18世紀におけるイギリス産業資本家の政治的台頭
その他のタイトル The Political Power of the English Industrial Capitalists in the Eighteenth Century
著者 荒井 政治
雑誌名 關西大學經済論集
巻 5
号 1
ページ 45‑79
発行年 1955‑04‑10
URL http://hdl.handle.net/10112/15769
4.5
十八世紀後期ーーいわば産業革命前半期ーーにおける家内工業制度から工場制度への推移をめぐる経済構造の︑
従つてまた社会構造の一大変質過程は政治面に如何に投影しているであろうか︒かような関心の下に︑十八世紀の
経済的変化が生み落した指導的産業資本家層が︑どのように政治面に進出したかという問題をここにとりあげてみ
よ う と 思 う ︒
そこで本論に入るに先だって︑問題点とそれへのアプロウチの仕方について少しく説明を加えておきたい︒
一 ︑ 序
一 ︑ 序 二︑内国消費税及びアイルランド涌商問題
I
内国消漿税
I
ァイルランド源商問題 三︑産業資本家団体の政府攻勢
各種贅本家団体の結成 産業資本家の勝利と
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の設立
四︑英仏涌商条約の締結と産業資本家
ー ー
荒
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四 五 政
十八世紀におけるイギリス産業資本家の政治的拾頭
治
46
いわゆる やっと十八世紀末ないしは
製造業者*
商 人
ロンドンの銀行業者 地 方 銀 行 業 者 英 蘭 銀 行 理 寧 束印度会社理事 保険会社狸事 郵 便 業 者 醸 造 業 者 印 刷 業 者 本 屋
ロンドン市会議員 6人
12人
15人 8人
3 人
2人
1人
1人 4人
1人
1人
4人
*この中にはかの
SirRobertpeel, Richard Arkwright
も含まれている。
十八世紀におけるイギリス産業資本家の政治的盛頭︵荒井︶
十八世紀の産業革命の進行過程においてみられる有力な産業資本家のグループが︑どの程度まで下院に発言力を
求めつつあったか︑これをジョージ三世即位の年から十八世紀末にいたるまでの議会の分析を通じて確めることは
極めて素朴な方法ではあるが︑われわれの課題にとつて基本的の重要さをもつであろう︒ところが︑この間の議会
構成の研究自体がネイミアー教授
( L .
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)
の努力にもかかわらず未だ歴史家の開拓を待っ多くの分野を残
しており︑従って上述の問題についての正確な解明は早急には望みうべくもない︒しかしこの問題をただ単に議員
構成の表面にのみ限局して︑例えばそこに現われる産業資本家の数のみを以て答えんとするならば︑大まかな傾向
は必ずしも求められないことはない︒時間的に少々ずれるが試みに一八一八年を例にとれば︑下院議席総数六五八
( 1 )
の中︑商工業界出身者と考えられるものは五八人に過ぎない︒その内訳を示せば次の通りである︒
が選挙を通じて議会に政治力を求めはじめるのは︑ これによっても産業資本家の占める割合が如何に微少であるかが往匠理解されよう︒かような状態は︑中産階級が
( 2 )
参政権を獲得した三 0 年代になっても︑それに即応する如き大きな変化を示したわけではなかった︒実際のとこる
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四六
鼻
7
十九世紀初頭になってからであった︒すなわち一七九六年の選挙に至ってプレストン
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の綿業資本家
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が︑古くからそこを支配していた
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y ! ! . I . 挑戦している︒この年︑
たけれども一八 0 二年には成功している︒また数十年に亘つて
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の地盤とされていたランカッ
7( 3 )
ーのウィガン
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から二人の製造業者が選出されたのも同年のことであった︒
かように産業資本家の議会への進出は意外に遅れるのであるが︑その主たる理由の一っは︑次に述べるように︑
彼らの政治に対する関心ないし態度の中に求めることができよう︒
政治の世界において産業革命を成就せしめたのは︑イギリス中産階級のマグナ・カルタとも称すべき︑かの
Re
︑
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(1
83
2)
であったが︑︐それへの動きはすでに十八世紀後期には漸次明白な形をとりつつあった︒この議会
改革運動にたいして産業革命が如何に影響したかについてウエイル
(G . Wh al e)
は ︑
よる著しい社会的経済的変化によって影響されることは軽微であって︑
十 八 世 紀 に お け る イ ギ リ ス 産 業 賓 本 家 の 政 治 的 羞 頭 ︵ 荒 井
︶
四七
こうした要求は成程新しい階級的利害によ
つて促進されはしたけれども︑それはむしろ十八世紀全般を通ずるイギリス商工業の一般的発展の所産であると見・
( 4 )
ている︒かかる見解は十八世紀末にいたる迄の段階︵産業革命の前牛期︶に関する限り妥当な見解というべきであろ
う︒概して新しい産業資本家層は議会への代表選出いな地方政治にすら殆んど積極的関心を示さなかった︒例えば
マンチェスター︑パーミンガム︑シェフィールド等の北部中部の大工業都市は議会に代表をもつていなかった︒の
みならず︑それら新興工業中心地は選挙制度︑代表制度を︑自己の代表を下院に送つて発言力をもちうるように改
革すぺく顕著な動きを示していない︒当時︑他方では殆んど全国各地から議会改革に関する多数の請願が下院を襲
い︑活澄な運動が展開されていたのである︒またピット
( W i l l i a i n
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の政敵フォックスなどは彼ら 一
七 六
0 年以降の産業革命に
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は失敗に終つ
48
しめてゆく以外は︑政治から超然としていることに一種の誇りをもつていた︒この超然さは︑ある程度地方政治の
( 5 )
場合においてもそうであった︒製造業者達は党派色に染んでいない衣を纏うことを自ら誇りとしていたのだ﹂︒そ
して躍進途上にあった彼らの若々しいエネルギーは政治の表舞台に進出するためにではなく︑むしろその凡てを挙
げて事業に集中することをこそ望んだに違いない︒このことをペアーズ
R i c h a r d P a r e s
は次の如くいう︒
ト・ビール一世
t h e f i r s t R o b e r t P e e l
の例に倣つて議席を買取った製造業者が他に殆んどなかったとしても︑それ
はただ彼らの時間と金とが︑恐らくはロンドンから数百マイルも隔たっている工場に縛りつけられていたからであ
一般金融業者や商人や船主往どには利益にならないような立場におかれていたか り︑また政界との接触を得ても︑
( 6 )
らというに過ぎないのだ﹂と︒
然らば彼らは政治から全く超然としていたかというと︑そうではない︒後述する如く一度彼らの経済的利害が直
接政治問題に捲き込まれた場合︑彼らほ態勢を整えて政治に仇きかけることにおいて決して遅鈍ではなかった︒従
つて十八世期末期において一群の
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r y `が未だ︱つの政治的勢力として成長するまでには至って
おらなかったと否定的論断を下すことは早計といわねばならない︒このことは︑十九世紀三︑四 0 年代における彼
らの輝かしい地位を考えるならば直ちに首肯されることである︒そこでは︑われわれは事実上の指導的階級︑ない
しは少くとも地主階級に比肩するまでに成長した産業資本家層の姿を見出すであろう︒すなわち一八三二年には選
挙法改正によって権力掌握の実力を獲得し︑四六年には穀物法の撤廃をめぐる地主階級との決戦において遂にこれ 党派争の渦中に捲き込まれることを極力避け続けた︒
十八世紀におけるイギリス産業資本家の政治的擦頭︵荒井︶
﹁ ロ
バ ー
に触手を延ばし︑自己の陣営に惹き入れ勢力拡大を図ろうと策した︒しかし彼らは賢明にも政治面における激烈な
﹁製造業者達は直接彼らに利害関係のある経済政策を推進せ 四八
49
註
︐
に制覇し︑産業資本家層の政治的勢力は何人の眼にも明白な存在となっている︒かかる状態が十九世紀の三︑ 年代にいたつて卒然として現われたものではなく︑すでに十八世紀の経済構造の変質過程の中に胚胎し︑徐々に育 まれていたとすれば如何なる現象にそれを認識しうるであろうか︒
ここではそれに答えるために︑ピットの幾つかの経済政策ーー内国消費税︑
問題をめぐるーーと指導的産業資本家との交渉を跡付けたいと思う︒そして従来︑どちらかといえば地主層・商業
資本家・それに技術革命を経ない旧式産業資本家に有利に展開してきた伝統的政治体制に対し︑綿業・金属工業・
掏業等を代表する新時代のトレーガーとなるべき新興産業資本家が︑どのような形でこれに仇きかけ︑実際にどう
モディファイすることができたかを明らかにしたい︒かような方法によって︑単なる下院構成の表面的変化が︑わ
れわれに物語らない彼等の政治的勢力としての特異な存在とその実力を把握できはしないかと思う︒
(1 )
E l i e H a l e v y ,
A
H i s t o r y o f t h e E n g l i s h ̲ P e o p l e n i t h e N i n e t e e n t h C e n t u r y , P a r t
I~2nde d .
`1 9 4 9 , p p 1 . 4 5 , 6 ,
(2)
一八三二年の選挙法改革直後の下院構成について
H a l e v y
はいう︑﹁新議会には陸軍府校六四人︑海軍府校一九人︑
義湧軍狩校四五人を含んでおり︑四
00
人以上は職業に従事しておらず︑ほぽ二
00
人は貴族の親族ないしはその保護
下にある者であった︒換言すれば︑中産階級の有樗者が選出した最初の改革議会
R e f o r m e d P a r l i a m e n t
は前議会と同
じようにカントリー・ジェントルマンと貴族が圧倒的に多い議会であった︒﹂
( E l i e H a l e v y ,
A
H i s t o r y o f t h e E n g l i s h P e o p l e i n t h e N i n e t e e n t h C e n t u r y , P a r t
I I I ,2 n d e d . , 1 9
5 0 ︑
6 3 p . ) ま た 呻 ︷ る 資 虹
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によると一八三七年の下院議員の中
には︑九七人の実業家が含まれており︑その中︑・銀行業者は二九人︑商人は二六人で.製造業者は一四人であったとい
わ れ る ︒
( I b i d . , p . 6 2 f n . )
て3
)
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gW h a l e , ' T h e n f I l u e n c e o f t b e I n d u s t r i a l R e v o l u t i o n ( 1 7 6 0
, 1 7 9 0 )
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r P a r l i a m e n t a r y R e f o r m , ' T . R .
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s•v o l . V ; 1 9 2 2 , p . 1 2 0 .
十八世紀におけるイギリス産業聟本家の政治的撼頭︵荒井︶ 四九 四 0
アイルランド及びフランスとの通商
~c)
新しい消費税は一七八四年に議会を通過した︒ ットに課せられた緊急且つ最も困難な問題の一っは︑ アメリカ独立戦争によって窮乏に陥った国家財政ー~公債は
︱二六万ポンドから二四 0 万ポンドに増加し︑三分利附公債は五七ポンドに暴落ーーを救済することであった︒か
ような場合︑従来屡々とられてきた例に倣つて彼もまた内国消費税
e x c i s e
( 1 )
石炭や輸送を課税対象とすべく提案したのである︒この計画が各業者の猛烈な抵抗に遭遇したことについては次節
に譲り︑ここにはその課税規定の要点を摘記しておこう︒
( A
)
ピットの政府が現実に制定法となすことに成功した
一 般
に f u s t i a n t a x
と呼ばれる綿消費税がそれである︒この新税法
│ 24
G e o .
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, c .
40
ーはファスティアンとして知られている多種多様の織物に課されたところから一般にそのよう
に称されているのであるが︑加工した綿織物︑綿麻交織物全般に及んでいる︒すなわち漂白︑染色︑捺染加工され
た キ ャ ラ コ ︑
モスリン等では一ヤールの価値三ツリング以下の場合は税率はヤールにつき一ベンスで︑ 先ずピットの政策の中︑内国消費税に関する政策を考えたい︒
ー内 国 消 費 税
にその財源を求め︑ファスティアンや
一 ャ ー ル 三 一七八三年︑政権を獲得して間もない青年宰相ピ 十八.世紀におけるイギリス産業贅本家の政治的羞頭︵荒井︶
(4)
G w e n W h a l
︑
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0p . c i t . , p .
130
( 5 ) W迂
B o w d e n , I n d u s t r i a l S o c i e t y i n E n g l a n d t o w a r d s h e t E n d o f t h e E i g h t e e n t h C e n t u r y
1
,
92
5,
p .
16
3.
( 6 )
R i c h a r d P a r e s , K i n g G e o r g e
I I I
a n d t h e P o l i t i c i a n s ,
19
53
,
p .
19
3.
殊にロンドン商人は古くから農村の選挙区を買牧する機会に恵まれていた︒彼等の議席が種々の経済的特樟に結びつく ことはいうまでもない︒なお︑この時代の政治構造に関しては畏友米田猜治氏の助言に負う︒
二
︑ 内 国 消 費 税 及 び ア イ だ ラ ン ド 通 商 問 題
五
051
ー
十八世紀におけるイギリス産業資本家の政治的撼頭︵荒井︶
五
シリング以上の場合は税率ニペンスと規定されており︑これが一ヤールにつき三ペンスを課した旧消費税に附加さ
れることになった︒更に新税法においても旧税法におけると同様一五︒ハーセントの附加税が設けられていた︒新税
法は消費税の外に毎年ニポンドの営業許可料を徴した︒徴税は特別消費税委員 s
百g11e x c i
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よ っ
て行われ︑綿業家は経営についての詳細な報告をするよう強制され︑また牧税吏はその報告の真偽を確めるため随
時工場内に立入ることを職権として認めちれていた︒これを妨げるものは二
00
ポンドの罰金刑に処せられ︑牧税
吏の公印を偽造したものは死刑に︑偽造印の押捺された商品の販売者は一
00
ポ ン
ド の
罰 金
並 び
に 頭
手 架
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二時間の体刑に処せられ︑税の延滞額は機械の没牧によって徴牧されるという厳しさであった︒破綻に陥った財政
を均衡状態に回復させんとしたピットが綿工業家の担税力に眼をつけるのも尤である︒蓋しこの新しい産業は既に
( 2 )
八万の労仇者を擁し繁栄の一途を辿つていたのである︒
( B
)
次に石炭消費税であるが︑これは石炭一トンにつき二
ツリングの消費税を課そうとするものであった︒このことは石炭を大量に消費する鉄工業界にとつて殊に打撃とな
ったであろう︒というのは斯業では丁度︑攪拌式錬鉄
p u d d i n
︑圧延 g
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g l 甘 等の作業において︑燃料としての石炭
( 3 )
が従来の木炭に取って代らんとしつつあった時期に当つていたからである︒
( C )
最後の輸送税
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に
ついては提案の内容を知る手段をもたないのであるが︑ただ分つていることはこの税に最も弛く反対したのは陶業
関係者であったということである︒その理由は陶業者の次の如き陳情書の一節に尽くされている︒﹁高級陶器の原
料はすべて何百マイルか輸送されてくるので︑或る種の高級陶器は輸送費だけで価格の四分の三を要し︑他の種の
( 4 )
ものではその六分の五を要する︒低級品になると︑製造されて市場へ搬入する連賃が商品原価より高くつく﹂と︒
アイルランド通商問題
‑‑‑‑‑‑ !
!S2
十八世紀におけるイギリス産業資本家の政治的撼頭︵荒井︶
アイルランドはイギリスの独善的政策の故に久しく悲惨な状態から脱出することができなかった︒イギリス商業
資本が下院を政治的拠点として︑ますます政治的勢力を伸長していることはアイルランドにとつては脅威であっ
た︒オプライエン
0︑
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も言う如く﹁アイルランドの最悪の敵はイギリス国王に非ずしてイギリス議会であり︑
( 5 )
また通商上のアイルランド抑圧政策はイギリズ議会勢力の向上とともに強化されてきた﹂のであり︑﹁現状を改善
( 6 )
せんとした凡ゆる努力もイギリス議会勢力が支配している限り空しかったのである︒﹂従つてこの国では経済的進
歩どころか多くの点で経済的退歩が見られだ︒造船業は全然興らず︑イギリス植民地との交易からも殆んど締め出
されてしまった︒イギリス本国市場との交易においても特にアイルランドに有利なような例外規定も設けられず︑
イギリスに輸入される全裔品が課税され︑毛織物その他の繊維製品︑獣脂︑蛾燭︑石鹸に至っては殆んど禁止的重税
( 7 )
が課された︒もしアイルランドに繁栄を許された工業がありとせば︑リンネル工業はその唯一のものであったに違
いない︒とも角も一国が僅かの産業に依存せねばならない場合衰微が国全体を覆うことは明らかである︒これが一
七八 0 年近く迄の実情であった︒こうした商工業の不振が財政に反映しないわけはなかった︒
一 七
七 0 年以降は軍
事費などの関係で経費が膨脹しつつあったにもかかわらず税牧入の方は一向思わしくなかった︒アイルランドが経
済的退歩と財政難に悩んでいるとき︑その国の政治家が何等かの救済の手を求めたとて何等不思議ではない︒自由
貿易の要求がそれである︒それに応ずるかの如く海峡の両側では双方の利益のために自由貿易を採るべしとの意見
が現われた︒アイルランド議会では一七七八年二月ヘンリー・グラタン
H . G r a t t a n
が議会斗争の口火を切り︑財
政の現状と商業の沈滞を国王に訴え出た︒一方イギリスでは同年四月﹁下院は委員会に一任してアイルランドの通
( 8 )
商に関する諸法律を考究すべきである﹂との
L o
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N u g e n t
の提案が容れられ︑ここで議決された五項目が法案と
五
! 5 3
五
なることになった︒かくしてアイルランドはイギリスに対する経済的隷属economic
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ら 脱
却 す
べ く
第 一
歩を踏み出したのである︒アメリカ植民地の独立がそれに対する剌戟となったことは言う迄もない︒これに対し全
国各地の帆布製造業者からの請願が送られ︑Lord Northはこれに妥協して︑ここに法律の制定を見た︒すなわち
18
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a p s .
55
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d
56
1 l .
よってアイルランドは若千の列挙品目を直接植民地へ送ることができるようにな
った︒然し毛織物・綿織物・ガラス・ホップ・帽子・石鹸・火薬は絶対的に除外された︒鉄・鉄器はアイルランド
がそれらの輸出に一定の税を課するようになる迄除外された︒綿糸はイギリスヘ輸入する事を許され︑煙草と麻の
栽培は幾らか奨励されることになった︒しかし是等はアイルラソド問題を解決し︑同国の貧窮を窮を救うに足るも
のではなかった︒アイルランドは強力に起ち上った︒そしてイギリス製品をポイコットする協定が制度化された︒
輸 入 排 斥 同 盟 に は G r a t t a n ,
F l
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の他知名の士が賛意を表明した︒ダプリンでは大
会議が催され︑国産品以外は使用しない旨を決議し︑イギリス商品輸入商をボイコットせんとした︒このような藤
人の﹁プラック・リスト﹂は日々新聞紙上に報ぜられた︒また義勇兵の制服には国産品を用い︑ イギリス及び外国
商品も締出した︒事実これらのことによってイギリスのアイルランド向輸出は大いに減少したのである︒さらにイ
ギリスはアイルランド義勇兵が武力を以て自由貿易擁護の挙に出ることを懸念せねばならなかった︒
0 月アイルランド議会ではGrattanが自由貿易を主張し︑
一 七 七 九 年 一
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とかの激烈な標語を書いた札を砲に
吊り下げた︒ダプリンでは労佑者が暴動を起した︒かかる烈しい運動の末︑
一 七
0 年一月末までにはアイルラン 八
ドは外国貿易の自由と植民地との可成りの程度の自由貿易を獲得.した
(20G e o .
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6,
︒しかしイギリス
1 0'18.)十八泄紀におけるイギリス産業疾本家の政治的擦頭︵荒井︶
︱ 一
月 初
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Greenでは大デモが行われ︑義勇
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すべき必要に迫られていたのだ︒ との間の通商上の不満は依然残された問題であった︒いわゆる海峡貿易
c h a n
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t r a d
e . I l l
おいては︑凡てのイギリ
ス商品が無税ないしは極めて軽い税でもつてアイルラソドヘ入るに対し︑アイルランド商品には重税が課されるか
( 9 )
或いは禁止されていたのである︒かくて両者の関係は一七八四年に至ると緊迫の度を加えてきた︒この年アイルラ
ンドは悪天候のため産業は大打撃を受け商業また不振を極めた︒アイルランド議会は産業ーー・殊に主産物としての 羊毛ー—を保護せよと要請せられた。かくて人民の関心は保護関税問題に移つていたのだ。もしアイルランド製造
業に対抗してイギリスが関税を引き上げるならば︑事を公平ならしめる唯一の方法は報復関税を以てするにあると
考えられていた︒この手段をとる場合にイギリスが更に同様手段を以て報復することが予想され︑従って敢えてこ
れを採用することはイギリスに脅威を与えることは明らかである︒同年五月アイルランド下院は国王に対し﹁英愛
( 1 0 )
両国の自由通商締結のため賢明にして熟慮せる方策﹂を樹てられ度い旨を陳情した︒従つてそれはピットにとつて
は解決を迫られた最も重要な課題の︱つであった︒ 早速ロンドンで協議が進められたがその結論はこうである︒
r
—両国間には互恵関税による自由貿易が打ち樹てられ、 アイルランド商品はプリテゾ及び植民地市場において自
由競争を許される︒アイルランド議会はその代償として世襲的牧入
H e r e
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v e 1 ;
1 u e
の 追 加 部 分 ー ー ' 主 に 関 税 と
消費税ーーを帝国防衛のため海軍の費用に充用する︒かかる﹁利益の共有は負担の共有﹂なる構想の中にピットが
抱く帝国政策の一原則を窺うことができる︒しかも彼は今︱つ重要な外交問題︑すなわち続くフランスとの自由通
商条約の締結を考慮に入れていた事は確かである︒英愛それぞれ別個にフランスと条約を締結するよりも︑両国が
確固たる経済的統一体として行動した方が好条件を望みうるわけであるから︑先づ以て英愛間の問題を早急に解決
いわゆる﹁決議案十箇条﹂ 一七八五年二月七日アイルランド議会で公開された︑ 十八世紀におけるイギリス産業賓本家の政治的蓋頭︵荒井︶.
五 四
55
註
Te n P r o p o s i t i o n s or
; R e s o l u t i o n s ・ 1
!
︑
五 五
E l e v e n P r o p o s i t i
,
こうしたピットの意図が具現したものであって︑その要旨は凡そ次の如きも
のであった︒直接または間接的にイギリスとアイルランド間を通過する外国及び植民地産物に対しては関税を引上
げないこと︒両国の産物もまた無税もしくは同一関税で以て輸入さるべきこと︒両国関税が異る場合には︑従来行
われてきた二関税率の低い方の率に迄引き下げること︒穀物・肉・麦芽・小麦粉・ピスケットの場合は︑それを便
宜であると考える場合以外は両国貿易上の総べての禁止は復活せしめないこと︒最後にイギリス政府の要求項目と
﹁世襲的牧入﹂が一定額を超える場合その超過分は︑アイルランド議会の指示によって帝国海軍支援のため
( 1 2 )
拠出すべきこと︑等である︒
この提案はアイルランド議会では概して順調に承認された︒ただ最後の第一 0 項が若干問題となった︒そこで政
府はグラタン
Gは
t t a n
の提案した修正案を受け入れ︑更に一項が追加されて﹁決議案十一箇条﹂
g s
となったわけである︒
以上においてピット政府が当面する二つの重要な経済政策の輪廊を示したのであるが︑次節においては︑
の政策に対し新興産業資本家が如何なる反応を示したかという問題に考察を進める︒ し
て ︑
これら
( 1
)
T .
S.
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p . t o n , Th e I n d u s t r i a l R e v o l u t i o n 1 7 6 0 ‑
'
1 8 3 0 , 1 9
︑5 0
p . 1 3 1 .
r p J I 一 嘩 ^
P`
1 4 1 . E x c i s e
そのものの性格については佐藤進氏﹁近代的租税制度としての内国消磯税の生成﹂︵東大・経済学論集二二の
一号︶参照
(2)~ustian
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い て は
︑
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ar d B a i n e s , H i s t o r o f y t h e C o t t o n Ma nu fa
g
u r e i n G r e a t B r i t a i n , 1 8 3 6 , p . 2 7 9 : P . M a n t o u x , h T e I n d u s t r i a R e l v o l u t i o n i n t h e E i g h t e e n t h C e n t u r y , 1 9 2 8 , p .
2 6 5 "
W .
Bo wd en o p . cit••
p . 1 7 0 .
但 し マ ン ト ゥ ウ は 課 税 標 準 を 一 ヤ ー ル ニ ッ リ ン グ と し て い る が
︑ こ れ は 三 シ リ ン グ の 誤 り で あ る ︒
十八世紀におけるイギリス産業賓本家の政治的撼頭︵荒井︶
56
T . S . A s h t o n , I r o n a n d S t e i "
l i n
t h e I n d u s t r i a l R e v o l u t i o n , 1 9 5 1 , p . 1 6 5 .
V .W . B l a d e n , ' T h e A s s g
i a t i o n ‑ o f t h e M a n u f a c t u r e r s o f E a r t h e n w a r e ,
1 7 8 4
18 6 , ' E c o n o m i c H i s t o r y , N o . 3 , 1 9 2 8 , p . 3 5 7 .
(5)G8
r g e O ' B r i e n , T h e E c o n o m i c H i s t o r y
f o I r e l a n d i n t h e E i g h t e e n t h
C e n t n r
︑ y
1 9 1 8 , p . 6 . ( 6 ) I b i d . , p .
8
(7 )
I b i d . , p . 1 7 8
(8 )I b i d . , p . 2 3 0
( 9
)
I b i d . , p p . 2 4 6 ‑ 7 両国関税表を対比せよ
0
( 1 0 )
J o h n H o l l a n d o R s e "
T h e L i f e o f W i l l i a m P i t t ,
1 9 3 4 , p . 4 6 2 .
(11)J•H . R o s e , N e w t o n , B e n i a n s . e d . , T h e C a m b r i d g e H i s t o r y o f t h e B r i t i s h E m p i r e ,
1 9
4 0 ,
v o l . I I
̀ p .
1 3 3 .
( 1 2 )G . O ' B r i e n , o p . c i t . , p p .
250ー2
には^•
T h e P r o p s i t i o n s "
の全容が示されている︒﹁世襲的牧入﹂
h e r e d i t a r y r e v e n u e は主として関税と内国消痰税からなっているのであるが︑従来これは国王の支配下にあった︒ピットはそれを国王の手 から奪つてこれをアイルランド議会の支配下に移さんとした︒その代り貿易の解放によって年々噌加する部分を帝国防 衛費として吸牧せんとしたわけで︑彼の巧みな政治的懸引が十分発揮されている︒修正された﹁決議案十一箇条﹂の最 後の条には﹁この王国の世襲的牧入全額にして⁝⁝平時の年において六五六
0
0 0
ポンドを超える超過額﹂は﹁この王 国の議会が指示するところに従って︑帝国海軍力のために充用さるぺきこと﹂
( O
︑
B r
i e n , p . 2 5 3 )
と親定されている︒
各種資本家団体の結成
﹁雇主達は常に且つ何処でも一種暗黙の︑
にとかく疎かったといわれるアダム・スミスの言である︒然しこの団結が単なる暗黙裡の団結にとどまらずして︑ ー
( 3 )
(4 )
十八世紀におけるイギリス産業贅本家の政治的撼頭︵荒井︶
︱︱‑︑産業資本家団体の政府攻勢
( l )
しかし不断の︑統一的な団結﹂をもつていたとは︑周囲の根本的変化 五六
~7
いつても
wo rs te d i n d u s t r y )
の雇傭者達は一七六四年に実行委員会を組織し︑業者の共同負担によって︑前貸問屋制
p u t t i n g ‑ o u t sy ts em
の下にある家内労伯者達が材料を横領するのを防止せんとしている︒即ち彼らは情報を集め︑悪
( 4 )
質労佑者を摘発し治安判事に引渡すための監視人を任命した︒また一七七二年には﹁窃盗・横領をなす者︑また左
様な物品を受入れる者を採知・告発すること﹂を目的とした強力な製造業者の委員会が誕生した︒彼らはこの組織
C 5 )
をマンチェスター・マーキュリー紙
M g
ge s
t e r Me r g q
に広告し︑情報提供者には賞金を出したという︒同じく
材料の詐欺・横領とか被傭者の団結とかを禁じた一七七七年の法律
(17G E o . I I I "
c .
56)
を実施するためにヨークシ
ヽ
r l
ランカツァー︑チェツァーにはそれぞれ
"
Wo rs te d g
mm it te
e
̀︑が結成された︒これらの委員会は︑羊毛
や機械の輸出反対を煽動し︑新発明機械の使用を停めるような立法措置に反対する等︑多方面においてウーステッ
C 6 )
ド業者の利益を擁護せんとした︒略同じような委員会は広く全国各地の工業中心地に設けられた︒しかしレドフォ
ー ド
Re df or dも指摘する如く︑ 一定の組織と機能を具えた半永続的のものも時にはあったが︑
( 7 )
目的のために結成され︑極めて短命であったことを認めざるをえない︒
十 八 世 紀 に お け る イ ギ リ ス 産 業 資 本 家 の 政 治 的 盤 頭 ︵ 荒 井
︶
工業の部門には政府公認の委員会
o fG re at
co mm it te e
五七
明白な組織をもつて共通の利益追及を図らんとする顕著な動きを見せ始めるのは十八世紀の七 0 年代以降のことに
( 2 )
属する︒一七八五年に各部門の産業資本家をうつて一丸とする全国的組織(=
G e p . e r a l C ha mb er of Ma nu fa ct ur er s B r i t a i J ? .
﹁
イ ギ
リ ス
H
業総会議所﹂︶が創設される以前︑すでに各工業中心地には局地的組織が普及しつつあ
( 3 )
った︒それらの資本家団体もその主たる機能が如何なるものであったかによって幾つかの類型に分類しうるのであ
るが︑何人にも明らかな区別は︑それが政府公認の団体であるか否かということである︒伝統的産業である毛織物
が各地にあったと考えられる︒例えばランカツァーの羊毛工業︵と
多くの場合は特定
‑'8
全業者の総会﹂が
B u l l ' s H ea d I n n
六月二六日の告示にある如く︑
十 八 批 紀 に お け る イ ギ リ ス 産 業 資 本 家 の 政 治 的 盤 頭 ︵ 荒 井
︶
上述の如く十ギリスの伝統的な毛織物工業においては
"
Wo rs te d Co mm it te e"
の如き政府公認の資本家団体が
各地に存在していたのであるが︑
・鉄工業・陶業等の如き産業革命を特徴づける新興産業部門では特に後者に属する資本家団体が強力に組織されて
いたのであって︑それらは後の産業の発展との関連において特に重要な意義を担うものである︒次にそれぞれにつ
いて述べよう︒
先づ第一はマンチェスターの場合である︒ここでは一七七四年二月一日︑同市の
C r o m p t o n ' s
̲ C o f f e e Ho us
e
1 ! .
全商工業者が会合し︑﹁当市並びに周辺の綿工業・リンネル工業・その他の製造業の安全と奨励のため︑適切な措
( 8 )
T ^•
he Ma nc he st er C o mm it te e f o r t h e P r o t e c t i o n a nd En co ur ag em en t o f T ra de
"
が結成 置を考慮すべく﹂ これと相並んで公認されていない純然たる自治的民間機関が存在していた︒綿業
されることになり︑同時に会長・会計・幹事を含む一九人からなる委員が選任された︒この委員会結成の主たる目
的の一っは明らかに原棉の輸入促進にあったといわれる︒例えば一七八 0 年には︑イギリス海運の独占的組織によ
つて綿工業者達は損害を蒙つていたことを理由として︑中立国船舶による棉花の輸入許可を下院に申請し︑船主並
びに西印度貿易関係者の強力な抵抗を排して︑或る程度の救済を得たのである︒さらにアークライトの独占権に反
対するため二二人の綿工業者は一紡垂につき一ンリングの割で斗争資金を拠出した︒このアークライトの独占権に
対する反対運動を契機として︑組織の拡大強化を図るため委員会は改組されることになった︒すなわち︱七八一年
﹁後に決定される規則に基いて当市並びに近接地域の商工業を保護・奨励するため
で 開 催 さ れ ︑
の新委員会を無記名投票によって選任するため﹂︑﹁綿・リンネル・絹及び小間物工業に関係する商・工業者はじめ
一六人からなる新委員会が成立した︒この新委員会が現実に行
五 八
59
十 八 世 紀 に お け る イ ギ リ ス 産 業 資 本 家 の 政 治 的 蓋 頭 ︵ 荒 井
︶
4 盗品の購入者や受領者の処罰を励行する︒
5
被傭者の使用法・技術者の移住阻止・或は組織労仇者との斗争に関して雇傭者を援助する︒
次に一七七七年までには︑
m i t t
e e )
と連絡を密にするため︑ ミドランド一帯の鉄工業者はウィルキンスン
しており︑四季会議を開いて製品価格その他の販売条件を協定していた︒他方バーミンガムでも真鍮輸出禁止法の
G1
2)
撤廃要求を直接の契機とし︑パーミンガムとその周辺の全体の利益を擁護し︑他の実業家団体
( l
l g m
m e r c
i l g
m ,
一七八三年七月ガーベッ t
S .
G a r b
e t t
を会長とする﹁パーミンガム商業委員会﹂
ム商業委員会と密接な提携の下に︑ B i r m i n g h a m
C o m m
e r c i
a l ,
C o m m
i t t e
e
が発足した︒かくて︑︑︑ドランドの鉄工業者の団体は後に発足したバーミンガ
マンチェスター商業委員会と略同様の機能を果したようである︒このように新
興の工業中心地において︑それぞれの地方なり︑特定工業部門なりの経済的利益を代表する強力な組織︵委員会︶が
次から次へと結成されゆく当時の一般的傾向から陶業もまた例外ではありえなかった︒すなわち一七八四年北部ス
タフォードツァーの製陶業者
m a s t
e r
p
gers~
ウェジウッド
J o s i
a h W
e d
g w
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d を中心として正式に組合 g
m m i t
t e e
o f
M a n u
f a c t
u r e r
o f s
E a
r t h e
n w a r
e
を結成していた︒指導者のウェジウッドはすでにその地方の産業促進のため有料
0製造業者と他の産業資本家或は役人との連繋を強化する︒ a 輸入制限を修正し︑大量且つ低廉な原料供給を確保する︒
2綿製品の使用制限を撤廃せしめる︒
C
$
った活動分野はおよそ次の如きものであった︒
五九
J o h n
i l W
k i n s
o n
の主導下に団体を結成
L特許制度ー~殊にアークライトのそれ'~に反対し、発明の奨励・報償に関しては別個の方法を計画する。
6o
註
(1)
十八世紀におけるイギリス産業資本家の政治的蓋頭︵荒井︶
と呼ばれていて 道路や運河など輸送の便を増進することに大きな役割を演じ︑政治の舞台に強い関心を寄せていた︒
上述の如く綿工業︑鉄・真鍮工業︑陶業等輝かしい技術的進歩を遂げつつあった工業部門は︑地域的にはそれぞ
Th e P o t t e r i e s
を代表するものであり︑ れマンチェスター︑バーミンガム︑それにいわゆる﹁製陶地﹂
工業地帯の若々しい産業資本家層は共通の経済的利害に結ばれて︑真に自治的な民間機関たる組織をもつに至った これら新興
のである︒工業が商業の侍女であった時代は最早過去のものとなり︑今や工業は主人としての座を固めつつあっ
た︒従つて続々結成された自治的機関が︑ たとい名称としては商業委員会
co mm er ci al co mm it te e
ウェジウッドはじめ︑これらの組織結成 も︑実質的には産業資本を代表とするものであったと解すべきであろう︒
に当つて主導的役割を果した有力産業資本家達は︑まさに来らんとする新しい時代の先駆者であった︒例えば︑単
に理念としてではなく︑実践的な面における自由貿易の主張は新しい型の産業資本家としての一面を特徴.つけるも
のである。かような彼らの自由貿易ないし経済的自由主義ー_—十九世紀に入って全き開花を見るーーの主張の背後
にはそれを必然ならしめる次のような事情があったことも見逃しえない︒即ち彼らの属している工業部門は︑単に
販売市場のみならず履々原料市場についてもまた悔外に依存しており︑また工業技術の点において優越性を確保し
ていたのである︒尤も新しい型の産業資本家のかかる進歩的面もこれを強調し過ぎてはならない︒何となれば彼ら
の経済的自由主義には首尾一貫性を欠いており︑彼らが不利とする重商主義的諸制約から離脱するための好適の武
( 1 3 )
いわば多分に便宜主義的だと思わしめる事実も見出されるからである︒ 器としてそれを唱導したまでのことで︑
Ad am Sm i t h , Th e W ea lt h o f N a t i o n s , Ca nn an
e d ,
くd . I ̀
p.
68
.
大内訳 H 一三五頁
尚本稿第三節の部分に関係した邦文文献には小松芳喬氏﹁英国産業革命史﹂(‑九七頁以下︶︑中川敬一郎氏訳アッュト
六 〇
六
ン﹁産業革命﹂(‑三七頁以下︶がある︒
( 2
)
W i t t B o w d e n , o p . c i t . , p . 1 6 5 .
( 3
) 例えばフェイによれば次のような三つの類型を想定している︒
(A)
政治活動とか宣伝或は調査によって事業●の利益を増池せしめんとする|—{積柩型
8n s t r u c t i v e t y p e
(B)労働者との団体交渉のためのー—'自衛型defensive唸 t y
( C ) 生産・価格・或はその両者を統制せんとするー│︵盤争︶制限型
r gt r i c t i v e t y p e ー
C.R•F a y , G r e a t B r i t a i n f r o m
Ada~Smith
t o
P r e s e n t Day•1
器0,
p . 3 1 9 .
( 4 )
A
r t h u r R e d f o r d , M a n c
h g
t e r M a r c h a n t s a n d F o r e i g n
r T a d e 1 7 9
4
ー1 8 5 8
̀ 1 9
3 4 , p . 2
( 5
)
I b i d . , p . 2
(6 )C . R . F a y
,
0p , c i t . , p . 3 1 9 "
A . R e d f o r d , o p c i t . . , p p ;
1 1 2 "
; W B o w d e n o p . c i t . , p p ; 1 6
5 1 5 "
また類
m 5 の 組 幽
t
は左記の諸
州にも存在したという︒サフォーク︑ノーザンプトンツァー︑ハンティンドンンプー︑ケンプリッジツァー︑ペドフォ ードツァー︑レスターツァー︑ラトランドツァー︑リンカーンツァー︒ー
G . W h a l e ,
o p . c i t . , p . 1 1 9 .
f n .
( 7 )
A . R e d f o r d , o p c i t . . , p .
2
(8 )
ここには
t r a d
e というような包括的な語が用いられているが`然し第一義的には製造工業に対して用いられたのであ
る ︒
w .唇
w d
g ,
o p . c i t . , p . 1 6 6 ・
•
•
( 9 )
一六人の新委員の構成は綿・リンネル部門一
0
人`絹部門三人亀小間拘部門三人となっている︒
1
A . R e d f o r d , o p .
g . ,
p .
5.
この比率から推しても綿工業関係者が︑この委員会において支配的であったことが分る︒
( 1 0 )
またボウデソによればマンチェスター商業委員会のさような機構や目的からすれば︑これは明らかに近代的実業家団
体の範疇に入るとなす。—W.
B o w d e n , o p . c i t . , p . 1 6 7 .
( 1 1 )T . S . A s h t o n , o p . c i t . , p . 1 6 4 ;
J•
H . P l u m b , . E n g l a n d 甘 t h e E i g h t e e n t h C e n t u r y ,
1953•p . 8 1 ( P e r i c a n B o o k s ) ・
( 1 2 )・ハーミンガムの爽鍮業者はは真鍮の自由輸出を望んでいた︒しかしその轍
U I
を恭止するヘンリー八批及びエドワード 六世の法律
( 2 1 H e n r y V I I I , C . 1 0
;
~HenryV 日
,
C . 8 ; 2 3
H
gr y
V I l I
, C . 7 ;
2
&3 E d w a r d V I , C . 3 7 )
が依然法典に
残存して︑現実はとも角︑表面上輸出は禁止されていた︒そこで一七八三年真鍮製造業者は議会にそれら法律の廃止方
十八世紀におけるイギリス産業資本家の政治的盤頭︵荒井︶
b2
十八世紀におけるイギリス産業資本家の政治的撼頭︵荒井︶
を陳箭した︒しかし頓当り六ペンスの輻い輸出税で輸出を許可させんとする法案は●院で否決され︑自由轍出は一︱
1 0 年
後の一八一三年
(5
G e o . 3
I I I ,
C .
45)迄許されなかったのである。1H•
H a m i l t o n T , he E n g l i s B r h a s s an d
C
o p
p
g
I n d u s t r i e s t o
18 00 , 19 26 ,
p . 7 ,
p p
.
286
,
7
••• ( 1 3 )
例えば彼らの労働者殊に熟練労働者とか︑英愛通商問題に対する態度︑ポウルトン
I ワットのパテントの問題等︒
一 七 八 四 年 ︑
産業資本家の勝利と
Th e Ge ne ra l C ha mb er o f Ma nu fa ct ur er s
の設立
ピットの内国消費税計画の全貌が明らかにされるや︑全国の製造業者は期せずして攻撃を開始し
た︒すでに産業統制機関として地方毎に或は産業部門毎に形成されていた上述の諸団体は︑同時にそれを政治的拠
点として政府攻撃の態勢をとることができたのである︒先づ石炭消費税に対する鉄工業者団体の反対運動から述べ
﹁バーミンガム商業委員会﹂
が工業に関して無関心である点を指摘し︑工業家達もその利益擁護のため政界に進出すべきことを主張してきた︒
一七八五年︑ジュロップ︑ウースター︑スタフォード︑ウォーリック諸州の製鉄業者及び鉄工業者がスタアプリッ
B日
mi ng ha
g m
mm er cl al
g
mm it te e
の会長であったガーペットは︑早くから政府
ジ︵ウースターンアー︶において﹁鉄工業者四季会議﹂
Q u a r t e r l y Me et in g o f I r o n m a s t e r s
を開催し︑ピットの新しい租
税措置を批判して﹁商工業者が獲得した財産は適当な課税対象であっても︑製造業自体は然らず﹂と決議した︒こ
れに歩調を揃え﹁パーミンガム商業委員会﹂
Bi rm in gh am
g
mm er ci al
g
mm it te e
もまた彼らと同一主旨の次の如き
声明を発した︒すなわち﹁商工業は正当な課税対象たるべき実質的財産を獲得する一手段に過ぎないと考えらるべ
きである︒財産はそれが避くべからざる極度の不安に曝されている場合においては︑かかる危険から解放される迄
よう︒