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木下吉隆と文禄の役に関する豊臣秀吉朱印状の年代

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はじめ

  本稿の目的は、豊臣秀吉の右筆とし て名高い木下吉隆に着目 し、 ( 1) 朝 鮮 出兵時の豊臣秀吉朱印状の年代比定 における指標を提示することで あ る。 ( 2)   旧稿でも述べたように、秀吉発給文 書の年代比定は織豊期研究にお け る緊要な課題であ る。 3) 二 〇一五年に永禄八(一五六五)年~ 天正一 一 (一五八三)年までの発給と判断 さ れる秀吉発給文書を収録する『豊 臣 秀吉文書集一』が刊行さ れ、 ( 4) 本 年には天正一七年~同一八年までの 発 給と判断される秀吉発給文書を収録 する『豊臣秀吉文書集四』が刊 行 されるにいたってい る。 ( 5) こ うした刊行の前提をなしているのは 、三 鬼 清 一 郎 『 豊 臣 秀 吉 文 書 目 録 』、 同『豊 臣秀 吉文 書目 録( 補遺 1) 』、 藤 井 讓治『秀吉文書集成』であ る。 6) こ れらにおいても年代未詳とされて い る 文書 は多 数あ り、 『豊 臣秀 吉文 書集 』の 編集 に携 わる 藤井 氏が 指摘 し たように年代比定は喫緊の課題とも なってい る。 ( 7) ま た、当然ではあ る が、秀吉発給文書の年代比定は織豊 期研究の一環としての朝鮮出兵 研 究においても喫緊の課題であり続け てきた。当該研究の牽引者であ る 中野等氏の秀吉朱印状の分析を主と した研究によって、その年代比 定 は格段に進展し た。 8) た だし、依然として、年代未詳もしく は年代誤 認 のものが散見する。   そこで、本稿ではわずかなりとも研 究の進捗に貢献すべく、年代比 定 における指標を提示する。具体的に は木下吉隆の失脚・官途の検討 に もとづいて指標を提示する。しかる のちに、六通の秀吉朱印状を例 に その有効性を検証してみたい。 一 木下吉隆の失脚   本章では、近年の秀次事件に関する 研究もふまえつつ、木下吉隆の 失 脚を検討し、吉隆が発給に関与した 秀吉朱印状の年代比定における 一 つの指標を提示したい。

木下吉

隆と文禄の役に関する豊臣秀吉朱印状

の年代

津 野 倫 明

( 人文科学コース) 一

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  本稿で着目する木下吉隆については 、つとに桑田忠親氏が秀吉の右 筆 に関する論考において次のように指 摘してい る。 ( 9) 半 介、大膳大夫と称し、秀吉の奏者・ 奉行などを勤めて、その功 績 偉大なものがあったことは、根本史 料たる当時の古文書の実証 す る とこ ろで あ る が 、( 中 略) その 子孫 が 絶 え た せ い か、 公刊 の 人 名 辞書などには、全然、その名すら見 当たらない。これは、甚だ 遺 憾なことと思う。その最後は、文禄 四年七月の関白秀次一件に 連坐し て 、 薩 摩に 流さ れ、死 を 賜 わ ったので ある 。『 島 津 国 史 』に よ れば、慶長三年三月二十日に自害し ている。   桑田氏の「甚だ遺憾」なる所感にも 表出しているように、残存する 関 連文書の多さからすると意外なほ ど 吉隆は人目を奪う存在ではなかっ た よ うで ある 。し かし 、『 豊臣 秀吉 文書 目録 』の 作成 者で ある 三鬼 清一 郎 氏は秀吉文書の分析にもとづいて、 吉隆の豊臣政権における存在意 義 を看破し た。 ( 10) 天 正十三年九月、一柳市介にあてたも のを初見として、その後も 多 くの添状を発給している。確認でき たものだけでも三百十通ほ ど あり、群を抜いて多い数字である。 文禄四年の秀次事件に連座 し て失脚するが、もしもその後も健在 であったならば、さらに数 字 は増えたであろう。朝鮮出兵の時期 においても、主として内政 面 を担当していたようである。豊臣政 権における奉行人組織の中 心 人物とみなしてよいと思われる。   吉隆を「奉行人組織の中心人物」と 評す三鬼氏の指摘以後も、吉隆 は 人目を奪う存在に転じなかったよう である。後述のような吉隆に関 す る堀越祐一氏の研究もあるが、秀吉 朱印状の年代比定ともかかわる 吉 隆の失脚や官途に関する検討は放置 されてきた観がある。かかる吉 隆 の研究状況が本稿執筆の動機の一つ となっている。   まず本章では、秀吉朱印状の年代比 定において重要な鍵となる、秀 次 事件に連座した吉隆の失脚について 確認しておきたい。次に掲げる の は、おそらく桑田・三鬼の両氏も依 拠した太田牛一著『大かうさま く んきのうち』の文禄四年七月一三日 の記事であ る。 ( 11)   史料1 七月十三日、くミつかまつり候 あくぎやう人、御せいはひ、 御けんし       ミ んぶけうほゐん (   前   田    玄   以    ) ま したゑもんのせう (   増   田    長   盛    )   い したぢぶのせう (   石   田    三   成    ) (中略) 一、 は ねたなかとのかミ (   羽   田    正   親    ) 、 は しはきうたろ (   堀   秀    政   ) ニ 御あつけ、 (中略) をん る ( 遠  流 ) のし ゆ あ ら木あんしん (   木  元  清  )   ふ なこし五郎へもん (   船   越    景   直    ) い けだひんこ (  池  田  重  成   )    木 のしただいぜん (   木   下    吉   隆    ) い けたやゑもん ( 池  田  重  信  ) とうざ、かやうニ候て、いつれも 御せいはい、   この文禄四年七月一三日の段階で秀 次事件に連座した者に関する記 事には 、「 をん るのしゆ 」の 一人 とし て「 木の した だい ぜ ん 」す なわ ち 木 下 吉 隆と文 禄の役 に関 する豊 臣秀吉 朱印 状の年 代 二

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木 下吉隆があがっている。その吉隆の 自害について桑田氏は「慶長三 年 三 月二 十日 」と 指摘 して いる もの の 、『史 料綜 覧』 の慶 長三 年三 月二 七日条 に は 、「 是 ヨリ先 、秀 吉、 近臣 木下 吉隆 ヲ故 豊臣 秀 次 ノコ トニ 坐 シ 薩 摩ニ 流ス 、是 日、 自 殺 セ シ ム 」 と あ り 、 典 拠 はや はり 『島 津国 史』 と されてい る。 ( 12) 『 島津国史』には、慶長三年三月の出 来事が次のよう に 記されてい る。 ( 13)   史料2 初 木 下吉 俊有 罪 。 流 於 坊 津 。( 中略 )至 是 関 白 命 賜 之 死。 北条 善 左 衛 門。最上右近。率兵卒至加世田。二 十七日。 (中略)乃 抜脇指。 自   其腹而死。 (後略 )   『島津国史』は寛政九(一七九七) 年より編纂され、享和二(一八 〇 二 )年 に島 津斉 宣に 撰進 され た薩 摩 藩 の正 史で あり 、「 最も 信憑 性の 高 い 史書 」と 評さ れ て い る。 14) 史 料 2とし て 掲 げ た 記 述に よれ ば、 「木下 吉俊」は薩摩坊津に流罪となり、秀吉 の命により切腹している。 「木 下」 と いう名字、史料1の「をんるのしゆ 」との関係、秀吉の命による切 腹 、これらから「吉俊」が吉隆のこと であるのはまちがいない。よっ て 、吉隆の自害は慶長三年三月二七日 であったとみられる。   では、そもそも何ゆえ吉隆は秀次事 件に連座したのであろうか。薩 摩 藩士の五代秀堯・橋口兼柄が天保一 四(一八四三)年に完成させた 『 三 国名 勝図 会』 に は、 15) 「 木 下大 膳大夫 吉 俊 事 蹟 」 が立 項さ れ て おり、 次 のような記事があ る。 16)   史料3 吉 俊は朝鮮に於て  松齢 公 (島津 義弘 ) に 猟虎の命を伝へし人なり、其後石田 三 成が為に讒せられ、薩州坊津に配流 せらる、既にして  貫明 公 (島津 義久 ) に命じ て誅せ しめ 、加世 田堂 にて 是 を 斬 り、首 を名 護屋に 献ず、   ここでも「吉俊」と記されているが 、項目名に「木下大膳大夫」と あ るので、吉隆のことであるのはまち がいない。その吉隆は石田三成 の 讒言により坊津に配流になったとさ れている。また、吉隆の死は切 腹 ではなく斬首であったかのように説 明されている。とくに三成の讒 言 に関する記述は興味深いが、その是 非は判断できない。ただ、秀次 遁 世に関する状況を検討してゆくと、 吉隆連座の理由がみえてきそう で ある。   史料4 今日 殿下 (秀次 ) 伏 見ヘ御出也、則 大閤 (秀吉 ) ト御義絶、暮々 関白 (秀次 ) 殿 御遁世、高 野 へ御発可有之由有之云々、 (後略)   これは『言経記』文禄四年七月八 日条の記事であ る。 17) こ の記事に よ り、七月八日に秀次が聚楽第から伏 見にゆき、秀吉と義絶し、日が 暮 れようとする頃に遁世して高野山に 向けて出発したことがわかる。 ま た 、 『兼見記』 同年同月九日条には次のような記事が あ る。 ( 18)   史料5 昨夜 殿下 (秀次 ) 令 切 御 本結、 為高野 御住居 之由 申訖、 (中略 )御供 之衆五 六 人、大閤 ヨリ両人 被相添人 云々、不 慮之体也 、御謀反 治定、歴 々 一 味之衆在之、連々可有御糺明云々、 (後略)  こう した 『言 経 記』 『兼 見 記』 など の記 事に つい て 、 矢部 健太 郎 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究  第 23号 三

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氏 は 「共 通し てい たの は 、 秀 次 の 失 脚 を 彼 自 身 の 意志 に基 づく 「出 奔」 と する認識であった」と指摘してい る。 ( 19) さ らに矢部氏は、遁世後の秀 次 切腹に関する次の『お湯殿の上の日 記』文禄四年七月一六日条の記 事 に注目し た。 ( 20)   史料6 く わんはくとのきのふ十五日のよつ時 に御はらきらせられ候よし 申、 むし ち ( 無 実 ) ゆ へかくの事候のよし申なり、   矢 部氏 はこ の記 事を 精緻 に分 析し て 、「高 野山 に秀 次を 「住 山」 させ よ うとした秀吉の意に反し、秀次は無 実を証明するため、切腹する道 を 自ら選んだ」とする画期的な学説を 提示したのであ る。 21) 吉 隆連座の 理 由を考えるにあたっては、とくに遁 世が秀吉の意向によるのではな く 秀次自身の意志にもとづくという指 摘は重要である。次に掲げるの は 、遁世にかかわる『大かうさまくん きのうち』の記事であ る。 ( 22)   史料7 七 月八日、くわんはく ひ てつぎ ( 秀  次  ) け う、ふしミ、木のしたたいせん の かミところにいたつて、御 なり、す なはち、御 ふ きやう ( 奉  行  ) をつ け られ 、 も くじきこうざんせう人 (   木    食    応    其    ) ・ は ねたなかとのかミ (   羽   田    正   親    ) ・ 木のし た た いせんのかミ、御ともにおほせつけ られ、きいしうかうやさん せ いがんじ ( 青   巌  寺  ) に おゐて御 と うざん ( 登  山  ) さ ふらいき、 (後略 )   この記事によれば、伏見に到着した 秀次は吉隆のところに御成し、 「 御 ふき やう をつ けら れ」 、木 食応 其・ 羽田 正親 ・吉 隆ら に供 を命 じて 高 野 山青 巌寺 に登 山し た。 「御 ふき やう 」は 秀吉 が任 命し た監 視役 かの よ うにもとれる。しかし、遁世が秀次 自身の意志にもとづいているな ら ば、この「御ふきやう」は遁世にか かわる業務を担う者であり、秀 次 が任命したと考えられる。その奉行 が供を命じられた吉隆らであっ た かは不明であるが、史料5には「御 供之衆五六人、大閤ヨリ両人被 相 添人云々」とあり、この「両人」は 藤堂高虎・羽田正親だったよう であ る。 23) 吉 隆の同行は確認できないものの、同 じ史料5には「御謀反 治 定、歴々一味之衆在之、連々可有御 糺明云々」とあり、この「御糺 明 」の結果の一部を記したのが史料1 の記事であろう。そのうちに堀 秀政に お預 けと なっ た羽田 正親 があ が っ てお り、ま た「 をん るの しゆ 」 と して吉隆があがっている。おそらく 、登山先である高野山の応其は お くとして、正親・吉隆の両名は秀次 の遁世にかかわったことが連座 の 理由として重視されたのであろう。 さらに、吉隆の場合はその屋敷 が 秀次の伏見における御成の場となっ ていたことが問題視されたと考 え られる。史料4・7を読む限りでは 、伏見に到着した秀次は秀吉の 命 によってではなく、自身の判断で吉 隆の屋敷に入り、夕刻になって 同 所で遁世したと考えられる。では、 何ゆえ秀次は吉隆の屋敷を選択 し たのであろうか。   秀吉・秀次間の情報伝達の構造を考 察した堀越祐一氏は次のように 指 摘してい る。 ( 24) 命 令の伝達を担っていたのはそれぞれ の直臣たちであったが、な か でも秀吉側近の木下吉隆と秀次側近 の駒井重勝はその中心的存 在 であった。木下吉隆は秀吉の命令だ けでなく、秀吉の動向につ 木 下 吉 隆と文 禄の役 に関 する豊 臣秀吉 朱印 状の年 代 四

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い て頻繁かつ詳細に伝達していた。そ して、秀吉・秀次の良好な 関 係維持のため、ときに秀次に秀吉へ の使者派遣を勧め、また秀 次 の立場を損なうことがないように積 極的に動いていた。   この指摘をふまえるならば、秀次は かねてより秀吉・秀次間で奔走 し ていた吉隆を頼みにしており、その ため吉隆の屋敷を遁世の場にし た と考えられる。堀越氏は吉隆連座の 理由について、吉隆が重勝を介 し て「重要機密」にあたる「秀吉の健 康状態」を秀次側に漏らしてい た からではないかと推測してい る。 25) こ うした秀次遁世前の行動が災い し たであろうことは否定しないが、む しろ連座の直接の理由は羽田正 親 とともに、しかも自邸において秀次 遁世にかかわったことに求める べ きであろう。   本章では、近年の秀次事件に関する 研究もふまえつつ、吉隆の失脚 を 検討した。吉隆は秀次遁世にかかわ り、そのため秀次事件に連座し て 文禄四年七月一三日には失脚した。 その後、吉隆は配流先の薩摩に お い て 慶 長 三 年 三月二 七日 に自 害する (斬 首さ れた可 能性 もあ る) 。よっ て 、年代比定における指標の一つは吉 隆の失脚であり、吉隆が発給に 関 与した秀吉朱印状の下限は文禄四年 七月一三日頃となる。 二 木下吉隆の官途   本章では、吉隆の官途を検討し、吉 隆が発給に関与した秀吉朱印状 の 年代比定におけるもう一つの指標を 提示したい。  『史 料綜 覧』 文禄 二年 一〇 月三 日条には 、「 秀吉 ノ近 臣 山 中長 俊ヲ 山 城 守ニ任ジ、従五位下ニ叙ス、又、同 木下吉隆ヲ大膳大夫ニ任ジ、従 五位下 ニ叙 ス」 とあ り、典 拠は 「柳 原 家 記録 所収資 勝 符案 御教 書等 」 と されてい る。 ( 26) こ うした長俊・吉隆の叙任に関する説 は通説となって い るようであ る。 ( 27) で は、その根拠となっている「柳原家 記録所収資勝  符案御教書等」の記事をみてみよ う。 ( 28)   史料8 上中山 大納 言 ( 親 綱 ) 文    後九月卅日  豊臣 利政 (前田 ) 叙従 五位下任侍従 上大炊御門 大納 言 ( 経 頼 ) 文     十月三日  豊臣長 俊 叙従 五位下任山城守 上中山大納言 文     九月三日  豊臣 正澄 (石田 ) 叙従 五位下任木工頭   前田利家の子利政の叙任が「後九月 」すなわち閏九月とされている の で、その年代は文禄二年である。続 いて記載されている長俊や石田 正 澄の叙任も文禄二年であったと判断 してよい。このように長俊が文 禄 二年一〇月三日山城守に任じられた 記事は確認されるものの、肝心 の吉隆 に関 する それは 確認 でき な い。 ( 29) ただし 、『 駒井日 記 』 では 文禄二 年 一〇月六日条から吉隆を大膳大夫と する記事が登場し、一方で同年 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究  第 23号 五

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一 〇月一三日条までは半介とする記事 が確認され る。 ( 30) よ って、吉隆は 同 年一〇月六日以前に大膳大夫に任じ られたと判断しうる。長俊につ いては 、『 駒 井 日 記』で は文 禄二 年一 二月 二日 まで 橘内 と す る記 事が 確 認 され、山城守とする記事が登場する のは翌文禄三年正月一九日条で あ る。このように吉隆・長俊の官途名 が他者の間で定着してゆくには タ イムラグが存在したようであるが、 両人が発給に関与した秀吉朱印 状 においては叙任直後から官途名が使 用されていたと考えるべきであ ろ う。なお、内容からして天正一九年 に比定できる一二月一四日付島 津 義久宛秀吉朱印状に「猶浅野 弾 正少弼 ( 長  政  ) ・石 田 木工 頭 ( 正 澄 ) ・ 木下半介可申 候 也」とある例が示すよう に、 ( 31) 吉 隆が半介と称しているのに対し、正 澄 は正式な叙任以前から木工頭と称し ていた。こうした事例が示すよ う に、官途にもとづく文書の年代比定 は注意を要するが、吉隆や長俊 に 関しては右にあげた『駒井日記』の 所見からして、叙任後に官途名 が 使用されていたと考えて大過なかろ う。   本章では、吉隆の官途を検討した。 吉隆は文禄二年一〇月三日に大 膳 大夫に任じられたとするのが通説で あったが、その根拠は見いだせ な か った 。た だし 、『 駒井 日記 』の 所見 から する と、 同年 一〇 月六 日以 前 に大膳大夫に任じられていたと判断 できる。よって、年代比定にお け るもう一つの指標は吉隆の官途であ り、天正二〇(文禄元)年に始 ま る朝鮮出兵に関する秀吉朱印状で末 尾に吉隆の名が記載されたもの は 次のように年代比定できる。半介と あれば、その下限は文禄二年一 〇 月五日である。大膳大夫とあれば、 その上限は文禄二年一〇月六日 頃 であり、こちらの下限は前章で指摘 した吉隆失脚の文禄四年七月一 三 日頃となる。してみると、朝鮮出兵 時に吉隆が発給に関与した秀吉 朱 印状は慶長の役に関するものは存在 せず、いずれも文禄の役―講和 交 渉期も含む―に関するものであると いえる。これが本稿表題のゆえ ん となっている。次章以下では、ここ で提示した指標の有効性を確認 し てゆきたい。 三 海戦に関する三月六日付豊臣秀 吉朱印状二通の年代   本章では、海戦に関する三月六日付 秀吉朱印状二通を例として、本 稿 で提示した指標の有効性を検証して みたい。   史料9 今 度敵番船出ニ付、弟 得 井半右衛門尉 ( 得  居  通  幸  ) 、 砕手数ヶ所、被疵相果之 由 、不便ニ思召候、然而軍役等不相替 申付之段尤候、知行不可有 別 儀候条、跡目相続之儀肝要 候、委曲 長束 大 蔵太輔 ( 正  家  ) ・ 木下半介・ 山 中橘内可申候也、   三月六日 ○(秀吉朱印)       村 上助兵衛尉 ( 来  島  通  総  ) との へ   本稿では、 『今治 郷土史資料編古代・中世(第二巻) 』所収「久留島 家 文書」の翻刻を掲げ た。 ( 32) 同 書では「文禄三年カ」とされている が、 『 豊臣秀吉文書目録』一二四頁および 『秀吉文書集成』では年代未詳 と されている。この文書は「敵番船」 との海戦における得居通幸(来 木 下 吉 隆と文 禄の役 に関 する豊 臣秀吉 朱印 状の年 代 六

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島 通総の弟としているのは秀吉の誤解 )の戦死を悼んでいる内容から し て、朝鮮出兵時のものであることは 言を俟たない。念のため、吉隆 自 身が半介と称していたことを示す、 この秀吉朱印状と同日付で発給 さ れた連署状を確認しておこう。  史 料 10 得 居半右衛門尉、番舟相戦、手負、被 相果通令披露候之処、一段 不 便被思召候、 跡 (猶カ ) 目 之儀、無相 違被 仰付之旨、以御朱 印、被 仰 出候、村上助兵衛ニ相加、御役儀等 無由断通、具申上候条、可 被 得其意候、 恐々謹言、 長大蔵 三月六日 家(花押) 木半介 吉隆(花押) (上書)    藤堂 佐渡 守 ( 高  虎  ) 殿    脇坂 中 務少輔 ( 安  治  ) 殿    菅 平 右衛門尉 (  達  長  ) 殿    加藤 左馬 助 ( 嘉 明 ) 殿    九鬼 大隅 守 ( 嘉 隆 ) 殿        御返報   本稿では、 『今治 郷土史資料編古代・中世(第二巻) 』所収「久留島 家文書 」の 翻刻 を掲げ た。 ( 33) 同書で は、 「 文 禄 三 年 カ」と され てい る。こ の 連署状は海戦における得居通幸の戦 死に言及しており、史料9の秀 吉 朱印状と同日付で発給されたもので あるのはまちがいなく、吉隆自 身 が半介と称していたことが確認され る。   すでに史料9の年代比定に関しては 、山内譲氏による考証があ る。 34) 山 内氏はかつて文禄三年説をとってい たが、宮尾克彦氏が発表した文 禄 二年説を支持するにいたっ た。 35) 以 下、山内氏が提示した支持の理由 の 要点を確認してゆこ う。 ( 36)   まず、山内氏は『豊臣秀吉文書目録 』の情報をもとに史料9と同日 付 の次の史料 11に着目した。  史 料 11 去 月廿二日敵番舟出候之処ニ、大船二 艘船手之衆乗捕之由注進之 趣 、具に被聞召届候、外聞尤思食候、 然者取々相争儀不可然候、 所 詮向後者藤堂 佐渡 守 ( 高 虎 ) ・九 鬼 大隈 守 ( 嘉 隆 ) 、 為両人惣而可令異見旨被 仰 出 候 間 、 可 任 其 候 、 於違背 者可 為曲 言 候 、猶於 様子 者黒 田 勘解 由 ( 孝 高 ) ・ 片桐 市正 (且元 ) 被 仰含候也、 秀吉公 三月六日 御朱印 菅平右衛門尉とのへ   本稿では、東京大学史料編纂所所蔵 写本「因幡志」による翻刻を掲 げ た。 37) 『 豊臣秀吉文書目録』一二四頁および 『秀吉文書集成』では年 代 未詳とされている。山内氏は、この 史料 11に関して、史料9と同日 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究  第 23号 七

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付 であること、宛所が来島通総・得居 通幸と同じく船手であった菅達 長 であることなどから、史料9と一連 のものとみた。さらに山内氏は 史料 11の「 去月 廿二 日」 「 大 船 二 艘 船 手 之 衆 乗 捕」 とい った記述 が李 舜 臣 『乱中日記』の文禄二年二月二二日 条に記された慶尚道熊川におけ る 海戦の記述と合致することに注目し た(この日は日本と明・朝鮮の 暦は同 一 )。 次 に 掲げる のは 、そ の文 禄二 年二 月二 二日 条 の 北島 万次 氏 に よる訳であ る。 ( 38)  史 料 12 ( 前略)倭賊が慌てふためきはじめた 時、戦船を集結してただち に 熊川に攻撃を加えたところ、倭賊の 勢力はばらばらとなって弱 体 となり、ほとんど殲滅した。と ころ が、 鉢 パル 浦 ポ の 二号船・ 加 カ 里 の 二号船は命令もないのに(熊川に) 突入して浅瀬に乗り上げ、 倭 賊の襲撃を受けた。それは痛憤の極 みであり、肝が裂けるよう で あった。 (後略)   北島氏によれば、鉢浦の二号船とは 全羅左道鉢浦統船将軍官李応漑 の 船であり、加里浦の二号船とは全羅 右道加里浦統船将軍官李慶集の 船 であった。これらの船が史料 11の「大 船二艘」に該当するとみてよ く 、山内氏は史料 11が「熊川の海戦につ いて述べたものであることは ほ ぼ間違いないといえよう」とし、史 料 11と関連する史料9も「同じ 海 戦にかかわるものとみることができ るということになる」との結論 を くだした。こうした山内氏の考証と それにもとづく史料9・ 11をと も に文禄二年とみる結論は至当であろ う。   では、本稿で提示した指標により史 料9の年代を比定してみよう。 吉 隆が大膳大夫ではなく半介と称して いるので、年代は天正二〇(文 禄 元)年・文禄二年のいずれかに限定 される。周知のとおり、文禄の 役 における渡海諸将の第一陣は小西行 長らであり、その釜山上陸は天 正二〇 年の 四月 一二日 のこ とで あっ た。 39) も と より 、「 敵 番船」と の海戦 に おける得居通幸の戦死を悼んでいる 三月六日付の史料9の年代は天 正 二〇年ではありえない。よって、本 稿における指標によれば、史料 9 そしてこれとの関連が明らかな史料 11の年代は文禄二年をおいてほ か には考えられない。 四 加藤清正宛豊臣秀吉朱印状四通 の年代   本章では、加藤清正宛秀吉朱印状四 通を取り上げ、本稿で提示した 指 標の有効性を検証してみたい。なお 、議論を先取りするならば、そ の 限界も確認される。  史 料 13 為 七夕祝儀、生絹帷子二銀子十枚到 来、悦思食候、随而其表無 相 替儀由尤候、在城普請以下、無由断 申付候旨、辛労至候、猶長 束 大蔵太輔・木下大膳大夫可申候也、     七月十二日 ○(秀吉朱 印)       加藤 主計 (清正 ) との へ  本稿 では 、『 熊本県史 料中 世篇 第五 』所 収「 加藤 清正 家 蔵 文書 」の 翻 木 下 吉 隆と文 禄の役 に関 する豊 臣秀吉 朱印 状の年 代 八

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刻を掲 げ た。 40) 同 書 で は 「 文 禄 二 年 カ 」と され てい る 。『豊 臣秀 吉文 書 目 録 』 一三 九頁 では 「尊 経閣 古文 書纂 」 を 出典 とし 、「 儀礼 関係 」の うち 「 七 夕」 の項 に分 類さ れて おり 、年 代 に 関す る指 摘は ない 。『 秀吉 文書 集 成 』で は右 の「 加藤 清正 家蔵 文書 」 の 翻刻 を掲 げ、 「文 禄二 年カ 」と す る判断に準じているようである。   この文書のように儀礼関係の文書の 年代比定は難しい。ただ、本稿 で 提示した指標によれば、吉隆の官途 からして文禄二年以前のもので は ないことが明白であり、同三年もし くは同四年に限定される。よっ て、 「其表無相替儀 由尤候、在城普請以下、無由断申付候 旨、辛労至 候」 と いう内容からも明らかなように、文 禄の役時に朝鮮在陣中の加藤清 正 に宛てられた秀吉朱印状なのは確実 である。中野等氏の研究によれ ば 、清正の釜山上陸は天正二〇(文禄 元)年四月一七日であり、一時 帰 還は文禄五年五月以降のことと考え られ る。 41) こ うした在陣状況のた め 、清正の動向にもとづいて年代を断 定するのは困難であろう。しか し 、吉隆の動向に目を向けると、年代 を比定しうる。第一章で検討し た ように、秀次が吉隆の屋敷に入り、 遁世したのは文禄四年七月八日 で あり、このため七月一三日には吉隆 の遠流が決定されていた。その 前 日にあたる七月一二日に吉隆が秀吉 朱印状の発給に携わった可能性 は きわめて低い。よって、史料 13の年代 は文禄三年に比定して大過な い であろう。史料 13の場合は本稿で提示 した指標の有効性が確認され た わけだが、同様に儀礼関係の文書で ある次の清正宛秀吉朱印状の場 合 はどうであろうか。  史 料 14 於 高麗焼之塩弐百俵其国蚫弐百ヶ到 来、悦思食候、猶木下大膳 大 夫可申候也、 六月三日 ○(秀吉朱印 ) 加藤主計頭との へ  本稿 では 、『 熊本県史 料中 世篇 第五 』所 収「 加藤 清正 家 蔵 文書 」の 翻 刻を掲 げ た。 ( 42) 同 書 では 「文 禄三 年カ」 とさ れて いる。 『 豊 臣 秀 吉 文書目 録』一 四六 頁で は「 尊経 閣古 文書 纂」を出 典と し、 「儀 礼 関 係」 のう ち 「見舞 一般 」の 項に 分類 され てお り、年代 に関 する 指摘 はな い。 『秀 吉 文書集成』では右の「加藤清正家蔵文 書」の翻刻を掲げ、 「文禄三年 カ」 と する判断に準じているようである。   本稿で提示した指標によれば、吉隆 の官途からして年代は文禄三年 もしくは同四年に限定される。しかし ながら、 『熊本県史 料中世篇第 五』 が 推測した年代の正否を判断すること も、決定的な年代を示すことも で きない。ここに本稿で提示した指標 の限界を認めざるをえない。   清正関係文書については、金子拓氏 が九州大学附属図書館付設記録 資 料館九州文化史資料部門所蔵「宇土 細川家文書」に収められた「阿 部 氏家蔵豊太閤朱印写」を翻刻し、分 析してい る。 ( 43) 「 阿部氏家蔵豊太 閤 朱印写」には『豊臣秀吉文書目録』 『豊臣秀吉文書目録 (補遺1) 』 に 未収録の「いわゆる〝新出〟と呼ぶ べき文書」があ り、 44) 吉 隆が発給 に 携わった文禄の役に関する秀吉朱印 状写二通も含まれている。それ ら を掲げよう。 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究  第 23号 九

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 史 料 15 高麗干鯛三百ケ到来、悦思食候、 尚木下大膳大夫可申候也、 六月廿七日朱印  加藤主計頭と のへ  史 料 16 於 高麗自身討之白鳥壱ツ・靏一到来、 悦思食候、委曲長束大蔵大 輔 ・木下大膳大夫可申候也、 極月廿日朱印 加藤主計頭と のへ  本稿 で は 、 両 者とも に金 子氏 による翻刻 を掲 げ た。 ( 45) 同氏の 研究 では、 前 者は「文禄3年カ」 、後者は「文禄2年カ」と推定され てい る。 ( 46) なお 、 『 秀吉文書集成』では両者ともに年代 未詳とされてい る。 47)   本稿で提示した指標により、吉隆が 大膳大夫と称している両者の年 代 について考えてみよう。前者は六月 二七日付なので、上限は文禄三 年 、下限は文禄四年となる。一方、後 者は一二月二〇日付なので、上 限 は文禄二年、下限は文禄三年となる 。よって、金子氏の研究で示さ れ た推定年代は本稿で提示した指標と 矛盾しない。そもそも、金子氏 も 吉隆の任大膳大夫と失脚の時期を推 定の根拠としたのかもしれない が 、 それ ぞれ を「 文禄 3年 カ」 「文 禄2 年カ 」と 推定 して いる 点か らす る と、別の指標にもとづいているのか もしれない。その推定の是非を 決 しえない現状もまた、本稿で提示し た指標の限界を示している。   おわりに     本稿では、木下吉隆の失脚・官途を 検討し、朝鮮出兵時の豊臣秀吉 朱 印状の年代比定における指標を提示 した。吉隆が秀次事件に連座し て 失脚したのは文禄四年七月一三日で あった。その吉隆はかつて半介 と 称していたが、文禄二年一〇月六日 までには確実に大膳大夫に任じ ら れていた。こうした失脚・官途の事 実確認にもとづいて、朝鮮出兵 に 関する秀吉朱印状のうち末尾に吉隆 の名が記載されたものにかかわ る 次のような指標を提示した。すなわ ち、半介と記載されている場合 の 下限は文禄二年一〇月五日であり、 一方大膳大夫と記載されている 場 合の上限は文禄二年一〇月六日頃で あり、こちらの下限は吉隆失脚 の 文禄四年七月一三日頃となる。よっ て、朝鮮出兵時に吉隆が発給に 関与し た秀 吉朱 印状 はいず れも 文禄 の 役 に関 するも ので ある とい える 。   かかる指標の有効性を六通の秀吉朱 印状を例に検証した結果は以下 の とおりであった。史料9・ 11の 場合は 文禄二年、史料 13の場合は 文 禄三年 とそ れぞ れ年 代が確 定で き、 指 標 の有 効性が 確認 され た。 一方 、 史料 14・ 15・ 16の場合 はいずれも文禄期の二 年間に絞り込む効力は 確 認 されたものの、一年単位での年代比 定にはいたらなかった。ここに 指 標の限界が示されている。しかしな がら、冒頭で述べた喫緊の課題 を 抱える朝鮮出兵研究ひいては織豊期 研究の進捗の一助になればと考 え 、小稿を執筆した。 木 下 吉 隆と文 禄の役 に関 する豊 臣秀吉 朱印 状の年 代 一〇

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( 1)桑田忠親「右筆と公文書に関する 諸問題」 (同『豊臣 秀吉研究』 角 川 書店 、一 九 七 五 年 )。 なお 、本 稿で は 、 人 名 に つ いて はお お む ね 辞書類の記述に採用されている一般 的なものを使用する。 ( 2)豊 臣秀吉 の朝鮮 出 兵 に 関し ては様々な呼 称が 用いら れてい るが、 本 稿では一般的な呼称である朝鮮出兵 あるいは文禄の役・慶長の 役 を使用する。こうした呼称をめぐる 議論については、拙稿「朝 鮮 出 兵の 原因 ・ 目 的 ・ 影 響 に関 する 覚 書 」( 高 橋 典 幸 編『 戦争 と 平 和 』 竹林 舎、 二 〇 一 四 年 )、同 「丁 酉再 乱 時 の 日 本 の 目的 と日 本 側 の 軍事行動」 (『韓日関係史研究』第五 七輯、二〇一七年)など参 照。 ( 3)拙稿「 「在高麗 奉公 人」に関する豊臣秀吉 朱印状の年 代比定」 (高 知 大学人文学部人間文化学科『人文科 学研究』第二一号、二〇一 五年 ) 。 ( 4)名 古屋市 博物 館編『 豊臣 秀吉文 書 集 一』 ( 吉 川 弘 文館、二 〇一五 年) 。 ( 5)名 古屋市 博物 館編『 豊臣 秀吉文 書 集 四』 ( 吉 川 弘 文館、二 〇一八 年) 。 ( 6)三鬼清一郎『豊臣秀 吉文書目録』 (私家版 、一九八九 年) 、同『豊 臣秀吉 文 書 目 録 ( 補 遺 1 )』 ( 私家 版、一九 九六 年) 、藤 井 讓 治『秀 吉 文書集成』 (私家 版、二〇一二年三月版) 。 ( 7)藤 井讓 治「 『豊臣秀吉 文書 集』 の誕 生」 (『 史 学 雑 誌』第一 二四 編 第 三号、二〇一五年) 。 ( 8)中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』 (吉川弘文館、二〇 〇六年) 。 ( 9)前掲桑田「右筆と公文書に関する 諸問題」四四七頁。 ( 10)三鬼清一郎「豊臣秀吉文書の概要 について」 (『名古屋大学文学 部 研究論集 史学』 44、一九九八年) 。 ( 11)慶応義塾大学付属研究所斯道文庫 編『斯道文庫古典叢刊之三  大 かうさまくんきのうち』 (汲古書院、一九七五年) 。人名に付し た 傍注の荒木元清・池田重成は谷口克 広『織田信長家臣人名辞典 第 2版』 (吉川弘文 館、二〇一〇年) 、 また船越景直・池田重成・ 池 田重信は堀越祐一「知行充行状にみ る豊臣「五大老」の性格」 ( 同『豊臣政権の権力構造』吉川弘文 館、二〇一六年、初出二〇 一 〇年)を参考にした。 ( 12)『史料綜覧巻十 三』 (東京大学出版 会、一九五四年) 。 ( 13) 山 本 正 誼 『 島津 国史 六』 ( 島 津 家 編集所 、一 九〇 五年 ) 七~ 八頁 。 引 用に際して、返り点と送り仮名は省 略した。 ( 14)原口虎雄「しまづこくし 島津国 史」 (『国史大辞典第七巻』吉 川 弘文館、一九八六年) 。 ( 15)原 口虎雄 「三 国名勝 図会 解題」 (高 野和人 編集 『三国名勝 図会索 引 』図書出版青潮社、一九八二年) 。 ( 16)高 野和人 編集 『三国 名勝 図会第 二 巻 』( 図 書 出 版青潮社、 一九八 二年 ) 。 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究  第 23号 一一

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( 17)『大日本古記録 言経記六』 (岩波 書店、一九六九年) 。 ( 18)『兼見記第五 』 (八木書店、二〇 一六年) 。 ( 19)矢部健太郎『関白秀 次の切腹』 (KADO KAWA、 二〇一六年) 一 九四頁。なお、この指摘は金子拓「 秀次事件の真相 実像編」 (堀新 ・井上 泰至 編『秀 吉の虚 像と 実 像 』 笠間書 院、 二〇一 六年) の 見解をふまえたものである。 ( 20) 続 群 書 類 従 補 遺 三  お 湯殿 の上 の日 記( 八 )』 ( 続 群 書 類 従 完 成 会 、一九三四年) 。 ( 21)前掲矢部『関白秀次の切腹』二一 八頁。 ( 22)前掲『斯道文庫古典叢刊之三 大 かうさまくんきのうち』 。 ( 23)前掲矢部『関白秀次の切腹』一九 四~一九八頁。 ( 24)堀 越祐一 「太 閤・関 白 間 に おけ る 情 報伝達 の 構 造 」( 前掲 同『豊 臣 政権の権力構造』 、初出二〇〇六年)一〇五頁。 ( 25)前掲堀越「太閤・関白間における 情報伝達の構造」一〇六~一 〇 七頁。 ( 26)前掲『史料綜覧巻十三』 。 ( 27)例 えば、 藤 田 恒 春編 校訂 『増補 駒 井 日 記』 (文 献出版、一 九 九二 年 )三三五頁にも「文禄二年一〇月三 日、山中長俊は従五位下山 城 守 、木 下吉 隆 は 従 五 位 下 大膳 大夫 に 叙 任 し た (「 柳 原家 記録 」 卅 六 ) 」との指摘があ る。 ( 28)東京大学史料編纂所所蔵謄写本「 柳原家記録第三十六巻」 。 ( 29)下 村效「 天正  文禄  慶 長年間 の 公 家 成 ・ 諸大夫 成一 覧」 ( 同 『 日 本 中世の法と経済』続群書類従完成会 、一九九八年、初出一九九 三年) に お いても 、「 柳原家 記録 所収 資勝 符案 御教書 等 」 を典拠 と する長俊叙任に関する指摘はあるが 、吉隆叙任に関するそれは ない 。 ( 30)前掲藤田編校訂『増補駒井日記』 。 ( 31)『大日本古文書 島津家文書』三五八号。 ( 32) 今治 郷土 史資料編古 代・ 中世 (第 二巻 )』 ( 今 治 郷土史編 さん 委 員 会、一九八九年)所収「久留島家文 書」五五一頁。なお、引用 に あたり掲載写真を参考に釈文を若干 修正した。 ( 33)前 掲『今 治郷 土史資 料編 古代・ 中 世 (第二 巻) 』所収「久 留島家 文 書」五七三頁。なお、引用にあたり 掲載写真を参考に釈文を若 干 修正した。 ( 34)以下、山内譲『海賊 衆 来島村上 氏とその 時代』 (セ キ株式会社、 二 〇一四年)一七六~一八三頁参照。 ( 35)前掲山内『海賊衆 来島村上氏と その時代』一七八頁・二七二 頁 によれば、宮尾氏が文禄二年説を提 示したのは同「得居通幸の 死没事 情 に ついて 」( 史錬会 発表 レジ メ、二 〇一 〇年) と さ れてい る 。当該レジメには遺憾ながら接して いないが、山内氏の説明を みる限 りでは 本稿 で提示 した指 標は 使 用 さ れてい ない ようで ある。 ( 36)山内氏は後掲史料 11の「大船 二艘」 「取々相争儀」と『 脇坂記 』 の 記述との関係にも言及しているが、 本稿では要点を確認するこ と にし、両者の関係については割愛し ている。 木 下 吉 隆と文 禄の役 に関 する豊 臣秀吉 朱印 状の年 代 一二

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( 37)東京大学史料編纂所所蔵写本「因 幡志四十三」 。 ( 38)北島万次訳注『乱中日記1』 (平凡社、二〇〇〇年) 一〇六頁。 ( 39)前掲中野『秀吉の軍令と大陸侵攻 』六〇頁など。 ( 40)『熊本県史料中 世篇第五』 (熊本県 知事寺本広作、一九六六年) 所 収「加藤清正家蔵文書」一五。 ( 41)中 野等「 唐 入 り (文 禄の 役)に お け る 加藤 清正 の動向 」( 山 田貴 司 編著『加藤清正』戎光祥出版、二〇 一四年、初出二〇一三年) 。 ( 42)前 掲『熊 本 県史 料中 世篇第 五 』所収「加 藤清 正家蔵 文書」 一三。 ( 43)金 子拓「 肥後 加藤家 旧蔵 豊臣秀 吉 ・ 秀 次 朱 印状に つい て」 、 同 「 肥 後 加藤家旧蔵豊臣秀吉・秀次朱印状に ついて(続) 」(ともに前掲 山 田編著『加藤清正』収録、前者の初 出は二〇一一年、後者の初 出 は二〇一二年) 。 ( 44)前掲金子「肥後加藤家旧蔵豊臣秀 吉・秀次朱印状について」三 九 六頁。 ( 45)前掲金子「肥後加藤家旧蔵豊臣秀 吉・秀次朱印状について」の 【 翻刻篇】一八、一九。 ( 46)前掲金子「肥後加藤家旧蔵豊臣秀 吉・秀次朱印状について」の 表一 。 ( 47)な お、 『 秀 吉 文 書集 成』 は前掲 金子 「肥後 加 藤 家 旧蔵豊臣 秀吉・ 秀次朱 印 状に つい て」の 【翻刻 篇】 を 出 典 として いる ようで ある。 [ 付記]  本稿 執筆 にあ たり 、史 料検 索に 三鬼清一 郎『 豊臣 秀吉 文書 目録 』( 私 家版 、一 九八 九年 )、 同『 豊臣 秀吉 文 書 目 録 ( 補 遺 1 )』 (私家 版、 一 九 九六 年) 、藤 井讓 治 『 秀吉 文書 集成 』( 私 家 版 、 二 〇 一 二 年 三 月 版 )、 東 京 大学史料編纂所の所蔵史料目録デー タベース・日本古文書ユニオン カ タログなどを利用した。   本稿は J S P S 科研費 J P 1 6 K 0 3 0 1 6 の 助成を受けたものである。 高 知 大 学人文 社会科 学部 人文社 会科学 科人 文科学 コース ・人文 科学 研究  第 23号 一三

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