教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」: アイヌ史・アイヌ女性史の教材化
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(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第68巻 第2号 Journal of Hokkaido University of Education(Education)Vol. 68. No.2. 平 成 30 年 2 月 February, 2018. 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」 ― アイヌ史・アイヌ女性史の教材化 ―. 鈴 木 哲 雄 北海道教育大学札幌校社会科教育研究室. Teaching Material for “Ainu Grandmother Okkeni(A Competent Woman) ” How to teach Ainu women’s history. SUZUKI Tetsuo Social Studies, Sapporo Campus, Hokkaido University of Education. 概 要 本稿は,1789年のクナシリ・メナシの戦いに関わるアイヌのフチ(お婆さん)・オッケニを 主人公とする高校日本史での教材案を提示するものである。まずは研究状況や高校日本史教科 書での扱いなどを確認し,そのうえで浪川健治の提案をふまえて,多文化教育的な観点から教 材案を作成している。授業の展開を例示したうえで,改めて社会科教育や歴史教育における「ア イヌ史」や「アイヌ女性史」のあり方について検討する。. はじめに 北海道での「アイヌ文化学習」の現状や課題については,千歳市立末広小学校でのアイヌ文化学習につい てまとめた『さぁアイヌ文化を学ぼう!』の第Ⅲ部「北海道でのアイヌ文化学習」・第Ⅳ部「小学校でのお もな実践報告と多文化教育の可能性」において論じ(1),さらに『社会科歴史教育論』において,それらと論 (2) とをあわせて再構成して,同書の第3部「多文化教育として 考「アイヌの歴史文化学習の課題と可能性」. のアイヌ文化学習」に4章にわたって整理したところである(3)。もちろん,前二書での主要な論点は,アイ ヌ文化学習は多文化教育として実践されることが望ましく,そうした実践の積み重ねが必要であるというこ とにあった。 『社会科歴史教育論』には,多文化教育的な観点からの大学での小学校社会科教育法の授業実践(「アイ ヌ神謡集を教材化してみよう」など)についても報告したところであるが(4),アイヌ史やさらにはアイヌ女 性史の教材化のためには,まだまだ多くの実践報告や教材案(授業案)の公開と蓄積が必要であることはい. 275.
(3) 鈴 木 哲 雄. うまでもない。そこで本稿では,高校日本史でのアイヌ史・アイヌ女性史に関する教材案(授業案)を提示 し, 教育実践的な視点をふまえた社会科教育・歴史教育さらには歴史研究者の立場からの批判を得ることで, 多文化教育的な方法をふまえたアイヌ史・アイヌ女性史に関する教材案の蓄積に微力ながら寄与しようとす るものである。 ここで取り上げる教材は,和人の歴史では江戸時代後期,1789年に現在の北海道東部で起こったアイヌと 和人の戦いであるクナシリ・メナシの戦いに関するものである。蜂起したアイヌの若者たちを自らが取り押 さえ,松前藩から「御味方蝦夷(アイヌ) 」と呼ばれた道東のアイヌの首長たちのなかから,オッケニとい うアイヌのフチ(お婆さん)を取り上げてみたい。じつはオッケニは,前近代のアイヌ女性史に輝く英雄で あった。. 1 教材化の前提―1789年クナシリ・メナシの戦い ⑴ 研究成果の概要 クナシリ・メナシの戦いについて,『日本史小辞典 新版』(山川出版社,2001年)は, 「クナシリ・メナ シの蜂起」として, 1789年(寛政元)5月,クナシリ(国後)・メナシ(目梨)地方でおきたアイヌの蜂起。この地域は飛 騨屋久兵衛の請負場所であったが,蜂起の原因は苛酷な漁場労働や出稼ぎ番人たちによる慣習を無視し た横暴であった。アイヌ130人が参加し,場所の支配人・番人・稼方の者,飛騨屋手船の船頭・水主(か こ) ,および松前藩上乗役人の計71人を襲って殺害した。松前藩は鎮圧隊を根室半島のノッカマップに 陣取らせ,国後のツキノエ,ノッカマップのションコ,厚岸のイコトイらの協力をえて蜂起参加者を投 降させた。37人のアイヌが和人を殺したかどで処刑された。この蜂起はロシアの南下を危惧する幕府に 衝撃を与え,蝦夷地幕領化への契機となった。 と記述している。ここにはオッケニの名はないが,ツキノエの後妻でイコトイの母がオッケニである。後述 するように,当然オッケニはこの辞典に記述されるべき存在であったが,何故かこのアイヌの女首長の名は 取り上げられていないのである(5)。 クナシリ・メナシの戦いに関する研究史については,川上淳によって戦前期の「北海道史」からの整理が なされているが(6),ここでは基本的な文献として, ①田端宏「クナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起」(7) (8) ②根室シンポジウム実行委員会編『三十七本のイナウ』 (9) ③岩崎奈緒子『日本近世のアイヌ社会』 (10) ④菊池勇夫『十八世紀末のアイヌ蜂起―クナシリ・メナシの戦い』 (11) ⑤榎森進『アイヌ民族の歴史』第六章「クナシリ・メナシの戦い」. ⑥川上淳『近世後期の奥蝦夷地史と日露関係』序章・第Ⅰ部第一~三章(12) (13) ⑦東俊佑「クナシリ・メナシの戦いと「夷酋列像」」. をあげておく。なかでも,⑦東俊佑の論考はこれまでの研究成果を手際よくまとめたものとなっている。 (14) および図録『夷 「夷酋列像」についても多くの研究があるが,ここでは谷本晃久「「夷酋列像」をよむ」. 酋列像』(15)をあげておきたい。 さて,川上による研究史整理などによって,クナシリ・メナシの戦いに関する歴史研究上の論点について ふれておく。まずは原因である。主流の研究は,前の『日本史小辞典』にもあるように,松前藩による蝦夷 地経営の商場知行制から場所請負制への転換のなかで,飛騨屋久兵衛の請負場所であったクナシリ・メナシ. 276.
(4) 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」. 地域でのアイヌに対する過酷な漁場労働や和人の出稼ぎ番人たちによるアイヌへの横暴を原因として重視す るものであった。これに対して, 『日本史小辞典』が「慣習を無視した横暴」と「慣習」にふれているように, まずはアイヌ社会のあり方(「慣習」)を分析し,アイヌ社会での紛争解決手段や契約の作法などを解き明か したうえで,クナシリ・メナシの戦いは,こうしたアイヌと和人の間の相互規定的な関係秩序を,飛騨屋の 出稼ぎ番人たちが乱したために起こった異文化摩擦であったとする研究が登場する。これが③の岩崎奈緒子 による研究である。 ⑵ 岩崎奈緒子=「異文化摩擦」論 岩崎の意図するところは,川上によれば「松前藩や商人による一方的・強制的な支配や収奪ではなく,ク ナシリ・メナシの戦いも,……アイヌ社会の慣習に即した制裁行動であり,異文化摩擦ともいうべき性格を 強く帯びていたとする」ものであった。岩崎によるアイヌ社会のあり方に関する分析は,和人社会とは異な る独自の正義と合理性を有したアイヌ社会を見出すものであった。大小の有力アイヌ集団間での紛争では, 「宝」 (刀剣などの金属類,漆器類や玉,織物等)を「ツグナイ」(賠償)とすることで武力闘争が回避され, 「ツグナイ」として「宝」が不足する場合は,人身が「ウタレ」(首長に属する人々=相対的な身分)とし て差し出された。その結果,有力アイヌ集団には,豊富な「宝」と多数の「ウタレ」が集積され,さらには 男性首長には交易先ごとに「妻妾」が存在し,「宝」と「ウタレ」の多寡が首長の威信を示す財となってい たというのである。 飛騨屋以前の道東では,アイヌ社会での「ツグナイ」という紛争解決手段がアイヌと和人の間の相互規定 的な関係秩序となっていたが,それを飛騨屋に属した和人商人たちが乱したことが,蜂起(戦い)の本質的 な原因だというわけである。さらに,岩崎は飛騨屋による不慣れな漁業でのアイヌへの過酷な労働強制の問 題も, アイヌ側がより大きな労働報酬の獲得を目指したために起こったせめぎ合いという面もあったとする。 後者の解釈に対する研究上の批判は強いようであるが,岩崎が重視しようとしたのはアイヌ社会の歴史にお ける主体性にあった。その延長に,松前藩へ協力したアイヌ(御味方アイヌ)の存在は,集団間の紛争に当 たっては率先して仲介する役割を担う者が登場するというアイヌ社会での紛争解決方法によるものであった というのである。「御味方アイヌ」の行動は,決して「アイヌ社会への裏切りではない」ということになる。 こうした解釈―歴史の読みかえは,オッケニなどの御味方アイヌの歴史的な評価に深く関わる問題である。 さらに岩崎は,この事件は,その後,幕府による蝦夷地の直轄地化政策のなかで,松前藩の商人を介した 一方的なアイヌ収奪を原因とする事件と解釈されていったとする。松前藩は保身のため,ロシアの関与を否 定しつつ,飛騨屋の不正交易が引き起こした事件と主張した。しかしその後,松前藩の飛騨屋からの巨額の 借金が明るみに出ると,不正交易の究極の主体は松前藩であると見なされていったという。つまり,商人を 介した松前藩のアイヌ収奪という表象は,ロシアの千島列島南下という国際情勢の変化を強く意識した立場 からのアイヌ像とも重なり合っていた。 たとえば,最上徳内による次のような主張である。本来アイヌは和人と変わらぬ資質をもつにもかかわら ず,松前藩はかれらに農業も日本語も伝えず,商人が思いどおりに収奪できる対象のままでいさせようとし ている。これに対して,ロシアは先住民の撫育教導につとめ,先住民を取り込みつつ千島列島を南下しつつ ある。これに対応するためには,松前藩の苛政を改め,アイヌに教育を施し,同化をすすめ,蝦夷地を開拓 する担い手に育てることが必要だ,と。 ここでは,アイヌの社会や文化は幕府によって如何ようにも変換できる対象と見なされている。この論理 は,1799年(寛政11)の蝦夷地幕領化を正当化する政治的言説として機能したわけで,松前藩の収奪対象者 としてのアイヌ像は,近世後期に,アイヌ社会の外部において,アイヌを支配するために創出された表象で. 277.
(5) 鈴 木 哲 雄. あったというのである。後掲の教材案のなかで取り上げる「万里堂蝦夷日記抜書」も,最上徳内のアイヌ像 と重なるものであり,岩崎のいう蝦夷地幕領化を正当化する政治的言説の一つということになるが,「和人 と変わらぬ資質をもつ」というアイヌ像はこれまでの平板な近世アイヌ像を別方向から照らし出す役割もあ るのである。教育の場では多面的なアイヌ像が,「異文化摩擦」論とともに必要である。. 2 教材化の方向性 ⑴ 高校日本史教科書の記述 高校「日本史B」には, 「クナシリ・メナシの戦い」は歴史用語としては登場しないが,クナシリ・メナ シの戦いに関連した記述は存在する。たとえば『詳説日本史』(山川出版社,2015年3月発行)では,第8 章「幕藩体制の動揺」の3節「幕府の衰退と近代への道」で「寛政の改革」に次ぐ項目「鎖国の動揺」にお いて, 松平定信の解決すべきもう一つの課題として,ロシアを中心とする外国からの危機への対応があった。 1789(寛政元)年,国後島のアイヌによる蜂起がおこり,松前藩に鎮圧されたが,幕府はアイヌとロシ アの連携の可能性を危惧した。このようにロシアに警戒心を抱いていたところ,1792年(寛政4)年, ロシア使節ラクスマンが根室に来航し,…. (同書p.234~). と記述されている。下線部がクナシリ・メナシの戦いに関する記述であり,幕府老中松平定信が解決すべき ロシアなど外国からの危機の事例として取り上げられている。同様に,『新日本史』(山川出版社,2015年3 月発行)では第3部9章「幕藩体制の動揺」 「1 社会変容と対外危機」の「寛政の改革」に次ぐ項目「北 からの危機」において, 対外面では,ロシアが千島列島を南下しているとの情報や1789(寛政元)年におこった国後・目梨地方 のアイヌの蜂起は,幕府に北方への危機感を強めさせ,蝦夷地対策が模索された。北方での危機は, 1792(寛政4)年,ロシア使節ラクスマンが…. (同書p.203). と記述している。 これに対して『新撰日本史B』 (東京書籍,2015年2月発行)は,第3章「近世社会の形成と庶民文化の 展開」の4節「幕藩体制の動揺と庶民文化の発達」の「2幕藩体制の危機」の「外国船の来航」の項目で, 松前藩の蝦夷地における交易地は,17世紀後半には商人が請け負う(場所請負制)ようになり,大規模 な資本を投下する者もあらわれた。商人のなかには,アイヌを酷使する者もあり,1789(寛政元)年に はクナシリ・メナシのアイヌ人蜂起がおこった。. (同書p.140). と記述する。これは松前藩による蝦夷地での経営が,商場知行制から場所請負制へと転換することで,商場 を請け負った和人商人によってアイヌが酷使され,そのためにアイヌが蜂起したものとしているわけで,ク ナシリ・メナシの戦いそのものに関する記述となっている。『高校日本史B』(実教出版,2015年1月発行) には本文での記載はないが,第3編近世の中頃におかれた「ズームイン」というコラム「近世の琉球と蝦夷 地」のなかの「アイヌと松前」という項目に, その後松前氏は,本土の商人に交易を請け負わせて運上金を徴収し(場所請負制),アイヌに対する過 酷な支配をさらに強化したため,1789(寛政元)年には,東蝦夷地クナシリ・メナシのアイヌが,収奪 に抵抗して和人との間で衝突事件をおこした。. (同書p.122). とするのも同様である。 他方, 『高等学校 日本史B 最新版』(清水書院,2015年2月発行)の第3編第4章「幕藩体制の動揺と化 政文化」の単元「50 19世紀前半の「外圧」とはなんだったのか」の「ロシアとの紛争とフェートン号事件」. 278.
(6) 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」. の項目では, 田沼意次は蝦夷地の開発と対ロシア貿易をめざしたが,松平定信はそれを否定するなど,幕府の北方政 策は定まらなかった。そうした1771年におこったハンベンゴロウ事件は蝦夷地とロシアへの関心をひき おこした。また,1789年のクナシリ・メナシのアイヌの蜂起によって*,蝦夷地直轄・開発策が浮上した。 . (同書p.135~). *欄外注記:18世紀末までに場所請負制は蝦夷地全域に拡大し,国内の金肥(鰊の〆粕など)や長崎貿易での中国向 け俵物の主要産地となった。漁業経営で使役され過酷な収奪をうけたアイヌは,根室地域を中心に蜂起 した。. と記載している。本文は,クナシリ・メナシの戦いを南下するロシアに対する北方政策のなかに位置付ける ものであるが,欄外注記においては,場所請負制の説明のうえでクナシリ・メナシの戦いそのものの意味に ついて記述している。 こう見てくると,『高等学校 日本史B 最新版』(清水書院)は,クナシリ・メナシの戦いについて,バラ ンス良く記載しているといえよう。しかし,どの教科書もクナシリ・メナシの戦いはあくまでも「日本史」 であり,場所請負制の過酷さの事例であったり,幕府による蝦夷地直轄化や開発策のきっかけとして語られ ているにすぎない。 ⑵ 浪川健治の提案 (16) は,歴史教育との協働をめざし教育 こうしたなかで浪川健治「語られたアイヌ像―記録と伝聞の間で」. 実践を強く意識して, 「クナシリ・メナシの戦い」と「夷酋列像」に関する教材化の前提となる提案を行っ ている。浪川は,まずクナシリ・メナシの蜂起(戦い)の事実経過と原因などを研究史をふまえて確認した うえで, 北村伝七と吉兵衛という二人の和人を助けたアイヌのフチ(お婆さん)・オッケニ(和人は「跋姑(バッ コ) 」と呼び, 「夷酋列像」では「チキリアシカイ」と呼ばれている)に注目する。クナシリ・メナシの戦い のなかで,アイヌのフチ・オッケニが二人の和人を助けることができたのは,オッケニがクナシリの首長ツ キノエの妻(後妻)であり,アッケシ(厚岸)カムイ(神)と呼ばれたイコトイの母であるとともに,後述 するように彼女自身が首長の地位にあったからである。 浪川はアイヌのフチ・オッケニに関わる二つのフィクションに注目する。一つは松前藩家老の蠣崎波響に よる「夷酋列像」での「イコトイ母 チキリアシカイ(オッケニ)」などの“描かれたアイヌ像”である。 1789年9月,松前藩に協力した「御味方蝦夷(アイヌ)」の首長43人が松前藩の軍勢の行列に従い松前城に 入り,藩主松前広道に謁見したが,その際のアイヌの首長43人の代表は「唐太の十徳」(カラフトの蝦夷錦) を着たオッケニであった。松前入城に際してのオッケニらアイヌの首長が着た極彩色の蝦夷錦や「唐木綿」 (中国の高級木綿)を用いたアットゥシなどの衣装は,じつは松前藩が貸し渡したものであった。つまり, 松前軍勢の凱旋行列に従ったアイヌ首長たちの装束は,異域に住む民(異人)としてのアイヌ像を演出した もので,松前藩がこうしたアイヌの十全たる支配者であることを強烈に主張するものであったとする。 そして,蝦夷錦や唐木綿で装飾されたアットゥシ姿のアイヌ像は,さらに松前藩家老の蠣崎波響によって デフォルメされ,「夷酋列像」に仕上げられたのであった(1790年完成)。その「虚像」ぶりについては,先 にふれた谷本「 「夷酋列像」をよむ」や図録『夷酋列像』などにおいて,詳しく整理されている(17)。 もう一つのフィクションは,事件から10年後の1799年(寛政11)に幕府が東蝦夷地の仮上知を行い,場所 請負制を廃止するとともにアイヌの「改俗」政策をすすめるなかで,弘前藩から蝦夷地に派遣された山崎半 蔵が1799年から1818年までの間に蝦夷地で見聞きしたことを日記(「万里堂蝦夷日記抜書」)に書いているが, そのなかのでのオッケニ像である。. 279.
(7) 鈴 木 哲 雄. 浪川は「万里堂蝦夷日記抜書」に書き留められたオッケニ像は,風聞や流言の域を出るものではないとし ても, 「和人社会のなかに, 「イコトイの母」(オッケニ)に象徴される,本性において和人に比して劣るこ とのない存在としてのアイヌ,および確固として自立的なアイヌ社会がなお存在していることを知らしめて いくのである」としている。本稿では浪川のこうした提案を受けて,クナシリ・メナシの戦いに関わる「ア イヌのフチ・オッケニ」についての高校日本史Bでの教材案を示してみたい。. 3 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ―クナシリ・メナシの戦いでのアイヌの勇姿」―高校日本 史授業の展開 ⑴ 前時の授業―【19世紀前半の「外圧」とはなんだったのか】 まず,前時の授業としては,前にふれた『高等学校 日本史B 最新版』 (清水書院)の第3編第4章「幕藩 体制の動揺と化政文化」の単元「50 19世紀前半の「外圧」とはなんだったのか」の授業を行うものとする。 この単元は「ロシアとの紛争とフェートン号事件」と「異国船打払令と太平洋捕鯨」の2項目から構成さ れているが,前者の項目には先に引用した「田沼意次は蝦夷地の開発と対ロシア貿易をめざしたが,…クナ シリ・メナシのアイヌの蜂起によって,蝦夷地直轄・開発策が浮上した。」に続いて,「そして,1799年,幕 府は,東蝦夷地の支配権を松前藩から取りあげ,1807年には西蝦夷地も直轄とし,東北諸藩にその警備を命 じた。 」とある。次いで,1792年ラクスマンの根室来航,1804年レザノフの長崎来航,1821年蝦夷地の松前 藩返還,近藤重蔵・最上徳内・間宮林蔵の蝦夷地・樺太等調査,1808年フェートン号事件と続き,後者の項 目となる。こういった教科書の内容を学ぶことで,生徒たちはクナシリ・メナシの戦いの基本的な原因を場 所請負制による漁業経営のあり方から理解し,戦いの歴史的な意味を南下するロシアに対する北方政策のな かに位置付けることになろう。 ⑵ 本時の授業(2時間程度)―添付資料参照 本時の授業では,前時での小単元「50 19世紀前半の「外圧」とはなんだったのか」の授業での江戸幕府 の蝦夷地政策やクナシリ・メナシの戦いに関する基本的な事実認識をふまえて,発展的内容として【アイヌ のフチ・烈婦オッケニ―クナシリ・メナシの戦いでのアイヌの勇姿】の授業を行う。 まず, 【資料】と【ワークシート】を配布し,【パワーポイント】を使いながら授業を進めていく(18)。 テーマ: 【アイヌのフチ・烈婦オッケニ―クナシリ・メナシの戦いでのアイヌの勇姿】 〈学習課題〉 まず【資料】の〈学習課題〉を音読してもらい,課題の共有化をはかる。 1.クナシリ・メナシの戦いはどのように鎮められたのか。 次に「1.クナシリ・メナシの戦いはどのように鎮められたのか。」の冒頭を読み,パワーポイントで「蝦 夷地周辺地図」と「クナシリ・メナシの戦いの関係図」(図01参照)によって,地理関係を確認する。 そして,次のクナシリ・メナシの戦いの概要を記述したコラム(囲み)を読んでいき,パワーポイントで 再度「クナシリ・メナシの戦いの関係図」 (図01)を確認したうえで,納沙布岬に残る「和人71人の墓」や この授業での要地である「アッケシ(厚岸)の古地図」を見せ,「夷酋列像」からの肖像画を使った主要人 物の相関関係(図02)と「ノッカマップの現在の写真」からコラムの内容を補足していく。なかでも「主要 人物の相関関係」 (図02)は,オッケニと夫のツキノエ,オッケニの連れ子のイコトイ,ツキノエの子のセ ツハヤフの相関関係を示すものとして重要である。. 280.
(8) 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」. そして, 【問1】「アイヌ首長層の若者たちが中心となって蜂起し,和人を殺害した理由は何であったか。」 と【問2】 「アイヌの首長たちは,松前藩の意向に沿って自分の子どもを含む蜂起の首謀者たちを松前藩の 軍勢に引き渡した。こうした対応をアイヌの首長たちがしたのはどうしてか。アイヌ首長の立場から考えて みよう。 」に取り組ませる。 【問1】は事実的な確認であるが,【問2】では,アイヌの首長たちが首謀者を 松前藩の軍勢に引き渡した理由をアイヌ首長の立場から考えさせるものである。和人の側,あるいは過去の 事実への「上から目線」の考えではなく,あえて「アイヌ首長の立場」から考えるように強調することで, 多文化教育の方法をめざしている。岩崎のいうアイヌ社会での積極的仲介者論にふれられればよりよいが。 2.何のために「夷酋列像」(アイヌ首長の肖像画)は描かれたのか。―松前藩の意図 次のコラムには,アイヌのフチ・オッケニに率いられたアイヌの有力者43名(「御味方アイヌ」)が松前藩 の軍勢に同道した状況と蠣崎波響によって「夷酋列像」が描かれた経緯が記述されている。ここを読んだあ と,パワーポイントで再度「蝦夷地周辺地図」・「烈婦オッケニ像」・「松前城下図」・「蠣崎広年(波響)像」 を示し,記述内容の整理をうながす。 そして, 【問3】では「実際に,「夷酋列像」のなかの「ツキノエ」・「イコトイ」・「オッケニ〔チキリアシ カイ〕 」はどんなふうに描かれているか調べよう。」として,【資料】の写真を配布するとともに,パワーポ イントで「夷酋列像」の「オッケニ像」(図03), 「ツキノエ像」(図04), 「イコトイ像」(図05)を示し,ワー クシートの【問3】の記入欄に調べたことを書かせていく。 「夷酋列像」での3人の描かれ方を具体的に読み解くことで,その「虚飾」性を生徒自らが明らかにする であろう。班別活動として,この作業を十分に行ったうえで,【問4】に進む。 【問4】は, 「翌年に完成した「夷酋列像」は,藩命によって京都の天皇の鑑賞に供せられ,江戸幕府に 献上され,さらにいくつかの藩で模写されている。もともと「夷酋列像」は,政治的な目的をもって作成さ れたものであった。松前藩(=蠣崎波響)はアイヌの首長たちをどのような人たちであると天皇・将軍そし て大名たちに理解させようとしたのであろうか。みんなで話し合ってみよう。」である。【問3】での読み解 きが十分になされていれば, 「夷酋列像」に込められた松前藩の意図は何であったか,生徒どうしの対話は 深まっていくものと考える。 3. 「烈婦オッケニ」―10年後のある和人の語り ここは二つのコラムからなっている。⑴のリード文にあるように,クナシリ・メナシの戦いが終わって十 年後に,蝦夷地で勤番した弘前藩士・山崎半蔵の日記(「万里堂蝦夷日記抜書」)の一部を要約したものであ る。このコラムから,クナシリ・メナシの戦いや御味方アイヌは和人側にどのように記憶されていたのかを 考えていこうというわけである。⑴のリード文において,クナシリ・メナシの戦いから十年後には,東蝦夷 地が幕府の直轄地となり,アイヌの人々への「改俗」政策がすすられたこと,ロシアの南下政策,そして半 蔵の日記の性格などが整理されている。そのうえで,パワーポイントで「東西蝦夷地」を確認し,さらに「1792 年ラクスマンの根室来航」・「根室港図」・「弘前藩と蝦夷地」によってリード文の内容理解をはかる。 そして,⑵のリード文に次いでコラムを読み進める。以上二つのコラムについて, 【問5】では「ここで, オッケニが「雄弁,理筋,所作といへ,天然自然の重立(重役),烈婦なり」と松前藩の武士たちに誉めら れたのはどうしてか。一度,班ごとに話し合ったうえで,①~⑦での言い回しも利用しながら,各自で理解 するところを詳しく書きなさい。」としている。どうしてオッケニは「烈婦」と称されたのか,まずは班ご とに話し合い,そのうえで自分の理解したことを詳しく書くという二つの作業をさせることで,十年後の蝦 夷地の和人社会では,オッケニがどのように記憶されていたかを考えさせたいと思う。そうすることで,ア イヌの人々への理解も深まるであろう。 山崎半蔵の日記には,歴史事実との大きな違いもあるが,それは「烈婦オッケニ」の記憶を強化するもの. 281.
(9) 鈴 木 哲 雄. としての「変形」のようにも思える。もちろん,半蔵による日記での潤色も考慮すべきではあるが,クナシ リ・メナシの戦いの11年後の1800年(寛政12年)に蝦夷地に渡った半蔵が日記に記したことは,事件から10 年以上たった蝦夷地の和人社会で語られていたクナシリ・メナシの戦いへの回顧(あるいは反省)であった のかもしれない。 4.山崎の語るアイヌ像―歴史事実と記憶 ここは【問5】での「アイヌの女性オッケニ」に関する和人の語りをいかに読み解くか,その点を深めさ 0. 0. 0. 0. せるために,山崎半蔵の日記でのアイヌ像の語りのかたよりにふれるとともに,日記での近藤重蔵とイコト イとの交渉に関する語りの要約を示すことで,半蔵の語るアイヌ像から何を読み取るべきかについて考えさ せたいとの意図をもった長い解説文をおいた。そして,【問6】を「蠣崎波響が「夷酋列像」で描いたオッ ケニやイコトイの姿と山崎が書き残したオッケニやイコトイの言動から,この時代のアイヌの首長像につい て話し合ってみよう。 」として,生徒たちに「和人の江戸時代後期にあたる時期のアイヌの人々について」 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. の多様で厚みのある歴史像を,生徒自らが語ることをめざしている。 歴史的な事実とは別に,クナシリ・メナシの戦いが蝦夷地の和人社会にどのように記憶されていったのか を考えるとともに,アイヌのフチ・オッケニとともにアイヌの首長やアイヌの人々はどのような存在として, 近世後期の蝦夷地の和人社会に捉えられていたのか,を問うことも歴史学習として重要である。. 4 社会科教育や歴史教育におけるアイヌ史・アイヌ女性史 こうした教材案を提示した意図は,アイヌ史あるいはアイヌ女性史に関する教材案や授業案を蓄積するこ とにあった。提案したこの教材案が, 「アイヌ史」になっているかといえば,もちろん否である。そこでお わりに,社会科教育や歴史教育における「アイヌ史」のあり方について少し考えてみたい。 社会科教育や歴史教育の分野において,アイヌ史としてのクナシリ・メナシの戦いについての叙述の試み があるのかといえば,それはアイヌ文化財団発行『アイヌ民族:歴史と現在』 (小・中学生用副読本,2008年) の記述ということになろう。まずは,それらを検討してみたい。 ①アイヌ文化財団発行『アイヌ民族:歴史と現在』(小学生向け):「2.アイヌ民族の歴史」の「4クナシリ・ メナシの戦い」 1600年代,北海道の東部のアイヌの人たちは,千島列島でラッコをとって,交易のために松前へ持って 行きました。/また,アッケシに住むアイヌの人たちは,狩りをしに,千島列島のさらに北にある,カ ムチャツカ半島まで出かけました。/ところがアジア大陸の北では,ロシア人が探検に入り,領土を増 やしていました。新しい領土にすることによって,そこに住む人たちから毛皮を手に入れようとしたの です。1700年ころには,ロシア人はカムチャツカ半島までやって来るようになりました。カムチャツカ の人たちははげしく抵抗しましたが,ロシア人はさらに千島列島にまでやって来ました。/1771年,ア イヌの人たちとロシア人が,ウルップ島で戦いになりました。その結果,ロシア人はウルップ島から先 には進みませんでした。/ところが,こんどは和人の商人がやって来るようになりました。シャクシャ インの戦いのころは,松前のさむらいがアイヌの人たちの村で,交易をして(い)ました。ところが, このころには,松前のさむらいにかわって,商人がやって来るようになっていたのです。クナシリ島の 首長・ツキノエは,商人との交易をことわり続けますが,それも数年しかもちませんでした。/クナシ リ島に来た商人は,アイヌの人たちに魚かすを作る仕事をさせました。それはとてもひどい仕事で,給 料はほんのわずかで, 「言うことをきかなければ殺す」とおどし,毒をのませることさえありました。 追いつめられたクナシリ・メナシ地方のアイヌの人たちは立ち上がり,和人71人を殺害しました(1789. 282.
(10) 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」. 年) 。しかし,アイヌの長老たちは,戦いを中止するように説得し,立ち上がった人たちもそれにした がいました。それにもかかわらず,松前のさむらいは強い態度でのぞみ,37人のアイヌの人たちを死刑 にしてしまいました。. (同書p.30〜). *欄外に三つの「かんがえよう」 ①ロシア人と和人がやって来たことで,アイヌの人たちの交易はどうなっただろうか。 ②松前のさむらいと商人では,アイヌの人たちに対する接し方にどういう違いがあっただろうか。 ③アイヌの長老たちはなぜ話し合いをするように説得したのだろうか。 この記述は, 「アイヌ史」といってよいと思う。なぜなら,この文章の「アイヌの」の多くを省くことが できるわけで,この文章の主語は確実にアイヌである。そして,記述内容も,1600年代の北海道の東部の人 たちは,千島列島でラッコをとって,交易のために松前へ持って行き,アッケシに住むアイヌの人たちは, 狩りをしに,千島列島のさらに北にある,カムチャツカ半島まで出かけました,との表記の主語も確実に「道 東の(アイヌの)人々」である。北からはロシア人が千島列島に侵攻し,さらに和人の商人が「道東の(ア イヌの)人々」に交易をせまり,さらには酷使されていった,というのも同様である。そのため, 「クナシリ・ メナシ地方の(アイヌの)人たち」は立ち上がったのであった。そして,欄外に示された「かんがえよう」 の③「アイヌの長老たちはなぜ話し合いをするように説得したのだろうか。」も適切な学習活動の指示とい えよう。私が今回提案した教材案も,こうした分脈のなかで授業化されることが望ましい。 ②同上発行『アイヌ民族:歴史と現在』(中学生向け):「Ⅲ 近世(17~19世紀)の政治・社会」の「場所 請負制成立」の次の項目「クナシリ・メナシの戦い」 18世紀の中ごろには,和人の活動がサハリンや千島にも及ぶようになった。また,ラクスマンが根室に 来航し日本との貿易を求めるなど,ロシアは活発に,カムチャツカ半島を南下してその勢力範囲を広げ ようとしていた。しかし,択捉島など蝦夷地の東端には,強い力を持ったアイヌの指導者たちがおり, 松前藩やロシアの勢力の及ばない地域が存在していた。/国後島の指導者ツキノエは,和人の商人との 交易を何年もの間,断り続けていたが,やがて交易を開始し,松前藩との関係を持つようになった。ロ シアが蝦夷地に接近し,それに対応して幕府がこの地域に強い関心を寄せるようになったからである。 /松前藩や家臣たちは,徐々に商人に運上金の増額を求めるようになっていった。そのため,商人たち はアイヌの人たちを無理に働かせてもうけようとした。アイヌの人たちをおどしたり,殴りつけたり, 妻を奪ったりする和人もいた。/1789年,国後島とその対岸でアイヌの人たちが立ち上がり,ひどい振 る舞いをしていた和人たち71人を殺害した。「クナシリ・メナシの戦い」である。ツキノエたちは,立 ち上がったアイヌの人たちを説得して,松前藩と話し合いをしようとしたが,松前藩は強硬な態度での ぞみ,すぐさま戦いの指導者たち37人を処刑してしまった。この戦いによって松前藩は国後島や道東の アイヌの人たちを制圧し,その支配下に組み込んだ。そして,この戦いがアイヌの人たちの武力による 最後の戦いとなったのである。 *次の項目「幕末の蝦夷地」には,続いて, クナシリ・メナシの戦いの後,蝦夷地の太平洋側,続いて日本海側も幕府の直轄地とされた。幕府はア イヌの人たちと直接交易をしようとしたり,アイヌの風俗を和人化しようとした。ロシアなどの外国に 対して,蝦夷地が幕府の支配下にあることを示すことを重視したからである。しかし,財政上の問題や アイヌの人たちの強い不満もあって,幕府の政策はうまくいかず,結局それまでと同じように商人に頼 ることになった。…. (同書p.18〜). この記述は,高校日本史教科書の記述方法に近く,この文章の隠れた主語を「日本(あるいは日本人) 」 として読むこともできるように思う。次の項目「幕末の蝦夷地」の記述の主語は,確実に「日本(あるいは. 283.
(11) 鈴 木 哲 雄. 日本人) 」であろう。もちろん,教科書や副読本の記述がどうあるべきかは難しい問題であるが,アイヌ文 化財団発行『アイヌ民族:歴史と現在』 (副読本)が, 「今の日本の社会科の教科書に書かれていることの, ほとんどは和人の社会や文化についてです。しかし, 日本には和人だけがく(暮)らしてきたわけではなく, アイヌ民族も昔から日本列島に住んできました。そこで,アイヌ民族の歴史や文化について学んでもらうの が,この本の役目です。 」 (はじめにより)というとき,学ぶ主体(学習者)は自らのこととして「アイヌ民 族の歴史や文化」 を学ぶのか, あるいは他者のこととして学ぶのか。私たちはさらに考えていく必要があろう。 ③社会科教育や歴史教育における「アイヌ女性史」 次に社会科教育や歴史教育における「アイヌ女性史」に関してふれておきたい。 たとえば『アイヌ民族:歴史と現在』(中学生向け)の本文に取り上げられているアイヌの女性といえば, 知里幸恵・バチェラー八重子・金成マツ の3名であり,3名とも近代のカムイユカラなどの継承者や詩人である。これに対して,男性は, 「アテルイ」 ・コシャマイン・ハシタイン・チコモタイン・シャクシャイン・ツキノエ・萱野茂・武隈 徳三郎・違星北斗・森竹竹市・知里真志保 *「小学生向け」には吉田菊太郎も であり, 「アテルイ」は保留しても前近代のアイヌの首長が5名取り上げられている。 また, 『アイヌ民族:歴史と現在』では,小学生向けを含めて,図版などでの女性の多くが「歌を歌い,踊 る」姿であり,アイヌ刺繍を得意とするといった固定化がありはしないか。他方,男性は首長としてアイヌ をまとめ,時には和人などとも戦う英雄がおり,多様な祭りの主役である。そう考えると,前近代の女性の 英雄「オッケニ」の存在は,アイヌ社会が「一夫多妻制」であったとの理解にも補強されたアイヌの男女の 固定的なイメージを揺さぶるものとして大変に重要なのである(19)。 しかしながらオッケニに関しては,今のところ『北海道大百科事典』(北海道新聞社,1981年)の佐々木 利和による「オッケニ」に立ち戻るほかないという状況である。 生没年未詳。一名をチキリアシカイといい,オッケニ・バッコ(オッケニ婆さん)とも呼ばれた。国後 の惣乙名ツキノエの妾(一説には正妻→後妻〔引用者〕)で,厚岸の惣乙名イコトイの母。東蝦夷地厚 岸に住んでおり,男まさりの豪勇に加え愛情も厚かったことから,和人は厚岸婆と親しみを込めて呼ん でいた。1789年(寛政元)の国後・目梨のアイヌ蜂起の際には国後島にわたり,和人の伝七・吉兵衛を 救い,マメキリらが掠奪した仏像などを返させて伝七らを択捉島のシャナに送り届けた。ツキノエ,イ コトイらと鎮静の方策を議〔ママ〕りノッカマプに行き説得に及んだ。鎮まって後,男女のアイヌ40人余 を連れて松前に赴く。松前藩ではオッケニの功をツキノエ,イコトイ,ションコらと並ぶものとして特 に賞したが, オッケニは 「松前の非道は非道」 として強く糾したという。1789年で65歳であったと伝える。 . *下線部等,修正が必要か。. これをもとに「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」像をより豊かなものとしていく必要がある(20)が,それは 別の機会に譲ることにする(21)。. 注 ⑴ 末広小のアイヌ文化学習を支援する会編『さぁアイヌ文化を学ぼう!―千歳市立末広小学校のアイヌ文化学習』 同会発行, 2009年。同年,明石書店から副題を「多文化教育としてのアイヌ文化学習」として再版。 ⑵ 鈴木哲雄「アイヌの歴史文化学習の課題と可能性」 ( 『北海道教育大学紀要(教育科学編) 』57巻2号,2007年) ⑶ 鈴木哲雄『社会科歴史教育論』岩田書院,2017年 ⑷ 鈴木哲雄「アイヌ神謡集を教材化してみよう」(前掲『社会科歴史教育論』所収) ⑸ 『日本史広辞典』 (山川出版社,1997年)は同文。なお同様の項目がある『日本史大事典 第二巻』 (平凡社,1993年), 『岩. 284.
(12) 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」. 波 日本史辞典』 (岩波書店,1999年), 『日本歴史大事典 1』 (小学館,2000年)にも「オッケニ」についての記述はない。 ⑹ 川上淳『近世後期の奥蝦夷地史と日露関係』(北海道出版企画センター,2011年)の序章 ⑺ 『松前町史 通説編第1巻上』(松前町,1984年)第3編第2章4節 ⑻ 根室シンポジウム実行委員会編『三十七本のイナウ』北海道出版企画センター,1990年 ⑼ 岩崎奈緒子『日本近世のアイヌ社会』校倉書房,1998年 ⑽ 菊池勇夫『十八世紀末のアイヌ蜂起―クナシリ・メナシの戦い』サッポロ堂書店,2010年 ⑾ 榎森進『アイヌ民族の歴史』(草風館,2007年)の第6章「クナシリ・メナシの戦い」 ⑿ 前掲川上淳『近世後期の奥蝦夷地史と日露関係』所収 ⒀ 東俊佑「クナシリ・メナシの戦いと「夷酋列像」 」 (北海道博物館編『夷酋列像』 「夷酋列像」展実行委員会・北海道新聞 社発行,2015年所収) ⒁ 谷本晃久「「夷酋列像」をよむ」(荒野泰典他編『日本の対外関係6』吉川弘文館,2010年所収) ⒂ 前掲北海道博物館編『夷酋列像』 ⒃ 浪川健治「語られたアイヌ像―記録と伝聞の間で」 (坂井俊樹・浪川健治編『歴史教育と歴史学の協働をめざして』梨の 木舎,2009年所収),同「民族文化と地域社会」(岩田浩太郎編『新しい近世史⑤』新人物往来社,1996年所収) ⒄ 「夷酋列像」を扱った授業実践については,楳澤和夫「北のシルクロード―「鎖国」とアイヌ」 (千葉県歴史教育者協議 会日本史部会編『絵画史料を読む日本史の授業』国土社,1993年所収)や加藤公明「高校生が自分たちの民族意識を捉え直 す日本史の授業―アイヌの肖像画集『夷酋列像』からなにを読み取ったか」 (前掲坂井俊樹・浪川健治編『歴史教育と歴史 学の協働をめざして』所収)などを参照。 ⒅ 実際の高校の授業では,必要な箇所を印刷して配付することもできよう。なお,図版の多くは割愛せざるをえなかった。 ⒆ 児島恭子「伝統的アイヌ社会における女性の役割」 (大日方純夫編『日本家族史論集13』吉川弘文館,2003年所収。初出 1989年)は,「伝統的アイヌ社会」には,エカシイトクパ(イナウ〔木幣〕やイクパスイ〔奉酒箸〕につける刻み目)の形 が代々の男子に受け継がれる「エカシイキリ」(男の系統)に対して, 「フチイキリ」 (女の系統)が存在したとしている。 フチイキリは,ウプソルクツ(下紐。女性が直接肌につけたツルウメモドキやイラクサの繊維で編んだ数条のヒモ)の材料 や編み方,本数,形や模様,体へのつけ方などが秘密裡に母から娘に伝えられたもので,ウプソルクツは女の「お守り」で あり,最高の女神であった火の神からの授かりものであったという。児島は,フチイキリ(女の系統)はアイヌ社会に非常 に強く機能していたもので,かつては母系氏族組織があった可能性があるとしている。注にふれるオッケニの存在形態は, こうした児島のいうアイヌ女性論とも関わろう。 ⒇ 『道新こども新聞 週刊まなぶん』2017年8月26日(土)の「先人たちの物語 シンリツオルシペ」に「「烈女」と呼ば れたチキリアシカイ(18世紀)」が取り上げられている。多くの方に広まることを期待したい。 佐々木による記述に先だって, 『北海道史人名字彙 上』 (北海道出版企画センター,1979年)の「オツケニ(厚岸婆々)」 がある。なお,佐々木による「オッケニ」像を深めるためには,オッケニの地位や活動に関わる和人側の記録などの集積が 必要である。便宜,参考文献等から確認しえた記事を以下に抜き出しておきたい。 『近藤重蔵蝦夷地関係史料一』「東蝦夷地アツケシ悪党蝦夷イコトイ風聞承繕候書付」 ①「右母 パツコ/ヲチケニイ」とあり,「右エコトイ義,父はカモイボンデンと申,数年アツケシ惣乙名相勤,母はパツコ と申,先年一旦クナシリ島惣乙名ツキノイ妾と相成」とある。そして, 朱書などで「本文パツコと申候ハ夷言老婆之儀ニ而, 此女夷当年凡六十歳余ニも可相成,髪白脊屈候へ共,男夷同様差働有之,ウタレ数十人所持仕,毎年為軽物取,ウルツプ渡 海仕候程之者ゆへ,夷中其名を不呼,只パツコとのみ相唱申候由御座候」などとある。 (p.112) ②「去年バツコ義アツケシ江罷帰候節,エトロフ之コシヨシアイノと申蝦夷江魚油等沢山ニ取置候ハゝ,来年渡海之上買取可 申旨約定ニ而,舟壱艘仮し置罷帰候処」(p.119) 『近藤重蔵蝦夷地関係史料一』「ウルップ島逗留赤人ニ付聞取報告書草案」 ③「ハツコ義ウルツフ出船之砌,赤人ゟ呼ニ参候ニ付,家来差遣候処,倉二軒開き箇物を明ケ,絹布・毛織物類其外品々取出 し見セ,明年参り候ハゝ米酒沢山持参致候様申聞候由」 (p.263) 他のクナシリ・メナシの戦いに関する記事 ④松浦武四郎『納沙布日誌』の「アッケシ」の項での年寄金太郎(クマキツ)についての記載に, 「…(クナシリ・メナシの戦いの)時,当所の首長イコトイ祖母(添書:シユチ)ヲツキニ其外十二人の首長多くの土人を 説服させ,追討使の下りを待て其徒党を伐取,一島を安静ならしめたる勲功に依て,領主より厚く褒賞有,また其像を画き (割書:蠣崎将監号波響楼主人) *次に系図がおかれ,金太郎の祖父の祖父(イコトイの祖父)に「アツケシ/酋長カモイトイ」がおり,ツキノイは「カ モイトイ」の弟として「弟首長ツキノイ」とある。ツキノイの右に「妻ヲツキニ」とある。. 285.
(13) 鈴 木 哲 雄. 此ヲツキニと云をアツケシの婆と云て頗る英邁の聞え有者なりしが,其墓ヲヤコツと云に有。印にヲンコの木の杖を刺置し と云が,今一囲余の大木と成て成長す。…(「四国遍路するや」として弘法大師の杖杉などの例をあげ)…是偏に英雄のし からしむる処と思はる。」(『松浦武四郎蝦夷日誌集』p.89〜) *武四郎の『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』の「東部能都之也布誌」には, 「アツケシ惣乙名/カモイトイレ」の妹と として「妹御味方土人/ヲツキチ婆/夫名しれず/此者の杖と云ヲンコの木沼の傍に有」とある。イコトイはオッケニ の孫とされている。 ⑤『夷酋列像附録(一名毛夷図画国字附録)』(1790年) 「チキリアシカイ是老嫗北島クナシリ総部酋長ツキノエカ妻ニシテ即チイコトイノ母也」 ( 『波響論集』p.134〜) 「蝦夷地一件」(『新北海道史 第7巻 史料1』 ⑥戦後の松前でのツキノエの息子イコリカヤニの証言 「私親一同当春三月頃より在所出船エトロフ島よりウルツフ島の方え為漁業罷越,一向右騒擾不奉存候処,私兄壱人徒党に 加り候て商人共大勢及殺害候旨飛脚差越候に付,親ツキノ井始大に驚,ラツコ島の方よりエトロフえ罷帰候処,アツケシ惣 首師イコト井幷同人実母,私親ツキノ井妾に罷成居候ヲツケニと申者幷イコト井弟両人共出会,右騒擾の始末承届及相談, 早々クナシリ島え罷帰,様子相糾取鎮可申と右の者共と手分け仕」 (p.451) ⑦幕府役人へのイコトイの赤人との交易に関する証言:「アッケシの酋長イコトイ私止宿仕候小屋え夜分密に罷越,左の通申 聞候」内容。 「赤人毎年ゝゝウルツク島迄来り,美敷絹錦の類,美敷さらさ木綿の類,砂糖,薬種,其外数々持来商ふ,去年来年を越当 年夏迄滞留いたし居候,当夏ウルツフ島え参り赤人に出会,錦類を米にとり替持来候処,当年江戸の衆来り見候に付,至て 不宜故に,商ひ無用の運上屋支配人幷通詞松前のもの不残申候故に,我家に隠置母か持し錦至て美敷候」 (p.340~) 『寛政蝦夷乱取調日記』(『日本庶民生活史料集成 第4巻』所収) ⑧「右騒動後あつけしばゝ便にて承候故,早速居所に立帰り,段々取調候処,全体起の義と申候は」 (p.705) ※イコトイと母オッケニ・弟ニシコマケらは船六艘に乗りクナシリ島からビハセ (浜中町琵琶瀬) に七月二日に到着し, 七月九日にはノッカアップに着いたが,イコトイの母オッケニはすぐにクナシリ島に引き返した。 (p.696~) 以上,簡単に整理しておけば,①ではオッケニは,イコトイの母で,イコトイの父つまりオッケニの夫はカモイボンデン という厚岸(アツケシ)の惣乙名であったが,その後,クナシリ島の惣乙名のツキノエの妾となったとある。そして,オッ ケニの呼び名「パツコ(バッコ)」はアイヌ語で老婆の意味であり,当年60余歳であった。しかし,男と同様によく働き, ウタレを数十人も所持し,毎年軽物(交易品としてのラッコやアザラシなどの毛皮,鷲羽など)を取るために自らウルップ 島まで渡海するほどの者であった。そのため,アイヌの人々は名を呼ばずに「パツコ」とのみ唱えたとある。また,②でも エトロフのアイヌに魚油を沢山取り置けば,来年買い取りに来るからと舟一艘を貸し置いて,厚岸に帰ったとある。オッケ ニの地位は,イコトイの母やツキノエの妻であることとともに,ウルップ島やエトロフ島へウタレを率いて渡海し交易する という実力にあったことがわかろう。 ③は,オッケニがウルップ島へ出船したとき,赤人(ロシア人)が呼びに来たので家来を遣わしたら,倉二軒を明けて絹 布や毛織物などの品々を取り出して見せ,来年米酒を沢山持参するようにと聞いてきたという。オッケニはウルップにおい てロシア人と米酒=絹布・毛織物等の交易を定期的に行っていたのであろう。⑦では,ロシア人との交易相手はイコトイで あるが,幕府がイコトイにロシアとの交易を禁じた際に,イコトイは「我が家に隠し置く,母が持ちし錦至って美しく候」 といったという。イコトイの母オッケニは,イコトイの家に隠し置かれた美しき錦(蝦夷錦か)の所持者であった。アイヌ 社会での家財の所有者は女性であったか。 ④は松浦武四郎によるもので,クナシリ・メナシの戦いで勲功のあったオッケニには,松前藩から厚い褒賞があり,また 肖像が描かれた。さらにオッケニの墓の印のオンコの木の杖は今に成長して大木となる。 「偏に英雄のしからしむる処と思 はる」という。⑥と⑧には,クナシリ・メナシでのアイヌの蜂起に対するオッケニ等の主体的な対応ぶりが示されている。. 附 記 本稿作成にあたって,研究状況や文献などについて百瀬響氏と谷本晃久氏よりご教示を得ました。そして 佐山圭司氏にも感謝申し上げます。 . 286. (札幌校教授).
(14) 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」. 287.
(15) 鈴 木 哲 雄. 288.
(16) 教材「アイヌのフチ・烈婦オッケニ」. 289.
(17) 鈴 木 哲 雄. 図01. 図02. 図03. 図04. 図05. 290.
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