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藥師寺東塔復原考
著者 浅野 ?
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 2
号 1
ページ 99‑104
発行年 1953‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/10105/5156
薬師寺東塔復原考
浅 野 清
I
最高の票辞に砥する美しさを持つとされる襲師寺東塔についてに、建築史上向考察を必要とす る問芯が多々ある。その一叫つ且古くから論じられていた藤原京よ恒つ移転の間遇である。最早移 超詮の成立は不可能とするも、藤】京京の沓卸寺塔婆を摸した屯のと考えなければならぬ理由は充 分ある。然し今はそれらの間取ま他日にゆすって、この塔の原形について、多少考証しておきた
レ、とノ甲、う。
古建築でも特に上代に属する程のものは、必ず渡世の修理改造を受けている。然もそうした修 理は覆臭的意識を持たなかった時代になごれたことして、もとより原形の年貢される筈のもので はなかった。かしる方面に於ける蓑術的なセンスは、天体に於て時代と共に馨しく低下して来た のであるから、塾術的立場からすれば、修理は即ち改薫であり、更には統一の破壊であった。従 って墾術作品として考察の対象とし、乃至は時代文化の所産としてこれに臨む場合には、二先ず原 形の荏原的考案を経た上でなされなければならないことは自明の理である。
然し原形復原の菜料には、不用意に現された充の仕事の諸痕跡や偶然利用された廃棄古材等が 活用されるのであるから、茄に可能な訳ではなく、叉たとえ彙岩に遮れていても、百ノて−セント に適中する訳のものでもない。それ故に、せめて発射を網羅することが出乗る解体の機会を利用 して調査するのが最も望ましいのであるが、この塔の如きは、不幸にして、眈に明治三十二年と いう、か1る学的考察の未熟な時ノ仕に修理を終ってしまっているのであるから、今は僅かに残さ れた痕跡によって、多少共可能な範囲の考察を試みるこどで満足する他はない。
朗で聾臨寺兼堵血、上代にまで遡る遺構としては、稀に見る保存の艮いもので、葡輪の如き殆 ど原形のま」現され、裳階部分法主屋の屋根で佐護されているため、斬姐摘嗣寸より勾爛舘相に 至るまで当初材を多く青し、部材′々質の良好であったのと†田寺って、伯材に蘭は二量が触る多い。
こ頼ま後世の大陸哩を余り受けなかった1めで、恐らく明治三十二年より三十三年に亘る保存法 に退く修理前には余程完全に当初材を止めていたのではないかと推察されるのである。従って、
この塙は大体に於て余り原形がくずれていないのてあって、このことは、その意匠が卓絶してい ること1共に、この坊の低値を油が上にも高くするものと云ってよい。
l
尭す記路によって知られる位現の国数と、現状より川定し捲る反射妄現の概況を一一資して後、
復原的考蜜に入ること1しよう。
東塔に関する指事は逓しく:不明で、その肢も古いものは犬永凹年の勧進の状に現れるものであ る。即ち、
就中顧東西二藁之塔婆桔如莱八柚之化儀以功海泥辻巌堀棄土石烏彿故誠是楽沙烏湖帖㌫乙功而仁一 私南無彿之金言有傾者哉雑然印章亀城薮螢施震玉拓珠盤慎斜金鐸宝軌用拙鼓土彿之等糾机r 易破衣塵之衆一也
とある0大祓の大火災に助かり、永蹄の大風にも倒潰をまぬがれたこの坊は文安二年の天工にも 大破を蒙った程度ですんだのであった。前文には誇張的な所もあろうが、如来八砧の化儀執まひ
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どく壊放していたらしい。
襲師寺誌によれは、11三保元年郡山城主本多振己正勝が佗舘を行っており、叉充祓七年に茹和こ 豊出した伽藍帖記菖按には
「天正年中筒井順慶兵乱の節、敗壊仕陰性加修理]二今租環篠得共敗壌任侠」
とあり、これによって当時の以況ノ蜜せられる。攻に四天元に天明位理の豊富あり、
天明 三 発卯大江棟梁喜多
文化の頃、又修繕の議があったらしく、攻のような断片が琵ざれている。
大塔五閏掴尺四面 屋根和行七聞蝕 高十六丈 柱薮二十七本
右屋根行亘り八開に可レ有レ之処百六十年以飴荘保年中陪距の鋤榛鼻四方二尺切諦め屋夢亘り 鮨し院政凪聞直に吹付て当時捻痛に相成候(中略)
右大塔往年既に及二大破疇殴処砲台象御重暁て正保年中紘理相加暁乍レ然修援仕方施主より天 工諸職人請負に被二申付一炊に付天工共しり了鶴にて朽描昧垂木蓑板取魯不レ申朽揖険路垂木式 尺斗タj縮め芸域不現数梯、勒縮射駐車ホ鼻エロロロを打瓦茸附放牧捻屋秩四尺縮り怯C下略)
とある。これが屋根総長を四尺効縮めたことを意味すれば、外観上大問題である量、これに就い ては後に触れること1しよう。
今この建物を見るに、特に風雨に曝される主屋の軒や初履裳階下訃並に石口等にはかなり明治 修理の捕足羽を存するが、其他は部禍がよく揃い、中富の小修理の痕跡を余り溜めないのである。
唯その中にあって特に注意されるのは、初属・及び三暦裳階柱が内外面入替えられて、現内面に著 しい風蝕を見ることである。そのため、二暦裳櫨では相克する側大斗問を繋ぐ異材が通されてい るのに、三周ではそれが切断されている。従ってこの仕事は建物の水本的解体を行わずに局所的 に実施されたことを知る。こ紬は内外商の丸蝕差より判断すると、比較的近世に行われたことで、
前記々錐に当就めるなれは、打保の修理当りにすべきであろう。三恩では佳裏返し前瀾当妨偏旗:
長押が失われていたらしく、長押当地方;の隆起を見ない。叉初値裳胎腰長押、石口廻り地超、各 層靡払悉く明清帖理の潮崩よりなり、手引昏主屋掲周並に内紬雑作は悉く失われ、叉払新にせられ ているのむ見ると、この辺狛二、大丸の品進虹や九頑、の注状に見るように、破壊が進たしかったの であろう。
然るに以上を挽く各部、特に多くの場ノ含鼓せ修理を免れ近い射過り、絃勾楓等が、前記のよう に、比較的よく旧細目形式を残しているのは着通し速いことで、これらは水本的解体を行うので なくは手を下し適い仮作を具えているため、禍当の朽損を蒙り乍らも、明治の修茸酎こ至るまで、
略当初の状態を保ち続けて来たものと蜜せられるのである。たから勾爛及びその膜組部分は軋蝕 極地て甚だしく、主屋の薫拇斬部材は大半明治修理の材に替っており、その内にあって、主屋々 収に保護さ頼抜けた裳胎軒のみ融百村の保存が艮好を纏めているのである。
そこで問題になるのは前記文化年間の断片の記卦であるが、こ」に五出田尺とあるのは一間を 六尺とした場合の裳船の隅庄中心福の総長で、屋放射行七閉会とあるのは初暦裳階の屋艇を指す と見られる。三欠に屋根行遍二か八聞とあるが、初潜主崖の屋枚は一朝は六尺とした時の入間よ少遥 かに大きく造られているので、こ上に云う人間とは裳揖軒の元の長さを云うのであろう。然し袈 階の4垂は前記のように旭めて良く旧形をとゞめ、如何にしても、近世に切縮めた形跡等は毛碗認 められないのであるから、これは恐らく、裳脂軒が主屋に止して余りに短いことに発した附会の 説ではないかと思われるのである。
其他屋放勾配の如きも、この粘蓬の性質上勾胤こ腹組を持たない法腹を五重塔や海龍王寺五重 小塙等の場合と異なり、ま称と構造的に踊聯し、上層旗組に乱的せられて孟夏の余地がないので
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奉ろう、、仁、‡モうべくげ、芦▼r:腎の崖把勾配つみで㌫ろ。尤耳、これもノ已麿を蟹貰するのでなくげ、
ラ「重し憧いものてあるが、心住に船津午塙すとか、相を一部細二することこより、これを持上げ ることが可能でおるから、その懸念なしとは_云われない㍉劃 なことには、今の心性には、明治 の新7現二捕っているので、このことを等証し∴得ないのであるが、環上層と虹も他哲と屋根勾配を 等しノくし、同株樺の上に屋釈瓦を升いたものであることは、E糾こ法権寺五軍堺で溢龍ゴ王寺五軍事 塔、砂聖院五耳小堺等に就いて知り指たことてこ11この写はても例外であったとは考え華い。
然しこ々に考慮を要すろことが一つある。それは塔の如く、極めて一多数の部材を琶重ねて行くも のでは、恕設棲、上からの荷重を受けて庄騙され、総高に於て相当沈下すると考えられる点であ る。これは持して一尺以内程要にはとゞまりかねるのでHないかと想像される。然レじ、桂の方は 堅材で、その上に相輪がかむさるのみであって、他の構適材と!]こ描線されているのであるから、
計画尺より締受ることはあ頃等ない。このようなことが、軍腎は揖上′腎と粧砧の問に隙を生rさせ、
それを構うだけ、敢上層の星快を高めろ必要を登ぜしめたかと.P、われる。勿論予め柿蓬部分の沈 下を見通して計画されたとすれ・け話は帥Cあるが、心桂の方が短くなりすぎた際且厄介なので、
竿際私信己のような場合を生じたであろう。理科封二l膏の星釈勾配がかなり好くなっているつ骨、
如上の結果に過ぎないのか、後世改修されたヰのかを細断することは二田酢亡ある。
攻に屋構重みや屋杭茸方法の如きは、厘茸等を受けていることして間馬とするに当らず、軒反り も比韓的古詞を愕えている如く悪、われはするが、粟階に於て、桁上に添木をして、酔反りをつけて いろ当りの仕事は疑わしいものであり、主星瑚闘こも上張を則ってオ負の反摘:かえられており、
飛酸隅木の如きも悉く輔台の新材に替っていること1て、精密な晋取こ於ては倍をおき難いもの である。屋快重みも恐らく菟殆どないものであったこと穣登院小塔に見る如くで、主星屋根にも 稚子棟を迭らす、鬼瓦!津相より少し′後方に肯したであろう。傭座の木口の本員や茅負前面より の出は明治修理に際し、中華以後の′篇講に従って棺されたもので、辛に秘く短かったことが現存 旧樺によって睾証山東、木口を出しただけ樺具前方へ引出され、木負際で引出しの痕跡を見せて いる。
このようであるから、循環的考察は先ず裳階等に於ける雑作に発注さるべきであることが理解 されよう。
Ⅲ
(1)裳階脇の闇に洋子窓を肯したこと。(第一図参照)
各腎裳階各河共中央問は戸口となっているが、他の闇は今全部畢となっている。然るにこの壁 の問には悉く顆長押がめぐり、二暦尺び三周で骨、車乗に苑を入れてこの纏長押を支えている。
初暦及び三暦の腰長押焦悉く新枠になってはいるが、三暦で江住が賽返されていて、充々同ド札 付幅の腰長押がこの位畳に肯したことが明瞭に知られる。勿論この長押且晰面矩形で、見何幅の 薄いことからみても古式のものである。然るにかく長押がめぐらされ、住用の琶い二啓三暦では その中央を束で変られてまでい乍ら、この上が聖となっていることに疑問を持たされる。意匠上 から見ると、これらの柱間は悉く連子窓であったと考えたいからである。この点を明らかにする ためには、畢射散去してみれば一番よいのであるが、今それは許されないので、丹念にその痕跡
らしいものを押来してみた研、二暦頭貰下面に於て、現地型により、方立愕:のもの」存在した形 跡が認められ、内部から同庄蝶の見られるものも一二あり、按に三暦ろこ於て頭首下面にその椚穴 を軍施した㍉柄環の佗習慣頭貰刷客埋り析多少ずれて納められている1射系もあり、寸尺正しく捕 わす、柄 取か立つ中空こちつとう、、一方に牛寄って、・へ七五甘牒ごbるが、凰蝕こよ 方立彗可
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と沌宣され郷湖つ内済寸法を押るに、二。訂尺又誓二・六九尺に茨ず、方千旦付巾法王寸見当 らしい。かくして、方立と桂の抽こ.−は且廿甘七人寸且当の協隼机H懸ることしなり、実体中央聞 戸口に於けち方予及び両脇壁の見付幅とF一致するようである。二層三暦の袈階柱間は各辺三等今 されているから、このような割付は意腫上からも首肯倍額ることである。かく腰長押を持ち、方 立で阿れたとすれば、その件こ封雪子窓を存したと考える他は.ないのである。又戸rlでも別に楯 射付してはいないのであるから、河手その上の方は班接頭軋二法められたであろうが、下は長押 に粗描ほこめたとはこ考え ̄肝.、から、法隼寺格及り金軍票階に見る如く、差押上に横河を一丁おいて、
方立と華にそれに斌込まれたであろう。初唐芽隅柱が向きをかえられ、今側面を見せているもの が−一つあるが、顆長押の軋ヒに当って壊木主音するの!ま注意を項し、これを傍証する如くである。
珂貫に直接道千々を棋めた例は按摩寺五耳塔初層、聞及び同寺金堂裳階に寮ても見られる ので、
異例とはなし叩い。軍踪この裳階ここ於て更に頸貰下に朔日の如きを挿入する曙は連子窓の高を一 層低め、邑耳苦しく見せろことしなって不利となろう。
初暦に於ては、戸口両脇の方立も桂に接して取付き、脇壁を存しないのであるが、初暦で蚊柱 高に比して拝聞が狭いので、窓に放ても同株.方立と柱に椋しめて、協聖を作らなかったであろう
とノP、われる。前記角柱が向きを賛えられて、充側面を正面に見せておるものによ頼ま、肝長押よ り上に二筒の敦木もり、これ崇その間情の遭い桝からみて、脇艶の聞波穴と見るよりは、方才を と折るための大柄穴と見るべきかと甲、われ.ろ。命を暦装階内側に且現存搾長押を欠き、初暦では 粕町を見るが、桂を内外人事えてない二暦住内面に畔長押節付痕跡を肯することよりして、亮は 顆昌?よく、杵の内外に楼長桶を肯したものと見られる。
再来連子窓は革に抹光のためのみでなく、外寵を引立てる上からも要求されるもので、回廊に
!∴必ず薄手窓を澤ね、塔や金堂でも軍手窓で阿れた例は洪堕専念堂及び堵の栗階にも見られ、唐 招堤寺金堂の如きほ、戸口以外焦悉く淳子窓にされているのである。聾肝寺の長和縁起を見ても、
講堂の項に、「甫燕戸東西各戸一問。北戸三間。日蝕皆冴子」とあり、金堂や堵についてはその 点に触1ノていないが、上記の語例から推しても装階しり外側が壁で寛がれたまLになっていた等と 法任毎考え得ないのである。
(2〕戸口迫りの複原(筍二阿参照)
下暦日ロに於ては、頭耳、粍及び弛覆問に楯、蹴敢及び方立を入れ、頭盾及び地番前に取付け られた上下長押の間に桟付板戸を掃っている。葉返された侶柱表所にも上長押取付釘穴を肯する し、各住の頂薫くに融要項型師金具取付痕跡を鍔1が、このことは上長押をとめた釘軌に應すべ く、各柱頂近くに百缶金耳を打ったものと解され、上長押が旧形式む踏んでいることを真言すると 見られる。然るに更返された侶桔両に碓長押取付の釘穴を肯せず、下長押や拙家が明治に新材に なっていることからすると、下方の状態が見舞と興っていたらしい。或は相接から蹴故を追出し た如きものが存したのかも知れない。二暦及び三腎では扉が内開きになっており、高の低い駅係 もあって、方立が正接頭貫に取付き、扉は頭貫及び地産の背面に取付けられた厚板杖の部材に蹴 められている。こ出土外から見られない朗のこと1て、当初からこのような仕事がされたと見て
よレ、であろう。
鼻はすべて新材に替り、横付板戸となっているが、趣めて粗末なもので、旧形式を障えている
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