1.はじめに
本稿の目的は、大正期、昭和初期に岡本自転車自動車製作所の社名で知られ、
戦時期には国内有数の航空機部品メーカーとなった岡本工業の事業展開と経営 体制について明らかにすることである。
戦時期には、不要不急産業とされた民需工業が生産縮小を余儀なくされ、多 くの製造業は軍需工業への転換を進めていった。このことは、軍需工業の担い 手であった機械金属工業の拡大という現象として現れ、
“戦争の遺産”として
戦後の産業発展を規定する側面を有していた。その現象が最も顕著に観察され たのが中京地域であった。中京地域は、三菱重工業や川崎航空機工業、愛知時 計電機などの航空機工場が集中し、機械金属工業が急速に拡大した。岡本工業 は、それら主要メーカーに航空機部品を納入して航空機の増産を支え、戦時期 には、日本車輌製造や愛知時計電機、トヨタ自動車工業などとともに、名古屋 を代表する機械メーカーの一つとなったのだった。岡本工業(岡本自転車自動車製作所)の経営史は、大きく
3
つの時期に区分 出来る。最初は、創業後、自転車生産を主力事業として国内有数の自転車生産 者となった時期、続いて戦時下において航空機部品などの軍需工業に傾注して 事業規模が急拡大した時期、最後は敗戦後の経営再建の時期である。このうち、本稿が対象とするのは主として第
2
の時期である。これは、次の2
つの問題意 識に基づいている。戦時下における岡本工業の事業展開
―軍需生産の拡大と経営体制の変容―
牧 幸 輝
一つ目は、中京地域の機械金属工業の発展に、航空機工業がいかなる影響を 与えたかを、地元企業として航空機生産の一翼を担った岡本工業を通して明ら かにすることである。無論この解明のためには、航空機メーカー自体の分析と 広範な下請生産システムの実態にメスを入れる必要があるが、まずは岡本工業 の事業展開を明らかにすることで、この課題に接近する第一歩としたい。
もう一つは、戦時期における中堅企業の経営体制に関するものである。周知 のように、財閥や新興コンツェルンの多くが、この時期に同族経営体制が崩れ ていき、組織の解体に向かっていった。一方で、同族経営体制を維持したまま 戦時期に急成長し、戦後に事業を継承していった中堅企業の事例が少なからず 見受けられる。戦時期に国内有数の航空機部品メーカーとなった岡本工業は、
中堅企業の経営体制についての有益な事例を提供するものと考えられる。
そこで本稿では、これらの問題意識を念頭に置きながら、まずは同社の経営 実態についての客観的事実の把握に努めた。なぜなら、岡本工業の当該期の研 究はほとんどなされていないからである。戦争末期に同社は集中的な空襲を受 けて工場は壊滅し、資料の多くが焼失した。さらに、戦後に経営破綻したため 会社は現存していない。1970年代以降に社史等が編纂されたが、詳しい経営 データなどは示されず概説的な内容に留まっていた1。そこで本稿では、営業 報告書、工鉱業関係会社報告書、及び海軍関係資料といった一次資料を主に利 用し、同社の事業展開について実証的に明らかにすることに主眼を置いて論述 を進めていく。
1 岡本工業(岡本自転車自動車製作所)に関する文献には、①岡戸武平(1974)②ノー リツ自転車株式会社(1983)③桑田正次(1983)の3冊がある。岡戸武平(1974)は、
企業小説の類であるが、同社の創業88年を記念して刊行されたものであり、主た る事実関係については概ね史実に沿っている。その後に出版されたノーリツ自転 車株式会社(1983)は、岡戸(1974)を元にしながら加筆修正したものと考えら れる。同書が唯一の社史であるが、経営データなどがほとんど掲載されていない という難点があり、同社の経営実態を知るには十分なものではなかった。桑田正 次(1983)は戦後に社長を務めた人物の随想録である。
2.岡本自転車自動車製作所から岡本工業へ
(1) 航空機部品への進出
岡本工業の航空機部品生産への進出は、岡本兄弟合資会社から株式会社岡本 自転車自動車製作所へと改組した
1919
年にまでさかのぼる。同年7
月に制定 された岡本自転車自動車製作所の定款には、事業目的として①「自転車、自動 自転車、自動車の製作販売及同附属品ノ製造販売」とともに、②「兵器製造並 ニ飛行機附属品ノ製造販売」が既に明記されている。そして、1919年に陸軍 指定工場となり、陸軍航空部から飛行機用車輪(リム)を受注し、1920年12
月には陸軍中将井上幾太郎が工場巡視に訪れている。次いで、1922年には海 軍へも納入を開始し2、1927年には逓信省航空局の飛行機修繕工場の指定を受 けた3。日本の航空機工業は、第一次世界大戦以降に本格的に始動する。1919年に 陸軍航空部が創設され、これと相前後して川崎造船所、三菱内燃機製造、中島 飛行機、愛知時計電機といった民間飛行機メーカーが事業を開始している。岡 本自転車自動車製作所が航空機部品生産を開始したのは、これら組立メーカー の設立と同時期であり、部品メーカーとしては比較的早い進出であったことが わかる。同社が陸軍航空部との取引を始めた動機や経緯は不明だが、既に自転 車生産では国内有数のメーカーとなっており、自転車用車輪生産の技術や設備 を利用して飛行機用車輪の生産を開始したものと考えられる4。
(2) 兵器部の設置
自転車生産において、宮田製作所と並んで国内最大規模となった岡本自転車 自動車製作所は、1930年代に入ると重工業志向を強めていく。それを端的に
2 株式会社岡本自転車自動車製作所『第5回営業報告書』1921年5月。同「海軍購買 名簿登録願」1935年9月21日。
3 岡本自転車自動車製作所『第17回営業報告書』1927年6月
4 同じ自転車メーカーの宮田製作所が、航空機部品の生産を開始したのは、満州事 変後の1932年である。株式会社宮田製作所(1959)101頁。
示しているのが
1931
年4
月の兵器部の設置である。これにより社内の生産組 織は、兵器部と自転車部の二つに分けられた5。1931
年8
月には、林正男予備役海軍少将を顧問に招聘したほか、同年7
月 には海軍航空本部技術部長であった山本五十六海軍少将、同年10
月には後に2・26
事件で暗殺される陸軍航空本部長の渡辺錠太郎海軍大将が6、1932年12
月には戦後最初の内閣総理大臣となる東久邇宮稔彦王殿下が工場視察に訪れて いる7。これ以降も毎年多数の軍幹部が視察に訪れ、その人数は1934
年下期 には41
名、1935年上期には59
名に上った8。さらに1935
年頃には、陸軍出 身の前田勇男爵が顧問に名を連ねた9。こうした動きは、同社が陸海軍との関 係強化を図っていたことを表すと同時に、軍部にとっても重要な位置付けにあ る企業として認識されていたことを示している。軍需の拡大は同社の業績に好影響を与えた。昭和恐慌により、1930年下期 から総収入、利益とも大きく落ち込んだものの、早くも
1932
年上期からはや や持ち直し、同年下期には「今期ハ軍需工業ノ台頭ニ伴ヒ前期ニ比シ業績稍々 良好ナルヲ得タルモ一般財界ハ農村並中小商工業者ノ疲弊ニ依リ大勢ハ依然ト シテ沈衰ノ域ヲ脱セズ我ガ輪界亦其影響ヲ受ケ不振ヲ以テ終始シタリシハ甚ダ 遺憾トスル所ナリ」という状況であった10。自転車事業は依然として不振であっ たが、軍需の拡大によって業績は改善していったのである。(表1)
1933
年上期になると「前期来対外貿易ノ活況、軍需工業ノ発展等ハ一般産 業ヲ刺激シテ景気好転ノ軌条ニ上リタル」状況となり、1930年上期の総収入 を上回った。一方で、自転車事業は「我ガ輪界ノ不振依然トシテ旧態ヲ持続セ5 岡本自転車自動車製作所「海軍購買名簿登録願」
6 岡本自転車自動車製作所『第26回営業報告書』1931年12月
7 同『第29回営業報告書』1933年6月
8 同『第32回営業報告書』1934年12月、同『第33回営業報告書』1935年6月。
9 岡本自転車自動車製作所「海軍購買名簿登録願」
10 岡本自転車自動車製作所『第28回営業報告書』1932年12月
表1 岡本工業(岡本自転車自動車製作所)の業績推移
(単位:円)
決算期 資本金 総収入 借入金 当期純利益
1930年上期 1,500,000 1,073,724 261,500 54,047
1930年下期 1,500,000 771,085 287,711 1,020
1931年上期 1,500,000 834,706 275,717 38,053
1931年下期 1,500,000 685,934 262,777 10,935
1932年上期 1,500,000 734,548 232,424 36,342
1932年下期 1,500,000 899,745 240,203 61,524
1933年上期 1,500,000 1,128,575 189,000 60,795
1933年下期 1,500,000 1,147,287 184,885 78,011
1934年上期 1,500,000 1,594,356 137,500 78,189
1934年下期 1,500,000 1,543,271 - 89,369
1935年上期 1,500,000 1,822,733 - 102,920
1935年下期 1,500,000 2,156,450 50,000 114,826
1936年上期 1,500,000 2,519,230 350,000 125,166 1936年下期 1,500,000 2,857,636 640,000 143,695 1937年上期 1,500,000 3,720,350 630,000 174,081 1937年下期 3,250,000 4,893,426 786,000 258,263 1938年上期 3,250,000 4,228,908 746,921 336,713 1938年下期 6,500,000 4,654,756 707,261 403,695 1939年上期 6,500,000 6,222,983 662,002 723,951 1939年下期 6,500,000 6,802,651 616,124 801,002 1940年上期 6,500,000 7,015,133 569,610 817,207 1940年下期 6,500,000 17,154,129 522,440 876,360 1941年上期 13,000,000 21,006,147 474,593 943,706 1941年下期 13,000,000 24,722,389 2,226,050 1,204,203 1942年上期 13,000,000 29,924,322 8,067,275 2,747,616 1942年下期 26,000,000 37,942,659 11,962,273 3,163,166 1943年上期 26,000,000 49,706,334 15,236,509 3,256,702 1943年下期 26,000,000 67,445,271 15,209,959 3,995,900 1944年上期 27,000,000 74,151,089 15,182,600 4,586,885 1944年下期 27,000,000 117,070,229 15,154,406 5,328,978 1945年上期 27,000,000 128,795,968 15,125,351 1,199,634 1945年下期 27,000,000 124,515,598 151,842,461 -16,647,871 注1)決算期は、上期12月~5月、下期6月~11月。
注2) 1941年下期(46期)及び1944年上期(51期)の営業報告書は未見のため工鉱業関係会社報告書
の数値を使用
注3)当期純利益は、1942年下期(48期)以降は、営業報告書では税引き後の当期純益金の項目が無 くなっているため、工鉱業関係会社報告書の当期利益金の数値を使用
注4) 1941年下期以降は印刷不鮮明のため一部に推定も含む
出所)各期営業報告書、工鉱業関係会社報告書より作成
リ本期間ニ於テ大阪、廣島、熊本、朝鮮各逓信局館内百九十一個所ノ逓信官署 用自転車約四千五百台ハ全部当社製品ニ決定買上ノ御下命ニ依リ極メテ短期間 ニ製作納品ヲ了シ当局ノ称賛ヲ得タルモ競争上価格低廉ニシテ利益ノ計上亦少 ク販売商策上幾多苦心ヲ重ネ奮励努力ノ結果辛ウジテ前期ノ業績ヲ維持スルニ 過ギザリシハ甚ダ遺憾トスル所」となり、厳しい状況が続いていた11。
1933
年下期には「一般産業界ハ茲ニ不況回復ノ兆ヲ現ハシ軍事関係事業ノ 進行ト相俟ツテ業況一段ノ活気ヲ帯ビ来レリ当社亦其ノ恩恵ヲ受ケ前期ニ比シ 相当良好ナル成績ヲ挙グルヲ得タルハ聊カ幸トスル所」となり、これ以降、事 業は拡大の一途を辿ることになる12。1934
年からは自社用工作機械の内製も開始し、翌年には従来の航空機用車 輪に加えて、航空機用脚緩衝装置の製作も開始した13。こうした事業内容の変 化に伴い、1935年には社名を岡本工業と変更した。(3) 二輪・四輪自動車事業への進出
既述のように、岡本兄弟合資会社が
1919
年に株式会社岡本自転車自動車製 作所へと改組した際の定款の事業目的は「自転車、自動自転車、自動車の製作 販売及同附属品ノ製造販売」となっていた。社名に自動車を加えたのは、同業 者の宮田製作所が製作した二人乗り自動車「旭号」に触発されたためと言われ ている14。この旭号小型自動車は、1910年
3
月に名古屋で開催された愛知県主催第10
回関西府県連合共進会に出品され、一等賞金牌を受領して衆目を集めたもので ある15。この共進会は、名古屋築城三百年記念と称して90
日間に亘り開催され、延べ
260
万人の観客を集めたとされる大規模なものであったから、岡本工業創 業者の岡本松造もこの会場で旭号を直接目にしていた可能性が高い。11 同『第29回営業報告書』1933年6月
12 同『第30回営業報告書』1933年12月
13 「岡本工業株式会社」『工鉱業関係会社報告書』
14 岡戸武平(1974)51頁
15 宮田製作所(1959)41頁
1920
年3
月には、本社工場とは別に、名古屋市大池町5
丁目に自動車部を 設置して、自動車の修理並びに販売業を開始した16。戦前日本の自動車関連企 業の多くは、輸入自動車の修理や販売から発展しており、同社も同様のケース だと言えよう。但し、同社では、当初は“自動自転車”、すなわち二輪自動車 の修理から始めている17。戦前において、二輪自動車は「自動自転車」「オー トバイ」「オートサイクル」といった呼称が使われており、自転車に発動機を 取り付けた形のものから、現在でいうオートバイまで幅広く指していたようで ある18。その後、しばらくは自動車事業について目立った動きは見られないが、1930 年末から「自動自転車」の研究に着手し、1933年から販売を始めている。こ の自動自転車は自転車部ではなく、兵器部所属となったことからすると、主た る需要者は軍部であったと考えられる19。
10
年ぶりに自動自転車の研究に着手したのは、あるプロジェクトも関係し ている。いわゆる「中京デトロイト化計画」である。これは名古屋を中心とす る中京地域を米国デトロイトのような自動車産業の生産拠点にしようとする構 想で、岡本自転車自動車製作所は日本車輌製造、大隈鉄工所との共同開発によっ て、1932年4
月に四輪乗用車「アツタ号」を完成させている20。この計画を主導したとされる大岩勇夫名古屋市長は、岡本自転車自動車製作 所の取締役に就任していたことがあり、岡本松造とは昵懇の間柄であった21。
16 岡本自転車自動車製作所『第3回営業報告書』1920年5月
17 「岡本工業株式会社」『工鉱業関係会社報告書』
18 英国自転車及自動自転車製造販売業者協会(1931)
19 岡本自転車自動車製作所「海軍購買名簿登録願」
20 中京デトロイト化計画については、牧幸輝(2011)を参照されたい。
21 大岩は、資料で確認出来る限りでは、会社を改組した1919年には取締役に就任 している。1927年6月に取締役を辞任し、監査役となるが、同年8月に名古屋市 長に就任したため監査役を辞任した。岡本自転車自動車製作所『第2回営業報告 書』1919年12月、同『第17回営業報告書』1927年6月、同『第18回営業報告書』
1927年12月。大岩はもともと弁護士であり、愛知県会議員、名古屋市会議員の他、
1915年には衆議院議員にも当選している。名古屋毎日新聞社(1936)82頁。
当時の名古屋では自動車会社と呼び得る企業は岡本自転車自動車製作所だけで あり、大岩市長の同社にかける期待は決して小さくなかったはずである22。
最終的に同社は
1933
年にはアツタ号の製作から撤退するが、社内での自動 車開発は継続された。1934年には側車付オートバイを陸軍に納入23、1935年 にはオート三輪用エンジンを製作し、横浜や熊本で開催された博覧会に出品し ている24。1936年には姫路で開催された「国防と資源大博覧会」に「自動三輪車」を出品し、名誉金牌を受けているほか25、小型乗用車「岡本号」を製作して陸 軍に納入している26。
これら二輪、四輪自動車はどのくらい生産されたのであろうか。「岡本号」
の生産台数は不明であるが「自動自転車」の生産台数はデータがある。表
2
を 見ると、1935年には250
台、1937年には560
台を記録してから漸減し、1940 年の100
台を最後にデータが存在しないことから、生産はこれ以降ほとんど中 止されたと考えられる。(4) 岡本工業の経営組織
自転車と航空機部品という異なる製品を扱っていた岡本工業の経営組織はど うなっていたのであろうか。地方の中堅企業であり、軍事関連企業でもあった 同社の資料はあまり残されていないが、1935年に海軍に提出された資料には、
社内組織に関する情報が含まれている27。
図
1
にあるように、岡本松造社長の下に総務部、営業部、兵器工業部、自転22 ちなみに、豊田自動織機製作所が、最初の乗用車試作を完了するのは1935年5月 である。
23 ノーリツ自転車(1983)11頁
24 岡本自転車自動車製作所『第34回営業報告書』1935年11月。日刊自動車新聞社
(1935)『自動車ハンドブック』83頁には、「ノーリツ号」という名称の小型三輪 車が掲載されていることから、既に市販されていたと考えられる。
25 岡本工業株式会社『第35回営業報告書』1936年6月
26 ノーリツ自転車(1983)12頁
27 岡本自転車自動車製作所「海軍購買名簿登録願」
表2 岡本工業の主要生産品目と生産台数(個数)
事業年度 自転車 自動 自転車
航空機用 車輪
航空機用脚
緩衝装置 弾倉 工作機械
1935 42,600 250 4,800 940 27,300 20
1936 36,500 480 5,020 1,180 29,800 40
1937 34,300 560 6,100 1,390 32,000 60
1938 33,100 320 6,400 1,700 33,100 100
1939 32,500 220 10,600 1,900 35,600 100
1940 23,800 100 16,900 3,800 37,500 100
1941 24,500 n.a. 23,300 4,600 43,800 120
1942 22,800 n.a. 32,500 5,800 45,400 80
1943 28,300 n.a. 51,600 8,500 53,900 60
1944 31,630 n.a. 60,700 12,000 n.a. 60
1945 4,828 n.a. 16,200 3,200 n.a. n.a.
注1)原資料には単位が記載されていないが、生産台数(個数)を示すと判断した。
注2) 1945年度は第一四半期分の数値
出所)工鉱業関係会社報告書
図1 岡本自転車自動車製作所の社内組織(1935年8月)
社長 岡本松造 顧問 林正男、前田勇 総務部
(担当役員 岡本徳松)
総務課(15名) 庶務係、営繕係、診療係、医務係、
労務係、購買係、兵器倉庫係 会計課(8名) 総勘定係、原価係、金銭出納係
営業部
(担当役員 松崎房吉)
営業課(17名) 販売係、宣伝係 他(判読不能)
九州倉庫(1名) 倉庫係 大阪支店(2名) 自転車係 東京支店(13名) 自転車係 兵器工業部
(担当役員 岡本直治郎)
設計課(17名) 設計係、研究係、材料試験係、図書係 兵器工務課(26名) 計画係、工作係、機械係、変電所係 検査課(6名) 陸軍検査係、海軍検査係、発動機検査係 自転車工業部
(担当役員 松崎房吉) 自転車工務課(18名)計画係、設計係、工作係、倉庫係、
自転車検査係 注1)カッコ内の人数は、兼務を含む課員数。
注2)上記以外に見習職員26名の氏名が記載されているが所属は記載無
出所)「株式会社岡本自転車自動車製作所 海軍購買名簿登録願 1935年9月21日」防衛省防衛研究所 所蔵「海軍省公文備考類 公文備考 昭和11年 L 会計(契約付属) 巻7」(国立公文書館アジア歴 史資料センター レファレンスコードC05035276600)
車工業部の
4
部署が設置されている。各部長として、常務取締役総務部長に松 造の次弟の岡本徳松、取締役兵器工場部長に三弟の岡本直治郎、取締役営業部 長兼自転車工業部長には、松造の従兄弟の松崎房吉が就任している28。営業部には、営業課に
17
名が配置されているほか、大阪、東京支店に自転 車係が置かれている。東京支店の職員が13
名と大阪支店の2
名より格段に多 いのは市場の規模を表したものであろう。4つの部署のうち、最大のものが兵 器工業部であり、49名の職員を擁している。日中戦争が始まる以前から、す でに兵器工業が同社の主力事業となっていたことが伺える。次に図
2
によって事業所の概要を見てみると、本社工場は兵器部工場、岐阜 県の垂井工場は自転車部工場となっていた。東京支店は兵器部及び自転車部、大阪配給所(大阪支店のことと思われる)と九州倉庫は自転車部の所属となっ ている。その他に横須賀、呉、佐世保に兵器部が管轄する代理店が存在した。
兵器の取引には、基地所在地の代理店が仲介していたことがわかる。
従業員数は、
1935
年9
月時点で、社員50
名、職工は男650
名、女30
名であっ たが、工場ごとの職工数は明らかでない。28 ノーリツ自転車(1983)24頁
図2 岡本自転車自動車製作所の事業所等所在地(1935年)
本支店、工場及び代理店 所在地
本社 名古屋市中区東郊通
本社工場(兵器部工場) 名古屋市中区東郊通 垂井工場(自転車部工場) 岐阜県不破郡垂井町 東京支店(兵器部及自転車部) 東京市神田区末広町 大阪配給所(自転車部) 大阪市西区立売堀北通 九州倉庫(自転車部) 小倉市室町
横須賀代理店(兵器部):平林耕司商店 横須賀市汐留町 呉代理店(兵器部):宮本仙平商店 呉市江原町 佐世保代理店(兵器部):山口商会 佐世保市湊町 出所)前掲、岡本自転車自動車製作所「海軍購買名簿登録願」
3.太平洋戦争期の事業展開
(1) 笠寺工場の建設と軍需品生産の拡大
岡本工業に社名変更して以降、軍需生産が本格化する。1936年には名古屋 市中区東郊通の本社工場を航空機部品や兵器などの軍需品専用工場として、鋳 物工場、鍛造工場、発動機試験工場を増設した29。
1937
年には名古屋市南区笠寺町に約1
万6
千坪の工場敷地を購入し、建坪1,152
坪の建屋第一期工事を完成させ、本社オートバイ工場の一部を移転した30。この笠寺工場には、自動自転車や小型自動車の製造設備が設置されていたが、
1937
年7
月に盧溝橋事件が勃発して日中戦争が始まると、航空機部品の増産 に集中することになった31。この間、1937年下期には資本金を150
万円から325
万円に増資、さらに1938
年下期には650
万円に倍額増資した(表1)
。笠 寺工場は軍需工場のため、営業報告書には工場の詳細については「其ノ筋ノ命 ニヨリ省略ス」として記載されていないが、1939年までには鋳物工場、鈑金 工場が完成して稼働を開始している32。この間、総収入は
1936
年下期の285
万円から1939
年下期には680
万円とな り、3年間に倍増した(表1)
。戦時中の生産品は、自転車、自動自転車に加え て、航空機用車輪、航空機用脚緩衝装置、弾倉などであった。生産品目ごとの 売上金額は不明だが、自転車の生産が減少していることから、総収入増加の要 因は航空機部品を中心とした軍需品であることがわかる。(表2)
また、納入先は、軍部以外に三菱重工業名古屋航空機製作所、中島飛行機、
愛知時計電機などの民間航空機メーカーにも広がっている。岡本工業は、これ
29 岡本工業『第35期営業報告書』1936年6月、同『第36期営業報告書』1936年12月。
30 なお、笠寺工場の敷地を買収したのは、盧溝橋事件より前である。岡本工業『第
37期営業報告書』1937年6月、同『第38期営業報告書』1937年12月。
31 「岡本工業株式会社」『工鉱業関係会社報告書』
32 岡本工業株式会社『第39期営業報告書』1938年6月、同『第41期営業報告書』
1939年6月。
ら主要航空機メーカーにとって重要な一次下請企業であったのである。原材料 の調達先は、古河電気工業、住友伸銅、神戸製鋼所、日本特殊鋼、大同電気製 鋼、日本製鉄、明治ゴム、日本タイヤ、藤倉工業、東京計器、東京製綱、北河 製品所などであった。また、下請工場としては、中央スプリング、名古屋螺子、
岩田鉄工所、笠井鉄工所、中京機械製作所等が名を連ねている33。調達先は全 国に広がっているが、下請工場は名古屋地域の中小機械金属業者が中心となっ ていることが伺える。
(2) 岡本航空機工業の設立
1939
年5
月に岡本航空機工業株式会社が資本金650
万円で設立された。取 締役社長に岡本松造、取締役に中西忠一、吉水宏、監査役に松崎房吉が就任し た。登記上の本社は岡本工業本社と同じ住所に置かれた34。岡本航空機工業は、岡本工業にとって「合併ノ目的ヲ以テ当社ノ急迫シタル 生産設備拡充ヲ代行スベク設立」された35。これは「変態増資」のためであっ た36。変態増資とは「何等かの理由により、現在一部払込株ある場合、その未 払込部分の払込をその儘にして、新株を発行したいことがある。そこで新たに 同一の目的を有する別個の一会社を設立し、後即時両会社を合併する、と茲に 表面的には合併であるが、事実は商法の規定を潜つて、新株発行の目的を達す る」ものであった37。実際に、1939年
5
月末時点における岡本工業の資本金650
万円のうち、243万7,500
円が未払込金となっていた。岡本航空工業の主要株主は、表
3
にあるように、岡本家以外に古河電工、三33 岡本自転車自動車製作所「海軍購買名簿登録願」。これらの下請取引関係が、軍 需生産のために形成されたものなのか、それとも自転車生産と重なるものなのか どうかは、中京地域の機械金属工業の発展を解明する上で重要な論点になるが、
この点については別稿を期したい。
34 岡本航空機工業株式会社『第1期営業報告書』1939年6月
35 岡本工業『第41期営業報告書』1939年6月
36 山一證券株式会社(1939)3頁
37 橋本良平(1939)391頁
菱重工業、神戸製鋼所が名を連ねており、川崎航空機工業が出資していない点 以外は、後述する岡本工業本体とほぼ同じである。同社の工場は、岡本工業の 笠寺工場内に別途
3,000
坪の工場が建設されたが、生産設備を岡本工業に賃貸 して、賃貸料を得る形態となった38。(3) 岡本工業と岡本航空機工業の合併
1940
年下期には、「本期モ引続笠寺工場ノ量的拡張ト質的充実ニ努力邁進シ 能率ノ増強ヲ図リタル結果生産逐月向上ヲ続ケ他方当社ノ一翼タル岡本航空機 工業ノ設備充実ト相俟ツテ業績頓ニ良好ニ推移」して、岡本工業の総収入は同 年上期の701
万円から1,715
万円へと倍増した39。(表1)
38 岡本工業『第39期営業報告書』1938年6月、同『第41期営業報告書』1939年6月
39 同『第44期営業報告書』1940年12月
表3 岡本航空機工業の主要株主(1939年5月設立時)
株主名 持株数 持株比率(%)
岡本松造 22,810 17.5
古河電気工業 18,000 13.8 岡本直治郎 16,600 12.8
岡本徳松 6,125 4.7
三菱重工業 4,500 3.5
中西忠一 3,100 2.4
松崎房吉 3,000 2.3
神戸製鋼所 3,000 2.3
大澤商店 2,950 2.3
岡本禎夫 2,520 1.9
野村岩蔵 2,381 1.8
亀田利吉郎 2,350 1.8 河野武太郎 2,331 1.8 村山五兵衛 2,000 1.5 注)資本金650万円、発行株式数130,000株
出所)岡本航空機工業株式会社『第1期営業報告書』1939年6月
1940
年12
月に岡本工業は、株主総会で岡本航空機工業の合併を決議し、翌 月には臨時資金調整法に基づく認可を得て、1941
年5
月に岡本航空機工業(資 本金650
万円、株式総数13
万株)を吸収合併した。「当社ハ数次ニ亘リテ増産 設備ノ拡張ヲ行ヒ飛躍的受注増ニ対処シ来リタルモ更ニ生産拡充ニ前進スベ キ段階ニ至リタルヲ以テ従来当社ノ一翼トシテ業績向上ニ寄与セル岡本航空機 工業株式会社ヲ合併シ企業ノ統合強化ヲ計リ躍進一途ノ受注消化ニ万全ヲ期 シタリ」とあるように、受注はさらに増加していった40。合併に伴い資本金も1941
年上期には650
万円から1,300
万円と倍額となった。1941
年12
月に太平洋戦争が勃発すると、「緊急受注一段ト増嵩ヲ示シ頗ル 繁忙裡ニ推移」し、「受注日ヲ逐フテ倍大増加ノ一途ヲ辿リ更ニ新規ノ拡充ニ 躍進スベキ趨勢ニ在リ」となり、工場拡張は継続された。また、本社が笠寺工 場に移転された41。その後も軍需は増大し、「戦局ハ明カニ長期化ノ様相ヲ呈シ厖大ナル消耗戦 ヲ予想セシメ軍需品ノ需要ハ層一層増大ノ趨勢ニ在ルヲ以テ之ニ対応センガ為 メ本期倍額増資ヲ行ヒ生産ノ増強ニ努力邁進以テ時局ノ要望ニ副ハンコトヲ 期」し、資本金は
1,300
万円から2,600
万円となった42。戦時中、軍需工場には優先的に資材が割り当てられていたが、岡本工業が直 面した問題のひとつが労働力不足であった。そのため、「当社事業終始繁忙裡 ニ推移シ上下一致生産ノ増加二邁進スルト共ニ労務管理ノ改善、作業能率ノ向 上等鋭意労力難ノ克服ニ善処」したのであった43。
(4) 戦争後半期における工場拡張
1942
年6
月のミッドウェー海戦以降、戦局は悪化し、軍需品の生産拡充が緊40 同『第45期営業報告書』1941年6月
41 岡本工業『第47期営業報告書』1942年6月
42 同『第48期営業報告書』1942年12月
43 同『第48期営業報告書』1942年12月
急課題となっていく。1943年
11
月には、商工省と企画院を統合して軍需省が設 置され、航空機の増産が図られた44。国内主要航空機メーカーと取引関係を有し、航空機部品生産の一角を占めていた岡本工業も、さらなる増産態勢を求められた。
生産拡大のために取られた手段の一つが、不要不急産業とされた繊維工場の 転用であった。中京地域は、戦前から綿工業や毛織物工業の国内有数の産地で もあり、大手の紡績会社や地場の繊維関係工場が多数立地していた。
1943
年には、愛知県一宮市の繊維染色整理加工業の艶金興業工場を借用し て一宮製作所とし、笠寺製作所から航空機車輪の製作を移管した。この際、艶 金興業は、現物出資により、岡本工業へ100
万円分を出資する形となった。また、同年、愛知県中島郡萩原町の橋本毛織工場を借用して機銃弾倉を生産したり、
東海紡績の株式
3
万株を取得して同社の神戸工場(岐阜県安八郡神戸町)を大 垣製作所とした。繊維工業以外にも、1943年1
月に太洋製作所の全株式を取 得して子会社化した45。太洋製作所は、主に三菱重工業、愛知時計電機の下請 生産を行っていた企業である46。さらに、中京地域以外でも熊本県人吉市に工 場新設を計画していた47。こうして岡本工業の生産量は、1942年から1944
年44 当該期の航空機増産政策については山崎志郎の一連の論稿が詳しい。山崎志郎
(1990)(1991a)(1991b)
45 岡本工業『第49期営業報告書』1943年6月。「岡本工業株式会社」『工鉱業関係会 社報告書』。
46 株式会社太洋製作所は、岡崎地域の出資者が株主であったが、1939年頃から名古 屋の下出義雄らの資本に変わった。1940年時点では、岡本工業顧問の林正男が社 長を務めている。従来は、三菱重工業、愛知時計電機の下請けであったが、林正 男が海軍出身のため、直接海軍からも受注するようになったという。経済市場社
(1939)26頁。新愛知新聞社(1940)219頁。
47 1943年10月に重要機械製造事業法に基づく人吉工場新設許可申請書を提出して
いる。『第50期営業報告書』1943年12月。なお、ノーリツ自転車(1983)では、
1939年に熊本県人吉市に九州工場を建設、翌1940年には新潟県新発田市に新潟工 場を建設したとされているが、筆者が調べた限りでは、営業報告書や工鉱業関係 会社報告書などにそうした記述は確認することは出来なかった。ノーリツ自転車
(1983)12頁。
にかけて航空機用車輪は
3
万2,500
から6
万700、航空機用脚緩衝装置は 5,800
から1
万2,000
へと倍増した。(表2)
ところが、急激な増産態勢も米軍による本土爆撃によって潰えることになる。
名古屋は三菱重工業、愛知航空機などの工場が立地する航空機生産の中心地 であったことから、1944年末以降に米軍の激しい空襲に繰り返し見舞われた。
岡本工業も、集中的に攻撃を受けて笠寺工場、本社工場が壊滅した48。同社は 既に米軍から軍需工場として認識されており、空爆の標的となっていたのであ る49。
4.岡本工業の経営体制
(1) 株式所有構造
岡本工業は、創業以来岡本家による同族経営が続いていた。会社設立当初の
1919
年の株式所有構造は、岡本松造が30%、直治郎が 26.7%、徳松が 3.7%
を所有し、3兄弟で
60%を占めていた。その後、増資に伴って株主数は増加し
ていくが、大株主の顔ぶれに目立った変化はなかった。ところが、戦時期には 大きな変化が生じる。1937
年下期に資本金は150
万円から325
万円に増資され、さらに1938
年下 期には650
万円に倍額増資された50。この過程で、古河電気工業、川崎航空機 工業、三菱重工業、神戸製鋼所が大株主に加わったのである(表4)
。川崎航 空機工業と三菱重工業は、航空機部品の納入先であり、古河電工と神戸製鋼所48 ノーリツ自転車(1983)63、64頁。岡本工業は、1943年には愛知県犬山市善師野 に疎開工場の建設も始めたとされるが、実際に完成したのかどうかは不明である。
49 「Report on Okamoto Kogyo K.K.(Okamoto Engineering Company)and Okamoto Senyo Kosakukikai Seisakusho(Okamoto machine tool works),6 March 1944. Report No.19- b(151),USSBS Index Section 6.1944-3」『Records of the U.S. Strategic Bombing
Survey(米国戦略爆撃調査団文書)』
50 岡本工業『第40期営業報告書』1938年12月、同『第38期営業報告書』1937年12月。
表4 岡本工業の主要株主(1938年11月)
株主名 持株数 持株比率(%)
岡本松造 25,400 19.5
古河電気工業 18,000 13.8 岡本直治郎 16,600 12.8 川崎航空機工業 6,000 4.6
岡本徳松 5,150 4.0
松崎房吉 3,000 2.3
三菱重工業 3,000 2.3 河野武太郎 2,990 2.3 亀田利吉郎 2,850 2.2
大澤商会 2,700 2.1
岡本禎夫 2,520 1.9
津田三郎 2,100 1.6
中西忠一 2,100 1.6
村山五兵衛 2,000 1.5 神戸製鋼所 2,000 1.5 注)株主数271名、発行株式数130,000株
出所)『第40期営業報告書』1938年12月。山一證券株式会社(1939)
「航空機部品製作に躍進 岡本工業株式會社の内容」
表5 岡本工業の主要株主(1941年5月)
株主名 持株数 持株比率(%) 古河電気工業 35,800 13.8
岡本松造 32,160 12.4
岡本直治郎 30,450 11.7
山一証券 7,600 2.9
三菱重工業 7,500 2.9
伊藤銀行 6,250 2.4
川崎航空機工業 6,000 2.3 注)株主数940名、発行株式数260,000株
出所)『第45期営業報告書』1941年6月。中京主力会社紹介「岡本工業株式会社」
1941年10月25日、名古屋株式取引所『調査時報』第6巻第10号、愛知県 史編さん委員会編(2008)『愛知県史資料編30近代7工業2』777-778頁所収。
からは原材料の供給を受ける関係にあった51。生産拡大に伴う資金需要をこう した大企業からの出資が支えたのであった。
ここで注目されるのは古河電工であろう。同社は
13.8%分を所有し、岡本松
造の
19.5%に次ぐ第 2
位の株主となった。その後、岡本航空機工業を合併すると
1941
年5
月には古河電工は、岡本松造の持株数を上回って筆頭株主となっ た(表5)
。古河電工が所有していた岡本工業株は、1944
年3
月末には7
万2
千株、帳簿価格
245
万3
千円となり、これは当時の古河電工の出資先72
社のうち、帳簿価格で
10
番目の規模であった。古河電工は、戦時中には電線生産よりも、航空機部品等に使用されるアルミニウムなどの軽金属生産が主力事業となって おり、本店以外の全国的な販売店網の役割が低下する中で、航空機メーカーが 集積していた名古屋販売店の売上は増加していた52。これら航空機メーカーと 直接取引のあった岡本工業は、古河電工にとっても重要な取引先として位置付 けられていたと考えられる。
また、借入金が
1941
年上期には47
万円、同年下期には222
万円、1942年 上期に806
万円、同年下期1,196
万円、さらに1943
年上期には1,523
万円と 急増している。取引先大企業からの出資とともに、多額の融資も資金需要を支 えたのであった。(表1)
(2) 役員構成
戦時下における株式所有構造の変化に伴い、役員構成にも動きが生じた。
1939
年5
月末の役員構成は、取締役社長岡本松造、常務取締役岡本徳松、取 締役に大澤徳太郎、岡本直治郎、松崎房吉、監査役に水野兼吉という布陣であっ51 神戸製鋼所とは門司伸銅工場との間に取引関係を有した。岡本自転車自動車製作 所「海軍購買名簿登録願」。
52 古河電気工業株式会社(1991)275頁、352頁、353頁、355頁。出資先72社の投資 総額は1億2,257万9千円であった。主に金属、電線等の取引企業が多い。岡本工 業と同じく航空機用脚緩衝装置を生産していた萱場製作所にも1万株、3,454円を 出資している。
た53。大澤徳太郎は、京都で貿易業の大澤商会を営み、岡本松造を創業当初か ら支援した人物である54。
その後、古河電工などが新たに株主になったことにより、1939年
6
月には 古河電工社長の中川末吉が取締役に選任された55。1942
年10
月、岡本松造は脳出血のため67
年の生涯を終えた56。同年5
月 には大澤徳太郎も亡くなった。このため、岡本禎夫、大澤善夫、吉水宏の3
人 が新たに取締役に選任された。岡本禎夫は松造の長男、大澤善夫は大澤徳太郎 の子息、吉水宏は岡本工業の製造部長からの内部昇進である。そして、後任の 社長には岡本直治郎、会長に岡本徳松が就任した57。大株主となった古河電工から役員を受け入れたものの、基本的には岡本家を 中心した経営体制が維持されたのである。
5.おわりに
自転車生産を祖業としていた岡本工業は、戦時期に航空機部品生産によって 事業規模を急拡大させた。航空機を中心とした軍需工業の拡大は、中京地域の 中堅・中小企業にも大きな影響を与えたのである。但し、同社が航空機部品生 産を開始したのは、第一世界大戦後の
1919
年という比較的早い時期であり、戦時期に軍需転換した多くの機械金属業者の事例とは性格が異なっている。本
53 岡本工業『第41期営業報告書』1939年6月
54 大澤は、京都電灯や日本レース等の経営にも関わり、1929年には京都商工会議所 会頭に就任し、1932年からは貴族院議員も務めた。1942年5月没。日本繊維製品 貿易振興株式会社(1942)65頁。山一證券(1939)2頁。京都府商工経済会(1944)
564頁、577頁。
55 岡本工業『第42期営業報告書』1939年12月。中川は1925年12月から1946年6月ま で古河電工社長、戦後の1946年6月から1947年1月まで会長を務めた。古河電気工 業(1991)。
56 ノーリツ自転車(1983)55頁
57 岡本工業『第48期営業報告書』1942年12月、同『第49期営業報告書』1943年6月。
吉水宏(1942)53頁。
稿では十分に検討することが出来なかったが、日中戦争開始時には既に軍需製 品が同社の主力事業となっていたことは、少なくともそれ以前にさかのぼって、
中京地域における軍需工業の影響を考える必要性を示していよう。
また、岡本工業は、戦時期に古河電工、三菱重工業、川崎航空機工業といっ た大企業の資本を受け入れ、古河電工から役員も派遣されたが、経営の中心は 基本的には岡本家であった。そして、この体制は戦後にも引き継がれた。戦時 期から戦後復興期にかけて、同族経営による財閥組織は解体されていったが、
地方の中堅企業では、同族経営体制が維持されたのである。この点は、今後事 例を積み重ねていく必要があるが、戦後の産業組織や地域経済を研究する上で、
重要な論点になると考えられる。
以上
<参考文献>
株式会社岡本自転車自動車製作所『営業報告書』各期 岡本航空機工業株式会社『営業報告書』各期
「岡本工業株式会社」『工鉱業関係会社報告書』マイクロフィルム版、雄松堂 株式会社岡本自転車自動車製作所「海軍購買名簿登録願」1935年9月21日、防
衛省防衛研究所所蔵「海軍省公文備考類 公文備考 昭和11年L会計(契約 付属)巻7」(国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコード C05035276600)
「Report on Okamoto Kogyo K.K.(Okamoto Engineering Company)and Okamoto Senyo Kosakukikai Seisakusho(Okamoto machine tool works),6 March 1944. Report No.19- b(151),USSBS Index Section 6.1944-3」『Records of the U.S. Strategic Bombing
Survey(米国戦略爆撃調査団文書)』
愛知県史編さん委員会編(2008)『愛知県史資料編30近代7工業2』
英国自転車及自動自転車製造販売業者協会(1931)『英国自動自転車便覧1931年版
(The British Motor Cycle Hand Book)』
岡戸武平(1974)『自転車万歳:ノーリツ88年の歩み』中部経済新聞社 京都府商工経済会(1944)『京都商工会議所史』
桑田正次(1983)『踉々随感』ノーリツ財団 経済市場社(1939)『経済市場』第10巻第3号
新愛知新聞社(1940)『建国悠遠: 皇紀二千六百年記念名士談話集』
名古屋毎日新聞社(1936)『中京名鑑』
日刊自動車新聞社(1935)『自動車ハンドブック』
日本繊維製品貿易振興株式会社(1942)『輸出繊維製品』1942年6月号 ノーリツ自転車株式会社(1983)『茫々百年-ノーリツの足跡-』ノーリツ財団 橋本良平(1939)『増補 現代の株式会社』大阪屋号書店
古河電気工業株式会社(1991)『創業100年史』
牧幸輝(2011)「中京デトロイト化計画とその帰結-戦前自動車開発の諸相と軍需 工業化の影響について-」『オイコノミカ』第48巻第1号
株式会社宮田製作所(1959)『宮田製作所70年史』
山一證券株式会社(1939)『岡本工業株式会社の内容』
山崎志郎(1990)「太平洋戦争後半期の航空機関連工業増産政策」『商学論集』福島 大学、59巻2号
同(1991a)「太平洋戦争後半期における航空機増産政策」『土地制度史学』33巻2 号
同(1991b)「太平洋戦争後半期における動員体制の再編:航空機増産体制をめぐっ て」『商学論集』福島大学、59巻4号
吉水宏(1942)「技術の誠心」『技能章に輝く産業戦士』国民工業学院
以上