモデルに基づいて人文学が擁護される際には,

使用される概念に変質が生じることである.例えば,「批判的認識力」の獲得も産業界から 人文学に育成が求められる能力の一つであるが(cf. 浦野 2013:117),企業において許容 される「批判」とは,「仕事のやり方の基本を壊すことなく,大きな成果を生み出す,とい うもの」(濱中 2013:121)であり,本質を批判することは「ストッパー」として敬遠され ると指摘されている.このように,概念上は人文学が育成しうるとされている能力でも,

実利的価値モデルにおいては意味が変容し,「知性」というよりも,むしろ「知能」に近く なることがあることには注意が必要である.

 人文学擁護論における第 2 のモデルは,ビジネスや外交などで活躍する個人に資するも のではなく人文学の公的な役割に注目して人文学を擁護しようとする.特に社会の基底を なす価値観に対する批判・再考という役割を人文学が担うとするものである.

 佐和隆光は,先にあげた論考とは別の論考において,「文学,歴史学,哲学,経済学,思 想史の学識なくして,政治や経済を考察し,的確な処方箋を書くことはできない」として,

人文社会学的な知を排斥・軽視することは「民主主義国家を滅ぼすと言っても,決して過 言ではない」とまで述べている(佐和 2015b:71).

 今日の人文学擁護論において,最も影響力があるとされる吉見俊哉の議論は,まさに人 文学に公的な役割を見出し,その重要性に基づいて人文学を擁護するものであった.

 吉見は,「役に立つ」ということを 2 つのレベルに分ける.1 つ目はどちらかというと理 系の知に当てはまる,予め設定された目的を実現するために最適な方法を探す目的遂行型.

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もう一つのレベルは,目的自体を創造する価値創造型の知であり,文系の知に当てはまる のだという(吉見 2015a:92).吉見によれば前者は,短期的に答えを出すことが求められ るが,与えられた「目的」に対してしか役に立つことはできず,目的や価値の軸が変わっ てしまった場合には,役に立たなくなるものである.長いスパンの中ではこのような価値 の変動は必ず起きるものと考える吉見は,文系の知を,自明化している現存の価値を批判,

反省し,違う価値を見つけるのに役立つ知としとして擁護したのである(吉見 2015a:93).

 吉見は,現代社会において人文学が必要とされる領域として,生命倫理や感染症だけで なく,開発,環境保護といった「持続可能性」に関するグローバルな問題をあげ,「本当に 問題を解決し,新しいビジョンを開こうとしたら,文系的な知と理系的な知をいかにうま くつないでいくか」が重要となる,と指摘した(吉見 2015b:26 ).それらは単に工学の 側面から取り組めばよいのではなく,人文社会系の知を組み合わせて「文理融合」ができ る人を育てて初めて解決可能となる分野であるとして,文系の重要性を論じたのであった.

 第 3 の「私的価値モデル」にある「私的価値」とは,「趣味や個人的な興味」を満足させ るという意味ではない.ここでいう「私的価値」とは,個人に「生き方の幅」や「教養」

といったある種の「利益」をもたらすが,第 1 の実利的価値のように,ビジネスや外交と いった具体的・経済的な現場で活用される技術や能力とは異なっている.また,それは同 時に個人に消費されて終わるような性質のものではなく,社会的次元を有している.私的 価値モデルは,第 2 の公的価値モデルにも似て,社会の価値観などをどのように理解する のか,といった能力も関わってくる.違いは,第 2 のモデルが「社会」を議論の中心とし て考察するのに対し,第 3 のモデルは社会の中で「個人がどのように生きるのか」という,

あくまでも「個」を基点とするものであるという点である.これらの議論においては,人 文学は,従来の教養教育とほぼ重なり合うものと位置づけられている.

 このような立場に立つ人文学擁護言説は,大臣通知の以前から見られたが(cf.野家 2013:

187,189),大臣通知に対する批判的言説の中にも見出すことができる.例えば石(2015:

14)の「多様な価値観を尊重し,物事に対する洞察力を深めそして自らの人格形成に努め るために,主に人文社会科学に立脚した高い教養こそが不可欠になってくる」という考え や,日本学術会議が 2015 年 7 月 23 日に発表した幹事会声明にも見ることができる.幹事 会声明においては,「現代世界において次々生起する一義的な正解の存在しない諸問題につ いて,学際的な視点で考え,多様な見解を持つ他者との対話を通して自身の考えを深めて いく力が学生たちに求められている」とし,大臣通知が人文・社会科学を軽視するもので あり,その教育を浅いものにしかねないと危惧していたのである(日本学術会議 2015:

2).

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22.人文学擁護論の限界

 これまで,現代社会に見られる人文学擁護論において人文学の有用性がどのように語ら れているのかを 3 つのモデルに分けて概観して来た.では,それぞれのモデルは,「生きづ らい」人々とのレリバンスを有しているのだろうか?

 第 1 のモデルにおいて,人文学によって涵養される知見やスキルが経済的な面で有用と されているとき,有用性を測る基準は,現状のビジネスや外交シーンである.産業界から の大学における人材育成への要望に対し,松下佳代はそれらが「企業社会への『適応』は 考えられているが,それへの批判的意識を養うことはほとんど考えられていない」ことや

「大学生が将来帰属する社会には,企業社会以外の職業社会,市民社会や地域社会,家庭な ども含まれるはずなのに,もっぱら企業社会しか想定されていない」として批判していた が(松下 2010:153),その批判はそのまま実利価値モデルに対する批判となり得る.

 松下の議論にさらに加えるならば,このモデルが想定しているのは,居神(2013:90)

が会社組織への過剰なコミットメントが要求される,と評したエリートである.だが「生 きづらさ」を抱いている人に限らず,全ての人がエリートコースに乗れるわけでもなく,

また近年のワークライフバランスの議論に見られるように,そのコースに乗りたがってい るわけではない.ましてや「ひきこもり」等深刻な生きづらさを抱えた人々は,現状の社 会に出ることを恐れ,身動きが取れない状態にある.このモデルは,現状の社会構造にお いて「生きづらさ」を覚えている人々に対しては,「本人たちが生きづらさを覚える社会で 有用なもの」を提示することで,人文学を擁護しようとしていることになる.このモデル では,そういった生きづらさを抱えた人々は,人文学の裨益者としての位置付けは低い.

 もちろん,人文学を通じて,個人の能力やスキルを身につけることは,生きづらさを抱 えている人々の現状の社会における被受容可能性を高め,結果的には彼らの生きづらさを 軽減させるかもしれない.そしてそれ自体は否定されることではない.しかし,スキルや 能力の獲得といった点から人文学を擁護しようとする議論は,ひきこもりといった深刻な 生きづらさを抱えている人々にとって「意味を考えること」が重要であることを見落とし ている.彼らは社会の要請と個人の希望の不一致を抱えており,「どうすれば納得いく形で 生きていけるのかを考え抜く作業を伴わない就労支援は,当事者にとって有意義なものと はなりえない」(石川 2007:29)という点を軽視していると考えられる.やはり,生きづ らさを抱えている人々を人文学の有用性を享受できる人々の範囲外に置いていると言える だろう.

 第 2 の「公的価値モデル」は,現状の社会システムへの見直しを含むものである.これ は「生きづらさ」を生む社会構造の見直しをという契機を含んでいる.だが,吉見のあげた 考えるべき課題―例えば「開発」や「生命倫理」―と生きづらさを抱えた人々の「問

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題」の質の違いに注目したとき,生きづらさを抱えた人々と公的価値モデルの距離が見えて くる.

 それは,公的価値モデルにおいて例示されている「問題」が,既に「社会的に問題とし て構成された」問題であることと関係している.構築主義の議論によれば,ある「社会問 題」は予めそこに客観的に存在しているのではなく,人々によってある状態が「問題であ る」と名づけられ,それが周囲の人々に受け入れられることによって「解決されるべき問 題」として構成されると考えられる9)

 モデル 2 に則って人文学が擁護される場合,しばしば開発や生命倫理など「既に構築さ れた問題」の解決策の探究に人文学が探究されているという形になっている.一方,生き づらさを抱えた人々が直面しているのは,社会的に認められていないどころか,「言語化」

すらされていない「問題」であり,たとえ「ひきこもり」のように既に概念化された問題 であっても,「甘え」として厳しい目を向けられがちなものである.さらに「生きづらさ」

を抱えている人々は,社会的な価値(例えば就労)を少なくとも部分的には受け入れてい るからこそ「できない自分」を責めているのであり,社会を問題化することが困難な状況 にいる.このモデルは,そのような状態にいる人々を周縁化してしまいかねないのだ.

 もちろん,人文学的知の修得によって,生きづらさを抱えた人々が自らを責めることを 止め,新たな「社会問題」を構成することが可能になるかもしれない.だが,そうした場 合にあっても,「生きづらさ」を抱えた人々は更なる問題に直面する.

 これは第 2 のモデルにのみ該当することではないが,第 2 のモデルのように「批判的に なること」を重視する言説を考える際には特に,「批判的になること」が現代社会において どれほど困難であるのか,という点について触れておく必要がある.

 濱中(2013:125)の言葉を待つまでもなく,批判をすることは学術の世界では王道で ある.先行研究に疑問を投げかけ問いを設定すること,相手を批判することなどは当たり 前のことである.だが,批判という営為が「王道」となるのは,研究者は批判をしても自 分の所属している社会から放逐されないという特殊な社会関係の中にいるからである.

 貴戸は,不登校をめぐる環境の変化を論じる中で,現代社会において生きづらさを抱え た人々が社会構造から外れることに対する社会的な寛容度は上がったが,それが「自己責 任」の拡大と引き換えであったと指摘する(貴戸 2018:82-83).社会構造を批判すること は,現状の社会への問題提起というよりも,社会からの逸脱と見なされかねず,その苦境 は自業自得と見なされかねないのだ.つまり,「社会的に必ずしも問題化されていない状 況」を研究者でもない人が批判することは,その個人に幾重もの負担を負わせることにな りかねない.こうして公的価値モデルに基づく人文学擁護論においても,「生きづらさ」を 抱えた人は,裨益者としては後景に退くことになる.

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 実は,実利的価値モデルと公的価値モデルは,「生きづらさ」を抱えた人が持つ「社会的 要請か個人的希望か」という葛藤を生み出す 2 項のうち,片方にのみ注視するモデルとな っていたと言える.実利的価値モデルが個人に利益をもたらしうるのは,現代社会におい て生きづらい人々が,個人的な希望を諦め社会的要請に従うことを選ぶときであり,公的 価値モデルが生きづらい人々に利益をもたらすのは,社会的要請へのこだわりを放棄する ことと引き換えであるといえるだろう.

 では,第 3 のモデル,すなわち人文学的知の学びを通じて,個々人が社会関係における 自分の在り方や社会のことを学ぶ,という方法は人文学と生きづらさを抱えた人を架橋し えているのだろうか.「批判的思考」を重視する,という点は公的価値モデルと私的価値モ デルは共有している.そのため,批判という点に関しては,私的価値モデルも公的価値モ デルと同様の限界を有している.しかし,それが専ら「個人の生き方」に関わるモデルで ある分,個人により重くのしかかると考えられる.「生きづらさ」は,それに苦しむ本人と 周りの関係性の問題であるが,私的価値モデルが専ら「人格形成」や「教養」など,個人 の内側に関わる点を強調しがちだからだ.特に「教養」が衰退したとされる現在において は,教養を学ぶことを通じて,他者との位置づけを相互に学んでいく,という人文学の啓 蒙的役割への期待は下がっている.そのため生きづらさを抱えた本人のみが学んでも,そ れが本人と社会とをつないでいく回路になる可能性は乏しいと言わざるを得ない.

 この社会的な回路の乏しさは,教育方法にも現れる.私的価値モデルを説明した際に,

それが従来の教養教育と重なると述べたが,それは同時に従来の教養教育の限界をも踏襲 することを意味していた.

 公的価値モデルが人文学的知を(理系の知とともに)動員し,解決すべきとされていた 問題が,社会的に既に構成されたもので,それ故「共有」されたものとして議論が可能で あるのに対し,生きづらさとは,社会化された「問題」ではないことは既に述べた.それ が意味しているのは今日において各人の抱える生きづらさが多様であるということである.

とするならば,授業で彼らの希望に応え「共有されたもの」「社会問題」として取り上げ語 ることが難しくなる.「言葉にできてすらいない生きづらさ」という潜在的かつ多様なニー ズ全てを充たす授業など不可能だからだ.

 この点に鑑みれば,人文学者は人文学の講義を契機として,多田一臣のように,学生に 自分で学ぶことを求めることには道理がある.彼は,人文学は人間と社会の関係を考える ものであるが,それを考えるための絶対的な基準があるわけではない,として次のことを 学生に求めていた.すなわち,「一人一人の教員の講義は,おのれの学問を開示しているに 過ぎ」ず,学生は「その講義を自分なりに受けとめ,それをさらに自分の位置を確かめる ための,一つの契機」とせよ,という要請である.多田にとっては,それこそが「人文学

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の学問の本質」なのだ(多田 2015:20).

 だが,それはこれまでの人文学の姿であり,大学改革等が声高に言われる前の大学の学 習モデル,つまり,「そこでは知は断片的に提供されたり,あるいはされなかったりもする のだけど,それを学生の側が自律的に吸収し,統合していくことで,それぞれ専門を深め たり教養をつけたりするという学習モデル」と酷似してくる(広田他 2013:271).それは 学習する人の主体性を重視するものでもあるが,放置に終わる可能性もある.既に述べた ように,教室にいる受動的な学生の中には,「生きづらさを抱えた若者」がおり,どうした ら良いのかわからないから受動的な状態に留まっているという可能性もある.その若者た ちに対して「自分で学べ」という私的価値モデルは,たとえそれが従来の大学教育という 点からみて「正論」であっても,生きづらさを抱えた人々を周縁化するものと考えられる のである.

終 わ り に

 本論がこれまで駆け足で論じてきたのは以下の点である.まず,現代社会における一見

「普通」の若者たちの間にも見られる,「生きづらさ」の特徴の一つが社会的要請と個人的 希望の葛藤にあることを提示した.次に人文学擁護論を 3 つのモデルに分け,それらが社 会的要請と個人的希望の葛藤という状態にいる人々にとってどのようなレリバンスがある のかを考察した.実利的価値モデル,公的価値モデルは葛藤を生み出す 2 項のうち片方の みに注視し葛藤を度外視するという点で,そして私的価値モデルは「生きづらい」人々を そのまま放置してしまう可能性があるという点で限界が示された.

 ここで取り上げた人文学擁護論は,あくまでもモデルである.実際の教室においては,

それぞれの人文学者の工夫を凝らした講義を受け,生きづらさを抱えた若者が社会との折 り合いをつけ,巣立ってきたとして批判する論者もいるかもしれない.だが,彼らが言及 しているのは,既に人文学と出会う機会を得た若者たちである.だが,人文学擁護言説が 語りかけるべきなのは,「既に人文学と出会った人々」だけでなく,これまで人文学が有用 であると実感や想定すらしてこなかった人々,言い換えるならば「未だ人文学と出会って いない人々」である.だが,本論で論じてきたように人文学擁護論が人文学の有用性が「誰 にとって有用なのか」という点を省みないままでは,人文学擁護の試みはむしろ生きづら さを抱えた人々と人文学の「出会い損ね」を助長し,いわば斥力として機能してしまう可 能性がある.これは人文学,生きづらさを抱えた人の双方にとって不幸なことである.過 去においてはフェミニズム思想やポストコロニアル理論のように,社会的要請と個人の希 望との「乖離」から,新たな人文学的知が誕生してきた.だが人文学擁護論の失敗による

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「出会い損ね」が放置されているとすれば,人文学の危機はますます悪化し,生きづらい 人々は有用な助力と出会えないままとなりかねない.

 吉田文は広田らとの討議において,「『大学が大変だ』と話していること自体が内輪の話 し方に見えてならないと,〔……〕ある会合でも指摘され」たと述べていた(広田他 2013:

243).「人文学擁護論」を人文学者の内輪の議論で終わらせないためにも,「人文学が役に たつ」というとき,人文学擁護論が誰を背後に置き去りにしているのか,今一度問い返す ことから学界を超えて語りかける方法が見えてくるのではないだろうか.

1)通知の中で最も問題とされたのは「特に教員養成系学部・大学院,人文社会科学系学部,大学 院については,18 歳人口の減少や人材需要,教育研究水準の確保,国立大学としての役割等を 踏まえた組織見直し計画を策定し,組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り 組むよう努めることとする」(文部科学省 2015)とされた部分であった.発表直後からの批判を 受けて文科省は,人文社会科学を軽視しておらず,組織の廃止や転換を求めたのは,「教員養成 系」しかもいわゆるゼロ免課程であるとした(文部科学省 高等教育局 2015).

2)例えば日本の哲学研究においては,現実社会で生きる際の「世界像」や「人生観」につながる 価値観の決定に直結する「思想」を哲学から切り離してきた,と指摘されている(中村 2002:

182-189).

3)植民地支配に関する議論を深めたポストコロニアル理論,性差別の問題を取り上げたフェミニ ズムなどはこれらの一例と考えられるだろう.隠岐(2015:130)は,植民地支配や人種・性差 別などに対する反省に際して,哲学が生まれたことを指摘し,「人文社会科学が構成する様々な 知は,今そこにある名もなき声,まさに社会を構成する人々ひとりひとりの要請といったものに 応え続けている」と述べている.

4)朝日新聞の記事数を調べた貴戸理恵の調査によれば,「生きづらさ」という言葉は 1997 年に初 登場して以来,増加傾向にある(貴戸 2018:90 図 3-2).

5)例えば石川(2007:155-193)には,数年にわたって労働と人生の意味について徹底的に考え 続けたひきこもり当事者に関する記述がある.

6)例えば,「ひきこもり」の研究には,「ひきこもり」という言葉を得ることで自分の状態が理解 できるようになった,という当事者の声があることが報告されている(石川 2007:120,123).

7)実際,2008 年に東京大学が行った全国大学生調査によれば,大学生の 8 割近くが「在学中の 目標として,自分の将来の方向を見つける」ことをあげているが,3 分の 2 の学生は,「授業で やりたいことを見つけたい」として,きっかけを授業に求めている,という結果が報告されてい る(東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策研究センター 2008:61,66).同調査は,「授 業の意義や必要性を教えてほしい」と答えた学生が約 6 割を占めていること,「授業はきっかけ で,後は自分で学びたい」と答えた学生は 3 割に留まっていることも報告しており,学生が授業 に依存していることも浮き彫りになっている(東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策研究 センター 2008:34,35).

8)國分功一郎は,白井聡との討議において,自らは学生時代に勉強サークルで勉強したが,今の 学生はそういった仕方で勉強するのは苦手である,と指摘する.だが,國分は続けて次のように 述べる.すなわち,「その代わりに彼らは講義に出てきているのです.もしかしたら彼らは,自

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分たちだけで勉強をするメソッドを教えてもらえなかった,伝承してもらえなかった,それ故 に,教えを求めるようにして講義に出てきているのかもしれません」(白井・國分 2014:40 ).

この点は,國分の印象論の域を出るものではないが,受け身と批判されている学生への異なる視 点としては重視したい.

9)社会構築主義に関する議論を網羅したものとして,上野千鶴子編(2001)『構築主義とは何か』

(勁草書房).

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参照

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