[調査研究]
「共感的理解」という理解のあり方
独 我 論 か ら の 検 討
-Empathic Understanding ; from the view point of solipsism 1.はじめに 本論文は、ロジャーズの言う「共感的理解j を 体験している治療者の状態ないしプロセスを検討 する上で、「私J
や「世界」について独我論的な とらえ方を経由することが、有効であることを示 すことを目的とする。 独我論と共感的理解の関連について、筆者なり にこれまで何度か検討を試みてみた(小林,2
0
0
5
b
.
2
0
0
8
.
2
0
1
0
.
小林・岡村.2
0
0
7
)
。特に、 ヴイトゲンシュタインの独我論と、共感的理解 が、いかにして両立できるのか、という点に関心 を持ってきた。現在のところ、両立は不可能と言 わざるを得ない。しかし、「共感的理解」の意味 を検討する上で、筆者にとっては独我論的とらえ 方が必要であると考えている。 本論では、筆者自身が、個人面接の体験におい て感じた驚き、疑問を出発点として、独我論的と らえ方、特に永井均の著作を参照しながら、「共 感的理解J
とは、「何をJ
i
どのように」理解する ことなのかについて、理論的に検討していきたし
、
。
なお、殊更に「独我論的J
とらえ方をせずとも、 「共感的理解J
は実践できるし、実際されている と思う。しかし、そのとき ‘実践されている'の はどのようなことなのか、あるやり方で描き出す ためには、「独我論的」とらえ方が役に立つと考 えることから、本論を「共感的理解」の検討のー っとしようとするものである。 .文教大学大学院人間科学研究科小 林 孝 雄 *
KOBAYASHI Takao2
.
独我論とは 独我論とは、哲学における考え方のlつであ る。「この私が体験していることが、唯一であり すべてである」とする考え方、と述べることがで きる。しかし、この表現は二つの意味にとらえる ことカ宝できる。 「この私の意識に映ずるものが、唯一でありす べてであるJ
と言い換えるなら、それは現象学的 独我論あるいは認識論的独我論ということにな る。その意味するところは、事物や他者は、主体 が意識しているときのみ存在しており、しかも、 主体の意識においてのみ存在する(事物や他者 は、意識していないときには存在しておらず、意 識と無関係に「客観的に」存在しているのではな い)ということになる。 一方、ヴィトゲンシュタインの独我論は、存在 論的独我論とでも呼べるもので、認識論的独我論 とは異なる。その意味するところは、この私が体 験していることが唯ーでありすべてであり、しか も、どういうわけか、これまでの歴史の中で、膨 大な数の人聞がいたであろうし、これからの将来 の中で、膨大な数の人聞がいるであろうしと思え るのに、今ここに、特定の人間として、「この私」 がある、ということである。また、「この私」とは、 それを語る当の「私J
、すなわちここでは筆者と して捉えるよりほかない。並存する体験の主体、 など想定できないのである。(小林・岡村.2
0
0
7
)
3
.
個人面接の経験でのこつの驚き 筆者は、個人面接において、ロジャーズの言う 「共感的理解」の状態と筆者が想定した状態を実 現しようとしている中で、あるとき次の二つのことに驚いた(それぞれ別のときに)。 (1)他者とは別個の世界のことである 一つ目の驚きは、「この目の前の人は、その人 自身の世界を生きている」ということについてで ある。それは当り前のことだ、と多くの人には思 われるかもしれない。筆者も、この驚きにとらわ れる前にも、おそらく漠然と「人は、その人自身 の世界を生きている」というようなことを思って いたと思う。このとき筆者が感じた驚きは、漠然 と思っていた「人は、その人自身の世界を生きて いる」という事柄に、質的な変化をもたらした。 それは次のようなことである。 個人面接で会っている目の前の人は、約束の時 間になったら筆者の前に現れ、約束の時聞が終了 すると筆者の前から姿を消す。そして、一週間後 または二週間後の約束の時間になるまで、筆者の 目の前には現れない。ところで、筆者の自の前に 現れていない問、果たしてこの人は存在している のだろうか。ある時、そういう疑問に、しっかり ととらわれた。 目の前の人の時聞が終了すると、次の人が現れ る。次の人の面接が終了するとその次の人が現れ る。これらの人たちは、面接時間以外の時間も、 どこかでちゃんと存在しているのであろうか。 もちろん筆者には、「存在している」と答えた くなる思いはあった。しかし、自分の前に現れて いない間存在していることを確認することは不可 能である。なお、このような問いが浮かんだこと には、それ以前に、永井均氏の『期太と猫のイン サイトの夏休みJ(永井.
1
9
9
5
)
、『マンガは哲学す るJ(永井.2000)を読んでいたことの影響があっ たのだと思う。 そして、想像の上で、クライアントの側に身を 置いてみると、カウンセラーである筆者は、クラ イアントの目の前に、約束の時間に面接に来ると 現れて、時聞が終了して面接室を去ると自の前か ら姿を消す。面接時間以外の時間、筆者はクライ アントの世界に登場しない、ということに気づい た。 つまり、筆者にとっては、面接に訪れるクライ アント一人ひとりが、筆者の世界における登場人 物であるが、クライアント側に想像上身を置いて みると、筆者が、各人の世界における数多くの登 場人物の一人に過ぎない。そしてまた、数多くの 世界における、それぞれの世界の中の登場人物の 一人になっている。(それぞれの世界を成立させ ている各クライアントにとって、筆者が他の世界 の登場人物になっていることは、実感されている かどうかはわからないが。) このことはつまり、面接時間というのは、筆者 の世界とクライアントの世界が、たまたま交差し て相対することになっているのだ、ととらえるこ とを可能にすると思う。この事実は驚くべきこと であった。1
週間に一度の面接であれば、1
6
8
時 間の内の1
時間、たまたま異なる世界が重なり 合っていることになる(ただし混ざってはいな い)。その時間以外の1
6
7
時間については、それ ぞれもう一方の世界と重なり合うことがない。残 りの1
6
7
時間は、重なっていない世界が広がって いる。一週間ではなく、生まれてから今までに、 視野に入れる時間を拡大してみれば、重なってい る1
時間というものは、本当にごくわずかであ る。 「人は、その人自身の世界を生きている」こと に驚いたのは、もちろんこの.重なりのわずかさ. も含むが、驚きの中心は、異なった世界が会って いる時間だけ重なっている、という点についてで あった。重なっているといっても、世界が浸透し 合うわけではない。こちらの世界には、あちらの 世界が1
時間(混ざらずに)侵入してきたかのよ うに見え、そしておそらく、あちらの世界には、 こちらの世界が(混ざらずに)侵入してきた、と 考えることができる。私にとっては、私の世界に おいて私がいるということは途切れることがな い。しかし、他人にとっては、私(筆者)がほと んど登場しない世界が持続している。 (2)相手に人格を形作ってしまう 次に、二つ目の驚きは、自分が、「会っている 相手について、自然に人となりを形作っている」 ということについてである。 約束の時間ごとに現れる異なった人たちについ て、それぞれ、 AさんにはAさんとしての人格の まとまり、 BさんにはBさんとしての人格のまと まり、C
さんには…というように、それぞれの人-4-に、それぞれ異なった人格のまとまりを形作って 会っていることに気づいた。それは、「自然に」 であり、ほとんど自動的に行われていて、形作る ことを止めることができないように思われた。 また、自分が形作った、各人の人格的まとまり は、それぞれが決して混ざることがない。 Aさん は、会っている間ずっとAさんであり続け、次回 来談したときも引き続きAさんであり続け、 Bさ んやCさんになってしまうことがない。 Aさんに 関するエピソードや印象を、 Bさんに関するもの と取り違えることはあり得る。しかし、それはあ くまでも、
A
さんのものをB
さんと「取り違えた」 のであって、A
さんの人となりが、B
さんのもの と1
昆ざってしまうのではない。 「会っている相手について、自然に人となりを 形作っている」ということも、当たり前のことだ と、多くの人には思われるかもしれないが、筆者 には大変不思議に思われた。 例えば、朝通勤するときに乗ってきた電車につ いて、「今日の電車はちょっと疲れているようだ」 とか、道中に出くわした信号について、「この信 号はちょっとせっかちだ」などと、その物ひとつ ひとつに‘人格'を感じることはない(と思う)。 動物や植物には、‘人格'を想定することがあり うると思うが、しかし、人についてほど、はっき りとしていない。物に人格を感じることが仮に あったとしても、それは‘擬人化' と呼ばれる。 面接中、自分は「会っている相手について、自 然に人となりを形作っている」ことに気づいてみ ると、それでは面接中、自分はいったい目の前に いる人の.何と'交流しているのであろうか、と いうことが疑問に思われた。交流しているのは、 その人の身体でもなければ、脳の働きでもない。 その‘何'は、位置としては身体のあるところに、 なんとなく脳に近いところに感じられるのだが。 それを既存の言葉で言うなら、その人の.ひとp
e
r
s
o
n
'
の部分である、と言うのが近いのかもし れない。p
e
r
s
o
nc
e
n
t
e
r
e
d
という言葉の意味を再 考させられることとなった。 そしてこのことについてさらに驚いたことは、 そのp
e
r
s
o
n
とは、実はこちら側が形作っている ものなのではないか、ということであった。つま り、目の前に‘ある人がいる'ということは、まっ たく自分の側の世界の出来事であって、その人に ついて自分が形作っている、身体でもなく脳の働 きでもないp
e
r
s
o
n
とでも呼ぶべきものは、実体 のない幻想のようなものなのではないか、という 思いにとらわれた。 もちろん、それは幻想ではなくそこに確かに人 がいるのだ、と答えたくなる思いはある。しかし、 確かなのだろうか、という心もとなさは完全には ぬぐえなくなった。 以上の二つの驚きは、ロジャーズの言う「共感 的理解J
ということに、実は深くかかわっている のではないか、という思いが筆者にはある。少な くとも、筆者にとっては深くかかわっている。 一つ自の、「人は、その人自身の世界を生きて いる」ということの実感と、二つ目の「相手の人 となりは、自分が形作っている幻想ではないか」 という漠とした心もとなさは、筆者にとっては、 「共感的理解」について考える上で、重要である と感じている。4
.
端的なくわたし〉と併存する「私j (1)別個の世界 一つ目の驚きは、「人は、その人自身の世界を 生きている」ことについてであった。面接室でク ライアントと相対している時、筆者はこちら側に いて、クライアントを見ている。これが、筆者の 世界である。面接室にクライアントが訪れる様子 を見、終了後立ち去っていく様子を見る。 クライアントの側も、世界というものについ て、ある面で筆者と同格の「何か」であって、そ ちらの側にいて、相談に訪れると筆者がいつもの 場所にいることを見、立ち去るときにその場にと どまる筆者を見るのだろう、と想像することが可 能である。 しかし、筆者の世界と別個の、こういう世界が あるのかどうか、筆者自身の世界を見るように、 見てみることは決してできない。つまり、クライ アントと相対する状況において、筆者は常に「こ ちら側」であるしかない。 このようなとらえ方においては、筆者とクライ アントを、世界がそこから開けている中心点のよ うなものとして、「同格」に想定している。それは、同じ世界に併存するものではなく、別個の世 界を成立させている、別個の中心点である。まず、 カウンセリングにおいて相対しているのは、この ような別個の世界の中心点としての他人である、 といえるだろう。(ただし、この想定では、それ ぞれの世界は、(どこかに)併存するものとされ ていると言える。)
(
2
)
相手の視点には立てない ところで、先ほど、「筆者と同格の『何か.IJ
と 書いた。しかし、同格を立てた「筆者J
とは一体 何か、さらに検討されるべきである。 「筆者」とは、身体のことでもなければ心理的 統一体のことでもなく、端的にこの世界を体験し ているくわたし〉であるといえる(永井.2
0
0
4
)
。 また、「体験している内容」と「体験している主 体」は分かれているのではなく、体験しているこ と自体がくわたし〉である。例えば雷鳴が聞こえ るとき、「雷鳴が聞こえる」こと自体がくわたし〉 なのであって、「雷鳴が聞こえる」という体験を している「主体」は存在しない(永井.2
0
0
6
.
p.1
7
)
0
i
雷鳴が聞こえる」という体験と独立の体験 主体があるわけではないのである。 つまり「筆者」によって指示したいものは、「筆 者」がくわたし〉であるところのくわたし〉、〈わ たし〉にとって端的に「これ」であるような「世 界」のことであり、それはくわたし〉そのものの ことである。とすれば、〈わたし〉の世界に、そ のようなあり方と同格のものなど在りはしない。 しかし筆者は、なぜか、クライアントの側から 世界を見る、という状況を想像できる。「もしそ ちら側に座っていたら、今こういう服装をしてい る小林が自の前に見えるのだろう」という具合に である。ただし、この想像ができることには、今 クライアントが座っている椅子に自分が座ったこ とがあり、その位置からの「見えJ
の記憶を自分 が持っていることや、「小林」である自分の外見 を鏡でみたときの記憶を持っていることなどが関 係しているであろう。 とすると、想像しているのは、クライアント側 に身を置いてみたときの、自分の「見え」であっ て、やはり「こちら側J
から見ていることに変わ りがなくなってしまう。様子や人となりがクライ アントのようであるかのように想像してみたとし ても、「こちら側」が、単に位置的に移動しただ けの想像なのではないか。 このように考えてみると、クライアントの側か ら世界を見る、ということは、想像できているよ うで、実は想像できていない。想像できるのは、 あくまでも自分の側(こちら側)からの「見えJ
でしかない。 今は、視知覚(見え)についてだけ述べている が、そのほかの知覚や、思考、感情についても、 同様のことが言えるだろう。 ‘クライアントの状況に身を置いてみると、ま た生育歴も考慮してみると、その状況だ、ったとし たら、そのような気持ちになるのは無理もない' と、カウンセラーの側である自分は、その‘気持 ち.(と思えるもの)が自分の側にも生起しなが ら、思うことがある。 しかし、クライアントの側に、想像上身を置い てみたところで、置いてみたのは自分の身である から、そこから見える世界や思える思いは、「こ ちら側のJ
世界でしかない。 クライアントが、クライアントの世界におい て、どのように見、聞き、考え、感じているのか、 そのことを、カウンセラーである筆者が、自分自 身の世界について自分が見、聞き、考え、感じて いるように、見たり聞いたり考えたり感じたりす ることは決してできない。 カウンセリングにおいて相対しているのは、別 個の世界の中心点としての他人だと述べたが、 「そちら側」に立つことは決してできない。 (3)想像の上で、クライアントの側に身を置いて みることができるのはなぜか とはいえ、面接では、クライアントがどう見、 聞き、考え、感じているのか、クライアントがそ うしているままに、カウンセラーとして、その見 え、聞こえ、考えぶり、感じぶりを、理解しよう とする。これが「共感的理解」と呼ばれる営みの 一部であろう。 ロジャーズの定義は次のようであった。 共感という状態、ないし共感的であること は、他者の内的照合枠を、正確さをもって、-6-すなわちそこに付与されている情緒的内容や 意味とともに、あたかもそのひとであるかの ように知覚すること。 (Rogers,1959) クライアントの私的な世界を、あたかも自 分自身の私的な世界であるかのように感じ取 ること。 (Rogers,1957) 他者の私的な知覚的世界に入り込み、完全 にくつろぐことを意味する。瞬間瞬間、この 他者の内部に流れる感じられた意味に対し て、敏感であることが含まれる。恐れであれ、 憤怒であれ、やさしさであれ、困惑であれ何 であれ、その他者が体験していることに対し て、である。 (Rogers,1975) くわたし〉は、〈わたし〉の世界において、「こ のように」見、「このように」聞き、「このように」 考え、「このように」感じている。この、「このよ うに」は、〈わたし〉において端的な「このように」 である。これは、ただくわたし〉のみが、〈わたし〉 の世界についてのみ、できることである。 ところが、その「このように」が、例えば、‘悲 しい感じ'であったり、‘怒り'で、あったり、‘混 乱'と名づけられる。そのことによって、それは、 〈わたし〉においてのみの「端的」なものである ことを離れ、「他の人」にも生じ得る、「共通の」 「感情」や「状態」となる。 それは、私と目の前にいる人が、ある同格の何 か
(
f
主体J
f
私」などと呼ばれるもの)として、 成立したことと密接に関連する。つまり、「私」 や「他の人」が成立したのであり、私は他の人に とっては「他の人」でもあり、他の人はその他の 人にとっては「私」でもある、ということの成立 である。 こうなれば、もはや、「感情」ゃ「状態」は、 複数併存する「私」に、共通して生起するもので しかあり得ず、「他の人」とは、「私」がそちらに 身を置いてみることができるものとならざるを得 ない。 しかしまた、そうして成立した「私」などの概 念を用いることによって初めて、「端的なくわた し>
J
というものをとらえることができるように もなる。(このことは、永井,2
0
0
4
.
に教えられ た。) 先に述べたように、クライアントが、クライア ントの世界において、どのように見、聞き、考え、 感じているのか、そのことを、「他の人」である 筆者が、くわたし〉の世界において「端的に」見、 聞き、考え、感じているように、見たり聞いたり 考えたり感じたりすることは決してできない。 しかし、たった今、筆者は「他の人」として自 分を位置付けてしまい、「見るJ
f
聞くJ
f
考える」 「感じる」という概念を当てられているような経 験をしていると表現できてしまっている。このこ とによって、クライアントが、同じように、「見 るJ
f
聞くJ
f
考えるJ
f
感じる」体験をしていると想 像してよいことになり、同時に、クライアントの 位置に身を置いてみることも、できるようになっ てしまうのだ、と言わざるを得ないのであろう。 永井(
2
0
0
4
)
によれば、「端的な私が世界に登 場したとき、同時に端的でない私も世界に登場せ ざるをえない」のであり、「そうでなければ、私 は私を端的な私として自己把握することがそもそ も不可能だ‘ったはずだからである」ということに なる。そしてこれが「いわゆる独我論が誤りであ ることの最良の証明を与える」ことにもなるので ある (p.1
4
8
)
。
5
.
r
他の人」を自動的に形作る 先ほど、「私と目の前にいる人が、ある同格の 何か(
f
主体J
f
私」などと呼ばれるもの)として、 成立した」、と述べた。このことは、概念として 表現され得るだけでなく、生活実践において実感 することもできるであろう。 はじめに述べた、筆者が体験した二つ目の驚き がこれに関係するのではないか。 二つ目の驚きとは、「会っている相手について、 自然に人となりを形作っている」ということにつ いてであった。もはや「他の人」とは、見たり聞 いたり考えたり感じたりする「主体」なので、あっ て、目の前に現れる(主として)人間について、 その身体の位置に、そういう主体としての「他の 人J
を難なく形作ることができる。そして、先述 のとおり、形作ることはほとんど自動的に行われ ていて、形作ることを止めることができないよう に思われた。 これは、もはや「私と目の前にいる人が、ある同格の何かとして成立した」ことを表しており、 一般的な主体としての「他の人」が成立したこと を表しているのではないか。そして、一度成立し てしまうと、そのようにしか「他の人」を形作る ことしかできないことの表れではないだろうか。 「私」は、ものごころついてから、ずっと持続 して見たり、聞いたり、考えたり、感じたりして おり、人生の過程で遭遇した出来事や他人とのか かわりによって、それらについての「私らしいや り方」が形成されて、今、世界を体験している。 その「私」と同じように、それぞれの「他の人」 は、やはり、ものごころついてから、ずっと持続 して見たり、聞いたり、考えたり、感じたりして おり、その人が人生の過程で道遇した出来事や他 人とのかかわりによって、それらについての「そ の人らしいやり方」が形成されて、今、世界を体 験している、というように、「他の人」を形作る。 そして、そのように「他の人」を形作ることを止 めることができない。このことは、おそらく、こ の世界が、このように成立していることの前提の 一つだからではないだろうか。 また、そのように形作られた「他の人」が、幻 想なのではないかという心もとなさを感じるの は、世界の成立の前提でありながらも、それが概 念であるからではないだ‘ろうか。 このことについては、さらなる検討を要する。 また、そのように形作られた、「他の人」を、ひ とpersonと呼ぶことがふさわしいのかどうかは 現時点ではわからない。
6
.
r
共感的理解jが可能となる前提 クライアントとは、別個の世界のことである。 カウンセラーである「私」は、クライアントの世 界を、〈わたし〉において「端的に(このように )J 見、聞き、考え、感じるようには、見たり聞いた り考えたり感じたりすることはできない。たと え、クライアントの立場に身を置いてみたとして も、そこで体験してみることは、クライアントの 立場に身を置いてみたくわたし〉の体験なのであ るから、それは「こちら側」の体験であって、「あ ちら側」を体草食することはできないのであった。 しかし、「私」や「他の人」という概念が成立 している以上、またその概念を前提として成立し ている「感情」ゃ f(心理)状態」が流通してい る以上、「私」と「他の人J
はある意味において 同格であり、「私」は「他の人」の立場に身を置 いてみることができる。もはや、「独我論」は誤 りなのであって、「他の人」は、「私」と同じよう に、「感情」が生起したり、ある r(心理)状態」 になったりするのである。 「共感的理解」とは、この「私」ゃ「他の人」 という概念が成立した後に、可能になることであ ろう。 ロジャーズ (1957)による共感的理解の定義は、 次のようなものであった。 共感 (Empathy) 第5
条件は、治療者が、クライエントが自 分自身の体験に関して気づいていることにつ いて、正確な共感的理解を体験しているこ と、である。クライエントの私的な世界を、 あたかも自分自身の私的な世界であるかのよ うに、感じ取ること、しかし、決して「あた かも、かのように」という特質を失わないま まで、そうすること一これが共感であり、 そしてこれは治療に不可欠のようである。 (Rogers. 1957) 以前筆者は、次のようなこと指摘した。カウン セラーが感じ取ることができるのは、「こちら 側」、すなわちカウンセラーの私的な体験でしか あり得ず、したがって、「クライアントの私的な 世界を、あたかも自分自身の私的な世界であるか のように、感じ取ること」は、不可能である。し かしながら、「感じ取っている自分自身の私的な 世界を、あたかもクライアントの私的な世界であ るかのようにすること」は可能である(小林,2
0
1
0
)
。
しかし、なぜそのようなことが可能なのか。そ れは、もはや、一般的な主体として同格な「私」 と「他の人」が成立した以上、いずれかの体験は、 もう一方においても体験され得るものとなったか らである、と答えることができるのではないか。 「いや、ある人が体験している例えば‘悲しさ' は、その人固有なものであって、他の人が体験し ている‘悲しさ' とは決して同じではない」、と。 。
いう反論が思い浮かぶ。しかし、そこで語られて いる‘悲しさ'とは、「誰か」が体験する「感情」 の一種なのであって、それがどれだけその人に固 有な色合いを持つものであっても、「その人」と いう一般的主体に体験され得るものとされてし まっている。この水準では、それはどの主体にお いても体験され得る「感情」なのだと言える。 私的な世界は、その人のみが感じ取れる。しか し、その感じ取っている私的世界を、あたかも他 の人の私的世界であるかのようにすることが可能 なのは、同格の主体が複数成立し、どの主体もが 体験し得るものとしての「感情」や「状態」が成 立してしまっているという事情によっているのだ と考える。 「実際に
J
、あたかも他の人の私的世界のように することができたかどうかは、この前提の上で何 をするか、という問題なのであろう。これについ て、筆者は今のところ、カウンセラーが、どのよ うな体験過程を生じさせて、それにもとづいてど のような言葉をクライアントに投げかけるか、と いうことによる、と考えている(小林.2
0
0
5
a
.
2
0
1
0
)
。これについては、さらなる検討が必要で ある。7
.
r
共感的理解jにおける「端的さ j 独我論が誤りとされた後で、「共感的理解」が 可能であるとした。ところで、「共感的理解」に おいて、「端的さ」はどうなるのか。 「端的さ」とは、同格のものがないくわたし〉 において、「このように」体験している、その「こ のように」を指すものであった。そのような「端 的さJ
は、同格のものがないくわたし〉において のみ体験され得るもので、これは「一般的な主体J
が成立する以前のくわたし〉について言えること、 あるいは、「一般的な主体」が成立した後、成立 した概念を利用して、自己把握できたくわたし〉 について言えること、であった。 「共感的理解」には、「端的さ」は関係しないの か。そうではないだろう。 ロジャーズは、先の定義において、「あたかも 自分自身の私的な世界であるかのように、感じ取 ること」と述べている。これは、「感じ取り方J
が、 「自分自身の私的な世界を感じ取るときの感じ取 り方であるかのように」という意味も含むであろ う。そのような「感じ取り方」で、クライアント のc
r
他の人」の)私的な世界を感じ取ることだ、 というのである。 〈わたし〉において世界を「このようにJ
体験 している、というその「端的さJ
は、〈わたし〉 においてのみ可能なことである。他の人の私的体 験は、感じ取ることがそもそも不可能であった。 しかし、「感じ取っている自分自身の私的な世界 を、あたかもクライアントの私的な世界であるか のようにすることJ
は可能だとした。あたかもク ライアントのものであるかのようにした「この」 私的な世界を、自分の私的な世界を感じ取るとき の「端的さ」で、見たり聞いたり考えたり感じた りしようとすること。言語として把握された端的 な「これ」は、「端的さJ
から離れ得るものである。 言語にする前に、言語にする前の「端的さ」を もって「これ」を体験しようとすること。ロ ジャーズが言いたいのはこのことではないか。8
.
一般的主体の体験を、「端的さJ
を付与して 理解する 「共感的理解」とは、共通の体験を想定し得る 一般的主体としての「他の人」たるクライアント の体験を、カウンセラーがくわたし〉において見、 聞き、考え、感じている「端的さ」によって、理 解しようとすること、なのではないか。 もちろん、「端的さ」は、〈わたし〉においての 「端的さ」ほど鮮明ではないだろう。したがって、 「ある程度の端的さで」ということになるのでは ないか。 例えば、過去の自分の見え、聞こえ、考えぶり、 感じぶりを想起するときの「端的さ」は、「いま」 見、聞き、考え、感じている「端的さ」よりも、 鮮明さが減じているのではないか。この過去の想 起と似ているやり方で、理解しようとしているの かもしれない。 共感的ありょうを「プロセス」として定義した、 ロジャーズの表現C
R
o
g
e
r
s
.1
9
7
5
)
は、直接実現 できないことが述べられている、とかつて指摘し た(小林.2
0
1
0
)
。 そこでは、例えば、「他者の私的な知覚的世界 に入り込み、完全にくつろぐことを意味する」など、(わたし〉における「端的さ