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立正大学蔵書の歴史 寄贈本のルーツをたどる

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全文

(1)

小此木 敏明

立正大学蔵書の歴史 寄贈本のルーツをたどる

―近世駿河から図書館へ―

〔増補改訂版〕

立 正 大 学 蔵 書 の 歴 史

  寄 贈 本 の ル ー ツ を た ど る シ リ ー ズ ・ ア タ ラ ク シ ア 1

(2)

発刊の辞

戦後まもない一九四九年、 立正大学図書館年報「アタラクシア」創刊号が 発刊された。 戦禍を潜り残された貴重な資料を手に、 知の泉たらんとする大学の志は、 図書館の場からも発せられた。 書庫の奥に何時もあり、 ページを開けばいつでも触れられる、 「アタラクシア」にある先人の言葉の息吹が、 今、溢れる情報のなかで輝いて感じられる。 図書館の蔵書は折にふれ寄贈され、購入し、 多くの人に支えられて今に至っている。 めまぐるしく変化する時代に流されず、 多様化するメディアに対応し、 立正大学図書館の資料から視えてくる 普遍の価値を伝えるために、 「シリーズ・アタラクシア」をここに発刊する。

二〇一三年 三月吉日    立正大学図書館 発刊の辞

戦後まもない一九四九年、 立正大学図書館年報「アタラクシア」創刊号が 発刊された。 戦禍を潜り残された貴重な資料を手に、 知の泉たらんとする大学の志は、 図書館の場からも発せられた。 書庫の奥に何時もあり、 ページを開けばいつでも触れられる、 「アタラクシア」にある先人の言葉の息吹が、 今、溢れる情報のなかで輝いて感じられる。 図書館の蔵書は折にふれ寄贈され、購入し、 多くの人に支えられて今に至っている。 めまぐるしく変化する時代に流されず、 多様化するメディアに対応し、 立正大学図書館の資料から視えてくる 普遍の価値を伝えるために、 「シリーズ・アタラクシア」をここに発刊する。

二〇一三年 三月吉日    立正大学図書館

(3)
(4)

立正大学蔵書の歴史 寄贈本のルーツをたどる

―近世駿河から図書館へ―

   【目 次】

凡例・地図

………

4 はじめに

………

5

第 1 章   遍歴する蔵書 ― 山梨稲川『三丁集』

… ………

6

第2章   採選亭の木活字本 ―『重修無得道論』

… ………

26

第 3 章   左官職人による自費出版 ―『安鶴在世記』

… ………

42

第4章   貸本屋、鳴雁堂の蔵書 ―『三川日記聞書』

… ………

58

第 5 章   中国からやってきたカレンダー ―『大清嘉慶十九年時憲書』

… …………

72 引用・参考文献

………

88

附録

  『今川家集』翻刻

………

92 あとがき

………

136

(5)

凡例・地図

凡例

本書では、特に断らない限り、 立正大学品川図書館を「立正大 学図書館」と呼ぶ。

本書に掲載している画像は、す べて立正大学図書館が所蔵して いる資料に基づく。資料の請求 記号には、 N DC(日本十進分 類 法 ) と、 「 A 」 か ら 始 ま る 旧 分類番号がある。

本文の引用に際しては、 旧漢字 ・ 異体字などを通行の字体に改め、 句読点・濁点・ルビを私に施し た場合がある。

頭注には、人物や資料など、本 文に入れられなかった解説を付 け、引用・参考文献は巻末に記 載した。

駿河湾

御前崎

伊豆半島 庵原町

駿府城

賤機山

谷津山

安倍川 安倍川

興津川

蓮永寺

稲川 駿府城

江川町 五丁目 四 安西 丁目 四足町

浅間神社

0 20㎞

0 500m

(6)

はじめに 昔 か ら 古 書 店 を 題 材 に し た 物 語 は 多 い 。 誰 に で も 、 思 い 出 の 本 の 一 冊 や 二 冊 は あ る も の だ が 、 そ う し た 本 が 人 か ら 人 へ と 移 動 す る 古 書 店 は 、 本 に ま つ わ る 思 い 出 が 紐 解 か れ る 場 と し て ふ さ わ し い 。 本 の 移 動 と い う 面 で は 、 図 書 館 に も 古 書 店 と 同 じ よ う な 側 面 が あ る 。 単 に 本 の 貸 し 借 り が 行 わ れ る と い う だ け で は な い 。 本 を 手 放 す に は 、 売 る 以 外 に も 図 書 館 へ 寄 贈 す る と い う 選 択 肢 が あ る 。 寄 贈 さ れ る 本 は 最 近 の も の に 限 ら な い 。 立 正 大 学 図 書 館 に は 長 い 歴 史 が あ る が 、 今 ま で 多 く の 和 漢 古 書 が 寄 贈 さ れ て き た 。 古 書 は 時 代 が 古 い 分 、 図 書 館 に 納 め ら れ る ま で に 多 く の 人 の 手 を 経 て い る 場 合 が あ る 。 本 が 移 り ゆ く 過 程 に は 様 々 な 事 情 が あ っ た だ ろ う が 、 そ れ が 物 語 の よ う に 披 露 さ れ る こ と は 希 で あ る 。 い つ 頃 、 誰 の 手 を 経 て き た か を 推 測 す る こ と も 難 し い 。 し か し 、 も と の 持 ち 主 が 、 押 印 や 書 入 れ と い っ た 何 ら か の 痕 跡 を 本 に 残 し て い れ ば 、 移 動 経 路 ぐ ら い は 見 え て く る 。 幸 い に も 、立 正 大 学 図 書 館 に 寄 贈 さ れ た 古 書 の 中 に は 、 そ の 痕 跡 が 残 さ れ て い る も の も 多 い 。 そ れ ら を 調 べ る こ と で 、 立 正 大 学 図 書 館 へ と 至 っ た 経 緯 や 、 か つ て の 所 有 者 に つ い て 、 あ る 程 度 分 か っ た も の が あ る 。 本 書 で は 、 大 正 五 年 ( 一 九 一 六 ) に 寄 贈 さ れ た 駿 河 の 貞 松 山 蓮 永 寺 の 旧 蔵 書 の 中 か ら 、 和 漢 古 書 を 五 点 選 ん で 紹 介 し て い き た い 。 そ の 際 、 所 有 者 や 本 の 移 動 と い う 側 面 に も 着 目 し て い く つ も り で あ る 。

(7)

第 1 章

遍歴する蔵書─山梨稲川『三丁集』

一、山梨稲川

二〇一九年現在、立正大学図書館は、二〇〇三年に竣工した総合学術情報セ

ンター内に置かれているが、それ以前は長らく五号館と呼ばれる建物内にあっ た。旧図書館の地下は、今も保存書庫として機能しており、二〇一一年までは

未 登 録 の 和 装 本 が 保 管 さ れ て い た( 現 在 は、 古 書 資 料 館 に 移 さ れ て い る )。 こ

こで紹介する『三丁集』の二と四の二冊は、その未登録本の中から見つかり、

登録されたものである。 『三丁集』は、 山

やまなし

梨稲

とうせん

川(一七七一~一八二六)による漢詩文の自筆稿本(草 稿 ) で あ る。 稲 川 は、 『 稲

とうせん

川 詩

しそう

草 』 と い う 自 身 の 漢 詩 集 を、 採

さいせんてい

選 亭 と い う 本 屋

か ら 文 政 四 年( 一 八 二 一 ) に 出 版 し て い る( 採 選 亭 に つ い て は 次 章 参 照 )。 こ

の稿本は、そこに掲載する漢詩を選ぶために、自作の詩を整理する目的で作ら

れたと考えられている。 山 梨 稲 川 は 漢 詩 も よ く し た が、 中 国 語 の 古 音 な ど を 研 究 し た 漢 学 者 で も あ 三 丁 集   二 巻 ( 二 ・ 四 )   (

919.6/Y35/2,4

) 稲 川 玄 度 ( 山 梨 稲 川 ) 著 。 袋 綴   四 つ 目 綴   写 本   半 紙 本 二 冊 。 2 3 ・ 7 × 1 6 ・ 1 ㎝ 。 第 一 冊 、 四 十五 丁 。 第 二 冊 、 五 十 七 丁 。

(8)

第 1 章 る。出身は、駿河国庵

いはらぐん

原郡西

にしかた

方村(現静岡市清水区庵原町)で、四十一歳の時、

駿府城の南郊外である稲

いながわ

川(同市駿河区稲川)に移り住んだ(四頁地図参照) 。 それ以降、名を治

はるのり

憲、字

あざな

を玄

げんど

度とした。稲川の号は地名に由来する。

生前、稲川の知名度はそれほどでもなかったが、その漢詩や学問は近代に入 って評価されるようになった。清朝の兪

ゆきょくえん

曲園

は稲川の漢詩の才を認め、 自身が 光緒九年(一八八三)に編纂した『東

とうえい

瀛詩

しせん

選』の巻十五に、その詩を六十八首 も掲載している。 また、 東洋史学の大家である内

ないとう

藤湖

こなん

は、 昭和二年 (一九二七)

の 稲 川 先 生 百 年 祭 に て、 「 山 梨 稲 川 の 学 問 」 と い う タ イ ト ル の 講 演 を 行 っ た。

この年、稲川は正五位を追贈されている。

二、陰山豊洲の評

稿 本 に は、 完 成 版 に は 見 ら れ な い メ モ 書 き や、 推 敲 の 過 程 が 記 録 さ れ て い

る場合がある。 『三丁集』もその例に漏れない。幸いにも立正大学図書館には、 稿 本 の 完 成 版 と も 言 え る『 稲 川 詩 草

』 が 所 蔵 さ れ て い る の で、 両 者 を 簡 単 に

比較することができる。 * 兪 曲 園 ( 一 八 二 一 ~ 一 九 〇 七 ) 清 朝 末 期 の 学 者 。 岸

きしだ

田 吟

ぎんこう

香 の 依 頼 に よ り 、 日 本 人 の 漢 詩 を 選 ん だ 『 東 瀛 詩 選 』 を 刊 行 し た 。「 東 瀛 」 は 東 の 大 海 の 意 で 、 日 本 を 指 す 。

* 内 藤 湖 南 ( 一 八 六 六 ~ 一 九 三 四 ) 大 阪 朝 日 新 聞 社 を 経 て 、 京 都 帝 国 大 学 教 授と な る 。 山 梨 稲川 に 興 味 を 持 ち 、 二 度 の 講 演 を 行 っ た 。 死 後 に 出 版 さ れ た 『 先 哲 の 学 問 』 に 、 活 字 化 さ れ た も の が 収 録 さ れ て い る 。

* 稲 川 詩 草   七 巻 五 冊

蔵 す る の は 有 跋 本 。 伝 本 が 知 ら れ る 。 立 正 大 学 図 書 館 が 所 し た 。 和 田 正 誠 の 跋 の 有 無 に よ り 二 種 の

わだまさのぶばつ

子 の 塩 屋 定 暹 、 娘 婿 の 戸 塚 維 春 が 協 力

しおやていせんとづかいしゅん

編 輯 と 校 訂 に は 、 稲 川 の 次 男 の 玄 昱 、 弟

げんいく

四 年 ( 一 八 二 一 ) 刊 。 山 梨 稲 川 著 。 駿 府 、 鉄 屋 十 兵 衛 、 文 政   ( A 8 4 / 1 0 )

(9)

第 1 章

『 稲

とうせん

川 詩

しそう

草 』 に な い 情 報 と し て は、 稲 川 の 学 問 の 師 で あ っ た 陰

かげやま

山 豊

ほうしゅう

の 評 が 書 き 写 さ れ て い る 点 が 面 白 い。 そ の 評 は、 『 三 丁 集 』 二 の「 山

さんきょ

居 」 と 題 さ れ た

十 九 首 の 漢 詩 に 対 し て 付 け ら れ て い る( 「 山 居 」 は『 稲 川 詩 草 』 巻 一 の 五 言 古

詩に収録) 。十九首目の欄外には、 総評だと思われる以下の内容が書かれている。

豊洲が評して言うには、 険しい場所を平坦な道を歩むように進み、 走っては、 ますます力強く壮健となり、更に突出し更に奇抜となる。本来これが稲川

の長所である。世に言うところの、 「盤

ばんこんさくせつ

根錯節に遇ひて、 始めて利器を知る」

ということだ、と。

「 盤 根 錯 節 に 遇 ひ て、 始 め て 利 器 を 知 る 」 と は、 中 国 の 故 事 で あ る。 入 り 組 んだ木の根や節を前にして、始めてその刃物の切れ味が問われるように、人の

本領も困難に遭遇しなければ分からないという意を表す。険しい道とは、十九

首の連作を指しているのだろうか。稲川は、難題に挑んでこそ力を発揮するタ

イプだったらしい。

こ こ で、 「 山 居 」 十 九 首 の 中 か ら 一 首 を 紹 介 し て み た い。 ど の 漢 詩 が す ぐ れ ているかの判断は難しいが、豊洲が誉めている一句を含む六首目をあげる。 * 陰

かげやま

山 豊

ほうしゅう

洲 ( 一 七 五 〇 ~ 一 八 〇 八 ) 漢 学 者 。 河

かわち

内 狭

さやま

山 藩

はん

に 仕 え る 。 文 化 三 年 ( 一 八 〇 六 )、『 松

しょうけいえんししゅう

桂 園 詩 集 』 を 出 版 し た 。 稲 川 は 、そ の 死 を 悼 み 「 哭 豊 洲 六 首 」 を 作 成 し て い る 。 こ の 漢 詩 は 『 三 丁 集 』 二 に 載 り 、『 稲 川 詩 草 』 に も 収 め ら れ て い る 。

〈 豊 洲 の 評 〉

(10)

第 1 章 詞士自彬々    詞

しし

士、自

おのずか

ら彬

ひんぴん

々として、

勇夫何仡々    勇

ゆうふ

夫、何ぞ仡

きつきつ

々たるや。

豈如巌嶂中    豈

に如

しか

んや、巌

がんしょう

嶂の中

うち

、 得喪倶相訖    得

とくそう

喪、倶

とも

に相

ひ訖

ふに。 酒従近県賖    酒

さけ

は、近

きんけん

県従

り賖

おきの

り、

醯向鄰家乞    醯

しおから

は、隣

りんか

家に向

むか

ひて乞

ふ。

時草太玄経    時

とき

に太

たいげんきょう

玄経

を草

そう

すれども、

任人嗤口吃    任

にんじん

人、口

こうきつ

吃を嗤

わら

ふ。

文章家は、もとより表現と実質が調和し、勇敢な男は、なんと猛々しい ことか。それでも、険しい峰に住み、名声の得失に対する関わりを断つ

に勝るものはない。酒は近くの県で代金を借りて買い、しおからは隣家

に 寄 っ て 貰 え ば よ い。 当 時、 『 太 玄 経 』 を 書 い た 揚

ようゆう

雄 で さ え、 口 先 だ け の者に、その吃

きつおん

音を嘲笑されたのだから。 豊 洲 は、 こ の 詩 の 第 五 句 に 朱 で し る し を 付 け( 圏

けんてん

点 )、 他 の 人 に は 真 似 で き

ない巧手( 「豊洲先生云、巧手段、他人不言得」 )という評価を与えている。 * 太 玄 経 中 国 前 漢 末 の 学 者 、 揚 雄 ( 前 五 三 ~ 後 一 八 ) の 著 作 。 揚 雄 は 、 名 利 に こ だ わ ら な い 人 物 と し て 知 ら れ る 。 吃 音 だ っ た た め 、 思 索 す る こ と を 好 ん だ 。『 太 玄 経 』 を 書 い た と き 、 嘲 り を 受 け た が 、 「 嘲

ちょうかい

解 」 と い う 文 章 を 書 い て 反 論 し た 。

(11)

第 1 章

三、 『山梨稲川詩稿』

とうせん

川の自筆稿本は、この二冊以外にも多く残っている。静岡県立中央図書館 の 葵

あおい

文 庫

は、 稲 川 の 蔵 書 を 数 多 く 所 持 す る。 そ の 中 に は、 『 三 丁 集 』 と 同 様 の 漢詩文の稿本が二十二冊もあり、 『山

やまなし

梨稲

とうせん

川詩

しこう

稿』 (以下、 『詩稿』 )という名で 管理されている。ただし、それぞれの本には、個別の名称も付けられており、 多くは「辛

しんがいこう

亥稿」のように六十干

かんし

支(単に干支とも)を冠している。

六 十 干 支 と は、 十

じっかん

と 十 二 支

を 組 み 合 わ せ て 出 来 る 六 十 周 期 の 符 号 で、 中

国 や 日 本 な ど で 年 月 日 を 順 序 付 け る の に 用 い ら れ た。 「 辛 亥 稿 」 の「 辛 亥 」 は

年を表すので、基本的に『詩稿』は、作った年毎に漢詩をまとめた本であるこ とが分かる。さらに、 「辛亥稿」 のような名称とは別に、 おおよそ十年単位で、 『初

丁集』 『二丁集』 『三丁集』 『四丁集』という名が付けられている。

ただし、葵文庫の『詩稿』を年代順に並べていっても、すべてが揃うわけで

はない。 『四丁集』の五に当る「乙

おつゆう

酉詩稿」には、 「共二十六冊」と書かれてい

るが、 『初丁集』から『四丁集』までは十九冊である。葵文庫に残る『詩稿』は、 この十九冊に『於

おりょう

陵樵

しょうしょう

唱』 『佩

はいらん

蘭新

しんが

雅』という名の二冊の稿本と、 『初丁集』の * 葵 文 庫 一 九 一 四 年 に 開 館 。 江 戸 幕 府 の 旧 蔵 書 の う ち 、 番

ばんしょ

所 調

しらべしょ

所 、 開

かいせいしょ

成 所 、 昌

しょうへいざか

平 坂 学 問 所 な ど の 蔵 書 を 中 核 と す る 。

* 十 干 一 ヶ 月 を 三 分 し た 際 の 十 日 間( 旬 )に 、甲 ・ 乙 ・ 丙 ・ 丁 ・ 戊 ・ 己 ・ 庚 ・ 辛 ・ 壬 ・ 癸 の 十 字 を 当 て た も の 。

* 十 二 支 一 月 か ら 一 二 月 ま で の 月 に 、 子 ・ 丑 ・ 寅 ・ 卯 ・ 辰 ・ 巳 ・ 午 ・ 未 ・ 申 ・ 酉 ・ 戌 ・ 亥 の 一 二 字 を 当 て た も の 。 考 案 さ れ た 殷 代 に は 、 動 物 の 意 味 は な い 。

(12)

第 1 章 一を清書した一冊を加えた計二十二冊となる。どのように数えて二十六冊とし ていたのかは分からないが、抜けがあることは確実である。

立正大学図書館所蔵の『三丁集』は、その欠けている『詩稿』のうちの二冊

分に相当する。巻表示は、 表紙に「三丁集   二(四) 」とあることで確認できる。 中を見ると、二には「戊

ぼしん

辰雑

ざつこう

稿」 「己

きし

巳雑稿」 、四には「乙

おつがい

亥雑稿」 「丙

へいし

子雑稿」

と い う 名 称 が 書 か れ て い る。 葵 文 庫 に あ る『 三 丁 集 』 は 一 と 三 で あ り、 一 は

「丁

ていぼう

卯稿」 、三は 「癸

きゆう

酉雑稿」 「甲

こうじゅつ

戌詩稿」 「乙亥雑稿」 となっている。 「乙亥雑稿」

は四にもあるので、三と四にまたがっていることが分かる。

すでに述べたように、六十干支は六十年で一巡するので、生没年などで範囲 を 絞 れ ば そ の 年 を 特 定 す る こ と が で き る。 稲 川 の 生 没 年 に 基 づ き、 『 三 丁 集 』

の一から四に含まれる雑稿の干支を、西暦に置き換えてみよう。

一、丁卯(一八〇七年)

二、戊辰(一八〇八年) ・己巳(一八〇九年) 三、癸

きゆう

酉(一八一三年) ・甲

こうじゅつ

戌(一八一四年) ・乙

おつがい

亥(一八一五年)

四、乙亥(一八一五年) ・丙子(一八一六年) 〈 六 十 干 支 表 〉

 

1

甲 子

 

2

乙 丑

 

3

丙 寅

4

丁 卯  

5

戊 辰

 

6

己 巳

 

7

庚 午

8

辛 未  

9

壬 申

10

  癸 酉

11

  甲 戌

12

乙 亥

13

  丙 子

14

  丁 丑

15

  戊 寅

16

己 卯

17

  庚 辰

18

  辛 巳

19

  壬 午

20

癸 未

21

  甲 申

22

  乙 酉

23

  丙 戌

24

丁 亥

25

  戊 子

26

  己 丑

27

  庚 寅

28

辛 卯

29

  壬 辰

30

  癸 巳

31

  甲 午

32

乙 未

33

  丙 申

34

  丁 酉

35

  戊 戌

36

己 亥

37

  庚 子

38

  辛 丑

39

  壬 寅

40

癸 卯

41

  甲 辰

42

  乙 巳

43

  丙 午

44

丁 未

45

  戊 申

46

  己 酉

47

  庚 戌

48

辛 亥

49

  壬 子

50

  癸 丑

51

  甲 寅

52

乙 卯

53

  丙 辰

54

  丁 巳

55

  戊 午

56

己 未

57

  庚 申

58

  辛 酉

59

  壬 戌

60

癸 亥

(13)

第 1 章

『 三 丁 集 』 は 一 か ら 四 ま で 揃 っ た は ず だ が、 一 八 一 〇 年( 庚

こうご

午 ) か ら 一 八 一 二 年( 壬

じんしん

申 ) が 抜 け て い る。 し か し、 こ の 年 の 詩 は 二 の 中 に 収 録 さ れ て い る よ う だ。 五 十 四 丁

裏 よ り 後 に は、 「 文 化 七 年 庚 午 二 月 上 丁 」( 一 八 一 〇 )、

「 辛

しんび

未 」( 一 八 一 一 )、 「 壬 申 」( 一 八 一 二 ) と い う よ う に、 作 成 し た 年 を 記 載 し

た詩が確認できる。これで、一八〇七年から一八一六年の間の詩が埋まったこ とになる。

四、葵文庫へ至るまで

すでに述べたように、葵

あおい

文庫には稲

とうせん

川の稿本が多く所蔵されている。にも関 わらず、なぜ『三丁集』の二と四だけが立正大学図書館にあるのだろうか。こ

の疑問に答えるために、まずは『詩稿』が葵文庫に至るまでの経緯を、蔵書印

から探ってみたい。

本の所有者は、自らがその本を所持していることを示すため、本に印を押す

ことがある。これが蔵書印である。印を押した人物や機関を特定できれば、そ の本が誰の手を経て今の所有者のもとに至ったかを知ることができる。 * 丁 和 装 本 な ど の 頁 を 数 え る の に 用 い る 。 一 丁 は 二 頁 分 で 、 表 ・ 裏 で 区 別 す る 。

(14)

第 1 章 葵文庫の『詩稿』には、稲川のものを除き、次の五つの印記がある。

1 「中村蔵書」

2「笹野/氏図/書記」

3 「昭和九年七月二十日/米山梅吉寄贈」 4「静岡県/葵文庫/図書之印」

5 「昭和 11.9.8 登録/(登録番号)/静岡県立葵文庫」

3 ・ 4 ・ 5 は葵文庫で押された印である。これらの印から、 昭和九年(一九三四)

に 米

よねやま

山 梅

うめきち

が 寄 贈 し、 同 十 一 年( 一 九 三 六 ) に 葵 文 庫 の 蔵 書 と し て 登 録 さ れ

たことが分かる。 1 と2の印についても見ていきたい。文庫の蔵書となった後 に個人の印は押されないはずなので、 1 と2は米山氏の前の所有者が押した印

ということになる。これらの印の持ち主はすでに知られている。 1 は稲川の孫

の中

なかむら

村秋

あきか

、2は笹

ささの

野堅

けん

の印である( 『新編蔵書印譜』参照) 。 中村家は稲川の次男の玄

げんいく

昱が跡を継いだ家で、長女阿

あさ

佐の嫁ぎ先の戸塚家と 同じく、稲川の蔵書を多く引き継いでいた。昭和二年(一九二七)に出版され

た『稲川先生記念録』 (静岡文化協会)には、 「稲川詩集   自筆   稿本   二十二 * 米 山 梅 吉 ( 一 八 六 八 ~ 一 九 四 六 ) 三 井 信 託 の 初 代 社 長 。 静 岡 県 に 米 山 梅 吉 記 念 館 が あ る 。

* 中 村 秋 香 ( 一 八 四 一 ~ 一 九 一 〇 ) 詩 人 ・ 歌 人 。 国 文 学 者 と し て 古 典 の 注 釈 な ど も 出 版 し て い る 。

* 笹 野 堅 ( 一 九 〇 一 ~ 一 九 六 一 ) 国 文 学 者 。 狂 言 研 究 の 先 駆 者 と し て 知 ら れ 、 蒐 書 家 と し て の 一 面 も 持 つ 。 静 岡 県 出 身 で 、 山 梨 稲 川 に も 関 心 を 持 っ て い た 。 昭 和 十 一 年 ( 一 九 三 六 ) に は 、『 山 梨 稲 川 書 簡 集 』 を 私 家 版 で 出 し て い る 。

(15)

第 1 章 冊」が紹介されている。これが葵

あおい

文庫の『詩稿』だろう。その所有者は秋

あきか

香の 孫の秋

あきいち

一なので、笹

ささの

野堅

けん

の手に渡ったのは昭和二年以降のことになる。

笹野氏は、研究のために稲川の遺稿を集めていたが、そのまま持ち続けるこ

とはなかった。現在、笹野氏の旧蔵書は、法政大学能楽研究所が所蔵している

が、 稲 川 の 自 筆 本 は な く、 日 記 類 を 翻 刻 し た 原 稿 用 紙 が 残 る の み で あ る( 「 笹 野堅氏旧蔵文献資料目録」参照) 。

米山梅吉は、 『詩稿』以外にも稲川の著作を購入し、葵文庫に寄贈している。

そのあたりの事情については、今

いまぜき

関天

てんほう

彭が昭和十年(一九三五)に静岡谷島屋 書 店 よ り 出 版 し た『 駿 遠 之 詩 界 』( 二 頁 ) で 触 れ て い る。 今 関 氏 に よ る と、 米 山 氏 は 葵 文 庫 の 館 長 だ っ た 貞

さだまつ

松 修

しゅうぞう

の 依 頼 に よ り、 は じ め か ら 葵 文 庫 に 寄 贈

する目的で稲川の著作を購入したようだ。

五、貞松山蓮永寺の寄贈

『 詩 稿 』 は、 中 村 家 → 笹 野 堅 → 米

よねやま

山 梅

うめきち

吉 → 葵 文 庫 と い う 順 で 移 動 し て き た こ とが分かった。それでは、立正大学図書館所蔵の『三丁集』は、先の変遷のど * 貞 松 修 蔵 ( 一 八 七 四 ~ 一 九 三 八 ) 佐 賀 県 出 身 。 初 代 葵 文 庫 館 長 。 山 梨 稲 川 の 著 作 の 収 集 に 尽 力 し 、『 稲 川 先 生 記 念 録 』 や 『 山 梨 稲 川 集 』 な ど の 出 版 を 企 画 し た 。

(16)

第 1 章 * 貞 松 山 蓮 永 寺 静 岡 県 静 岡 市 葵 区 沓

くつのや

谷 に 現 存 す る 日 蓮 宗 の 旧 本 山 。 開 山 は 六 老 僧 の 一 人 、 日

にちじ

持 上 人 。 も と は 庵

いはら

原 郡 松 野 郷 に 位 置 し た が 、 徳

とくがわ

川 家

いえ

やす

の 側 室 お 万 の 方 ( 養

ようじゅいん

珠 院 ) に よ っ て 、 現 在 の 地 に 再 興 さ れ た 。 家 康 が 再 建 を 許可 し た の が 元 和 元 年 ( 一 六 一 五 )、 建 物 が 完 成 し た の が 同 四 年 と さ れ る (『 名

なおりそのき

遠 理 曾 之 記 』) 。 三 十 五 代 貫 首 は 、 立 正 大 学 二 代 学 長 の 小

こいずみ

泉 日

にちじ

慈 ( 一 九 〇 六 ~ 一 九 一 〇 在 任 )。 現 貫 首 の 松

まつむら

村 寿

じゅごん

巌 氏 は 、 立 正 大 学 名 誉 教 授 。 の段階で分かれたのだろうか。

大学図書館が本を入手する方法は、大きく分けて二つある。一つは書店から

の購入、もう一つは、米山氏が葵文庫に行ったような寄贈である。それは、新

刊本でも古い和装本であっても変わらない。 この『三丁集』は購入本でなく、寄贈された本である。寄贈先は、本の背に

書 か れ た「 貞

みまつ

松 文 庫 」 の 文 字 か ら 判 断 で き る。 立 正 大 学 図 書 館 は、 大 正 五 年

( 一 九 一 六 ) に、 貞 松 山 蓮

れんえいじ

永 寺

と い う 日 蓮 宗 の 寺 院 か ら、 蔵 書 の 寄 贈 を 受 け た。寄贈を計画したのは、当時の蓮永寺の住職、丹

たんざわ

沢日

にっきょう

京だと考えられる。丹

沢氏はその功績により、同年十二月五日に日蓮宗宗務院より褒賞を受けた記録 が確認できる。その褒賞記事によると、日蓮宗大学(現立正大学)に寄贈され

た蔵書の数は、仏教関係の書(内

ないてん

典)が一〇〇一部四五二二巻、それ以外の書

(外

げてん

典)が四〇五部二二三九巻にも及んだ( 『月刊宗報』二号) 。『三丁集』は外

典の方に含まれるだろう。 通 常、 蓮 永 寺 の 寄 贈 本 に は、 「 大 正 五 年 八 月 二 十 五 日 / 貞 松 蓮 永 寺 寄 贈 」 と

いう印が押されている。しかし『三丁集』の場合は、整理の段階でどこかに紛

(17)

第 1 章

れてしまったのか、この寄贈印が押されていない。 「日蓮宗/大学図/書課印」 という印はあるが、冒頭で述べたように、未登録本として長らく書庫内に眠っ

ていた。近年、書庫本の移動に伴う調査により、ようやくその存在に気づき、

登録したという次第である。

『 三 丁 集 』 と 同 じ く、 蓮

れんえいじ

永 寺 の 旧 蔵 書 の 中 に は、 先 の 寄 贈 印 が 押 さ れ て い な い も の が あ る。 し か し、 「 貞

みまつ

松 文 庫 」 な ど の 書 入 れ が あ っ た り、 蓮 永 寺 の 蔵 書

印が押されていたりするので、その本が蓮永寺の旧蔵書であることが確認でき

る。 〈 立 正 大 学 図 書 館 の 印 〉

日 蓮 宗 大 学 は 、 大 正 十 三 年 ( 一 九 二 四 ) に 大 学 令 に よ る 認 可 を 受 け 、 立 正 大 学 と な る 前 の 名 称 。

(18)

第 1 章 〈 蓮 永 寺 の 蔵 書 印 〉

①「貞松文庫」7・1×3・0㎝

③「駿河国府/法華道場/貞松山蓮/永寺真章」

  5・8×5・8㎝

蓮永寺旧蔵書には、①②の印が多く見られる。③④⑤の印は数点しか確認できない。 ④「貞松山安置」7・4×1・8㎝

②「良岳貞/松山蓮/永寺印」

  3・6×3・6㎝ ⑤「貞松」2・9×2・1㎝

(19)

第 1 章

六、売りに出た『三丁集』

『 三 丁 集 』 が 蓮

れんえいじ

永 寺 の 旧 蔵 書 で あ る こ と は 分 か っ た が、 今 度 は、 な ぜ 稲

とうせん

川 の

自筆本が蓮永寺にあったのか、という疑問が生じる。

この『三丁集』二と四には「中村家蔵書」の印がない。それも当然で、印を

押した中

なかむら

村秋

あきか

香が生まれた天保十二年(一八四一)の段階で、中村家はこの二 冊を所持していなかったことが確実である。それは、この本の見返し(表紙の

裏側) に見られる書入れから判断できる。書入れによると、 天保四年 (一八三三)

の十一月九日に、日

にっぷ

富という人物が「稲川先生」の『三丁集』二と四の二冊を

市で見つけて蔵書に加えたという。天保四年は稲川の没後七年目に当る。日富 は蓮永寺の僧であることが分かっている。

ここでいう市とは、今でいう古本市のようなものだろうか。開かれていた場

所は、やはり駿府城の周辺と考えるのが自然だろう。稲川は晩年、研究のため

に江戸へ移り、その地で没したが、文化八年(一八一一)以降、駿府城南東の

郊外にある稲

いながわ

川(現静岡市駿河区稲川)に長く居を構えていた。一方、蓮永寺 の所在は、駿府城の鬼門の方角(北東)に当たる沓

くつのや

谷(同市葵区沓谷)であり、 〈『 三 丁 集 』 二 の 見 返 〉 「 稲 川 先 生 之 三 丁 集 二 与 四 之 二 冊 / 富 閲 市 得 之 為 蔵 本 云 于 時 / 天 保 四 年 癸 巳 十 一 月 九 日 日 富 記 」。 四 に も 同 内 容 の書 入 れ が 見 ら れ る 。

(20)

第 1 章 稲川とは直線距離で約三 ㎞ と近い(四頁地図参照) 。

『 三 丁 集 』 を 手 放 し た の は、 中 村 秋 香 の 父 の 玄

げんいく

昱 だ ろ う か。 先 祖 か ら 受 け 継

いだ蔵書を、生活に困ったりしてお金に換えることはさして珍しくもない。し

かし中村家は、昭和の初期まで『詩稿』を引き継いできた。玄昱が『三丁集』 のみ売りに出したというのは不自然である。そうなると、別な事情で流出した

と考えるのが妥当だろう。

たとえば、稲川本人が誰かに『三丁集』の二と四を貸した。借り主が返さな

いまま、稲川も借り主も亡くなってしまい、事情を知らないその家族が売却し

た、というのはどうか。もちろん、根拠はまったくないが、色々と想像をめぐ らすのも面白い。

七、日富 天保四年(一八三三) 、市に出かけていった日富という僧は、 『三丁集』が稲 川の自筆本であると気付き、購入した。そのことは、日富の中でも印象深い出

来 事 で あ っ た た め、 本 に 記 載 し て お い た の だ ろ う。 た だ し、 『 三 丁 集 』 一 つ が

(21)

第 1 章 特別だったわけではない。日

にっぷ

富はかなり筆まめな人物で、蓮

れんえいじ

永寺の旧蔵書には 日富の書入れが多く見られる。

日富は、蓮永寺の旧蔵書(貞

みまつ

松文庫)を語る上で、どうしてもはずせない人

物である。この後もたびたび登場するので、どのような人物だったかを述べて

おきたい。日富は、安永六年(一七七七)に生まれ、天保十一年(一八四〇) に没した日蓮宗の僧である。蓮永寺の二十八世・二十九世の貫首を勤めたほか、

日 蓮 宗 の 僧 の 教 育 機 関 で あ っ た 中 村 檀

だんりん

の 二 三 八 世 や、 鶏

かいで

冠 井 檀 林

の 一 九 五

世にも就任している。稲川よりは六歳若いが、同時代の人物といってよい。天

保四年(一八三三)当時は、蓮永寺の二十九世に就いていたと思われる。著作 も多く、特に『竜

りゅうげひしょ

華秘書

』の著者として知られている。

貞松文庫の『古

こぶんしんぽうこうしゅう

文真宝後集』第一冊には、 「貞松山蓮永寺福

ふくじゅいん

寿院日富聖人伝」

と題された書入れが見られる。どこまでが事実か不明であるが、この伝も参照

したい。 日富は、下

しもうさ

総香

かとりぐん

取郡多

たこ

古村(現千葉県香取郡多古町)の出身で、三歳の時に 唐

とうちく

竹妙

みょうこうじ

光寺で出家し、 蓮永寺二十四世の日

にっせん

邃、 同じく二十六世の日

にっきょう

匡を師とした。 * 中 村 檀 林 関 東 三 大 檀 林 の 一 つ 。 千 葉 県 香 取 郡 に 所 在 。 慶 長 四 年 ( 一 五 九 九 )、 恵

けいうんいん

雲 院 日

にちえん

円 が 正

しょうとうざん

東 山 日 本 寺 に て 開 講 し た の に 始 ま る 。 * 鶏 冠 井 檀 林 関 西 六 檀 林 の 一 つ 。 京 都 府 向

むこう

日 市 に 所 在 。 承 応 三 年 ( 一 六 五 四 ) に 、 通

つうめいいん

明 院 日

にっしょう

祥 が 京 都 の 鶏 冠 井 山 北

きた

しんきょうじ

経 寺 に て 開 講 し た の に 始 ま る 。 明 治 八 年( 一 八 七 五 )に 廃 檀 。

* 竜 華 秘 書 京 都 の 妙

みょうけんじ

顕 寺 が 所 蔵 す る 文 書 や 記 録 等 を 書 写 整 理 し 、 考 証 を 加 え た 書 。 天 保 九 年 ( 一 八 三 八 ) 成 立 。

(22)

第 1 章 〈『 永 平 元 禅 師 清 規 』 書 入 れ 〉 第 一 冊 見 返 し ( A 5 0 / 5 5 ) 「 七 八 歳 」 は 7 × 8 = 5 6 で 、 日 富 が 五 十 六 歳 で あ る こ と を い う 。 父は義

ぎこう

孝日

にっぽ

保、母は妙

みょうこう

孝日

にちじつ

実という。両親は、日

にっぷ

富が生まれるとき、天に昇る 龍の夢を見た。日富の字

あざな

が見

けんりゅう

龍なのは、この話に由来する。僧にはさまざまな 呼称があるが、日富の院号には、見龍院・含

がんしょういん

章院・収

しゅうぎゅういん

牛院・福寿院があり、日 富 以 前 に は、 日

にちもう

猛・ 日

にちぐう

遇 と も 名 乗 っ て い た( 『 日 蓮 宗 宗 学 章 疏 目 録 』 で は、 他 に日

にちぐ

愚とも) 。

先にも述べたように、日富はとにかく筆まめな人物で、蓮永寺から寄贈され

た本の多くに自身のサイン (識

しきご

語) を書いたり、 蔵書印を押したりしている。 『三

丁集』の例のように、いつどこで購入したか、場合によっては金額まで記載し

ており、書き入れの年が分かる本だけでも百点以上ある。たとえば、天保四年 六月には、京都に本店のある平

へいらくじ

楽寺という本屋で『永

えいへいげん

平元禅

ぜんじ

師清

しんぎ

規』二巻二冊

を 購 入 し た こ と が、 そ の 本 の 見 返 し に 書 か れ て い る。 ち ょ う ど、 『 三 丁 集 』 を

手に入れた五ヶ月前のことになる。

(23)

第 1 章

〈 貞

みまつざん

松 山 蓮

れんえいじ

永 寺 福

ふくじゅいん

寿 院 日

にっぷ

富 聖

しょうにんでん

人 伝 〉 も と は 反

ほご

古 紙 で 、『 古

こぶんしんぽうこうしゅう

文 真 宝 後 集 ( 魁

かいほんだいじしょじせんかいこぶんしんぽうこうしゅう

本 大 字 諸 儒 箋 解 古 文 真 宝 後 集 )』 第 一 冊 ( A 8 4 / 1 0 6 ) の 裏 見 返 し の 背 面 に 書 か れ て い た か 。 本 書 が 改 装 さ れ た 際 、 裏 見 返 し が 裏 表 紙 か ら は が さ れ た た め 、 背 面 の 「 日 富 聖 人 伝 」 が 見 え る よ う に な っ た と 思 わ れ る 。

〈 日 富 の 書 入 れ 〉 右 下 は 文 政 七 年 ( 一 八 二 四 ) の 髭

ひげだいもく

題 目 (『 善

ぜんしんどういっかげん

身 堂 一 家 言 』 A 93 / 1 9 )。 左 下 は 文 政 九 年 ( 一 八 二 六 ) の 髭 題 目 (『 法

ほけきょうもんじしょういんおんくんへんしゅう

華 経 文 字 声 韻 音 訓 篇 集 』 A 7 2 / 1 2 7 )。 署 名 か ら 判 断 す る に 、 蓮 永 寺 二 十 八 世 の 頃 は 日 遇 を 名 乗 り 、 文 政 八 ・ 九 年 頃 に 二 十 九 世 と な っ て 後 、 日 富 を 名 乗 り 始 め た と 考 え ら れ る 。

(24)

第 1 章 〈 日 富 の 蔵 書 印 〉

「 貞 松 / 山 主 」 「 遇 龍 / 之 印 」 各 3 ・ 2 × 3 ・ 0 ㎝ (『 聖

しょうどう

道 衣

えりょう

料 編

へん

』 A 7 8 / 5 4 ) 「 日 / 遇 」 2 ・ 2 × 2 ・ 2 ㎝ 「 含 / 章 」 2 ・ 2 × 2 ・ 4 ㎝ (『 像

ぞうほうけつぎきょうき

法 決 疑 経 記 』 写 本   A 1 2 / 3 9 1 )

「 富 本 」 3 ・ 7 × 6 ・ 0 ㎝ 「 寿 福 増 進 / 安 隠 楽 」 4 ・ 0 × 2 ・ 7 ㎝ 「 日 / 富 」「 福 / 寿 」 4 ・ 0 × 2 ・ 7 ㎝ 「 五 独 菴 」 3 ・ 1 × 1 ・ 5 ㎝ 「 日 富 」「 福 寿 」 各 1 ・ 8 × 1 ・ 3 ㎝ (『 一

いちねんさんぜんとうのこと

念 三 千 等 之 事 』 坤   A 4 / 2 1 7 )

(25)

第 1 章

* 韻 学 全 書   一 冊

  ( A 8 4 / 3 4 )

* 古 声 譜   二 巻 二 冊

  ( A 8 4 / 1 0 1 )     る。本の背には「辛 巳十二月刻 貞 松山 日 遇」と書かれている。 「日遇」は、

しんしみまつざんにちぐう

実 は、 先 に ふ れ た 稲 川 の 漢 詩 集『 稲 川 詩 草 』 も、 日 富 が 購 入 し た も の で あ

とうせんとうせんしそうにっぷ

先 に も 述 べ た よ う に、 日 富 の 前 の 名 前 で あ る。 「 辛 巳 十 二 月 刻 」 の「 辛 巳 」 は

文政四年(一八二一)に当たり、 『稲川詩草』の刊行年を示している。ただし、

そ の 初 版 は 十 月 の 刊 行 で「 十 二 月 」 で は な い。 『 稲 川 詩 草 』 に は、 和

わだ

田 正

まさのぶ

誠 の 跋文がある本とない本がある。日富が入手したのは有跋本なので、 「十二月刻」

というのは、跋が加えられた本の刊行月なのかもしれない。

いずれにしろ、 日富は稲川に関心を持っており、 以前から注目していたらしい。

おそらく、その興味は漢詩にとどまらず、稲川の本分たる音韻学の分野にも及 んでいたと思われる。日富は晩年、 自身で『韻

いんがくぜんしょ

学全書

』という本を編纂しよう

としていた。また、日富が入手したという証拠はないものの、貞松文庫の中に

は、 稲 川 の 韻 学 書 の 一 つ で あ る『 古

こせいふ

声 譜

』 の 写 本 が あ る。 『 古 声 譜 』 は 江 戸 時

代に刊行されていない。これも稲川の自筆本だと思われる。加えて、立正大学

図書館の原簿によると、貞松文庫の中には、かつて稲川の『文

もんい

緯附

ふろく

録諧

かいせいず

声図』 も所蔵されていた。残念ながら、現在は失われているため確認できないが、こ

(26)

第 1 章 れも稲川の自筆本だった可能性がある。

ともかく、事前に『稲川詩草』を読んでいた日富だったからこそ、 『三丁集』

を目ざとく見つけることができた、と言えるのではないか。せっかく貴重な本

に出会っても、気づかなければ見逃してしまう。やはり、日々の研鑽は重要で ある。

(27)

第 2 章

採選亭の木活字本―『重修無得道論』

一、採選亭柴崎直古

やまなし

梨稲

とうせん

川の漢詩集『稲

とうせん

川詩

しそう

草』は、採

さいせんてい

選亭より出版された。現在、採選亭の 手がけた書籍は十六点知られている (『静岡印刷文化史』 『近世木活続貂』 参照) 。 この内、 立正大学図書館は、 『稲川詩草』 『重

ちょうしゅうむとくどうろん

修無得道論』 『西

せいがせつぼう

河折妄

』『紀

きげんい

元彙

の四点を所蔵している。いずれも貞

みまつ

松文庫に属するが、本章では、蓮

れんえいじ

永寺と関

わりの深い 『重修無得道論』 (見返し題による) を紹介することにしたい。加えて、

採選亭や近世木活字本についても触れておこう。 まずは採選亭である。江戸時代の本屋は、ただ新刊本を売るだけではない。

古本も扱うし、出版も行う。貸し本業を兼ねる場合もあった。採選亭もそんな

本屋の一つである。ただし、江戸・大阪・京都の大都市で商売をする大手では

ない。駿府城下の江川町(四頁地図参照)で営業した地方の本屋である。

採 選 亭 の 主 人 は 柴

しばざき

崎 直

なおふる

古( 一 八 三 四 ・ 三 五 頃 没 ) と い う。 通 称 は 十

じゅうべえ

兵 衛( 重 兵 衛 )、 屋 号 は 鉄

くろがねや

屋 で あ る。 駿 府 で 酒 造 業 を 営 む 深 江 屋、 森 直 樹 の 三 男 と し て 重 修 無 得 道 論

年(一八二一)刊。二十丁。 16・8㎝。駿府、鉄屋十兵衛、文政四  世木活字本半紙本一冊。24・8×    日遠説・観如校。袋綴四つ目綴近 にちおんかんにょ   (A05/12)

*西河折妄  三巻三冊

二年(一八三一)、伊勢津藩に招かれた。 の通称。敬所は近世末期の儒者。天保 門の説を論駁した書。「西河」は毛奇齢 もうきれい 朝の毛奇齢(一六二三~一七一六)の経 猪飼敬所(一七六一~一八四五)が、清  猪飼敬所著文政十二年(一八二九)刊 いかいけいしょ  (A83/8)

(28)

第 2 章 生まれ、鉄屋に養子に入った。鉄屋は、銅や鉄で富を築いた豪商だったが、直 古は、知人や駿河ゆかりの人物の著作を出版する本屋を始めた。採選亭の号は 稲川が選んだものである。

家業を変えたのは、直古が文芸や学問に明るい人物だったことが関係してい る だ ろ う。 直 古 は、 鹿

しかつべのまがお

都 部 真 顔

に 師 事 し て 俳

はいかいか

諧 歌 の 判 者 に ま で な り、 文 化 八 年(一八一一)には、真顔の紹介で国学者平

ひらたあつたね

田篤胤

の門人となっている。

鉄屋の身代は、直古の代で傾いてしまったらしい。本屋で儲けることが難し

いということもあるだろうが、単に浪費が激しかったという証言もある。そう

いうわけで、採選亭の出版は一代限りで終わってしまった。その活動期間はは っ き り し な い が、 現 在 残 っ て い る 採 選 亭 の 出 版 物 か ら 判 断 す る と、 文 政 二 年

(一八一九)から天保二年(一八三一)までの十二年間となる。

二、近世木活字本

江戸時代の出版物は、その大半が整

せいはん

版本である。整版とは、木の板(版木)

に文字を逆向きに彫り、墨を塗った上に紙を置き、バレンで擦る印刷技法であ * 紀 元 彙   一 冊

( 一 八 二 三 ) に 駿 府 代 官 に 就 い て い る 。 で 儒 者 。 各 地 の 代 官 を 歴 任 。 文 政 六 年 羽 倉 簡 堂 ( 一 七 九 〇 ~ 一 八 六 二 ) は 幕 臣 分 類 ・ 配 列 し 、 皇 帝 ・ 天 皇 の 名 を 付 し た 書 。 中 国 ・ 日 本 の 年 号 を 頭 字 の 韻 目 に よ っ て   羽 倉 簡 堂 著 文 政 七 年 ( 一 八 二 四 ) 刊

はくらけんどう

  ( A 8 6 / 1 4 )

* 鹿 都 部 真 顔 ( 一 七 五 三 ~ 一 八 二 九 ) 天 明 七 年 ( 一 七 八 七 ) 頃 に は 狂 歌 四 天 王 の 一 人 に 数 え ら れ る 。 和 歌 に 接 近 し た 俳 諧 歌 を 提 唱 し 、そ の 門 人 は 三 千 人 と も 言 わ れ た 。

* 平 田 篤 胤 ( 一 七 七 六 ~ 一 八 四 三 ) 国 学 者 。 多 く の 著 書 が あ る が 、『 古

こし

史 成

せいぶん

文』 は 、 文 化 八年 ( 一 八 一 一 ) に 柴 崎 直 古 の 招 き に よ り 、 駿 府 に 滞 在 し た 際 に 完 成 し た 書 。

(29)

第 2 章 る。それに対して採

さいせんてい

選亭は、木活字を用いた印刷を行っていたことで知られる。 木活字は、大きさを揃えた木の駒に文字を彫って作った活字で、これを植

しょく

だい

と呼ばれる専用の台に並べて版面を作る。後は、整

せいはん

版と同じ要領で刷っていく。

もともと、活字印刷の技術は西欧と朝鮮から伝わった。前者は宣教師が持ち

込 み、 後 者 は 豊

とよとみひでよし

臣 秀 吉 の 朝 鮮 侵 略

を 契 機 と す る。 ど ち ら の 方 法 も 金 属 活 字 を 使用していたが、日本では多く木活字が使われた。

文禄(一五九二~一五九六)以降、日本でも活字本が盛んに作られるように

なるが、寛永(一六二四~一六四四)の末頃には、ほとんど見られなくなる。

この半世紀の間に作られた活字本は、古い活字ということで「古活字本」と呼 ばれている。ちなみに、古活字本は数が少なく、購入しようとすると高級車一

台分の値がするものもある。

古活字本に代わり、出版の主流となったのは整版本である。それは、明治の

初期まで変わることはなかった。しかし、整版本の時代になっても、活字本が

完全に消滅したわけではない。古活字がすたれてから明治初期までの間に作ら れた木活字本は、古活字本と区別して「近世木活字本」と呼ばれる。次節で紹 * 朝 鮮 侵 略 文 禄 元 年 ( 一 五 九 二 ) か ら 慶 長 三 年 ( 一 五 九 八 ) に か け て 行 わ れ た 、 豊 臣 秀 吉 に よ る 朝 鮮 へ の 侵 略 戦 争 。 日 本 で は 文 禄 ・ 慶 長 の 役 、 朝 鮮 側 で は 壬 辰 倭 乱 な ど と 呼 ば れ る 。 連 行 や 略 奪 に よ り 、 人 や 物 が 日 本 へ 渡 っ た 。

* 武 英 殿 聚 珍 版 叢 書 乾 隆 年 間 ( 一 七 三 六 ~ 一 七 九 五 ) に 武 英 殿 で 作 ら れ た 木 活 字 本 の 叢 書 。 武 英 殿 は 、 清 の 宮 北 京 に あ っ た 建 物 の 名 。

(30)

第 2 章 介する『重

ちょうしゅうむとくどうろん

修無得道論』も含め、立正大学図書館が所蔵する採選亭版は、すべ

て近世木活字本に含まれる。

近世木活字本が多くなったのは、安永(一七七二~一七八〇)頃からである。

そ れ は、 中 国 清 朝 で 作 成 さ れ た 武

ぶえいでんしゅう

英 殿 聚 珍

ちんばん

版 叢

そうしょ

の 影 響 だ と 考 え ら れ て い る。 「 聚

しゅうちんばん

珍 版 」 と は、 乾

けんりゅうてい

隆 帝

に よ っ て 名 付 け ら れ た「 活 字 版 」 の 雅 称 で、 当 時 の 日 本にも浸透していた。採選亭が出版した『揚

ようしゅうじゅうじつき

州十日記』の巻末に載る「採選亭

書目録」によると、直古も聚珍版に倣って活字を作ったようだ。

三、 『重修無得道論』の印刷

『 重 修 無 得 道 論 』 は、 法

ほうねん

然 の『 選

せんじゃくほんがん

択 本 願 念

ねんぶつしゅう

仏 集

』 に 対 す る 反 論 の 書 で、 日 蓮 宗 の 僧、 日

にちおん

の 説 を 記 録 し た も の と い う。 『 稲

とうせん

川 詩

しそう

草 』 と 同 じ く、 文 政 四 年

(一八二一)に作られた。今回は内容に触れず、 出版の経緯や費用に注目したい。

『 重 修 無 得 道 論 』 の 巻 末 に は、 二 つ の 跋 文 が 載 る。 一 つ は 本 文 の 校

きょうごう

に つ い て述べた文、もう一つは刊行のきっかけや印刷部数について述べた文である。

これらの跋文には、それぞれ日付と共に「貞

みまつざん

松山蓮

れんえいじ

永寺随

ずいりょういん

量院識〔印〕 」「貞松 * 乾 隆 帝 ( 一 七 一 一 ~ 一 七 九 九 ) 清 朝 第 六 代 皇 帝 。 諱 は 弘

こうれき

暦 。 学 問 を 奨 励 し 、「 四

しこぜんしょ

庫 全 書 」 な ど 、 現 在 も 利 用 さ れ る 多 く の 書 を 編 纂 し た 。

* 選 択 本 願 念 仏 集 浄 土 宗 の 開 祖 、 法 然 ( 一 一 三 三 ~ 一 二 一 二 ) の 著 作 。 当 時 の 関 白 、 九

くじょう

条 兼

かねざね

実 の 依 頼 に よ り に 著 さ れ た 。 専 修 念 仏 の 教 義 に つ い て 記 さ れ て い る 。

* 日 遠 ( 一 五 七 二 ~ 一 六 四 二 ) 身

みのぶ

延 久

くおんじ

遠 寺 二 十 二 世 、 池 上 本 門 寺 十 六 世 、 蓮 永 寺 八 世 貫 主 な ど を 歴 任 。 徳

とくがわ

川 家

いえやす

康 の 側 室 、 お 万 の 方 ( 養

ようじゅいん

珠 院 ) の 帰 依 を 受 け る 。

* 校 合 本 文 を 比 較 し 、 異 な る 部 分 を 確 認 し た り 、 ど ち ら の 本 文 が 正 し い か を 決 定 し た り す る こ と 。

(31)

第 2 章 蓮

れんえいじ

永 寺 随

ずいりょうあん

量 庵 識 」 と い う 署 名 が あ る。 こ れ に よ り、 『 重

ちょうしゅうむとくどうろん

修 無 得 道 論 』 の 出 版 に 蓮 永 寺 が 関 わ っ て い た こ と が 分 か る。 こ の 随 量 院

( 随 量 庵 ) が 誰 な の か は ひ と

まず置き、先に跋文の中身を確認しよう。

この『無得道論』は、日

にちおん

遠門下の若年の僧が師の説を記録した備忘録であ る。 それを本屋が入手して出版したが、 衍

えんぶん

・ 語脱などのミスが少なくない。 蓮永寺にも『無得道論』の写本が伝わっている。文章・言葉は優れてはい

ないが、世に出回っている偽物の本より勝っている。よって校合を加えて、

再度刊行する。

こ の 文 章 に よ る と、 『 無 得 道 論 』 は 文 政 四 年( 一 八 二 一 ) 以 前 に も 刊 行 さ れ て い た が、 本 屋 の ミ ス で 多 く の 間 違 い を 含 ん で い た。 そ の 間 違 い を、 蓮 永 寺

が所蔵する写本によって正したのが『重修無得道論』だという。 「重修」には、

新たに訂正するという意味がある。

この、 誤りが多いというのは事実だろうか。 検証してみたい。 残念ながら、 『無

得道論』が最初に刊行された年は分からない。しかし、天和三年(一六八三) の 出 版 記 録( 天 和 三 年 改 修『 延 宝 三 年 刊 新 増 書 籍 目 録 』) に 記 載 が あ る の で、 * 随 量 院 蓮 永 寺 の 塔

たっちゅう

頭 ( 支 院 )。 塔 頭 は 大 寺 の 境 内 に 建 て ら れ た 僧 侶 の 住 居 。

* 衍 文 文 章 の 中 に 紛 れ 込 ん で し ま っ た 不 要 の 文 句 。 誤 脱 と 共 に 、 本 文 を 書 写 し た り す る に 際 に 起 こ る 。

〈 跋 文 1 〉

(32)

第 2 章 文政四年(一八二一)以前に版本が存在したことは確かなようだ。

あとは、その『無得道論』を見つけて採

さいせんてい

選亭版と比較すればよい。立正大学

図 書 館 を 探 し て み る と、 「 重 修 」 を 冠 し な い『 無 得 道 論 』 を 二 点 見 つ け る こ と

が で き た。 一 つ は 貞

みまつ

松 文 庫 の も の で あ る。 刊

かんき

が な い の で 刊 行 年 は 不 明 だ が、 状態などから判断して、文政四年(一八二一)よりは古い本のようだ。

両本文を比べると、 ところどころ違っていることが分かる。 無刊記 『無得道論』

が明らかに誤っている箇所を、採選亭版が文意の通じるように改めたり、一部

省略されている経典の文句などを補ったりしている。どうやら先の跋文の主張

は正しそうである。 も う 一 つ の 跋 文 の 方 も 確 認 し た い。 こ ち ら に は、 「 深

じんしんいんみょうぎょうにっしゅうに

信 院 妙 行 日 修 尼 」 と い

う人物の百箇日追善の供養になぞらえて、 『重修無得道論』を二百部印刷する、

と書かれている。追善供養では、法要を営み、仏像や仏具を寺院に寄進したり

するのが一般的だが、その代わりに『重修無得道論』を印刷した、ということ だろう。日修尼がどのような人物なのかは分からないが、出版にかかった諸経

費は日修尼の関係者が出したのではないだろうか。 * 刊 記 刊 本 に 見 ら れ る 、 刊 行 年 や 刊 行 者 な ど の 表 記 。

〈 跋 文 2 と 刊 記 〉

(33)

第 2 章

〈 無 刊 記 『 無 得 道 論 』 と 『 重 修 無 得 道 論 』 の 比 較 〉 掲 載 箇 所 は 両 者 の 本 文 が 大 き く 異 な る 部 分 。 無 刊 記 本 ( A 0 5 / 1 0 ) に は 、本 文 を 校

きょうごう

合 し た 際 の 書 入 れ が 見 ら れ る 。 校 合 に 使 わ れ た 本 文 は 、 一 部 『 重

ちょうしゅうむとくどうろん

修 無 得 道 論 』 に 対 応 し て い る が 、 完 全 に は 一 致 し な い 。

無 刊 記 『 無 得 道 論 』( 八 丁 表 )

(34)

第 2 章 『 重 修 無 得 道 論 』( 八 丁 表 ・ 裏 )

(35)

第 2 章

四、採選亭に支払う出版費用

当時、よほどの利益が見込めるものでなければ、著者が出版費用の一部、も

しくは全部を負担するのが一般的だった。採

さいせんてい

選亭から本を出す場合、その費用

はいかほどだったのだろうか。同じく、採選亭から木活字本として出版された

『西

せいが

河折

せつぼう

妄』の場合をみてみよう。 『 西 河 折 妄 』 は、 三 巻 三 冊 の 計 百 丁 で 百 部 印 刷 さ れ た が、 著 者 の 猪

いかい

飼 敬

けいしょ

所 は 十 四 両 負 担 し た と い う( 『 静 岡 県 印 刷 文 化 史 』 参 照 )。 『 重

ちょうしゅうむとくどうろん

修 無 得 道 論 』 は

二十丁で二百部、 『西河折妄』とは書型が同じで、半丁あたりの文字数も近い。

十四両の内訳が分からないので、一概には比較できないが、仮に一万枚(百丁 × 百部)の紙と印刷代を十四両として計算すると、 四千枚(二十丁 × 二百部)

の『重修無得道論』の費用は五 ・ 六両となる。

この金額は、整

せいはん

版本で出版した場合と比べると割安のはずである。そもそも

『 西 河 折 妄 』 は、 整 版 で 出 版 す る 費 用 が 足 り ず、 活 字 本 に な っ た と い う 経 緯 が

ある( 『於

おだまき

多満幾

』巻四) 。 整版本には、版木となる木材の費用と、それを彫る職人の人件費がかかる。 * 於 多 満 幾 猪 飼 敬 所 の 養 子 、 彦

ひこつぐ

纉 が 敬 所 の 事 績 を 記 録 し た 書 。

(36)

第 2 章 橋口侯之介氏は、本が作成されるまでの諸経費について、様々な例を示して統 計 を 出 し て い る( 『 続 和 本 入 門 』) 。 そ れ ら を 参 照 し、 版 木 と 彫 り 賃 を 一 丁 あ た り五匁

もんめ

(六十匁=一両)で計算すると、 『西

せいがせつぼう

河折妄』では五百匁(五匁 × 百丁) 、

つまり八両以上も余計に出費しなければならない。また、版木に彫る文字は、 筆工に依頼して清書してもらう必要があるので、さらに高く付く。

対する活字本は、一度活字作成の費用を回収してしまえば、先にあげた諸経

費がかからない。活字を組むのに特別な職人を雇う必要もないので、安く本を

作ることができた。

五、近世木活字本の特徴

本を安く作れるなら、本屋や著者にとって活字本の方が得のように思えるが、

そ う 簡 単 に は い か な い。 先 の 木 活 字 本『 西 河 折 妄 』 に 対 し て、 頼

らいさんよう

山 陽

は、 「 こ

の 本 は 活 字 で 出 す べ き も の で は な い。 惜 し い こ と だ 」 と 言 っ た と い う( 『 於 多 満幾』巻四) 。なぜ活字本ではだめなのか。

活字の数には限りがあるので、印刷が終われば新たに活字を組み直す必要が * 頼 山 陽 ( 一 七 八 一 ~ 一 八 三 二 ) 漢 学 者 。『 日 本 外 史 』 な ど の 著 作 で 知 ら れ る 漢 詩 文 の 名 手 。 晩 年 、 敬

けいしょ

所 と 親 交 が あ っ た 。

(37)

第 2 章

あった。つまり、木活字本には、印刷物以外に版木のような形が残らない。当 時は、版木を所持することが出版の権利を持つこととイコールであり、版木の

売買によって権利も移動した。そのため、活字本は正規の出版物とは認められ

なかった。また、活字を使えば、他の本屋が出版した本の複製本を作ることも

簡単だった。その点が、本屋仲間(本屋の組合)に嫌われたため、江戸 ・ 大阪 ・ 京都の本屋で木活字本を積極的に出版したところは一つもないと言われている。

し か し、 非 正 規 で あ る か ら こ そ の 利 点 も あ っ た。 林

はやししへい

子 平

は、 江 戸 湾 の 海 防 などについて述べた『海

かいこくへいだん

国兵談』を寛政三年(一七九一)に出版したが、発禁

処分となり版木を没収されている。天保十二年(一八四一)に処分は解除され るが、発禁状態の間も木活字による出版は見逃されていたらしい。

その理由の一つに印刷部数の少なさがある。近世木活字本には、作った部数

を記載することが多いが、よく見られるのは百部で、多くても三百部と言われ

る。 『重

ちょうしゅうむとくどうろん

修無得道論』の二百部は多い方だろう。

部数が少なければ確かに影響力は少ない。しかし実際には、書かれている数 以上に刷られていたかもしれない。部数の少なさを示すのは、営利目的でない * 林 子 平 ( 一 七 三 八 ~ 一 七 九 三 ) 海 外 事 情 に 明 る く 、 海 防 の 必 要 を 論 じ た が 、 幕 府 へ の 批 判 と み な さ れ 、 弾 圧 を 受 け た 。

(38)

第 2 章 点をアピールし、トラブルを避けるためという見方もある。木活字本は、無料 配布を謳う場合もあるが、それも同様の処置だろう。

六、随量院について

こ こ で、 三 十 頁 で 触 れ て お い た 随

ずいりょういん

量 院 の 正 体 に つ い て 述 べ て お こ う。 『 仏 書 解 説 大 辞 典 』 の『 無 得 道 論 』 の 項( 望

もちづきかんこう

月 歓 厚 担 当 ) は、 『 重

ちょうしゅうむとくどうろん

修 無 得 道 論 』 の 刊 行者を日

にっぷ

富だとする。ということは、随量院が日富なのだろうか。この点につ

い て は 特 に 言 及 が な い。 そ こ で、 『 重 修 無 得 道 論 』 の 跋 文 の 署 名 を 改 め て 確 認

してみたい。 「随量院識」 の下には 「和/平」 という丸形の朱印が押されている。 これは、一冊のみが特別というわけではない。貞松文庫の中には、同じ『重修

無得道論』が七点あるが、それらすべてにこの印が確認できる。製本後、すべ

ての本に押したのだろう。

この印にはどうも見覚えがある。 どこで見たのか。 それは、 前章で紹介した 『三 丁集』だった。見返しに書かれた日富の署名の上あたりに、同じ印が押されて

いることが確認出来る。日富が多くの蔵書印を持っていたことは二十三頁に示 〈『 重 修 無 得 道 論 』 と 『 三 丁 集 』 の 印 〉

(39)

第 2 章 した通りだが、 「和平」の印もその一つだったと思われる。 『重

ちょうしゅうむとくどうろん

修無得道論』の見返しには、 「後孫観

かんにょ

如校」という記載がある。この観如

という人物については不明だが、日富が『重修無得道論』に関わっていたこと

は確かだろう。

証拠の一つとして、島田文庫の『重修無得道論』も確認したい。島田文庫は、 神奈川県川崎市の興

こうりんざん

林山宗

しゅうりゅうじ

隆寺の旧蔵書で、昭和三十七年(一九六二)に島

しまだ

田 堯

ぎょうぞん

存 氏 に よ っ て 立 正 大 学 図 書 館 へ 寄 贈 さ れ た。 同 図 書 館 よ り、 『 立 正 大 学 蔵 溝

之口宗隆寺島田文庫目録』 (一九七〇年)が刊行されている。

この島田文庫の『重修無得道論』には、 一つ目の跋文の終わりに、 「貞松山主」 「遇龍之印」という印が押されている。この印は、 二十三頁でも紹介したように、

日富(日遇)の印だと考えられる。つまり、日富が製本した『重修無得道論』

に自身の印を押して、宗隆寺へ贈ったと見るのが自然だろう。

おそらく『重修無得道論』は、完成後に蓮永寺が引き取り、日富によって日

蓮宗の寺院などに配られたのではないか。貞

みまつ

松文庫にある七点は、蓮

れんえいじ

永寺に残 された予備の本だったと思われる。 〈 島 田 文 庫 本 の 日 富 の 印 〉 『 重 修 無 得 道 論 』( S A 0 5 / 1 1 )

〈 宗 隆 寺 の 印 〉

参照

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