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漢字の成り立ち

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漢字の成り立ち 落合淳思

合 

  一 九 世 紀 末 に 発 見 さ れ た 甲 骨 文 字 は、 主 に 殷 代 後 期 ( 紀 元 前 十 三 世 紀 か ら 十 一 世 紀 ) に 作 製 さ れ た 文 字 資 料 で あ り、 まとまった数量が残っているものとしては現存最古の漢字資料である。   甲骨文字の発見までは、漢字の成り立ちについては後漢代に許慎が著した『説文解字』が権威を持っていた。し かし、甲骨文字の発見後、その解釈にも誤りが多いことが明らかになり、甲骨文字を利用して漢字の成り立ちの研 究 (以下、字源研究と呼ぶ) が進められた。   かつて、日本では一九六〇~七〇年前後に字源研究が盛んであり、その際に甲骨文字も利用されたが、当時は資 料整理が不十分だったこともあり、利用の方法には不備が多かった。その後、研究者の減少とともに、字源研究も 退潮したため、不備の多い研究がそのまま残存し、現在でも各種の漢和辞典などで漢字の成り立ちの解説として採 用されている。本稿は、 第一節から第三節では、 整理された甲骨文字資料を利用して旧説の誤解や曲解を指摘する。

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立命館東洋史學 第 34 號 また、第四節では、今後の字源研究の方法について提示する。なお、本稿で挙げる古文字の字形は、特に表記がな ければ全て甲骨文字のものである。   本書は先行の字源研究への評価を行うが、その対象は加藤 常 じょうけん 賢 ・藤堂 明 あきやす 保 ・白川 静 しずか の三名とする。その他にも研 究者は多くいるが、 字典としてまとめることをしていなかったり、 先行する説の引用を中心としていたりするので、 評価の対象にはしない。また、中国でも古文字を解説した字典は多く出版されているが、徐中舒『甲骨文字典』 ① の ように、多くの文字を許慎の説に盲従していたり、その他でも趙誠『甲骨文簡明詞典』 ② は成り立ちに諸説ある文字 を「構形不明」としており、いずれも評価の対象たりえない。

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  加藤常賢は、戦後間もなくから「漢字ノ起原」 ③ において字源に関する学説を発表しており、それを集成して加筆 したものが、一九七〇年に出版された『漢字の起原』 ④ である。加藤以前にも字源研究は行われていたが、文字数が 限定されており、古文字の全般にわたる研究を試みたものとしては加藤が最初であった。   加藤は、 総合的な字源研究の先駆けと言えるが、 それゆえに誤謬が多いことも特徴である。根本的な問題として、 文字は古い時代のものの方が原型を残していることが一般的であるが、加藤は字形の年代を軽視している。   例 え ば、 加 藤 は「 正 」 と「 足 」 を 同 源 の 文 字 と 見 な す ⑤ が、 こ れ は 篆 書 の 正 ( お ) と 西 周 金 文 の 足 ( か ) が 偶 然 近

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漢字の成り立ち 落合淳思 いだけであり、甲骨文字の段階では異なる字形である。甲骨文字では、 「正( ね )」は城壁を意味する四角形に足首 の形である止 ( ゼ ) を向ける形で 「征」 の初文であるが、 一方、 「足」 は、 甲骨文字では脚部全体を象形文字とした 「 が 」 の形であり、成り立ちは全く異なる。   ま た、 「 多 」 に つ い て、 許 慎 は 篆 書 の 字 形 を 元 に、 月 の 象 形 で あ る「 夕 」 を 重 ね た 形 と 見 な し て お り、 加 藤 は そ れに従う ⑥ 。しかし、 甲骨文字の段階では肉 ( き ) を重ねた形の 「 ∬ 」 であり、 月の形である夕 ( ぎ ) とは字源が異なる。   字義についても、やはり古い時代の方が原義を残していることが多いが、加藤は甲骨文字の用例をあまり考慮し ていない。   例 え ば、 「 先 ( く )」 に つ い て、 加 藤 は 上 部 の 止 ( ゼ ) の 部 分 を 声 符 と 見 な し、 「 死 ん だ 人 」 の 意 味 と 解 釈 す る ⑦ が、 甲骨文字では、 動詞として先行すること、 または副詞として時間的に早いことを意味して使われている。つまり、 「先 祖」の意味は後起の引伸義であり、原義ではないのである ⑧ 。また、加藤は「尹」や「君」を「引率者」として解釈 する ⑨ が、これも長官・君主は後起の字義であり、甲骨文字ではむしろ命令を受ける臣下の意味で使われている ⑩ 。   加藤の研究には、文字の発音から牽強附会の解釈をしていることも多く見られる。   例えば、 加藤は「令 ( ぐ ) 」を形声文字と解釈し、 「 そ 」の部分にキョウの音があり、 これがリョウになったとする。 し か し、 甲 骨 文 字 で は「 そ 」 は 屋 根 や 器 物 の 蓋 の 形 と し て 使 わ れ て お り、 京 ( け ) や 享 ( げ ) の 一 部 と な る こ と は あるものの、単独では「今」にあたり、甲骨文字でも「いま」の意味で使われている。したがって、キョウの音は ないのであり、またキョウからリョウへの変化という解釈も牽強附会である。 令は、その字形から屋内で命令を受 ける人を表していると考えられる。   ま た、 「 兒 ( こ )( = 児 ) 」 の 成 り 立 ち に つ い て、 こ の 文 字 に ゲ イ の 発 音 が あ る こ と か ら で あ ろ う が、 加 藤 は 上 部 を

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立命館東洋史學 第 34 號 「 齧 げつ 」 の 意 味 と み な し て 形 声 文 字 の 声 符 と す る。 し か し、 甲 骨 文 字 で は こ の 部 分 が 何 か を 齧 か む 意 味 で は 使 わ れ て お らず ⑪ 、そもそも「齧」は秦代篆書に初めて出現する文字であり ⑫ 、甲骨文字の解釈としては不適切である。   このように、加藤の研究は総合的な研究を試みたという点では画期的であったが、その内容は現在から見れば稚 拙と言わざるを得ない ⑬ 。

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  藤堂明保の字源研究は、発音が類似する文字は字義も類似するという前提のもと、上古音を復元して文字のグル ー ピ ン グ を 行 っ た。 藤 堂 明 保『 漢 字 語 源 辞 典 』 ⑭ で は、 上 古 音 を 元 に、 「 № 1  止・ 歯・ 侍・ 待・ 臺  じ っ と ひ と 所 に とまる」 「 № 2  之・志・時・詩   まっすぐ進む」のような分類区分を設け、その数は合計二二三に及ぶ。   字 音 と 字 義 に 相 関 関 係 が あ る こ と は、 着 眼 点 と し て は 間 違 い で は な く、 し か も 上 古 音 を 復 元 し た と い う 点 で も、 加藤よりは体系的な研究であったと言える。しかし、藤堂の研究は、すべての文字を字音から解釈しており、字音 と字義の関係を固定的にとらえすぎるという欠点があった。   字音と字義が固定的な関係であったと仮定すると、字義を維持したまま字音が変化することが説明できない。例 えば、 甲骨文字の「服」は、 大半が初文の「𠬝」にあたる「 ご 」の字形で記されるが、 一部に声符 ⑮ として「凡 ( さ ) 」 を 加 え た「 ざ 」 の 繁 文 が 見 ら れ る ⑯ 。 し た が っ て、 殷 代 に は「 凡 」 と「 服 」 は 同 じ か 近 い 発 音 だ っ た は ず で あ る が、

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漢字の成り立ち 落合淳思 上 古 音 の 段 階 で す で に 変 化 し て お り、 藤 堂 も 別 の 分 類 と し て い る ⑰ 。「 服 」 は、 殷 代 に お い て も 後 代 と 同 様 に 降 服・ 屈服の意味で用いられており、字義が維持されているにもかかわらず、字音が変化したのである。   また「風」も、 殷代には風を司るとされた鳳凰の象形の「 し 」で表され、 一部に声符として「凡」を加えた「 じ 」 の字形が見られる。 「風」は「鳳」から字形のみが分化した文字なので、 「風」 「鳳」も「凡」と発音が同じか近か っ たはずであるが、これも発音が変化している ⑱ 。   藤堂自身が述べるように、復元された上古音は東周~秦漢の発音であり ⑲ 、殷代の甲骨文字にまでさかのぼること は で き な い。 藤 堂 の 上 古 音 復 元 に よ れ ば、 凡・ 服・ 風 は そ れ ぞ れ [biam][biuek][pliem] ⑳ と 若 干 離 れ て お り、 殷 代 か ら東周秦漢に至るまでに字音が変化したのである。   このように、字音の変化がある以上、東周以降に作られた文字についてはともかく、殷・西周代あるいはそれ以 前に作られた文字については、上古音に基づく藤堂の方法では必然的に矛盾が生じるのである。   特に、周は西方の辺境から起こった王朝であり、殷周の交代時に西方の方言が流入した可能性は高いと考えなけ れ ば な ら な い。 例 え ば、 殷 代 に は 煙 の 初 文 の 垔 いん ( ⊥ ) を 仮 借 ㉑ し て 夜 間 の 意 味 に 用 い て い た が、 周 代 に は 月 を 意 符、 亦を声符とする「夜」の語が用いられた。 垔 の発音が変化したのか、あるいは夜間を呼称する発音が変わったのか は分からないが、殷代と西周代で発音が異なっているのである。   なお、 郭錫良 『漢字古音手冊』 の上古音復元によれば、 凡 ・ 服 ・ 風はそれぞれ [biuem][biuek][piuem] であり、 李珍華 ・ 周 長 楫『 漢 字 古 今 音 表 』 も そ れ ぞ れ [biuam][biuak][piuam] と 藤 堂 よ り も 近 い 発 音 で 復 元 し て い る。 し た が っ て、 藤堂の研究は、 発音の復元という部分から不正確であった可能性もある (ただし、 筆者は音韻を専門とはしていないので、 いずれが正しいかは明らかにできない) 。

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立命館東洋史學 第 34 號   字音の変化とは逆に、漢字は字音を維持したまま字義が変化する場合もあり、これも字音と字義を固定的な関係 とする藤堂説の矛盾点である。   例えば、 「止 ( ゼ )」 は足首の象形で進行を象徴しており、 甲骨文字の段階では単独でも 「ゆく」 の意味で使われたが、 のちに正反対の「とまる」の意味に転化した。藤堂はこれを「じっとひと所にとまる」の分類で次のように解釈す る 。 け だ し 、 → 状 に あ る 点 に 向 け て 直 進 す る も の は 、 動 揺 や フ レ が な い か ら 、 見 方 に よ っ て は 一 点 に 定 着 し て 注 が れ て い る と も 言 え る 。 足 は ↓ 型 に 一 点 に 停 止 す る が 、 全 身 の 重 さ が ↓ 状 に そ の 点 に 向 け て 注 が れ て い る と も 考 え ら れ る 。   要するに、等速直線運動しているものは止まっているものと同じであるという相対性理論的な解釈であるが、こ のような恣意的な解釈が許されるのであれば、ひとつの文字に何通りも、あるいは何十通りもの自由な解釈が可能 になってしまうのであり、学術としては不適切である。   しかも、藤堂は分類の枠組みを「じっとひと所にとまる」や「まっすぐ進む」のように曖昧にしているにも関わ らず、恣意的な解釈が必要になっているのであり、字音を万能視したことがそもそもの誤りであったことが明らか である。   漢字とは、字音と字義が多対多の関係なのであり、それゆえに多様な言語表現が可能となるのである。藤堂が考 えるような字音と字義を固定的な関係として単純化することは、漢字の価値そのものを過小評価してしまうことに

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漢字の成り立ち 落合淳思 なるだろう。   さらに言えば、 漢字は表記されるものであり、 視覚によって意味が伝達される性質を持っている。言い換えれば、 字音よりも字形によって字義を表すという要素が強いのであり、成り立ちや字義について必ずしも字音が決定的な 要因とはなっていないのである。そのため、時代が降って字音が変化しても字義を維持して使い続けることが出来 たのであり、さらには発音や文法の体系が全く異なる朝鮮半島や日本でも漢字は普及した。特に日本では、日本語 にあわせた「訓読み」があり、字音を介さずとも意味が通じるという漢字の長所を効率的に利用している。   これらの問題の他に、前述のように文字は古い時代のものの方が原型や原義を残していることが多いが、藤堂の 字源研究には加藤と同じく時代差を軽視しているという特徴があり、より古い字義を明らかにしないまま字源を分 析している文字も多い。   例えば、 藤堂は「名 ( す ・ ず ) 」について、 月 ( ぎ ) に従う文字であり、 また「鳴」と発音が共通することから、 「薄 暗 い や み の 中 で 自 分 の 存 在 を 声 で 告 げ る こ と を 示 す 」 と 解 釈 す る 。 し か し、 最 古 の 用 例 で あ る 甲 骨 文 字 で は、 「 名 前」の意味ではなく特定の祭祀の呼称として用いられており 、それが西周初期に「銘」の意味で使われるようにな り 、さらに西周末期以降に「名付ける」の意味が発生し 、そして最終的に東周代に「名前」の意味として用いられ るようになったのである。   また、藤堂の研究には、幾何学的な形を記号と見なして字音の定義に合うように恣意的に解釈していることも多 く見られる。   例 え ば、 「 食 ( せ ) 」 に つ い て、 藤 堂 は「 そ 」 の 部 分 を「 △ 印 は 集 と 同 じ 意 味 で、 三 方 か ら 集 め よ せ る こ と を 表 わ す 記 号 で あ る 」 と す る。 し か し、 「 そ 」 は 三 角 形 の 記 号 で は な く、 前 節 で 述 べ た よ う に「 今 」 で あ り、 屋 根 や 器 物

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立命館東洋史學 第 34 號 の蓋の象形である。 「食」 においては 「 豆 たかつき ( ぞ ) 」 に食物を盛った形の 「 皀 きゅう ( ぜ ) 」 の蓋の意味で使われている。同様に、 藤堂は 「昔 ( だ ) 」 の 「 た 」 の部分を積み重ねを示す記号とする が、 甲骨文字では 「 た 」 の形は水害を表す 「災 ( ち ) 」 の字体の一つであり 、「昔」の声符と推定される。   甲骨文字の字形は、必ず人間が直接的に知覚できるものに基づいており、それを介さずに「集めること」や「積 み重ねること」などを表現した文字はない。後代に作られた文字については確言できないが、甲骨文字の段階で作 られた文字に抽象化された表現を期待することはできないのである。   藤堂の研究は、字音と字義の関係に注目したこと自体は重要な発見であり、実際に、字音と字義に密接な関係が ある文字も少なくない。しかし、字音を万能視したことが誤りであり、そのため、字義や字形が字音に適合しない 場合に恣意的な解釈を用いざるを得なかったのである。

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  藤堂が発音を中心に字源を解釈したのに対し、白川静は字形を中心にしたことが特徴である。特に、白川は会意 文字における組み合わせから字源を明らかにする方法を提唱しており、 「 で 」や「 サ 」などに新しい見解を示した。 この方法は、それまでも羅振玉や郭沫若などによって経験的に行われていたが、網羅的に文字を集めて分析するこ とを提唱したのは白川である。

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漢字の成り立ち 落合淳思   「 で 」 は軍隊を意味する 「師」 の初文の 「 と 」 にあたるが、 篆書では 「阜」 に文字が近いことから、 許慎は 「小阜なり」 と解釈しており 、甲骨文字の発見後もそれが信じられていた。しかし、白川が指摘するように、甲骨文字の段階で は「阜 ( ど ・ な ) 」と「 で 」は字形が異なっており、後代に近い形に変化したにすぎない。   甲骨文字では、 「 で 」 の形を含む文字に 「遣」 の初文の 「 ぬ ( に ) 」 があり、 「 で 」 を二つの手 ( シ ) で持っているので、 阜 おか を 表 し て い な い こ と が 明 ら か で あ る。 「 ぬ 」 が 甲 骨 文 字 で は 祭 祀 用 語 で あ る こ と か ら、 白 川 は「 で 」 を 祭 肉 の 象 形であると見なした 。   「 サ 」 に つ い て は、 そ れ ま で は「 く ち 」 の 形 と し て の 意 義 し か 知 ら れ て い な か っ た が、 白 川 は 祭 器 と し て の 意 味 や 祭 祀 の 象 徴 と し て の 用 法 が あ る こ と を 明 ら か に し た ( 白 川 は 祭 器 と し て の 用 法 に は「 ザ さい 」 と 釈 し て い る ) 。 例 え ば、 「 魯 ( の )」 はもと祭祀名であり、 供物の魚 ( は ) を ザ ( サ ) に載せた形であり、 また 「古 ( ば ・ ぱ ) 」 は盾の象形である び ( ひ ) を ザ に置いた形である。   また、加藤や藤堂は多くの文字を形声文字や亦声 を含む文字として解釈したが、白川は、多くの文字を会意文字 として解釈した。   漢字の成り立ちの時代順としては、象形文字や指事文字が最初に作られ 、その後に会意文字が作られ、最後に形 声文字が出現したと考えられている。そして、甲骨文字は形声文字がまだ少ない段階にあり、殷代は会意文字が多 く作られた時代であったため、結果として、甲骨文字の段階で存在していた文字の解釈については、白川の方法は 有効であった。   さらに、白川は文字の成り立ちを祭祀や呪術と関連づけて分析した。初期の王朝では、祭祀や呪術を通した支配 が行われることが一般的であるが、甲骨文字にも頻繁に祭祀儀礼が記されており、殷墟遺跡からも犠牲にされた人

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立命館東洋史學 第 34 號 骨や獣骨が多数発見されている。したがって、文字と祭祀・呪術の関連に注目したことも、甲骨文字の分析の手段 としては妥当であったと言える。   しかし、白川の研究は、何ら史料的根拠がなくても祭祀や呪術儀礼を優先して字源を解釈しており、ここに最大 の欠点があった。   例えば、 穀物を表す禾 ( ン ) と人 ( オ ) から成る 「年 ( ぴ ) 」 について、 白川は 「禾」 の部分を禾形の被りものと見なし、 農耕儀礼での舞踊を表す文字と解釈する 。しかし、甲骨文字では年は収穫の意味でのみ使われており、祭祀儀礼と しての用例はなく、また「 ン 」の形を被りものの意味で使うこともない。舞踊を起源とする解釈を否定することは できないものの、現存の資料からは何ら根拠が得られない仮説にすぎないのであり、現状では収穫した穀物を掲げ ている人ということ以上は言えないのである。   同様に、 白川は「赤 ( ふ )」 を人の正面形である大 ( ガ ) が火 ( ネ ) に照らされている様を表す文字とし、 罪科を祓 う修祓儀礼とする が、 甲骨文字では赤は色の意味で専ら使われており、 儀礼の名としては使われていない 。また、 「後 ( ぶ ) 」 に つ い て、 白 川 は 敵 の 後 退 を 祈 る 呪 儀 と す る が、 甲 骨 文 字 で は 時 間 的 な 先 後 を 表 す 文 字 と し て の み 使 わ れ て お り、 や は り 呪 術 儀 礼 と し て は 使 わ れ て い な い 。 白 川 は、 鳥 の 象 形 を 文 字 に 含 む「 鳴 ( ろ ) 」 や「 観 ( わ ) 」 な ど の 字源を鳥占いとする が、殷代に鳥占いが行われた証拠もない 。   このように、白川は多くの文字を無前提に祭祀や呪術に結びつけて考えたため、その学説の多くが牽強附会の解 釈となっている。しかも、 自らが提唱した会意文字における字形の組み合わせから分析するという方法よりも祭祀 ・ 呪術を優先したため、その方法も効果的な活用に至らなかった。   例 え ば、 「 成 ( べ )」 に つ い て、 白 川 は 武 器 で あ る 戈 ( Ε ) に 呪 術 的 な 装 飾 を 加 え た も の と す る が、 甲 骨 文 字 で は、

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漢字の成り立ち 落合淳思 「 ぺ 」は装飾の意味では使われていない。甲骨文字の会意文字における組み合わせから改めて分析すると、 「 ぺ 」は 都市の城壁の形として使われることが多く、 征の初文の「正 ( ね )」 は城壁 ( ぺ ) に足 ( ゼ ) を向けることで都市への 攻 撃 を 意 味 し、 「 邑 ( ほ )」 の 上 部 は 城 壁 の 形 ( ぺ ) 、 下 部 は 座 っ た 人 の 形 の 卩 せつ ( ぼ ) で あ り、 都 市 と そ こ に 住 む 人 を 表している。したがって、成は武器で都市を守備する意味とするのが妥当である。   そ も そ も 白 川 は、 社 会 や 王 朝 に お い て、 祭 祀 や 呪 術 が ど の 程 度 の 役 割 を 果 た し て い た の か と い う こ と に つ い て、 一定した評価を示していない。悪く言えば、その時々に都合がよい方の解釈を利用しているのであり、一貫性がな いのである。   例 え ば、 白 川 は「 卜 辞 の 本 質 」 で 甲 骨 占 卜 の 作 為 性 を 指 摘 し て お り 、「 現 実 的 な 世 界 の 支 配 者 た る 王 と、 宗 教 的 な世 界 の 擔 持 者 た る 卜 者 貞 人 と の 間 に 職 掌 上 の 区 別 が あ り 、 両 者 は 分 離 し て い た 」 と す る 。 し か し 『 甲 骨 文 の 世 界 』 では殷代の王を「神と人との媒介者」であり「巫祝王であった」と述べ、 王と呪術的行為の関わりを強調している。   また、梅原猛との対談をまとめた『呪の思想』 によれば、白川は神秘性が強い殷王朝に対し、周王朝を「合理主 義的」と評価する 。しかし、同書では周代に作られた『詩』を呪術的に解釈し、また西周金文に初出の文字も呪術 から解釈している 。   さらに言えば、殷代には祭祀や呪術が盛行していたものの、それだけで王朝が維持されたのではない。特に、王 朝の支配において軍事行動は重要であり、甲骨文字にも、数千人を徴兵した戦争 や頻繁に行われた軍事演習  が記さ れている。白川は、殷王が祭祀において戦争捕虜を犠牲として大量に用いていたことを研究対象にしている  が、そ れでも現実的な軍事力よりも呪術や祭祀を重視して字源研究を行った。   例 え ば、 甲 骨 文 字 で 戦 争 に 際 し て 記 さ れ る「 望 ( み ) 」 と い う 行 動 に つ い て、 白 川 は「 眼 の 呪 力 に よ っ て 敵 に 圧

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立命館東洋史學 第 34 號 服を加える呪儀」と解釈する  。この解釈は、それ自体に論理的な矛盾があるわけではないが、この説を成立させる ためには、殷王朝に「眼の呪力」という信仰が存在し、また敵対勢力もその信仰を共有していたことを示さなけれ ば な ら な い。 し か し、 白 川 は そ の 努 力 を 一 切 し て い な い の で あ る。 甲 骨 文 字 の 用 例 を 見 る と、 「 望 」 に よ っ て 敵 に 何らかの損害を与えることは占われていないので、一般的な偵察行為と考えるのが妥当である。   同 様 に、 白 川 は 甲 骨 文 字 の「 眉 人 三 千 」 を「 三 千 人 の 媚 ( 巫 女 ) 」 と み な し、 そ れ が「 望 」 す る 記 述 を 三 千 人 の 巫 女 に 望 視 さ せ る 呪 儀 と し、 「 戦 い に 敗 れ る と、 こ れ ら の 巫 女 は そ の 呪 力 を 封 ず る た め に ま ず 殺 さ れ る 」 と す る  が、 や は り「 眉 ( む ) 」 と「 媚 ( め ) 」 が 同 義 で あ る こ と は 検 証 さ れ て お ら ず  、 ま た 本 当 に 巫 女 が 殺 さ れ た こ と の 根 拠 も 挙げられていない。   実 際 に は、 殷 王 朝 は、 も 方・ 土 方・ 人 方 な ど の 敵 対 勢 力 に 対 し て、 「 呪 力 」 な ど で は な く 現 実 の 戦 闘 行 為 を し て いたのであり、それによって支配圏を維持していた。文字の研究においても、呪術や祭祀ばかりに字源を求めるこ とはできないのである。   なお、かつては殷代よりさかのぼる文字が発見されていなかったため、漠然と殷人が文字を作ったと考えられる ことが多かった。そのため、白川も殷代に盛行した祭祀・呪術に重点を置くことに疑問を持たなかったのかもしれ ない。しかし、その後、丁公遺跡の龍山文化の地層から発見された陶文  が、文字またはそれに近い段階のものであ る こ と が 明 ら か に な り、 現 在 で は、 文 字 の 成 立 は 龍 山 文 化 の 末 期 か 二 里 頭 文 化 の 初 期 ( 紀 元 前 二 千 年 ご ろ ) と 推 定 さ れ る の が 一 般 的 で あ る。 つ ま り、 文 字 が 成 立 し て か ら 甲 骨 文 字 が 作 ら れ た 殷 代 後 期 ( 紀 元 前 十 三 ~ 十 一 世 紀 ) ま で に は大きな隔たりがあり、殷代の文化だけで文字の成り立ちを論じることもできないのである。   このほか、白川も加藤・藤堂と同じく字義や字形の時代差を軽視することがあり、遅くに出現した字義や字形を

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漢字の成り立ち 落合淳思 元にした学説も多い。   例 え ば、 「 身 ( れ ) 」 に つ い て、 白 川 は 加 藤・ 藤 堂 と 同 じ く 妊 娠 を 原 義 と す る  が、 甲 骨 文 字 の 段 階 で は、 「 れ 」 は 専 ら 腹 部 を 指 す 文 字 と し て 使 わ れ て い る。 こ れ は、 甲 骨 文 字 の 索 引 で あ る 島 邦 男『 殷 墟 卜 辞 綜 類 』  な ど を 見 れ ば 明 ら か で あ る が、 「 身 」 の 用 例 は す べ て「 貞 王 疾 身 惟 妣 己 や ( 貞 と う、 王 身 を 疾 む は、 惟 こ れ 妣 己 や たた る か ) 」 (『 殷 虚 文 字 乙 編 』  七 七 九 七 ) の よ う に、 身 体 の 部 位 と し て の 字 義 し か な い。 こ の 場 合 の 主 語 の 王 ( 諡 号 は 武 丁 ) は 男 性 で あ る か ら、 妊 娠の意味ではあり得ず、身を妊娠の意味に用いるのは、後起の引伸義ということになる  。   なお、 『殷墟卜辞綜類』は、 世界初の甲骨文字索引として一九六七年に出版されており、 白川だけではなく、 加藤 ・ 藤堂も利用が可能であったはずであるが、積極的に使用した形跡がない。かつての字源研究が時代差を軽視してい たことをよく表している。   ま た、 「 休 ( ら ) 」 の「 木 」 の 部 分 に つ い て、 白 川 は、 も と「 禾 」 の 形 で 軍 門 の 表 木 で あ る と す る  が、 こ れ は 西 周 金 文 の 休 の 字 体 ( り ) に 基 づ く 説 で あ り、 甲 骨 文 字 の 段 階 で は「 禾 ( ン ) 」 で は な く「 木 ( ヰ ) 」 に 従 っ て い る。 し た がって、許慎が「休止なり。人に従い木に拠る」とするのがおそらく正しく、人が木に寄りかかって休んでいる姿 である。   こ の 他 に も、 白 川 は 自 身 の 発 見 に 固 執 す る 傾 向 が あ る。 例 え ば、 前 述 の「 と ( で ) 」 を 含 む 会 意 文 字 に「 追 ( ウ ) 」 が あ り ( 初 文 の「 エ 」 の 形 ) 、「 止 」 は 進 行 の 象 徴 で 敵 を 追 う こ と を 意 味 す る。 こ の 文 字 に つ い て、 白 川 は「 軍 を 分 っ て 行 動 す る と き は、 と 肉 を 頒 け 与 え る の で 遣 と い う。 遣 肉 を 受 け て 敵 を 追 う の を 追 と い う 」  と 解 釈 す る。 し か し、 例 え ば『 甲 骨 文 合 集 』 三 二 八 一 五「 己 亥 歴 貞 う、 三 族 に 王 其 れ 令 し、 召 方 を 追 わ し む る に j に 及 ぶ か ( j は お そ ら く 地 名 ) 」 の よ う に、 三 族 ( 全 軍 ) で 追 撃 を し、 部 隊 を 分 け な い 場 合 で も「 追 」 が 使 わ れ て い る の で、 こ の 解 釈 は 正 し

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立命館東洋史學 第 34 號 く な い。 こ の 文 字 は、 「 と 」 を 引 伸 義 の「 師 」 の 意 味 で 会 意 に 組 み 込 ん だ も の で、 敵 の 師 ( 軍 隊 ) を 追 う 意 味 と す る のが妥当である。   ま た、 白 川 は、 「 サ 」 の 形 を 含 む 文 字 の ほ と ん ど を 祭 器 の 意 味 の「 ザ 」 と 関 連 さ せ て 解 釈 し て い る。 先 に 挙 げ た よ う に、 白 川 は「 鳴 ( ろ ) 」 を 鳥 占 い と 解 釈 し、 「 サ 」 の 部 分 を ザ と し て 祝 祷 を 収 め る 器 と 解 釈 す る  が、 殷 代 に 鳥 占 いが占われた証拠はなく、また白川も「鳴」が表すという「鳥占い」が具体的にどのようなものであるかを述べて いない。甲骨文字では「 サ 」は「くち」の意味でも使われている  ので、 「鳴」についても雄鶏などが口 ( サ ) で鳴く ことの意味であろう (「 ろ 」の字体には上部にトサカがあり雄鶏を表している) 。   白川は、字源研究において字形を重視し、また殷代に盛行した祭祀・呪術に注目したが、これは方法としては間 違いではなかった。しかし、祭祀や呪術に重点を置きすぎ、無前提にそれによって解釈したことが誤りだったので ある。

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  本稿では、ここまでに先行研究の主な問題点を指摘した。本節では今後の字源研究における一般的な原則を述べ たい。   字音はある程度の参考にはなるが、現状では殷代の発音が不明であるため、甲骨文字の段階で出現している文字

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漢字の成り立ち 落合淳思 の分析には字形や字義を中心に解釈せざるを得ない。また、字形・字義はより古いものが原形・原義を残している 可能性が高いので、より古い資料を基準にするべきである。   ただし、字形や字義は、文字が作られてから殷代後期に至るまでに、すでに変化している可能性があり、この方 法も完全無欠とは言えない。しかし、 殷代後期の甲骨文字よりもさかのぼる文字がほとんど発見されていない以上、 少なくとも現在のところはこの方法が最も確実である。   また、会意文字における字形の組み合わせを集めて字源を判断するという方法は、提唱者である白川自身は効果 的 な 活 用 に 至 ら な か っ た が、 利 用 す れ ば 高 い 効 果 が 得 ら れ る こ と が 分 か っ た。 た だ し、 前 述 の「 と ( で ) 」 よ う に、 会意文字の中で引伸義の用法で使用されることもあるので、やはり絶対的な基準とすることはできない。   以下に、甲骨文字の段階で存在したものの中から、会意文字の組み合わせを利用した字源の分析例を幾つか挙げ る。加藤の説は『漢字の起原』 、白川の説は『字統』に拠る。藤堂については、 『漢字語源辞典』と『学研   漢和大 字典』に拠り、食い違いがある場合には併記する。また、必要があれば許慎『説文解字』の説も挙げる。   羽 ( レ ) …… 加 藤・ 藤 堂・ 白 川 は 鳥 の 翼 の 象 形 と す る が、 甲 骨 文 字 の 組 み 合 わ せ を 見 る と、 雪 の 初 文 ( ε ) は 空 か ら 羽 根 ( レ ) 状 の も の が 降 っ て く る こ と を 表 現 し て い る の で、 お そ ら く 羽 根 と す る の が 正 し い。 甲 骨 文 字 で は、 翼の象形は翌 ( ロ ) で表されている。   刀 ( Δ ) ……刀 の 象 形 で あ り 、藤 堂・ 白 川 は 下 部 を 刃 先 と す る が 、こ れ は 後 代 の 誤 解 に 基 づ く 。 甲 骨 文 字 の 段 階 で は 、「 刃 ( σ )」 で は 刃 先 を 示 す 指 事 記 号 の 丸 印 が つ い て い る の は 上 部 で あ り、 ま た「 分 ( υ )」 で も 切 り 分 け ら れ た も の ( τ ) が 上 にあるから、上部が刃先と考えられる。   求 ( Γ ) …… 裘 ( 毛 皮 ) を 原 義 と す る 説 が あ り、 加 藤・ 藤 堂・ 白 川 は い ず れ も こ れ に 従 う。 し か し、 甲 骨 文 字 で は

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立命館東洋史學 第 34 號 裘 は「 λ 」 の 形 で あ り、 衣 服 の 象 形 の 衣 ( μ ) に 毛 を 表 す 線 を 加 え た も の で あ る。 後 代 に 衣 を 意 符、 求 を 声 符 と す る 繁 文 に な っ た 文 字 で あ り、 甲 骨 文 字 の 段 階 で は、 求 と は 成 り 立 ち が 異 な っ て い る。 『 説 文 解 字 』 の「 裘 」 の 項 に は仮借の用法で「求」だけの字体の古文が挙げられており、そのため誤解が生じたのである。甲骨文字の組み合わ せ を 見 る と、 例 え ば「 奉 ( ν ) 」 は 求 を 両 手 ( ジ ) で 土 ( ハ ) に 植 え る 形 で あ り、 こ の こ と か ら 求 は 根 の 部 分 を 強 調 した植物の象形であると考えられる。   朿 ( Ι ) …… 許 慎 は 「 木 芒 」 ( 木 の と げ ) と し 、 加 藤 は こ れ に 従 う 。 藤 堂 は 、『 漢 字 語 源 辞 典 』 で は 同 様 の 説 で あ る が 、『 学 研 漢和大字典』ではとげの出た刃物とする。また、白川は「標識として 樹 た てた木の形」とする。甲骨文字での使用例 は少ないが、 朿 ( Ι ) で心臓 ( ヅ ) を刺す形 ( В ) があり、 武器の象形とするのが妥当である。なお、 甲骨文字には 「朿 尹 ( ДГ ) 」の語があり、おそらく軍事を担当する臣下であろう。   辰 ( パ ) ……加藤・藤堂は貝の象形で蜃の初文とする説を採用し、貝から肉が出ている形とする。しかし、 「農 ( u )」 ( 初 文 は「 v 」 の 形 ) で は 木 ( ヰ ) を 掘 り 起 こ す か 切 り 倒 す 農 具 の 意 味 で 用 い ら れ て お り、 誤 り で あ る。 白 川 は 両 者 を 折 衷 し た 蜃 器 ( 貝 殻 で 作 っ た 農 具 ) と 見 な す が、 「 バ 」 は 甲 骨 文 字 で は「 石 」 の 意 味 で 使 わ れ て い る の で、 「 パ 」 は石製の農具とするのが妥当である。ちなみに、 甲骨文字にはすでに繁文で口 ( サ ) を加えた「 w 」の字体もある。   こうした分析は、すでに公刊されている各種の索引を利用すれば、比較的容易に行うことができる。ただし、会 意文字での使用が少ない字形については確実な分析ができない場合があるので、金文の図象記号や甲骨文字以前の 陶文記号なども参照しなければならないだろう。

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漢字の成り立ち 落合淳思

  本稿は、甲骨文字を中心にした分析を元に、先行研究の問題点を指摘し、また今後の研究方法を提示した。最も 早く総合的な字源研究を行った加藤常賢は、初歩的な誤りが多く見られた。また、藤堂明保は、字音への注目は間 違いではなかったものの、それだけで全ての文字を解釈しようとしたために失敗していた。白川静も、殷代に盛行 した祭祀や呪術への着眼点は良かったのであるが、やはりそれに重点を置きすぎたために矛盾が生じた。結局のと ころ、文字は長い時代にわたって多数の人々が関わって作られたものであるから、単一の視点だけで解決できると 考えたことがそもそもの誤りだったと言える。   もっとも、本稿が分析対象とした先行研究は、近いものでも出版から三十年近くを経ており、遠いものは四十年 を越えている。その後に整理された資料と比較すれば、多くの誤りが判明することは当然であった。今後は、数十 年の遅れを取り戻すべく、字源研究を全面的に検証する必要があるだろう。 注 ①  徐中舒『甲骨文字典』四川辞書出版社、一九八九年。 ②  趙誠『甲骨文簡明詞典』中華書局、一九八八年。 ③  加藤常賢「漢字ノ起原」一九四九~一九六八年(謄写版) 。

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立命館東洋史學 第 34 號 ④  加藤常賢『漢字の起原』角川書店、一九七〇年。 ⑤  『漢字の起原』五八二頁。 ⑥  『説文解字』七上多部、 『漢字の起原』九〇頁。 ⑦  『漢字の起原』六二七頁。 ⑧  白川静『字統』 (平凡社、一九八四年)などが指摘するように、止は足の形であり、先行することを象徴している。 ⑨  『漢字の起原』六四 ・ 三四二頁。 ⑩  例えば、 『甲骨文合集』三二九八〇「甲午貞う、其れ多尹に令し王の寝(寝殿の意)を作らしめんか」 。 ⑪  この形は、甲骨文字では臼の意味としても使われていない。また、単独での文字として用いた例はないため、今のところ意義不 明である。 ⑫  雲夢睡虎地秦簡に見える。齒(=歯)を意符、 ゐ を声符とする形声文字である。 ⑬  それまで会意文字と考えられていた文字が実は形声文字であった場合には、結果として加藤によって正解を得た文字もある。 ⑭  藤堂明保『漢字語源辞典』学燈社、一九六五年。 ⑮  形声文字の発音を表す部分。 「音符」とも言う。 ⑯  楷書の「 ゑ (=服) 」のうち、 「月」のような形は「凡」が変わったもの。 ⑰  『漢字語源辞典』 では、 凡を 「 № 22 3 枠をかぶせる、 平らな面でおおう」 の分類とし、 服を 「 № 2 7 ピタリとひっつく」 の分類とする。 ⑱  『漢字語源辞典』では、風・鳳を「 № 2 1 2ブルブルとふるえる」の分類とする。なお、 「風」は「鳳」から字形が分化した文字 であり、 「鳥」の部分が「虫」に置換されている。 ⑲  藤堂明保『学研   漢和大字典』 (学習研究社、一九八〇年)一五七一頁、 「『詩経』が東周初めに編集されたものと考え、それを

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漢字の成り立ち 落合淳思 起点として先秦の諸子百家の書、屈原の『楚辞』 、漢代の辞賦までをおもな資料とする」 。 ⑳  発音記号ではなく擬似的にアルファベット表記とした。以下も同じ。   音通によって借りて表示に用いた文字であり、一種の当て字。   郭錫良『漢字古音手冊』北京大学出版社、一九八六年。   李珍華・周長楫『漢字古今音表』中華書局、一九九三年。   『漢字語源辞典』六九頁。   『学研   漢和大字典』二一四頁。   例えば『甲骨文合集』二一九〇「貞う、来たる乙亥、侑するに父乙に名せんか。用いらる」 。なお、 「名」は字形に月が含まれて いるので、おそらく夜間の祭祀であろう。発音としては、鳴だけでなく月明かりを表す「明( を )」にも通じるので、月明かりの 下での祭祀が字源ではないだろうか。   作冊益 「 氒 そ の名 (銘の意) に義 (宜) しく曰く 『子々孫々宝とせよ』 と」 。祭祀の呼称である 「名」 を銘の意味に使った理由は不明。   南宮乎鐘「司土南宮乎、大林協鐘を作り、 茲 こ れ名づけて『無射』と曰う」 。   『漢字語源辞典』八二頁。   『漢字語源辞典』三六五頁。   甲骨文字の「災」には、 「 ち 」「 ぢ 」のほか、 「 て 」「 づ 」「 つ 」など多数の異体字がある。   『説文解字』十四上 と 部。   『字統』二六二頁(頁数は一九九四年普及版。以下も同じ)や、 貝塚茂樹編『古代殷帝国』 (みすず書房、 一九六七年)第四章(白 川静執筆)二四〇頁など。ただし、甲骨文字では祭肉は主に「 き 」の形で表されているので、 「 で 」は軍隊が携行する武具や糧食

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立命館東洋史學 第 34 號 などの象形であるかもしれない。   字義と字音の両方を表す部分。   象形文字と指事文字のいずれが早いかについては異論があるが、仰韶文化の陶文の段階で、すでに指事文字の一種である数字の 原形と思われる 「 あ 」「 い 」「 う 」 があり、 また植物であろう 「 ん 」 や羊の頭部であろう 「 え 」 のような象形文字の原形も見えるので、 現状では結論を出すことは難しい。   『字統』六七三頁。   『字統』五〇五頁。   「大」きな「火」が赤く燃えていることとするのが妥当である。   『字統』二八三頁。   甲骨文字の「後」は、糸束の形( ぷ )と下向きの足の形である 夂 ち ( ソ )から成り、初文は「 へ 」の形である。下向きの足は後退 の象徴であり、引伸義で時間的に遅れることを表したと推定される。糸束の形は「午」または「玄」であり、この文字の声符と 推定される。   『字統』八一九 ・ 一三三頁。このほか「進(同四七四頁) 」なども鳥占いを表すと解釈する。   『史記』殷本紀には、殷の始祖である契の神話として、その母の簡狄が玄鳥(ツバメ)の卵を飲んで妊娠したという感生説話が 記載されているため、殷王朝と鳥の関係を重視する学説も多い。しかし、甲骨文字の先王祭祀では上甲を始祖としており、契へ の祭祀や信仰は記載されていないので、後代に加上された神話と考えられる。   『字統』四九三頁。   白川静「卜辞の本質」 『立命館文学』六二、 一九四八年。

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漢字の成り立ち 落合淳思   白川は「卜辞の本質」において、甲骨占卜を「本来の貞卜行為としての意義を殆ど喪失して、むしろ儀礼的慣習的行為として意 義づけられるものではないか」 (三四頁)とし「修祓祝祷的なはたらき」 (三八頁)を想定する。しかし、厳密に言えば、甲骨文 字は形式上は占卜文としての体裁を維持しており、拙稿「殷代占卜工程」 (『立命館文学』五九四、 二〇〇六年)で明らかにしたよ うに、甲骨占卜は、背面に窪み(鑽鑿)を掘削することによって、出現するひび割れ(卜兆)の操作が可能であり、制御された 占卜行為と呼ぶべきものである。   白川静『甲骨文の世界』平凡社、一九七二年。   白川静+梅原猛『呪の思想』平凡社、二〇〇二年。   『呪の思想』三三頁。   西周金文に初出の「道」について、異族の生首を持って祓いながら道を進むことと解釈している(二九~三二頁) 。なお、首と 同源の文字に頭があり、 頭は初出の戦国時代には 「首」 に声符の 「豆」 を益し加えた繁文であった。ここから、 「道」 についても 「首 (発音はトウ) 」を声符とする形声文字と推定できる。   例えば『甲骨文合集』六一六八「貞う、人三千を登(徴兵の意)し、呼びて も 方を伐たしむるに、祐有るを受くるか」 。   甲骨文字では、軍事演習は「 ぽ ( ま )」と呼ばれ、特に第三期~第五期に多く見られる。また、 「狩( ア )」や「田( イ )」と呼ば れた狩猟行為も、おそらく軍事演習を兼ねていたであろう。   白川静「羌族考」 (『甲骨金文学論叢第九集』立命館大学中国文学研究室、一九五八年)など。   『字統』七九九頁。   同右。   甲骨文字の徴兵の記述は三千人または五千人の規模で行われており、この場合も眉は徴兵の意であり、 「庚寅卜 l 貞勿眉人三千

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立命館東洋史學 第 34 號 望 も …」 (『甲骨文合集』六一八五。…は欠損部分) は「庚寅卜して l 貞う、人三千を眉 (徴兵) し、 も …を望(偵察)せしむる 勿からんか」と訓ずるべきであろう。   発 表 は 一 九 九 三 年 で あ り 、﹃ 字 統 ﹄ 初 版 の 一 九 八 四 年 よ り も 後 で あ る 。   『字統』四六九頁。   島邦男『殷虚卜辞綜類』大安、一九六七年。   梁思永・董作賓『殷虚文字乙編』中央研究院歴史語言研究所、一九四八~一九五三年。   身 に 妊 娠 の 意 味 が 付 加 さ れ た 経 緯 は 不 明 で あ る が、 「 腹 部 を 強 調 し た 指 事 文 字 」 を「 腹 部 が 膨 ら ん だ 形 の 象 形 文 字 」 と 誤 解 し た の か も し れ な い。 な お、 甲 骨 文 字 に は、 「 れ 」 と は 別 に、 妊 娠 を 示 す「 ゆ 」 や「 よ 」 の 文 字 が あ り、 「 孕 」 と 釈 さ れ る。 ま た、 甲 骨 文 字 に は「 腹 」 に あ た る 文 字 も あ り、 殷 代 に は、 腹 部 を 意 味 す る 身( れ ) に 声 符 と し て 復 の 初 文 の 复 ( ‰ ) を 益 し 加 え た 繁 文 の「 Å 」の字体であった。   『字統』六七三頁。   『字統』六一一頁。   『字統』八一九頁。   甲骨文字では、 「 サ 」の形は「くち」と「 ザ 」以外にも、より一般的な器物の意味や、建物の土台・人間の頭部の形などの意味 でも使われている。また、西周金文では隙間を埋めるためにデザイン的に配置されることもある。 ︵ 本 学 文 学 部 助 教 ︶

参照

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