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井上哲次郎の教育思想 : 国民道徳論を中心に

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(1)Title. 井上哲次郎の教育思想 : 国民道徳論を中心に. Author(s). 船山, 謙次. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 8(1増補): 1-15. Issue Date. 1957-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3641. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 8巻 第 1号. 北海道学芸大学紀要 (第一部増補). 2年 7 月 昭和3. 井 上 哲 次 郎 の 教 育 思 想 --国民道徳論を中心に-- 船. 山. 次. 謙. 北海道学芸大学札幌分校教育学研究室. Kenj i FUNAYAMA:. i The Educat ionaI Though t suj ro lnoue s of Tet. 目 1 序. 次. 4 井上の教育思想. 説. 2 思想家と しての井上哲次郎. 5 結. 3 井上の国民道徳論 、. 1. 序. 説. 1871 ) の廃藩置県によって、 明治新政府は、 中央集権的官僚支配の礎石をいちおう確 明治4年 ( . 立し、 その後は、 この基礎の上に、 もっぱら絶対主義的支配の機構の整備に力をそそいだ。 しかし 新政府がみせかけだけの近代的政治機構を整備 していけばいくほど、 一般民衆は 「御一新」 によせ た甘い期待がうらぎられ、 依然として生活の困 窮にあえがなければならなかった。 かく して明治 4 年から7年 にかけ、 全国的に 空前の農民一榛が頻発した。 この民衆の必死ともいうべ き反政府、 反 封建の闘いを背景として、 自由民権運動が展開されていった。 これにたいして明治政府はす かさず 一連の言 論、 出版、 集会の自由を制限する弾圧策をとり、 一漆、 暴動に たい しては物 理的 な直接行 動をもって対処 した。 しかし思想にたいするに 弾圧をもつてするのは、 かならずしも良策ではない。 思想には思想を も ってする必要が痛感されたことは、 容易に推 察される。 かくて明治 政府 は、 着々と、 一方において は教育行政の中央集権制を強化し、 他方小学校中学 校の 「教則綱領」 を 整備して教育内容を統制す 3 るなど、教育 の支配体制を強化していく。 やがて政府は欽定憲法を発布 した翌年、 すなわち明治2 1890 年( )10月 30 日、天皇の権威において 「教育 勅語」 を襖発した。 これはまさ しく絶対主義権力 1 ) と して だ さ れ た も の で あ り、 自 由 民 権 論 者 や キ リ ス ト者 な に よ る 「国 民 教 化の モ ラ ル ・ コ ← ド」(. 2 ) どの人間開放運動、 教化運動にたいする絶対主義権力の思想的勝利であった( 。 そ してかれらは教 育勅語によって 「その国家権力、 社会構造の形成を担うところの民衆の意識を鋳 出しようとする臣 民教育--…天皇の臣下としての人間像の形成」塑 を強制 してくるのである。 しかし勅語が臣民によ って 「奉戴」 さ れるには、 臣民の自発性にまつところが大である。 そこで文部省は勅語街 義の基準 となるものの刊行の必要を感じ、 これを井上哲次郎に依嘱 した。 井上哲次郎の 『勅語街 義』 は、 こ 1891 ) に 出版されることとなった。 のように して勅語街義の官許的性格をもって明治24年 ( 9 188 5 )、 福岡県に生まれ、 太平洋戦争たけなわの昭和 1 井上哲 次郎は巽軒と号 した。 安政 2年 ( ・ 1 9 9 4 9 0 歳の高齢をもって段 した。 かれは日本型観念論哲学の確立者と して思想界の 大御所 年 ( )、.

(3) . 船. 山. 謙. 次. であったばかりでなく教育界においても隠然たる勢力をも っ て い た。 とくにかれの 『勅語街義』 は、 勅語の官制的解説版と して 作用 し、 その後の日本の思想界、 教育界に強い影響をあたえ、 日本 教学の方向を 決 定づけたものである。 2 思想 家と しての井 上哲次期 井上哲次郎の教育思想を吟味 しようとするならば、 まず、 かれの哲学思想を考察しておく必要が ある。 日本の近代哲学は、 西周には じまり、 明治 20 年代にいたり、 井上哲次郎によって確立さ れ た。 当時、 日本の哲学思想界は、 いわば啓蒙主義の時代であり、英米の自由独立の思想、功利主義・ 実証主義の思想、 フラ ンスの自由民権の思想が、 井上自身のことばによれば 「功利主 義、 進化主義、 ー ( )の思想がさかんであった この間にあって いちはやく ドイ ツ理 想主義哲学に注目 し ‘ 唯物主義」 、 、 。 7年か ら同 23年まで ドイ ツに留学 し、 帰 深い関心をよせたの が井上哲次郎であった。 かれは明治1 朝 して東京帝国大学において、 ヘーゲル、 シ ョー ペ ンハウェルを講義した。 そ し て 井 上 み ず か ら 「わが国において 独逸哲学の重要, 現せらるるやうになったのは自分等の努力に依るこ と が多大で あ る」@)と の べ て い る。 明 治 20 年 代 以 後、 日 本 で は、 ひ と り ドイ ツ 理 想 主 義 が さ か ん に な り、 井 上 に. ミ リ となった。 そこで井上は ( よれば哲学者た ちは 「独逸哲学に拘泥 し、 叉之に心酔することが極端」 「そのやうにならない やぅに、 自分は初めから絶え ず 東洋の哲学を講 じて、 バ ラ ンスを 保っやぅに 7 ( )という かれは儒教や仏教の東洋的イ デオロギ←を ドイ ツ観念 論哲学とむすびつ 努力 して来た」 。 S ( ) け、 日本型観念論の確立者となった。 井上哲次郎がもっとも深 い意味で哲学者であり観念論者であるといわれるのは、 かれの 「現象即 実在論」の によってである。 か れによれば 「本体と しての実在」 には三つの段階がある。 第一の段 階は素朴的実在論であり、 一元的表面的実在論である。 これは現象をその まま実在と みる。 第二の 段階は二元的実 在論であり、 現象は表面のものであり、 実在は裏面のもの、 現象の彼岸にあるもの と考える立 場である。 この二つの実在論にたいして、 井上の立場は、 第三の段階すなわち現象即実 在論もしく は融合的実在論または円融実在論ともいわれる。 井上は、 「現象と 実在とは同一物の両方面で、 事実上に於いては決して分離されてゐるものではなく、 現 象は実在と倶に あり、 実在は現象を透 してあり、 現象は奨在を離れてあるものでなく、 現象のあ るところに実在 があり、 実在のあるところに現象がある。 それであるのに現象の彼岸に実在があ るやぅに説くのは、 人をして世界の真相を誤解 せ しむ る所以である。 ……そこでこの第三の実在 論の立場は現象と実在というこの二つの対立を超上 して 即ち aufheben して、 真実一元観に達す l o ( ) る次第で、 これを円融相即の 見解と云ふべき である。 」 と い っ て い る。. 実在と現象と が対立を超上 して真実一元観にたつするとみる点で、 井上の実在論は一元論的であ る。 これを転用 した形で、 認識論において、 かれは唯物論をも唯心論をも否定する。 唯心論とは 「唯々有 る ものは心意のみ 、に して、 タト界の現象は、 尽く之が結果に過 ぎ」 ないもの、 唯 物 論 と は 「唯々有る ものは、 物質の みに して、 心意の作用 は尽く之が結果に過ぎ」 ないものである。 井 上 の 1 1 実在論と は 「主観に対 して主観と異な る客観ありとし、 心意物質両者の実在を是 定 す-る もの」 ( ) ・ である。 井上の認識論はかれによれば 「実在論的のもの」 であって、 唯心論で もないし唯物論でも ない。 唯心、 唯物の二論を調和超上 しようとす るものである0 唯心論で もない唯物論でもないとい う井上の現象 即実在論は、 しかし、 結局のところ 唯心論を説くものであり、 日本の 観念論哲学 の 礎石となり、 後の西田哲学の 「純粋経 験 論か ら絶対無に至る哲学」 とつながること明白だといわれ - 2 ー.

(4) . 井上哲次郎の教育思想 2 1 ) て い る( 。. 井上によれば差別即実在、 実在即差別である。 世 界のあらゆる事象は差別によって 「特殊」 であ るが、 同時にそこには 「平等」 の面がある。 同一物を差別という面からみ 、れば 「現象」 とい われ、 平等という面 からみれば 「実在」 といわれる。 世 界の平等的側面は実在であり、 その差別的側面は 現 象である。 したがって世界 を解釈するばあい、 「単に差別としてのみ世界を解釈すれば、 是 れ本 一方面より世界を見るものなるが故に、 我心意の要求 を充すこと能はず。 若 し叉単に平等と しての み世界を解釈すれば、 是れ亦一方面より世界を見るものな るが故に、 不満足なる結果を来すを免れ 1 3 ( ) ず。 世界は必ず差別と し、 叉平等として考察せざるべ からず、 否、 考察せざるを得 ざるなり。 」 ということとなる。 認識論的にいえば、 井上は、 認識は現象のみに ついて成立するものであり、 実 よってではなく、 いわゆる超越的認識すなわち叡知 在は不可知であるという。 実在は経験的認識に・ (”) よりほかないものである。 それは 「悟りの境 によって 「各自直にその内部において直観する」 1めであり 経験的認識をこえた世 界であ る 世 界の真相は現象と実在との差別観を超越 したと ( 涯」 。 、 ころにある。 これが井上の現象即実在論である。 一見、 合理的にみえた かれの現象即実在論も、 こ 、唯 こにいたって主観的観念論となる。 日本における近代哲学の確立者 と目せられ る井上は、 「我ノ ベ 、英 二人智ヲ以テ測り知ル カラ 我 ガ眼前二隠顕スル現象=由りテ方由成立アルラ信 ジ、 万有成立ノ G I )る の で あ る こ こ に い う 「万 有」 と ザ ル ラ 以 テ我 之 ヲ 畏 し、 之 ヲ 神 トシ、 之 を 徴 シ、 之 ヲ 拝 ス」( 。. は実在の意味で ある。 かれが国民道徳論を論ずるとき、 この 「之ヲ畏 し、 之ヲ神 トシ、 之ヲ敬シ、 之ヲ拝ス」 る実在論は、 いともたやすく神話的な国体論となって化成していくのである。 3 井上の国民道徳論 井上哲次郎は日本の観念論哲学の確立者であっただけでなく、 国民道徳論の確立者 でもあった。 188 3 かれの道徳主義的傾向は、 明治16年 ( ) の 『倫理新説』 にすでにみて と れ る が、 明治24年 1891 ( ) の 『勅語街 義』、 同26年の 『教育と宗教との衝突』 によって決定的の ものとなり、 明治45 1 912 年( ) の 『国民道徳概論』 によって確立されたとみてよ い。 明治初年 から、 わが国 では東洋道 徳と西洋道徳、 国権主義と民権主義と がはげしく 対立Lていたが、 井上はこれらの対立を、 東洋道 徳、 国権主義を優位に して、 かんたんに総合 して しまった。 近代化の途上にあった明治の日本に と って、 伝統的思想と外来思想との対立、 東洋道徳と近代道徳との対立は避く べ からざる必然であっ た。 そ してその両者の対決が深ければ深いほど、 西洋思想と近代道徳の風土化 も根深く、 日本社会 の近代化も促進されたにちがいない。 外来的なものとの深い対決があってこそ、「民族的伝統の自 己否定的再生的自己形成」 は強められたにちがいない。 日本の近代哲学、 近代思想がきわめて安易 の道をえらんでしまったように、 国民道徳論 もまたその運命をたどって しまったことは、 きわめて 不幸なことであった。 そ して日本の思想と 道徳論 を この方向に導いた有力なひとりが井上哲 次郎 であった。 井上哲次郎が国民道徳論的立場をもっとも鮮明にしたの は 『勅語宿義』 からのことである。 勅語 襖発の直後、 文部省から勅語解説の依頼をうけた井上は 「光栄」 に感激して筆をとり、 その草稿を 天皇の内覧に供した上で 『勅語街義』 を刊行 した。 その内容は一言に していえば、 勅語の神聖な権 威を背景と し、 神話的な国体観と随順の倫理観とを合法化 した ものにほかならない。 それは、 勅語 を自己の倫理説によって 基礎づけたものでもあるし、 逆に勅語の権威において自己の倫 理説を正当 化 したものでもある。 その態度について三宅雄次郎は、 たんに勅語の文字 をあげて、 それが真実で 1 7 )と評した。 また 大西視は、「井上が教育勅語の あるというにいたっては学者の本分を忘れたもの( - 3 -.

(5) . 船. 山. 謙. .次. 解釈に附托 して、 実は教育勅語を自分の倫理説を擁護 し他の倫理説を反駁することに利用」 するも のと非難 し、 「倫理主義の争は、 之 を個人間の自由の討究に委ねて可なり。 若 し勅語を楯に着て、 ) と痛烈に批判 した。 これは 倫理説場裡に争はんとす る者あらば、 予は之を卑怯なりといはん一(隊 , まさに絶対主義権力のイ デオローグとなった井上にたいする哲 学的科学の組 織 者 で あり、 市民哲 学者 であった大西視の御用学者の学問的態度にたいする批判であった。 井上はさらに、 キリス ト者内村鑑三のいわゆる 「不敬事件」 を機と して、 国粋主義者 や仏教徒と 189 3 キリス ト者たちとの間におこった論争に参加 し、 明治26年 ( )には 『教育と宗教との衝突』 を 1910 だ して キリス ト教を非国家主義と断定攻撃 した。 また、 明治43年 ( )には、 文相小松原英太郎 の委嘱によつて師範学校教員のため、44年には中等教員のため 「国民道徳の大意」 を諸述 した。 そ れが明治 45年 『国民道徳概論』 と して公刊された。 この本は、 かれ自身のことばによれば、 「一は 危険思 想の侵入と共に逆徒事件などの 如き不穏なる陰謀を企てる 者が あった」 ために 「教育社会 1 9 ( ) ものであった。 1928 ・しかも井上は、 昭和 3年 ( の注意をひいた」 ) の 『新修国民道徳概論』 にお いては、 別に 「社会改造の諸主義と国民道徳」 の一章を加え、 「社会主義、 共産主義、 過激主義、 無政府主義、 及 びサンヂカリズム等の如き社会改造の諸主義が如何なる欠陥弱点を有するもの であ る力←…・兎に角批判的に之を論究 し、 十字街頭に立つ者に対 して柳か榛蕪を排して正路を指示する 2 0 ( )のである か れは絶対主義官僚制 国家における思想の戦士と して、 いわゆ る危険 ことに努めた」 。 思想の防波堤たろうとす るもの で あった。 勅語 を 背景とする井上の国民道徳論は、 明治20 年代以 後における国家主義教育のオーソ ドックス として臣民教育の方向を決定しただけでなく、 近代日本 の思想史をも支配した。 古田熊次の国民道徳論・修身教育論も、 けっ してこれと 無縁ではないし、 紀平正美の日 本精神論も、 井上の系譜にぞくするものである。 井上の官許的思想は、 教育界・思想 界ばかり でなく、 軍人や官僚の間でも熱烈な支持をえ、 それらを通 して広く深く一般国民のなかに 惨透して いった。 人道と国民道徳 井上哲次郎によれば、 国民道徳とは 「国民に 特有な道徳」 で あり、 道徳を実践 するばあいには、 これによるほかはない。 倫理学説は学説と して、 どんなにりっぱにで き て い て も、 その学説はいつでも、 どこの国民に も、 普遍的に適用 できるというもの で は な い。 ある国民 に適用 できる道徳も、 他の国民に適用 しようとすれば、 往々、 不都合をきたすものである。 国民道 徳論は、 倫理学説をある国民にどう適用させればよいとかいう、 いわば応用の学である。 倫理学説 を応用 するには、 そこに 「境遇」 すなわち 「国家」 が考えられなければならない。 しかるに学者た ちは、 西洋倫理を説くことが急であり、 「国民道 徳を間明す ることを努め」 ようと しな い。 井上は、 これをいかんと し、 精力的に国民道徳論を展開するのである。 井上は、 ま ず、 倫理学説との比較に お いて、 1 ) 国民道 徳は無意識的に発展するものであ る ( 2 ) 国民道徳は民族全体の精神的産物である ( 3 ( ) 国民道徳は本能的感情的で あ る 4 () 国民道 徳は国民間に普遍的である 5 { ) 国民道 徳は ある特定の国民間に限られる 2 1 ) 6 ) 国民道徳はその発展が過去にあり保守的である( { という。 さ らに井上は「国民道 徳は 倫理学説と相撲っ必要がある」とし、国民道徳と倫理学説とは密 着不離でなければならないことを 説 く。 こうして井上は、 国民道 徳と人道との関係を問題とする。 「之」 とは勅語の 「斯ノ道」 であり、 井上は教育勅語の 「之ヲ中外=施シテ体ラス」 ( ,国民道徳と - 4 4.

(6) . 井上哲次郎の教育思想. 解 してよい) を説明して 「教ノ人倫交際二関シ テ、 社会成立上必然ノ勢二因りテ成ルモノハ、 如何ナル国コアリテモ、 其 国 ガ文 化 = 造メ ル 以 上ノ・東 西 ノ 別 ナ ク、 中 外 ノ 差 ナ ク、 総 べ テ 同 様 ノ 事 情 ヲ 有 スル モ ノ ナ リ 即 、. チ孝悌忠信ノ如 キハ、 如何ナル国ニアリテモ、 同 ジク称揚スベ キ徳義ニシデ、 独り我邦二限ルモ 2 2 ) ノ ニア ラ ザ ル ナ リJ(. といって いるが、 ここに人道と国民道徳との密着 不離説の萌芽を みてとることもできる。 国民道 徳 の力説は、 かならずしも人道の否定でもな いし、 それとの矛盾でもない 井上は 「国民道 徳は人道 。 2 と全然異な ったものではない。 やはり人道の特殊的顕現であると、 こう見 なければならぬ 」 。(あ と もいう。 人道は普遍的の ものであり、 国民道 徳は特殊的のものである。 「一般人類の 当行の道」 で あり、 普遍的性格をもつ人道は、 実践の上からは特殊的な国民道徳となるよりほかない 人道は国 。 民道徳として顕現されるものであり、 国民道 徳をはな#して人道の成立はありえない 井上は国民道 。 徳と人道との関係を 「特殊即普遍」 の理によって考えているが、 これはかれの 「現象即実在」 諭そ のものである。 現象即実在論とは 「差別のあ るところ、 かならず平等あり、 平等あるところ かな 、 らず差別 あり」 とし、 差別即平等を主張 する立場である。 同一物を一方面からみれば差別となり 、 他方面からみれば平等となる。 国民道徳は差別的方面であり、 人道は 平等的方 面である 。 1908 井上は明治 41 年 ( ) の 『倫理と教育』 という本のなかで 「国家的道 徳と世界的道徳」 を論 じ、 世界的道徳とは、 国家が世界にたいして、 または世界的社会や人類にたい して守 らなければな らない道 徳であるとし、 そのなかに国際道徳および人道をふくめて考えている。 かれにあっては 、 世界的道徳は人道とほぼ同一のもの と考えられているようでもあり、 また、 国際間の道 徳を意味す るもののようでもあ る。 この点の不明確さは、 学的厳密性 を欠くものといわなければならな い。 そ れはそれとして、 国家的道徳と世界的道徳につい て、 井上はつぎのようにのべて いる。 「独り国家的道徳の みを取りて 世界的道徳を 取らないというような見解は 甚だ偏頗な る 見解で あって、 道徳てふものの真相を 知 らない所から起 ると見なければなりませぬ。 併ながら是 れと同 じく世界的道 徳あるを知って墓も国家的道徳てふものを知 らないと云ふの は、 また偏頗なる見解 に陥ったものであります。 殊に世界的道徳を主張 して さうして 日本に固有なる 国家的道 徳を全 然破壊 しようと試み る者の如きは 其一を知って 其二を知ら ざる所より起る 無暴の挙 と 言はんけ ればなりませぬ。 道徳の完全を期せんには、 必ず国家的道徳と世界的道 徳との両者を円満に調和 2 」 ( ) す る と 云 ふ こ と を 図 ら ん け れ ば な ら ぬ の で あ り ま す。」. 井上 はこのように説いて、 国家的道徳と 世 界的道 徳との円満調和をはかろうと する。 偏狭な国家 主義的道 徳やシ ョーヴィニ ズムの立場に立たないところに、 太平洋戦争下におけるフ ァッシズム倫 理の鼓吹者たちとは異なるものがあったともいえ る。 そ してわれわれはここに 明治後年の 日本資本 主義発展期における知識人としての井上哲次郎を みることができるともいえようか。 し か し な が ら、 国家的道徳と世界的道徳とは、 ここでは、 明らかに対立・矛盾す るものとなっている 対立・矛 。 盾するものであるからこそ無理に 「円満に調和」 することがはかられなけれ ばならないのである。 井上が、 もし世界的道徳即人道と考えているものとすれば、 かれの 論説は自己矛盾におちいって い るといわな ければならない。 なぜならば、 国家的道徳すなわち国民道徳は 「人道の特殊的顕現」 で なければならなかったからである。 かれのいう 世界的道 徳の意味が 「国際的道 徳」 であったと して 2 5 ( も、 国民道徳が・ ) 「正 しい国民道 徳である以上は必ず人道正義の精神を基礎根抵と して居るもの」 ・であり 国際道徳が 「限定されたろ一箇の国民間に於ける道 徳ではなく 国民を超絶 したろ世界各 、 、 2 の、国家的道 徳 と世 界的 国の国民相互の間に於ける道 徳」 であり 「超国家的の道 徳」 であるかぎり( - 5 -.

(7) . 船. 山. 謙. 次. 道 徳との対立観は、 自己矛盾といわなければならない。 そ してこの論理的矛盾は、 道徳そのものを 歴史的・社会的に考察しようとせず、 国民道徳本位に のみとらえようとするところか らきている。 その国民道徳本位の おもむきは、 井上のつぎのことばにみることが できる。 「就ては 世 界的道徳を 採って来るに当って 此国家的道徳と 矛盾 しないやぅに して来んければな らぬ。 即ち国家的道徳を破壊せぬ限り世界的道徳を採って来ることは寸室も差支ない。 例えば博 愛、 人道、 正義、 信義、 正直杯といふような道徳を守って、 さう して国家 的道徳を併用せ しむる ととは 少 しも差障りは無い。 併ながら博愛と言っても、 漠然たる無差別の博愛 主義を探って国家 の存在を認容 しないと云ふ榛なものは非常な謬見に陥った もので、 吾々の偏頗の見解とする所で 2 7 ) あ り ま す。」(. 井上は しばしば歴史を重んじなければならぬと説いているが、 かれの歴史とは神話的肇国の歴史 や国体の精華的、 皇室中心 ・の歴史を意味するもので、 けっ して歴史を科学的に、 しかも民衆の立場 からなどみようとは しない。 和辻哲郎は井上の諸著の内容を評して、「これらは決して着実な歴史的 研究ではない。 例えば、 武士道が皇室を中心としてわが国に発達した特殊道徳であるというような 見方は、 全然歴 史を無視 した ものといわなくてはならない。 ……そこでは前に指摘 したような混清 2 8 ( ) といっ や時代 錯誤は、 む しろ故意に押しすすめられ、 時には熱心に弁護さ れたように見える。」 ている。 井上には歴史を科学的にみるという純正な 歴史哲学がない。 かれが世界的道徳といって も、 そこには世界史的自覚がなく、 したがって国民道徳の 足らざるたたんに補強するものと して み とめられるにすぎない結果 となる。 かれにあっては、 世界道徳も人道も、 国民道徳・国体 道徳を本 位 として、 も しくは 優位と して 考えられるものであり、 かれの思想は 一種の エスノセントリ ズム i thnocent (e r sm) に す ぎ な い も の で あ る。. 井上哲次郎の 国民道徳論の核心をな しているものは、 家族主義国家観・ 国家有機体説と、 これにもと づく忠孝 一本説である。 そしてこの考えかたの萌芽は、 はやくも明治 24年の 『勅語宿義』 にみられ● る。 井上は教育勅語の 「爾臣民父母コ孝二」 を解説 してつぎのように 忠 孝一本と家族国家観. い う。. 「国君ノ臣民二於ダル、 猶ホ父母ノ子孫=於ケル ガ如シ、 即チ一国ハ ー家ヲ拡充スルモノコテ、 ムラ以テ子孫;吟晴スル ト、 以テ相異ナル 一国ノ君主ノ臣民ヲ指揮命令 スルハ、 一家ノ父母 ノ慈′ ・全国二対 シ、爾臣民 ト呼起サルルコ トナレバ、 臣民タルモノ、 コ トナシ、 故二今我 ガ 天皇陛下ノ 2 1 1 ( ) 亦子孫ノ厳父慈母コ於ケル心ヲ以 テ謹聴感楓セザルベカラズ」 「一国ハー家ヲ拡充スルモノ」 であり、 天皇は国民の父であるとする考えか光が、 ここに公 的に 示 されたとみることができる。 しか し、 君臣の関係について は 「一国ノ君コシテ臣民 ノ為メニ懇切 ノ情ヲ尽クシ、臣民ニシテ君父に忠孝ナルハ、徳義ノ極メ テ大ナルモノ」「国君ノ 臣民ヲ愛撫スルノ\ ; 0 : ( )という程度であって、 いま 慈善ノ心二出デ、 臣民ノ君父二忠孝 ナルハ、 恩義ヲ忘 レザルニ 出ヅ」 だ忠孝 一本の理を示 しているとは考え られない。 しかも、 当時の井上にあつて、 教育勅語の本旨と するところは 「孝悌忠信」 と 「共同愛国」 の二つであった。 井上は 「街義鮫」に 寿いて、「余謹ン デ G ・ヲ嬬養セザル ベカラザル 之 し (教育勅語) ヲ捧読スル=、 孝悌忠信ノ徳行ヲ修メ、 共同愛国ノ義′ 所以ヲ懇々論示セラ レ給 フ」 といい、 また、 「勅語ノ主意ハ、 孝悌忠信ノ徳行ヲ修メ テ、 国家ノ基礎 G ヲ 固 ク シ、 共 同 愛 国 ノ 義′ ・ヲ 培 養 シ テ、 不 虞 ノ 変 二 備 フ ル ニ ア リ」 と い う。 そ の 本 文 に お い て も、. また、 「孝悌忠信」 と 「共同愛国」 とを併置して、 いくどもくりかえしての べて いる。 孝悌忠信と 共同愛国とは、 井上による教育 勅語の二大精神、 もしくは二大支柱となってい る。 しかし、「孝悌 忠」 とは、 かな らずしも 「天皇への忠」 を意味するものではない。 忠 信」 のなかに示されている 「 , - 6 -.

(8) . 井上哲次郎の教育思想. それは 「孝・悌・忠・信」 と併立される儒教倫理の一徳目にすぎないものと思われる。 また、「共 同愛国」 の 「愛国」 も、 「一己ノ利己心ヲ棄テテ、 国家ノ為メ = 務 ム ル」 も の で あ り、 「国 ノ 強 キノ\ 主 トシテ愛 国者ノ多キニ因ル」 ものときれて いる。 ここでは、 ま だ、 忠君即愛国の趣意は示されて い な い。. 井上は 『勅語宿義』 のなかで、勅語の「克ク忠=克ク孝二」を解説して、「我邦古来忠義ノ士多ク、 国家 ノ 安 危 休 戚 二 関 ス ル コ トア ル トキハ、 自 家 ノ 栄 枯 ラ モ 顧 ミ ズ シ テ、 之 レガ為メ ニ 四 方 =. 奔走. ・以テ匪賊ヲ防ギ、タトハ以テ外題=当ルモノハ古来人 シ、身ヲ捨テ命ヲ榔チ、皇室皇位ヲ擁護シ、内ノ ュ乏シカラズ……」「能ク父母二事へ、 深ク先祖ヲ崇敬スルノ 風俗ハ、 元 ト東洋一般ノ習慣ニシテ、 殊ニ我邦=在りテハ、 祖先ヲ崇敬スルノ風極メ テ盛二、 古来孝道ヲ以テ顕ハ レ、 間里=纏表セラ レ シ モ ノ、 枚挙二選アラズ……」@)という。 井上は、 忠と孝とを、 それぞれ別々に論ずるのであって、 両者の間に深い連関をみることは で き な い。 近代哲学の移植者であり、 日本観念論の確立者と し て、 井上の思想、 とくにその 「共同愛国」 論にわれわれは近代思想の 影響をみることもできる。 明 治 20 年代は、 日本の 資本主義がようやくに して、 その発展への態勢をととのえ終った時期である が、 このような社会状態を背景として、 井上の 「共同愛国」 論が展開されているわけである。 しか し日本の 資本主義の発展が、 封建的態勢を崩壊させる内部的勢力が十分に成熟 しないうちに促進せ られたことを反映 し、井上の思想に も封 建的儒教的な孝悌忠 信と、多少でも近代的な共同愛国と が、 まだ統一され るこ となく、 混在していたとしなければならない。 井上哲次郎の忠孝一本論が確立されるのには、 多少の時日が必要であった。 日本の資本主義が侵 略的・軍国主義 的性格のものであったことを端的に示した日清戦 争、 そ して日本の思想界が反動化 を示した時期を経過 した明治 30 年代において、 井上の忠孝一本論はその確立の 方向にむ かう。 か れは明治 30 年の、 高山林次郎との共著 『倫理教科書』 のなかで、 「一家は一国の小なるものなり。 子女の共父母に 於けるは、 猶ぼ臣民の其君主に於けるが如 し。 故に父母に対するの孝を拡張 して、 “め と論じて い ( 之を君主に効せば、 即ち忠となる。 是れ忠臣は必ず孝子の門より出づる所以なり。 」 る。 これは忠孝一本論の萌芽である。 忠孝一本が理論的に成りたつためには、 忠と孝とを媒介す る ものがなくてはならない。 それがかれの 「家族国家」 観であり、 これによって井上の国粋的な 「国 191 2 民道徳論」 が確立されるのである。 明治 45 年 ( ) の 『国民道徳論』 は、 この意味で劃期的な 意 味 を も っ も の で あ っ た。 こ の 本 は、 し か し、 忠孝一本の国民道徳論 を確立 したにとどまらず、 護. 教的・国権的な日本教学の方向を決定づけたものとしても注目されなければならない。 ところで、 井上哲次郎はこの本のなかで、 「国体の附属的特色」 のひとつとして 「忠君愛国の一 致」 をあげている。 かれによれば、 忠君愛国一致の事実はタト国にはな・ く、 日本にのみ古くから存 し た。 そ して 「忠君愛国ということが日本では二途に出 でない。 忠君即 ち愛 国となり、 愛国即ち忠君 となる 二つのものを 分離することの出来ないように なっている。 是れが 国体の一附属性でありま ・ す。 …・ ・此忠君愛国の一致といお 事は国家の組織か ら来 るのでありま す。 日本の特有なる国家組織 } ; : : ( ) と考えられている 忠君即愛国の論理をうらづけるもの が かれの の一つの結果でありま す。 」 。 、 家族国家観=総合家族制度論である。 井上は、 この考えかたにもとづいて、 忠君即愛国、 忠即孝す なわち忠孝一本を説いている。 家族国家観こそが、 井上の国民道徳論の骨子であり、 アルフ ァーで あ り、 オ メ ガ 一 で も あ る。 も ・し、 そ う だ と す れ ば、 か れ の 家 族 国 家 観 と は、 い か な る も の で あ ろ う かo ,. 井上によれば、 家族制度には二つの種類がある。 一つは個別家族制度であり、 他の一つは総合家 族制度であ る。 個別家族制度は、 個々の家族が家族制度の組織をな しているものであり、 総合家族 .7叫.

(9) . 船. 山. 謙. 次. 制度は、 その個々の家族を引っくるめた一団体、 すなわち一大家族をな しているものであ る。 家族 制度は家長制度であり、 家族に はかならず家長がある。 家族に家長があるのは、 日本では昔から今 日まで祖先崇拝の精神が存続 しているか ら で あ る。 祖先崇拝とは第一に 「祖先の血統を大事とす る」ことであり、 そのためには 「祖先の血統に一番近いものが相続人となる」ことである。 第二は、 「祖先の記を絶やさぬ」 ということである。 そ してその責任者が家長であるというのが、 井上の見 解である。 だから、 祖先崇拝がなくなれ ば、 家族制度はなくなる。 祖先の祭のために子孫がたびた び一堂に会する。 祭 が求心力となって血統のもの がむすびつけられ、 それがまた、 人びとの 「統一 の習慣をつく る機会」 となる。 この祖先の祭を絶 やさぬことが 「孝」 であり、 家族のものが祖先の 相続人・祭の責任者、 すなわ ち家長につくすことが 「孝」 となる。 総合家族制度は、 個別的家族を引っく るめた一大家族であり、 その上に家長があって、 これを統 率していくところに成りたっている。 その総合家族の家長は天皇である。 天皇と人民との関係、 す なわち君臣の関係はひじように親密であって、 その間におのずから家族的関係ができてい る。 日本 では 「君主と臣民とが、 もと無関係であった が、 ある事情の下に、 偶然統治者と被治者という関係 を有することになっているというようなことでなく して、 モウ自然的であって、 全く一家の家長が M )と井上はみてい 家族に対するというような感情を以て、 天皇は臣民に対 して勅語を発せられる」C る。 君主と臣民との間は「おのずから家族的関係」であり、君主は臣 民の父母であり、ここが他国と ちがうところであり、 それが 「国体 自害華」 とされる。 井上にあっては個別的制度と総合家族制度 とは直線的に連続 している。 それゆえに、 個別家族制度の側に膝胎 した 「孝」 は、 総合家族制度の 側に歴胎する 「忠」 と、 「日本の特殊なる社会組織の結果」、 きわめて安易に直結させられ る。 これ が井上の 「忠孝一本論」 である。 個別的家族制に お いて、 祖先崇拝が 求心力となって 形成された 「統一」 の 慣習;孝を、 総合家族制・国家にお しひろげると挙国 一致とな る。 かく して、 家族制度 は、 日本では愛国 心の基礎とな る。 総合家族の家長、 すなわち天皇につくすことが忠と考えられる のであるから、 家を愛する心=孝が本となって国を愛する心=忠が生ずるとすれば、 ここに忠孝一 本、 忠君即愛国の論 理 が成立す るわけである。 井上は、 このように、 一国を一家と観念さ せること によって、 孝を忠 (愛国) と連続させてしまう。 その連続とは、 家族国家 (総合家族) という観念 を通 しての連続なのである。 い。 かれは 「儒教では忠 井上の忠孝一本論は、 しかしながら、 忠と孝とを同等にみ るものではな・ 孝を説くのであるけれども、 大体にお いて孝を忠よりも重く観ている。 ……日本では孝よりも忠の 方が遥かに重大な道徳となってい る。 忠のなかに孝は含ま れている。 忠と孝とは矛盾 しないのであ るけれども、 万一両立 しないような場合 があるとすれ ば、 孝を捨てて忠を取りさえ すれば間違いな 5 3 ) という。 しかも、 忠も孝も随順の倫理にほかならない。 忠とは 「其主権者に対 して絶対的 ( い。」 , 3 ( )を意味するものであり、 孝とは 「父母の命ずる所必ず之を為 し、 父母の禁ずる所決して 之 服従」 6 : ; 7 ( )を意味する。 かれにあって忠孝とは服従にほかならず 服従こ を為す べからず」 という 「従順」 、 そは 「社会の秩序 と国家の福祉」 をはかる美徳なのである。 日本に おける近代哲学・観念論哲学の 確立者であ った井上の国民道 徳とは、 徹底 した服従の倫理にほかな らない。 自由民権運動のもっと もさかんな時代を身を もって体験 してきた哲学 者井上でありながら、 かれの倫理思想には真実の意 味での近代的倫理観のおもかげすらないともいえよう。 すべて が国体道徳のなかに吸収され、 奴隷 の道徳を強調する手段・資料とされて しまうのである。 大西視 が 「倫理主義の争は、 之を個人間の 自由の討究に委 ねて可なり。 若 し勅語を楯に ・着て、 倫理場樫に争はんとする者あらば、 予は之を卑 怯な りといはん」 と痛憤 したのも、 しごく もっ とものことであった。.

(10) . 井上哲次郎の教育思想. 4 井上の教育思想 井上哲次郎はいわゆる教育学者ではない。 したがってかれには教育学的労作や教育方 法 論 は な い。 しかしかれには国民道徳論的見地、 国家主義教育の見地からの教育時論 が多い。 つぎにその主 な見解を考察する。 国民教育論 日本の 国家教育は 「国民教育」 と して強力に お しすすめられてきた。 しかしいうと fo l ) 教育ではなくて、 帝国臣民をつくる教 r the peop e ころの 「国民教育」 とは、 国民のための ( 9 3 )といわれているが 育であった。 「国民教育」 ということばは、 教育勅語といっ しょに生まれた( 、 井上哲次郎は、 明治 24 年の 『勅語宿義』 のなかでは 「国民的ノ教育」 ということばをつかってい る。 その 「国民的ノ教育」 とは 「必ズ其国民ノ歴 史、 習慣、 性質等二従ヒテ之 レラ施サザルベカラ」 ざる教育であり、「国民自衛ノ道 トシテ、 一日モ国家=欠ク ベカ ラザル」 教育 である。 もともと 「国 民教育」 とは国民を国民として教育する目的を有するものであるが、 それがもしたんに個人を個人 として教育することだ けを意味するならば、 十分ではない。 個人を個人と して教育するほか、「国 民という団体の上から」 教育するのでなければならない。 それが国民教育であるというの が、 井上 3 9 ( )ことであり の見解である。 国民教育の目的は、国民各自に 「国民自衛の資格を作るように図る」 、 そのためには、 国民道徳の教育が重視されなければならない。 井上の国民教育とは 「国民の自衛発展のために」 ほどこされる教育である。 その,国民の自衛発展 は 「国家を度タト視 して 出来る事でないからして、 自然、 国民教育と国家主義と は、 相僕って行われ なければな らぬ」④)こととなる。 とすれば、 その国家主義とはどのようなものであろうか。 井上に よれば国家主義には 主我的国家主義と道徳 的国家主義とがある。 前者の例は ドイ ツにみ 、られ るし、 後者は日本のばあいがそ うである。 ドイ ツの国家主義は、 自国の利益のみをはかることに 汲々と し て、 他国の利 益は少 しもかえりみない侵略主義・軍国主義のそれであるが、 日本の国家主義は道徳 的国家主義として、 正義入道を目的とするものである。 それゆえに、 国民教育にたずさわるものに とって大切なことは、 国家主義といっても二種類あることを明らかに し、 「独逸の国家主義が非難 』)ることでな ( されても、 その結果が日本の国家主義に及んで来な いやうに、 明瞭に此区別を弁へ」 ければならない。 井上は、 国家は正義人道を発揮する機関であるとも考えるのであって、 かならず しも侵略主義者・軍国主義者ではない。 しかしかれの考える国民教育の中核と しての国民道徳論は すでにの べてきたように、 ひとり日本の道徳を もって最高至上のものとするものであり、 その正義 人道とい うものも、 忠孝以外のものではありえない。 ここに井上の思想の限界がみられる。 ところで、 個人主 義と国家主義との関係についてはどうであろうか。 個人主義は個人本位の立場 をとる主 義であり、 個人の価値を最高のものとする。 井上は個人主 義の立場をみとめないのではな いが、 極端な個人主義は 国家社会の基礎を破壊するものと考える。 各個人はみな国家内に成長する ものであり、 たれひとりと して国家の外に生活することはできない。 しかも、 いかなる個人も国家 をはなれて真に発展をとげることはできない。 井上は 「個人主義と云ふものは、 何も国家主義と両 立しないと云ふ様な性質のものではない、 両立 しない様な個人 ,主義は到底実行 し得 られぬものであ る。 また国家主 義の側から考へても、 個人主義は絶対的に抑圧すると云お 事は不可能である。 叉不 可能であるのみな らず、 或る程度まで各個人の独立自由を認める事が必要である。 さうして夫 が国 ふ訳であ るから、 個人主義は国家主義の中に含まれ得るも 家の自衛発展の為に 有用 である。 さう云。 のと見るべきである」@) という。 かれは 「相対的の個人主義」 を承認するが、 「個人の尊厳性」 と か、 人権思想とかを 尊重すること ,をしない。 日本 「古来の美風である忠孝」 中心の国民道徳論者の - 9 ー.

(11) . 船. 山. 謙. 次. 井上にとって、 個人主義の倫理は国民道徳を補強するもの、 も しくは補強への手段として考えられ ているにすぎない。 かれにとって人権を 尊重するという個人主義・自由主義は、 それ自体、 積極的 ) な価値を有するものではない。 したがって、 かれが 「教育の目的は道 徳 的人格者を造るにある」OS といったとしても、 その人格とは人間性・人格・自由を意 味するものではない。 かれの道徳的人格 者とは忠孝の臣子、 服従主義の臣子を意味するにすぎない。 道徳的人格の実現は 「その特殊なる国 ふりのである 国民教育の内容は国民道徳=忠 ( 家的民族的関係を離れてな し得られるものではない」 。 孝を主とするものであり、 そのような教育は 「我が国に於いては何処までも伝統的の日本精神を以 )とするのでなければならない。 井上の国民教育とは、 あくまでも国家教育であって て指導原理 ド5 国民のための教育ではありえなかった し、 人間性の尊重を基調とする民主主義教育とは、 およそ縁 の遠いものであつた。 国民教育と キリス ト教. 明治24年 1月 9 日、 第一高等学校の始業式において、 キリス ト者内村. 鑑三 (講師) が教育勅語に拝礼しなか ったという、 いわゆる 「不敬事件」 がおこり、 これにたいし て国家主義者たち、 および仏教徒たちは、 しきりにこれを非難攻撃した。 これを契機として 「国家 と宗教」 の問題をめぐり、 国粋主義者・仏教徒とキリスト教徒 との間にはげしい論争が 展開 され た。 井上哲次郎もまた、 果敢に キリス ト教徒に 論争をいどんだ。 井上の論争の論文を おさめたも のが、 明治 26 年に公刊された 『教育と宗教の衝突』 である。 井上は 『勅語街義』 のなかで 「忠孝ノ教 ハ、 実=我邦古来ノ習慣;適シ、 立国ノ基礎 トシテ必要 ナ ル モ ノ ナ リ、 然 レバ 教 ノ 旧 キ ラ 以 テ、 之 レラ 厭 棄 スル ハ、 抑 々 叉 自 己 ノ 謬 誤 = 出 -ヅル モ ノ ト謂 フ. ベ キノミ、 ……熱ルニ維新以後、 欧米ノ学術、 大二我邦二興り、 百般ノ事物、 頓コ其面目ヲ改ムル ニ及 ンデ、 世 人多クハ旧習ヲ厭ヒ、 古風を脱シ、 争ヒテ新奇ヲ求ムルノ極、 遂コ忠孝鼻倫ノ教ラモ )と い い も し も 忠 孝 の 節 義 を 軽 侮 す るな ら 陳 腐 ナ リ トシ、 反 り テ 之 レラ 軽 侮 ス ル = 至 ル、 … …」OG 、. ば、 これは相 .先の道徳を軽侮するだけでなく、 われみずからの徳性を軽侮するものであることを力 説している。 これは直接キリスト教を批判の対象と した ものではなかったが、 国家主義者・忠孝第 一主義者の井上がキリス ト教批判の挙に出ることを予想させ るに十分な論調を示している。 『教育 と宗教の衝突』 における井上のキリスト教批判の要点 、は、 キリス ト教が非国家主義だということで ある。 かれのキリス ト教批判の武器は教 育勅語であり、 勅語の権威である。 かれの国家主義思想に ついては、 前にものべておいた が、 「其身一身を修むるも国家の為めなり。 父母に孝な るも、兄弟に 友なるも、 畢境国家の為めにL て我身は国家の為めに供すべく、 君の為めに死すべきものな り。 是 れ邦人が古来歴史的の結合を為 して実行し来れる所なれば、 今日 より以後益 々之れを継続 して各々 其臣民たろの義務を全ふす べ し」@)という徹底 した国家主義である。 そのような国家主義が勅語の 生命とするところであり、 「勅語の主意は、 一言にして之れを言へば、 国家主義なり。 」 とされる。 これにたいして 「耶蘇教は甚だ国家的精神に乏し。 番に国家的精神に 乏 しき而己ならず、 叉国家的 精神に反 するものなり。 為めに勅語の国家主義と相容れざるに至るは、 共到底免れ難さ所なり。 … …耶蘇教は実に無国家主義な り。 此一点に就いては耶蘇教徒が如何ほど弁護せんとす るも、 到底弁 )と して キ リ ス ト教 を 批 判 す る 護 し能 は ざ る 所 な り。」OR 。. さ らに井上は キリ スト教がけっ して勅語と 「着々符合」 するものではないとし、 「勅語の主意は 徹底徴尾国家主 義に して 耶蘇教は 非国家主義なり. 若 し非国家主義に して 古今不変東西一貫なら. ば、 国家主義は其 反対ならざるを得ず。 若 し国家主義に して古今不変東西一貫ならば、 非国家主義 は共反対ならざるを得ず。 然 るに吾人日本臣民は勅語の主意に従ひ、 共同愛国を期せざるべからざ m ) という。 教育敷語は国 るものなり。 果 して然 らば耶 蘇教の古今 不変、 東西一貫は鴬んかあ る。 」C - 10 -.

(12) . 井上哲次郎の教育思想. 家主義、 キ トス ト教は非国家主義であるとし、 井上はキリスト教を排撃することに よって教育の根 本方針としての国家主義を定立しようとする。 井上によれば、 キリス ト教は忠孝を重ん じない平等 主義であり、 またキリス ト教の愛は墨子の兼愛のごとく無差別の愛であり、 勅語の趣旨に反すると もいう。 井上にあって国民道徳は、 人道の特殊的顕現であったはずであるが、 具体的に国民道徳を 論ずるようになると、 人道が排除きれて しまうのである。 井上にあっては、 キリスト教はあたかも 邪 教 の ごと き も の で さ え あ る。 こ の 井 上 の キ リ ス ト教 批 判 に た い して、 キ リ ス ト者 の 側 か ら 本 多 庸. 一、 小崎弘道、 横井時雄、 高橋五郎、 植村正久らが論戦を展開した。 また井上の教育勅語解釈にた 5 の、 いしては、 「同志社文学」 誌上において柏木義円が、 もっとも根本 的な批判を明快に加えたが( 反動化していく日本社会において、 キリス ト者の大勢は、 やがて国民教育=臣民教育と妥協 してい くこととなる。 ともかく、 井上の勅語解釈とその思想は、 その後の教育思想界において支配的とな り、 明治36年の国定教科書の制定、 同44年の改正教科書に反映され、 さらに、 いよいよ強化され て、 大正・昭和の教育をも支配するものとなった。 戦争観と国民教育 井上哲次郎を 軍国主義者とすることは 妥当ではない。 しかし かれを絶対平 和主義の人とすることもできない。 太平洋戦争に際会した井上は、 米英は個人主義、 自由主義、 民 主主義、功利主義をもって興って きた国であり、その心は野卑雁劣であり、 かぎりなく食欲であり、 5 1 ) 世 界中を自分の領土と心得て、 ほ とん ど他民族の存在をみとめないような国 であ るという( 。 日 本は古来道徳的の国家であり、 道徳的の精神は歴史とともに発展してきた。 この精神が君に仕えれ ば忠となり、 親に仕えれば孝となり、 朋 友と 交われば 信と なる。 この精神とは清明心であり、 良心 であり至誠の精神である。 道義国日本が、 食欲に して野卑願劣の国米英を反省改後せしめようとし ておこったのが 「大東亜戦争」 であるというの が、 井上の太平洋戦争観であり、 かれは 「今回の大 東亜戦争に際会するに至った ので益々自分の明治以来思考 して居ったこと、 唱道して居ったこと、 さ う いお ことが実際となって来りつつあるので、 自分の五、 六十年 来の主張の誤 って居なかったこ 2 )と も い う そ して か れ は 日 本 の 必 勝 を 信 じつ つ とを自覚 し、 喜びに堪へないことが少くない 5 、 。 敗戦の前年に世を去っていつた。. 平和と戦争とを対照 して考えれば、 たれしも平和を希望するにちがいない。 井上もそのひとりで ある。 しかし井上は戦争を不可避のものと考えている。 その理由の第一は、「戦争は人類が総て善人 となって完全無鉄の状態に 達した時に己むのであって、 不完全な点が残って居る間は、 どうも跡を 絶つものとは考へられない」@)からである。 すくなくと も、 悪人にたいしてそれを制 するだけの準 備が必要であると同 じに、 無法を仕出かす国民にたいしては、 それを防禦する軍備がなくてはなら ない。 第二に、 戦争は社会の発展の上において避くべからざるものである。 ダーウィンの進化論が 明瞭にしているように、 生物間の生存競争は絶えず行われるものであり、 人類もけっして例外では ない。 生存競争には国家と国家との間のもの、 民族と民族との間のものなどがあるが、 戦争は生存 競争のもっとも激烈になったばあいのものである。 さらに井上は、第三に、戦争はしば しば「照った 強国」 によってひき おこされるが、その強国は隔りの結果、内部が腐敗しているものであるが、「之 を掌砕くことが世界の進運にヲ問常な貢献を為す」侍りものと考えている。 かれの戦争観は、 ダ←ウィ ,会進化 論を基調とするもので あり、 戦争を人間社会の発展進化のために必要に して ンにはじまる社 l tke 不 可欠 な 現象 と して い る。 そ し て そ れ は 普 仏 戦 争 の と き の ドイ ツ の 参 謀 総 長 モ ル トヶ (H, Mo ,. 1 8 00~1891 ) の 「戦争は神聖な、 神のさずけたもうたものである。 それは、 世界の聖なる法則の一 つである。 それは名誉、 無私、 徳義、 勇気等、 人間のあらゆる偉大にして高貴なる感情をやしない、 5め と す る考 え か た に も 通 じ よ う さ ら に 国 家 至 上 主 義 者 で あ っ た ヘ ← ゲ ル (G, W. F. ( 育 て る。」 。. - 11 -.

(13) . 船. 山. 謙. 次. Hege l ) の 「あたかも気流 が生ずることによって海洋の新鮮 が保たれると同じく、 戦 , 1770~1831 5 6 ( 争は国民の倫理的健康を保って、 有限的諸限定性の凝固を防ぐ。 ) という思想にも、 一脈あい通 」 じよう。 かれは戦争の 起源を、 人間の本能的なもの、 精神的・{ 倫理的なるものにもとめるもの であ って、 戦争の要因を社会的・経済的なもののなかにみようとは しない。 豊大閣の朝鮮征伐を蒙古の 来襲にたいする復讐 戦であるとするにいたっては、 非科学的態度に お どろくばかりである。 戦争を以上のようにみる 井上の国民教育論 が 直接間接 戦 争とむすびつくのは 当然である。 国民 教育が 「国民自衛」 のための教育であ ると強調するのも、 教育によって国民の愛国心を養成するよ うに しなければならぬというのも、 うなずける。 かれは『勅語街義』のなかで、 愛国心に言及し「ル ヒ ノ如クー己ノ自利心 ヲ棄テテ、 国家ノ為メ =務ムルハ、 即チ愛国 ハムニシ テ、 人人ノ当コ養成スベ キ 所 ナ リ、 国 ノ 強 キ ハ、 主 トシ テ 愛 国 者 ノ 多 キ ニ 因 ル、 愛 国 ノ心・ハ、 実 ; 国 ノ 元 気 ト詔 フ ベ シ」㈲). といい、 『倫理教科書』 においては、 「国民を挙げて此心 (愛国心) あらしめば、 如何なる大敵も亦 5 8 ( )「自国てふ観念は、 他国に対 して初めて起るが如く、 自国を愛 之を奈何ともすべからざるなり」 するの心は 外国に対 して明白に 自覚せ ら るべき なり。 故に愛国心に富める国民も 他国との交渉無 5 ) 1 ) といい、 愛国心ならびに愛国心養成の 大切なこ ( さときは、 遂に之を自覚するの機無かるべ し。」 とを力説する。 愛国心の教育は、 国家が一旦緩急あるばあいには大きな関係があ る。 国民教育が 普及し、 その教育の仕方が うまく いっていなければ、 愛国心は 「国家緩急の際に 其の効果が 顕著 G o ( ) 井上は兵力の強弱は愛国心数育、 さらには国民道徳と深い関係があることを説く。 か でない。 」 れが農民について 「農民は平生労働に従事して居りまして、 ナカナカ強健であります。 是れが兵士 となると、 誠に能く働らき能く闘ふ。 さう して 従順であって、 よく命令に従 ふので、 日本の最もよ G I ( ) と考えていることも 注目されなければな い兵士は矢張り 此農民から得られるのであろう……」 らない。 かれの農民観の本質は、 農民即最良の兵士た ることにあり、 日本の資本主義発展のうらが わ で、 農 民 は どの よ う な 生 活 を な し、 どの よ う なメ ンタ リ テ ィ を 形 成 して い た か に つ い て は、 全 く 無 関iD‐であ っ た の で あ る。 5. 結. 語. 井上哲次郎が日本型観念論哲学の確立者と して、 日本の近代哲学史において高い位置をしめるこ とに疑いはないに しても、 それだけが井上の思想の特色なのではなく、 む しろ井上の本領はその護 教的、 国家主義 的な立場にあった。 明治 24 年の 『勅語街義』 に おいては、 勅語の註釈の形をとっ て自分の主張を の べているが、 これは道徳上の価 値判断を天皇の権威において示したものであ る。 また明治 26 年の 『教育と宗教との衝突』 も勅語を援引 してキリス ト者の非国家主義であることを 攻撃するものであった。 かれの思想の護教的・国家主義的立場 は、 すでに考察してきたように、 こ の二書にいかんなく表明 されている。 かれは、 また、 当時新 しくおこってきたアカデミズムの欧化 主義的傾向化にくみ、 「東西文化の融 合」 を企てるが、 それはけっして 「西洋文化の論理そのもの に対する理解や批判、 及び東洋文化の論理を把握すること、 そ してその上で東西文化の融合或いは 新 しい文化の創造に論理 的基礎を与える」 ものではなかった。@) かれの 哲学における 現象即実在 論の論理も、 ひとた び国民道徳を説く段に なると、 きわめて主観的な 「論理ならざる論理」 に転化 して しま う。 そ の よ う に、 か れ は、 真 理 を 論 理 と し て よ り も 倫 理 と して 考 え る の で あ る。 そ れ に は. 近代思想の移入の 根の浅かったことも考えられ るが、 そ坪 よりも井上自身の護教的・国権部自生格が そ う さ せ た と い う べ き で あ ろ う。. 井上哲次郎 の思想には近代主義・合理 主義の思想が介入して いることは疑いないが、 かれはその 一 12 -.

(14) . 井上哲次郎の教育思想. 本質において封建的思想の もち主であった。 かれの思想の根基をなした家族国家観は、 まさに封建 的家族道徳を眼目とするものであった。 かれは 『倫理と教育』 のな か で、 「此箇々の家族と云お 者は、 此日本民族全体の統一体を縮小したる有様 であります。 そう して日 本全体の統一体と云ふ ものは、 家族の状態を拡充 したるものであります。 先づ個人個人は其発達 する所の家族中において此結合一致を練習して来る訳であります。 即ち家長な るものがあ って、 此家長に、 其他の者は悉く服従して行かなければならぬと云ふので、 服従の道徳がそこに教へて あ るのであります。 家長なるものは、 郷村の団体に 服従して行かなければならぬ6 それのみなら ずもう一つ之を大にして云へば、 其君主に服従して行かなければな らぬのである。 執れも其服従 の徳を養はなければならぬやうな 社会組織になって 居ります。 先 づ 家族の中において 練習して 来た所の服従の 徳を 推拡めて郷村に 及ぼすのであります。 郷村に及ぼす所の 其服従の 徳化更に 拡充 して之を国家の上に及ぼすのであります。 そこで国家に事あるに方りては、 結合一致と云ふ ・行れるやうな仕組にな って居 ると云ふことが明 らかに見えて来るの ことが、 殆ん ど理想的に能く であります……さうして斯る社会組織と云ふものは、 祖先崇拝の風俗が勢力を 有って居るから成 G ; ; ) ( ’ り 立 っ て 居 るの で あ り ま す。」. との べている。 「家族→郷村→国家」 というヒエラルヒーを通じて随順の倫理 =忠孝一本の道 徳が つらぬかれる。 井上の思想の焦点は、 この点にある。 かれが祖先崇拝、 君父への忠順を 説き、 男尊 女卑を支持 し、 キリス ト教的社会平等主義や社会主義を排するのも、 そ して儒教と武士道とを支持 するのも、 かれの思想の封建性からくるものである。 国民道徳論を展開するに あたって、 井上はしばしば歴史の重んずべきことを強調する。 しかしか れのいう 「歴史」 とは何か。 国民道徳はその国民が歴史的につくりだした特有の道徳であって、 実 践のばあいにはこれによるほかないと、 井上は考える。 その歴史的の道徳とは、 いわゆる 「固有の 遺風にほかならず、 しかもそれはけっ して 「各時代を貫通する日本人の精神ではなく、 全く一時代 ” ー ( )のである。 また和辻哲郎も、 国民道徳論者を批判 し 前の徳川封建社会の思想に外 な らなかった」 て、 「歴史的研究が示すのは歴史的事実であって、 当為ではない。 封建時代に主君への個人的忠 節 が武士の第一の当為であったといふことは、 一つの歴史的事実であって、 そのまま封建制でない時 代の市民 に当為と して通用するのではない。 ……或る国民において、 歴史的に作り出された特有の 」慾) 道徳が、 そのまま現在の実践の場合に規準と して役立つな どといふことは、 非常な嘘で ある。 といい、 国民道徳論者 が歴史的研究に誠実でなく、「かなり懇意的に過去の道徳の中味を変 更」 し、 「封建的な忠君の中味を 天皇への忠誠とすりかへてゐる」 とものべて いる。 井上の歴史研究という ものも、 自己の 主張をうらづけるた めに都合のよいものを援引 しているばあいが多く、 しかもそ の ばあい歴史を科 学的に検討するという方法はとられていない。 905 1 904~1 ) の戦争以後、 自由主義や社会主義の思想運動が急激にたかまってい 明治37~8年 ( った。 幸 徳事,件 な どのこともあって、 思 想問題が よう やく 多くの人びとに 注目されるようになっ た。 このとき、 教育当局者たちによって、 教育が国民思想を形成する基礎であることが明白に 意識 され、 一方において義務教育年限の 延長 が実 施されるとと もに、 他方において臣民教育の徹底化方 1911 )に修身教科書の 策がとられた。 国民道徳教育が重視されたのはこのた めである。 明治44年( ~ G ” ( ) らわれて くる。 またそれ 改正 が行われ、そのなかに、完全に家族国家観が中核的な観念としてあ を機会に、 穂積八束の 『国民道徳の要旨』 が発表されたが、 これは教育勅語の精神を新 しく体 系づ けたものとして注目された。 ついで井上哲次郎の 『国民道徳の大意』『国民道 徳概論』 が出され、 いわば国民道徳の 思想運動が 上から実行されていった。 国民道徳論は 学説としてだけ ではなく 恩 - 13 -.

(15) . 船. 山. 謙. 次. 想運動と して 展開されなければ ならな かった。 その運動の場が 国民教育の領域にもとめ られたの である。 国民道徳論は国民教育をとおして、 自由主義思想・社会 主義思想にたいする対策と して利 用された。 そ して井上の国民道徳論はその 官許版として、 敗戦にいたるまでの日本の教育界を強力 に支配 したのである。 日本の近代教育の歴史を検討する ばあい、 井上哲次郎の 国民道徳論は、 かれ が 教 育 学 者 で な い と い う 理 由 に よ っ て 見 の が さ れ て は な らな い。 (1957 .5 ,12) 註. ,. ′. 60 1年)、 P,1 1 . ) 遠山茂樹他編 『近代日本思想史』 第1巻 (青木書店、 昭和3 ( 6 66 ) 参照。 2 ( .35~3 ) 武田清子 「臣民教育とキ リスト教人間観 (上)」(思想:No ,3 ,P (3 ) 同上。 . (4 ) 井戸哲次郎 『明治哲学界の回顧』(岩波書店、 昭和7年)、 P ,10~47 6 7 )( ) 同 上、 P,8, (5 )( 8 ) 船山信一 『日本の観念論者』(英霊社、 昭和31年) 第三章 「日本型観念論の確立者=井上哲次郎」 参照。 ( 『日 9 () 井上は明治27年に 「現象即実在論」(哲学雑誌・第12巻) をかき、 同34年に 「認識と実在との関係」( 本哲学思想全書』 第6巻-平凡社に所収) を発表、『明治哲学界の回顧』 には現象即実在論の要約がある。 1 0 ( ) 井上、 前掲書、 P , ,75~76 7 11 ) 『日本哲学思想全書』 第6巻、 P ( .31 , 1~152 12 ) 船山、 前掲書、 P ( , ,15 3 41~342 13 ) 『日本哲学思想全書』 第6巻、 P ( , , 4 15 )( ) 井上、 前掲書、 P (1 .77 , 23 ) 16 ( ) 井上 「倫理新説」(日本評論社 『明治女化全集』 第15巻、 -昭和4年, P .422-4 1 6 2 参照 1 7 ) 家永三郎 『日本近代思想史研究』(昭和28年、 東京大学出版会)、 P ( , 。 87 18 ) 船山、 前掲書、 P ( , ,1 19 20 )( ) 井上 『新修国民道徳概論』(三省堂、 昭和3年) 序。 ( 6~30参照。 1 2 ) 井上 『国民道徳概論』 ( ,2 、P ) 22 ) 井上 「勅語 術義」(国民精神文化研究所 『教育勅語漢発関係資料集』 第3巻、 P ( ,290 P 3 3 1 2 3 『 』 ( ) 井上 新修国民道徳概論 、 . , 90~29 1 2 24 ) 井上 『倫理と教育』(弘道館、 明治41年)、 P ( , . 25 ) 井上 『我が国体と国民道徳』(広丈堂、 大正14年)、 P ( . .206 26 ( ) 同 上、 P,207 , 1 2 7 ) 井上 『倫理と教育』、 P ( , ,29 28 ) 和辻哲郎 『日本倫理思想史』 下巻 (岩波書店、 昭和27年)、 P . ( .784~785 3 4 2 4 2 2 29 ~ ) ) 井上 『勅語桁義』(前掲書、 P ( , 3 0 ) 同 上、 P.241. ( 31 ( ) 同 上、 P,238~239 . 3 2 ) 井上哲次郎・高山林次郎 『新編倫理教科書』 総説 (金港堂、 明治30年)、 P ( .45~46 , 33 ) 井上 『新修国民道徳概論』、 P.38 ( , 34 ) 同上、 第七章 「家族制度と祖先崇拝」 参照。 ( 35 ) 同上、 第十章 「忠孝一本と国民道徳」 参照。 ( 2 36 ) 井上・高山 『新編倫理教科書』 巻四、 P ( .3 , 37 4 2 ( ) 同上、 総説、 P , . 3 8 ) 矢川徳光 『国民教育学』(明治図書、 昭和32年)、 P ( .23 , 3 9 ( ) 井上 『新修国民道徳概論』 ,3 , 、P 79 40 ) 井上 『社会と道徳』(弘道館、 大正4年)、 P ( ,5 , 4 1 ( ) 同 上、 P,582, 42 ( ) 同 上、 P,584, 2 43 ) 井上 『明治哲学界の回顧』 ( . ,8 、P 44 ) 同 上、 P.82 ( , 45 ) 同 上、 P,83. ( 46 ) ( ) 井上 『勅語術義』(前掲書、 P ,290 28 ) 47 『日本哲学思想全書』 ) 井上 「教育と宗教の衝突」( ( ,3 、 第15巻、 P 28 4 8 ) 同上、 前掲書、 P ( .3 . 1 9 4 ) 同上、 前掲書、 P ( , .33 - 14 -.

(16) . 井上哲次郎の教育思想 50 ) ( 51 ) ( 52 ) ( 53 ) ( 5 4 ) ( 55 ) ( 56 ) ( 5 7 ( ) 58 ( ) 5 9 ) ( 60 ) ( 6 1 ( ) 62 ) ( 63 ( ) 64 ) ( 65 ) ( 66 ) (. 武田清子、 前掲論文参照。 7年) の 「第十 大東亜戦争と日本精神」 参照。 井上 『武士道の本質』(八光社、 昭和1 同上。 2 7 井上 『社会と道徳』、 P ,5 . 同 上、 P‐535 ,. 2 0年)、 P 中島健蔵他編 『人間の心の歴史』 第3巻 (英宝社、 昭和3 , .25 同上。 ) 井上 『勅語桁義』(前掲書、 P ,280 井上・高山 『新編倫理教科書』 総説、 P ,34 , 同 上、 巻 四、 P,58 ,. 0 井上 『社会と道徳』 ,55 , 、P 同 上、 P,626 ,. ) 船山信一 「日本の近代哲学の系譜」(立命館文学; 第128号、 P ,16~17 , 72~473 井上 『倫理と教育』 .4 , 、P 16 家永三郎、 前掲書、 P ,2 , 和辻哲郎、 前掲書、 P .786 , ・ては石田雄 『明治政治思想史研究』(未来社、 昭和29年) の第一章 「家族国家観の形成」 教科書改正にっし 参照。. - 15 -.

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