Title
資本蓄積論と弁証法−平野厚生著『マルクス資本蓄積論
の研究』によせて−
Author(s)
谷口, 正厚
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 7(1): 1-22
Issue Date
1983-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6681
資本蓄積論と弁証法
一平野厚生薯『マルクス資本蓄積論の研究』によせて- 谷口正厚 はじめに (1)資本そのものの死滅の必然性と資本蓄積論 ②「剰余価値生産による資本そのものの生産」 の分析としての資本蓄積論 ③資本蓄積論内部の同一性と区別 (4)平野氏における「資本の歴史性」の論理 おわりに はじめに 平野厚生『マルクス資本蓄積論の研刑は資本蓄積論と経済学の弁証法的方 法に関して重要な問題を提示していろ。氏は本書の「はしがき」の昌頭で次の ように述べている。 「本書は、マルクスの資本蓄積論の理論構造を解き明かし、それをとおし てマルクスが資本の歴史性をどのようにとらえているのかを、追求してみよ うとしたものである。」(平野厚生、『マルクス資本蓄積論の研劉、青木書店、1981年、3頁・以下、本書からの引用は頁数のみを記す。)
ここで「マルクスの資本蓄積論」というのは『資本論』の第1部の第7編「資 本の蓄積過程」の全体のことである。(以下、本稿でもこの意味で資本蓄積論 という言葉を使う。)また「資本の歴史性をとらえろ」とは、マルクスのいう『資本論』の弁証法的方法とりわけ「現状の肯定的理解のうちに同時にまたそ
-1の否定、その必然的没落の理解を含む」批判的革命方法(『資本論』第1部、
「第2版後記」)のことを意味している。①
ところで、平野氏は、「資本の歴史性」をとらえるマルクスのこの弁証法的 方法の内容を追求するという本書の課題を設定するにあたって、意識してでは ないが、ひとつの前提をおいている。それは、「資本の歴史性」の論理を資本 蓄積論のなかに、すなわち『資本論』第1部の第7編「資本の蓄積過程」の編 のなかに見ようとする見地である。それは氏に限らずマルクス経済学において 広くみられる見地であるが、その具体的内容についてみるとそこには氏独自の 内容もみられる。本稿では、この両面を含む、資本蓄積論の位置づけ、性格づ けについての氏の見解の批判的検討を行なうことを課題とする。 (1)資本そのものの死滅の必然性と資本蓄積論 平野氏は「資本の歴史性」を明らかにすることは「経済学の根本課題」(iii ●●●●●● 頁)だという。しかし他方では、同時にそれを資本蓄積論の課題としてとらえ ており、本書での検討の対象ももっぱら資本蓄積論に限定されていろ。問題の このようなとらえ方はいかなる根拠にもとづくのであろうか。 氏は、「はしがき」のなかで、 資本蓄積論は「『資本論』のなかにあって、資本の歴史性の何であるかを 考えるにあたってとくに枢要な地位を占めている」(iii頁) と述べていろ。しかしそこでは、「枢要な地位」の具体的内容が何かというこ とも、また氏がこのように考える根拠も示されてはいない。 序章「資本蓄積論と資本の歴史性」および第1編「マルクス資本蓄積論の理 論構造」の昌頭の章「資本蓄積論の基本性格」の2つの章は、もし氏がその必 要を認めておれば、氏の上述の見解が何を根拠にしている力>の説明がそこで与 えられるものと我々が期待しうる性格のものであるが、そこでも、ほかならぬ 資本蓄積論において「資本の歴史性」の論理が追求されねばならないという見 解は、当然のこととして前提されているのみである。 したがって、「資本の歴史性」を明らかにするために資本蓄積論がとくに重 2要な地位にあること、あるいはより限定していえば資本蓄積論でこそ「資本の 歴史性」が明らかにされるべきであるということは、ととさらにそう考える理 由をあげる必要のない、自明のことであると氏は考えていると思われる。 氏が問題をそのようにとり扱うことには根拠がないわけではない。第1に、 『資本論』第1部の第7編「資本の蓄積過程」の第24章第7節「資本主義的 蓄積の歴史的傾向」におけるいわゆる「否定の否定」の法則が指摘されろ。マ ルクスはそこで、資本の本源的蓄積の過程の要約を行なったあとで、資本その ものの否定の論理を資本主義的生産様式における生産力と生産関係の矛盾の見 地から述べている。ここでは、第23章で定式化された「貧困、抑圧、隷属、 堕落、搾取の増大」の法則がこの矛盾の一契機をなしていることが示されてい ろ。したがって、マルクスの批判的・革命的弁証法において資本蓄積論が重要 な地位を占めていろということそれ自体は疑問の余地のないことといってよいであ ろう。しかし、その地位の具体的内容はいかなるものであろうか。あるいは、 第23章での展開は、第24章第7節で示された生産力と生産関係の矛盾との 関連においていかなる契機として位置づけられるのであろうか。この点につい ての平野氏の見解をみるまえに、まず、ローゼンベルグ『資本論注解』をとり あげて通説的見解についてみておこう。 ローゼンベルグは、資本蓄積論中の第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」 の研究の対象について次のように述べている。 「この章でマルクスは、彼の全体系のなかで決定的な役割を演ずろ新しい 範檮を導入する。それは資本の有機的構成のことである。ちょうど焦点のよ うに、有機的構成の変化のうちに、ブルジョア社会の生産力の変化とそれに 照応する生産関係の変化が、また-これがとくに重要なのだが-生産力 と生産関係の矛盾の激化が、反映されろ。資本の有機的構成の高度化は、(あ とで述べるように)生産力の発展の結果である資本の技術的構成の高度化を あらわすが、それは同時に、可変資本の相対的(ときには絶対的)減少の結 果としての労働者階級の状態の悪化を、すなわちまた労働と資本との矛盾の 激化を、意味する。 3
このように、マルクスは『抽象的なものから具体的なものへの上向』の道 をとおって、本章で、経済学全体の中心問題一資本の増殖の進行中におけ る、資本蓄積の進行中における、生産力とその資本主義的形態との矛盾一 に到達した。そして資本主義の基本的矛盾を動態において研究することによ って、資本主義の発展の基本的傾向の発見、資本主義的蓄積の一般的法則の
発見に、みちびかれるのである。」②
また、河上肇『資本論入門』も、第23章について、次のように述べている。 「いまここでは、これらの過程(資本の再生産過程……谷口)がプロレタ リアートの量的増大を伴うと共にいかにその質的変化を起すかが研究されろ。 そのために、資本の増大もまた単にその量的方面からでなく、質的方面から 観察され、蓄積過程に伴う資本の有機的構成の変化が明かにきれる。不変資 本および可変資本なる独特の範祷に基礎づけられたとの資本の有機的構成な る範囑は、資本家的生産のもとにおける生産諸力と生産諸関係との間におけ る矛盾撞着を反映するものであり、先に我々が第1章に見たろ商品生産に含 まれる矛盾は、ここで最も尖鋭化した展開を見ろ。かくて労働者階級の生活 は耐うべからざろものとなり、資本家的秩序の弔鐘が鳴りひびくことになる。かくの如きが本章での問題である。」③
ローゼンベルグも河上肇も基本的には同じである。第24章第7節を念頭に おいて、第23章では生産力と生産関係の矛盾が、『資本論』第1部の範囲内 でもっとも激化した、尖鋭化した形で展開されていろと考えろ。河上肇の場合 は、「資本家的秩序の弔鐘が鳴りひびく」という文章でもって直接的に第24 章第7節との関連を示唆していろ。 これが「資本の歴史性」の解明における資本蓄積論の地位についての通説的 な考え方であろう。つけ加えておけば、法則とはくり返すものだという見地か ら、資本そのものの否定の必然性を資本の内的法則から導きだすことはできないと考えて「貧困化」法則を批判する宇野弘蔵氏も、『資本論』理解という点
からみれば上述の通説的見解と同じ立場にたっていろ。 しかし、ここで注意すべきことは、平野氏の場合は資本蓄積論の位置づけの具体的内容がローゼンベルグや河上肇の場合とは異なるということである。平
4野氏は、第23章も含めて、「蓄積論とは、換言すれば資本そのものを生産す る関係を明らかにすることにほかならない」(22頁)と考えろ。我々は、こ の位置づけと「資本の歴史性」を明らかにするものとしての資本蓄積論の位置 づけとの関連についてあとで考察するが、そのまえに、資本そのものの生産の 論理としての資本蓄積論という氏の見解をみてみよう。 (2)「剰余価値生産による資本そのものの生産」の分析 としての資本蓄積論 周知のとおり、マルクスは「直接的生産過程」の分析に入るに先だって、 『資本論』第1部第2編「貨幣の資本への転化」の最後のところで次のように 述べていろ。 「ここ(「直接的生産過程」の分析……谷口)では、どのようにして資本が 生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産さ れるかということもわかるであろう。貨殖の秘密もついにあばきだされるに
ちがいない。」④
「資本論』第3編~5編で「どのようにして資本が(剰余価値を)生産するか」の分|i斤 が行なわれているが、そこでは資本あるいは資本関係については、さしあたり、 その存在の必然性は問うことなく、ただその存在の事実を前提して、この前提 のうえで行なわれうる剰余価値生産についての分析が行なわれる。しかし、資 本関係が存在しなければ剰余価値生産も存在しないのだから、剰余価値生産の 分析だけでは資本の直接的生産過程の分析は未完成である。資本関係の存在と 再生産の必然性が示されねばならない。第7編「資本の蓄積過程」でこの課題が果たされろ。⑤これが平野氏による資本蓄積論の位置づけである。
ところで、これは、資本蓄積論の位置づけに関する周知の事項である。その意 味では平野氏独自のものではない。しかし、この周知の位置づけは次のような 問題をひきおこす。「資本による剰余価値の生産」と「剰余価値による資本そ のものの生産」とは、直接的生産過程の相互に前提しあう2つの契機、2つの 5側面である。だから、この見地からみろと、資本蓄積論によって明らかにされ
ることは相互前提関係なのである。その意味で、資本蓄積論は、「資本による
剰余価値の生産」という規定において把握された資本の生産過程を、たんに一
時的・偶然的なものとしてみるのみではなく、連続性の見地から、肯定的に把
握することをまず第1の課題としているのである。平野氏が本書で強調するの
は資本蓄積論のこの側面である。「それは(「剰余価値による資本そのものの生産」の分析は..…・谷口)資
本関係の存在そのものを、その必然性において証明するということにほかな
らない。マルクスの蓄積論は、まさに、こうした問題を直接の対象として解
明しようとするもの、といえるのである。」(23~24頁)
そうすると、資本蓄積論は資本をその存在の必然性において証明するもので
ありながら、同時にそれを「歴史性」において明らかにするもの、すなわちそ
の存在の否定、死滅の必然性を証明するものでなければならないということに
なる。この矛盾はいかに解決されるのであろうか。さきにみた、「資本の歴史性」を明らかにするうえで資本蓄積論がとくに重
要な地位にあるという平野氏の見解の具体的内容が積極的に説明されていない
という問題の意味も、この矛盾を解決するなかで考えられなければならないも
のである。平野氏における独自なものとは、資本蓄積論を「剰余価値生産による資本そ
のものの生産」の分析とみる見地を徹底させることにより、問題を論理的矛盾
の形で-意識的にではなく事実上において、結果的にであるが-もっとも
するどく提起していることである。しかし、資本蓄積論を資本そのものの否定
の必然性を示すものとしてみることも、「剰余価値生産による資本そのものの
生産」の分析としてみることも、そのどちらも、それ自体としては平野氏に固
有の見地ではなくむしろ一般的・通説的な見地である。だから、平野氏におけ
る矛盾は同時に通説における矛盾でもあるはずである。そこで、平野氏におけ
るこの矛盾の解決をみるまえに通説的見地におけるこの問題のとりあつかいに
ついてみておこう。 6(3)資本蓄積論内部の同一性と区別 『資本論』第1部、第7編、第21章「単純再生産」において、「剰余価値 生産による資本そのものの生産」すなわち資本関係の再生産が、過程の連続性 の見地、永久化の見地から考察されていることは明らかである。マルクス自身 が第21章の最後で次のようにいっている。 「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分 離を再生産する。したがってそれは労働者の搾取条件を再生産し永久化す
る。」⑥
「資本主義的生産過程は、関連のなかで見るならば、すなわち再生産過程 としてはただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係その ものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである。」⑦
第22章では資本蓄積が考察されて、単純再生産から拡大再生産へと考察の 対象は変ることになるのだが、資本関係の再生産=永久化の側面を明らかにす るという点では第21章と異なる見地で分析が行なわれているものではない。 これに対して、第23章では、第22章と同じく資本の蓄積過程が考察され るのだから、今度は資本蓄積が違った側面から考察されるのでなければならな い。ローゼンベルグ、河上肇によれば、この第23章では資本蓄積が資本主義 的生産様式の発展過程における生産力と生産関係の矛盾とその激化という観点 から考察されるのである。第23章の位置づけは、第24章第7節との関連を 示唆すると同時に、第21章、第22章との区別を示唆するものでもあるので ある。河上肇は、第23章の位置づけを行なう際に、第21章、第22章をふ りかえって次のように述べていろ。 「『本章(第23章..…6谷口)において我々の取扱わんとするところは、 資本の増殖が労働者階級の運命に及ぼす影響である。この研究にとっての最 も重要な要素は、資本の構成、ならびにそれが蓄積過程の進行中に受けると ころの変化である。』マルクス自身がかように本章での問題を規定していろ。 我々はすでに以前の章において、『再生産の過程としての資本家的生産過程 7は、ただに商品を生産するばかりでなく、剰余価値を生産するばかりでなく、 それは資本関係自体を生産し、一方の側には資本家を、他方の側には賃労働 者を、生産し且つ再生産する』ことを見た。またかかる再生産が拡大される 規模において行はれるにつれ剰余価値の量的増加は、資本家の驍著をして彼
の蓄積を制限することなしに益々増大せしめることをも見た。」⑧
河上肇が、これに続く文章で、これと対比させる形で、生産力と生産関係の矛 盾の展開としての第23章という位置づけを与えていることは、さきに(1)で示 した引用文によって理解されるであろう。 たしかに、河上も、かかる意味での第21章および第22章と第23章との 区別を意識的・積極的に展開しているわけではない。資本蓄積論を、「剰余価 値生産による資本そのものの生産」の分析としてみると同時に資本そのものの ●●●●●●● 否定の必然性を示すi6のとしてもみるという見地にたっとき、事実上において、 第1の課題は第21章および第22章で果たされ、第2の課題は第23章で果 たされると考えられているというのである。とにかく、このように考えられる かぎりでは、河上においては、矛盾は存在しないのである。ローゼンベルグの 場合も基本的に同じである。 しかし、これで問題そのものが解決されるわけではない。この考え方は、 「剰余価値による資本そのものの生産」の分析は第22章で完成し、第23章 で明らかにされることはそれとは次元の異なるものであるという考え方である。 だが、『資本論』の内容はそのようなとらえ方ではとらえきれない。 第1に、「剰余価値による資本そのものの生産」の分析は第22章で完成さ れるものではなく、第23章の「資本主義的蓄積の一般的法則」によって完成 されるべきものである.なぜなら、第22章における労働力の拡大再生産は、 労働力の価値規定の内容に含まれる限りでの労働者人口の増大によって説明さ れるにとどまっていた。そこでは、蓄積過程での労働力の供給の愛化と資本の増大(資本の増大による労働力の需要の増大)との不一致の可能性は問題にさ
れなかった。すなわち両者は一致するものとしてとり扱われていた。しかし、 このような意味での労働力の拡大再生産にとどまるならば、資本関係の再生産 は、蓄積すなわち拡大する規模での剰余価値生産のくり返しにとって適合した 8ものとはいえないのであって、そのことはマルクス自ら強調することであった。
「資本主義的生産にとっては、人口の自然的増加が供給する利用可能な労
働力の量だけでは、けっして十分ではない。この生産は、その自由な営みの ためには、この自然的限度に制限されない産業予備軍を欠くことができないのである。」⑨
「-万の極に労働条件が資本として現れ、他方の極に自分の労働力のほか には売るものがないという人間が現われることだけでは、まだ十分ではない。 資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の 諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した 資本主義的生産過程の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不 断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖要求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者に対する資
本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはす るが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は 『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものか ら生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の 従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。」⑩
だから、「剰余価値生産による資本そのものの生産」の分析は第21章のみ を念頭において考えられるべきではなく、第23章も含めて考えられるべきで ある。「剰余価値による資本そのものの生産」の分析は、第23章を第21章、 第22章から区別する基準ではなく、反対に、この3つの章を統一する基準と みるべきである。 では、第23章は第21章および第22章から何によって区別されるか。私 は区別は次の点にあると考える。第21章では剰余価値生産とその結果として の資本関係の不一致は問題にならない。単純再生産の考察においては剰余価値 生産を単に抽象的に連続性の見地から考察し、再び剰余価値生産が開始されるために適合したものとしての資本関係の存在を確認するだけでよい。そして蓄
積を考察する第22章でも剰余価値生産とその結果であり前提でもある資本関
係との不一致については問題にされていないことは先にみた。これが第21章 と第22章の同一性である。これに対して、第23章では、剰余価値生産と資 本関係の生産との不一致が問題となる。との不一致がいかに生みだされ、また いかにして、剰余価値生産としての資本の規定にふさわしい形で解決されるか が明らかにされろ。「資本主義的蓄積の一般的法則」において、資本関係の再 生産は剰余価値生産すなわち搾取という資本の規定に真に適合した形式を受け とる。そこでは、第21章、第22章と同じ内容ではなく、独自の、より具体
化された内容においてであるが、やはり、資本の直接的生産過程の2つの契機
の相互前提関係が明らかにされていろ。その点では第23章も第21章および第 22章と同じ次元にある。 河上肇やローゼンベルグは、先ほども述べたように、第21章を第23章と ●●●●●●● 区別する見地を意識的・積極的|と展開しているわけではない。彼らによる区別 が事実上の区別であって意識的・積極的なものではないという点に、じゅうら いの通説における問題把握の不明確さがあった。「資本の増大が労働者階級の 運命に及ぼす影響」を分析するか否かが第23章を第22章と区別する基準で あるとしばしば考えられる。しかし、資本蓄積過程の進行において、労働者階 級が拡大再生産されながらも資本関係に永久にしばりつけられることも、これ ●●●●●●●●●● はこれで労働者階級の運命のひとつの内容なのだから、労働者階級の運命一般 をみるかみないかが第23章と第22章とを区別するということはできない。河上肇やローゼンベルグの考えをつきつめろと、第22章では労働者階級の運
命が資本関係の再生産=永久化の論理においてとりあげられ、第23章では資
本関係そのものを否定・廃棄すべき矛盾の論理においてとりあげられろという ことになる。 この点について「資本主義的蓄積の一般的法則」の内容をみるとどうなるで あろうか。マルクスはこれを次のように定式化していろ。 「社会的な富、現に機能している資本、その増大の規模とエネルギー、し たがってまたプロレタリアートの絶対的な大きさとその労働の生産力、これ らのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくなる。自由に利用されうる労働力は、資本の膨張力を発展させるのと同じ原因によって発展させ
-10-られろ。つまり、産業予備軍の相対的な大きさは富の諸力といっしょに増大 する。しかしまた、この予備軍力現役労働者軍に比例して大きくなればなる ほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に比 例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほ ど、公認の受給貧民層もますます大きくなる。これが資本主義的蓄積の絶対
的な一般的な法則である。」⑪
この法則は、まず第1に資本主義的蓄積の敵対的性格を示していろ。しかし、 敵対的性格一般についていうならば、第21章および第22章でいわれる資本 関係の再生産もやはり敵対的性格を示している。生産過程のくり返しのなかで、 労働者階級はたえず無所有の人間として現われ、自らの労働によって自らを支 配する刀としての富=資本を資本家の側に再生産し蓄積せざるをえない階級として現われるというのが資本関係の生産の内容なのだから。敵対的'性格は、それ自体
としては、事態を永久化するという側面からも考察されること、したがって敵 対的'性格がそれ自体として矛盾であるわけではなく両者は区別されるべきであ ることという、見田石介氏によって強調されてきたマルクス・レーニンの見地の意義が、この点からも確認されるべきである。⑫
ところで、「資本主義的蓄積の一般的法則」の内容のなかに、資本関係の
再生産のより具体的な規定をみることをぬきに、資本関係の再生産に対立する資 本そのものの否定の必然性を示す矛盾を見ようとする見地を意識的に展開しよ うとしているのが玉垣良典氏や置塩信雄氏であるので、両氏の見解についてこ こで簡単に述べておきたい。 両氏は、「資本主義的蓄積の一般的法則」の内容について、その本質的内容を現役労働者に対する相対的過剰人口の比率が増大していくこと.あるいは失
業率が増大していくこと雲みる。もしかかる比率が無限に増大していくとすれ
ば、それはある一定の段階では相対的過剰人口の増大が資本蓄積にとって必要 な限界を越え、資本主義的生産の存続を脅やかすものになるであろう。両氏は このことこそこの法則の本質的内容である、というのである。しかしこのよう にみることによって、比率の増大とは区別された相対的過剰人口の拡大再生産 の意義、すなわち資本関係の再生産としての相対的過剰人口の生産の意義が見 -11-失なわれる。ただし、置塩氏の場合は、同じ法則が資本関係の再生産=くり返 しの法則としても説明されており(この場合には、相対的過剰人口の生産・増 ●● 大は「失業率一定」という形で理解されていると思われるのだが).、同じ主語 について2つの相反する主張が無媒介に行なわれろという形で問題が現われる。 両氏のような見解は、すでに述べたことからして誤りであると私は考えるが、 それに加えて、いわゆる「貧困化」法則の説明に際して、マルクス自身が「資 本主義的蓄積の一般的法則」を次のように表現していることからも妥当性を欠 くものである。 「最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模および エネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストスのくさびが プロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっと固く労働者を資本に釘づけに
する。それは資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。」⑮
●●●●●●●● ここで平野氏の問題にたちかえると、氏が強調するのは、第23章も含めて マルクスの蓄積論の全体を「剰余価値生産による資本そのものの分析」として 統一的にとらえるべきだということである。 「本書は、第7編『資本の蓄積過程』を一貫する主題のもとにとらえろと いう基本視点に立つ。それゆえに、第22章に固有な問題として『取得法則 の変転』をみ、第23章に固有な問題として『労働者階級の窮乏化』をみろ、 という仕方をとらない。こうした一貫性を欠く研究の進め方は、マルクス資 本蓄積論の実像に合わないだけでなく、『取得』の問題と『窮乏化』の問題 との関連をもとらえ難いものにしていろ」(79~80頁)。 氏はこの立場から通説・諸説批判を髄所で展開している。私はそれら氏の批 判のすべてに同意するものではないが、資本蓄積論の全体を統一的に把握すべ きこと、その際に資本蓄積論はまず第1に「剰余価値による資本そのものの生 産」の分析としてその統一性が把握されるべきであるということ、この点につ いては氏の主張は正しいと考える。しかしそれゆえに、「資本の歴史性」を明 らかにするうえで資本蓄積論がとくに重要な地位にあるということと資本蓄積 論の上述のような位置づけとの矛盾は平野氏においてこそ鋭く現われるのであ る。 -12-(4)平野氏における「資本の歴史性」の論理 これまで私が明らかにしようとしてきたことは、資本蓄積論はまず第1に、 「資本による剰余価値の生産」と「剰余価値による資本そのものの生産」との 相互前提関係を明らかにするものであり、剰余価値生産をその本性とする資本 は自分自身が自らの前提である資本関係を自分の本性に合致した形で再生産す るものであり、したがって資本は自立的に存在し発展するものであることがこ の資本蓄積論で証明されるべき第1の課題であるということであった。換言す れば資本蓄積論はまず第1の特徴として肯定的弁証法としての特徴をもってい ろ。このことは、第23章「資本主義的蓄積の ̄般的法則」に典型的に示され ているように、そこで自立的に存在し発展していくもの、資本がその本性にお いて敵対的性格を発展させるものだとしても、やはりそうなのである。では資 本蓄積論において、資本の死滅の必然性は、あるいは平野氏の表現にしたがえ ば「資本の歴史'性」はいかに示されるのだろうか。 平野氏は、資本主義的生産様式が他の生産様式とは異なる独自の特質をもっ たものであることを示してその肯定的理解を与えることも広い意味では「資本 の歴史性」の解明の一環をなすと考えろ。だから、「剰余価値による資本その ものの生産」の分析としての蓄積論も「資本の歴史性」を解明するものである と評価する。しかし、氏は続けて次のようにいう。 「しかしながら、マルクスのこの研究は、他方で、資本主義的蓄積が、資 ●●●● 本の存立条件JIP、蓄積論を展開するにあたって前提していたそのままの規定 性でつくり出すという結果になっていろといえる。つまり、資本主義的蓄積 は、資本が自らの実在する諸条件を本質的に変化し発展しうるものとしてつ くり出すようには、とかれていない、あるいはそう言い切ることができない とすれば、積極的には説かれていないといえる。資本が、前提されていたも のを措定するという内容でとらえているのは確かであるが、その措定の仕方、 その内容が、同一質の内容を単に反復するにすぎないものとして明らかにさ れているだけで、変化し発展する質においてとかれているとはいい難いので はないかと思われるのである。 -13-
そうだとすれば、マルクスの資本蓄積論は、資本の存在の必然性、資本の 存在のなぜを、資本の生成と発展との側面においてはとらええているものの、 それが同時に資本の有限性の側面をもとらえているものとはいえない、とい わざるをえない。つまり資本蓄積が、いかに資本を止揚しうるような条件と 形態をつくり出すのか、というような内容において、明らかにされていろと
はいい難いのである。その意味で、この研究は、資本の生成・発展・消滅
(=交替)するような歴史的有限性の論理を十分に解明しえているとはいえ ないと思われるのである。」(260頁。傍点・括弧は平野氏。)このように、氏がマルクスの資本蓄積論は「資本の歴史性」を「十分に解明」
しているものとはいえないというとしても、何も不可解なことではない。氏は ●●すでにみたように、資本蓄積論は資本の存在の必然性HP証明するという課題を
「直接の対象」(23頁)としたものと考えるのだから、資本蓄積論が「直接」
的には資本の特質を肯定的に説明したにとどまっていろという結論がでてくる
のは氏の出発点においてすでに含まれていたことなのである。問題は、資本蓄
積論は「資本の歴史性」を明らかにするものとみる見地である。氏は、この際
●●には、資本蓄積論は「資本の歴史性」を「十分に解明」することを課題として
いろという、上述とは別の尺度でもって資本蓄積論をみているのである。そこで我々はまず、資本蓄積論のなかで、この尺度にもっともふさわしい内容をも
つ『資本論』第24章第7節を平野氏はどうみるのかということからみていこ
う。ここで展開されていろ「否定の否定」の法則のうち、当面の問題である第
2の「否定」に関するマルクスの叙述をまず引用しておこう。「この収奪は、資本主義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、
諸資本の集中によって行なわれろ。いつでも1人の資本家が多くの資本家を
打ち倒す。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手
准携えて、ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態、科学の意識
的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労
働手段の転化、結合的社会的労働の生産手段としての使用によるすべての生
産手段の節約、世界市場の網のなかへの世界各国民の組入れが発展し、した
がってまた資本主義体制の国際的性格が発展する。この転化過程のいっさい -14-の利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減ってゆくのにつれて、貧困、 抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた、絶えず膨 張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練ざれ結合され組 織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく。資本独占は、それとともに 開花しそれのもとで開花したとの生産様式の姪桔となる。生産手段の集中も 労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる1点に 到達する。そこで外皮は爆破されろ。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴
る。収奪者が収奪されろ。」⑯
平野氏は、この部分を含む「否定の否定」の法則全体の要約をしたあとでこ れに関して次のようにいっている。 「みられるように、ここでのマルクスの叙述はきわめて簡単であり、資本 主義的蓄積のどく一般的な特徴が書かれているにすぎない。それは、マルク スがこの節で、資本主義的蓄積あるいはそれに適合した資本主義的私有を人 類社会史のなかに位置づけてその特殊資本主義的な歴史性を、どく一般的に ではあるが、明らかにしようとしたものと理解できるであろう」(89頁)。 これは明確さを欠く文章である。なぜなら氏は、マルクスの叙述を「資本主 義的蓄積の特殊資本主義的な歴史性を、どく一般的にではあるが明らかにしよ うとしたものと理解できろ」と戸方ではいい、他方では「資本主義的蓄積のご ●●●● <一般的な特徴が書かれているにすぎない」というのだから。氏は、第1に ここでのマルクスの意図が資本主義的蓄積の「歴史性」を一般的に明らかにす ●● ることであるが第2にそれはどく一般的にしか書かれていないとみて、結局は 消極的・否定的にマルクスの叙述を評価しているようにみえろ。 しかし、いかに「どく一般的に」ではあったにせよ江上のように評価する限 りでは、その「ごく一般的」な論理のレベルにおいて何がいわれており、何が いわれていないのか、氏自身の評価として明らかにすべきであると思われるが、 氏はこれ以上の具体的な追求を放棄していろ。これは、本書での氏の課題が、 特定の国の、特定の時代の資本主義の「歴史性」ではなく資本主義一般の「歴 史性」ではなく資本主義一般の「歴史性」の論理の解明であるだけに不自然で ある。一般的であるがゆえに具体的な検討の対象からはずすということは本書 -15-で氏がとるべき姿勢ではない。 しかし、氏がここでのマルクスの叙述を消極的に評価するのは、実はその叙 述が一般的であるというだけのことからではない。氏は上述の文章につけた注 のなかでZ)Rのように言っているからである。 「マルクスの『資本主義的蓄積の歴史的傾向』は、資本主義の歴史的実存 過程における発生と消滅とを、直接的に明らかにしているものである、とす る理解は間違っていろと思われる。ここでの規定は資本の内的構造論的把握 を基準として、資本の発生と消滅との過程を論理的にとらえることとなって いるのであって、資本の歴史的実在過程の解明とは区別されろ。 「だがマルクスは、資本の内的構造論的把握のうちに、始めがあって終り のあるようなものとしての資本の存在の論理の最深奥の基礎を、十分にとら えきっていないために、それを基準とする資本の発生と消滅のいわば発生史 論的把握をも十分に明らかにすることができなくなっていろ、と思われる。 ’そのために、ここでの規定も、資本の歴史性を論理的にとらえることと、そ の歴史実在過程を直接的にとらえることとが、明確な区別と関連とにおいて、 十分には明らかにされていない。」(91頁) 氏は、前段の文章で、「資本の歴史的実在過程(における歴史性……谷口) の解明」が問題なのではなく「資本の内的構造論的把握」による「資本の歴史 性」の解明が問題なのだといって、資本主義一般の論理で問題を考えるべきだ ということを強調している。そして、後段の文章では、マルクスには、「資本 の内的構造論的把握」そのもののうちに重大な弱点があった-すなわち「内 的構造論的把握」そのものから資本の発生と消滅の論理がでてこないで、永久 に存続し、発展するという論理のみが示されているという弱点があった-と いう。この「弱点」のために、「資本の歴史性」は論理的展開によってではな く歴史的展開によっておこなわれるという、論理のとりちがえ、混同が行なわ れることになった。これがマルクスに対する平野氏の積極的な批判である。 ここで「資本の内的構造論的把握」と氏がいっているのは、先にみた「剰余 価値による資本そのものの生産」の分析としての資本蓄積論のことである。
「マルクス『資本論』の資本蓄積論は、その仏語版に明確に篇別構成上の
-16-区別として示されているように、資本主義的生産の所産としての資本の本来 的蓄積と、資本主義的生産の出発点としての資本の本源的蓄積との、認識方 ●●●●●●●●●●●●●●● 法上の区別づけがなされているとし、える。前者は、資本主義的生産を再生産 ●●●●●●● においてとらえ、そうしたなかで、資本存立のし、わば構造的理論把握をする ものとして、理解できる。これに対して後者は、前者における資本蓄積論を 基準としてそうした資本が資本主義に先行する過程から、いかに発生・生成 してきたのか、という資本存立のいわば発生史的理論把握をなすものとして 理解できる」(180頁傍点谷口)。 平野氏が第24章第7節に関して、当面の問題になっている第2の否定は、 論理的な説明を与えるのではなく歴史的な説明になっていろというのであれば 私には不可解なことである。ここでマルクスは、生産力と生産関係の矛盾によ って論理的に説明をしているのであって、批判もこれに対する論理的な批判と して行なうべきである。 また、「論理と歴史の混同」の原因として氏が指摘する「資本の内的構造論 的把握」におけるマルクスの「欠陥」とは、第21章~第23章に関する氏の 見解一資本の存在の必然性を証明することを目的としている資本蓄積論は 「資本の歴史性」を十分解明するものではないという氏の見解一の別表現で しかない。 以上のことから、「資本の歴史性」を明らかにするものとして資本蓄積論の 論理構造を明らかにするという平野氏の表明にもかかわらず、第24章第7節 は、それが独自の論理的な意味をもつものとしてはとり扱われておらず、結局 のところ第21章~第23章に、すなわち「剰余価値生産による資本そのもの の生産」の論理に、相互前提関係を明らかにするものとしての資本蓄積論の論 理に解消されているのである。このこととともに、「資本の歴史性」を示すも のとしての資本蓄積論という氏の主張も、その内容においては「剰余価値生産 による資本そのものの生産」の分析としての資本蓄積論という主張に解消され ることになる。 このことは、マルクスの資本蓄積論の不十分性を補なうものとして提起され る氏独自の資本蓄積論の内容に反映していろ。氏は一万では労働力商品の特殊 -17-
'性を強調することにより、他方では「人間と自然との間の物質代謝過程が商品 の原理で包摂されること」を「マルクスの根本的な考え方」(9頁)とみるこ とによって、氏独自の資本蓄積論を構成する。この両者の総合として氏は次の ような見解を提起する。労働力商品はその特殊性によって「資本が労働力を商 品として完全に包摂し切って、そこに自己存立の根拠を得ろ」(262頁)こ とのできないものであり、したがって「ここに、資本は、人間と自然との間の 物質代謝過程を商品形態的に包摂しきることのできない根拠」(269頁)が 示されろ。これこそ「資本の歴史性」を示す資本の「有限性」である、と。 ここでは、資本の「有限性」=「資本の歴史性」は資本の「自己存立の根拠」 ●● の欠如としてとらえられていろ。 したがって氏は、資本関係の再生産の完成された形態である資本による賃労 働の専制支配の完成としての「資本主義的蓄積の一般的法則」そのものにも疑 問を提起する。 「われわれのマルクス『窮乏化』規定への疑問はマルクスの『窮乏化」規 定の論証とその理論的意義に関するものである。すなわち、資本は、資本主 義的生産の結果として、相対的過剰人口を産み出し、これを産業予備軍とし て機能せしめ、このことを現実的基礎=条件として、賃労働の専制支配を完 成しているという命題が、十分な説得力をもって論証されていろといえるか どうか、という点である。また、その論証とのからみで、資本が賃労働の専 制支配を自らのうちに完成するということの理論的意義が再吟味されなけれ ばならないのではないか、という点である。一言でいえば、資本は、それを つくり出す労働力を、商品として拡大再生産し、自らの搾取欲の範囲内に押 し止めて、自由に調節しうる存在であるといえるかどうか、という問いであ る。われわれは、マルクスのこの問いに対する解答には疑問を提示しなけれ ばならないのである」(127~128頁)。 「マルクスは、すでにみたように、資本主義的蓄積は、資本関係を拡大再 生産し、資本(家)による労働(者)の支配を完成せしめろと結語していろ。 そしてそれは、『剰余価値の生産がこの生産様式の絶対的法則である』とい う命題を前提にして展開されていろ。この法則が枠組を成すとすれば、労働 -18-
力の不断の再販売の必然性は明らかである。労賃の上昇は、この研究の進め 方では、資本蓄積を一時的に妨げる障害として処理されうるのみである。し かしながら、われわれの考えでは、マルクスは、この枠組を前提とするかわ りに、むしろ、そもそも剰余価値の生産が労賃上昇とどこまで適合しうるの か、どこから適合できなくなるのか、したがって資本蓄積が労賃上昇をどこ まで、どのように許容でき、どこから適合できなくて自己と矛盾をきたさざ るをえなくなるのか、こうした研究をしなければならなかったであろう、と 思うのである。資本の絶対的法則を前提するということをしないで、蓄積は、 労賃の騰貴にもかかわらず、労働力の再販売の必然性を保証するのかどうか、 ということをこそ研究すべきだったのである。そうすれば、マルクスは、蓄 積が労働力の価値と労賃との乖離のもとで、ある自己矛盾をきたし、自己矛 盾を含有する限りでしか、労働力を商品として支配できないということを、 見い出したであろう。それは、資本が労働力を商品として完全に包摂し切っ て、そこに自己存立の根拠を得るという論理とは、少なくとも非常にちがっ た論理をもっととになったであろうと思われろ。それは資本の絶対的法則の 貫徹する条件と形態とを明らかにするだけでなく、それと同時に資本の存在 そのものが自己矛盾を含む限りでのそれであることをも明らかにするであろ う。そうした論理は、資本の存在根拠を、自分自身のうちにだけ持った無限 進行としてみるのではなくて、自分と他のものとの複合的統一のうちに持つ 有限性の規定としてみることになろう」(261~262頁)。 ここでは、資本の絶対的法則としての剰余価値の生産と、その前提でもあり 結果でもある資本関係の生産とが資本蓄積の進行過程において適合しなくなり、 したがって資本は真に自立的な存在とはもはやいえないで他のものによって規 定される存在である(「有限性」)といわれ、そして、これこそが「資本の歴 史性」を示すものだといわれている。これは、その内容において、マルクスの 「資本主義的蓄積の一般法則」と正反対のものであり、マルクスに対する根本 的な「疑問」である。 このようにみると、平野氏は、一方では、資本蓄積論を剰余価値生産と資本 関係との相互前提関係を明らかにするものとみて、そして他方では、この同じ -19-
関係のなかに資本の否定の必然性をみようとしてとの相互前提関係の不成立を 見ようとするのである。これが平野氏の方法論的立場である。したがって相互 前提関係をいえば資本の否定の必然性がいえなくなり、資本の否定の必然性を いおうとすれば相互前提関係が自立的な存在としては実は存在しないのだとい わざるをえなくなるのである。 おわりに 本稿では、平野氏の独自の資本蓄積論の全面的検討を行なうことは課題とし ていない。本稿の課題は、平野氏の見解をてがかりにして、マルクスの資本蓄 積論の課題と位置について-それも『資本論』第1部の範囲内においての位 置づけについて~検討していくことによって問題点を明らかにすることであ った。 私は、平野氏が資本蓄積論を「剰余価値生産による資本そのものの生産」の 分析と位置づけることについて同意する。この点では、平野氏の本書は通説的 見解を表明するというにとどまらない独自の内容を持ったものであると私は考 えろ。しかし、平野氏はこの見地に視野を固定してしまう。そのことによって、 資本蓄積論のなかで「剰余価値生産による資本そのものの生産」の論理、すな わち相互前提関係の論理それ自体のなかに「資本の歴史性」を見ようとする。 ここに氏の-方法論的見地における-基本的な誤りがあると私は思う。
資本蓄積論をまず相互前提関係を明らかにするものとしてとらえることを前
提にした上で、さらに進んで、この,資本蓄積論のなかに資本そのものの否定の
論理がいかに見出されるか、もしそれが見出されるとすればそれは蓄積論の上
述のような位置づけといかなる関連にあるのか、これは本稿では十分に検討さ
れなかった問題である。本稿は、平野氏や置塩氏が事実上において提起してい
るこの問題に対する回答を与えるものとはなっていない。これは私にとっても
残された問題である。最後に、私は、この問題の真の解決は、平野氏がそうし
ているようにもっぱら資本蓄積論のみをとりあげることによってではなく、いわゆる剰余価値論を含む『資本論』第1部の全体をとりあげるなかで果たされ
-20-るべきものではないかと考えていることを述べて、本稿での問題提起をひとま ずしめくくりたい。 注 ①K・Marx,DasKapital,KritikderpoIitischenOkonomie,Bdl,Dietz VerlagBerlinl962,8.28. マルクス『資本論』、第1巻、マルクス・エンゲルス全集第23巻a、大月書店、 23頁。以下、『資本論』からの引用は、DasKapital,Bd、1,s.28.『資本論』、 第1巻、23頁と略記する。 ②ローゼンベルグ、『資本論注解』、副島種典・宇高基輔訳、青木書店、第2分冊 485頁。 ③河上肇、『資本論入門』、青木文庫、1952年、第5分冊、1006~1007頁。 ④DasKapital,Bdl,S、189.『資本論』、第1巻、230頁。 ⑤ただし、本源的蓄積は「資本そのものの生産」ではあるが、「剰余価値生産による」 資本の生産ではない。本稿では、本源的蓄積の問題はそれ自体としては考察の対象と していない。 ⑥DasKapital,Bdl,8.603.『資本論』第1巻、752頁。 ⑦DasKapital,Bd、1,s604.『資本論」第1巻、753頁。 ③河上肇、『資本論入門』、青木文庫、1952年、第5分冊、1006頁。 ⑨DasKapitaI,Bd、1,s、664.『資本論』第1巻、827頁。 ⑩Ibid,S、765.同上963頁。 ⑪Ibid,SS673~4.同上839頁。但し、訳文は上記全集版と同じではない。こ の点に関しては拙稿「相対的過剰人口概念について」『経済学雑誌』第72巻第2号、 1975年、65頁を参照されたい。 ⑫K・マルクス『哲学の貧困』、全集、第4巻、148頁。レーニン、木原正雄訳 -21-
『レーニン経済学評注』、大月書店、1974年、22頁。見田石介『資 本論の方法』、見田石介著作集第4巻、167~8頁。また、「『資本論』 と現代経済(2)」(『講座現代経済学』第3巻、島恭彦監修、青木書店、1978 年)の第6章「資本の蓄積過程」(角田修一執筆)も参照のこと。 角田氏はそこでは、噴本主義的蓄積の一般的法則」そのものについては本稿での 私の立場と同じ内容を展開し、そして資本蓄積の敵対的二重性を破壊・止揚する必然 性は、「より根本的には、『資本主義的蓄積の歴史的傾向』における『労働の社会化 と資本主義的私有』との矛盾にもとめられよう」と述べる。と同時に、第21章~第 23章についても、ここで資本蓄積に内在する矛盾を明らかにし、それによって「近 代の階級闘争の一方の担い手である労働者階級が、資本蓄積とともに自らの発達に加 わってくるいっそう大きな障害-ここでは失業と貧困一との闘いのなかで訓鰊さ 札組織されて、自らの発達の可能性を現実性に転化していく合法則的運動を明らか にすること」も「ひとつの課題」であると強調し、独自の具体的展開も試みている。 角田氏の見解は対立・相互前提関係と矛盾とを明確に区別する見地にたつものであ り、その具体的内容においても私は考えさせられた。本稿は対立・相互前提関係と矛 盾とを明確に区別しない見地、あるいは「資本主義的蓄積の一般的法則」をそれ自体 として資本蓄積の矛盾を示す法則として理解し、したがってここから直接に資本その ものの否定の必然性を導きだそうとする見地、これらの見地力漬本蓄積論の方法論と して支配的であるとみて、それとの関連で平野氏の独自の見解を批判的に検討しよう とするものである。したがって角田氏の提起した問題の全体に対しては私の見解は未 展開にとどまっている。