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鹿児島県国語教育史(IV) -昭和二十・三十年代の共通語教育-

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j 一 J J 新 名 主     健   一 ( 一 九 八 七 年 十 月 十 四 日   受 理 )

鹿

(

)

- 昭和二十・三十年代の共通語教育

は   じ   め   に 鹿児島県の話しことば教育史を論考し本題目の先行研究となる文献は吹 の 三 つ で あ る 。 一 、 「 共 通 語 指 導 の 史 的 展 開   -  鹿 児 島 県 に お け る 児 島   国 語 教 育   第 六 号 」 昭 和 三 十 三 年 ・ 所 収 ) 」   ( 吉 嶺 勉 「 鹿 二 、 「 九 州 南 部   -  鹿 児 島 を 中 心 に 」   ( 蓑 手 重 則 「 方 言 学 講 座   第 は一の内容を踏まえ上原森芳の話しことば指導の特色とその意義を記し ている。三は標準アクセント習得のための現場教師の東京派遣と「話言 葉改善指導書」を中心にその意義づけを行なった文献である。 そこで、本論考では前記の文献の史実を丹念にたどり、新たな史実の 正確な記述と、史実間の関係づけと可能なかぎり史実の特色について記 していきたい。なお本題目に関しては研究に着手して日も浅いので、史 実の意義づけについては、三、四年後になる予定である。 四 巻 」 東 京 堂   昭 和 三 十 六 年   所 収 ) 三 、 「 話 し こ と ば 教 育 史 研 究   -  戦 時 下 ' 鹿 児 島 県 の ば あ い   -  」   ( 野 地 潤 家 「 鳴 門 教 育 大 学 研 究 紀 要   ( 教 育 科 学 編 )   第 一 巻 」 一 九 八 六 ・ 所 収 ) 一は二、三の背景的論考で、その梗概は次の通りである。大正末から 昭和初期にかけて普通語デーが設定されていたこと・昭和十六、七年頃、 戦争逐行上の必要から標準語普及が強調されたこと・上原森芳の戦前と 戦後しばら-の間の共通語指導の内容、方法、主張・昭和十七、八年の 現 場 教 師 の 東 京 派 遣 ・ 「 話 言 葉 改 善 指 導 書 」 第 一 集 、 第 二 集 ・ 戦 後 の 共 通 語指導にあたった学校と指導者名・「はなしことばのほん」について記述 している。本県における話しことば教育の史実を記述したものである。二 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) T 昭和二十・三十年代の共通語指導の歴史を明らかにするために、どう してもその背景となっている終戦前の共通語指導の歴史について触れる 必要がある。わたしの共通語指導の時期区分からすればⅠ期にあたる時 期である。詳し-は別稿に譲るが、これまでの論説を参考にして検討を 加えながら概略次に記そう。 終戦直後の共通語指導の状況をうかがえるのは川畑長生による次の記 述 で あ る 。 「終戦直後の混乱の中にあって'共通語指導などだれも省みない当時' 三一九

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鹿 児 島 大 学 教 育 学 部 研 究 紀 要   教 育 科 学 編   第 3 9 巻 ( 一 九 八 七 ) 県内で僅かに二校、薩摩半島の徳光小学校と大隅半島の岩北小学校とは お互いに励まし合い、参観にも行ったり来たりして共通語指導の灯を掲 げ続けてきたのである。」 (「鹿児島 国語教育 第六号」昭和三十三年四 注一 十七p・川畑長生) 当時の徳光小学校校長は 「鹿児島県の共通語指導の 父」 と言われた上原森芳である。 補 注 一 上原森芳は標準語指導をはじめたきっかけを次のように記している。 注二 「それは昭和九年ごろ東京で先生をしていたときのことですが'ある 日、父兄が数人参観に来たんですね。授業が終ったら、その数人がわた しのところへ来て、ニヤこヤしながら﹃先生'これでよ-わかりました。 ちかごろ、うちのこどものアクセン-がおかしいから、みなさんで参観 に来たんですけど'先生からお直しにならないと困りますが﹄ というの 注三 です。これには冷汗をかきましたね。しばら-たって鹿児島県へ帰りま したが、そのときから本格的な標準語教育にとりかかりました。」(「日本 の方言」一三〇p・柴田武 岩波新書一九七六 第十八刷) 鹿児島県に帰った上原森芳は「揖宿郡の別府小学校の尋常二年生を受 持った時、鹿児島県の言葉が如何に不自由であり不通であるかを痛感し、 直 ち に 標 準 語 指 導 の 第 一 歩 を 踏 み 出 」   ( 「 実 践 国 語 」 第 一 五 巻 第 一 六 五 号 一九五四・二一八p) すことになる。出水・開聞・山川の各尋常高等小 学校を経て'昭和十六年川尻尋常高等小学校に赴任している。十六・十 七・十八の三年間同校で話言葉指導を行なっている。次の引用は、後年 の男女別のことば指導をこのころもやっていたことを示すものである。 「昭和十六・七八年頃、.だよ ですわ 思うよ 思うわと性別終助詞をつ けた話言葉指導をやっていたら、ある県視学はあんなあまったるいこと ばをわがサツマ武士の国に使わせると士風がすたれ日本は戦争に負けて しまうとわる口をいったそうである。」 (前出「日本の方言」 二五六p) 昭和十七年二月川尻国民学校を視学主事・中等学校国語教師達が視察 三 二 〇 している。またこの頃文部省の長岡督学官も視察している。そして長岡 注四 督学官は県教育研究会で標準語教育の必要性を唱えたのである。「この話 しことば指導は実は大東亜戦争によって大東亜共栄国を確立し、同時に 日本語を公用語として制定しようという、壮大な言語政策的な意図を含 ん だ も の で あ っ た 。 」   ( 「 幾 山 河 」 一 一 五 p ・ 蓑 手 重 則 ) ・ 鹿 児 島 解 話 言 葉 改善委員会が組織され「話言葉改善指導書」が昭和十八年1月に、「績 話 言葉改善指導書 国民科国語朗講の研究」が昭和十九年五月に発行され 注五 ている。上原森芳も当然メンバーの一人であり、「発音・アクセン-こそ、 ことばの指導の背景である。」 (注四・一二一p) とする彼の考え方は同 委員会の方針となった。この考え方は終戦後、昭和二十、三十年代の県 内の共通語指導に受け継がれてい-ことになった。 終戦後、上原森芳は昭和二〇年三月徳光国民学校長となり、昭和二十 二年三月には頴娃村宮脇小学校長になって、昭和二十四年五月家庭の辛 情で退職している。この間の上原の共通語指導は、ていねい体・常体の 指導に力点がおかれている。「デス・マス」 ことばだけを使用させること の弊害を次のように記している。「終戦直後、昭和二十一年度から揖宿郡 山川町立徳光小学校で、共通語によるデスマス話体でグループ別自発協 同学習をやった。﹃中村君この字はなんと読むのですか。﹄﹃それはサクラ と読むのだと思います。﹄式の話し合い学習であった. - 略、引用者 - 隣り同志膝つき合いでのこの対話は何だかよそ行きことばで、しっ -り親しめない感じがした。﹃山下君、君はまだ帰りませんか。﹄ ﹃はい、 今すぐ帰りますから待っていて下さい。﹄と高等二年の男子が話している のも不自然だった。デスマスことばで対話させることは学習時間といい 遊び時間といい児童の生々した生活感情を思う存分音声言語に表現する ことは不可能であり、不自然であり、むしろ惨酷でもあり、かあいそう で あ っ た 。 」 ( 「 言 語 指 導 」 上 甲 幹 一 朝 倉 書 店   昭 和 三 十 二 年 、 二 五 五 p ) 、♪・ど i-_さしt/ / i /   一 事 L   蔦

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そして、徳光小学校では「だ」言葉に切り換られなかったが、次の宮 脇小ではそれが成功することになる。「昭和二十一年四月からある小学校 で、グループ学習の児童中心自主協同学習に敢然と切り換えたのであり ますが、そこでは、まだ﹃あります﹄ ﹃です﹄言葉をグループでお互使っ ていたので、「だ」言葉に切り換えることを勧めたが行なわれずに他の学 校 に 転 任 に な っ た 。 そ こ で は 思 い 切 っ て 、 男 子 は   ﹃ ○ ○ だ ﹄ 女 子 は   ﹃ だ わ'ですわ、思うわ﹄ という楽な和やかな座談言葉を使わせて見た。そ れは非常に子供の言語活動を滑らかに自由にするに効果的であり、それ がそのまま庭の言葉になったのであります。」 (前出「実践国語」 二二〇 p)同様のことを次のようにも記している。﹃終戦後は思い切って、学習 時間にこのダ言葉と性別の終助詞や省略法による問いや、問い返し等に つかうイントネーションなど男女別の言葉指導をやり'それを学習討読 に活発に使用させた。しかし、そのことが後援会長のきらう所となり、私 は 他 の 小 学 校 に 転 任 し 、 そ こ で 完 全 に 成 功   -  略 ・ 引 用 者   -  成 功 し た というのは共通語による対等対話が学習を活発にし、遊び時間の感情生 活に自由に活用され、自然と校外、家庭にまで流れ出ていったというこ と で あ る 。 」   ( 前 出 「 言 語 指 導 」   二 五 六 p ) さて、時代はさかのぼるが、鹿児島県は東京語アクセント習得のため 現場教師を一年間東京に派遣した。第一期生十七名が昭和十七年四月 ∼昭和十八年三月までで、第二期生が昭和十八年四月∼昭和十九年三月 までであるC その第二期東京派遣教師団の中に川畑長生がいた。その川 畑長生と上原森芳は終戦後それぞれ岩北小教頭として、徳光小・宮脇小 校長として共通語指導にあたっていた。しかも川畑長生の次の記述から わかるように両校は交流があったのである。「終戦直後の混乱の中にあっ て、共通語指導などだれも省みない当時、県内では僅かに二校、薩摩辛 補注二 島の徳光小学校と大隅半島の岩北小学校とはお互に励まし合い、参観に 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) も行ったり来たりして共通語指導の灯を掲げ続けて来たのである。」(「鹿 児島国語教育 第六号」 (昭和三十三年 四十七p)岩北小時代の全校集 団指導の事例について次のように記している。「戦後の新教育の理想の実 現に燃えていた私は児童中心の学級を作ろうと考えて、先ず第一に共過 語をとりあげた。それは封建的な意識のつきまとう方言では、民主的な 自由なのびのびした学級の雰囲気は作れないと思ったからであり、一方、 新しい学習形態としてとり入れた分団学習や討議学習を効果的におし進 めてい-ためには、共通語が自由に使えるようになることが先決問題だ」 (前出本 同P) 「それから六カ年、私は岩北小の共通語をほんものにす るために同僚とがんばった。月水金の週三回、全校児童を低中高の三部 に分けて、十五分間の部別指導、各学級での毎朝の学習用語指導、毎冒 の昼食後の職員のアクセント練習、毎日の反省表の記入、土曜日の反省 表の集計、毎月曜の等級札の授与、方言の集録、研究公開、共通語に明 け -れ た 六 カ 年 で あ っ た 。 ( 前 出 本   同 p ) (補足)上原森芳の徳光小時代(昭和二十年∼昭和二十二年三月末)に 実際に指導にあたったのは西村義雄 (大正七年生まれ・開聞町川尻五八 五〇) である。氏は六歳から十五歳まで神戸で生活していて、その話し ことばが共通語的であったために指導的役割を果さなければならな-なったという。また上原森芳の指示により「ことばのほん」 B五・ガリ 刷 り ・ 二 十 三 p )   を 作 成 し て い る 。 教 職 に あ る 間   ( 昭 和 五 十 三 年 退 職 ) ' 一貫して共通語指導をしてこられ、その指導記録も丹念に取ってある。国 語教育界の流れとは違うところに身をおき共通語指導に打ちこんだ方で ある。詳細なことについては別稿で紹介・検討するつもりである。

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鹿 児 島 大 学 教 育 学 部 研 究 紀 要   教 育 科 学 編   第 3 9 巻 ( 一 九 八 七 ) 二 戦後の共通語指導を促進した要因は'いろいろあげられるが'ここで は学習指導要領での標準語 (共通語) の取り扱い・引揚者からの要請・ 就職先でのことばの問題の三点にしぼって論述する。 昭和二十二年の学習指導要領 (試案) における関係する項目は次の通 りである。 「四㌧正し-美しいことばを用いることによって - 略 - 引用者」(≡ p)「jIなるべ-、方言や、なまり、舌もつれをなおして標準語に近づけ る . 」 ( 四 p ) 「   -  略   -  引 用 者 、 俗 語 ま た は 方 言 を さ け る よ う に す る 。 」 ( 五 十 九 p )   「 ‖   標 準 語 で 話 す 。 」   ( 一 〇 四 P ) 方言と標準語に関しては'方言をなおし、さけて、標準語で話すこと を求めている。しかしながら、この試案は 「実際の指導をできるだけ改 善するために'その示唆を与えようとするものである.」 (まえがき・1 p) とあるように基準でもなければ拘束力のあるものでもない。ただ国 の文部行政当局の方針を示しているという意味で留意しなければならぬ ことであろう。 昭和二十六年版も同様に試案の形で出ているが、二十二年版に-らべ 強い調子で「この本は、各学校で教育課程をつ-ろうとする場合、国語 科として、どういうこととどういうことを考えていなければならないか を書いたものである。」としている。方言、共通語に関係する項目は次の 通りである。 「 方 言 を 使 わ な い で 話 す こ と が で き る 。 」   ( 五 十 二 p )   「 共 通 語 を 話 す こ とができるようにする。」「一〇〇p)「人にわかるようにはっきりと共通 語を話すことができるようにする。」(一〇八p)「方言を使わないで話し たり1略1引用者」 (一四九p) 「共通語を意識して使う。」 (一五五 ・ _ 暑 さ , さ き           阿 . 」 F , ㌔ 三 二 二 P )   「 俗 語 や 方 言 は で き る だ け 避 け る よ う に す る 。 」   ( 一 八 三 p ) 二十二年版と違うのは標準語が共通語になったことと「共通語を話す ことができるようにする。」ということがはっきり打ち出されたことであ ろう.昭和三十三年版になると「S全国に通用することばとその土地で しか使われないことばとの違いを理解すること。」(一八p)「㈲ 必要な 場合に全国に通用することばで話すこと。」 (二四p)この版においては、 標準語・共通語の語にあたるものとして 「全国に通用することば」が使 われ、方言にあたる語として、「その土地でしか使われないことば」が使 われている。そして両者の違いを理解することということは、明らかに、 二十二年・二十六年版におけるものと方言の取り扱いという点で違う。三 十三年版において 「その土地でしか使われないことば」 は、はじめてそ の存在を認められたことがうかがえる。しかし指導の対象となるのは「全 国に通用することば」 である。 この二十二年から三十三年版 (四十二年まで使用)学習指導要領の標 準語・共通語・全国に通用することばと方言・その地方でしか使われな いことばの変遷は鹿児島県の共通語指導の流れと'どう重なるかは別と して、国の方針としての機能から鹿児島県の共通語指導を促進したもの と考えられる。 補注三 次に促進要因としての引揚者からの要請について記述する。昭和二十 注六 九年秋、柴田武は川尻中に上原森芳を訪問している。上原森芳が「川尻 そ う け つ き 部落総豚起ことば改善運動」について話している中に次のような部分が あ る 。 「いちばん熱心なのは引揚者ですね。外地の生活で鹿児島弁にはよほど 困ったんでしょう。﹃こどもには標準語を使わせたい。ぜひ、この運動を 注七 やってほしい。﹄ と励まされました。引揚者は五十世帯ほどありますが' ー J i コ い 1 1 -一 一 月 U 董           ー ・ J L -              -. -q J P -い             -                    ー               ・                                     -.       一 l ヽ 一 ヽ

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この人たちは家庭のなかでも方言は使いませんね。」 (前出「日本の方言」 一 二 〇 p ) また南郷有徳は次のように記述している。 「このような共通語指導の歴史の上にも'にわかに明かるい光がさし た。それは敗戦を契機とする急激な変化である。その一つは海外から共 通語を話す人間が大量に帰県したことである。鹿児島市鴨池小学校のご ときはその好例であろう。創立当時(引用者注・昭和二十五年四月に)に おける同校の児童は八十%近-のものが県外帰国者の子弟でしめられた ために、本県にあっては珍しい共通語で話をする小学校が生まれたので ある。そうした情勢の上に、さらに話しことばを重視または必要とする 国語教育の質的改造、ラジオの普及、共通語に対する一般社会の自覚、引 揚者を中心とする一群による共通語指導への要請、これらの諸要因はあ いまって、共通語指導を盛んにし'さしも厚かった方言の壁も、しだい に崩れてい-かの感じをもたされた。」 (「鹿児島 国語教育 第七号」昭 和 三 十 四 年   三 〇 p ) 上甲幹一によると「鹿児島県は薩隅方言地区の本場であり、その方言 の特異性は天下に名高-、鹿児島弁は外国語の如し、とまで言われてい る 。 」   ( 前 出 「 言 語 指 導 」   二 五 〇 p )   と い う こ と で あ る 。 外 国 語 の 如 き 鹿 児島弁ゆえに外地で苦労した人は、誰とでも通じることばを求めたこと は容易に想像できる。その人々が終戦後共通語指導の推進役にもなって いるのである。 昭和二十・三十年代は義務教育を終えて集団就職列車で京阪神に就職 して行-者も多かった。その人達が直面したのが、ことばの問題であっ た。 注八 「中学も卒業し阪神・中京方面の職場に就いた者たちからは ﹃--職場 で必要な書類はよめたり、書けたりできるようになり、他県の人の話も 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) 大体わかるようになりましたが、自分から話しかけることはなかなかむ ずかしいです。時たま話すと﹃君のことばはわからない調子がおかしい。﹄ といって笑われますので、つとめて黙っていることにします。」と切々た る 訴 え を き い た の で あ る 。 」   ( 「 鹿 児 島   国 語 教 育   第 六 号 」 昭 和 三 十 三 年・一〇七p) また就職した卒業生だけでな-雇用者からの訴えもある。 「鹿児島県では中学卒業生の就職はほとんど県外である。そしてこれらの 就職者たちが恩師や親たちに最初に訴えて-る悩みは共通語が自由に話 せないということであり、雇用者が訴えることはもっと共通語を指導し てほしいということである。」(「ことばの本 指導書 昭和三十三年 三 P) 注九 共通語を指導された卒業生は「中学を卒業して紡績に行った子供たち からの便りによれば﹃あなたは鹿児島県人のようではないね。﹄とはめら れ る こ と も あ っ た 」   ( 前 出 「 鹿 児 島   国 語 教 育   第 六 号 」 六 十 八 p ) そ う 注十 である。このことから、柴田武が指摘するような面があったにしろ、そ の指導の成果はあらわれていたわけである。 三 入手できた記録からたどれる昭和二十年代後半の話しことば指導の最 も古い事例は「川尻部落総豚起請しことば改善運動」(昭和二十九年六月) 注 十 一 である。川尻部落とは現在の揖宿郡開聞町川尻地区で、当時、人口四千、 戸数八百であった。その発端は上原森芳の次のことばから推察できよう。 「この川尻中学はわたしの出身校ですが、ここへ講師で勤めるようになっ てからでも五年になります。実は、昭和十六年から十八年にかけてこの 学校にいたんですが、そのときも標準語教育を大いにやりました。成果 があったつもりでしたが、今度十年ぶりに帰ってみると、標準語はひと 三 二 三

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鹿 児 島 大 学 教 育 学 部 研 究 紀 要   教 育 科 学 編   第 3 9 巻 ( 一 九 八 七 ) かけらも聞かれなかったのには、驚きもし'さびし-も感じました。そ ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ               ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ       ヽ こで、この五年間は、前にもまして熱心に標準語教育をやり出したわけ ヽ ヽ ヽ ヽ な ん で す . 」   ( 傍 点   -  引 用 者 )   ( 「 前 出 「 日 本 の 方 言 ]   二 九 p )   こ の 運 動をプロモートしていたことがうかがえる。その運動への賛同と協力を 求める次のような記述がある。(もともとは一枚のビラとして配布されて いたらしい。「日本の方言」一一九p 資料参照) 「川尻部落総蕨起ことば改善運動〃︰ 一、趣旨 終戦後日本は、個人の尊厳を認める民主国家となりましたが、その後 十年未だにその実は上ってはいません。その原因の一つは人間上下の差 別を立てていた封建時代の上から下への人格をふみにじった言葉が依然 として残されているからであります。(略)女や、子供が人間的なことば あっかいを受けているでしょうか。と-に親が子供に対することばづか いは全-聞-にたえない戦国時代やそれ以前のことばが今日民主国日 本、平和日本の川尻に平然として使われております。(略)われら部落民 すべてがけつ然と立ち上り、方言のうち有害無益なものを徹底的に浄化 し   ( 略 ) 」   ( 略 -引 用 者 「 共 通 語 教 育 の 実 際 」 川 尻 小 学 校 ・ 昭 和 三 十 二 年 十六p)同ビラには続いて、「二、こんな言葉はやめましょう」として、 なおすべき方言の例が示してある。また、「三、こんなに言ったらどうで しょう」という項では、「○夫が妻に○妻が夫に ○親が子に 等」とし て共通語での範例が示してある。この運動を共催している団体としてあ げてあるのは、開聞村役場川尻出張所・川尻評議員会・川尻婦人会・川 尻青年会・川尻消防団・川尻cl,H< 川尻小中学校の七つの団体で地区 ぐるみの運動ということがわかる。この運動に関して柴田武と上原森芳 の次のような会話の記述がある。 「 抵 抗 は 全 然 あ り ま せ ん か 。 」 三 二 四 「pTAでこの話をすると、みんな賛成でした。そのとき、﹃親も標準 語を使わなければいけないのか。﹄という質問が出ましたので、﹃そうだ。﹄ といいますと、﹃それはちょっと。﹄といってしぶっていましたが、﹃まあ' い い こ と だ か ら 。 ﹄   と い っ て 協 力 し て -れ ま す ね 。 」   ( 「 日 本 の 方 言 」   二 一 〇 p ) 柴田武によると、「封建的な人間関係が生きているので'学校が音頭取 りになれば、こういう運動はすぐまとまるものらしい。」(前出本同p)と しているが、それ以外の大きな要因をあげておきたい。 現 在 の 川 尻 港 の 近 -に 「 上 原 覚 市 顕 彰 碑 」   ( 昭 和 五 十 七 年 建 立 ) が 立 っ ている。上原森芳の兄である。その顕彰碑の碑文の中に「共通語の普及」 という功績が記されている。上原覚市は昭和九年三十三歳で没している が、昭和六・七・八年川尻尋常高等小学校に勤務し教育改善に力を尽-注十二 した人物だそうで、現在、神様のようにたたえられているとのこと。ま た、川尻地区にはいって気づ-ことは鉄筋作りの立派な二階建ての家が 多いことである。それは聞-ところによると戦前から昭和二十・三十年 代に外地に船員として働-者が多-、その人達が退職して帰省し建てた 由。そのため進取の気性に富んだ地区であるとのことであった。つまり このようなことも運動の大きな下地になっているものと考えられる。 運動がどのように行なわれ、いつまで続いたのか、効果はあったか等 については、資料として残っている文献がな-、当時その運動に携わっ た方々からの聞き取り調査しか、うかがい知るすべは今のところない。他 日を期したい。 昭和二十九年十月には上伊集院村 (現 伊集院町) 春山小から「はな しことば」という研究冊子が出ている。目次の概略は次の通りである0 一、話しことば指導の必要性 二、共通語とは何か

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暑 弐 責 讃 召 ー 菖 雪 ぎ 了   ー _ ド _ 事 貢 ぎ 戸

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三、 四、 五、 六、 七、 八、 学校全体としての指導態度 指導の実際 指導の機会と領域及び内容 学年別指導計画と実際 指導の資料 施設の資料 九、これからの敬語 十、話しかた聞きかたの能力表 十 一 、 言 語 生 活 実 態 調 査 「なぜ共通語を身につけようとするのか」 (目次1の3) で次のように 記している。 「特に鹿児島県の言葉は世間周知の通り、語法や靴り方やアクセント、 イントネーションといったことが、標準語系統のものでないことから全 然他府県人には通じないという点である - 略 引用者 - 今日の生活 は、通信、交通機関の発達によって、生活の範囲が拡がりもはや地方請 だけの生活に止まることができな-なった」 (前出「はなしことば」二p) 指導の態度としては共通語主義・急進主義をあげている。 「本校は二重言語主義をはいし共通語主義をとる。二重言語主義は、 ちょいと考えるといかにも現実に即した正しい原理のように思われる。 しかし、鹿児島のような方言と共通語との差がひどいところでは、それ では決して共通語を自由に話せるようにはなれない。教育というものが、 常に理想を冒ざさなければならないとしたら共通語指導で二重言語主義 の上にあぐらをか-ことは許されまい - 略、引用者 - 間接には方言 を醇化して共通語に漸次近づけてい-ことによって、窮極には全生活を 通じて共通語一本の言語生活を営み得るようにしたいと考えてる。」 (同 書四p)。急進主義については次のように記している。「標準語教育は早 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) ければ早いほどよいと思う。家庭生活から始める事を理想とする。つま り急進主義が指導の態度である - 略 引用者 - せめて小学校入学と ママ 同時に、適確なカリキュラムを設けて共通語指導を行うべきであるとい う急進的方法を主張するわけである。」 (同書四p) 「 指 導 の 実 際 」   の 「 4 ㌧ 外 部 の 働 き か け 」 に は 、 職 員 部 落 巡 回 指 導 ・ 部 落懇談会・父兄会・共通語生活経験者との座談会があげてある。共通請 生活経験者との座談会には「永い間京浜、阪神地方で生活した父兄の方々 に集っていただき'職員との座談会を開いて研修と啓蒙に当り協力を求 め る 。 」   と あ る 。 ( 同 書 六 p ) 同書において注目すべきは戦前の話しことばに対する反省点が記され ていることである。 ママ 「4、従来の話しことばは指導の反省と今後」には次のように記されて い る 。 終戦前に盛んに行われた話しことば指導は、すぼらしい実績をあげた 所がかなり多い。しかしその指導は「ことばに適応する指導」 に終始し て、ことばによって社会に適応する指導をなさず、それはよそゆきの特 別指導に終ったのではあるまいか'そのためにいきおい 注十三 Ⅲ アクセントやイントネーションのみを強調しすぎ 榔 日常生活から離れすぎて、その場やその人のもつ個性を無視し坐 きたことばとしての指導に欠け 刷 平明簡素でな-マ マ マ マ ㈲ 超国家主義に立脚しすぎたため、方言を追方撲滅する事を強-考 え た 。 だが戦後はその反動として、地方分権が唱えられ、方言尊重・標準請 無 用 論 ま で 出 る に 至 っ た 。 ( 同 書 二 p ) さて昭和二十九年十一月に「標準語指導と新教育」 (川尻中学校)が出 三 二 五

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鹿 児 島 大 学 教 育 学 部 研 究 紀 要   教 育 科 学 編   第 3 9 巻 ( 一 九 八 七 ) されている。同書の目次は次の通りである。 目   次 信は力なり  校長 有田栄助 本校の概要 二   校 歌 二 、 学 校 沿 革 三 、 学 級 編 成 四 ㌧   週 行 事 表

六㌧ 卒業生動向 七 、 環 境 の 実 態 標準語指導と新教育 一、私はこんなにして標準語指導をしてきた 二、標準語指導と新教育 三、標準語指導に対する考察 四㌧ 本校における自主協同学習の考察 五 、 対 等 対 話 の 指 導 六、独話又は目上との対話練習 ○過去の練習資料 七、標準語指導と現在の生徒 八、今年度にはいっての歩み 九、ことば指導上の呼吸 十、中学国語年間計画表 〇第一学年 ○第二学年 ○第三学年 三 二 六 上原森芳は川尻中学校に昭和二十四年十一月三十日∼翌年三月末まで は助教諭として'昭和二十五年四月一日から昭和三十一年三月末までは 講師として勤めている。その上原森芳の標準語指導二十年間の総まとめ 的なことがらが盛り込まれた冊子である。 「一、私はこんなにして標準語指導をしてきた」は「実践国語」 (一九 五四・六月号) に発表したものを再掲載したものである。「二、標準語指 導と新教育」は「二九・四・二〇」と目付けが打ってあり、発表あるい は講演原稿の転載と考えられる。ここでは新教育のねらいを、「自主性」 「 引 き 出 す 教 育 」 「 生 活 性 」 「 社 会 的 」 「 こ と ば 」 「 自 由 」 「 道 徳 教 育 」   の 七 つの観点から記している。その「社会的」 のところに「さきに平等に個 人は人間性を持つと言ったが、これは古今東西の人間は老幼男女を問わ ず、白黒黄色の人種を問わず、その実現以前の実相に於てに共通である。 一つである。万物同根一体であるのである。自他平等一如である。四港 同 胞 で あ り 、 我 が 彼 で あ り ' 彼 は 我 で あ る .   -  略 ・ 引 用 者   -  本 能 的 に個性的に宇宙の創造者は無限の叡智をもって人間を創造している。」 (同書十七p)と記している宗教的な感じのする記述がある。「鹿児島 国 語教育 第三号」 (昭和三十年)にも「人間が生存競争的に勉強したり勤 労するのは'真の勉強勉労ではあるまい。人間の本質である愛の実現と し て の 勉 強 で あ り 、 研 究 で あ り 、 労 働 で あ り た い 。 」   ( 同 書 四 十 三 p )   と いう同じような記述である。上原森芳の人生観・教育観を記したものと とれる。そしてそれらの人生観・教育観は注二に記した上京の発端であ 注十四 る「松原小で小原国芳の講演を聞いたこと」から考えて、小原国芳の思想 からの影響が考えられるが、そのことの追求は今後の課題にしたい。 「三、標準語指導に対する考察」には(昭和二十九年六月 鹿児島県国 語教育研究会で発表の原稿) とある。その中の次のような記述は上原森 芳の方言認識・標準語指導観を表わすものであろう。(同書二十一・二p) fi__!ヽ

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「○方言Iは同一県下でも小学校区毎になんらかの差違があり、又小 さい部落毎に発音にちがいがあって、それを聞いて子供はふきだしたり' けんかにさえなり、調和性を欠いている。○標準語を使用させると'け んかや暴力行為が減る。お互いに人格尊重となり'敬愛の情が深まり、学 習が極めて活発となり、科学的論理的鑑賞的になる。○鹿児島県のこと ばは通用範囲が一県にとどまり、非民主的な点が多-'粗暴犯の因とな るものがあり'対話が断片的・文節的であるにもかかわらず、教師でさ え標準語をけざらいするものがあるが不可解にたえない。○標準語指導 の目標は発音の標準化から校外・家庭の日常生活にまで。○演説的・戟 告 的   ( 独 話 )   に と ど ま ら ず 、 社 交 的 ・ 道 徳 的 ・ 効 果 的 ・ 生 活 的 対 話 に ま で指導し、実践させなければ効果は半減する。日本では特に一対一の対 話の指導と実践が是非必要。標準語対話をよそゆき晴着として置かず、仕 事着として子供に着せたい。○芋普通語は美しい標準語や情味豊かなか ごしまことばを汚し、第二方言を創造し、且つ方言の侵入を容易ならし め、遂に又もとへ返る.〇 - 略・引用者1一気珂成、一学期中に家 庭にまでの圧倒的・大洪水的・急進主義でなければ、とても叶わぬ。○ 全職員は生徒に対して方言を絶対に使わぬこと。」 二において論述したように上原森芳の標準語指導を特色づけているひ とつに対話の指導がある。徳光小では「だ」言葉に切り換えられなかっ た が 次 の 宮 脇 小 で は 男 子 は   「 だ 」 、 女 子 は   「 だ わ ・ で す わ ・ 思 う わ 」   と い うことばを使わせることに成功している。その対話の指導の内容・方法 を記したのが「五、対等対話の指導」である。「学習時の対話練習」とし て二十三通りの方法・内容が記されている。 次 の   「 六 、 猫 話 又 は 目 上 と の 対 話 練 習 」 も 二 十 八   ( 番 号 な し )   の 項 目 にわたって記されている。教師の方言使用からおこる問題のひとつとし て出されている次のことはたいへん興味深いものである。 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) 「生徒をたた-ことができない代りに封建的薩摩語でた∼きつけてう つ憶を晴らしている。生徒と親しむんだといってサツマの先輩語で後輩 に叱り語や罵倒語を使い、生徒もまた親しみを吐露せんがために、不敬 語をつかって互に意気投合し融和し、或知識や技術を授けたかの錯覚を 起している場合が多い。不敬語を使いならされている生徒が、時たま先 生の強制に従わずに、習慣的不敬語がとび出すと、親しみどころか、今 度は鉄けん制裁となり'大問題となり、退職となる。みな自業自得とい い た い 。 」   ( 同 書 三 十 六 p ) 「七、標準語指導と現在の生徒」では川尻中における指導の手はじめと 成果が記されている。指導の手はじめに「校庭で標準語使用に関する弁 論会を開いた。その席で生徒会総会の形で、この件を可決し、直ちにこ れが実践指導に当った。生徒が自発的自主的にやる形に持って行った。」 ということで、職員会では次のことを決めている。「今やっているグルー プ間題学習を全教科とも実行すること. - 略・引用者 - 新教育は標 準 語 を 必 須 条 件 と す る こ と 。 」   ( 同 書 六 十 四 ・ 五 ・ 六 p )   そ の 結 果 「 川 尻 独得の粗暴性を発揮し、如何なる制裁も訓戒もそれこそ里芋菜に水と聞 ママ き流し横柄・放縦・好学心も乏し-野蕃極まる生徒が相当多かった。」が、 「実に不思議に人間がおとなし-なり、けんか口論が減り、生傷が少な-なり'泣き声が聞えな-なり、あの殺人語がすっかり影をひそめて来た。」 ( 同 書 六 十 四 、 五 p )   と あ る 。 上原森芳の現場教師としての標準語指導は昭和三十一年三月末で終わ るが、同年三月には開聞町教育長に就任することになる。そして昭和≡ 十 二 年 の 「 共 通 語 指 導 の 実 際 」   ( 川 尻 小 ) に お い て 、 先 の 殺 人 語 等 の 具 体 的記載があることから、これは上原森芳の意向・指示を受けた研究であ ることをうかがわせる。 昭和三十年十一月には「共通語指導と学習効果」 (徳光小学校)という 三 二 七

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鹿児島大学教育学部研究紀要教育科学編第3 9巻(一九八七) 研究冊子が出ている。目次は次の通りである。 目次 一、本校の概要 1、位置 2、沿革 3、教育目標 4、本年度努力の目標 5、進動機構一覧 6㌧年間行事計画 7、学級の編成 8、校地校舎 二、本校の共通語指導 1、私たちはこうして共通語指導をしている。 2、共通語指導と学習効果 三、共通語指導の特設計画 1、低学年 2、中学年 3、高学年 四、参考資料 同冊子の中から特徴的なことを箇条書き的にあげていこう。 1、進動機構の中に言語部(西元)が設けられていること。(四p) 2㌧共通語・標準語の二つの語が併用されていて、その概念の区別が 明らかでない。(八・九p) 3、標準語指導の出発を次のように記している。 「方言の多い環境に影響され、子供の生活語は誰にもよ-わかる言葉と ならない。発表しようとする思想はりっばであっても、言葉としての秦 三 二 八 ママ 現がまずい為、伝達及び理解に支障を来たす時も往々にしてある。」(八・ 九p)学校研究テーマ「学習効果をあげるための共通語指導」の背景(設 定理由)とでもいうべきことは次のように記されている。「児童の言語生 活に目をむけると、日常生活の言語と学習の時の言語と区別のあるかの 如-考えている児童は、方言の多い発表ではちょっとおかしい。そうか といって共通語では話せないので、学習欲もにぶってい-。」 (九p) 4、指導の態度として記されているものの中で大切な点と思われるの は次のことがらである。「Ⅲあせらず、気ながに、段階的に指導する。」 これは上原森芳の急進主義、一気珂成にというものは明らかに異なる。し かしながら'なぜそのような主義を取るのか説明はない.「刷指導時間 を特設してやる」 これについては同書十一pにおいて 「国語教育の延長 としての特設時間の利用」 としている。「㈲共通語指導を通して道徳教 育をする。 - 語い、語法が豊富になるだけでな-、社会人としての人 間形成を目標に ﹃美しい、やさしい、正しいことば﹄ を教え、子供らし い態度と立派な人間性を培う」手段と目的との関係から言えば明らかに 共通語指導が手段で道徳教育が目的になる。 5㌧ 児童の指導の中で、子供会の組織の中に言語部を設け、言葉の調 査や方言集めをしたことが記されていること。 6、子供達が共通語を自由に表現できるような段階に近づきつつある 結果、「最近一般父兄の関心もだんだん向上し、子供達の共通語使用が幼 児まで伝わり、真似をして使用しようとしている雰囲気は、面白い事だ と思う。いつかの父兄会では、自分が他所へ出稼ぎに行って ﹃言葉が通 じないので、自分の思う事もしゃべれず、意見ものべられず、ただ黙っ ている事が何回とな-あった。﹄ と自分の失敗談を話して、﹃今後の子供 達には'絶対あのような事がないようにして下さい。﹄と強-共通語指導 を要望される方が多かった。」と、学校の校外に対する影響や校外からの

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共通語指導の要請について記している。 7、「2㌧ 共通語指導と学習効果」 に次のように記されている。「単に 国語科のみでな-他教科の学習効果をも期待し、学力向上、行動、性格 の醇化をねらい'遅々としてではあるがその歩みを続けてきた。」そして 「 3 国 語 学 習 」   で 「 き -こ と ・ 話 す こ と 」 「 読 み 書 き 」   の 面 に わ た り 学 習 効果があがっていることを記している。「読み書きの面」で語いの貧困な 原因を次のように記している。「県下大半の子供達は'切角教科書で、教 室で習得した語いも、その言語環境が方言生活であるために、それを使 用する機会が少-'次々と忘れ去ってい-のではあるまいか。」 (同書十 七 P ) 8、他教科での学習効果については次のように記しているが 「国語学 習」 ほどは詳述していない。「自主協同の学習態度の育成に重点を置き、 ママ グループ学力、討議学習に話す機会場を多-与えているのであるが、共 通語指導によって習得された、き-こと話すことの言語技術を自由に使 えるようになって-ると、各教科の学習に於ても自主的自発的に学習す る よ う に な っ て き た 。 」   ( 同 書 十 八 p ) 9、低学年・中学年・高学年のそれぞれのカリキュラムを編成してい ること。 四 補注四 昭和三十一年に「ことばのほん」低学年用・高学年用の二部が鹿児島 県国語教育研究会・鹿児島県教育委員会から発刊されている。目次につ い て は   「 資 料 紹 介 」   で 記 し て い る   ( 低 学 年 用 の み )   の で 省 略 す る 。 まず作製事情をたどることにする。昭和二十九年八月鹿児島県国語教 育研究会は牧園町塩浸温泉で夏季研究集会を開いている。その日程の中 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) に   「 共 通 語 と そ の 指 導 法 」   ( 提 案 ・ 討 議 )   と あ る 。 こ の 中 で 討 議 さ れ た こ と が 「 国 語 通 信   第 八 号 」   ( 昭 和 二 十 九 年 ) に 記 さ れ て い る 。 共 通 語 指 導 の実態については「会員の学校における教師児童の共通語に対する意識 の程度、その実践状況等を発表し合った。それによると、県下全般的に 意識実践共に低調とみられ、この道まだ前途程遠Lというところ。」 (同 書 十 二 p )   と あ る 。 そ し て   「 四 、 共 通 語 指 導 法 の 改 善 」   の 中 で   「 ○ だ れ でも出来る指導法の確立 (カリキュラムの作製) ○本県の実情に即し た共通語指導のための言語副読本の作製(教科書会社に現場の要望とし て訴えて作らせることも一つの方法である。)これが記録によってたどれ る「ことばのほん」作製の発端である。川畑長生の筆者宛書簡(昭和六 十二年十月七日付け)では次のように記されている。「ことばの本の成立 事情については県国研の第一回の宿泊研修の際'みのて先生の依頼で標 準語教育(当時はそう呼んでいたと思います。)について発表し、秋田県 注十五 で発行していることばの本を紹介して鹿児島県でもことばの本を作るこ とを提唱しました。当時は指導の資料は指導者が各自作って (学習用語 例・日常の会話用語例) プリントして職員に配ってプリントを中心に職 員研修をしたり、全校指導や学級指導をやっていました。児童に配布す るような資料(ことばの本)がなかったのです。」そして昭和三十年「五 月五日の総会の決議に従って共通語指導「ことばの本」ならびに 「鹿児 島 作 文 地 図 」 編 集 の し ご と に 着 手 す る 。 」   ( 「 国 語 通 信   1 0 」   ( 昭 和 三 十 年 三十二p) ことになり、その年の夏季研究集会で南郷有徳が次のような 討義内容の説明を行っている。「本県における共通語指導の問題について は、これまでも度々研究会や委員会などで、討議して来たのであります が、私共が最も必要を感じたものは共通語指導上のテキストがほしいと いうことでありました。この度の研究集会は県下各地から御参集を得ま して、まことによい機会であると思いますので、共通語指導のテキスト 三 二 九

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鹿児島大学教育学部研究紀要教育科学編第3 9巻(一九八七) を作ることを最も大きな問題として取り上げたいと思います。それには、 1、編集の方針2、単元のきめかた3、内容の文例4、指導書の 問題5、使用上の問題等、いろいろの問題があると思いますので、こ れらのことを中心にして、共通語指導上の諸問題にもふれて行きたいと 思います。」(同書三p)同書四・五・六pで編集上の具体的な方針を挙 げている。その時の討議メンバーは「吉嶺(伊敷中)吉村(八幡小)今 奈良(天保山中)南郷(鴨池小)郡山(郡山小)松崎(郡山小)林川(育 戸中)西元(徳光小)中村(国谷中)浜田(向花小)山口(柊原小)向 (大根占中)神野(樟小)」の十三名である。昭和三十一年三月末に「こ とばのほん」低学年用高学年用二部は「昭和三十一年度一年間の研究検 討の成果」(「吉嶺勉先生遺稿集」二一五p)として出版された。その内 容は「学校・家魔・社会における児童生活の場をひろって、低学年三十 単元・高学年二十六単元に編成してあって、現場では毎日十分間、毎過 六十分間、年間三十時間で指導するようにしてあり、NHK鹿児島放送 局では﹃ことばのほん﹄をテキストとして毎週一回十五分間﹃ことばの おねえさん﹄(低学年向)﹃ことばのほん﹄(高学年向)の時間を設けてド リル形式とドラマ形式で放送した」(同書二一五p)とある。この「こと ばのほん」を使用して昭和三十一年六月十一日は八幡小学校で共通語指 注十六 導の研究公開がなされている。 昭和三十三年四月になり「ことばのほん」改訂版がでることになる。そ の改訂の要点は「全校いっせいに指導する場合やNHKの学校放送」の テキストとしての立場、あるいは、校内放送の場合、また﹃ことばのほ ん指導書﹄編集の立場等を考慮の結果、低学年用・高学年用を合して一 冊としたこと。従来の三十単元を増して、三十九単元とし'別に付録と して、発音・アクセント、誤ったことばづかい・朗読等の基礎的資料を 豊富にのせた。」(「鹿児島国語教育」第七号・昭和三十四年三十一p) 三 三 〇 とある。また同年九月には「ことばのほん指導書」が出版された。これ については 「現場の教師たちから要望されていたもので'会もその刊行 を約束していたものだったが、これまた類書のないもので'まった-困 難な仕事であった。大げさな表現であるようだが未踏の山に登るにも似 て、まことに瑳蛇たる歩みを重ねつつ、企画してからおよそ二年の歳月 を経て、三十三年九月ようや-発刊の運びとなった。」(前出本 三十二 P) とある。さて、ここで正確な史実の不明なことがある。それは八幡 小から昭和三十二年十月に 「はなしことばの本」が出され、昭和三十三 年六月二十七日には同校で第七回国語教育研究大会が開かれている。≡ 十1年の研究会では「ことばのほん」低学年用高等学年用を使用して'次 の年の十月には自校独自の 「はなしことばの本」を作製するに至った経 緯である。さらに福添書信 (扇尾小教頭) の談によれば「八幡小のこと ばの本も参考にして県の「ことばのほん」を作った。」ということである。 単純に考えてもそこに見解の相違があり、それがために独自のカリキュ ラムを設定したことがわかるが、今回は究明するまでには至らなかった。 「ことばのほん」 の利用状況については 「﹃ことばのほん﹄ は、昭和三 十一年発行以来四か年に採用校二三〇校(宮崎県一六校を含む) 採用部 数七二〇〇部に達した。鹿児島県の小学校数は六八一校であるから、約 三十%の小学校で全校あるいは一部の学級で ﹃ことばのほん﹄ を利用し たことになろう。」(2、九州南部1鹿児島を中心に - 蓑手重則、「方 言学講座 第四巻 昭和三十六年 所収) とする記録がある。 放送による指導については「昨年、倉沢栄吉先生に指導を仰ぐ機会を 得た時﹃鹿児島の話しことば指導 (放送によるもの) は、聞き方指導的 なものになっている。﹄ と言われたことが忘れられない。」 (「鹿児島 国 語教育第十一号」昭和三十七年・六十二p) という記述しかない。 l

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五 昭和三十二年十一月に「共通語指導の実際」 (川尻小学校)という研究 冊子が出ている。目次は次のようになっている。 目   次 本校の概要 二   校 歌 二 、 学 校 配 置 図 三 、 学 校 沿 革 史 四 、 学 校 経 営 概 要 五 、 地 域 社 会 の 実 態 本校の共通語指導 二 本校に於ける共通語指導の経過 二、共通語指導の必要性 三、共通語指導の方針 四、共通語指導の機会 五、共通語指導の実際 六 、 共 通 語 指 導 の 効 果 七、指導の難点及び解決策 八 、 実 態 調 査 共通語指導の計画 二 計画立案の手順と方法 二、年間指導計画表 第一学年 第二学年 第三学年 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) 第四学年 第五学年 第六学年 同冊子からとらえられる共通語指導の目的・内容・方法、動向等の特 色的なことを次に箇条書きで記すことにする。 1、年間行事計画表の十一月のところに「共通語指導町内研究会」と ある。当時の開聞町教育長は上原森芳である。その意向を受けた研究会 と 思 わ れ る 。 2、「共通語教育の必要性」を八つの観点から記している。その中でも 次のことは特記する必要がある。「A、国語教育の立場から - 略・引用 者 - 国語の教科書のことばと実生活のことばが別々であるというのは 一体どうしたことであろうか。ここに共通語教育の必要の根本的問題が 腔 胎 し て い る 。 」 「 C 、 封 建 性 の 打 破 ・ 現 在 鹿 児 島 で 、 又 川 尻 で 使 用 さ れ ている方言は封建的色彩の強い言葉が多-、児童の人格形成に対する影 響は無視出来ないものがある。狭い日本に地方地方のなまりを作る必要 が あ ろ う か 。   -  略 ・ 引 用 者   -  」   「 G 、 学 習 能 率 の 向 上 ・ 新 教 育 に 於 い て児童中心の学習形態が要請されている。そして話し合いや発表、討読 等による学習が重んぜられる。共通語を自由にこなすことが学習を能率 的 に 効 果 的 展 開 す る も の で は な い だ ろ う か 。   -  略 ・ 引 用 者   -  」   「 H 、 川尻の地域の実態の上から・わが川尻の言葉は環境の影響によるものと 思うが'大変乱暴であり、音声が高-対等の言葉でも時には人格無視的 な言葉が平然と使われている。之が漸次矯正されつつあるというものの 末だ努力すべき面が多々ある。この環境に育つ子供達も粗暴な面が多い。 共通語を通して潤いと豊かな品性を陶治することは可能なことである。」 3、昭和三十一年度八幡小学校の研究会に職員の殆んど出会してい る。(同書二十五p)したがって四で記した「ことばのほん」の存在や内 三 三 7

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鹿 児 島 大 学 教 育 学 部 研 究 紀 要   教 育 科 学 編   第 3 9 巻 ( 一 九 八 七 ) 容を当然知っていると考えられること。 4㌧ 練習時間を特設し、朝会前十分、及び下校前十分をあてているこ と。 5、共通語指導の効果が学校内 (A 教科学習、B 教科以外の学習 C 日常生活)・家庭及び地域社会のそれぞれについて記してあること。 6、「共通語指導の難点及び解決策」は指導の難点に対応して解決策が 具体的に記してあること。 補注五 7、実態調査の中で川尻で使われている悪いことば調べをやっている こと。昭和二十九年のことば改善運動の折の配布ビラにも挙げてある(資 料参照) が、それより精密にしたものである。上原森芳が記述している ものの中によ-出て-る「殺人的語」「人権じゅうりん的語」「封建的語」 はこれらの語を示すのであろう。(同書三十二・三十三p) 8 、 「 共 通 語 指 導 の 計 画 」 の 中 の 「 計 画 立 案 の 手 順 と 方 法 」 に 「 先 ず 国 語学習指導要領の目標を分析し ー 略・引用者 - 」 と学習指導要領と の関連を記していること。 9、年間指導計画は各学年ごと記されていること。 さ て 、 四 で 記 し た 「 こ と ば の 本   指 導 書 」   ( 昭 和 三 十 三 年 九 月 ) で は 共 通語指導と話しことば指導の概念の違いが記されている。「理論的には、 両者は指導の段階と内容を異にする。すなわち共通語指導が話しことば の共通語化への段階の指導であり'したがって、方言的な発音・アクセ ント・語い・文法等の矯正指導をめざすのに対して、話しことば指導は' すでに共通語化された段階の指導であり、したがって共通語化された請 しことばを正し-じょうずに聞いたり話したりする技能や態度を養うこ とをめざすのである。」 (同書二p)このことは「聞-こと、話すこと」が 昭和三十三年版学習指導要領の中に入れられたことと無綾なものではな か ろ う 。 三 三 二 昭和三十年代前半の共通語指導の実態と見通しについて南郷有徳は吹 のように記している。「共通語指導の場合には、その学校の全職員が一致 協力して立上がらなければ、その効果を期し得ない。共通語指導に無哩 解な人々の抵抗が予想以上に激しい場合もある。それらの抵抗を排除し て進む勇気も必要である。」 (「鹿児島 国語教育」第七号 昭和三十四年 三 十 p ) 「 本 県 国 語 教 育 史 上 、 空 前 の 熱 意 を も っ て ' 県 下 各 地 に ' 共 通 語 指導研究会が自主的にもたれ、共通語指導に対する努力が傾けられつつ あることは、近い将来に、鹿児島県をして'もはや方言の城壁の中に押 しこんでお-ことは困難なるであろうことを、われわれに期待させるの で あ る 。 」   ( 同 書 三 十 二 p )     ・ 三十五年三月には伊集院町飯牟礼小学校、同年七月には前之浜小学校 で話しことば指導の研究会が開かれている。「国語通信 第二十一号」(昭 和三十五年) にその橡子は詳述してあるが、その中から特記しなければ ならないことを記してお-。 1、飯牟礼小は 「学習効果を向上させるための共通語指導」 のテーマ で研究していること。 2㌧ 前之浜小の全体会の時に 「方言は悪いことばではない ー より共 通性を持っているがIという質問に対し、会長である蓑手重則は 「低学年では、幾らか方言が許容される」旨答えていること。 3 、 前 之 浜 小 で は   「 共 通 語 指 導 に よ っ て   -  略 ・ 引 用 者   -  単 に 国 語 科だけでな-、他教科の学力向上をも期待」 していること。 前之浜小学校では昭和三十四年二月に 「話言葉カリキュラムを各学年 別に作成し、四月∼七月の分を一部、九月∼三月の分を一部、計二部を 発 行 し て い る 。 三十年代前半には共通語指導も隆盛を極めた感がする共通語指導も、 話しことば指導へと移ったことは飯牟礼小・前之浜小の研究会記録で明

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らかであるが、中身としては共通語指導と話しことば指導を並行させた ヽヽ ものとは握できる。ところが「昭和三十年代の中ごろから、わが国は経 済の高度成長時代にはいるとともに、特にマスメディアの発達に伴う情 報化時代に入って、各家庭にはラジオやテレビやカセットなどの設備が 普及し、共通語は全国の津々浦々に至るまで浸透し、都会と僻地との言 語生活の差は急速に縮まった。」 (「幾山河」 I Nという見方と符号 して、共通語指導は話しことば指導の中に含まれる形になっていった。資 料紹介に記した大丸小学校の研究冊子も共通語指導と話しことば指導を 一体的にとらえているようである。 先の「言語生活の差は急速に縮まった」 とする見方は、昭和三十年代 中ごろ以前に-らべればという意味であろう。というのは、「子供たちは 勿論のこと、教師も方言が多-、共通語を使ったとしても発音・アクセ ント等にひどい歪みを生じた方言的共通語である。」 (「鹿児島 国語教 育」第十一号 昭和三十七年 十三p) という実態はまだ残っていたと 考えられるからである。しかしながら昭和三十年代後半には関西弁によ るテレビドラマ等が日常化し、「なぜ方言が - 」という疑問がおこった としても不思議はない。それは昭和四十年代にはいると声高な主張と なって表われて-るのである。 〇 〇 〇 〇 〇 〇 お   わ   り   に 本論考で明らかにしえたのはおおよそ次のことがでらである。 ○ 上原森芳の標準語指導の展開過程 ○ 上原森芳の実践の下地に、兄、上原覚市の共通語運動と川尻地区氏 の進取の気性があげられること。 ○ 上原森芳の戦後の標準語指導は民主的人間の形成が眼目であったこ 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) と。 上原森芳の標準語指導のそもそもの発端(成城学園でのアクセント 事 件 ) 終戦直後の共通語指導の実態(岩北小・川尻小の実践) 当初、急進主義・共通語主義であった共通語指導が、三十年代後半 になると漸進主義・二重言語主義へ質的転換をなしていること。 「 こ と ば の ほ ん 」   の 成 立 過 程 。 従来「話言葉改善指導書 第二集」とされていたものが「績 話言 ● 葉 改 善 指 導 書   -  国 民 科 国 語 朗 講 の 研 究 」   で あ っ た こ と 。 「コーバ」第五巻第三号に昭和十年版と昭和十八年版があること。 今後の課題としては次のことがあげられる。 上原覚市の昭和初年代における共通語指導の実態 上原森芳の標準語指導展開過程の実証的究明①!学習者の立場か らの評価 - ②小原国芳の影響 西村義雄(川尻在) の共通語指導観とその実践過程の究明 「川尻部落給源起ことば改善運動」 の実態とその評価 共通語が話せなかったことによるトラブル例の調査 「ことばのほん」 の作成過程と利用に関わる実証的研究 各学校作成の話しことばカリキュラムの検討とその特色・系譜 仲田・山本アナウンサーによる当時の共通語指導の内容・方法・評 価 「はなしことばの本」 (昭和三十二年八幡小学校編) の作成過程の実 証的研究 昭和四十年以降のはなしことば教育の実態 戦前の話しことば教育に関わる資料の発掘 本論考を書-にあたり、次の方々に資料提供・証言をいただいた。記 三 三 三

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鹿児島大学教育学部研究紀要教育科学編第3 9巻(一九八七) して感謝の意を表したい。(敬称略・順不同) 西村義雄・三浦定雄・南郷有徳・脇田典年・橋口正則・川畑長生・黒 木優・西元四男・暁豊俊・福添書信・有村正之・増長文雄・永吉清隆・ 副田凱馬・西村義雄(川尻在)・竹下昭典・和田耕一 注一「共通指導を推進する人たち」蓑手重則、「鹿児島国語教育第六号」昭和 三十三年二〇〇p所収同氏の「幾山河」昭和六十二年によれば、「話しこ とば指導の父」⊥同書二七P)となっている。 注二履歴書によれば昭和五年三月鹿児島市松原尋常小学校を退職し、同年四月 東京府私立成城学園小学部に勤務。昭和九年六月三十日に家庭の事情により 退職とある。 注三昭和九年七月十七日鹿児島県揖宿郡別府尋常高等小学校訓導となってい る。 注四「共通語指導の史的展開」(「吉嶺勉先生遺稿集」昭和五十七年三一p所 収) 注五幾つかの論文では前者を「話言葉改善指導書-第一集-」、後者を「話 言葉改善指導書∼第二集1」としているが、そのような表題の書物は存 在しない。順序からいえば、第一集であり、第二集であると思われる。 注六「共通語指導の実際」「川尻小学校昭和三十二年)の一六・一七・一八pに 詳しく紹介されている。「昭和二十九年には川尻部落総欺起ことば改善運動 を部落総機関をこぞって之に当ったのである。」とある。 注七当時の川尻校区は戸数七〇〇である。 注八同様の例は数多-記録として残っている。 「毎年のことだが、就職した生徒達から学校への第一倍には﹃ことばが自由に 使えなくて困っている。在学中にしっかり言葉の指導をしておいて-ださ い。﹄という一節がきまり文句のように書いてあるのだ。」(川畑長生「鹿児島 国語教育第六号」四四P) 「当地の中学校を卒業して、都市へ就職した子どもたちの、ことばに対する苦 三 三 四 しみも大きく'雇用者側の文句も多い。」(小園春子「鹿児島 国語教育 第 十一号」昭和三十七年、二二p) 注九 上原森芳とこイトコ半(母が上原のめいになる)になるという増長文雄氏 (開聞町川尻在)によると、川尻地区の中学卒業生(戦前は国民学校卒業生) は就職先として堺・泉大津・泉佐野のあたりの紡績に行-のが常であったが、 ことばの上では障害はなかったそうである。増長氏も上原から時々共通語の 指導を受けていたので大阪で働いていた頃、鹿児島県出身であることは全然 わからなかったそうである。(昭和六二年九月十五日 筆者との面談で) 注十 前出「日本の方言」一二六∼〓石pにおいて、上原森芳のアクセント指 導に対する疑問を記している。 注十一「共通語指導の実際」(川尻小・昭和三十二年)十二pによる。「日本の方 言」 二一〇pでは人口三千八百人(戸数七百)と記されている。 注十二 上原森芳のニイトコ半にあたられる増長文雄氏との面談で筆者に話さ れ た 。 ( 昭 和 六 十 二 年 九 月 十 五 日 ) 注十三 「話しことばの指導」(大内山喜三郎﹃鹿児島 国語教育 第六号﹄昭和 二十八年 所収) に次の記述がある。 私は標準語指導不要論を唱えた。1略1アクセンーのアクセントさへ 出来ない連中がアクセントの指導などとはこっけい千万ではないか。-略 - アクセント指導を止めるとはいわないけれども、ことばの指導という と、何はさておいてアクセントを口にすることへの反省を促し度い(同書三 十 五 ・ 六 p ) ま た 「 誰 で も で き る 共 通 語 の 指 導 」 ( 暁 豊 俊 ﹃ 国 語 通 信   N o 9 ﹄ 昭和二十九年 所収)には次のような記述もある。 いつどこでまいたか'はっきり思いだせないけれども、今もなお私の心の どこかに残っているある先輩のことば。「僕も若い頃は、国語教師を目指して 進んでいた。ところが標準語指導の事がやかまし-言われはじめ、アクセン トの事などが問題にされると、僕は国語指導というものがうるさ-なって、 いつのまにか他の方へ転向するようになった。」-略・引用者1私自身こ の事について、いつも悩まされてきたからであろう。(同書五p) 注十四 増長文雄氏談(昭和六十二年九月十五日。開聞町川尻五三六九番地の一

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に お 住 ま い 。 昭 和 二 年 生 ま れ 。 ) 注 十 五   「 こ と ば の 本 」   ( 秋 田 標 準 語 教 育 委 員 会 ・ 秋 田 県 国 語 教 育 研 究 会 )   と 「 こ とばの本指導書﹄ が出されている。発行年月は昭和二十九年五月である。 注十六 八幡小学校からは「はなしことばの本」 (鹿児島市八幡小学校編)。昭和 三十二年十月)が出されている。この本は一年から六年までの児童を対象に している。作製の経緯については今回は記すだけの資料・証言が得られな か っ た 。 補注一上原は当時、標準語指導という語を用いているので、それによった。上 原 は 後 年   ( 昭 和 三 十 年 )   次 の よ う に 記 し て い る 。 「鹿児島県人だけに共通性のある鹿児島ことばに対して、日本全国に共通 語の高いことば、教科書等に使用されていることばを普通に標準語といわ れてきたので、私もその意味で全国共通語を標準語とここでは用いて話を 進 め て い き ま す 。 」   ( 「 鹿 児 島 国 語 教 育   第 三 号 」 昭 和 三 十 年 ) 補注二 筆者あて書簡(昭和六二年十月七日付け) に次のような部分がある。 「私が岩北小で話言葉指導を始めたのち、たしか昭和二十一年の秋、職員の 研修旅行で徳光小を参観しています。その時徳光小でもらった話言葉指導 の資料に昭和二十一年五月の分から昭和二十1年九月二十二日のプリン トが残っています。その際、両校職員が話言葉指導について意見交換をし て、これから両校で話言葉を推進していこうと話し合いました。翌年の秋 (香?)徳光小から職員旅行で岩北小に来られて岩北小の実践を参観され 共同研修をしたあとバレーボールを両校対戦して親睦を深めました。」 なお川畑長生氏の東京派遣は正確には'昭和十七年十1月∼昭和十九年三 月 末 ま で の 一 年 七 カ 月 間 で あ る   ( 「 資 料 紹 介 」 参 照 ) 補注三 「共通語指導と学習効果」 (徳光小学校・昭和三十年十一月) にも次のよ うな箇所がある。 「戦後は外地引揚者や、他郷に於いて生活した人たちによって、標準語への 注意はむけられて来た」 (同書九p)また「標準語教育てん末記・川畑長生」 (「資料紹介」参照) にも引揚者と標準語に触れている部分がある。 補注四 「ことばのほん」の名称は西村義雄(川尻在)が昭和二十1年∼昭和二十 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) 二年に徳光小で配布した資料にも使われている。また、小村秋豊の「共通 語指導のお膳立てということ」 (「鹿児島 国語教育 第三号」昭和三十年 所 収 )   の 中 で 秋 田 県 の そ れ ( 筆 者 注 「 こ と ば の 本 」 )   に ヒ ン ト を 得 て 、 「 こ とばあそびの本」「ことばのおべんきょうの本」の具体的提唱がなされてい る。 三 三 五

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鹿 児 島 大 学 教 育 学 部 研 究 紀 要   教 育 科 学 編   第 3 9 巻 ( 一 九 八 七 ) 補注五 川尻で使わされている悪いことば調べ (使用頻度の多い順に列記) 父兄間で使わ れ て い る こ とば      児童間で使わ れ て い る こ とば 三 三 六 作 動 の 通 普 為 行 的 人 殺 し 対 に 手 相 ど い ゆ ふ ご も う い は ふ け し た ■お う た く あ い わ う ば ば こ わ う ば わ け つ こ ゆ ん ど ろ つ よ ん じ つ だ つ つ だ つ つ ん い ん が つ ん や が い き ぢ ご ご れ う ど き こ つ こ つ こ こ つ さ こ げ ど が は か や う な が や つ や ろ と ろ つ ろ こ ろ ま ろ ろ こ れ さ ん つ ぶ ぢ な ( と き せ せ ■せ い ろ い ぐ さ い ろ も が い や ば が か ん ぢ ん ど い ど つ る ど い ん が が ん か よ か ど ど つ ど ) な ず わ つ く だ が う ぬ が な に ■ま ■る い ら わ つ な な つ に よ く け ど は ん き さ ど し の ゆ ん ら ん ん じ ゆ ま こ わ じ ん な あ な ご あ な ど た ち け た ん い ん す ゆ だ つ い だ ■ が な ん づ や ま が ご つ き か く こ つ し の ら い や く ご つ る る ろ き ■ 7-ば ど こ だ つ に 7-ば ぬ ぽ こ や ら つ せ つ さ い つ ま ば ぢ ど ●る ど ど ん つ よ つ ね か か い ど い か ぐ ご ぬ ぶ た が L が し っ ん ら つ れ か い と ん け ご や も ん ん も こ も ろ つ ん ぽ げ ん ん か さ な か い ゆ ま す ぎ い な あ け お た う さ し た あ え お お あ ぬ あ こ ぼ う ば わ せ ご う つ を つ い ま い ら だ つ い つ だ ま ー ど い ん な つ ん が が つ や の い が ゆ て や え ー こ や つ こ こ こ つ え も こ や し こ や は な が ( み に え な け ち ろ つ ぼ ろ ろ ろ こ ご う ん ら ぢ ( ぢ つ わ れ ば や な は だ や ま こ が お い ど が い い い う ろ な や あ や い ど い ど ど ど い つ が ど ど ね ひ な ぶ ち か ) ) よ ぬ ち が ば こ ぼ が ら ま つ だ ん ら ら じ つ が ん つ つ L が せ ん つ せ が か ゆ せ つ び す ち こ ご と び さ ん ら ら ら き ち ん ん こ つ つ け ろ ろ も こ ゆ え よ ど ろ さ ど い ん つ だ れ せ つ ね ど ど ど ね -3 -・ 蓋 い 、 ∴ = ∴ ︰ ミ . -_ _ ^

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他 の そ 分 自 わ げ だ が こ ぬ ご ご で で お お お つ つ が つ つ し つ ん つ つ い ご せ や つ さ と ぶ ご く じ い が ど え ん ( い な も し で ら げ ん あ ン が 誰 か ん つ め ) ( く 汚 ら い め ) も く い そ ど わ つ で た つ せ て つ い く ん く ぶ げ ん ど ん し ん な な 、ワ■ は う ば あ が び は で つ お く お お お お ん ー ば つ ー じ つ ぶ れ さ ち い に ( ん つ び ー じ れ も ら や ど い が や 感 い ー げ む く し っ ま お れ 動 ん わ か も ) せ ん ん か な な ■な な や ′ぢ く い に い い っ や ら か ゆ の が せ ら わ よ や や や ん は せ ー ら ん ( ど 何 か ? ● ) 新名主︰鹿児島県国語教育史(Ⅳ) 三 三 七

参照

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