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ゲーテの「祝福された憧憬」

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全文

(1)

ゲーテの「祝福された憧憬」

著者

長谷川 茂夫

雑誌名

VERBA

6

ページ

15-26

発行年

1981

URL

http://hdl.handle.net/10232/16438

(2)

ゲ ー テ の詩 作 品 中,本 論 の対 象 とな る詩 ほ ど人 口に 膳炙 し,諸 々 の解 釈 を な され て き た もの は 無 い で あ ろ う。 現 在 で は俗 化 ・陳 腐 化 の恐 れ さ え見 え て い る こ の詩 を,筆 者 は も う一 度 詳 し く正 確 に吟 味 してみ た い。 そ の 際 に,総 て の 説 明 を 無 用 の も の とす る万 能 の 「神 」 とい う言 葉 を極 力排 除 す るつ も りで あ る。 また,ゲ ー テが 出 典 と した サ ー デ ィ とハ ー フ ィス の詩 との異 同 に つ い て も触 れ る つ も りは な い 。 この詩 は 完 全 に ゲ ー テ 独 自の も の と成 りえ て い るか らで あ る。 本 論 の読 者 が 予 め この詩 を知 っ て い る こ とを筆 者 は期 待 す る。 そ れ ゆ え,ま ず 全 体 を 挙 げ,そ し て説 明 の都 度 各 々の詩 句 を も う一 度 挙 げ る こ とに す る 。 SELIGE SEHNSUCHT

Sagt es niemand, nur den Weisen, Weil die Menge gleich verhöhnet, Das Lebend'ge will ich preisen, Das nach Flammentod sich sehnet.

In der Liebesnächte Kühlung, Die dich zeugte, wo du zeugtest, Überfällt dich fremde Fühlung, Wenn die stille Kerze leuchtet.

Nicht mehr bleibest du umfangen In der Finsternis Beschattung, Und dich reißet neu Verlangen

(3)

-ゲ ーテ の 「祝 福 された憧 憬 」

Auf zu höherer Begattung.

Keine Ferne macht dich schwierig, Kommst geflogen und gebannt, Und zuletzt, des Lichts begierig, Bist du, Schmetterling, verbrannt.

Und so lang du das nicht hast, Dieses: Stirb und werde! Bist du nur ein trüber Gast Auf der dunklen Erde.

第 一 行 は 語 りか け で 始 まる。

Sagt es niemand, nur den Weisen,

(思 慮 の あ る者 達 以外 に は,誰 に も言 っ て は な らない 。) これ は 誰 に対 して 語 りか け てい る ので あ ろ うか 。 読 者 は,自 分 に 向 か っ て だ,と 受 け と って よい 。Sagtは 複 数 に対 す る 命 令 で あ るが,ゲ ーテ は,西 東 詩 集 が 初 め て連 作 の 体裁 を 整 え た ヴ ィー スバ ー ダ ー ・レギ ス タ ー で,一 般 的 な 語 りか け にihrを 使 った 詩 を 併 置 して お り,本 編 も そ の一 つ だ か らで あ る 。 ま た読 者 は,次 の よ うな 情 景 を 思 い 浮 か べ る の も 自由 で あ る 。 そ れ は,死 の床 に就 い た 神 秘 家 が 枕 元 に 弟 子 達 を 集 め,今 まさ に 最高 の教 義 を 説 か ん と して, そ の教 理 を 更 に 語 り承 ぐ 相 手 を選 べ,と 諭 してい る姿,即 ち,「 古 代 ペ ル シ ヤ 信 仰 の 遺 言 」 と同 じ状 況 で あ る。 この場 合 で も 読 者 は 自分 を 弟 子 の一 人 と考 え て よい 。 い ず れ に せ よ,こ の行 で 始 ま る第 一 節 全 体 が 上 述 の対 象 に 向 か って 語 りか け られ て お り,第 二 節 以 下 の呼 び か け の対 象 で あ るduと は 実 質 を異 に してい る。 この 問題 は本 論 の重 要 な論 題 の 一 つ で あ り,詩 の第 二 節 を 論 ず るに 際 して,も う一 度 詳述 され る。

Weil die Menge gleich verhöhnet,

Mengeは 明 ら か に 否 定 的 意 味 合 い で 使 わ れ て い る 。 『タ ッ ソ ー 』 の 「衆 愚 は

(4)

-芸術家を困惑させ,臆させる」3)という見解と同一であり,『詩と真実』第十

三章に述べられた,『ヴェールター』出版時に於ける一般大衆の無理解とも言

える反応を連想すれば,ケーテの意を汲承とったことになるだろう。そして次

の蔵言が〆第一・二行全体の伝達内容を良く説明している。「私がちゃんと承

知していることはj私だけが心得ていることなのだ。口に出された言葉は,め

ったに助けにならない。大抵は,異論,停滞,行き詰まりをひき起こす。」4x

DasLebend,gewillichpreisen,

この中性名詞dasLebendigeとは何を指すのだろうか。この時点では一先

ずぅ,生きている万物と考えておく以外にない。しかし,それには,

DasnachFlammentodsichsehnet6

という条件が付いている。この行のFlammentodは,Flammenscheinに換

えて置かれた言葉である。5)との変更に関してシュラーダーは,Flammentod

はより正確な表現だ,何故ならFlammenscheinは単に目的への指標にすぎな

いから,と言っている。6〕しかし,この変更の本質を言い表わすにはそれだけ

では足りず,またこの指摘は,既に詩全体を熟知している者の』懐く考察であっ

て,結果から原因を説明するが如き違反を犯している。この第四行がこの時点

で及ぼす効果と働きは,今のところ第三行との関連の承で考察すべきなのであ

る。そして,シュラーダーの犯した違反は,次のような誤解がFlammenschein

という語によって成立する危険を看過する結果を生んだ。即ち,(生物が)「輝く

炎」へと惹かれるのならば,それは正常であり,燃え立つ生命への志向とさえも

了解できる。そして,それは別に衆愚に知らせてならない程の神秘ではありえな

いのである。Flammentodという造語を採用することでケーテはこの危険を取

り除いたばかりか,語自体の異様さと「炎の死をあこがれ求める」という表現の

唐突さで読者に強い衝撃を与え,前行のdasLebend'geをさらに強く印象づ

けることに成功している。そして未だ詳らかでないこの「生きているもの」の

本質を説き明かすことが,次の第二節以下の主目的なのである。

InderLiebesnachteKiihlung, Diedichzeugte,woduZeugtest, − 1 7 −

(5)

ケーテの「祝福された憧慢」

第二節第二行のdichとduは読者ではありえない。第一節第一行に関して

述べたように,読者に対してはihrが使われているからである。また,ケーテ

の単なる不注意によってihrからduへの移行が起ったという考えは完全に

排除すべきである。もしihr=読者に対して呼びかけたままならば,二行下の

leuchtetに対応してzeugtetと合致する韻を,この詩全体で唯一箇所破ってま

でzeugtestとした意味が無くなってしまう。ヴェルナー・クラフトが不審の

念を表明した,このミスライムは,極めて意図的なものである。7)

では,ケーテがこのような非常手段を取ってまで,第一節の呼びかけの対象と

混同されることを避けようとしたduが指すものは,一体何であろうか。第四

節第四行をここで挙げることはダ何ら解答にならない。この時点でのduは,

未だそこまで発展していないからだ・詩の発展に従って,このduは発展・成

長してゆく。何なのか。性々にして最も単純で簡単なものが正しい解答である

ものだが,この場合もそうである。即ちジここでのduはdasLebend,geと

見るのが良い。何故か。根拠は第一節第三行にあるpreisenという動詞であ

る。話し手は「生きているものをほめたたえるつもりだ」と言う。しかし,そ

のために彼は何をするのか。称えるのは単に彼の心の中でだけなのだろうか。

そうではなく,彼は実際にPreisgesangを歌っており,詩の第二節からは内

容が第一節とは裁然と分かたれ, 彼が歌った頒歌そのものが始まっている,と

判断すべきなのである。8)語り手が聞き手にではなく,自分の話に出てくる相

手に対してduで呼びかけることはヅ何ら特殊な用法ではない。

それでは,この見解に立ったうえで,各行の具体的な内容を考察してゆこ

う。

第二節第一行のKiihlungは,様々に論議されて来た言葉だが,大別する

と二つの意見に分かれる,そのひとつは,肉体的な欲望を静めた後の(または

静めつつある)状態を指す,とする立場である。例をいくつか挙げよう。

「自然な愛の欲求を静めること」9〕

「たった今,生殖であった夜の愛が冷める」'0)

「抱擁…(略)…Kiihlung…(略)…覚醒」11)

− 1 8 −

(6)

そしてもう一方が,「地上的愛の夜のすずしい闇」'2)に代表される立場であ る。これは,シラーが「殆どの人間の現存在がそれに掛かっている」と登場人

物に言わさしめた「昼の暑さ」'3)から解き放たれ,欲望が盛んになる時刻を意

味する。この二者は,前者を生殖行為そのもの,後者を性的欲望,と簡単な言

葉に言い換えても,それほど的外れにはならないであろう。すると次行の「お

前を生承出し,お前が生承出した」という規定を満足させるには,一見前者の 方が適切であるかのように見える。しかし,この詩全体を貫いている駆動力が エロスの力であることを考えると,未だ充足させられていない性的欲望を想定 する方が,より妥当なのである。そしてこの,見解は,i次行のzeugenが過去形 を取っている事実とも,良く整合する。即ち,その欲望は,かつては肉体的生

殖行為へと駆り立てていたものなのだが,今やそれが別のものへと変質するの

だ。その一瞬を第三行は, UberfalltdichfremdeFiihlung,

と表現する。「お前」を襲う「奇妙な感じ」。このfremdの内実は何であろう

か。コルフは「何か新しいものの予感−或る新しい理想の幻影」'4)と言い, シュタイガーは「生命を超えた切望」'5)と言っている。今までに経験したこと のない’全く目新しいものであるには違いないが,それだけではケーテがneu

に替えてfremdを置いた必然性がない。'6)ここでは,ケーテの用語法におい

てfremdの持つ特殊な意味を読承とるべきである。即ちそれは,eigenに対

立して,本来の自己とは異質の非生産的な要素を含むものなのである。例えば 『マイスター』ではその理念が根底を流れていると言って良く,次の個所はそ の好例をなすだろう。 EinKind,einjungerMensch,dieaufihremeigenenWegeirregehen, sindmirlieberalsmanche,dieauffremdemWegerechtwandeln…'7) 最も不幸な場合には,本来の自己を失なってしまう虞れさえも暗示する言葉 なのだ。このように異常な状態に「お前」を陥れる契機が,次行のstilleKerze である。 WenndiestilleKerzeleuchtet. − 1 9 −

(7)

ケーテの「祝福された憧慢」 このイメージこそ’一編の詩の中心であり,出発点である。全くの闇のなか で,ただそれだけが存在する静かな光一静かとは,動かないこと,音を立て ないこと,である−この光景には,あらゆる人間の,それぞれの憧慢を喚起 する力がある。ホーフマソスタールが,そこからクリスティアーネの通夜の晩 を連想したのも無理からぬことである。'8)自分の内部に眼を向けて,心を闇で 満たし,その中心に静かに光を放つ蝋燭を置いて承よう。そうすれば,この詩 の次の二節は自ずから湧き出てくると思える程必然的なものであることが理解 できる。 Nichtmehrbleibestduumfangen、 InderFinsternisBeschattung, 第三節第二行「闇の譜りの裡に」とは外部の夜を指すのではなく,心の中の 闇を意味する。 Unddichrei6etneuVerlangen Aufzuh6hererBegattung・ このVerlangenは,第二節第一行のderLiebesniichteKiihlungで昂まっ た,以前ならば性的であるべき欲望なのだが,既に第二節第三行の時点で変質 している。この変質した欲望が「お前」にとって見知らぬものであるが故に neuなのである。第一・二行と第三・四行を結ぶundは,時間的前後関係や 因果関係を表わすのではなく,同一の実質を異なった側面から言い表わしてい ることを示している。Verlangenが変質したものであるのならば,その対象も 変質していて当然であり,その特質はh6herと呼ばれる。そしてVerlangen が性的欲望をその原型として持っているからには,その対象がBegattungと 名付けられてしかるべきである。この「より高き婚(くなが)い」を実現する ために「お前」のおこした行動が,その激しさに相応しく,第四節で一気に歌 われている。 KeineFernemachtdichschwierigj Kommstgeflogenundgebannt, Undzuletzt,desLichtsbegierig, − 2 0 −

(8)

Bistdu,Schmetterling,verbrannt. 既に何度か述べたように,これはすべて精神的次元での出来事であり,この Ferneも空間的距離を表わすのではない。「お前」は,精神の内奥で揺らめか

ず音も立てず燃えている蝋燭へ向かって,怯まず,懸かれたように飛んでく

る。そしてついにはγ光に対する織烈な希求ゆえに,内部の精髄と合体し,自

らも光を発しつつ,自分を焼却するのだ。 これまで単にduとして呼びかけられて来たdasLebend,geが,ここで

初めてSchmetterlingという名で呼ばれた。光を求めて飛ぶ魂にその称号は相

応しい。20)しかし,この名によってdu=dasLebend,geの正体があきらか

になったわけではない。その本質は,既に第二節からの経過のうちに与えられ

た諸規定によって徐食に明確化されて来ていたのであって,それがverbrannt

という一語によって「より高い婚い」を果たし,「炎の死」を果たし,das

Lebend'geとしての自己実現を完成しようとしたその剰那に,最もそれに相

応しい名前が与えられたわけなのだ。即ち,第四節第四行によって,本質と名

称が同時に与えられたのであり,最高の称賛とも呪文とも言えるこの一句によ って,第二節から続いてきた碩歌が締め括られているのである。

以上の第二節から第四節を通じて,エロスが秘儀達成の原動力として想定さ

れていることは,ユング派の心理分析理論を連想させる。21)即ち,Kerzeが 精神の中核をなす自我であるならば,意識層と無意識層の仲介を成すものは, 男性においては彼の内的女性部分であるアニマであり,女性においては彼女の 内的男性部分』であるアニムスであるゆえ,意識と無意識の融和による新しい自 己の確立は,異性的なるもの同志の「結婚・交購」と呼ばれうる。ユング派の 人々は,この象徴が古今東西の伝承の至るところで用いられている,と主張し ている。またシこの論に従えばBegattungに付加されたh6herという規定も 自然と理解されるだろう。 Undsolangdudasnichthast, へDieSes:Stirbundwerde1 BistdunureintriiberGast − 2 1 −

(9)

ケーテの「祝福された憧僚」 AufderdunklenErde.∼ 大いなる昂揚のうちに幕を閉じた第四節の後に置かれたこの節は,一見蛇足 のように見える。韻律的にも他節と異なる第五節を,後からの付け加えだろうと ブルダッハが推測したのも無理はない。しかし,この節には初めからここに 置かれていてよい必然性がある。まず形式的には,この節が第一節とともに伽 碩歌である第二・三・四節を囲む枠を構成していることである。だが,枠とは 言え,第五節が第一節と内容的に一貫した対照を示しているわけではない。詩 の出発点である第一節と,そこに至るまでの発展を経て来た最終節とが同じで あっては,かえっておかしいのである。例えば,、第五節でのduは,それまで の総ての節で語りかけた相手を統合したものと考えざるをえない。何故なら ば,duの同一性を信じて,この第五節が依然として碩歌の一部と考えるには,

solangという条件付きの物言いが,それまでの決定的語調に比して,いかに

もpreisenという行為に相応しくない。即ち外第四節から第五節への移行を経 て,duもまた飛躍的な発展を示し,読者,dasLebend,ge,そして詩人自ら をも含むものとなっているのである。そして,碩歌を歌った後に,上述の三者 (実際には,これら三者の間にもはや明確な区別は想定しない方が正しい)に 向かって,あらためて語りかけることが,この節の内容的な必然なのである。 それでは,その言葉"Stirbundwerde1''から,我,2rはどのような内容を汲 承取ればよいのだろうか。万人の関心を惹き’誰でもがそこに自分なりの解答 を見出すこの一句に,どの解釈が正しい,と断定を下せるものだろうか6しか し,筆者にとって認めがたい見解も存在する。それは,この"Stirb',が実際の 死であってよい,とするシユナイダーのような立場である623)この詩が現代に 於いても存在価値を持ち得るためには,この句の意義は完全に現世的でなけれ ばならない。そして,この立場こそケーテ的である,と筆者は信ずるぴ 本論に於いては,第二節以降の内容は,総べて精神内部の出来事として扱っ て来た。では,その推論に沿って,ここでも考察して承よう。第四節で「炎の 死」の実現を賛美しておきながら,もう一度"Stirbundwerde1',と繰り返し た理由のひとつは,上述したように,呼びかけの対象であるduが発展したた − 2 2 − ‐

(10)

めであるが,もうひとつは,「炎の死」が単なる死であってはならない,それ は同時に生成でなければならない,と付け加えるためでもある。ここでのund

は同一を意味する。今までの存在を棚つことが,取りも直さず新たな存在にな

ること−この過程を多くの解釈者はケーテのメタモルフォーゼ理論を借りて 説明し,24)シュタイガーは,それをVerwandlungであると訂正した。25)で は臥その新たなる存在とは,どのような存在であるべきなのか。逆説的に聞こ えるが,その存在が如何なるものか,明確である必要はないのである。かえっ て,その存在へと未だ達していない古い存在にとっては決して理解されていな いものでなければならない。何故ならば,今の存在のままで把握可能なものな らば,それは現存在の単なる継続に過ぎず,「死」と呼べる程の隔絶性・飛躍 性を具備していないからである。詩人自身と言えども,そこには単なる予感し か持っていないであろう。 それでは“Stirbundwerde1”を会得していない者に対して告げられる最後 の二行が示す状態は,どのようなものであろうか。この全体は,『詩編』第119 編・第19行“IchbineinGastaufErden・''26)に骨格を借りていると見て差し 支えないであろう。そこからまずGastの意味内容が明らかになる。即ち,そ れは,余所者のことである。では,Gastを規定しているtriibは何を意味する のか◎トウルンツが,「色彩論の表象が,ここでは詩的象徴となっている」27)

と述べているのは正鵠を射ている。ケーテの色彩論では,triibは光にも闇に

も属さないシ丁度その中間の状態を意味しており,28)その図式が,そのままこ

の個所に当て族まるからである。一方にKerze-Licht-Flammeを置き,もう一 方にBeschattung-Finsternis-dunkelを置いて考えて承よう。fremdeFiihlung 雁よって触発され,neuVerlangenによって駆り立てられて,光への趨勢と 憧がれを持ちながら,“Stirbundwerde1”という敷居を越えられないばかり に,「不分明な(dunkel)」「暗さ」に留まらざるを得ない,中間の中途半端な 状態がtriibなのである。そして,この,両者のどちらにも属さないという, 身の置き場の無さが,Gastと呼ばれる身分なのだ。従ってtriibは,単に心情 的な「悲しい」状態ではなく,いわんやdunkelとの無駄な重語ではない。 − 2 3 −

(11)

ゲー テ の 「祝 福 され た 憧憬 」

最 後 に も う一 度,全 体 を 振 り返 っ てみ る と,詩 の中 心 は,既 に 述 べ た 如 ぐ Kerzeな の で あ り,そ れ に よっ て 引 き起 こ され たneu Verlangen・ 「あ こ が れ 」 な の で あ る 。「炎 の死 」 は確 か に 究 極 の 手 段 で あ り 目的 で あ るが,そ こ へ の契 機 で あ る憧 憬 の 意 義 を,決 して過 小評 価 しては な らな い。 究 極 的 行 為 に 敢 え て踏 み切 れ な いein truber Gastと い え ど も,一 且 この憧 憬 を身 に 感 じた か らに は,そ の 内部 に 向 上 へ の 契 機 を依 然 と して含 ん で い る の で あ る。 そ れ ゆ え,こ の 詩 の標 題 は,「 炎 の 死」 に重 点 を 置 い て 解 釈 され る 危 険 のあ る 「自己 犠 牲 」 で は 不 都 合 で あ り,ま た,向 上 を 求 め る総 て の 動的 な要 因 が 既 に済 ん で しま った もの と 見 倣 され が ち な 「成 就 」 で も 不 充 分 で あ っ た 。 そ して 「憧 憬 」 の 正 当 な 意 義 を 認 め た 最 終 的 標 題 に お い て,そ れ が 「祝 福 され た 」 と呼 ば れ る所 以 は,seligの 持 つbeglucktと い う意 味 合 いに よる の で あ る 。 そ れ に は 何 か 超 越 的 な も の の存 在 と,そ の 意 志 が 暗 示 され てい る。stille Kerzeと して 現 前 し,憧 憬 を 通 じて,よ り高 い存 在 へ と我 々を 導 くもの そ れ を 神 と呼 べ ば 簡 単 で あ ろ う。 しか し筆 者 は,こ こで ゲ ー テ の 言 葉 を借 りて,そ れ をGeist, 即 ちdas Vorwaltende des oberen Leitendenと 呼 び た い ので あ る 。

1) Vgl. Burdach, K.: Zur Entstehungsgeschichte des West-östlichen Divans. Drei Akademievorträge hrsg. von Ernst Grumach. Berlin:

Akademie-Verlag 1955, S.139f. 1.;k-F Entstehungsgeschichte. と略す 。

2) Burdach n, "Selige Sehnsucht" "Vermächtnis"

と指 摘 してい る。Entstehungsgeschichte. S.90

が 内 的 関連 を持 っ て い る

3) Torquato Tasso. in: Goethes Werke. Hamburger Ausgabe. Christian Wegner Verlag 1949 (1.;H.A.) Bd.5.S.85.

4) AUS MAKARIENS ARCHIV. H.A. Bd.8. S.476.

5) Vgl. Maier, Hans Albert: Goethe West-östlicher Divan. Kritische .Aus- gabe der Gedichte mit textgeschichtlichem Kommentar. Tübingen: Max

Niemeyer Verlag 1965, Kommentar-Bd. S. 112.

6) Schrader, F.O.: "Selige Sehnsucht" Ein Bekenntnis zur

rung. in: Euphorion 46 (1952). S. 48-58. S. 49.

7) Kraft, Werner:. "Selige Sehnsucht" in: Augenblicke der Dichtung. —24—

(12)

München: Kösel Verlag 1964, S. 296.

8) 但 し,オ ー デ の よ うな 形 式 は取 って い な い。

9) Schneider, W: Goethe:> Selige Sehnsucht< in: Liebe zum deutschen dicht. Ein Begleiter für alle Freunde der Lyrik. Freiburg im Breisgau: Verlag Herder 1954, S. 298-309. ここ では, Wege der Forschung Bd. CCL

XXXVIII, Interpretationen zum West-östlichen Divan Goethes. hrsg. von Edgar Lohner. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1973, S. 72-83. を 使 用 した 。 S. 76.

10) Borchardt, R.: Zu Goethes » Selige Sehnsucht« in: Prosa I. Stuttgart: Ernst Keller Verlag 1957, S.473.

11) Bahr, E.: Die Ironie im Spätwerk Goethes. "...diese sehr ernsten

Scherze...". Berlin: Erich Schmidt Verlag 1972, S. 59. 略は筆者

12) Burdach: Goethes Sämtliche Werke. Jubiläums-Ausgabe. hrsg. von

Eduard von der Hallen. Stuttgart u. Berlin. 以下 J. A. と略 す 。Bd.5 (1905)

S. 333.

13) Schiller, F. :Schillers Werke. Nationalausgabe. Weimar: 1953 Bd.3 "Die Räuber". S. 95

14) Korff, H. A. : Geist der Goethezeit IV. Teil. Leipzig : Koehler & Amelang 1953, S. 477.

15) Staiger, E.: Goethe 3. Zürich und Freiburg i. Br. : Atlantis Verlag 1959, S. 36.

16) Vgl. Maier : a. a. O.

17) "Wilhelm Meisters Lehrjahre 8.Buch 3. Kapitel" H. A. Bd. 7,S. 520. 18) Hofmannsthal, H. von : Gesammelte Werke In Einzelausgaben.

furt a. M. : S. Fischer Verlag 1959, Prosa II, S. 95f.

19) L. u. W. Grimm : Deutsches Wörterbuch. "schwierig", Sp. 2621f.

20)

Grimm と略 す。

以下

ギ リシ ャ神 話 の プ シ ュケ ーが 蝶 の 姿 を して い る事 は,多 くの論 者 に よ って 指摘 され

て い る 。Vgl. J. A. Bd. 5, S. 335., Schneider : a. a. O., S. 75. usw.

21) Vgl. C. G. Jung und Marie-Louise von Franz, Joseph L. Henderson,

Jolande Jakobi und Aniela Jaffe : Der Mensch und seine Symbole. Olten und Freiburg i. Br. : Walter-Verlag 1968, S. 177-195. "Die Anima

als Frau im Manne" und "Der Animus, der innere Mann in der Frau." 22) J. A. Bd. 5, S. 334.

23) Schneider : a. a. O., S. 77ff.

24) Vgl. Burdach : J. A. Bd. 5, S. 335., Schneider : a. a. O., S. 77., Fritz — 25 —

(13)

ゲ ーテ の 「祝 福 され た憧 憬 」

Strich : Goethe und die Weltliteratur. Bern : Francke Verlag, zweite, verbesserte und ergänzte Auflage 1957, S. 168., Eduard Spranger: Goethes Weltanschauung. Wiesbaden: Insel Verlag MCMXLIX, S.64 usw.

25) Staiger : a. a. O., S. 36ff. メ タ モル フ ォー ゼは 徐 々に 器官 が 形 成 され て ゆ く が,Verwandlungで は,別 の 存 在 へ の 危 険 で 突 然 の ・移 行 が 遂 げ られ る,と し て い る 。 26) Grimm : "Gast". Sp. 1470 に よ る。 そ こに は 当 該詩 の第 五 節 全 文 の 引 用 もあ る 。 本 文 の 引 用 の 個所 は,『 旧 新 約聖 書 』(日 本 聖書 協会1967)で は,「 わ れ は世(よ )に あ る旅客(た び び と)な り」 とあ る。 27) H. A. Bd. 2, S. 559

28) Vgl. Brief an C. L. F. Schulz, den 7. Sep. 1817

こ の 詩 は, "Buch Sad Gasele 1", "Selbstopfer", "Vollendung", "Selige Sehnsucht" の 順 で 改 題 され てい る。 Vgl. Maier : a. a. O., S.

30) H. A. Bd.2, S. 165.

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