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ローエンシュタインの詩の翻訳2編

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Academic year: 2021

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ローエンシュタインの詩の翻訳2編

       

小野  真紀子  訳

星と心の合一

  賢き建築家[神]はこのすべてをつくり、一部は相反するいくつかのものをうえ つけたが、大部分は世界の大創造を驚くべき合一の鎖でつなぎ、それ自体では相反 するその性質をここちよいハーモニーで結びあわせた。それゆえダイアモンドと磁 石は互いに反発する。アフリカの石[ダイアモンド]は、磁石が鉄をひきつける欲 望と同様の強い力で鉄を突き放す。柏とオリーブは和解することなき死敵である。

鷲の翼は他の鳥類を引き裂く。鶉とフクロウの血はたとえ混ぜられてもともに流れ ることがない。象は羊を恐れて逃げ、馬はラクダをみたりその匂いを嗅いだりする と震える。復讐に燃える虫はユピテルのふところへ這いこんでさえ鷲の卵を割ろう とする。これに対しアンブラと琥珀はもみがらをひきつける。禿鷹の骨は金を、光 は迷えるコウモリをひきつける。暖められた麻は燃えあがる火をひきよせ、かかげ られた光の炎が触れることなくとも発火する。金と水銀は混ざりあおうとする激し い欲望を抱いている。葡萄と楡はふたりの恋人のように抱きあう。海豚は人間に恋 をする。しかしとりわけ世界の魂は星の天界と下界をそのように親和させるので、

地下の穴の中の金属に7惑星がみられるように、それらの星々のもとにすべての鉱 物の力能や強力な薬用植物の効能がみいだされる。

それゆえ賢者たちにより後者はまさしく天の植物、同様に前者は地上の星と呼ば れている。なぜなら古来世界のミネルヴァと呼ばれてきたヘルメス・トリスメギス トスの教えによれば、天のすべての星々が大地に隠されているようにすべてのエレ メントがその受けもつ性質にしたがって天に存在するのであるから。

この泉から才知ある自然研究者はその知識をくみだす。つまり金属では鉛が、鉱

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物ではサファイア、薬草ではクリスマスローズ、樹木では糸杉、動物ではラクダ、

鳥類ではコウモリが不機嫌な土星(サトゥルヌス)と親和性をもつという。そうい うわけでめぐみの星である木星(ユピテル)には山羊、エメラルド、白百合、オリ ーブ、砂糖、シナモン、鷲、象が親しい。燃える火星(マルス)は鉄や硫黄、磁石、

イラクサ、胡椒、狼、鷹のなかに彼の星の赤色に劣らぬその熱の特徴を有している。

やさしい太陽が金やルビイ、乳香、葡萄、オレンジの木、白鳥、獅子において世界 の大天蓋におけるが如く昇降するのをだれも否みはすまい。美しい金星(ウェヌス)

の恋する光はまた銅に珊瑚、いわゆる女性の緑髪、クローバー、薔薇、鳩と孔雀に その気品をみせる。活動的な水星(メルクリウス)の作用は水銀に、杜松の木に、

猿に、オウムに、蛙とそれから蟻にあらわれる。太陽の似姿たる月は、銀、クリス タル、真珠、クレソン、蟹、蝸牛、蜘蛛にその生きた映像をもつ。そしてもし愚者 がつらなりめぐりゆく親縁性とその天と地のハーモニーの働きを疑うのであれば、

彼等に動物、植物と鉱物が眼にみえる証拠をみせてくれよう。ヤツガシラはその頭 上に自然の冠してくれた28本のそれも7色の羽をもっている。或る虫はまた30 本もの足をもっているが、それはゆえなきことだというのか?  私はこのことを賢 きエジプト人のいうとおり自然の深遠なる神秘であると思う。つまりこの虫の場合 は太陽[暦]の月でありそれは30日である(この間につまり世界の大きな眼[太 陽]は天の獣帯のひとつの宮を通る)。あの鳥の場合はその7つの色に7惑星の性質 が、羽の数にはまた月の年があらわされている。すなわちつまり月は28日で軌道 を一周するのであるから。このような神秘がとるにたりない動物に隠されているか らといって驚いてはならない。迷信深いエジプト人たちは虫[スカラベ]を神々の うちにかぞえいれ、神々の隠れた力によって魂を入れられた世界の精神の動きをそ れで表現したのだから。あたかもその精神[虫]のなかに2つの天の光、太陽と月 による時計が隠されているのをみたかの如く。つまりその虫は新月に牛や馬の糞を 少量とってきて、朝から晩までそれを丸めるがそれは丸い地球を模倣しているだけ でなく、太陽の軌道(つまりふつう天は南西から東へ動く)をまねている。最後に はそれを大地に埋める習性があり、月がその軌道を一周するとそこからはこれとお なじ動物[虫]が生まれるのである。

雄羊座は昼と夜の長さが等しくなるたびにその位置を変える。大犬座のシリウス が昇ると不吉な鳥フクロウは姿をみせない。アフリカの野性の山羊は昇りゆくシリ ウスをじっとみつめて祈るようにみえる。この熱い星が昇るときには動物や魚が驚 き、海が波をその岸に打ちつけ、樽のなかのワインは沸き立ち、犬が興奮し、ムネ

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アカヒワはその歌を沈黙に変える。それどころか御者座が昇ると雲雀が、そしてシ リウスの先触れである美しい星、小犬座のプロキオンが昇るとナイチンゲールとカ ッコウが黙ってしまう。これらのことは偶然であるはずはなく星々の特別の親和力 から或いは反発力からきているにちがいない。

この結びつきの真理を植物でたしかめようと思えば、エジプトのロスマリンの花 をみるべし。それはオシリスがイシスを抱いたときひとりのニンフより咲きいでた という。彼女はヘラクレスに恋しアポロンに捧げられる草に変えられたということ である。この花は、これは私が言うのであるが、向日性が大きい。それでこの花は 世界の大きなたいまつ[太陽]が昇るとそれとおなじ動きで夜に閉じていたその花 を水中よりもたげ、昼間その花びらを自由に開くが、夕方になるとそれを閉じてし まう。あたかも彼女の愛する偶像である太陽以外にはだれにもその美しい胸を開こ うとしないかのように。ポプラは日輪の軌道をずっと追いかけてめぐり、ヘリオト ロープもまた恋するクリュティエから植物に変わると彼女の光を放つ恋人を求める ようにみつめねばならぬ。太陽が天頂に達し、蟹座においてあとずさりするときに は柳や、楡や菩提樹、白ポプラやオリーブは以前よりもその葉を太陽のほうへとさ しのべる。葛藤(Mondenkraut)は月の動きの真の証人であり、そしてその他のすべ ての植物も泉の水のように月とともに伸びたり縮んだりする。そのほかにはエジプ ト人たちのそれゆえ神聖で食べるのを禁じられている球根は月光が満ちると干から び、欠けると再び新鮮をとりもどす。最後にまた石もこの秘密の雄弁な証人にちが いない。このような石のひとつにギリシャ人たちは花に対してと同様に太陽の渦と いう名をつけたのだが、それはなかに太陽の映しだされるのがみえるクリスタルの 鏡のようで、それどころかその石はあいだに入る月によってひきおこされる闇を暗 示するだけでなく、それは水中におかれると太陽の光を血の色にする。天の眼と呼 ばれる石はそのなかに本当に眼の星があって、そこからはまさしくひとつの星が光 を放っている。法皇クレメンス7世はある宝石をもっていたが、そのなかには金色 の粒があらわれ、それが毎日太陽の昇降にあわせて動いたという。レオ10世もひ とつの宝石をもっていたが、それは月の変化につれて白くなったり青くなったりし た。磁石に天に於ける親縁性がないのであれば、北極星をさししめしたりはしない だろう。

そのような星々との親縁性がちっぽけな被造物にみられるのだから、おなじこと が高貴なる被造物である人間にみられることをだれが疑おうか。というのもヘルメ

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ス・トリスメギストスの教えによれば人間はすべてのうちで完全なものであり、或 いは私はこれがより正しいと思うが、大きな世界の縮図であるからである。

だから人間には大世界建築のそれぞれのすべてのパーツが、完全でやすらかなハ ーモニーとなって含まれており、それはいわば小さな地図の上のこのうえなく賢明 なる測量技師のようなものであり、そしてそれは天のアルキメデス[神]が小さな 地球に非常にたくみに組み入れたものである。

人間の外部感覚は四大元素の似姿である。眼は火と、耳は空気と、触覚は大地と、

匂いと味は水と親縁性がある。

エンペドクレスはすでに人間の体の骨を小世界の石と呼んだ。人体の水分は大地 のはらわたで鉱物が示すものとおなじである。肉と血は生命により、伸びゆく植物 のように、髪は大地の花のように培われ増えてゆく。芸術がすでに手をさしのべて いるのでより美しい自然の噴水が建てられているが、そのように血管は雪白の皮膚 の大理石にあみこまれ、きわめて青いターコイズブルーも恥じらうその管はつねに 血の泉にあふれてはいまいか?  それどころか両者[人間と自然]の時のうつろい とその動きは呼応する。花のあふれる春はよろこばしい子供時代として、暖かい夏 は燃える青春として、実り多き秋は生みだしてゆく年齢として、冷たい冬はまた憂 鬱な老年として描きだされている。このほかにも涙する眼は雨降る雲に、ため息は 風に、笑いは稲妻に、怒りの身振りは怖い雷に比しうるのではないか。

最大の同形性もまた天の性質を有する永遠の被造物としての人間がもっている。

太陽が毎年めぐる獣帯のうちに人間の体のそれぞれの部位はそれにふさわしい星を もっている。雄羊座は頭、冷たい牡牛座は乾いた喉と首、温かい双子座は肩、湿っ た蟹座は胸と肺と脾臓、火のような獅子座は心臓と胃、冷たく乾いた乙女座は肝臓 と腸、陽気な天秤座は腎臓と膀胱、湿ったさそり座は生殖器、熱い射手座は腰、干 からびた山羊座は膝と甲の血管、湿った水瓶座はすね、湿った魚座は足にそれぞれ 合致して親しい。

また7惑星をよりたしかな心の眼でみつめれば、個々の人間が該当する惑星の守 護のもとに生きていると思うのは才知あるエジプト人だけにかぎるまい。彼等はも ともとミントの力によって[魂を]究めようと考えていたが、それだけではなく、

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これは星に精通したひとびとがつねに抱いてきた考えであるが、つまり星は人体の 高貴な部位だけではなく魂の内部の動きにもなぞらえられる。すなわち土星(サト ゥルヌス)は脾臓と受容力、木星(ユピテル)は肝臓と本能、火星(マルス)は胆 臓と引き裂くような衝動、太陽は心臓と生きいきした運動、金星(ウェヌス)は生 殖器と欲望、水星(メルクリウス)は肺と飛びまわる空想、月は脳と体の伸縮に非 常に親縁性をもっているという。しかしこれらの動きの根源は支配する意志のもと にある。この多くのことだけでなく人間のすべての卓越さもこれらの星々の支配下 にあろうとする。正しい会話術は月に、死にかたは水星(メルクリウス)に、雄弁 術は金星(ウェヌス)に、計算術は太陽に、歌唱法は火星(マルス)に、測地法は 木星(ユピテル)に、占星術は土星(サトゥルヌス)にあきらかな根拠をもって捧 げられる。それゆえ私は確信しているのだが、詩人たちはアポロンの7弦琴と神の 牧人の7管のパンフルートによって、まさしくこれらの星々と下界とのハーモニー をめざしてきたのだ。

だからいまやこれはたしかな根拠をもち疑うべくもないのだが、人間の心は星々 の動きによって個々の決定へとみちびかれている。しかし自由意志を妨げられるこ とはなしに。

マテウス・マハナー氏のもの言うどくろ

来たれ死すべき者よここへ、賢くありたいならば

汝らをアリストテレスもプラトンも賢くすることができようか?

そこには迷信が賢明さとともにもぐりこむ。

ソルボンヌ、ローマ、アテネもこの英知を聞くがよい。

ここにあやまつことなき導師あり ソロモンもついにはその門戸をたたく。

デモステネスも私のまえにその雄弁の鳴りをひそめ ローマ人の口[キケロ]はここに言葉を失った。

私はどくろ、墓地は学校

その教えは死の運命、棺桶が説教台。

(6)

なんと?  なんと愚かなたみびとよ!  そんなにも驚愕するか 魂を失えるこうべが舌もなく語るを?

そんなばかなことが、と思っているのか?

私は語る、たとえアクィナスが私を砕きつぶしても。

なんと?  それとも汝らはこれを魔法だと思うのか?

切られた首でも予言をするであろうに。

いやよいか、これはエジプトの王ネクタネブスの術でもなく アンモン神のしゃべる偶像もすでに千たびも葬られた。

私のおしゃべり自体が汝らより疑いをとりのぞこうぞ

技術や悪徳が口のきけない私に話しをさせているのではないと。

狂える死すべき者よ、さあ私の姿をみるがよい!

眼は汝らの耳となり、私が

汝らに黙して教えうることを聞くであろう。

私が開けることのできぬ耳はなく

ろうのように溶かすことのできぬ、はがねの心はない マグダレーナもここに塩の涙を流さずにはおれぬ。

私の腐った息は怒れる復讐の炎を吐きだし そして都市ローマの舌[キケロの]を引き抜いた

アントニウスの妻フルヴィアはそれを針で刺すことに恍惚となる。

私の腐敗[死]のなかで彼女の怒りは冷やされるがゆえ。

地上の被造物、そして死運の戯れである私は 生きていたころ、死者よりも魂をもたず 舌は動いても語らず、時にもてあそばれ

いまやまったくうつろではあるが、これより空虚であった。

私の頭のなかではただ風がはらまれ そして無がむなしい欲望を生むのみ。

欲望の奇形児はこのうえなくいやらしい すなわちとうに腐れる美の腐肉よりも。

だがいま私の死せる無より示されるのは 虚栄の像、未来の光のろうそく。

(7)

なぜなら俗世の人は私を何の考えもなくみつめることができようか?

私の心の声がとどかぬ者よ聞け

これはおまえの似姿、おまえはおのれにぞっとするだろう。

労苦と汗のあとにおまえはこの栄誉の頂点へと達す。

ひからびた骨はクリスタルのように透け そこにいやらしき人間の輪郭がみえる。

私のぼろぼろのどくろが教えるは、きまぐれな運命が 砂上の楼閣の土台をひっくりかえしてしまうこと。

私の暗い眼光は闇のなかで汝らに示す

どんな太陽もここでは永遠に輝くことがないと。

愚かな者たちよ!  汝らの頬の野原は 薔薇園で、そこは常春が花咲き

よい香りの百合の垣根に囲われているとでも思うてか さあみよ、ここにはただいらくさのはえるのがみえ 腐肉を黄色いうじ虫がひたと吸う

この肉を以前は千の魂がキスの砂糖で甘くしていたのに。

なでしこの口には緑の苔がはえている

これは生前ルビイや高貴な赤としてたたえられていたのに。

多くのヨナがこの頭をその南瓜にみたてた すなわちそれは死のうじ虫に吸われて枯れていた。

盲目なる者たちよ!  彼等を眼光の稲光が襲う さあ知れ、愛の魅惑は邪悪な蛇の毒の光であると。

みよ、うつろな眼窩に虚栄の蛇の棲むを 多くの愛のまなざしが毒と熱をとらえたがゆえ。

この鼻からはできものや臭い泡が流れでる

それは以前ジャコウやアンブラ[香料]のような香りがしたにちがいない。

いまやしなびた皮膚は禿げた額を覆うこともできず その髪のまえに朝焼けもいろあせる。

口は、そこではむかし欲望がその命の泉を得ていたが いまはバジリスクの如く悪徳の息を吹く。

(8)

だがなぜ私はこんなに、美と

土くれから生まれた四肢の外見を嘆くのか?

神の英知のありか[頭]は灰と化し 天上の感覚はいまや地に落ちた。

記憶の本に(そこには 神の指で記され、たえまなく

神、自然そして時が我らをつねに読みといていたが)

死の矢によって虚栄は書き込んだ

愚かで賢い者たちよ、来たりて私の意見に賛同せよ 牧人のモプソスも葬られてはプラトンの如く賢いと。

マハナー氏はこれらを彼の死体をみつめる者に教えている。

大いなる知は

労苦と汗が70年も費やして建てた時を一瞬にして忘れる。

学術書も虫に喰われよう。

その魂がこの世を終えるのを気づかぬ者も わずかな土と死衣にくるまれる。

賢者ももはや自由意志のなんたるかを知らず 何千人がすでにその遺書を著した。

そして墓に多くを記す者よ 知れ、墓碑銘も無駄になるだけと。

だが私は虚栄についてしか語らぬのか?

私の死骨のうちに永遠はまったくないのか?

小世界[人間]は時とともに完全に塵と化すのか?

いま沈む太陽は明日は輝かぬのか?

臆病な死すべき者よ!  さあこの穂をみよ

それは地上からうつろなどくろを貫いて生えている!

一粒の種も草となり

蚕も再び生を得る[羽化]と信ずる者は 大地が滅びようとも

この灰からフェニクスが復活することを信じる。

(9)

つまり一粒の種に糸杉が含まれ

刺や茎のなかに薔薇や葡萄があるのであれば そのようにまたどんなどくろも不死でありうる。

うつろな骨も多くの美しい肉に包まれる。

神は人間に刻印した似姿を

どんな雑草も死滅せぬのであれば、完全に腐らせることはできぬ。

この死者は墓に入れられるが 死者の名声は棺や土には収まらぬ

それどころか、神が墓地で刈り入れをするとき どくろの私も天使の顔をしているだろう。

(10)

解説: 最初に訳出したのはダニエル・カスパール・フォン・ローエンシュタイン

Daniel Casper von Lohenstein, 1635-1683) に よ る 「 星 と 心 の 合 一 」

(Vereinbarung der Sterne und Gemüter. テキストは Lyrica: die Sammlung Blumen 1680. Hg. von Gerhard Spellerberg. Tübingen: Niemeyer, 1992. のなか

Rosen 所収)の前半の部分訳である。後半は私信にわたりすべて訳すと冗長で

あり、前半のみで主旨が充分伝わると判断して割愛した。詩文全体にちりばめられ た迷信や、マクロコスモスとミクロコスモスの照応の記述をみてわかるとおり、ア ーサー・ラブジョイの『存在のおおいなる連鎖』や、ジョスリン・ゴドウィンによ るロバート・フラッドの『両世界誌』を地でゆく17世紀アニミズムの精神史的資 料である。散文詩でありまた機会詩(祝婚歌)であるが、その詩形、及び自然を対 象とし愛をテーマとしていることから、牧人は登場しないものの牧歌詩のカテゴリ ー に い れ る こ と も 可 能 で あ ろ う 。 そ こ に は 当 時 の ヴ ン ダ ー カ マ ー

(Wunderkammer)にみられるような博物誌の世界が彷彿としている。ガストン・

バシュラールのいうとおり科学史は科学的誤謬の歴史であるが、その宇宙にゆたか なポエジーがあることがわかる。

そのつぎに訳出したのはおなじ詩人による「マテウス・マハナー氏のもの言うど くろ」(Redender Todten=Kopff Herrn Matthaeus Machners. テキストは上記

Blumenの Hyacinthen所収)の全訳である。原文は韻文で10行11連、各連は

ababcbcbdd と押韻されている。死のアレゴリーによる説教という設定で最終2行

の「それどころか神が墓地で刈り入れをするとき、どくろの私も天使の顔をしてい るだろう」は、ヴァルター・ベンヤミンの悲劇論(Ursprung des deutschen Trauerspiels)の後半部に於いてモットーとして引用され有名なフレーズである。

バロックらしくヴァニタスやメメント・モリが全面にでており、またプッサンの絵 画『我またアルカディアにもあり』を思わせるモチーフもひそめられ興味深い。

参照

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