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前代内陸交通の凝集 ―周防山代地方を事例として―

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Academic year: 2021

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(1)胡桃沢 勘 司. ー 周 防山代地方を事 例としてー. 前代内陸交通 の凝集. はじめに. 大厄. `、、 ‘,、 ' ` ,‘‘ ’』 ‘` - ‘ ,`' , ' 9. " ’. , ' 、 一 . . ヽ. 二. 字 佐葛 、こ ‘、‘ 、 野 品. 田. ll. 、 与 ー, 、 ‘99' 一 山 生 一‘. 津田 '‘ 、 ],'‘ )(' '’'‘,'J‘‘. —‘,・' ‘、. ' , , ' ‘ , •-— ‘,'‘ ヶ. }. `. 、 示 < ‘‘ 傍ソ ー \. ­ 、 , ‘-. , 、 ‘' ' , ,. `. . ` ヽ99,'. ‘. - 79 -. 安芸. , -. 周防. 本稿の課 題は、周防山代 地 方(錦川上流域) の交通 ・ ここは、 近世萩藩の支 配下にあ り、萩街道・芸 石往来. 交易伝 承について 報告す ること である。 ( 1). ・周防北街道が主要街道と 位置 付けられて いた。 三本の うち、今回調査を行ったのは 萩街道・芸石往来の二 本で、 ( 2). ま ず萩街道は 途中 錦川 本流と交錯 して いたが、錦川 では. 六. 市 日. ‘ ―. ‘、. ‘ ` ,. ヽ. 5血. ,. 大正中 期頃ま で舟運が盛んに行われて いたことから、道 と 川の接 触 点は 水 陸 交通 の 結 節点 と 見な す こと が 出来. る。 一方芸石往来だが、通 過す る周防最北部は 、石見と ( 3). 安芸に挟ま れた狭小 な国境地 帯 で、 双方からの人や物資 が行き 交う、文字通 りの街道の要衝 であった 。すなわち、. 山代 地 方は 、域内 に 、庶民的 交通史の検討を進め るうえ で重要な、 各々タ イプ の違う関連の伝 承が凝縮 、伝 えら. 本螂. 大野JII. 累栖. 石見. 1998. 12 10巻1号(通巻第24号) 文学· 芸術・文化.

(2) にもかかわらず、ここが交 通史専攻 者の間で話題となっ. れている可能性が高い、極めて魅力的な所と判断される。. 瀬ー 出 合ー 府谷を通り、本郷 村へと至 っていた。萩藩. おける道 筋は、 須万(徳 山市) から錦町野 谷へ出 て、広 ( 4). たことは殆 ど無い。交 通史の民俗学 的研究を意 図する箪. は 、 この道 を萩ー 安 芸 を結ぶ 主要 街道 と位 置づ け てい ( 5 ) るが、その一区間をなしていたのである。. 者が今 回採訪を試みたのは、その空白を補うのを意 図し. 出合は、錦川 ・ 宇 佐川 ·府谷川 の合流点であり 、また. 出 合. 萩街道 と岩国から北上する道 との交 差点でもあって、文. m. 料の提示は最も肝要 なものであり、 Iでまずはそれを行. 字 通り 水 陸 両 交 通の要 衝 と さ れ て い た 所で あ る。 出 合. 記述は、 I民俗誌 •II 考察の二部 構成とした。 基礎資. たからに他ならないのである。. おうというのである。 II ではそれらのなかから問題を拾. 橋のやや上流に住む 貝 塚一夫 氏(大正 七年生) から話を. ( 6). い出しては私 見を述べてみたが、 自身の嗜好を押し出し. 聞く ことが出来た。貝 塚氏は広島で生まれたが、七歳の. ろして筏に組 み、錦川 を岩国へ向け て流していた。材木. 材木は、出 合までは馬 車で運ばれて来たが、ここで降. る。. 度電灯が灯るようになった頃であるのが印象 に残ってい. 木の仕事をしており 、その都合で当地へ来たのだが、 丁. 時に移り 住み、 以来ずっ とここで暮らしている。 父は材. ( ; 、 ). 思っている。 御叱声をお願いしたい。. たものであり、 データを生かしきれているのか心許 なく. I 民俗誌 ここでは伝承の成文化を行うわけ だが、前述のとおり 主要 三街道 のうち 二つについて調査 を行ったので、 各々 に分け て報告をすることとする。. マカ (A力 ) で、この刻印を一本ご とに押していた。 夏. って切り口を四寸x八 寸に揃える。貝 塚氏宅の屋号はヤ. は鉄道 の枕木用だと聞かされたが、 これは、 シハチ と言 寛保二年(一七四二)、「御国廻 御行程 記」 が作成され. は大水 で良く 筏が流されたものだが、刻印があれば出荷. 萩街道 たが、それには萩街道 も描かれている。錦川 流域地帯に. - 80 -. 胡桃沢 前代内陸交通の凝集.

(3) れていた。. イと数えたが、岩 国へ着く と新田という問屋へ運びこま. (美川町) まで は筏乗りが各々 に一人ずつ 、 計二人 が乗 [ 8 ) って行く 。舟津から岩 国まで は一人で ある。材木は1サ. 者のと ころに戻 って来る。筏は二つ を連結したが、舟津. カ マス ごと買って行く 者もあった。買い物客は、荷物 を. んだ二斗入れの シオガ マス に入れられており、なかには. 酒はやらなかった。塩は、カ ワプ ネが岩 国から積んで 来. で米を撞いたものである。麦 •塩 ・ 煙 草なども扱ったが、. まで 及んで いた。当時はまだ精 米機が無く 、近く の水 車. 捌いたわけ で ある。買いに来たのは府谷 ·木積・ 大野 あ. 13) -. ) cz. たもので ある。塩は、年間を通じ来ていたが、稲聡で 編. ( 12}. たりまで だが、 送り込む のは、米を中 心に、 宇 佐方 面に. 出合へ来て十 年く らいの間は、岩 国へ通う舟があり、 { 9 ) カ ワフ ネと呼 ばれていた。出合橋から貝 塚氏宅前あたり. オイコに付け て背負って行く ことが多い。後には、竹製. CIO). が舟着場 となっており、筏同 様こ こを起点に岩 国との間. のト リノス を使う者も居た。売上は当座帳に記録してお. き、決済は盆 暮に籠めて行う。こち らから集金に出向い. ( ll}. た。 知っている舟は五、 六艘だったが、貝 塚氏が親しか. を往 復 し た も ので あ る 。 舟 の長 さは三 間く らい で あ っ ったのは南桑 のミネさんで 、この人 は自分で 舟を持 って. 無い 。帰りは生活用品を積んで 来る。カ ワプ ネの船 頭は. が、貝 塚氏自身は岩 国へ行く 際この舟を利用したことは. ては、木箱に入れ、自転車に載せて周辺部 を売り歩いた。. ことがある。浜田近郊 に住む 田中 氏から鯖や鰯 を仕入れ. 貝 塚氏は、第 二次大戦 直 後の一 時期 、 魚の行商 をした. ともよく あった。. たが、 全部 回 るのに二、 三日はかかる。貸街れになるこ. 二人で 、一人 は親方 、一人は見習いだったが、見習 いは. 皆わざわざ買いに行かなけ ればならなかったから、行商. 当時、 この付近で 魚を売っていたのは広瀬の松月のみで、. 炭は ‘倉庫 から舟へは天秤 棒で 運び込んだ 。人 も載せた. いた。カ ワプ ネが、岩国へ行く 際の主な積荷は炭で ある。. 親方 の方 へ足 を 向け て は い け な い と 言 わ れ た も ので あ. に酒を 飲みに 行く ところで もあった。. 仕入れていたが、 ここは元来料理 屋で 、人々 が気晴らし. は結構商 売になったもので ある。松月も魚は田中 氏から. る 。帰りは 、舟に網を付け て引き上げて来たが、 これは. 専ら見習いの仕事とされていた。 貝 塚氏の父は 、やがて ここで 米を中 心とする食料品店 を 営む ようにな った。カ ワプ ネが積んで 来たものを 売り. - 81 -. 1998. 12. 文学・芸術・ 文化 10巻1号(通巻第24号).

(4) 貝塚 氏 が 子 供 の 頃 か ら 第 二 次 大 戦 後 に か け 、 石 見 か ら. 試験 場へ 行 く ま では 、 長期 間 留守 に し た こ と は 無い 。. た の で、 瀬 戸 は 通 ら な い 。 渋 谷へ の 道 の 途 中 を ハ ヤ オ ザ. 尾 崎 氏 は 、出 合 • 本郷 両 方 面 共 に 旧 道 を 歩 い た こ と が. g -. っ た の は 鯨 であ る 。 荷物 は 先 に 送 り 、 知 り 合 い の 所 を 泊. 力と 言 う が 、 こ れ を 上 っ て 渋 谷 を 下 方 に 見 な が ら ヨ コ へ. あ る 。 出 合 か ら の 道 は 、今 の 道 よ り 北 側 の 山 中 を 通 っ て. ま り 歩 き な が ら 商売 をする 。売 り 歩 く時 は オ イ コに 付 け. 魚 売 り の 行 商 が 来 て い た 。 年配 の 女 性 の 二 人 連 れ で 、 秋. て 背 負 っ て 来 た が 、負 い 紐 は ボ ロ を よ っ た よ う な も の だ. へ と 至 る 。 ヨ コ ヘ は 正 確 に は ム ラ サ キヨ コ ヘ と 言 い 、 九. 来 る 。 千物 ・ワ カ メ ・鯨 な ど を 持っ て 来 た が 、 一番 多 か. っ た 。 彼 女 達 は 得 意 が 決 ま っ て お り 、「コ ウテ ヤ ン サ イ. 百 年程 前 、 府 谷 八 幡 を 石 清 水 八 幡 宮 の 分 社 と し て 勧 請 を. か ら 冬 に か け 、 雪 の あ る 時 期 で は あ っ た が 、時 々 や っ て. ヤ 」 と 言 っ て 入 っ て 来 る 。 鯨 は プ エ ソだ っ た が 、 日持 ち. した 時 、 本 郷 側 か ら タ オ を 越 え て こ こ へ 来 た ら 、 紫 の 雲. お り 、 取り つ き は五 味 で、 西 村へ 降 り て こ こ に 入 って 来 ( 18 ) た 。 そ して 、 本 郷 へ は 西 村 か ら 渋 谷へ 続 く 道 へ 出 て 行 っ. は す る の で 、 貝塚 氏 宅 で は 大 抵 買 う こ と に し て い た 。 代. だ と い う 。ヨ コ ヘ に は 清 水 が 湧 い て お り 、 オ ミ ズ ヂ ャ ヤ. が 立 ち 込 め た の で 、以 来 こ の よ う に 呼ぶ よ う に な っ た の. 元. と呼ば れ る が 、 殿様 が こ こ で休ん だと の 言 い 伝えが あ る 。. ( 19). 金 はそ の 都度 払 う が 、 余 る と困 る の で多 羅 に 買 う こ とは. 20 ). 出 来 な い 。 鯨 は 塊 に な っ て い る の で 切 っ て も ら い 、温 度. の 低 い 所 へ 筵 な ど を か け て 置 い て お く 。 湯び き を し、 酢. ョと い う 家 が あ り 、 代 官 が 休 ん だ 所 と 伝え ら れ て い る 。. 通 っ た と 聞 か さ れ て い る が 、 西 村 に は 屋 号が モ ク ダ イ シ. を、 江 戸 時 代 に は 萩 と 本 郷 の 勘 場の 間 を 往 来 す る 役 人 が. { 21). ョコ ヘ か ら は 、 道 は 本 郷 の 助 光 へ と 下 り て い た 。 こ の 道. 谷. 味 噌 で食べ る と 美味 い も の であ っ た 。. 府. 本 郷 へ は 、 瀕 戸か ら 大 久 保 を 通 っ て 行 く 道 も あ り 、 境 の. ②. 府 谷 は 、 近 世 に は 公 用物 送 り な ど の た め 定番 が 三 人 昼 16 ) 夜を 問 わ ず 詰 め て い た 、 萩 街 道 の 要 衝 の ― つ で あ る 。 近. を 通 っ た と い う こ と は 聞 い て い な い 。 こ の 道 は 、 尾崎 氏. 峠 は ハ ギ ノ タ オ (正 下 峠 ) と 呼 ば れ た が 、役 人 が こ ち ら. { 17}. 住む 尾 崎 知 佐 雄 氏 ( 大 正 二 年生 ) か ら 話 を 聞 く こ と が 出. が 小 学 生 の 頃今 の 車 道 に 付 け 替 え ら れ た が 、そ れ 以 前 の. 世 は 十 二 の 小 村 に 分 け ら れ て い た が 、そ の ― つ の 瀕 戸 に. 来 た 。 尾崎 氏 は こ こ で 生 ま れ 、 昭和 十 四 年 に 山 口 の 農 業. - 82 -. 胡桃沢 前代内陸交通の凝集.

(5) に は 専 ら 酒 を 付 け て 来 た 。馬 の 足に は 蹄 鉄 を 打っ た が 、. アラ コ は 加工 所 が あ っ た 本 郷 に 出 し た の で あ る 。 帰り 荷. ゆく 。 府 谷 は 、 農 産物 は 出 合 へ 送 る こ と が 多 か っ た が 、. 旧 道 の 道 沿 い に は 、 ミ チ マ ツ と 呼ば れ る 並 木 が 植 え ら. と 呼ば れ る も の を 臥 に 詰 め 、 セク ラ ( 鞍 ) に 括 り 付 け て. れ て い た 。 松 は 樹 齢 百 年に も 達す る 大 き な も の だ が 、 個. 鍛冶 屋 が 居 た の は 出 合 で あ る 。 尾 崎 吾 作 は 、 こ れ が 専 業. 道は祖 父 の 時 代 に 改 修 を して 大八 車 が 通れ る よう にした. 人 の 土 地 に 生 えて い て も 、 そ の 所 有 権は お 上 に あ っ た と. とい う の ではな く 、 百姓 の 合 間 に時 々 行く 、 と い う 風 だ. も の だと 聞 い て い る 。. いう 。 松 は 、 維新 後 に 払 い 下げ て も ら い 、 道 路 改 修 の 資. っ た 。 他 所 か ら の 通 行 者 で 印 象 深 い の は 、 六 日市 か ら 安. 荘}. 金の 一 部 に 充 て ら れ た そ う であ る 。 旧 道 時 代 、 通 行 に 難. 芸 へ 牛 を 追っ て 行 っ た 者 であ る 。 彼 ら は サ イ タ ケ と い う. 塩 は 出 合 でシ オガ マ ス に 入 れ ら れ た も の を 買 っ て 来. 24 ). 渋 し た の は 積 雪 季 で 、 子供 の 頃 は 少 な く と も 一 尺 は 積 も. 棒 を 持ち 歩 い て い た 。. 雪道 用の 特 別な 履 物 は無か っ た が 、縄 を 爪先 に 縛り つ け 、. ( 23 -. り 、時 に は そ れ 以 上 とな っ て 通 れ な く な っ た こ とも あ る 。. め に 行 っ た こ と も あ る 。 小 山 へ の 道 は 、第 二 次 大 戦 後 十. た 。 醤 油は 広 瀕 か 本郷 か ら 購 入 し た が 、 深 川 の 小 山 へ 求. 年く ら い は 人 が 歩 い て い た 。 魚 は 、 子 供 の 頃 は 、 府 谷 八. 尾 崎 氏 の 小 学 校 入 学 前 後 頃ま で 、 府 谷 に は 大 八 車 を 引. 滑り 止 め と し た も の であ る 。 い て 出 合 と の 間 を 往 復 す る ク ルマ ヒ キ と 呼 ば れ る 人 が か. 藩 政時 代 の 税 の 取 立 が 極 端 に 厳 し く 、 切 り 詰 め た 生 活 を. 幡 の 祭 な ど 特 別 な 時 し か 食べ ら れ な か った 。と い う の は 、. 強 い ら れ た こ と か ら 、 万事 に 質 素 を 旨 と す る 気 風 が 当 時. ( 店). な り 居 た 。 彼 ら は こ れ で 生 計を た て て お り 、 行 き は 主 に し か し 、大 正 後 期 、 良 い 道が 出 来る と馬 力 の 通 行が 可 能. れ 、 た と え ば 安 芸 の 旧 浅 野 領と 比 べ る と 冠 婚 葬 祭 等 に 対. も な お 残 さ れ て い た か ら であ る 。そ の 名 残 は 今 だに 見 ら. { 26). 材木 を 運び 出 し 、 帰り は 村 で 入 り 用な も の を 積 ん で来る 。. と な り 、 ク ルマ ヒ キ は 消 滅 を し て し ま う 。 馬 力 は 、 出 合. て 良 い 。 だ か ら 、第 二 次 大 戦 前 は 行 商 が 売 り に 来 る こ と. す る 考 え方 はか な り 違 い 、 こ ち ら は 全 て が 簡 素 だと 言 っ. に 専 用 の オ ロ シバ を 持っ て い た 。 一 方 、 本 郷 へ は ホ ソ ゴ た 。 や っ て い た の は 尾 崎 吾 作 で 、第 二 次 大 戦 前 の こ と で. も な く 、 入 用 な 時 は 出 合 か 広 頼 の魚 屋 に 頼 ん で 揃 え て も. ウガ ヨ イ と 言 っ て 馬 の 背 に 荷 物 を 付 け て 往 復 す る 者 が 居 あ る 。 行き は 、 コ ソ ニ ャ ク の 生 芋 を 切 っ て 干 し た ア ラ コ. - 83 -. 1998 12 10巻 1号(通巻第24号) 文学・ 芸術・ 文化.

(6) らうようにして いた。出合の魚屋はヒロカネ サイチ と言. れぞ れ一泊 し、 帰りは岩国から歩いて 来た。舟は、 上り. く際は 、 下畑 •阿賀 (美 和町) を通って 渋谷へと出て 来. げねばならないので、人は 乗せて くれない。 岩国から歩. た 。 岩国から瀬戸ま では丁 度 一日の行程 である。 この時. は荷を積んだものに網を掛けて 川端の道を歩いて 引き 上. て いるだけで四、 五人になるが、出合 の方から荷物を背. ったが、広 瀬のそれの名 前は覚えて いない。第 二次 大戦. 負って やって 来た。 持って 来たのは、主として 海草 を干. 後 は、 浜 田から海産 物を売りに来るようになった。 知っ. したものである。. は草畦を履いたが、これは父母が夜なべに作って くれた。 ( 30 ) 子供は暴れるので、草桂がケナ イ。 親から「ケナ イから. ったものだが、 併せて 舟の発着場ともされて いた。 乗っ. とがある。 往路は出合 から舟で岩国ま で行った。出合 に g “ } は トイヤ ノハマ と呼ばれる所があり 、ここへは買物に 行. 場す るとこれにとって 替わられた。馬力は四輪で、岩 国. 筏はフジカヅ ラを使って 組んでいたが、やがて 馬力が登. 錦川は、 昔は水 量が多かったので、筏も流して いる。. 錦川支 流の宇佐川上流地 帯は周防の最北部に位置 し、. 2 芸石往来. 丁 寧に しろ」と言われたものである。. たのはハマ ダキ ンイチ の舟だが、この人は父と同年 兵で. ま で行くものもあったようである。. 数え年 十歳の時、父に宮島へ連 れて 行って もらったこ. あり 、そのよしみ で幾つもある舟のなかから選んで乗っ が座るように した。府谷を朝出て 、舟出をしたのは 十時. 石見と安芸に挟ま れた所である。その立地 から芸石を結. { 28). たのである。舟の長さは五、 六間で、 炭を積んだ上に人. つで、 底をこす ったりして 時々事 故がある。 危険 な箇所 は 幾つかあったが、川底 の石が赤いことからアカゼ と呼. ぶ道の通 過点となって いたわけだが、この道は、 近世に ( 31 ) は 、津和野藩 主が参勤 交代 路として 往来したほか、 幕府 { 32 ) の巡見上使が津和野へ行く際も通るなど、 幹線道路と し. 頃である。 船頭はハマ ダ一 人だった。舟 の 安全性は今 一. だけが乗って 通過をした後 、 再び 乗って もらうようにし. て 位置 づけられて いた。周防国内の道筋は、石見境から ( 33 ) 宇佐郷 ・大原を経て 安芸境へと至るが 、この間には宿駅. ばれた所 では、乗客を 一端降ろして 川端を歩かせ、船頭 た。 岩国では錦帯橋 付近で上陸 したが、 到着時刻は午後 ( 29 ) 三時頃である。 岩国からは列車に乗り、 宮島・広 島でそ. - 84 -. 胡桃沢 前代内陸交通の凝集.

(7) 文学・ 芸術・文化 10巻1号(通巻第24号) 1998. 12. 34 ). は 設 置さ れ て い な い 。. 学 校 入 学 の 頃に は 戻 っ て い る 。 36 ). 子供 の 頃、石 州 へ の 道 は ホ シザ カミ チと呼ば れ て い た 。. 国境 の 峠 は エ ド ウ ノ タ オ と 言 っ た が 、石 州 側 の 峠 下 の 村. 名 が 星 坂 な の で あ る 。 江 戸 時 代 に は 津 和 野 の 殿様 が こ こ. 宇佐 郷. 宇佐 郷 は 、 石 見 境 の 峠 道 が 宇佐 川 沿 岸 ま で 下 っ た 所 に. 山. を 通 っ た と 聞 か さ れ て い る が 、子 供 の 頃も 通 行 者 は か な. こ こ は 急 坂 な の で 、一町 位の 間 は 石 畳 が 敷 か れ て い る 。. 位 置 し て い る 。 中世 に は 、 宇佐 を 中 心 に 宇佐 郷 ・大 原 を. そ こ か ら 先 は 土 の ま ま だ が 、幅 は 一 間 程 で 、人 と 馬 し か. て い た も の であ る 。 道 は 願 行 寺 の 横 か ら 上 っ て 行 く が 、. に よ れ ば 、宇佐. り 多 か っ た 。 地 域 住民 の み で な く 、外部 者 も 頻 繁 に 歩 い. 郷 は 、戸 数 ニ ニ. 通 る こ と は 出 来 な い 。 村 か ら エ ド ウ ノ タ オ ま で 、 元気 な. 合 わ せ て 一 村 と さ れ て い た が 、 殷 長検 地 の 際 三 ヶ 村 に 分. 三戸 、人 口 は 七. 坂 の 村 は 眼 下 に 見 下 ろ せ る 距 離 だ っ た 。 一 方 、大 原 へ 行. 人 な ら 三 十 分も あ れ ば 到 達 出 来 る 。 タ オ ま で 行 け ば 、星. 川 和 作 氏 ( 明治. た 。 直径 一尺 五 寸 程 の 丸太 を 二 本 組 み 合 わせ た フ タ ツ ギ. ら 下 り て 来 た 道 が 川 と交 差 す る 所 に は橋が 架 け ら れ て い. く に は 宇佐 川 を 渡 ら な け れ ば な ら な い 。 エ ドウ ノ タ オ か. を5 ). 二二人 であ る 。. 四 四 年生 ) か ら. ( 35 ). 宇佐 郷 中 の 宇佐. 話 を 聞 く こ とが. 丸太 を 何本 も 立 て て 中 に 小石 を 詰 め 、 周囲 を 割竹 で囲 ん. だ も の で 、増 水 し た 際 流 さ れ な い た め の 工夫 で あ る 。 橋. と 呼ば れ る も の で 、川 の 真 中 に は 橋 桁 を 立て る 。 橋桁 は 、. を 渡 っ た の は 人 間 だ け で 、馬 は 川 の 中 を 歩か せる 。 こ の. 氏 は こ こ で生 ま. れ 、ご く 幼 い 時. 時 馬 が 転 ん で荷物 が 台 無し に な っ た こ と も あ る 。 川 を 渡. 出 来 た 。 宇佐 川. で広瀬に 居 た こ. れば ま た す ぐ 山道 で、大 原を 目指し て 上 っ て 行 っ た 。. 父 の 仕事 の 都 合. と が あ る が 、小. - 85 -. け ら れ た と い う 。 寛延 二 年 ( 七 四 九 ) の 「地 下 上 申 」. 芸石往来(宇佐郷 ー 星坂間).

(8) 業 し て い た が 、一 時 は 料 理 屋 を 兼 ね て い た こ と も あ る 。. 商 人 、 村 の 学 校 の 教員 も 泊 ま っ て い た 。 か な り 後 ま で 営. で 、大 黒 屋 と い っ た が 、 旅人 の ほか 、仕 事 で 来 た 役 人 や. ん だ向 か い 側 であ る 。部 屋 数が三 つ く ら いの 小 さ な も の. 館) が あ っ た 。 場所 は 、 願 行 寺 の 横 の 法界 地 蔵 と 道 を 挟. 宇佐 川 氏 が子 供 の 頃、宇佐 郷 に は ま だ一 軒 だけ ヤ ド(旅. る よ う に な っ て 、 コ ニダ は 消 滅 を し た 。 コ ニダ に 出 る 時. 炭 の 出 荷 •生 活 用品 の 購 入 共に こ の 方 面 と の 間 で行 わ れ. し 、出 市 と 結ぶ 車 道 が 開 通 す る と 馬 車 が 通 う よ う に な り 、. た 。 佐 古 は 一日 二 往 復 く ら い し て い た よ う で あ る 。 し か. 品 を 積 ん で 来 て は 、ヨ シ モ ト ハ ッ タ ロ ウ の 店 へ 届 け て い. こ こ へ 運び 込 む 。 帰り は 問 屋 か ら 塩 や 味 噌 な ど の 生 活 用. 坂は 物 資 の 集 散 地 で、 コ ソド ウ と い う 問 屋 が あ り 、 炭 は. ( 39). 宇佐 郷 に は 石 州 の 者 と 姻 戚 関 係 を 結ぶ 者 も 居 る が 、こ れ. 作 業衣 、 下 体 に は 股 引 を 着 け 、 腰に は 紐 を 締 め る 。 頭 は. の 支度 は 農 作 業時 と大 同 小 異 で、 上 体 に は 法被 の よ う な. で 星 坂 と の 間 を 往 復 す る こ と が 行 わ れ 、 コ ニダ ・コ ニダ. 宇佐 川 氏 の 小 学 校 卒 業 前 後 頃 ま で 、 馬 の 背 に 荷 を 積 ん. よ っ て 使 い 分 け る 。 コ ニダ の よ う な 作 業 時 は 草 桂 だ が 、. で あ る 。履 物 は 、同 じ峠 を 越 え る 時 で も そ の 時 の 目 的 に. 麦 藁 帽 子の よ う な も の を 被 り 、 履 物 は 自 分 で 組 ん だ 草 桂. 40 ). で 、石 州 と の 繋が り は 近 年の こ と であ る 。. は む し ろ 向 峠 の ほ う が 多 い 。 宇佐 郷 は 昔 は 村 内 婚 が 大 半. ウ マ と 呼 ば れ て い た 。 コ ニダ ウ マ を 扱 う 者 を マ ゴ と 言 っ. 宇佐 郷 は 農 業 と 炭 焼 き を 生 業 と し て い た の で 、 往 路 は 炭. を 自 家 用 分 く ら い は し な が ら 、 こ の 仕事 を や っ て い た 。. あ る 。 佐 古 は 当 時 既 に か な り の 年 配 に見 え た が 、 農 作 業. が 多 い と炭 を 焼 き に 行 く こ とが 出 来な い の で、 少 な く な. さ ほ ど 降 ら な い が 、子 供 の 頃 は 二 、 三 尺 は 積 も っ た 。 雪. コ ニダ が 通 え な く な る の は 積 雪 季 で あ る 。 雪 は 近 年 は. 人 を訪 ね る 時 はすぐ に脱 げ る よう 草 履 を履 いた の で あ g る。. た が 、 宇佐川 氏 が 知 る 限 り では 、 佐 古 カ ク ジ た だ 一 人 で. 俵 を 付 け て 行 く 。 炭 俵 は 五 貫 俵 で 、 馬 の 背 に 載 せ た セグ. 腹 が 見え な く な っ た 。 馬 は 赤 茶 色 の 牡 で、 足に は 蹄 鉄 が. ス を 保 つ よ う に し な け れ ば な ら な い 。 六俵 付 け る と 馬 の. ラ の 両 側 に 三 俵 ず つ 、 計 六俵 を 付 け た が 、 う ま く パ ラ ソ. ユ キ フ ミ は 、 竹 を 楕 円形 に 曲 げ 、 カ ズ ラ を 渡 し た も の. と 草 桂だっ た が 、草 桂の 下 に ユ キフ ミ を 紐 で縛り 付 け る 。. も 徒 歩 な ら 峠 を 越 え る こ とは出 来た 。 冬 の 足支度 は 足袋. る ま で コ ニダ も 休 止 と な る わ け で あ る 。 た だ 、積 雪 下 で. 蕊). 打っ て あ る 。連 れ て 行 く の は 一頭 で、 引い て 行 っ た 。 星. - 86 -. 胡桃沢 前代内陸交通の凝集.

(9) に 吠を 置 き 、垂れ て 来 る 苦 汁 を 受 ける よ う に す る 。 苦 汁. 42 ). で 、深 い 雪 で も 足が め り 込 む こ と が 無 い 。 雪 中 歩 行 の 際. は 豆腐 を 作る 際 に使 った 。. 43 ). 46 ). 小学 校 二 、三 年 頃 ま で 、魚 屋 は 、星 坂 も し く は 宇 佐 方. は ‘腔 に コウ ラ と い う 草 で 編ん だ も の も 巻き 付 け る 。 コ ウ ラ は 水 を 通 さ な いの で 、雪 の 中 に 足 が 埋も れ て も 濡れ. 者 が あっ た 。 持っ て き た の は 主 に鰯 と 鯖 で 、一 軒 ず つ 廻. 魚は 籠 に 入 れ て 来 た が 、背 負 う 者 と 天秤 棒 で 担 う 者 の両. 面か ら 来て い た 。 た だ 、どこ の 者 か は分か ら な い 。 男 で 、. 炭 は 、雪 で 山 に 入 れ な い 時 を 除き 、年 間 を 通 じ焼い て. る こ と が 無か っ た 。 いた 。 炭 焼 き は 、必ず し も 地 元の 者が す る とは限 ら な い 。. に 吹き 出 る よ う な も の で ある 。こ の 魚屋 は時 々 来た か ら 、. り 歩 く 。 鰯 も 鯖 も 塩 の き つ い も の で 、焼 け ば 塩 が 油 と 共. 鰯 や 鯖 は 普段の お 副食 に 食べ て い た 。 な お 、煮 干は 星 坂. 他 所 か ら 来 た 商 人 が 一定 区 画の 木 を 買 い 取り 、ヤ キ コ と. も 行 わ れ た 。 山 か ら 村 ま で の 炭 の 運び 出 し は 、炭 焼き に. 面か ら 来 る よ う に なる の は 、車 道 が 開 通 し て か ら 後 の こ. か ら コ ニ ダ に 付 け ら れ て き て い る 。 魚 屋 が 宇 佐 川 下流 方. 呼ば れ る 者 達 を 使 っ て 、木 が 無 く な る ま で 焼か せ る こ と 従事 し た 者 が 自 ら の 背 で 行 う 。 こ れ を セ ナニ と 言 い 、道 g -. 具は オ イ コ が 使 わ れ た 。 オ イ コ は 、 耐久 力 が ある こ と か. 大 原 は 、「 地 下 上申 」 に よ れ ば 、戸 数 九 三戸 、人 口 三. ② 大. と で ある 。. で 、自 分 の 体 に 合 わ せ て 作る 。 炭 を 運 ぶ際 、強 い 者 な ら. ― 一 人 の 村 で ある 。 庄 屋 の 讃 井氏 は 、大 内 氏 の 一 族と 伝. こ れ が 一番 で 、か つ て は 大 抵 の 家 が 持っ て い た 。 自家 製. ら ホ ウ ノ キ が 素 材 と さ れ る こ と が 多 い 。 荷物 を 運 ぶに は. 二俵 、ある い は 三 俵 を 背 負 う こ と も あ っ た 。 炭 は 、村の. 原. 集 積 所 へ と 運び 込 ま れ る 。 炭 を 買 い つ け た の は 仲買 人 風. g -. えら れ 、近世 に は 津 和 野 藩 主の 参 勤交 代 の 際 の 宿所 を 務 { ふl. の 者 だっ た 。. け だ が 、話 を 聞 か せて く れ た の は大 原 上の 三 好光 人 氏 ( 大. め て い た 。 安 芸 境 の 峠 下の 要 衝 と 位 置 づ け ら れ て い た わ. 正 十 五年 生 ) で ある 。 三 好氏 は 、こ こ で生 ま れ 、 昭和 二. コ ニダ の 時 代 、塩 は 星 坂 か ら の 帰り 荷 と さ れ て い た わ. 大 抵 臥 一 俵 を そ の ま ま 買 っ て い た 。 一 俵 が ほぽ一 年 分 で. 十 年五 月に 入 営 す る ま で は 、他 所で暮 ら した こ と は 無い 。. け だ が 、こ れ は 臥 に 入 れ ら れ て 来 る 。 宇 佐 川氏 宅 で は 、 ある 。 塩 は 溶け る の で 、桶 の 上に 木 を 二 本 渡 し て そ の 上. - 87 -. 1998. 12 文学 ・ 芸術 ・ 文化 10巻 l号(通巻第24号).

(10) た こ と が あ る 。 旧 道 は 距 離 が 短 いた め 、 歩 く 際 は こ ちら. て いた が 、 旧 道 も な お 利 用さ れ て お り 、 三 好氏 自 身 歩 い. 三 好氏 が 子供 の 頃 、 宇 佐 郷 と の 間 に は 既 に 車 道 が 通 じ. 星 坂 •田野 原 方 面 へ も 足 を 延 ば し た こ と が あ る が 、そ れ. 積 雪季 は 車 道 を 行 っ て いた 。 三 好氏 は 、 宇 佐 郷 か ら 更に. 利用 は 原 則と し て 無雪季 で、三 好氏 も 、高等 小 学 校 時 代、. れ る 峠 を 越 え 、 大 原 下 へ と 出 て 来 る 。マ ツガ タオ を 一 寸. こ れ は 願 行 寺 の 所 か ら 上 っ て く る が 、マ ツガ タオ と 呼 ば. れ る も の で 、 旧 道 の な か で は 最 も 歩 き や す い道 で あ る 。. 津 和 野 藩 主が 通 り 、 本 通 り と さ れ た 、 マ ツガ タ オ と 呼ば. た こ と が あ る 。 三 好氏 は 、 安 芸 で は な く 本 郷 だ が 、 酒 を. 物 に 行 っ て いた 。 四 オ年 上 の 姉 は 、 広 島 ま て歩 いて 行 っ. 買 い物 を し て き た と いう 。 父 も 、祭 の 時 は 津 田ま で 買 い. ら 負 う て 栗 栖 •津 田 (佐 伯町 ) ま で 売 り に 行 き 、 帰り は. 問あ れ ば 十 分 で あ る 。 祖 父 は 、 日帰 り で 、 挽 いた 板 を 自. を 持 っ て いる 。 こ こ か ら 峠 ま で 、 ゆっ く り 歩 いて も 二 時. 生 山峠 か ら 安 芸 方 面へ の 道 も 、 三 好氏 自 身 歩 いた 経 験. は 酒 や 味 酪を 買 い つけ る た め であ る 。. り 、宇佐 郷 の ど こ へ 行 く か に よ っ て 選択を し た 。第 一 は 、. を 行 く 方 が 早 いか ら で あ る 。 旧 道 に は 、 道 筋 が 数 通 り あ. 宇 佐 郷 側へ 下 り た 所 に は ミ チ マ ツが 十 本 程 あ っ て 、津 和. 森). 野 道 の 並 木 と 言わ れ て いた 。 こ れ は 赤 松 で 、 松 茸 が 出て. 坂の ミ ョウ ケン サ ン の 祭 だ が 、 子供 の 頃は こ の 時 安芸 の. ま で な ら 行 っ た こ と も あ る 。 ま た 、 新 暦 四 月十 八 日は 星. 買 いに 行 く 際 、や は り 峠 を 越 えて いた し 、 中 道 ( 佐 伯町 ). 焼 いた 所 と 聞 か さ れ て いる が 、 実 際 子供 の 頃 は 建 物 の 跡. く る 。 ま た 、付 近 一 帯 は ッチ ト リパ と 呼 ば れ 、 昔 は 瓦を が 残 さ れ て いた 。 第 二 は 、シ ゴ トウ と 呼ば れ る 脇 道 で あ が あ り 、地 蔵 が 立 っ て いる が 、 こ こ で 本 通 り と 分 か れ 、. る 。 大 原 下 の 三 浦 商 店 の 近 く にシ ゴ トウワ カ レと いう 所. こ か ら 星 坂 ま で は 一 時 間半 だ が 、 こ の 時 は 芸 防石 三国 の. の 者 も 「支 度 を し て 出 掛け よ う 」 と いう こ と に な る 。 こ. 者 が 峠 を 越 え て 参詣 に や っ て 来 た 。 そ れ を 見 る と 、 こ こ. 65 ). 宇佐 郷 上 へ と 通 じて いた 。 宇佐 川 を マ ツガ フチ の 橋 で 渡. いた が 、 最も 頻 繁 に 来 た の は 衣 類を 売 る 者 で あ る 。 こ の. 者 が 集 ま る こ と と な っ た 。 安芸 方 面 か ら は 行 商 人も 来 て. 通 っ て 行 く も の で 、 宇 佐 郷 下 に 近 い所 に 通 じて いる 。た. る 。 す る と 、「 ポロ で は な い、 新し いぞ。」と 言 い返し て. 人が 来 る と 、 子供 達 が 「ボ ロ ヤ が 来 た ぞ 」 と は や し た て. ( so -. で 、 足 の 弱 い者 は 歩 け な い。 第 三 は 、後 野 か ら 道 立 野 を. り 、 願 行 寺 で 再 び 本 通 り と 合 っ す る 。 シ ゴ トウ は 坂 が 急. だ 、 こ の 道 は 遠 回り と な る 。 道 の 新 旧 併 用 時 代 、 旧 道 の. - 88 -. 胡桃沢 前代内陸交 通の凝集.

(11) 休 む 所 は オ タ ビシ ョと 呼ば れ て い た 。 大 原 上に は 関 所 が. 津 和 野 藩 主 は 大 原 に 宿 泊 を し て い た わ け だが 、 殿 様 の. 朝 は 早 く 出 て 行 く が 、 そ れ でも 帰 り は 夜に な る 。 暗 く な. め 、 引 く よ り 追 う 方が 多 い 。 原 則と し て 日帰り な の で、. 方 が 多 か っ た 。 連 れて 行く馬 は 一 頭 だが 、 坂道 が 多 い た. で来 た が 、当 時 は こ れ ら の 物 資は 安 芸か ら も た ら さ れ る. 使 っ た の であ る 。 帰り は ア ゲニ と 言 っ て 生 活 用 品 を 運 ん. 設 けら れ て い た が 、 こ れ を 抜ける 裏 道 が あ っ た と 伝 え ら. れ ば タ イマ ツ を 灯し た が 、 こ れ は 予め 中 道 の 村に 用 意 を. きた。. あ っ た が 、 大 原 に は 宿 は 無 い 。 行 商 人や 遍 路 な どは 顔 見. の 頃 は どこ の 家 に も あ っ た も の であ る。 ま た 、タ ケ ダ イ. し て お い た 。 コエ マ ツ で、 長 さ は 一 尺 く ら い だ が 、 子 供. れ て い る 。 三 好 氏 が 子 供 の 頃は 、 ま だか な り の 通 行 者 が. を 依頼 し て き た こ と が あ る が 、 定 期 的 に 来 て い た の は 浪. 知 り の 民 家 に 泊 ま っ て い た 。 三 好氏 宅 に も 、 旅 人 が 宿泊. っ て い た 。 タ イマ ツ を 灯し な が ら 行 けば 、 馬 は 後 か ら っ. マ ツ と 言 っ て 、 竹 を竹 刀の よ う に 割り 、 束ね た も の も 使. 三 好氏 が 小 学 校 入 学 前 後 頃 ま で、 馬 背 に 荷を 積 ん で栗. い て 来 る 。 ウマ オ イ が 、 生 山 峠 を 越 え 、 こ ち ら 側 へ下っ. 曲 師 である 。 栖 ·津 田と の 間 を 行 き 来 す る 者 が お り 、ウマ オ イ と 呼ば. て 来 る と 、 タ イマ ツ の 光 が 村か ら 見 え た も の であ る 。 昔. と は な か っ た が 、も し も タイマ ツ が 無 い 時 に 日没と な っ. は 造 林 をし て い な か っ た の で、 山 中 でも 真っ 暗 と い う こ. ( 51 ). れ て い た 。 ウマ オ イ は 大 原 の 各 小 村 に 一 人 く ら い ず つ 居 た が 、 三 好氏 の 母方 の 叔 父 も そ の 一 人 であ る 。 ウマ オ イ. 闇 でも 目が 見 え る う え 、 道 も 良 く 知 っ て い た の で、 迷う. た 際 は 、馬 の 尾に つ か ま っ て 歩 い て 来 れ ば 良 い 。 馬 は 暗. は 、 こ れ に 専 従し て お り 、 一 般的 に は 農 作 業 用 に 牛を 飼. た 。 馬 の 足に は 蹄 鉄 が 打っ て あ る 。 大 原 か ら 運び 出 し た. こ と は な い か ら である 。 前 方 に 危険 な 箇所 が あ れ ば 、 必. う と こ ろ を 、 わ ざわ ざ馬 を 飼っ て こ の 仕事 に 従事 し て い の は 板 材 で、 幅は 様 々だ が 、 長さ は 一 間 に 揃え て あ る 。. よ う に な る と 、 ウマ オ イ が 安 芸 へ 行 く こ と も 無 く な る 。. ず 立 ち 止 ま っ た 。 宇佐 川沿 い に 車 道 が 通 じ、 馬 車 が 通 う. 大 原 の 日用 生 活 品 は 宇 佐 郷 か ら 上 っ て 来 る よ う に な っ. けて 行っ た 。 更に 、ウマ オ イ 自 身も 板 材を 背 負 っ て 行く 。 こ の 際 は 、 椋 欄と ポロ 布 で編ん だ ニ オ でく く り 付 けた 。. た。. 積 め る 量は 馬 に よ っ て 違 う が 、 背 に 鞍 を 載 せ 、 両脇 に 付. カ ル コを 使 う と 、 帰り に そ れ が荷 物 にな る の で、ニ オを. - 89 -. 1998 . 1 2 1 0巻 1 号 (通巻第24号) 文学 ・ 芸術 ・ 文化.

(12) 前代内陸交 通の凝集 胡桃沢. 密な 描写とは 言え ないこ とにな るか ら である。これに 気. 萩街道 と岩 国から北上す る道の 交差点 」は 、必ずしも 厳. づいた 者 として は 、よ り実態に 近い表現を新た に 示す の. 魚も宇佐郷方 面から来 て いる。た だ 、小 学生の頃は 魚 るよ うにな ったのも第 二次 大戦後の こ とで 、それ 以前は. 必要 があ り、こ こ で決定案 を 提示す るこ とは 出来 ない。. が道 理だ が 、反対側の広 瀬から来 る道 に ついて も検討の. を食 べるこ とはな く、浜 田 ・益田な ど 石州の 行商人 が入. 出稼ぎに 行 って おり 、暮には鰯を買 って 帰 って来たから、. 作 業仮説を 挙 げ るの みに 留 ま るが 、その第 一は 、「交差. こちらから買 い出しに 行 って いる。 三好氏の 父は 石州へ. 正月には それを食 べて いた。祭の時など は 宇佐郷へ買い. 中を通 って直接 五味に 出たのは十 分 可能性の有 るこ と、. 国道 四三四号線からは 外れ 、広 瀬から東進す る旧道 が山. 持ち合 わせて いない。そ れでも 、現在の 錦川 沿いに 走る. 来 るこ とが前 提条件 とな るが 、これを裏付けるデ ータ は. 「 交差点 」 とするには 、広 瀬からの道も直接 五味へ 出て. 点 」は 五味に あ った のでは な いか 、というもの である。. 鯨の油を料理に 使うこともあ った 。. 物に行き 、背負 って来 る。鰺や鯖の塩物が大半だ った が、. II考 察. rr. と思われ る。こう言う根拠は 、か つては広 瀬ま で乗 り入. Iでは街道の要所 ご とに伝 承の 成文化を 行 った が、. では その過程 で気付いた 問題点 を 拾いだ し 、私見を 述 べ. れて いた川舟 が 、危険を 理由に結 局出合 を発着 場 とす る ( IO ). { 52 ). て みることとしたい。. ようにな った との 歴史的事 実に 示され るとおり 、錦川の. き は 、府谷の 尾崎氏が 「上 って来 る 旧道 の 取り つきは 出. 蒐集して みた わけだ が 、道筋に関わ る話で注 目をす るべ. 山代地方の 主要 三街道のうち 二 つに ついて 関連伝 承を. ある。 加う るに 、この枠 組 みは 、古い道は 川を避けて 高. あ っても 、山中 を 行く方 が安全確率は は るかに 高いの で. め たこ とが予想 される。 それならば 、た とえ 傾斜は 急で. 開かれて いた として も 、悪 天候の 際など 通 行に 困難を 極. 岸は 、特に 北岸に おいて 崖 が径えた って おり 、仮に 道が. 広 瀬 ー 出合 間の地 形 条 件 が極め て 悪 いこ とに あ る。 沿. 合 からやや北の 五味」 と語 って いるこ とだろう。 という. 研究上の位置 づけ. の も 、この事 実を踏ま え るな らば 、先 行研究の 「出合 が. - 90 -.

(13) 所を通 ると の セオ リーに も ピタ リと合 致す る。 一定の合. かかわらず 、仮に第 一案なら 「 交差点」を外れて いた出. たに 確認をされたわけだが 、次 に 問題と なるのは 、に も. 53 ). 理性を持つものと す ることに 、そ う 無理は 無いだろう。. と いう事 実である。 これを 考え る指標となす べきは ‘錦. 合 が 、やは り 五味よ りは 交通 の要衝 として 栄えて いた 、. 合 ー 五味間 に おいて 萩街 道 と 岩国からの 道 が 重 な って. 紙の移出港と して 、天明元年 (-七八 一 ) 以降 岩国を 利. う。たとえば 、海に 恵ま れない津和野藩 が 、主要産 品の. 川 舟運がカ パーして いた エリアの広 さ 、と いうこと だろ. 品}. 能性の 一っと して 浮上をして くるのである。第 二 は 、出. すな わ ち、「交差点」 は 五味に あ った と いうこと が 、可. いた のでは なかろうか 、と いうものだ。 『 錦町 史』に よ. るところだが、川をここで渡ることが出来ると いうのは 、. て いる。広 瀬からの道 が 、途中どこを通 った かが 気に な. の輸送力をア テ. った史実は 、そ. 用するようにな. { 団). れば 、出 合 の 東西両岸は 既に 近世から渡 河が 可能とされ. 通 行者に と って は大き い。もしもこれが 決定打と さ れる. に流域周辺に と. に す る範囲が 単. どまらない広範. - 91 -. お) (. りここで出合 うこと に なる。か か る話の流れは 、萩街道. な ら 、萩街 道の西からの道は 、岩国からの道と 、文字通 が東 へ向か うポイ ソトの 五味ま での間、僅か の 距離なが. して 挙げること. なもので あっ. が出来る。後背. た 、端的 な例と. る ほかは ない。た だ 、街道のポイ ントと いう視点から見. らがよ り実態に 近いのかの究明は 、更に 資料を集め てみ. 地 が広ければ広. るのである。今言え るのは ここま でで 、 二案のうちど ち. る限り 、第 二案で あって もある程 度 、第 一案であれば な. 比例して接 点と. い ほど 、それに. らも 二つの道が重複して 北上す るの を 意味す ることとな. おさら 、五味に は 位置 づけが あるとの事 実には 、現時点. して の舟着場の. 窃}. に おいて も 注目をして おかなければならないだろう。 道筋を考え るうえ では 五味もポ イ ソトと なること が新. 出合. 1998. 12 1 0巻 l 号 ( 通巻第24号) 文学 ・ 芸術・ 文化.

(14) 61 ). ひとき わ 大 き な 意 味 を 持っ て い た 、 と い う こ と を 示し て. 合 と 五味 の 比 較か ら 読み 取 れ る の は 、 街 道 の ポイ ント で. 強 く認 識し な け れ ば な ら な い 。 要 衝 と 化し て ゆ くの は 、 品) 言 わ ば 必然であ っ た と 見 な さ れ る の であ る 。 そ し て 、 出. 存 度 の 高 低 、 更に は そ れ に 基 づ く補 完 的 存 在 と し て の 陸. が 、 今 垣間 見 た 川 によ る 利 用範囲 の 広 狭 11 地 域ごと の 依. 義 な 議 論 が な さ れ て い る の は 承知 を し て い る つ も り だ. い る の で は な い だろ う か 。 交 通 史専 攻者 の 「 常 識 」 は 前. あ る よ り 川 の ポイ ソ ト で あ る 方 が 、 よ り 発 展の 要 因と し. 必 ずし も 十分 検 討 が な さ れ て い る と は 思え な い 。 そ の 欠. 運の あ り 方の バ リエ イ シ ョン、とい っ た 事 柄に つい て は 、. 重要 度 が 増し て ゆ くの は 、 河 川 水運 史 研 究 の セオ リーで 毯 { ある 。出 合は 、 正にそ の 接点とし て 選ば れ て い た こ とを 、. て 強 く作 用し て い る 、 と い う こ と だ 。 こ れ は 、 と り も な. 義 は 誠 に 大 き な も の が あ る と い う こ と を 、 認 識し て か か. を 多 少 な り と も 補う 意 味 で 、 錦 川 の 流 域一 帯 か ら 学ぶ 意. 述の と お り であ っ て 、 水 運の 重要 性 に つ き 数 多 くの 有 意. お さ ず、 こ の 地 方 一帯 に お い て 、 前 近 代 的交 通 体 系下 、 陸 運 よ り は 水運 の 持つ 意 味 が 大 き か っ た の を 示し て い る. 幡 の 千代 川 舟 運 と 比 べ て みる な ら ば 、 こ ちら も 確 か に か. れ る の で あ る 。 試み に 、 同 じ 中 国地 方 の 事 例と し て 、 因. の 大 き さ が 並 の も の を 超 え て い た の だ は な い か 、 と 思わ. し て の 陸運 の あ り 方 」 が 課 題 と な る わ け だ が 、 そ れ に 際. 輸 送 体 系 を 持 つ 地 域に お い て は 、 「水 運 の 補 完 的 存 在 と. 元来 陸 上交 通 の 研究を 手が け る 筆 者 に と っ て 、 か か る. 2 馬 背 輸送. り た い と 思う の であ る 。. と 言 え る だ ろ う。 交 通 史 専 攻 者 に と っ て 、 水 運 利 用 が 可 能な と こ ろ での 「 水運 >陸運」 は 言 わ ば 「常 識」 であ り 、. な り 広い 後 背 地 を カ バ ーし て い た と 言 う こ と は 出 来 る 。. と に な る だ ろ う 。 調 査 を 試 みた 四 箇所 の う ち 、 出 合以 外. し 注 目 す べ き は 、 何と 言 っ て も 馬 背 輸 送 の 伝 承 と い う こ. 別 に 目 新 し い と い う ほど の も の で は な い が 、 こ こ は 、 そ. 11 国 境 の 向 こ う 側 ( 美 作) の 、 そ れ も 領 主. [ 60 ). が 関 わ る 大 規模な 輸 送 の 一 翼 を 担 っ て い た と の 話 は 、 筆. の 三 箇 所 で 全 て こ れ が 確 認さ れ た こ と は 、 か つ て 濃 密 に. た だ 、 分 水嶺. 者 の 知る 限 り で は 確 認を さ れ て い な い 。 こ の 相違 は 、 す. 分布し て い た の を 予感 さ せ る に 十分 だ と 言っ て 良 い 。. ま ず目 を 引か れ た の は 、宇佐 郷 の 宇佐 川 氏 が 呼 称を 「コ. な わ ち、 少 な く と も 中 国 地 方 東部 の 河口 が 北 向 き の 千代 川 よ り は 、 西 部 に あ っ て 河口 が 南 向 き の 錦 川 が 、 水 運 に. - 92 -. 胡桃沢 前代内陸交通の凝集.

(15) が 勝 る 、と し て い る 。 歴史 用 語 と し て の 「小 荷 駄 」 の 読. 書 』 は 、「 こ ん だ 」 と も 読ん だ が 実 際 の 用 例は 「こ に だ 」. よ れ ば 、読 み は 「 こ に だ 」 であ る 。 ま た 、 『邦 訳 日葡 辞. 記憶 が あ る か ら だ 。 「小 荷 駄 」 は 、 『日本 国語 大 辞 典』 に. のも 、 「 小 荷 駄 」 と い う 表 記 を 、戦 国時 代 の 文 献 で見 た. ニ ダ ・コニ ダ ウマ 」 と 語っ て く れ た こ と であ る 。 と い う. く の 人 馬 が 駆り 出 さ れ た こ と は 、各地 の 事 例を 基に し た. た 。 参 勤交 代 の 通行 に 際し 、沿 道 の 宿駅を 中 心 に 、数 多. と お り 、芸 石往 来 は 津 和 野 藩 主の 参 勤交 代 路 と さ れ て い. ら ば 、見 て お くべ き は 第 二 だ ろ う 。 註 ( 31)に 示さ れ る. う だ が 、宇佐 郷 が 街 道 の 要 衝 であ っ た こ と を 踏 ま え る な. 広ま る ケ ース であ る 。 コ ニダ は ど ち ら であ っ て も 良い よ. 家 と 何ら か の形 で接 触 を し た 民 が 、武 士か ら 聞 き 覚 え て. を し 、そ の 結 果在地 に 広 ま っ た 場 合 であ る 。第 二は 、武. -62). であ る 。 宇 佐 川 氏 が 伝 え る 「 コニ ダ 」 を 、 「小 荷 駄 」 を. み 方 は 、今 回聞 き え た 伝 承と ピ タ リと 符合 を し て い る の. 豊 富 な 研 究 が 明ら か に す る と こ ろ であ る 。 芸 石 往 来 も 事. 65 ). 情 は 同じ で 、大 原の 馬 が 津 田ま で行か さ れ て い た 。た だ 、. g -. 良 い だ ろ う 。 『国史 大 辞 典 』 に よ れ ば 、小 荷 駄 は 「室町. 念頭 に 置 き つ つ 眺め て み る こ と は 許さ れ る 、と 判 じて も. う こ と に な る 。「 助 郷 」 を 念 頭 に 置 く な ら 、農 馬 の 徴 発. 註( 34)の と お り 、こ の 道 の 周防 国 内 に は 宿駅が 無 い 。. も 考 え ら れ な い では な い が 、大 原 の 三 好氏 が 「農 作 業 用. •戦 国 時 代 、合 戦 に 際 し 、行 軍 ・戦 闘に 必要 な 物 資 の 輸 発 生 し た こ と が 伺 わ れ る が 、『日本 国語 大 辞 典 』 に よ れ. は 牛 で 、ウマ オ イ は わ ざわ ざ馬 を 飼っ て 行 っ た 」 と 語 る. と な れ ば 、目を つけら れ る の は 民 間 の 輸送 用 の馬 、と い. ば 近 世に は一 般的 な 物 資 輸送 に も 充 て ら れ る よ う に な っ. の に も 示さ れ る と お り 、西 日本 では 農 耕 用に は 牛 が 使 役. 送 を 担当し た も の 」 であ る 。 中 世に 軍事 的 な 言 葉と し て. て 伝え ら れ 、今 回の よ う な 形 で見 出 さ れ る の は 有 り う る. て い る 。 こ の 経 緯 を 見 る 限 り 、小 荷 駄が 民 間 で伝 承と し. さ れ る の が 一 般 的 であ る 。 馬 は 輸送 専 用 で、こ れ が 狙わ. 武 家 の 言 葉 を 耳に す る 機 会 を 持 つ こ と と な る 。 コ ニ ダ の. れ た と す る の が 順当 だ ろ う 。 必 然的 に 、馬 を 扱 う 者 は ‘. 伝 承 は 、正に こ の 接触 を 源と し て 発生 し た も の 、と 見 て. 来 は 武家 の 用 語 であ っ た こ と だ。か か る 類の言 葉 の 場合 、 民 間 で使 用 さ れ る よ う に な る に は 、少 な く と も 次 の 二種. 良 い の では な い だ ろ う か 。 小 荷 駄 は 物 資 補給 の た め の も. こ と だ と 言 っ て 良い 。 た だ 、気 に な る の は 、小 荷 駄 が 元. え ば 大 原 の 讃 井氏 の よ う に 、中 世 武 家 であ っ た 者 が 帰農. の 経 緯 が 想 定を さ れ る の では な か ろ う か 。第 一 は 、た と. - 93 -. 1998. 12 10巻 1 号 (通巻第24 号) 文学・ 芸術 ・ 文化.

(16) 前代内陸交通の凝集 胡桃沢. 感 じ取り 、呼 称として 使うよ うに な ったとするならば、. 果たしていた。馬 背 輸送に 従う者が 、 この点に 共通性を. ので あ ったが、 コニダは 帰路には生活用品調達 の役割を. れ ば、 コニダは 「 税そ のも の」 と 「産品」 という全 く性. 場 等まで運ぶ のを 業務としていたと考 えられる。換言す. 漉き あげ る 紙であ って、馬 は これ と交 易用 の産品を舟着. の 「 産品」 で あ った。一 方、山代地 方 の税は 住民が 自 ら. わけだが、馬背に積ん で 行 く時は 等し く交 換さ れ る 以前. 格が 異なる も のを 並行 して運んでいた ことになる ので あ. ( 67 ). 語が民間伝 承に転化 した一事 例と位 置 づけられる わけだ. そ こには一 定 の合理 性を見て取る ことが出来る。 軍事用 が、 そ のためには、 前提として 「 負 担」 が 課さ れ た 歴史. 椎葉同様農業に 多 くを 依存しえな か ったか らだと言 って. る。活 動形態は やや複雑と 規定さ れる わけだ が、要 因は. は、山代地 方が農業を 主産業とはなしえない 土地 柄 で あ. 良い。そもそも、 紙 II 拷が 収奪 の対象 とされたと の史実. 呼 称に歴史用 語と符合するも のが あり 、 前近代 か ら の. がある のを忘れてはな らな い のである。. ここの馬 背 輸送は 何を 目的に行 われていた のだ ろうか、. る のを、 何よ り 雄弁に物 語 っている。かかると ころでは. 存在が 濃厚とされる わけだが、次に考えてみるべきは、 とい う ことだ。 既述 のとおり、 西日 本 においては畜力輸. 交 換行為が 必須とならざるを得ず、そ の担い 手が 税 の輸. った。 納税および交換経済と 把握しうる ので ある 。今 回. める銀 の獲得、 並びに生 活用品 入手 のた め の交 易」で あ. が実状だ が、 椎葉 の事 例を 見る 限りでは 「 年貢と して 納. う。宇 佐郷 ・大原で 聞き えた就 業形態は 「これが仕事」. これ を こな すに は 専 従 者 の存 在も 予 想を して 良 い だ ろ. る。当然、馬 背輸送担当者 の役割は大きか ったと思われ 、. 送も担当 する と の枠組 み の形成は、言 わば 必然な ので あ. 66). 送機 関 の研究自体が少ないため、見通 しが 立てに くい の. 山代地 方で聞き得たと ころでも、往 路は 炭や板材 な ど産. 活 動形態 の相違点を 認識したと ころで、 西日本 の畜力. のかもしれない のである 。. 輸送機 関 の事 例として、 椎葉と山代 の共通項は 税と交 易. で あ ったが、 彼らはあるいはそ の延長 線上に居た も のな. と山代では異なるため、両 者 の輸 送 の具体相に は 相違が. が存在 の 「 前 提」 で ある のを 再度 想起してみる こととし. 品 の運び出しを主としている ことから、基本的には これ. あ ったと見る べきだろう。椎葉 の場 合、積荷 のある も の. と 同じで あ った と 思われる。ただ、近世 の税体系が 椎葉. は 納税用 の銀に代わり 、 ある も のは生活用品に替 わ った. - 94 -.

(17) 3 人力運搬と魚行商. 背輸送に は 、 交通 史 研究上注 目す べき 要素が内包されて. よう 。と いうのも、この点に おいて 、中馬に代 表さ れる. と 思われ るからである。今更言うま でも無いが、後者は、. う 人力 運 搬について も、やは り検 討すべき 問題が 見出さ. いるのが 明らかと なった わけだが、陸 上輸送の 一方 を担. 水 運の補完的 存在とは 言え、ここの畜力 輸送機関 II 馬. 近世の公的 交通 制度そのものを揺るがし、 農民的 商品流. 中部 ・東日 本の事 例とは 明ら かに 異なりを見せて いる、. 通 の 担い手であ るのを最大の特徴と して いた 。そもそも 反す るも の であるの だ から 、そ の 担い手は 反体制的 要素. 主 力 であったと見なされ ることだろう。 繰り返し指摘 を. この地域の 人力運 搬に ついて 重要なのは 、背負運 搬が. れて いる。. を内に 秘めた 存在だと いうこと になるだろう。 一方、椎. でも、肩担い運 搬 II天秤棒の使用が 、広 く行われて いる。. してきた と おり、 西日 本では、長 距離 •坂道を 行く場合. 商品流通 と いう現象自体が 、幕藩 体制の 基本理念には 相. 葉や山代 の活動は 、文字通 り収奪に 呼応す る形で行われ. ところが、今 回 天秤棒の 使用が 確認されたのは 、出 合 で. て いた。その中に かかる芽が あったとは考え に くいの で. ある。ここを踏ま えるならば、 両者間には 「 違 いが有る」. この事 実をどの ように 受けと めるかが 課題と なるが 、背. 「 荷物を舟へ積み 込む際 」の僅か一 例のみ な のである。. は、農業生産 力 が 低く、水運の 恩恵の 届かないと ころで. 負運 搬の 存在自体は、 西日 本に おいて もこれが 初見と い. と 見るのが 自 然では な かろ う か。 そ して、畜力 輸送機関 発達す るとの 理論は 全国区であ ると して も、 全部が全部. 本海から離れた 阿波木頭 でも 存在が 確認された。そ の 理. 搬と 混在す る形で背負運 搬も見出さ れて いる。ま た、日. 由は 「急 坂もしくは 積雪」に 求められて いるが 、 木頭 で. うわけでは ない。日 本海側の若狭 ・因幡 では 、 肩担い運. 関 の 研究を日本全体と いう レペルで検 討 しようと す る際. は 二つの要素が 共に 挙げられて いる。 雪の 積も った 急坂. 「 進歩的」であったかについて は なお検 討の余地 がある、. には、重要 項 目の ―つ に な ると 目さ れ るが、 問題が 非常. と して おくべき では ないだろうか。 これは 、畜力 輸送機. に大き いことから、取り敢え ずは 入 口を 覗くに 留め、 本. を行く際、滑落などの危険 から身の安全を確保す るには、. 両手を空けて おかなければならな い。物資運搬に あた り、. 格的な考察の 場は 改めて 設定したいと考えて いる。. - 95 -. 1 998. 12 1 0巻 1 号 (通巻第24 号 ) 文学 ・ 芸術 ・ 文化.

(18) の上で見るなら. た。 かかる流れ. が 最も適して い. には 、背負運搬. これに対応す る. な かろ う か 、と いうこと を ―つ の 予想と して 提示 して お. は 後者の母 入が さ ほど 積極的 になさ れな かった から では. もの であること から 、何ら かの 理由により 、この地 域 で. 背負運搬がより古態 で、天秤棒の 使用は後 から 加 わった. 況を もた ら した 経緯が 問われ ると ころだが 、歴史的には. な いの である。交通 史研究のうえ からは 、このような状. の千代 川流域のそれのよ うに主力と さ れて いるわけ では. ( 69 ). ば、 山代地方は 、. これが 、単に地 元の者のみ に止ま ら ず 、外来 の魚行商に. 背負運搬優勢の事 態のなかで併せて 注 目さ れるの は 、. 70) (. 山地 のうえ積雪. ら 、背負運搬の. こう。. 存在は 理に 適っ. おいて も同 じ であった こと である。魚行商は 、浜 田・益. 地 帯 であ るか. たものと 言うこ. 瀕戸内 側であ る にもかか わら ず、日 本海側の 商圏とされ. 田等から来て おり 、山代 地 方 が 、分水 嶺を 目安と した 際 ある。 ただ、既. 天秤 棒 で担って 来たのは 宇佐郷 で 一例を聞き 得たに過ぎ. て いた のが 確認をさ れ る。荷物は ほとんど が背負い で 、. とが出来 るので 知のところは何. け ら れるの である。そのため か、背負運搬具 もレンジ ャ. 本であり なが ら、天秤棒の 使用率が 低いところと位置 づ. むしろ 背負運搬が 優勢と 見な さ れる。 逆説的 に は 、西日. いた と 思われ る 。」と 述べて いる。 こ れは 、歴史的 変遷. らのものとは思え ず、よ り 以前は 背 負運搬具を使 用して. て 天秤棒を 用いて いるが 、この形態は さ ほど 古い時 代 か. 言 及 して おり 、「 中 国山地 へ の 魚の 行商は 、運搬具と し. ない。石見の 魚商の 運搬法に ついては 既に 神崎宜武氏が. 68) {. ク型が 優先的 に 用いら れて いる。 無 論 、大原で聞 かれた. を前 提と した 見解と 受け 止め られ るだろう。た だ 、神崎. 6“ ). ニオのようなカ ル コと レンジ ャクの中 間型と 思しき もの. n(. れ も肩担い運搬と併存す る形であ ったのに 対 し、ここは. オ イ コ (高根支所所蔵). も使 われて はい るが 、 この 類が 、たとえば中国地 方東部. - 96 -. 胡桃沢 前代内陸交通の凝集.

(19) 氏は 、 「石見漁 民の商 圏 」と いう特定地 域 にお いて 、民. 右して いる 事実に 目を向け なけ ればならな い。従来 「 負. 合 いで、特に今回は年 貢の軽重が 民間伝 承の在り方を左. 担」 と 民俗の 関わりは ほとん ど省みられることが 無 く、. 6 2). 俗学 的変遷描 写法であ る 重 出立証法を 駆使 して 、このよ うに言 って いる わけ ではな い。 神崎説が 成り 立 っために. よ って 、分析の方向づ け も ママならな い段階なのだが、. 木 村礎 氏の指摘のとおり、研 究上 の欠落と な って いた。. か。だとすると、前述の地 元と 歩調を 揃 えるように、天. れ る べ き デ ータ と して位 置づ け ら れ る も のな のだ ろう. 日 くら いし か食べて いな いと いう のに 対し、宇 佐郷の宇. と いうことが見て取れる。府 谷 ・大 原は文字 通り ハレの. 目前 の 事 例の場 合、厳し いなりに 内容は 一律では な い、. 合). いのだ が、今 回の調査 結果は、ある いはそ こに 嵌め込ま. は、 前代的な 形態が 事 例と して 検出されなけ ればならな. 秤 棒の導入が 積極的にはなされなか った 、と いうことに. わら ず 、 子供の頃魚行商 が時々 村に来たのを記憶して い. 佐川 氏は今 回話を聞 いたな かでは最年長 であるにも かか. と ころで、運 搬形態に ついては 一 応聞 く ことが 出来 た. なるのである。. ると、偏差を 見 せて いるのである。これは、宇 佐郷 が、. る 千代川流域 と 比べた場 合、殊更 目立 つ事態である 。両. 見られることが有るのは、既に学 界も周知のところであ. た め かも しれな い。近 接する 民俗の母体の伝 承に 差異が. と から、萩藩的要 素が薄められやす い傾向を有して いた. 2). ものの、この地 域の魚行商 に 関わる伝承は決して 豊かと. 比較 的魚が 豊富であ った津和野 藩 領に至 近の所に 在る こ. 所共、 同じ一 九九五年 に訪れて いるので、 いくら 当節の. る。その要 因の 究明は 重要 であり、様々 な 方法が 試 みら. 名. 言 える 状況には無 い。これは、 立地 条件が 比較的似て い. られな い。その要 因と して 説得力 が有るのは、やはり府. 採訪は 一刻を 争うと い って も、時間差と いうことは考 え. る ことは、今 見たとおり一定の有 効性を 持 つと断じて良. れるべきだが、 か つて の支配者の違 いを 目安 の一 っとす. い。遠 い過去の出来 事が 現代に まで影響を及 ぽして いる. 原敗戦 の ツケだ ろう。 重税のため、 万事に 倹約が 旨とさ. 例は 従来 も 指摘されて きたが、それ は 民俗と いうご く身. 谷の尾崎氏が 語 って くれた、近 世の 領主 II 毛利氏の関 ヶ れ、奢 って魚を食 べ る機会は限られ、勢 い魚行商 が来る. 近な 側面に と って も 決して無縁では な いのを、今 回の経. ( 76). 上げられ る のは 既に 何度 か指摘した 政治と 民俗の 関わり. ことも 少な くな った 結果だ と判ぜられ る 。こ こ から 汲み. - 97 -. 1 998 . 1 2 1 0巻 1 号(通巻第24号) 文学 芸術 ・ 文化.

(20) 験 か ら認 識 し な け れ ば な ら な いのであ る。. ( 2. ). ). 『錦 町史 』 二九 五頁. 天 『錦 町史 ·民俗 編 』 二五四頁 。な お 『防 長 風土注進 案 』 (. 年 頃 の こと であ り 、 貝塚 氏 の記 憶 とほぽ符 合 をす る。 なお、. あ る。. 錦 川舟 運 に つい ては 、 同書 を は じ め と す る数 多 く の研 究 が. ( 10) 出 合 ー 広 瀬 間 には 「コワイ ノ カ マ」 と いう 岩 湯 があ って. であ る。 隅 元保 氏 「川舟 時代 の想 い出」 『錦 川』 六号 (-九. 危 険 な の で 、舟 は 広 瀬 ま で 上 ら ず 、 出 合 を 発 着 場 と し た の. 九 三年 三月 ) ―――頁 。. ( 11)『錦 町史 ・民俗 編 』 二三 二頁 は 五間 と し て いる。. (12)錦 川 を 遡 った塩 は 、 石 見 の七 日市 を 移 送 の北 限 と す る と. いう 。富 岡 俊 八 『日本 の塩 道 』 ( 昭 和 五 三年 十 一月) 四0 七. ). 1 四0 八頁. ). 『錦 町史 ・民俗 絹 』 二五七ー ニ五 八頁. る。. ・民 俗 編 』. 一一 三0 頁 によ れ ば 、 この間 は難 所 が多. 環境』 ( 平成 八年 三月 ) 五 六頁 。. ( 14)負 い籠 の こと 。北 九 州 大 学 民 俗 研 究 会 『錦 町 の民俗 』 (一. 九 七九年 二月 )七 二頁 。. ( 17)『錦 町史 ・民俗 編 』 二五八頁. 昭 和 三 七年 三. 田 •都 野津 方 面 で は な いか と 思 わ れ る 。沖 本 常 吉 「職 業 集. (15) 貝 塚 氏 は具体 的 地 名 は 分 から な いと 言 う が 、 お そ ら く 浜. 団 と 交 易 」 『西石 見 の民俗 』 ( 和歌森 太郎編. 『錦 町史. く 、流 れ も 速 か った 。 よ って 、 これ に対 応 す る措 箇 であ っ. 『錦 町史 』 一 ―四 二頁 によ れ ば 、錦 川舟 運 の消 滅 は 昭 和 十. ( 16)『錦 町史 』 二九 三頁. 月 ) 六 六頁 。. ). 「危 険 地帯 」 であ った と し て いる。. た と 思 わ れ る 。 た だ 、 同 国 は舟 津 よ り少 し 先 の南 桑 ま でが. ). 船 によ って いた 。『錦 町史 』 三0 五頁 。. ( 13) セ イ タ と も 言 う 。 山 口県 史 編 さ ん民 俗 部 会 編 『暮 ら し と. 保 十 四年 ) には 、「前 山代 宰 判 第 一廣 瀬 村 」 に徳 山領 札 ヶ辻. ( 8. ( 7) 梢 が架 け ら れ た の は 天保 十 四年 の こと で 、 そ れ 以 前 は渡. ( 6. 境 出 合 大 川端 ー 本郷 境 駕 籠 立 場 間 が 、 そ れ ぞ れ記 さ れ て い. ー 符 谷 村 境 出 合 間 が 、「奥 山代 宰 判 第 十 五荷 谷村 」 に廣 瀬 村. ( 5. ( 4)近 世 には 「符 谷 」 と表 記 され て いる。. ( 3. 『錦 町史 ・民俗 編 』 ( 平 成 七年 九 月 ) ニ ニ ニ頁. 昭和 六三年 九 月 ) 二八七 頁 l)『錦 町史 』 ( (. 註 ( 9. - 98 -. 胡桃沢 前代内陸交通の凝集.

(21) 18)天保 十 五年 、出合 ー 府 谷 間 の道 は 、道 祖 峠 経 由 の道 が悪 (. は 旧暦 が 優 勢 だ った が 、 三 十年 代 に 入 ると徐 々に新 暦 に移. (19) 本 郷 村 境 の土休 峠 ま で の約 二十 二町 を 早 大 坂 と いう が 、. 減 封 を受 け た こと のア オ リ で あ った 。 『錦 町史 ・民 俗 編 』 六. 課 せ ら れ た 。 これ は 、藩 主 の毛 利 氏 が 関 ヶ原戦 に敗 れ 、 大. ( 26) 山代 地 方 には 、近 世 初 期 か ら 七 割 強 と いう 極 端 な 重 税 が. 行 し て い った。『錦 町史 ・民俗 編 』 八七頁 。. 、 道の. 道 のた め 、大 津 道 に付 け替 えら れ た。『錦 町史 』 二九 一頁 。. 両側 には 道 松 が植 えら れ て いた 。 『錦 町史 ・民俗 編 』 二五九. 七頁 。. 通 行 祉 が 多 い割 には 道 幅 が 狭 く 、難 渋 し た と ころ で. 頁。. ( 28) 一艘 に十 五‘ 六人 は乗 れた よ う であ る。 同右 ニニ九 頁 。. ( 27 ) 出 合 栖 の下 付 近 を指 す も のと 思わ れ る 。同右 ニニ四頁 。. これ の維 持 には 農. ( 37) 『六 日市 町史 』 第 二巻 六O 二頁 は 三 、 四尺 く ら いだ った と. た と いう 。『錦 町 の民俗』 三 八頁 。. (36) こ こ に は 石像 が あ り 、道 中 足 の痛 く な った 人 が 拝 ん で い. ( 35)『錦 町史 ・民俗 編 』 二六 八頁. ( 34)『錦 町史 』 二九 八頁. に この区間 の道 筋 が記 さ れ て いる。. ( 33) 『防 長 風 土 注進 案 』 で は 、「奥 山代宰 判 第 二宇 佐 郷 大 原 村 」. ( 32)『錦 町史 ・民俗 編 』 二六九 頁. 頁. (31) 『六日市 町史 』 第 二巻 ( 昭和 六三年 四月 ) 六 ニ ―1 六 ニ ニ. ( 30 )早 く傷 む こと 。. 九頁 。. (29) 水 祉 が多 け れ ば 五時 間 程 で行 け た よ う で あ る 。 同右 ニ ニ. 鏡 味 明 克 氏 「地 名 と環 境 」 『講 座 日本 の民 俗 学 ・4』 ( 野本. 、. 平 成 八年 十 一月) ― ―七頁. ( 20)中 国地方 は峠 を タワ ・タ オ ・ト ウ な ど と いう 地 域 であ る。. 寛 一 •福 田 アジ オ氏 編. ( 21 )代 官 所 の こと 。『錦 町史 』 四頁 。 (22) 松 は 近 世 初 期 か ら植 えら れ て いた が. 0 1頁 。 ― 1 三O O \ 一. 民 の複 雑 な利 害 と努 力 が絡 み あ って いた と いう 。『錦 町史 』. 、 そ の利 用 は 、 倒 木 を 含 め 、 入 札 に基 づ く. ( 23) 近 世 、街 道 の並 木 は 、伐 採 •枝 打 ち 等 、 全 て に許 可が 必 要 とさ れ た う え. 並 木 と橋 ー 」 『交 通 史 研 究 』 四 一号 (-九 九 八年. 払 い下 げ が 原則 と さ れ て いた 。 土 田良 一氏 「江 戸 時 代 の街 —. 四月 ) 三九頁 。. 道景観. (24)牛 市 は 出合 でも 開 かれ て いたと いう 。 『錦 町 の民 俗 』 七 五 頁。. (25) 新 雇 十 月 二八 日で あ る 。 錦 町 域 で は 、 明 治 二十 年 代 ま で. - 99 -. 1 998 . 1 2 文学 ・ 芸 術・文化 10巻1号(通巻第24号).

(22) し て いる 。 同書 によ れ ば 、 こ の道 は 明 治 二九年 に郡 道 と し て改 修 が な さ れ て いる。 ( 38)鞍 の こと 。錦 町役 場 高 根 支 所 所 蔵 の も の は 、縦 六九 、 五 x横 五 八、O x高 さ 四九 、 ニセ ソチ であ る。 『 ( 39) こ の 一帯 は 国境 の市 場 とし て位 置 づ け ら れ て いた。 六 日. 市 町史』 第 二巻 六0 -S 六0 二頁 。. る ( 『錦 町史 』 ― ―五 一頁 ) が 、 こ の年 代 は宇 佐 川 氏 の コニ. (40) 昭 和 初 年 には 広 瀬 か ら バ スが 運 行 さ れ る よ う に な って い. ダ 消 滅 期 の記 憶 と ほぽ 一致 を す る。. ソド ック スな も のだ ( 宮 本器 太郎. 民 具 入門 』 一 ―六頁. 『. ( 41 )草 履 と草 桂 の選択 基 準 は 、歩 行 距 離 に求 めら れ る のが オ ー. 昭 和 四 四年 六月 ) が 、 こ の例 は 、 同 じ 道 路 条 件 下 でも 状 況 によ り 両者 が使 い分 け ら れ る ことが あ る のを 示 し て いる。. 『. ( 42)高 根 支 所所蔵 のも のは 三 三 x二五セ ソチ であ った 。. 六 八頁 。. ( 43 )石 見 では 、 これ で蓑 なども編 んだ と いう 。 西石 見 の民俗』. ( 44)高 根 支 所 所 蔵 のも のは 、 上幅 一八 、 四セ ソチ X下 幅 二九 、 五 セ ソチ x高 さ 七 七 、 ニセ ソチ 、爪 の長 さ は 二七 、 ニセ ソ. チ で あ った 。 (45) こ の塩 は 、岩 国 か ら 錦 川 を 遡 り 、 出 合 •六 日市 経 由 で星 坂 にも た ら さ れ た も の と判 ぜ ら れ る 。 『日本 の塩 道 』 四0 七. 1 四0 八頁 。. (46) 可能 性 の 一っと し て は 、津 和 野 の市 湯 で魚 を 仕 入 れ た 振. り 売 り が来 て いた こと が 考 えら れ る。 『西石 見の民 俗 』 六 六 頁。. ( 47)『錦 町史 ・民俗 編 』 二七 二頁. 『. ( 48)鹿 長 六年 (-六O -) か ら 元 和 二年 (-六 一六) ま で は. 日市 町史 』 第 二巻 二0 八\ ニ ―七 頁。. 坂崎 氏 、 元 和 三年 から 明治 維 新 ま では 亀 井 氏 であ った 。 六. ( 49) 三浦氏 宅 は平 家 の落 人の子 孫 と 伝 えら れ て いると いう 。. らしと環 境』 三 一頁 。. ( 50)ここも峠 下 の村 と し て の機 能 を持 って いたよ う であ る。 『 暮. ( 51) 日向 椎 葉 でも 同 じ光 景 が確 認 さ れ て いる 。拙 稿 「辟 武 伽. の 「中 馬 」ー 椎葉 の馬 背 輪 送伝 承 ー 」 『 平 民 俗 文 化』九 号 (. 成 九年 三月 ) 二 ニ ハ頁 。 ( 52)『錦 町史 』 ― ―四0 頁. 児 玉幸 多 氏 編 『日本 交 通史 』 ( 平 成 四年 十 一月 ) 一六\. ( 53)柳 田国男 「風 景 の成 長 」 『定 本 柳 田国男 集 』 第 二巻 四0 八 頁. 一七頁 ( 54) 三〇 五頁. 編』 二ニ三頁 。. ( お)宿 屋 ・問 屋 の存 在 が そ れ を物 語 って いる 。 『錦 町史 ・民俗. - 1 00 -. 胡桃沢 前代内陸交通の凝集.

(23) 文学 ・ 芸 術 ・ 文化 10巻 l号(通巻第24号) 1998. 12. ( 56)『六日市 町史 』 第 二巻 五三 六頁. ( 65)文 政 二年 「津 田村 書 出帳 」 『佐 伯 町誌 』 本 編 ( 昭 和 六 一年. ( 64)第 五巻 九 三 五頁. ( 66)『民 俗 文 化 』 九 号 二0 六頁. 三月 ) 五0 0 頁 。な お 、津 田は駅 馬 十頭 を常 備 し て いた 。. (57) こ の湯 合 、単 に藩 界 と いう 人 為 的 条 件 のみな ら ず 、 分 水. 上 州 倉 賀 野 が代 表 例 と し て挙 げ ら れ る 。盟 田. 嶺 と いう自 然 的 条 件 を も 、併 せ越 え て いる のであ る。. ( 67)『錦 町史 ・民俗 編 』 七0 頁. ( 58 た )と え ば 、 武 ·児 玉幸 多 氏 編 『体 系 日本 史 叢 書 二四 •交 通史 』 ( 昭和 四. 68) 柳 田国 男 の、荷 縄 だ け の も のは カ ル コ、板 材 に負 い縄 を (. 『定 本 柳 田 国男集』 第 ニ ―巻 三 六七 頁 。. 装 置 し た も のは レ ソジ ャク、と の区 分 に基 づ く 。「棒 の歴 史 」. 五年 十 二月) 三 五 九頁 。 ( 59) 出 合 は 、 か つて検 討 した 阿 波 海 部 の皆 ノ 瀬 ( 拙 稿 「鯖 大 師 の基 底 ー 阿波 海 部 郡 の魚 流 通 伝 承 ー 」 『民 俗 文 化 』 六号. ( 70)拙 塙 「鯖 は何 方 ー 吉 野 の柿 の葉 鮨 を め ぐ って •東 熊 野 街. ( 69)『民俗 文化』 八号九 二頁. - 101 -. 平 成 六年 三月 ) 同 様 水 陸 結 合 という 交 通 機 能 の. 一六七 頁. 2) (一九 九 四年 三月 ) ―二八 道 の伝 承 ー 」 『淀 川文 化 考 』 (. み によ る 所 で あ る 。 し た が って 、近 代 化 の名 のも と に これ を 外 さ れ る と た ち ま ち盛 時 の面 影 を 失 ってし ま う の だ が 、 皆 ノ 瀬 のよ う に 「壊 滅 」 状 態 には な って いな い。 何 が 両 者. 瀬 戸 内 魚商 考 ー 芸 備 沿 岸 71)商 圏 の問題 に ついては 、拙 稿 「 (. 『民 俗 文 化 』 + 号 地 帯 の伝 承 を め ぐ って ー 」 (. 平成十年 三. 月 ) を参 照 。 『西石 見 の民 俗』 六七 頁 によ れ ば 、 六 日市 への. 定 さ れ る 。 た だ 、今 回 は 、瀬 戸 内 側 か ら のも の に つ いては. て いた と いう か ら 、 山代 地 方 も 似 た よ う な 状 況 だ った と 推. 魚 は 、塩 魚 は 日本 海 側 か ら 、 干 魚 は瀬 戸 内 側 か ら 移 入さ れ. る。. 平 成 八年 三月. ( 72)『峠 を こ えた魚』 10 七1 10 九 頁. 一九 八五年 五月. ( 62)第 八巻 三 ――頁. ( 73)重 出 立証 法 は 、地域 限 定 を し た 場合 有 効 性 が高 ま ると の 、. 確 認 す る こと が 出来 な か った 。. ( 63) 一四 六頁. る力 が無 い。 水運 史 の専 門 家 に委 ねた いと思 う 。. ( 61) こ の相 違 自 体 、大 き な 問 題 だ ろ う が 、筆 者 には追 求 を す. 『民 俗 文 化 』 八号. ( 60)拙稿 「駅 路 の合 理性 I 因美 国境 地帯 の交 通 ・交 易 伝 承 ー 」. 絡 ん だ 重 要 課 題 で あ り 、 改 め て検 討 を 試 み た いと 思 って い. の運 命 の分 か れ 道 と な った のか は 、 民 俗 の母体 の変 化 とも. 頁.

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