私は日本語がわからない(8)
中 村 平 治
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「教授」という用語は、形の上では「名詞」ですが、内容的に「動詞」の機 能を所持してますよね。言い換えると「教えを授ける」、つまり「教える」に なるからです。例えば、「茶道教授」「華道教授」「書道教授」などの組み合せ
(syntax)はそういった見方に乗っ取っています。ところが「〇〇大学教授」
の場合はこの見方を踏みにじっていませんか。「大学(の機構とか内容の事)
を教える」といった具合になるからです。実際は、もちろん、そうではありま せん。実際は、専攻名の「英語」とか「哲学」といったものを教えています。
ならば、名刺の書式として「〇〇大学英語教授」というのを採用すればいいの ですが、依然として、日本語の名刺の肩書きとして
90%以上のものが専攻名
抜きの表記をとっています。「教授」は動詞であって、このすぐ前には名詞の目的語が納まるのが自然な 論理になると思われるのですが、しかし、単なる職場また組織名にしかすぎな い「〇〇大学」というのが、デンと前陳に構えていますよね。これが、私に
「日本語はわからない」と言わせるのです。
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*福岡大学人文学部教授
動詞「教える」を中心にいかなる構成素が寄り集まって然るべき「文」が醸 成されるのかを考えてみよう。構成素とは、従来の文法用語を当てると、「主 語」「目的語」「所詞」「時詞」などです。文を構成するこれらの「素」はそれ ぞれ独自の名称をもっていますが、便利のため、「項(argument)」と呼ぶこ とにします。
例えば「太郎は走った」という文は「主語 + 動詞」から構成されています。
「太郎は英語を勉強した」という文は「主語 + 目的語 + 動詞」から成り立っ ています。「走る」という動詞は一つの「項」を、「勉強する」という動詞は2 つの「項」を呼びつけると言えます。この特長づけは、英語では、「5文型」
として、つまり、S+V,S+V+C,S+V+O+C などとして知られています。
「文型」という発想はこれはこれで構わないのですが、大きく、世界に広がっ ている各言語を特長づける時、英語で設定されている「5つ」では窮屈に感じ られます。言語によっては、もっと少ない「項」でいい場合もあるし、数十の
「項」を必要とする場合もあるでしょう。ここで「項」の中身について触れて おきます。
中身の名称については、これまで4つ(主語・目的語・所詞・時詞)のみを 挙げましたが、他にも想定されます。そうですね、新聞記事をしたためるとき、
必要とされる 5つの
wh
が引き合いにだされます。who
は 「誰が」、what
は「何を」、whenは「いつ」、where
は「どこで」、whyは「なぜ」、how は「いかにして」・・・といった具合に見なすのです。そうすると、例えば「(私は)+(英語を)+(今)+(福大で)+(生計を立てるため)+(マイ クを通して)+(教えています)」といった文が派生します。
「誰が」は(女性)か(男性)かに、また(目下)か(目上)かに、細分化 すると、その分だけ「項」が増えることになります。「項」は更に(年収いく らで)とか(しかじかの階級で)とかいったことなども想定されますよね。
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今、何のためにこういったことを綴っているのか迷宮入りしそうですが、こ のことをはっきりさせるのは、当初の問題点を晴らすのに有効だからです。も う一度、反芻しますが、焦点は、(教える)また(教授)という動詞は目的語 の(英語)であって、機関名の所詞である(福岡大学)が納まるのは論理に反 するのではないかと言うことです。
これに答えるために、もう一歩前段に立ち返って、日本語の名刺の書式と英 語のそれを観察することから、出直してみよう。両者の目立つ違いから指摘し ます。
違いのポイントは、英語が(教授)の目的語(English)を明示しているの に対して、日本語の方は、それが消され、所属機関名(所詞)が代わりに当て られていることです。どちらが論理的な組み合せであるかはすでに言及しまし た。なぜ、日本語は動詞と密着した目的語をさておいて、疎遠な所詞を側近に 付着させているのか、私にはわかりません。
論理を盾にすると、確かに、英語の表現法に分があり、日本語は敗退せざる をえません。日本語の表現の仕方は非論理的ということで、名刺の書式を英語 風に書き改めよ、と終止符がうたれます。
しかし、ただこれだけの主張であれば、私は論を起こさない。日本語の動詞 Taro Fukuoka
Professor Depart of English
ABC University
の使い方は唐突でも、何かそこに、つまり「わけありげな気配」が私の中にく すぶっているから、私はこうして議論をしかけているのです。
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結論的に、私は日本語の名刺の書式は、日本古来の「所属尊重、雇われ人軽 視」の文化を守ってのことであり、これはこれで尊重されねばならない「項」
の選択であるというふうに考え直します。
議論の道程はそちらにあるとしても、「福岡大学 + 教授」の不安定さをはっ きりさせておこう。例えば、次の対をなす文は(a),(b)のどちらがより自 然に聞こえるでしょうか。
(a)コーヒーを飲んでいる。
(b)レストランで飲んでいる。
(a)窓を開けている。
(b)家で開けている。
(a)大根を植えている。
(b)畑で植えている。
(a)英語を教えている。
(b)大学で教えている。
(b)の不安定さは、動詞と密接な目的語をさしおいて、疎遠な所属機関名、
すなわち所詞を充てがっているからです。このひいきで、結果的に、英語の名
刺の書式、Professor of English が、そして日本語のそれ、「大学 + 教授」
が導きだされるにいたっているのです。
日本語方式(b)の方は、確かに、不自然な響きがしますが、しかし、完全 に否定されるほど間違った文でもありません。首の皮一枚で命がつながってい るというのでしょうか。この明確に否定できないところに、謎が潜んでいるの ではないでしょうか。
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論理的にはおかしいが、しかし、日本古来の「文化」が正当性を支えている からなのだと、私は思います。つまり、英語の統語法では動詞はより密接な目 的語(英語、大根、窓など)を、所詞に優先させるが、日本語の文化では個人 の選択よりも、集団の組織すなわち場所(大学、畑、家)を優先させるからで はないでしょうか。「個人」と「組織」の優先順位の違いが、上の対の文の
(a)を英語が選び、(b)を日本語が選ぶという文化構造になっているからだ と思われます。重ねて言うと、英語の文化では個人が何をしているのかが、ど の組織ないしは場所に所属しているのかより関心の度合いが高く、日本の文化 では、この逆になっているからでしょう。ずばり、日本では何を教えているの かよりも、どこで教えているのか、の方が名刺の書式として情報価値が高いか らでしょう。日本古来の、この文化は他の選択をするときにも支えとなります。
さしあたり、「姓(personal name)」と「名(family name)」の表記順位の 違いも同じ見解が当てられるでしょう。
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ここで、日本の文化に支えられた日本語の一般的な名詞の書式と、英語の論
理に支えられたそれを巡って、動詞に参与する項の存否と順位の違いを明示し よう。
日本語の項と順位
(所属機関名)・・・所詞、福岡大学
(資格名) ・・・・教授
(名刺所持者―姓)・・・福岡
( ―名)・・・太郎
(勤務先の所在)・・・・省略
(自宅の所在)・・・・・省略
英語の項と順位
(名刺所持者―名)・・・Mary
( ―姓)・・・Smith
(資格名)・・・・・Professor
(専攻名)・・・・・English
(所属学科名)・・・Department of English
(所属機関名)・・・ABC University
(勤務先の所在)・・・省略
(自宅の所在)・・・無
動詞「教える(教授)」に参与する「項」は他にも想定されるが、日英語に 限定すると、ほぼ上記の通りであろう。名刺は一種の自己紹介であり、他に載 せたいお知らせもありうるが、小型のカードという制限もあるので、何もかも というわけにはいかない。
項の存否と優先順位を決めるのはそれぞれの言語の論理とか文化による。英
語文化では、個人名を最重要視するため、「姓名」より、「所属機関名」より先 に設定されるのであり、日本文化では、個人よりも、これをその一部として取 り込んでいる「組織」を重視するため、いの一番に設置されるのである。
日英文化のもう一つの違いは、自宅の住所と電話番号である。英語で書かれ ている名刺にこの手の情報を私は見たことがない。この点、日本人は寛大であ る。もちろん、最近では日本人もプライバシーの尊重から、英語に倣って、
office(研究室)のものだけにとどめるのが主流である。
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次に、日英語の「項」選択の特長を、別の角度(言語)から覗いてみよう。
別の言語を私が知っていればいいのであるが、あいにく無知なので、X,Yと いう仮定の言語を想定しよう。その2つの言語から日英語を照射すると、それ ぞれの特長が更に浮かびあがってくる筈である。
4つの言語について、結果的に、次の「項」の在(+)・否(-)が得られ たと仮定しよう。
言語 項
所属機関名(所詞) + + - +
性別 - - + -
年齢 - - + -
健康状態 - - + -
名前 + + + +
資格名(教授) + + - +
専攻名(英語) - + - +
理由 - - + -
年数(時詞) - - + -
年収 - - - +
宗派 - - + -
それぞれの言語の「項」選択の特長であるが、落ち穂拾い的に指摘すると、
名刺所持者を巡って、「性別」と「年齢」が日本語・英語・Y語には添加され ていないが、X語には付着されている。「福岡太郎・男・45歳」といった具合 にである。このように名刺に記載しなければならないとなると、毎年更新を余 儀なくされるので大変であろう。しかし、書式になれてしまえば、文化の習わ しであるから、当然なことになる。それが文化というものである。X語から見 ると、この情報を記載しない日本語とか英語がおかしいことになる。
前に「何を教える」の「何(英語)」を、つまり目的語を記載しない日本語 は非論理的だと、私は英語の観点から嘲笑したが、同じことは、逆に、X語の 観点から、英語に対しても、英語の名刺に「年齢」とか「健康(痛風とか喘息)」 を付記しないのは情報不足で、不十分で不誠実だとけなされても仕方ないであ ろう。一方、英語や日本語から見ると、「年齢」と「健康」を記載するのは私 的な領域に踏み込むことになるから、受け入れられないことになるであろう。
これはどちらの言語の観点が優れているとか、劣っているといった問題ではな い。それぞれの文化のなせるわざなのである。
この種の違いは、他にも挙げられるが、この辺で止めよう。要するに、言語 間の「項」の選択ないしは「存否」の問題は、つまるところ、文化に乗っ取る 習わしであり、単純によしあしを決められる性質のものではないのである。
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家族構成 - - + -
知能指数 - - + -
勤務先 + + - +
自宅 + - + -
パソコンで - - - +
以上、議論が右往左往しましたが、まとめとします。
論点は、「福岡大学教授」という書式は意味的におかしいのではないかとい う疑問から入りました。英語では、間に、目的語の「英語」とか「哲学」が挿 入されるのが常識だからです。この点で「書道教授」といった組み合せは正当 化されます。しかし、論点は、言い換えると、「私は福岡大学で教えている」
となり、この統語表現は英語の書式「私は福岡大学で英語を教えている」に比 べ、何かしら不安で、不足感が感じられます。
この感じを推し進めると、目的語が挿入されていないことが元凶であるとい う風に議論が展開していくのですが、私はこの方向へ進まなかった。目的語の
「英語」が「ない」のは、確かに片肺であるが、完全に不当な文であるとも決 めつけられないと踏み止まった。そのとき、私の頭の中に「日本古来の文化」
が動き始めたのです。そう、日本の文化は「個人の所業」より個人を包み込む
「組織」を優先させることに気づいたのです。その気づきが論理的な意味構造 を凌駕したのです。
「福岡大学で」私が何を教えているかという個人情報より、私がどこの組織 に所属しているのかという公的な情報の方が日本の文化では重要視されるから だと思いしるにいたったのです。この思いから、英語の論理を押し退ける議論 をしました。動詞を巡る「項」の存否と優先順位は言語によりさまざまで、そ れなりに尊重されねばならない旨、説きました。