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「状態」としての共感的理解の定義を再考する : ロジャーズの記述の比較検討

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Academic year: 2021

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1. 問題と目的

本論の目的は、「共感的理解 empathic under-standing」を、治療者の体験の「状態」として 記述することの意義を再考することである。 ロジャーズ(Rogers,1975)は、「最近の定 義」とした上で、共感を、「状態 state」という よりむしろ「プロセス process」として記述し たほうが、自ら満足できる、と述べている。 以後、「共感的理解」ないし「共感的ありよう」 は、「プロセス」であり、対人関係における 「ありよう being」である、というとらえ方を されることが多く、「状態」ととらえることは 少なくなっているように思う。 しかしながら、「状態」にせよ「プロセス」 にせよ、そもそも自らの主観的体験を言語化 しようとした試みの結果、それぞれの時点に おける、ロジャーズ本人が満足する記述なり 定義が存在しているのだと考えられる。 読み手である他者が、ロジャーズの主観的 体験を、その記述から推し量ろうとする場合、 読み手が正しくその体験(「状態」なり「プロ セス」)を理解することができる記述と、当の ロジャーズ本人が満足できる記述とは、必ず しも一致しない可能性があると考えられる。 また、ロジャーズの記述の読み方によっても、 読み手に生じる理解には違いが生じることに なるだろう。読み手である他者が、ロジャー ズの主観的体験を理解しようとする際、残さ れている記述の性質を正しくとらえ、自らの 主観的体験と照合しながら、記述と対話して いくことが必要であろう。 本論は、代表的なロジャーズの定義的記述

「状態」としての共感的理解の定義を再考する

─ロジャーズの記述の比較検討─

小 林 孝 雄

Rethinking the Definition as a “State” of Empathic Understanding

─ A Comparison of Rogers’ Descriptions ─

Takao KOBAYASHI

The purpose of this article is to examine the definitions of empathic understanding made by Rogers(Rogers, 1957. 1959. 1975). He defined empathic understanding (or being empathic) as a “state” at first, and later as a “process”. Some qualities of descriptions as follows were pointed out. The definition as a process includes descriptions about ‘to do’, but some descriptions express the actions that can not be directly realized. The definition as a state describes the quality of subjective experiences that can be directly realized in nature, but have problem how to realize ‘as if’ quality. The definition as a state is use-ful yet to consider realizing the therapists’ conditions. And the definition as a process is useuse-ful rather in clinical practices.

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を取り上げて検討し、読み手として、読み手 にとっての他者であるロジャーズの主観的体 験を理解するためには、「状態」としての記述 が意義を持つとの考えを示すことを目的とす る。

2. 「プロセス」としての記述

ロジャーズが、「共感」について、「定義」 として記述しているもっとも新しい(晩年の) ものである記述が、1975 年論文の記述である。 この記述において、ロジャーズは、かつて (Rogers,1957.1959)「状態」として記述し た共感的理解を、むしろ「プロセス」とした ほうがふさわしいとして、「共感的」ありよう、 として記述している。 はじめに、この 1975 年の記述を検討してみ たい。 まず、「プロセス」とは、オックスフォード 現代英英辞典(第 4 版)によると、「1.series of actions or operations performed in order to do, make, or achieve something : 2.method, espe-cially one used in industry to make something: 3.changes, especially ones that happen naturally and unconsciously:」という意味であるとい う。 筆者は、ロジャーズの 1975 論文における記 述は、上記 1.の意に近いのではないかと考 える。つまり、そこで記述されていることは、 一連の行為や操作、という意味を持っている のではないか。したがって、「初期の定義」と 当該論文で指摘されている、「状態」としての 記述は、治療者の「体験の特質」であったの に対して、1975 論文における記述は、「行う こと」を述べている、といってよいのではな いかと考える。「体験の特質」と「行うこと」 との間には、大きな違いであるといえよう。 実際の、「プロセス」としての定義は次のよ うな記述である。(引用中の数字ならびに改行 は、筆者が便宜的に用いたものである。) 共感的と表現できるようなありようで、他 者とともにいることには、いくつかの側面が ある。 ①他者の私的な知覚的世界に入り込み、完全 にくつろぐこと、を意味する。 ②瞬間瞬間、この他者の内部に流れる感じら れた意味に対して、敏感 sensitive であるこ とが含まれる。恐れであれ、憤怒であれ、 やさしさであれ、困惑であれ何であれ、そ の他者が体験していることに対して、であ る。 ③一時的にこの他者の人生を生きること。評 価を下すことをせずにその人生の中を繊細 に動き回ること。この他者が、ほとんど気 づいていない意味を感じる sensing こと、し かし、その人の気づきにまったくのぼって いない感じを明るみに出さないこと、なぜ ならそれはあまりに脅威でありうるから。 ④この他者の世界を、自分が新鮮な恐れのな い目で、どのように感じ sensing たのかを伝 達することが含まれる。 ⑤常に、自分の感じ sensing の正しさについて、 この他者と検証すること。そして受け取っ た反応に常にガイドされていること。自分 は、その人にとって、その人の内的世界の 信頼できる同伴者である。 ⑥その他者の体験過程 experiencing の流れに含 まれる、可能な意味を指し示すことによっ て、その他者自身が、この便利で有用な照 合先に焦点付けることを助け、その意味を より豊富に体験すること、そして体験して いるということにおいて前進することを助 ける。 (Rogers, 1975) 読み手は、この記述によってロジャーズが 言わんとしたプロセスを、何とか推し量る作 業を行う必要があるといえよう。しかしなが ら、本論では、読み手がその状態を理解でき るかどうか、という視点から、やや批判的に 検討してみたい。

3.

「プロセス」としての定義を批判的

に検討する

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上記の番号に沿って、記述を検討してみた い。特に、主観的体験を記述したものである この記述を、読み手が理解できるのか、読み 手自身再現することを試みることに寄与する のか、という視点で検討してみたい。 ①「他者の私的な知覚的世界に入り込み、完 全にくつろぐこと、を意味する。」 まず、私的な(知覚的)世界に、他者が入 り込む、という表現は意味を理解できないと 考える。私的、という意味は、他者が入り込 むことができない、ということを意味として 含んでいると考えるからである。個々人は、 それぞれの私的な世界に生きており、それぞ れがそれぞれに入り込んだり、出たり入った りすることはできないであろう。 入り込むことができないとするならば、完 全にくつろぐ、ことも不可能である。 この表現は、そのままの表現としては意味 を理解できない表現で、「比喩」として成立す る表現である、と捉えるのが現実的ではない かと考える。 ②「瞬間瞬間、この他者の内部に流れる感じ られた意味に対して、敏感 sensitive である ことが含まれる。恐れであれ、憤怒であれ、 やさしさであれ、困惑であれ何であれ、そ の他者が体験していることに対して、であ る。」 まず、sense の意味を確認しておきたい。オ ックスフォード現代英英辞典第 4 版によれば、 動詞としての sense は、「become aware of ; feel :」とある。また、名詞としての sense は、 第一にいわゆる五感を通して世界を知ること が 1.として記され、「2(a). appreciation or understanding of the value or worth of some-thing :(b). consciousness of somesome-thing ; awareness :」とある。 また、sensitive の意味としては、傷つきや すいなどのほかに、とても小さな変化を測る ことがきる、という意味もある。記述にある sensitive は、後者の意ではないかと考える。 ところで、この記述で問題にしたいのは、 その sensitive である対象である。「他者の内部 に流れる」ものを、直接感知する五感をわれ われは持っていない。したがって、五感を通 して得られる情報から、間接的に、小さな変 化を測ることしかできない、と考えるのが現 実的であろう。あくまで、間接的に可能であ ることの表現である、と考えるべきであると 思う。 ③「一時的にこの他者の人生を生きること。 評価を下すことをせずにその人生の中を繊 細に動き回ること。この他者が、ほとんど 気づいていない意味を感じる sensing こと、 しかし、その人の気づきにまったくのぼっ ていない感じを明るみに出さないこと、な ぜならそれはあまりに脅威でありうるか ら。」 他者の人生を生きることは①同様に不可能 であると考える。比喩と考えるのが現実的で あろう。 他者が気づいていない、他者にとっての意 味を感じることは、それを直接感知する感覚 器官を持たない以上、やはり②と同様、間接 的にのみ可能である。 他者の気づきにまったくのぼっていない感 じを「感じる」ことが、いったい可能なので あろうか。たとえ可能であったとしても、や はり間接的にのみ、であろう。 ④「この他者の世界を、自分が新鮮な恐れの ない目で、どのように感じ sensing たのかを 伝達することが含まれる。」 これは可能であると考える。感じた内容が どのようなものであるかはともかく、感じた 内容を伝達することは、直接可能な行為であ るから、である。 ⑤「常に、自分の感じ sensing の正しさについ て、この他者と検証すること。そして受け 取った反応に常にガイドされていること。 自分は、その人にとって、その人の内的世

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界の信頼できる同伴者である。」 その他者の世界について感じたことである から、当のその他者とともにその感じの正し さを検証することは、可能なことであり、ま た実際的なことであろう。 後半部、ある人の内的世界に、他者が同伴 者となることは不可能であろう。この表現は、 ①同様に比喩と考えるのが現実的ではないか と考える。 ⑥「その他者の体験過程 experiencing の流れに 含まれる、可能な意味を指し示すことによ って、その他者自身が、この便利で有用な 照合先に焦点付けることを助け、その意味 をより豊富に体験すること、そして体験し ているということにおいて前進することを 助ける。」 他者の内部に流れている体験過程を、直接 感知する感覚器官を私たちは持っていない。 したがって、そこに含まれている意味を、他 者が「直接」知り、指し示すことはできない、 と考える。五感によって感知できる情報から、 間接的に、他者の体験過程を感知することは 可能であるかもしれない。しかし、いったい どこで感知するのであろうか、という疑問は 残る。感じ取る側の体験過程を頼りにするし かないのではないか。 記述の後半、他者が、他者自身の体験過程 に焦点付けるように手助けすることは、直接 可能な行為と考えてよいのではないか。 以上、順に記述を検討してきた。この記述 の特徴として指摘したいことは、(1)比喩が 含まれていること、したがって、どういうプ ロセスをその比喩が表現しているのかを理解 する必要があるということ、(2)直接行うこ とは不可能すなわち間接的にしか実現できな い行為が含まれていること、である。つまり、 どういうプロセスであるか、を理解すること は、非常に困難な表現である、と考える。 この記述に意味がないといっているのでは ない。読み手として、この記述から、ロジャ ーズがいわんとした主観的体験を理解するた めには、指摘したような表現の性質をもって いることを理解しておく必要があると思うの である。

4. 「状態」としての定義的記述

それでは次に、状態としての記述について 検討したい。 はじめに、状態 state とは、オックスフォー ド現代英英辞典第 4 版によると、「1.condi-tion in which a person or thing is(in circum-stances, appearance, mind, health, etc.)」である という。 先述のプロセスとの大きな違いは、行為や 操作でなくてもよいこと、そしてそれらの連 続ではなくある瞬間の記述でもよいこと、と いう点であることを、はじめに指摘しておき たい。 で は 、 ロ ジ ャ ー ズ が 定 義 的 に 記 述 し た 、 1959 年と 1957 年の記述を検討する。やはり、 読み手がその主観的体験を理解できるか、そ の体験を再現することに寄与するか、という 観点から、検討したい。 (1)1959 年論文の記述 共感という状態、ないし共感的であること、 は、他者の内的照合枠 internal frame of refer-ence を、正確さをもって、すなわちそこに付 与されている情緒的内容や意味とともに、あ たかもそのひとであるかのように、知覚する perceive すること。しかし、「あたかも、であ るかのように」という条件を決して失わずに、 そうすること。すなわち、他者が感じる sense ように、痛みや喜びを感じ sense、それらの情 緒を引き起こしているものを、他者が知覚し ている perceive ように、知覚する perceive こと、 しかし、決して「あたかも」自分が痛んだり 喜んだりしている、ということの認識を失わ ないこと、を意味する。もし、この「あたか も、かのように as if」という特質が失われる ならば、それは同一視のひとつの状態である。 (Rogers, 1959)

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(2)1957 年論文の記述 共感(Empathy) 第 5 条件は、治療者が、クライエントが自 分自身の体験に関して気づいていることにつ いて、正確な共感的理解を体験していること、 である。クライエントの私的な世界を、あた かも自分自身の私的な世界であるかのように、 感じ取る sense こと、しかし、決して「あたか も、かのように」という特質を失わないまま で、そうすること−これが共感であり、そし てこれは治療に不可欠のようである。クライ エントの怒りや怖れや混乱を、あたかも自分 自身のものであるかのように、感じ取ること、 しかも、自分自身の怒りや怖れや混乱を、そ こに混入 bound up in させないようにしたまま で、そうすること、これが私たちが記述しよ うとしている条件である。クライエントの世 界が、治療者にとってこれほどの明確さを持 ったものとなり、治療者がその世界の中を自 由に動き回るようになると、治療者は、クラ イエントが明瞭にわかっていることについて の治療者の理解を、コミュニケートすること ができ、クライエントがほとんど気づいてい ないクライエント自身の体験の意味を、言い 表すこともできる。(Rogers, 1957) (3)記述の検討 ① 1959 年論文の記述 まず、perceive の意味を確認する。オック スフォード現代英英辞典第 4 版によれば、「1. become aware of(something / somebody); notice; observe;」とある。ちなみに同辞典では、 notice は「be aware of; observe」、observe は 「see and notice; watch carefully」とある。

なお、当該論文において、ロジャーズは概 念の整理をしており、知覚 perceive について は以下のような記述が含まれている。 「われわれ独自の定義として、次のように 述べておこう。すなわち、知覚とは、行為 (action)のための仮説ないし予見であって、 それは刺激が有機体に与えるときに意識され るものである。」(Rogers, 1959) これは、知覚とは単なる感覚刺激に対する 感覚器官の反応だけでなく、過去の経験など も用いて、その刺激を発しているもの(物体 であれ人物であれ)を予測し認識する、とい う意味をもたせている、と考える。 辞書的な定義にせよ、ロジャーズによる意 味にせよ、知覚 perceive することは、私たち が直接可能な行為である、と言ってよいと思 う。つまり、「私的世界に入り込む」という表 現のように、(表現として)不可能な行為では ない。 さて、ここで検討したいことは、その知覚 する対象についてである。他者の内的照合枠 というものは、知覚できる類のものであるの か。 知覚の辞書的な意味からすれば、それが 「他者の内的」なものであるため、直接知覚す ることはできないと考える。それを直接感知 する感覚器官をもたないから、である。 ところで、「内的照合枠」とは、ロジャーズ の当該論文では、次のように記述されている。 「この用語は、その個人が意識する可能性 のあるあらゆる経験を言う。つまり、意識に はいってくる可能性のある感覚、知覚、意味、 記憶などのすべてが含まれる。 この内的照合枠は、個人の主観的な世界で あって、それを十分に知っているのは、当の 本人だけである。他者は、それを共感的に推 し量る以外には、決して知ることができない ものである。しかも、そのようにしても、完 全に知ることはできない。」(Rogers, 1959) この記述から、筆者には、「内的照合枠」と は、主観的体験とほぼ同義のように思える。 仮にそう読みとるとすると、知覚の対象とな っているものは、他者の主観的体験であると いうことになる。 ここで、検討を記述の先に進めてみたい。

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痛みや喜びを感じる sense ことは、私たちが直 接できることである。またそれらの情緒を引 き起こしているものを知覚することも、私た ちが直接できることである、と言ってよいと 考える。 「内的照合枠」に戻って考えると、「自分自 身の」内的照合枠は、直接知覚することがで きる、と言ってよいのではないか。一方「他 者の」内的照合枠は、直接知覚することは不 可能である。が、「自分自身の」内的照合枠が、 「あたかも、他者のようであるかのように」不 完全ながらもなることは、体験の特質として、 比喩ではなく、直接可能な表現ではないかと 考える。 つまり、この記述で表現されている内容は、 直接可能であると考えてよいのではないか。 ② 1957 論文の記述 まず、クライエントの私的な世界を、直接 感じ取る sense ことはできない。それが、私的 な世界、の意味に含まれていることであるか ら、である。しかし、この記述では、クライ エントの私的な世界を直接感じ取る、とは記 述されていない。「あたかも自分自身の私的な 世界であるかのように」という条件がついて いる。 ところで、「自分自身の」私的な世界は、直 接感じ取る sense ことができる。これは直接可 能なことである。この感じ取っている自分自 身の私的な世界が、不完全ながらも「あたか もクライエントの私的な世界であるかのよう に」なることは、可能なことではないかと考 える。 直接感じ取ることができる、という表現に 疑う余地がない対象は、自分自身の私的な世 界なのであるから、「クライエントの私的な世 界を、あたかも自分自身の私的な世界である かのように、感じ取ること」という、ロジャ ーズの表現よりも、「感じ取っている自分自身 の私的な世界を、あたかもクライエントの私 的な世界であるかのようにすること」、という 表現の方が、現実的であるように筆者には思 える。 自分が感じ取っている私的な世界であるわ けであるから、そこで怒りや恐れや混乱を感 じることは、「直接」可能な行為であり、また、 自由に動き回ることも、「直接」可能なことと なる。 したがって、この記述で表現されている内 容は、直接可能であると考えてよいのではな いか。 ③「あたかも、かのように」の重要性 このように、1959 年の記述、ならびに 1957 年の記述を検討してみた。それは、上述のよ うに裏返して表現した、とでもいえるような 検討であったかもしれない。以下のようにま とめてみたい。 自分自身の「内的照合枠」は、直接知覚で きるものである。その「内的照合枠」を、あ たかも他者のそれであるかのようにすること は、可能な行為を表現していると考える。 自分自身の「私的な世界」は、直接知覚で きるものである。その「私的な世界」を、あ たかも他者のそれであるかのようにすること は、可能な行為を表現していると考える。 したがって、「プロセス」としての定義に含 まれていた、不可能な表現、比喩としての表 現ではなく、直接実現可能な状態が表現され ている、と考える。 ところが、問題は、「あたかも、かのように」 することは、どのようにして可能なのか、と いうことが記述されていないという点である。 記述されている表現自体には、すでに不可能 な表現は含まれていないと考えるのであるが、 それを実際に実現する(「あたかも、かのよう にする」)ために、どのようにしたらよいのか、 については記述されていない。「状態」として の「共感的理解」の記述は、そのような性質 のものである、と指摘したい。 ところで、そのように、「あたかも、かのよ うに」するための表現が記述されていないに せよ、1959 年論文も 1957 年論文も、「体験の 特質」を記述したものであるから、共感的理

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解を「する側」の、主観的体験の立場に一貫 して立って記述を試みた、といえるのではな いか。その点で、「状態」としての記述は、共 感的理解を「する側」の立場として、ロジャ ーズが記述しようとした主観的体験の特質を 理解するために、有用な記述であると言える のではないかと考える。 一方、「プロセス」としての記述は、共感的 理解を「する側」の主観的体験の立場を、は み出している、と筆者は考える。例えば、共 感的理解を「する側」が直接感じることがで きない、「他者の体験過程」が持ち出されてい る点から、そう考えている。したがって、読 み手が、ロジャーズの主観的体験を理解する、 という観点からみて、定義の新旧に関わらず、 「状態」としての記述には、依然として意義が あると考える。

5.

「状態」ならびに「プロセス」とし

ての記述をどう利用するか

(1)治療者の「条件」の実現のために 「共感的理解」は、「治療的人格変化の必要 十分条件」、あるいは治療者の「3 条件」、中 核条件、の一つとされ、その条件の実現が目 指されることが、有益であると考えられてい る。しかし、実際に条件を実現するために 「具体的にどうしてよいかわからない」という 批判が、クライエント中心療法学派の内外に はある(河合,1970.佐治他,1996.P.50.、 諸富,1997.P.213.) どう具体的に実現するか、は、他のロジャ ーズの記述をたよりにするなどして、個々人 に課されている課題である部分が大きいのか もしれない。 しかし、先述のとおり、「状態」としての記 述は、共感的理解を「する側」の体験の特質 を、「する側」の主観的体験の立場に立って記 述されたものである。「あたかも、かのように」 をどう実現するのか、という大きな問題は残 っているものの、体験の特質の「状態」を、 詳細に記述していく作業により、その「状態」 に至る方途を見いだすことが可能になるので はないだろうか。主観的体験の「状態」とし て、「共感的理解」を記述する意義が、ここに あると考えるのである。 (2)実践の手がかりのために 「プロセス」としての記述には、「すること」 が記述されてあった。 「共感的理解」という条件の実現を目指し ながらも、実践に携わる者は、日々の実践活 動を行わなければならず、その点では、「する こと」に関する記述は大きな手がかりとなる。 本論では、定義や表現にこだわったが、ロ ジャーズという実践家のさまざまな記述は、 自らの実践の手がかりとして利用できるもの が豊富にあると思う。それは「状態」として の記述についても同様のことが言えるであろ う。 「プロセス」としての定義が提出されたの であるから、これまでの「状態」としての定 義は省みる必要がない、というわけではない だろう。先述したように、そのときそのとき で、ロジャーズ自身が満足する、自らの主観 的体験に関する記述が残されていると考える ならば、定義の新旧にこだわりすぎず、自ら の臨床実践の支えとして利用できるものを、 自らの体験と照合しながら吟味し、利用して いくことが現実的なのではないだろうか。(ま た、それはロジャーズというひとりの実践家 に限って言えることでもないだろう。) たとえば、定義的ではないものには、つぎ のようなロジャーズの記述がある。 このようなことを考え、文章にすることに よって、私のなかではっきりしてきたのであ るが、セラピストの観点では、私は相手の内 的世界を仮定的に描写したり描いてみること によって、クライエントに対する私の理解を 検証し続けていけるのであろう。私のクライ エントにとって、このような応答は、それら が最善のものであれば、その瞬間のクライエ ントの世界を構成する意味や知覚についての 鏡に映し出された明瞭な像‐明確化を促し洞

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察を生み出す像‐となることを私は認知する ことができるのである。(ロジャーズ,1986) また、佐治(1983)は、ロジャーズの「対 人関係的仮説検証過程」の解説の中で、つぎ のような記述をしている。少々長いが引用す る。「プロセス」としてのロジャーズの記述 (とくに⑤⑥)に、関連する内容が、より具体 的に記述されていると思われる。 換言すれば、あなたの私的な意味の世界の 内部に対して、私の理解が正しいかどうか (私の主観的知があなたの体験過程に照合して マッチしているかどうか)を問うのである。 治療における技法といわれているものは、こ の照合の仕方、問いかけかた、あなたに仮説 の検証に参加してもらうためにどのような私 のあり方があるかを問うのである。私は単純 に、私の仮説(あなたがこうではないかと私 が思っているもの)が正しいかどうかを問う こともできるだろう。しかしこのやり方は、 しばしばはなはだ不適当で、あなたの私的な 世界を指し示すのに向いていない。私はあな たの身振り、言葉、声の抑揚などを観察し聞 き感じ取って、これらにもとづいての推測を なし、その主観的検討の過程を相手に伝える。 クライエント中心療法と呼ばれるものの本 質は、あなたにとって心理的に、あなたの内 的なレファランスの枠組みを開示するのに安 全で報酬の多い場面を、治療者である私が準 備することである。この安全で報酬の多い物 を準備するといわれていること自体が、ここ での、対人関係の場における相互検証のあり 方の本質である。(p. 198) 以上のような例にあるような記述は、「する こと」として、実践のてがかりになるだけで なく、条件の実現を検討する上でも、意義が あると考える。

6. まとめ

本論では、「共感的理解」に関するロジャー ズの代表的な記述をとりあげ、「プロセス」と しての記述と、「状態」としての記述それぞれ の性質と意義を検討した。 「プロセス」としての記述は、「すること」 が記述されている点で有用である一方、比喩 としての表現や、直接実現不可能な表現が含 まれていることが指摘された。 「状態」としての記述は、共感的理解を 「する側」の主観的体験の立場に立ち、実現可 能な表現であることが評価できる一方、「あた かも、かのように」という特質をどう実現す るかという大きな問題をもつことが指摘され た。 そして、「共感的理解」という、主観的体験 の特質の実現のためには、「状態」としての記 述が、依然として意義があることが指摘され た。 また、「状態」「プロセス」にかかわらず、 ロジャーズをはじめとする実践家の記述は、 日々の実践のために利用する価値があること が指摘された。 文献 河合隼雄 1970 「日本におけるロージァズ理論の 意義」 教育と医学 18(1) 諸富祥彦 1997 『カール・ロジャーズ入門‐自分 が“自分”になるということ‐』 コスモス・ラ イブラリー。

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Rogers, C. 1975 “Empathic: an unappreciated way of being” The Counseling Psychologist, 5(2),2-10. Rogers, C. 1986 Reflection of feelings and

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集』 p. 152‐ 161.誠信書房。)

佐治守夫 1983 「クライエント中心療法の理論

(9)

1983 『ロジャーズ クライエント中心療法』 p. 183-205. 有斐閣新書。

佐治守夫・岡村達也・保坂亨 1996 『カウンセリ ングを学ぶ』 東京大学出版会。

参照

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