人間の福祉 第31号(2017)91〜125
〈原著論文〉
日本科学映画の生みの親太田仁吉の思索と実践
一教育における科学映像メディアの研究一※
吉 岡 有 文※※
1.問題の所在と目的
太田仁吉氏
(ユニ通信社さまのご厚意により,引用文献(12)
のp.25から転載)
けの評伝(〔5)村上,1954),小学生向けの伝記((6)岩佐,1955)
学映画の生みの親 仁吉つあん」(の服部・編集,
メラマンの鈴木喜代治や小林米作,そして,
太田仁吉という人物を知る人は少ないかもしれ
ない。
太田仁吉は,1893(明治26)年3月25日,北海 道札幌郡豊平村に生まれた。1914(大正3)年3 月,札幌師範学校本科卒業後,小学校教師となっ た。小学校在職約20年後の1934(昭和9)年,小 学校教師から科学教育映画の製作者となり(当時 41歳),後述する多くの珠玉の作品を残した。1954
(昭和29)年1月1日に亡くなった。
そのとき太田の死を惜しむ人は多かった。日を 経ずして追悼文((1>配島,1954)が書かれ,「教育 映画界の功労者」((2}土井,1954),「日本科学映画 の功労者」((3)村上,1954),当時の教育映画の鐸々 たるメンバーによって追悼座談会(〔4旧本視聴覚 教育協会,1954)が開かれた。さらに,中学生向 も書かれた。そして,「日本科 1956a)と呼ばれ,太田の相棒というべき力 岩波科学映画の吉野馨治,小口八郎らが出席し,
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※※Arifumi YOSHIOKA 立正大学社会福祉学部子ども教育福祉学科特任准教授 キーワード:太田仁吉,科学映画,科学教育映画,科学映像メディア,理科教育映画
日本科学映画の生みの親太田仁吉の思索と実践
太田の作品を含めた思い出の名作を語る座談会が開かれた((8)服部・編集1956b)。それにも かかわらず,今日,太田仁吉の名前と業績を知る人は少ないだろう。
太田仁吉が映画製作者としてデビューした1930年代,教育における映像メディアのあり方に ついて議論された「動く掛図論争」が盛んであり,太田もまた,後述するように,その論争に 関わった当事者であった。しかしながら,今日,太田の作品・業績や映画観について紹介した 書籍((9稲田,1962)(〔10)谷川,1978)((1D田中,1979)((12}岡本,!996),((13)吉原,2011),論 文等((14>瀧口,2009)(〔15)佐藤2016)は少なく,太田仁吉と「動く掛図論争」との関係につい て論じた論文等((16)田村,2007)もまた非常に少ない。
太田仁吉の没後,科学教育映画は,スクリーンからテレビの学校放送番組へ,VTR, CD・
DVD,パソコン上の映像ファイル,学校放送番組の映像の全体あるいは一部(断片)を抜き出 したweb上のコンテンツ(「クリップ」)集,そして,今後本格的に導入されてくるであろう
「デジタル教科書」の動画へと移りつつある。(ここでは,科学映画科学教育映画を含めて,
「科学映像メディア」と呼ぶことにする。)このように,科学映像メディアは様々な場面で見ら れるが,「動く掛図論争」は,その後,同型の議論が繰り返され,現在も形を変えて存在してい るが,科学映像メディアが,教育において,どのようなものであるべきかという研究((L7)吉岡,
2014)は少ない。
従って,このメディア論争としての「動く掛図論争」に関わっていると考えられる科学映像 メディアの先駆者である太田仁吉の思索と実践を明らかにすることは,未来の科学映像メディ アのあり方を検討する上で役立つと考えられる。
そこで,本論文は,没後,後進らに,「日本科学映画の生みの親」((7)服部・編集1956a)と 呼ばれることになった,太田仁吉の科学教育映画についての思索と実践を明らかにすることを
目的とする。
本研究は,歴史的検討をするため,研究方法としては文献調査法を中心にしている。太田仁 吉には,映画論に関するまとまった著作はないので(教材映画についてのテキスト,解説書等 は存在する。),太田が,『十六ミリ映画教育』,後に『教材映画』と改題された雑誌に投稿した 文章を中心に調査した。具体的には,太田仁吉の著作と,彼に関わった人々の著作を転載し,
それを一応事実と捉え,その記載をもとに考察していく。そのため,引用文が非常に多いが,
それは,部分的ではあるにしても,閲覧が容易ではない一次資料をあげることにより,筆者の 解釈について批判可能にするためである。
太田仁吉の作品自体については,すでにそのいくつかを視聴し研究しているが,まだ報告す る段階には至っていない。ただし,16ミリフィルムが多く視聴可能な作品はそれほど残ってい るわけではない。
なお,引用文は,読みやすさを重視して,旧字体の漢字は新字体にあらためた。現在あまり 使われず読み方が難しい漢字については()の中にそのよみを入れた。旧仮名遣いはそのま まにした。読点「、」は,本文と同じ「,」に統一した。誤字誤植等であると考えられる箇所で
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あってもそのままにした。引用文の下線は,とくにことわりのない限り,重要一所を強調する ために筆者が引いているが,念のためにその都度ことわりを入れている。引用した人物の肩書 きは原則してその当時のものとした。しかし,同じく読みやすさを重視するために,引用文以 外では,「活動写真」を「映画」と記載するなど,当時の名称を今日の名称にしている部分が
ある。
2.太田仁吉の登場の背景
2−1.日本における映画のはじまり
1896(明治29)年,アメリカのエジソンが発明した映写禿幾キネトスコープ(kinetoscope)
が輸入された。キネトスコープはスクリーンに映写されるのではなく,箱の中を覗き込むこと によって,映像を見る装置である。翌年の1897(明治30)年,フランスのリュミエール兄弟が,
キネトスコープをスクリーンに映すことができるように改良した,撮影と映写の複合機能をも つもシネマトグラフ(cin6matographe)が大阪に輸入された。このことが日本の映画のはじま りであるといわれている((18)田中,1980,pp.28−54)。その後,映画は一般大衆が見ることがで きるようになる。
191!(明治44)年には,フランスの怪盗の物語である『探偵淫乱ジゴマ』(邦題)が浅草の金 腹館で封切られるが,青少年に悪影響を与えるという理由で,1917(大正6)年,警視庁は,
「活動写真興行取締規則」・「甲乙種別興行」を制定・施行し,映画のための特別な検閲システム が創設された(〔9)稲田,1962,pp.55−56)((玉9)児島,2005, pp.161−162)。
2−2.映画の教育への導入
1921(大正!0)年頃から,「児童生徒の興行映画鑑賞対策からさらに一歩進めて,映画を直接 教育,教授に利用しようとする傾向,興行映画に対して,教育映画という別のジャンルを考え る考え方が特に学校教育の方面に現われてきた」((9)稲田,1962,pp,57−58)といわれている。
!927(昭和2)年,富山市で,毎月1回,映画館で,子どものために,子どものための映画を 見せる「教育映画デー」((9)稲田,!962,p.62)が実施されたことが刺激となり,1928(昭和
3)年,東京市社会教育局による「東京市児童映画日」が設置されたといわれている((9/稲田,
1962,p,78)。
同!928(昭和3)年,全日本活映教育研究会が成立し,同研究会による学校巡回映画連盟が 組織化され,巡回興行(「講堂映画会」)の開始されることになった((9}稲田,1962,pp.72−77,
90−91)。このように教育で使われた映画を「教育映画」と呼ぶことにする。
講堂映画会は,1943(昭和18)年まで続くことになるが,講堂映画会と並行して,教師たち は,映画の教科・科目への教材としての可能性を認め,映画を教室へと導入するようになる。
このような教育映画を「教材映画」と呼ぶことにする。そこには,学校への映写機と映画作品
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の相互的発展,そのことによるコミュニティとネットワークの出現が見られる。
2−3.教室への教育映画の導入の原動力
教育映画に限った映写機台数と映画作品本数の推移の資料は現在その存在は不明である。そ こで,文部省発行の『教育映画研究資料』C20ト(25)文部省,!930,1932,1933,1934,1935,1936)
を利用して道府県における映写機の普及と映画作品について検討する。以下は,それらを表に まとめたものである。
表1 映写機台数と映画作品本数の推移
年度 映写機台数 映画作品本数 昭和3(!928) 213 ほとんど35ミリ用,16ミリ用2台
2,500
昭和5(1930) 236 ク,小型フィルム用11台
2,805
昭和6(1931) 298 〃,中小型フィルム用19台 3β75 昭和7(1932) 340 〃,小型フィルム用39台
3,680
昭和8(1933) 378 〃,ク60台
3,929
昭和9(1934) 453 ク,〃98台
4,443
ここで.小型フィルムとは,16ミリ,あるいは,9.5ミリフィルムであるが,9.5ミリは個人向 けであり,道府県が所有していることから!6ミリであると考えられる。
この表から,当時映写機台数と教育映画作品が相互に急激に増加したことが推察される。
2−4.「35ミリ映写機」から「16ミリ映写機」への移行
上記の表に見られるように,教育映画が普及し始めると35ミリ映写機から16ミリ映写機が普 及し始める。このことについても,現在,詳しい一次資料は不明であるが,16ミリ映写機の普 及について,当時,教育映画界を牽引した一人である,東京市視学(旧制度の地方の教育行政 官),東京市社会教育課掛長,関野嘉雄は,1934(昭和3)年12月1日の映画教育座談会におい て,未だにスタンダード(35ミリ映写機)の購入が多いと考え,16ミリ映写機の普及に懐疑的 な「白土さん」(東京市櫻田小学校)に対して,東京市の映写機の増加率について以下のように 述べている。
(前略)昭和六年から昭和九年の三力年間の旧市内小学校に於ける映写機の状態は三十五 粍の映写機は昭和六年に八十台,昭和九年の調査が八十五台,五台しか増して居りません。
所が十六粍は昭和六年に十八台,昭和九年の調査では五十六台です。九粍半は昭和六年目 七十一台,昭和九年に七十五台,かうしてみると三力年間に十六粍だけが十八台から五十 六台に増えてゐます。最近学校で映写機を買ふ所は殆んど全部十六粍で今では旧市内で六 十台位ありませう。新しく映写機を買ふのは殆ど十六粍です。実際の傾向としてさうなっ てゐます。(〔26)十六ミリ映写機普及会,1935,p.50)(下線は筆者による。)
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ここで「旧市内」とは,!932(昭和7)年以前の旧市域に含まれる15区を指している。この
「35ミリ映写機」から「!6ミリ映写機」への移行は16ミリフィルムの不燃性,同映写機の操作が 簡単廉価であることによるが,後述する,!6ミリ国産映写機を開発した十字屋映画部による
「十六ミリ映画教育普及会」の影響があると推察される。
2−5.「16ミリ映写機」と教育映画の普及によるコミュニティとネットワークの構築 映写機が普及すると,コンテンツ,すなわち,教育映画(教材映画を含めて)が必要になる。
しかし,その教育映画は高価であり,各学校で購入するには無理がある。このことについて,
関野嘉雄は以下のように,フィルムライブラリーの必要性を述べている。
(前略)一般に教材映画を造るのには三十本四十本と買ってもらはなければ立って行く事 が出来ない,これも今後の問題として西川さん,小学校が連合してフヰルム,ライブラリー の組織を造る事,それは他のものより更に先決問題だと思ひます。(中略)東京,名古屋京 都の三つの都市だけでも十六ミリ映写機が三百五十台はある,これに他の三大都市を入れ・
ば四百台以上になるでせう。四百校で連盟を造れば母校宛として四十組連盟が出来るわけ で,四十のライブラリーが出来て四十本宛教育映画を買ってゆけば製作者も大へん楽にな って,どんく良いものを作ってくれると思ひます。(後略)(㈱十六ミリ映写機普及会,
!935,pp.44−45)(下線は筆者による。)
ここで「西川さん」とは,東京市赤羽小学校長であり,小学校教育の側から,関野と同じく 当時の教育映画界を牽引した一人である。関野嘉雄は,自らの言葉のとおり,1935(昭和10)
年には,東京全市小学校の映画教育施設を統制し組織的にその普及,充実の乗り出し,その結 果,1936(昭和11)年6月には,「東京市小学校映画教育協議会」が組織され,1937(昭和12)
年度には,小学校教材映画ライブラリーが新設された((9〕稲田,1962,pp.208−209)。
3.太田仁吉の登場
3一で.1932(昭和7)年「映画研究大会」
このような!6ミリ映写機の急激な普及と教育映画の急激な発展の中で,太田仁吉が,教育映 画製作の世界に登場することになる。
!932(昭和7)年5月6日からの3日間(東京)全日本活映研究会の映画教育研究大会にお いて,太田は,東京市赤羽小学校訓導(旧制度の正規教員の職階,現制度の教諭)として,東 京市四谷第三小学校訓導,長谷川和夫と共同で理科の研究発表をする。このとき,太田と長谷 川は,自主教材映画として,16ミリ教材映画『かへる』を制作する。5月6日,長谷川が,こ の『かへる』を利用した実地授業を行い,太田が研究発表をする。これが,確認される限りの
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太田仁吉の最初の作品である。
太田は,このとき,発表要項として以下の『理科学習における映画利用の根本的態度とその 実際』((27)全日本活映教育研究会,1932a,p,15)を発表している。
(一)吾々の研究は如何にあるべきか
一実早教育の地盤に立ち,しかも児童の学習・生活により良き意識をもたせるものたる べし
(二)新教育思潮と理科教育
一子供の生活を出発点とするのみならず正しき生活といふ理想地点に立って理科を教へ なくてはならない。
(三)理科教育の本質と視覚教育
一理科は実事に立って教へなくてはならない。
(四)視覚教育手段としての理科映画 一視覚教育に対して映画は万能薬ではない。
(五)理科学習に映画を取り入れる・根本態度
一町画化せねばならぬ事項だけを映画化して学習指導の参考とした方がよい。
(六)理科教材の映画化事項調査と既製映画
(七)映画利用の実際について
一指導案のどこにとり入れるかを研究する必要あり。
(八)教材映画運動の具体化
一既製フィルム利用,教材映画製作,自作。
(⑳全日本病源教育研究会,1932a, p.15)(下線は筆者による。)
太田のこれらの考えは,基本的には変わらないが,時を経るにしたがって,映画の映像その ものの独自性,可能性に引き込まれていくことになる。筆者は,太田の教材映画づくり実践の 省察の機会の一つは,次に述べる「批判座談会」にあったと推察している。
3−2.1932(昭和7)年「映画研究大会」に対する「批判座談会」
1932(昭和7)年5月6日からの3日間の映画教育研究大会のあと,同年6月2日に,批判 座談会が行われた。この座談会では,東京日日新聞社事業課,稲田達雄,すでに本論文に登場
した,太田の上司に当たる,東京市赤羽小学校校長,西川幸次郎,そして,すでに本論文に何 回も登場した,東京市視学,関野嘉雄の3名により,映画教育研究大会における10名の研究発 表と,5校で公開された学校映画会および映画利用学習会に批判を加えながら,映画教育の理 論と実際の諸問題が検討された((9)稲田,1962,pp.143−149)。このとき,太田仁吉に対する批 判も以下のようになされた。
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太田君の発表は,視覚教育の一つの手段としての理科映画といふものを考へてるるとみ てよい。(中略)ところがです,われ一は広大な科学の世界を悉く知ることができないか らして,その代りに映画を使ふことによって,幾分でも補充しなければならぬといふ,非 常に消極的な考へ方をもつてゐませんか。
(中略)
だけれども,幾分でも補充しなければならぬといふことはね,理科教育映画にありのま・
の実形を撮せば足れりといふ結論を出してくる。僕のいひたいのは,それが間違ひといふ んじゃなくて,それは確かに真理だ,だが真理はそれで尽きるもんぢやなくて,反対にそ こから出発してそして広く大きく展開したのが真理だといふことです。だから,理科映画 は動く掛図だといふ議論は,さういふ場合もある,がしかしなぜそこに止まらなければな らぬか,といひたいのです。(後略)((28)全日本活映教育研究会,1932b, pp.30−31)(下線は 筆者による。)
ここで「太田君」とは太田仁吉のことを指す。このように,関野は,太田の映画利用に対し て,映画を授業の補充(「方便物」,「補助方便物」,「教便物」,「教具⊥ 「教材」等の言葉が使わ れている。),実物を映すだけという考えでよいのかと批判している。
この関野の「動く掛図」とは,授業の補充のための映画のことを指しているが,その意味を 理解するためには,以下の「動く掛図論争」について述べなくてはならない。その詳細とその 後の展開については,すでに別論文(q7)吉岡,2014)で論じたので,ここでは簡単に紹介する。
3−3.「動く掛図論争」とは
「動く掛図論争」とは,1930年代に学校における映画教育を巡って展開された論争である。す でに,2−2で述べたとおり,当時学校教育への映画利用は,学校外の映画館学校内の講 堂(小学校巡回の「講堂映画会」),そして,教室で行われていたが,この論争は,「講堂映画 会」と教室で各教科の教材として使われる映画(「教材映画」)のあいだで起こった。東京市視 学の関野嘉雄は,以下のように述べている。
映画を教育に利用する途は,従って,当然二つに分かれてくる。その一は,これまでの ヘ へ
観念・方法を確固不動のものとし,その僅かなる補助手段としてのみ映画を用ひるのであ り,他は映画的特性の考察と,その偉大なる文化的意義の把握とによって,新しい観念・
態度・方法のもとに,映画を積極的に教育のために取り上げるものである。((29)関野,1942,
P.24)
ここで「これまでの観念・方法」』とは,関野のその後の主張から教科書を中心とした教師に よる言語的知識の伝達のことであると考えられる。その「僅かなる補助手段」とは,「教科書を
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補ひ教師を助ける動的直観方便物」(⑳関野,1942,p.326),すなわち,教科書的知識を学ぶた めの補助としての映画のことである。関野は,それを「動く掛図」と呼び,映画を捉えること は「映画の再現伝達の側面にひたすら関心を集中して,その表現構成の側面を積極的に排除し ようとする」(㈱}関野1942,p,326)ことになる,すなわち,映画の文化的意義の学びを無視 していると批判したのである。
それに対して,太田仁吉の同僚である東京市赤羽小学校訓導の鈴木喜代松は,4−7で詳し く述べるが,教育においては,映画は「補助方便物」として必要であるとし,場合によっては,
映像は切り取り,必要に応じて断片化してもよいと述べている。
以降,本論文では,前者を「映画学習」あるいは「映画そのものの学習」,後者を「映画利用 学習」,そのとき使われる映画を,すでに述べた「教材映画」と呼ぶことにする。
ただし,関野は,「教材映画」のすべてを批判したわけではない。そのことについては,4−
11で述べる。また,最近,鈴木喜代松の著作((30)鈴木,1941)等から「動く掛図論争」の論点 はそう簡単に切り分けられないことがわかったので,別論文で検討する。
4.「動く掛図論争」における太田仁吉の思索と遍歴
4−1.太田仁吉,小学校訓導から映画製作者へ
1934(昭和9)年,太田仁吉は,東京市赤羽小学校訓導を退職し,十字屋映画部に異動し,
科学教育映画の製作に専念する(〔10}谷川,1978,p.19)。ただし,1934年のどの時点で,正式に 十字屋映画部に所属したのかは,現在のところ不明である。
十字屋映画部とは,十字屋楽器店(現在の銀座十字屋)が,パテー・ベビー(9。5ミリ)撮影 乖幾映写機そのフィルムの販売を契機に,1921(大正10)年に設立した部署であり,1938(昭 和13)年に,十字屋文化映画部に改名し,1941(昭和16)年に日本映画社に統合されるまで存 在した。
太田の十字屋映画部への異動の理由は,太田の上司であった西川幸次郎校長の勧めと太田自 身の映画づくりに専念しようという決断によるといわれているが,すでに,2−3,2−4,
2−5で述べた教室への教育映画(教材映画)の導入,16ミリ映写機の普及に伴う16ミリ映画 作品の製作の必要性による人材の確保もあったと推察される。
実際十字屋映画部は,1932(昭和7)年に,国産自社製の16ミリ映写機「ベル」を発売し たことにより,自社でも,教材映画製作の計画があり(〔12)岡本,1996,p.21),1933(昭和8 年)には,十字屋映画部は「十六ミリ映画教育普及会」をつくり,そこに,映画教育に熱心な 現場教師が集まり,その中に,太田仁吉もいたという(( 2}岡本,!996,p.21)。1934(昭和9)
年に,一会は,会報誌『十六ミリ映画教育』(1937(昭和12)年,『教材映画』と改題)を発刊 する。
最初の頃,太田は,『十六ミリ映画教育』誌に,海外の映画教育の動向((31)〜⑳太田仁吉,
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1934a,1934b,1934c,1934d)について投稿している。このとき太田の所属は,所属の記載がな い(32)以外は,東京市芝区赤羽小学校になっている。その理由については不明である。
本論文では,特にこの『十六ミリ映画教育』・『教材映画』誌における太田の記述を中心に,
彼の思索と遍歴について論ずる。また,註 引用文献には,現在筆者が探し得る限りの太田仁 吉の著作を記載しておくことにした。
4−2.太田仁吉の十字屋映画部における初期の作品
太田仁吉は,十字屋映画部において,教育映画製作に着手し,1939(昭和14)年までに,以 下の全25編27巻を製作した。以下は,それらを表にまとめたものである。ただし,『石油の話』
は,すでに完成していた日本石油株式会社製作の「石油」の改編であり,また,『塩の話』も
「坂出塩田」のデュープ画面に若干新規画面を加えて編集した作品であるという(u2)岡本,!996,
p.22)。全て16ミリフィルム映画である。それぞれの作品1巻の下問は,10分程度である。
以下の第1編から第8編までは,『通俗科学教育映画全集』と名付けられたが,その後第9 編からは,『理科映画体系』と名付けられ,全体として『理科映画体系』としてまとめられた。
また,第1編から第10編は,第1集,第11編から第20編は,第2集,第21編からは,第3集と された。第26編として『石炭の話』(全2巻)が計画されていたが完成には至らなかったようで
ある。
表2 理科映画体系の作品名と制作年
編 作品名 製作年
編
作品名 製作年
1
『石油の話』 1934(S9) 14 『かへるの話』 1937(S12)2
『塩の話』
1935(S10) 15 『蚊の一生』 〃3 『製鉄の話』 〃 16 『地層の話』 〃
4 『血液のじゅんかん』 1936(S1!) 17 『とんぼの話』 〃
5 『重力の話』 〃 18 『種子の撒布』 〃
6
『鶏の話』
〃 19 「入体の組立』 ク7 『蝉の一生』 〃 20 『消化の話』 〃
8 『蜂の一生』 〃 21 『小鳥の世界』 1938(S13)
9 『つばめの話』 〃 22 『蚕の話』(2巻) 〃
!0 『もんしろ蝶の話』 1937(S12) 23 『稲の話』(2巻) 〃
11 『さくらの話』 〃 24 『花と昆虫』 !937(S12)
12
「冬の芽』
〃 25 『うにとその仲間』 1939(S14)13
『川の話』
〃 ※Sは昭和下表は,『十六ミリ映画教育』・『教材映画』誌をもとにしているが,製作年については,5−
1の表3の製作年をもとにしている。
日本科学映画の生みの親太田仁吉の思索と実践
4−3.太田仁吉の「動く掛図論争」に関わる映画観
太田仁吉は,上記の最初の作品である理科教材映画『石油』の解説を,1935(昭和10)年2 月号((35)太田仁吉,1935a>と4月号((36)太田仁吉,1935b)に二回に分けて書いている。この
とき太田の所属・肩書きの記載はない。太田は,十字屋映画部に所属しつつも,まだ,小学校 にも関わっていたのかもしれない。
太田は,まず,教材映画の必要性について,2月号で以下のように書いている。
(一)必要性
理科教授の生活化とか,理科的生活をさせよ。なと㍉口には言ふが,さて実際教授にな ると至難なことである。理科的生活をさせるには,事実実物に直面させて,そこで「如何 に生活させるか」に問題が有る。それには一部面として多種多様な而も豊富な材料が必要 になって来る。
(中略)
一体斯る自然界の探究通路の扉を開くべき鍵は生きた現実でありませう。そこに此の現 実に対する児童の理科心=生活力の躍動がなければならない。(後略)(〔35>太田,1935ap.
26)(下線は筆者による。)
ここで,「理科教授の生活化」,「理科的生活」,「理科心」という言葉が使われているが,「理 科心」,「理科(的)生活」の言葉を「大正自由教育」を代表する教育学者・教育実践家の一人 である奈良女子高等師範学校附属小学校主事,奈良女子高等師範学校教授,木下竹次(1872(明 治5)年〜!946(昭和21)年)が使っていることから((37)木下,1928),木下の影響を受けてい ると推察される。
そして,4月号の文章の中に,太田の「動く掛図論争」に関わる映画観が表れている。
(前略)理科に於て映画的現実は,補助的のものではなく又動く掛図でもない,映画現実 そのものが生活材料であり学習の素材となる。故に映画は一教材を従来よりも多角的に吾々 の眼前に如実に展開してくれるので教材の本質により多く触れさしてくれるものであ為。
而して本映画に実験観察の最も困難な又は不可能なる点を具現してくれる。そして幾多の 研究問題をも投げあたへてくれる。(後略)(〔361太田,1935b,p.24)(下線は筆者による。)
太田の映画観が,3−2で述べた関野嘉雄による批判に直接に影響したかどうかは不明であ る。ただし,すでに,彼の上司である赤羽小学校校長の西川幸次郎を通して,関野との交流が ある。また,「動く掛図論争」の論争者である鈴木喜代松は太田の同僚であることから,「動く 掛図論争」については十分に理解しており,その後の彼の教材映画の思想に大きな影響を受け たことは明かである。実際その後の科学教材映画製作者としての彼の実践と思想が常に「動
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く掛図論争」を念頭においていることがわかる。
上記の太田の文章のように,太田は,理科における教材映画は,関野がいうような,教科書 を補い,教師を助ける「動く掛図」ではないとする。教材映画そのものが,教材を多角的に見 せ,子どもたちの学習材になるのだと主張する。
しかし,太田は,そのように主張しつつも,次の4−4のように,太田には迷いがあったの
である。
4−4.太田仁吉の迷いと確信
太田は,『十六ミリ映画教育』誌の1935(昭和10)年7月号に,『理科学習映画』という文章 を投稿し以下のように書いている。このときの所属は,東京市赤羽小学校と記載されている。
私は理科学習と映画といふ題で書き出して見たが,何うも書く気になれない。溶けてみ るものでもないのに。考へに考へて行く中に私をそうさしてしまった丈けのことである。
幾度か映画に依る理科学習をしても見た。又見せられもした。そして最後に静かに反省し て見ると残る者は映画でなければ学習の出来ない部面の数々の断片と,映画を使用したた めに児童の真の理科心を,一いや科学的訓練即ち形式陶冶方面を阻止しやしないか。と懸 念することどもである。私は,今適確に明快に言ひ表はせないが,映画利用による時間不 足の問題と学習態度に於て探究するといふ落着いた心的状態を持ち得ない様な気がしてな らない。けれども虫魚の収得方面では此の映画位偉大なる効果の有るものはないことは疑 ふべくもない。こんな心の状態で書くのであるから纏まりのつかないことを御推察下さい。
岬太田,1935c, p.52)(下線は筆者による。)
太田は何を悩んでいるのだろうか。太田は,子どもたちの教育に映画を利用することは,「知 識の収得」の効果すなわち,実質的陶冶の効果はあるが,形式陶冶の側面,すなわち,人間 形成,子どもたちが知識を使いこなす能力や態度子どもたち自身で科学する能力や態度の向 上を妨げるのではないかと懸念している。
それでも,太田は,以下の「理科学習に於ける要諦」として教材映画が子どもたちの理科学 習の有効な手段であり,映画が理科心や理科的生活の源泉になると確信するのである。
理科学習に於ける要諦の第一は児童をして物それ自体から学ばせることである。事実実 物によって理科的生活をさせることである。又,事実実物の多種多様な角度に児童を触れ させることである。即ち彼等児童にそれを投げ与へてやることである。そんな点からして は映画的直観は第二次直観ではあるが絵画,写真,標本を以てする直観と異なり「運動性」
を有する直観である点に於て他の何物よりも実物実景を髪髭(ほうふつ)せしめ得る故に 有効な手段である。(後略)(㈱太田,1935c, p.52)(下線は筆者による。)
日本科学映画の生みの親太田仁吉の思索と実践
しかし,太田は,そのためには,教師の側の努力が必要不可欠であると主張している。上記 の文章の後に,理科教育では,目的論と方法論が大切であるとして,以下のように述べている。
(前略)私は小学校では何れかと言へば方法計画の方をや・重んずるのが適当でないかと 思ふ。方法論を重んずる人は教材を決して忽(ゆる)かせにしない。理科は誤りなきを期 するのが第一である。其点から考えへて教材研究は他教科よりも重んぜられなくてはなら ぬ。斯く見る人の中には子供の研究を忽(ゆるが)せにしないといふ特長がある。目的が たち,確かな教材研究が出来てみて,子供に就ての理解が出来て居れば教材の観方といふ ことに対しても確かりした基礎が出来るわけである。((38}太田,!935c,p.53)(下線は筆者 による。)
このように,太田は,少なくとも小学校における理科の学習では,教材映画を教授の流れの どの位置に置くのかを計画することが大切であり,そのためには,教師の教材研究が不可欠で あるζ主張している。その教師による教材研究を活発にするにはどうしたらよいのであろうか。
このことは,4−9で再び述べることにする。ところで,太田は,理科とは別の他の教科・科 目への教材映画の導入をどのように捉えたのであろうか。また,子どもたちに,映画から得た 直観像をどのように定着するべきと考えたのであろうか。
4−5.太田仁吉による国語教育・読方教育における映画のあり方
太田仁吉は,1935(昭和10)年1月号の『十六ミリ映画教育』誌に『読方に於ける映画の位 置』という文章を投稿し以下のように書いている。このときの所属は,東京市赤羽小学校と記 載されている。
(前略)読方に於ける学習の対象は其の表現された言語即ち文章であるので文章の理解は それは言語の意義とか,意味を意識の層に構成することである。即ち心象を認識すること である。であるから言語の意義を離れての読方は有り得ない。そこに事実に就て研究する 理科とか地理等とは自ら異なった立場にあるのである。
(中略)
要は映画に依って得た直観想像は必ず文章の上にかへって言語と結合されなければなら
ない。
言語といふ形式によって理解が統一されなければならないと思ふ。((39)太田,1935d, pp,
25−27)
この時点で,太田は,読方教育においては,理科教育等とは異なり,映画の直観像は文章に されなければならないとしている。このことから,太田は,読方教育においては,映画は文章
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指導や文章理解のための補助的なものにならざるを得ないと捉えていると推察される。その後,
太田の映画観は,映画の独自性を強く主張するものになってくる。
太田の時代,理科の教科書は,「小学校理科書」,国語の教科書は,「小学校国語読本」である が,国語の教科書にも理科的な内容が含まれている。例えば,理科では,「四学年第十九課「せ み」」,国語では,「巻七 第十七課「油蝉の一生」」がある。1936(昭和11)年,太田は,それ
らの両者に関連した映画『蝉の一生』((14〕瀧口,2009)((15}佐藤2016)をつくっている。
4−6.太田仁吉による教材映画の可能性の拡張
太田仁吉は,『十六ミリ映画教育』誌の1936(昭和11)年4月号で,学校で映画を映写すると きの基本的知識として映写室での配電装置と換気法について説明し((〃D}太田,1936a)技術的知 識が大切であることを示した上で,5月号に,『映画は教育に何故に必要か』という文章を投稿
し以下のように書いている。
今日行はれてるる映画教育に二つの見方がある。一は方便観的映画教育で一は目的観的 映画教育である。方便的立場を取る論者は映画の特異性を,教授の方便物たる実物の代り に或は絵画の代りに取り入れてやる方である。(中略)又一方目的論的立場を取るものは,
映画の教科的独立まで叫ぶ論者によれば映画は思想感情の表現伝達に穿て決して言語文字 文章に劣るものではない。(中略)我々は読方に理科に修身に動く掛図として生きた実物と して映画を取扱ひながらも其の画の動きの彼方には大きな永遠への偉大なる力の働いて みることを見透さねばならぬ。この様に考へると方便的な態度を取っても単なる方便に堕 することがないことになるといふことである。((4D太田,!936bpp.25−26)(下線は筆者に
よる。)
ここで,「方便観的映画教育」は,「映画利用学習」・「教材映画」を指し,目的観的映画教育 とは,「映画そのものの学習」を指していると考えられるが,関野の批判に対して,「教材映画」
にも大きな可能性があることを主張し,だからこそ,単なる教育の手段としての映画利用であっ てはならないと警鐘を鳴らしている。また,理科教育における映画利用についての教師の主張 をまとめている((42)太田,1936c)。
また,太田は,同投稿に「映画は「新しい言葉である」と言はれてるる」という題名で以下 のように書いている。この捉え方自体は,赤羽小学校における関野嘉雄による映画理論の講義 の影響を強く受けていると推察される。
言葉を媒介として他人の経験を取入れたり,言語によって教育を受けた人々即ち聴覚的 人間,眼より耳を動かして智識を得る方法は,過去数千年の方法である。(中略)
であるがこれはやがて,事物より言葉文字が尊ばれる結果となりそれがやがて目的とな
日本科学映画の生みの親太田仁吉の思索と実践
つたかの感がある。世に文字,言葉が神秘であると言ひ,映画は軽薄であるかの如くいふ 人さへ有るがそれは文字,言葉に神秘があるのではない。
其の後にある人の体験が神秘であり,貴重なものであるのである。映画も此の体験を表現 するものである。文字や言葉の如く,思想感情運動を表現するものである。(中略)新らし い言説文章には新しい文法が有るのである。其の文法に習熟し,映画を読む力をつける 事が,映画教育の一つの目的でないだらうか。(( D太田,1936bp.26)(下線は筆者による。)
ここで,太田は,映画には映画独自の文法があり,映画独自の文法を学ぶという意味での映 画教育の必要性を主張しているのである。このことは,4−5で紹介した,映画の直観像は読 方教育においては文章にされなければならないとしていることと一見矛盾しているように感じ られるが,ここでは,教材映画独自の可能性を強く主張していると筆者は推察している。いず れにしても,4−5で紹介した映画『蝉の一生』が,結果として理科,国語(読方)の両方の 授業で使われていることは興味深いことである。太田の,このときの所属も,東京市赤羽小学 校であるが,その主張は映画製作者として役割を意識し,同時に教材映画についての考え方が 確立したことがわかる。
4−7.鈴木喜代松による実践映画学習論
さて,上記の太田仁吉の映画観と対照的に,「動く掛図論争」で関野嘉雄と対峙し,東京市赤 羽小学校で同僚であった鈴木喜代松は,『十六ミリ映画教育』誌の1935(昭和10)年7月号に,
「実践映画学習塾[三]第三章 理科学習と映画」という論文を投稿し以下のように書いてい
る。
(前略)蛙は生きた蛙によって学習されるべきもので絵画,写真,映画,模型の何れによ らうともそれは真正なる理科学習ではない。それらは実物と対照的に実物をより正しくよ り精密に観察させる補助方便物として必要なのである。
然し乍ら映画的現実と真現実との間には唯一つの共通点が保有されてみる。それは「動 き」である。映画的現実は実像の影に過ぎない。けれどもその「動き」だけは真現実と同 様である。「動き」あるが故に吾々は映画的現実を真現実と錯覚させられる。そこに吾々は 生命を感ずる。殊に児童は経験も浅く少いから錯覚の限度が大きい。((43)鈴木,!935,p.21)
(下線は筆者による。)
ここで,鈴木は,映画を,実物をより正しくより精密に観察させる「補助方便物」であると している。また,映画の「動き」については,鈴木はここに書いていないが,Max Wertheimer らのゲシュタルト心理学の仮視運動として説明されているように,映画的現実は実像の影に過 ぎないが,「動き」だけは現実の現象と同じであるとしている。
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また,鈴木は,同投稿で,以下のように「断片映画の必要」性,授業において映画作品の一 部を使うことの必要性を書いている。
由来理科学習は如何な教便物が表はれようと先づ理科学習でなければならぬ。映画が表 はれ之を使用する為に理科学習が中断されたり甚だしきは歪曲されたりするなら映画は理 科学習の敵である。従来の映画利用の理科学習はともすれば健全なる理科学習が映画によ って中断されてるはしなかったらうか。若し多少でも中断のきらひがあったとすればそれ はまとめなくてもよい理科映画を強ひて一本の映画にまとめたことに非難が与へられなけ ればならぬ。(後略)
(前略)そこで私は 断片映画の必要
を説く。掛図は実物があっても必要な時に必要な部分だけを指示し説明の補助として用ひ てみた。同様に必要な時に必要な部分だけを映写出来る様な断片映画が必要である。然も 一本にまとまった映画は又整理上必要になって来ることは勿論である。(〔43)鈴木,1935,p.
24−25)(下線は筆者による。)
ここで,鈴木は,このように映画を教師の主導のもとにある「補助方便物」としている。一 方,太田仁吉は,4−6で紹介したように,「方便的な態度」をとることは仕方がないとして も,そのことに堕することがないようにと警鐘を鳴らしている。このことから,映画は「補助 方便物」・「教便物」とする鈴木の考えとは異なっていると考えられる。太田は映画の「動き」
に,鈴木喜代松とは別の可能性,独自性を見ているのではないだろうか。その可能性,独自性 とはどのようなものであろうか。さらに検討してみよう。
4−8.教材映画における「原的姿」による概念の再構成としての理解
太田仁吉は,4−6で紹介した『十六ミリ映画教育』誌の!936(昭和11)年5月号の『映画 は教育に何故に必要か』という文章を投稿し以下のように書いている。
(前略)又理科の如きものは,実験なり観察なりに依っても会得出来るのであるが,映 画は其の還元の度に於て他の何ものよりも高度のものである。今,ニュートンの重力につ いての概念を得させるとするならば,落ちる現象の種々相を原的姿に於て観察し実験して こそ,そこに「成る程なア」と納得出来るのである。即ち重力の法則を理解することにな る。これがやがて重力とはといふ概念を構成するわけである。デユーイーの所謂理解する とは「再構城することである」といふ。この再構成の場合に各現象を原的姿に於て眺める ことは理解し易からしめる方法中最善のものであると思ふ。それには原的姿に於て自由に 再構成し得る映画を以て第一次的に考へられる。(後略)(〔41>太田,1936bp.27)(下線は筆
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者による。)
太田は,理科は,実験や観察で学ぶことができるが,映画を利用することによって,現象を より根源的な部分(原三軍)に分け,より分析的かつ総合的に学ぶことができるとしている。
例えば,自由落下の現象をいくら注意深く観察しても,何度見ても,物は落ちるものだとい う事実を学ぶだけで,そこから万有引力の法則は導かれない。しかし,上記の太田の文章には 書かれていないが,高速度撮影を利用すれば,少なくとも一瞬にして終わる現象をゆっくりと 観察できるであろうし,ストロボスコープを利用すれば,等加速度運動であることは理解でき
るだろう。
もっとも,6−4で述べるように,重力の理解はそれほど簡単ではない。いずれにしても,
太田は,映画を利用することによって,様々な視点から現象を撮影することができ,それらの 映像を総合(再構成)することができ,それが深い理解に至る道だとしている。このことは,
映画を教師の「補助方便物」,「教便物」と捉えている鈴木喜代松の映画観とは異なっている。
4−9.教材映画にはテキストが必要である
しかし,太田仁吉は,教材映画をそのまま鑑賞させれば何の問題もなく,子どもたちの理 科学習に寄与すると考えたわけではない。
太田は,1936(昭和1!)年10月号『十六ミリ映画教育』誌の後述する『理科教材映画製作の 根本態度』に『教材映画使用上の要諦』という文章を投稿し以下のように書いている。
私共の会の教材映画は必らずテキストを添へて発表することにしてみる。此のテキスト は教材研究に次で作成に努力して有るから諸賢の教材研究の一部を担当してみるわけであ る。又これを御覧になると製作した者の意図も使用方法も自然に解って来る訳である。(後 略)((44}太田,1936d,p、9)
このように書き,4−4で紹介した「理科学習に於ける要諦」を繰り返し書いた上で,以下 のように述べている。
(前略)映画を学習の陶冶材として利用する場合には先づ教材研究をして其の結果,其の 映画の内容とから教授の流れの位置を明確にしてか・らねば効果を挙げ得ないことになる。
(〔44>太田,1936d,p,9)
太田の教材映画には,多くの場合,テキスト(『通俗科学映画全集テキスト』)が用意されて いる。また,文化映画叢書(註・引用文献㈲㈹)が出版されている。戦後の作品でも,映画の シナリオ(註・引用文献勉,解説書(註・引用文献㈹「49)),『科学の実験』誌では映画の画面を
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取り入れたグラビア・ページ(註・引用文献50陥6りの形で出版されている。
4−10.太田仁吉の「教材映画も文化映画になりうる」論
太田仁吉は,1936(昭和11)年10月号の『十六ミリ映画教育』誌に,「十六ミリ映画教育普及 研究会教材映画製作部長」の肩書きで『理科教材映画製作の根本態度』という文章投稿してい る。太田の肩書きの変化から,ここにおいて,太田は,教材映画を使う役割から,教材映画を 製作する役割へと完全に変わったと考えられる。
さて,太田は,教材映画と文化映画について以下のように書いている。
先づ「教材映画と文化映画」について再検討する必要がある。それは此の両者に共通点 が多いからである。文化映画の起りとも見るべきは独逸の「ウーファ会社」の「クルッア・
フイルム」「タルトウール・フイルム」即ち文化映画を真似たもので,大衆生活に関係の深 い映画を通して,国民の道徳向上,品性の陶冶,智識の啓発を計るにあるので其の内容と しては生物学に関するもの,物理化学,天文地文,科学工業,芸術史,文化史,スポーツ 等を取扱ひ表現方法としては実写を主とし図解や説明を加へて解り易くしてあるのである。
((44)太田,!936d, p.6)(下線は筆者による。)
太田の書いているとおり,文化映画とは,ドイツのウーファ社の映画に, Ein Ufa Kutur Film のタイトルがあり,その映画を輸入した東和商事が,直訳して「文化映画」の名称で宣 伝したことによるという。(〔121岡本,1996,p,20)
関野嘉雄によれば,娯楽的劇映画以外の一切の作品を「教育映画」と呼んだ時期があり,こ の映画のうち,現実の事象が,素朴に再現・伝達されている「実写映画」と呼ばれた映画のこ
とを「文化映画」と呼んでいるという ((29}関野1942,pp.46−47)。
一方,太田がここで書いている文化映画は,最初に,生物学から始まって,自然科学・技術 の分野のものであるが,筆者は,これは当時,東和商事が輸入した映画に自然科学の作品が多 いからであると推察している。
いずれにしても,ここで,関野嘉雄が主張している「映画学習」あるいは「映画そのものの 学習」における映画は,その多くがいわゆる文化映画であることは注意すべきである。
太田は,続いて以下のように書いている。
これを撮影技術から見ると,顕微鏡撮影,高速度撮影,微速度撮影,水中撮影,航空撮 影等が含んでみる。これ等の事を考へると教材映画もこうした方面の事を取扱ふ様にも考 へられるが文化映画の方は一般大衆の教育を意味するが故に製作に当っても興味的にし又 普及を目的としてなさるべきである。これに対して教材映画の方は其の学科課程に於て陶 冶財として又学習に働きかける材料としての生命を持つものでなければならないものであ
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る。言語による児童の相互批判,児童の探究,教師の補説として映画を利用するところに 価値があるので有るから其の映画に依って具体的な直観像を構成せしめ其の表象を正確な らしめるものでなければ教材映画として優i秀なものとは言はれない。(〔44)太田,1936d, p.
6)(下線は筆者による。)
太田は,文化映画と教材映画は,撮影技術は共通しているが,その目的が,前者が科学的知 識の普及,後者が科学的知識の陶冶であるとしている。また,優秀な教材映画の条件としてわ かりやすさと正確さとしている。そして,以下のように結論づけている。
教材映画も製作の仕方で文化映画となり得るそれは次の如き意味合からである。前述の 学課過程の中に織り込んで使用するものでなく,切離して観ても充分興味を惹き得るもの は文化映画と見られる。学術映画科学映画の中でも,科学智識の普及を目的としたものは これに入れられる。又教化映画の中にも国策的内容を持つものは文化映画の中に入れ得
るのである。((44)太田,1936d, p.6)(下線は筆者による。)
科学的知識がわかりやすく,正確であることは,興味関心を惹き,普及していくことの必要 条件であるから,優秀な教材映画は,文化映画になりうるということである。
この太田仁吉の『理科教材映画製作の根本態度』の表明は,太田が理科教材製作者からより 広い科学教育映画,科学映画製作者への脱皮の宣言であると筆者は推測している。
ただし,太田が文化映画にこだわったのは,関野嘉雄の考えや1939(昭和14)年の映画法に よる文化映画の指定(強制)上映といった時勢も影響している可能性もある。
実際,1938(昭和13年)11月には,教材映画を専門に製作していた十字屋映画部は,文化映 画の製作を始め,「十字屋文化映画部」と改名しているのである。
ここに至って,太田は,小学校教師という教育実践者から離れ,映画製作者という視点から 教材映画を捉え直し,結果として,関野嘉雄が主張していた「映画学習」あるいは「映画その
ものの学習」と「映画利用学習」・「教材映画」の二元論,すなわち,「動く掛図論争」自体を解 消させる可能性を示したと筆者は推察している。
4−11,関野嘉雄の「文化映画としての教材映画」論
ところで,関野は,教材映画そのものを批判しているわけではない。関野は,「映画としての 独立性をもたず教科書に従属する程度を出ない断片的な教材」岬関野,1942,p.328)として の「教材映画」を批判しているのであって,「教材映画」のすべて否定しているわけではない。
(前略)結局「動く掛図」的観念の下に一括されうるかうした教材映画が,教育的世界の 外にある一般の人々に対してそれが教材映画のザインであるばかりでなく,又ゾルレンで
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もあるやうな誤解を与へしまったやうに思はれる。然しそれは絶対に誤解である。実状に 於ても教材映画は徐々に動く掛図ではなくなりつつある。
単に事象を直観させ説明してやるだけではない教材映画,それは必然に文化映画の方法と 一致するものをもってみる。教材映画とは学校教育に利用される児童のための文化映画に 外ならない。文化映画の精神と教材映画の精神とは少しも異ってみない。これを本質的に 異なるとする見解は映画の深い文化的意義を見失ったものである。((29)関野,1942,pp.330−
331)(下線は筆者による。)
このように,関野によれば,本来の教材映画とは,映画としての独立性をもち,教科書に従 属しまうことなく,断片的な教材でもない,学校教育に利用される文化映画なのである。
なお,上記の関野の文章の「実状に於ても教材映画は徐々に動く掛図ではなくなりつつあ る。」に続く[(中略)]の部分で,関野は,文化映画としての「教材映画」の一例をあげている。
これは,太田仁吉の作品の評価に当たることであり,6−2で述べることにする。
4−12。理科教材映画製作者としての自覚と教育実践者との協力関係
太田仁吉は,「十六ミリ映画教育普及研究会教材映画製作部長」の肩書きで,1937(昭和12)
年1月号の『十六ミリ映画教育』誌に『製作者の良心を通して教育実際家に臨む』という文章 を投稿し以下のように書いている。
理科教材映画製作の根本的なことは「自然界を熟視する」といふことから凡ての物が産 み出されるのである。大自然界の宝庫を開くべき鍵は何んであるか。それは自然界の物象 を熟視し,そこに吾々の生命感情を打込んで真美の世界を感得することである。(中略)自 然界を描き出すといふよりも写し撮るのであるがこれには飽くまでも実体的な動きであり,
現実の動きを記録することを基礎にして,映画を流動的に構成してこそ,そこに真の自然 界の妙裡も感得し得ることになる。であるから自然物を自然の姿でキャッチすること,原 的姿に隔て提出されることは教育上最も効果的であると思ふ。(後略)((57)太田,1937,p.
9>(下線は筆者による。)
この文章は,太田の科学教育製作者としての自覚を感じさせる。学習者の代わりに,自然界 を熟視し,様々な視点から自然物を自然の姿で写し撮りそれを提供することが科学教育部作だ ということである。
その上で,太田は,以下のように教育実践者に協力を呼びかけている。
「蒔かぬ種子は生えぬ」だ。種子の良否をばかり眺めてみたって何にもならない,土地に