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教育課程の研究と社会科学(2) : 教育活動における「概念」「形象」および「実践」の指導

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(1)Title. 教育課程の研究と社会科学(2) : 教育活動における「概念」「形象」 および「実践」の指導. Author(s). 遠藤, 芳信. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 32(1): 13-26. Issue Date. 1981-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4855. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 教育課程の研究と社会科学 ( 1 1 ) -- 教育活動における 「概念」「形象」 および 「実践」 の指導 --. 遠. 藤. 芳. 信. 本稿は, 教科と教科外の活動の区別, およ び各種教科のそれぞれの区別 (たとえ ば, 科学系教科と芸術系教科との区別) の 基本となるべき, 認識方法論上の区別と関連の問題を考 察するもの である. すなわち, 教科の指導における「概念」「形象」の形成を目的とする認識方法と, くはじめに〉. 教科外の指導における 「実践」および「行為」「行動」を目的とする認識方法との区別と関連を考察 するものである. 以上の考察は, 教育課程における具体的な教育内容の編 成と取扱いの問題を考察 1 〉のような教育 活動の計画をめぐる領域の検討の他に 前もって 若干, おおま するに際して, 前稿( , , かな指導方法を検討しておくことが必要であると考え, 問題設定されている. そして, そうした教 育活動における 「概念」「形象」 およ び「実践」 の指導の検討に際 しては, 生活綴方を検討の対象に したいと考える. それは, 生活綴方にあらわれた 「概念」「形象」「実践」 の指導観は, 戦後の社会. 930 科・国語科や生活指導の研究に重要な影響を及ぼしていると考えるからである. 具体的には, 1 を中心に考察 1 905~1 948年) の生活綴方論 (特に 「表現」 と 「認識」 の問題) 年代の村山俊太郎 ( を深めていきたいと考える. 村山の生活綴方論は大別すると, およそ三つに分け られる. それは, ①題材の指導に関するもの,. ②表現,描写技術の指導に関するもの, ③ 「教室文化」「自治活動」 と綴方創作指導に関するもの, である. 本稿 では, 上述の問題設定との関係で, ②の表現・描写技術の指導 を検討する,. 1. 生活綴方の表現技術指導と形象化重視の問題. 村山の 「描写技術の指導」 (雑誌 『教育・国語教育』1936年11月号) には, 「綴方技術として構成 技術とともにも っ とも重要な描写技術の指導について 述べてみよう」と, 「描写技術」の重要性が説 「→, 主題・題材の決定= 明されている. この 「描写ふ とは, 村山の同論文中の表現技術の三段階 ( 2 ( ) 選択 二, . 主題・題材の配列=構成 三, 主題・題材の形象化=描写」 ) の指摘にみられる ように, 「形象化=描写」 と同意味に把握できるもの である, 次に, この 「形象化=描写」 の目的は, 村山 によれば, 次のように指摘される. 「描写という技術は形象を創 造する文学的技術のも っとも本質的な手法の一つである. 前に述 べたように, 文製作の過程-技術に於いて描写は選択された主題, 題材を構成して生き 生きとし た生活のタイ プをつくりだすための形象化の仕事である. この場合, 作品形象は現実生活の反映 であるが, 現実性はすぐに形象化されて再現されるのでは なく, 作者の生活意識の網という媒介 3 ( ) 的過程をへて再現されるのである.」 13.

(3) . 遠 藤 芳 信. すなわち, 「形象化=描写」 とは, 「生き生きと した生活のタイ プをつくりだすため」 のもの であ り, 「作者の生活意識の網」を通過して現実性 が再現されることが示されている 以上の点は 生活 . , 綴方のみならず, 文学・芸術一般のもっ ている現実性の認識と表現の特 質 でもあるが 生活綴方の , 表現の指 導の中心として把 握してよいものである しからば なぜ 村山は生活綴方指導において . , , 形象化を重視 しなければな らなかっ たか この点に関して 村山は上記論 文の冒頭において 「生活 . , , 綴方の今日的混迷と停止を押し進めるものは より具体的 な生活感情としての生産的リアリズムに , { 4 } 綴方指導を発 展させることだ 」 . と指摘しているように, 第一に,「生活綴方 の今日的混迷と停止」 からの脱却, 第二に, 「生産的リアリ ズム」の確立の目標があっ たからである 第一の問題から検討 . するなら ば, 「生活綴方の今日的混迷と停止」という問題は 少なくとも ①「赤い鳥」系自然主義, , , 文芸主義リ アリ ズムの流行, ②そして①を 克服するかたち で提唱されてきた「調べた綴方」「科学的 綴方」の流行, の二つがあると考 えられる ①に関しては その功罪が比較的に明かにされている . , . しかし, ②に関しては, 戦後, 19 5 } 60年代中期ま で, 「社会科学的認識」を育てるとか ( 「 教育と生活 , 6 )があるとか 戦後生活綴方運動の主流的理論化にみられる との結合」の論理( ような過大評価を導き , 出 し て い っ た.. 1 1 生活綴方 の表現をめ ぐる科学性と実践性 「調べた綴方」「科学的綴方」が登場するに およんで 生活綴方と「科学」 「科学性」「科学的認識」 , との関係が議論さ れるようになっ た また 戦後も そのような 「生活綴方と科学」 の論議が起 . , っ , た. さて, このような論議を検 討するに際して 生活綴方 が科学性を つらぬくという問題に焦点を , 据えて, 「調べた綴方」「科学的綴方」 に関する村山の 評価を検討してみよう 村山の 「調べた綴 方 . 7 ) の進路」 (雑誌 『綴方生活』1934年7月号) の論文の中 では ( , 「科学的」 綴方と称される 「調べた綴 方」 等は 「いずれの作品を 見ても申し合わせたように生活の抽象的概念化があり 表現性の喪失が , あり, 現実の 児童生活の息吹 が失われて無味乾燥の理科教科書 みたいな文章にな ているの であ っ る.」 とか, 「教科書的臭み」 がある, と述べている そして そうした生活綴方は 「生活綴方の邪 . , 道」 であって, 「科学的」とはいえないと強調 している さらに 村山は そうした生活綴方の傾向 . , , ( 8 を「綴方教育の明確な反動性として是正しなけ ればならない点」 )として 痛烈に批判するのであ っ , た.. 村山が批判した 「調べた綴方」「科学的綴方」 とは 科学的に整理 された資料・データーを文章の , 中に示し, 題材も そう した資料提示のために観察・調査を内容とするものであ た 村山は そう っ . , した文章は (生活) 綴方 ではなくて, 科学 (者) の論文である と指摘した そして 「綴方教育に , . , 於ける科学性 の在り方」 (雑誌『綴方生活』1935年3月号) の論文においては 自己の過去の綴方指 , 導, 特に 「調べた綴方」 の 「天神様 のお祭」 を自己批判しつつ 「綴方に於ける科学的な在り方は , , 科学者が試験 管を観察する態度 ではなく 人間自らが その現実生活の現実を綴方方法によ て科 , っ , ( 9 ) 学的に認識し, 創造していくところにあらねばならない 」 . と強調す るのであった. ところで, この なか で, 「科学的に認識し, 創造していく」とは リアリズムとしての生活綴方のどのような表現・ , 認識論を意 味しているのだろうか 村山は結論的には次のように指摘している . . 「綴方に於ける科学 的なるものの 在り方は単に生活原理や法則を探究するいわれではない 子 . どもの生活台にはいりくるところの科学性は 生活の現実をリア ルに把握し その具象の中か ら , , 生活を構成させるため の, 進めるための原動力を見出し 計画的な生活 実践を営むための態度で , 14.

(4) . 教育課程の研究と社会科学. なければならない. さらにいいかえれば, 具体的な生活機構に即して, 全体的に動的に生活姿態 を把握することであり, 生活形象を生活科学的に把握することである. リアリ ズムの綴方は, こ こから正しいスタ ートを切る. そしてその綴方形態としては, 全体性, 直接性, 具象性, 価値性 などを形象の契機として求めようとする. リアリズムの綴方の根幹をなすものは, 生活科学に統 整された意欲性と, それの 必然する技術の問題にかかわっている. 児童を囲む自然, 社会の現実 によって付与された子どもの 感情, 意欲の在り方, およびそれの 必然する綴方的方法技術こそは, 正しく明日の世代に役 立つ児童を育てるための綴方教育として, 開拓すべき必須なる部面という l o ( ) べきであろう. 綴方教育に於ける科学性も, ここからのみ正しい成長をすることを信ずる.」 以上の村山の指摘には,生活綴方運動に対しての一定の総括と展望が示されていると考 えられる. ′ 性) の問題 の止揚, 第二に, 新しいリアリ ズムとしての上述 すなわち, 第一に, 生活綴方と科学 ( の 「生産的リアリズム」 にもとづく生活綴方を 「意欲性」「感情」 の在り方と表 現方法技術の問題と して提起し始めたと考えられるのである. この なかで, 第一の問題は, 綴方における 「科学性」 を 「生活を押しすすめる原動力を見出し, 計画的な生活実践を営 むための態度」 として規定されているように, 現実の生活実践に対しての態 度形成の問題として提起するのであっ た. ここには, 現実生活に対しての教科指導による認識形成 「調べた綴方」「科学的綴方」 では, 科学者が試験管を観察するよう な立場で生活原理や ではなく ( 法則を認識させようとする) ,実践的な認識と態度の形成が提起されている.以上の村山の提起には, 生活綴方指導から一旦教科指導による認識形成 (特に社会科学・自然科学的認識形成にみられると ころの概 念の形成による認識形成) を遠 ざけようとする意図が読みと られる. そして, そのことに よって, 生活綴方における「形象化」「形象性」の豊富化をつらぬこうとしたの である. また, そう した生活綴方と科学 (性) の止揚は, ただちに新しいリアリ ズムへの生活綴方 (上述の 「生産的リ )における「意欲性」「感情」の在り方と表現方法技術の問題として連動 していくの であっ アリ ズム」 た. その際, 村山が整理しなければならなかっ た問題として,生活綴方と文学との関係の問題があっ た.. 1 1 1 生活綴方における 「意欲性」「感情」 の在り方と表現方法技術の問題 1 ) 生活綴方とリアリ ズム文学 ( 村山は 「調べた綴方」「科学的綴方」 のエセ 「科学性」 を批判しつつ, 新しいリアリ ズムとしての 「生産的リアリ ズム」 を提起しようとし, 特に綴方創作指導に 「形象化」「形象性」の重視を強調し た. その際, 村山は, 形象化・形象性重視にもとづく 「生産的リアリズム」 の提起において, 文学 上のリアリ ズムを積極的に学びとろうとしていた. 村山のそう した論文としては, たとえば,「綴方 6年1月号)「新しい文学と綴方教育」 (雑誌 『綴方生活』1936年 と文学の包含」 (雑誌 『工程』193 936年4月号) などがある. 4月号)「『生き方』 に於ける芸術性と環境性」 (雑誌 『教育・国語教育』1 生活綴方における形象化・形象性 し 村山は生活綴方と文学との関係をどのように把握 それでは, , は文学・芸術の形象化・形象性との 比較においてどのような積極的内容をもっていたのだろうか. 村山は, まず, 上掲論文 「調べた綴方の進路」 のなかで 「調べた綴方」「科学的綴方」 を批判しつ つ, 他方, 文学上のリアリ ズムに注目していた. たとえば, 「リアリ ズム探究の声は, 最近文 学の各 陣営から叫ばれてきた. そして バ ルザックや ドストエフスキーなどの創作方法の研究熱が拾頭し, それを中心にリアリ ズム論がジャーナリズムのうえに展開してきた. (中略) リアリ ズムの原則は, 15.

(5) . 遠. 藤. 芳. 信. 『あるがままに描く』 こと である. 作家があるがままに描くことは, 単に精神を喪失した頂末主義 や公式主義に堕することではない. あるがままに描かれた一行一行には, 作家の目的意識に浸され た感情の燃焼がなければならない. したがって読者は, あるがままの人生の外に, あるべき人生を 感得する. --『リアリズムは, 細目の真実さの外に, 典型的な諸性格の伝達の正確さを意味する』 (エンゲルス) といっ た言葉には, 含蓄ある創作技術上の信条が含まれてい るもの であると思う. 今われわれはこの文学上のリアリ ズム探究の精神を, 綴方の世界に直輸入する場合には, 多分の危 険性があることは認めるが, しかし少なくとも横道に踏みこんだ調 べた綴方, 前記の如き欠陥を克 1 1 ( )と 文学上のリアリ ズム 服する道は, 現実の綴方的生活に於けるリアリズムの建設にあると思う」 , の直輸入を警戒しつつも, 「調べた綴方」 の欠陥 (形象化・形象性の希薄) の克服の可能性が文学上 の リ ア リ ズ ム に あ る こ と を 認 め る の であ っ た.. 当時, 百田宗治主幹の『工程』 ( 193 5年創刊)などでは, 綴方教育界と文学界との相互研究がなさ れていた. 村山もそこに参加 し, 19 36年に上掲論文「綴方と文学の包含」を発表している. ここで, 村山は, 綴方と文学の包含の必然的理由が見いだされてきたも のとして, イ デオロ ギーとしての哲 学や文芸と教育との共通的視点が吟味されてきたことを指摘している. そして, そうした共通的視 点として, 特に文学と綴方とを結びつけるものを四点にわたっ て指摘している. 要約すれば, ①両 者は人間の生活を組織するという本質的機能があること, ②両者は形象的表現という同一技術の上 に構成され, その方法をもつこと, ③綴方は文学がも つ文化的・社会的意義を有すると同時に, 子 どもの世界における思想感情を組織し伝達するという文化的・社会的任務をもつこと, ④両者は社 1 3 ( )である この 会または人類の前進のための機能を子ども集団の中に発揮することができること, , 中で,②は文学と綴方における創作指導技術としての形象的表現の重視を示しているものであるが、 こう した形象的表現にもとづいて新しいリアリズムの生活綴方 ( 「生産的リアリズム」 ) における形 象化・形象性の豊富化を目標とする時, どのような表現技術指導が「生き方」「生活実践」とその「意 欲性」「感情」 の形成と結びつくのだろうか. ( 2 ) リアリズム表現指導と 「生活意欲性」 村山は上掲論文 「新しい文学と綴方教育」 の中で, 自然主義リアリズムを止揚した新しいリア1 j ズムを追求している. それは, 「今日的リアリ ズムへの道の標語としての『生活の文学』は在るとこ ろの現実生活とともにあるべき現実を認識することを文学に要求し, 新しき人間性の探究組織と, 1 4 ( )という 基本的立場に立っ ていた すなわ 新しき人間や生活のタイ プを創造する任務を課題する」 . ち, 従来のリアリ ズム (自然主義リアリズム) は人間の生活を生物的・性格的・個人的立場に還元 したところの 「あるがままの現実認識」 であっ たのに対して, 村山は, 「今日的リアリ ズム」 におい ては 「あるところの現実生活」 とともに 「あるべき現実」 の認識を要求しなければならないと指摘 したの である. そして, そのことによ っ て新しき人間や生活のタイ プを創造しなければならないと したの である. この場合, 「あるべき現実」とは現実生活の方向性であり, その見通しであり, それ を認識することは 「あるべき現実」 の方向性に到達するための可能性も認識するも のでなければな らない. それゆえ, 「あるべき現実」 と 「あるがままの現実」 とは断絶したものではなく, 村山にお いては統一的に表現・認識されるもの であった. それでは, そうした 「統一」 はどのようにしてな されるのか. 村山は, 同論文の中でゴーリキー の指摘を根拠に して次のように提起している. 「『客観的な諸事実の全く合法則的な, そして必然的な詩的誇張』という立場に於いてリアリズ ムの道を主張した ゴーリキーのリアリズムは可視的の現実に密着する方法の代わりに, 合法則的 な必然的な『仮想と推測』 , 『拡大と誇張』といかにも反りアリステッ クな方法が強調されている. 16.

(6) . 教育課程の研究と社会科学. ここにもリアリズム的方法の正しい発展があり, リアリ ズム以前の, 自然主義的文学的実験の明 1 5 { ) 瞭な破産を宣言する.」 この中で, リアリズムにおける合法則的な必然的な 「仮想と推測」 「拡大と誇張」 とは 「あるべ , き現実」の表現指導に相当するものであっ たと考えられる そして そうした「仮想と推 測」「拡大 . , と誇張」 にもとづく 「あるべき現実」 の表現指導と, 「あるがままの現実」 との統一的な形象化を生 産的労働を基軸に展開したのが新しいリアリズムと しての 「生産的リアリズム」 の生活綴方創作技 術指導論 であっ た. そこでは, 村山は以上の 「統一的な形象化」 を 「リアリ ズム」 と 「ロマンチシ ズム」( 「アイ デアリズム」 )との結合として提起するのであっ た. それらは, 村山の論文「生活綴方 の新しい努力--生産的リアリ ズムへの試論--」(雑誌 『実践国語教育』19 36年7月号)「綴方に おける夢と現実」 (雑誌 『実践国語教育』1 936年1 0月号) に定式化されている. すなわち, 一, リアリ ズムに徹する--現実生活に対する 児童の能動的・実践的感情を強化組 織=生活 の正しい描写の要求. 二, ロマンチシ ズムに徹する--児童の創造的空想 (生活の夢) の培養 綴方製作における . 空想的自由 (童話性) の要求. 1 6 ) 三, 生活に於けるモラ ルの創造と, 生活 (人間) における典型の創造 ( . である. さて, ここにおいて, 上記村山の定式化の中のそれぞれ三項目の相互関係 が問題になっ てくる. それは, 村山が 「生産的リアリ ズム」 という生産にかかわっ て新しいリアリ ズムを提起し たことの理由と密接に関係しているように考えられる. 村山は上掲論文 「綴方における夢と現実」 の 中 で,. 「教育がほんとうに生活教育としての成果をあげ得る 時は 生産との結びつきに於いて実現さ , れる. そして教育は, 直接間接に人間の生産的陶 冶を目標として行なわれる 生産的能力 は 即 . , ち生活的能力 である. 生産 者としての技術的能力と, 精神的意志力こそが国 家社会を前進せしめ る原動力である. 生活教育=生活綴方はこの立場に於いて, 経済的生産的な生活の法則と 文化 , 的生活の在り方と, 精神的生き方のみ, 正しい教育の方法として定位する 私のいう生産的リア , 1 7 ( } リズムは目標をここにおく生活綴方のための理念であり, 方法原理である 」 . 1 8 )を前進させることに結合したところの生産的能 と, 「生産的リアリ ズム」 の目標を, 国家社会( 生産 力=生活的能力 ( 者としての技術的能力と精神的意志力) の形成として定めるのであっ た 以 .. 上の村山の指摘にみられる 「精神的意志力」「精神的生き方」 を 「精神主義」「 ノい情主義」 として理 解することは適切 でないだろう. そうではなくて, 上述したところ の 「生活意欲性」 の内容をもつ ものである. この点について, 村山は 「生産的リアリ ズム」 の表現指導との関係 で次のように指摘 している. 若干長文に及ぶが引用 してみよう.. 「家庭の黒い重圧にも, 社会の息づまる不安の諸現象にも, 郷土の生ま生ましい現実にも耐え て, はねかえすだけの不屈の意志力がほしい. どんな小さなことがらでも, あくま でに ごらぬ真 理への良心がほしい. そして, この良心を押しとおす生活的情熱も ほしい ふるき人間のタイ プ . をすてて, 明るい協働社会への集団的個性と, 絶えず進もうとする良心をもつ創造的生活精神と . 生産的リアリズムのもつ生活意欲性は, こう した方向に於いて 国家の社会の 郷土の 家の , , , 生産に協力する. それは, より正しい文化を建設す るために役立つ 一 歩一歩生活を生活する認 . 識する精神と技術とをみがいていく. 生活綴方に於ける題材指導も 製作指導も 批評精神も , , , このリアリ ズム実践の線に沿う. 生活綴方の混迷と停止とを救うための生産的リアリ ズムは 題 , 材に於ける生産面,勤労,労働材を重視し,表現に於けるリアリ ズム的描写と構成とによるスタイ ルを創造する.(中略)綴方においては,芸術・文学の場合と 異なり,作品の過程が重視されなければ 17.

(7) . 遠 藤 芳 信. ならない. これに反して, 芸術に於いて 重要視されるのは過程ではなくて効果である. だから私 たちは綴方によ って子どもの精神を豊かにし, 生活認識をたかめ, 生活技術を学び, 生活を組織 するとき, 生活のも っ とも大きな領域を示している生産をめ ぐる技術・労働などの過程や, 精神 1 9 { ) のあり方などを表現することは, 製作過程そのもののもつ 重要性として認めるのである.」 以上の村山の提起の中に, 「生産的リアリズム」の目標と, その表現描写論および「精神的意志力」 「精神的生き方」形成との関係は明確に規定されている. すなわち, 現実生活の正しい表現描写(あ るがままの現実生活の形象化~リアリ ズム) と未来への空想と予測の表現描写 (あるべき現実生活 の形象化~ロマンチシ ズム)との統一的形象化に よって(すなわち, 新しいリアリ ズムとしての「生. ) 産的リアリズム」 , 「不屈の意志力」「真理への良心」「生活的情熱」「創造的生活精神」 を内容とす る 「生活意欲性」 を形成しようとしたのである. そして, そのことによっ て, 東北地方という北方 生活台において, 未来の生活をも予測・仮想しつつ積極 的に現実生活を生産者として働きぬく東北 農民の誇りと生きがいを育てようとしたのである. こうした東北地方の農民・人間像の典型を描く 生活綴方の指導は, 寒川道夫指導の大関松三郎詩集 『山芋』 にも共通している. そして, また, 生 活綴方における 「夢」 と 「現実」 の統一的形象化も以上のようなリアリ ズムとロマンチシズムとの 結合にあり, 特に, 村山はその 「夢」 と しての 「現実以上の現実」 の表現指導の重要性を次のよう に強調するのであっ た. 「われわれには北方の自 然社会そのものによ って付与された特殊な 正 しい感傷があり 意欲が あったのだ. われわれはその意欲によ って, われわれの現実を粉飾することなく握らねばならな いのだ. (中略} そしてわれわれの現実における 『現実以上の現実』 を描き, 構成し, 組織してい くところに, 真のリアリズムの道は展けるのだ. しかも北方的意欲によ っ て描かれる現実以上の 「意欲から性格へそして北方的綴方へ」 現実--それはま ったく新しい北方的性格を構 成する.」 ( 2 0 { } 『綴方評論』19 35年第3号) 以上のように, 村山の生活綴方をめ ぐる 「表現」 と 「認識」 の問題は, 新しいリアリ ズムとして の 「生産的リアリ ズム」 におけるリアリ ズムとロマン チシズムとを結合させた形象化重視論として 帰結するもの であ った. そして, そのことによ って, 未来への生産者として生きる夢・空想・誇り・ 生きがい・情熱・ 意志力等を内容とする生活意欲性を形 成しつつ, 直面する現実生活の具体的な諸 実践や行為・行動に奮闘させていっ たのである.. ‐÷ ラ象的表現と認識の意義-- l v 生活綴方における 「表現」 と 「認識」 のリアリ ズム‐ それでは, 村山が提起したような 「生産的リアリ ズム」 に貫徹されなければならない形象化重視 は, その表現論・認識論上において (すなわち, 形象的表現・認識) , どのよう な意義をも っている 践的認識 (行為・ び 形象的表現・認識と実 本章では か 形象的表現・認識の検討およ のだろう , , , 行動による認識) との関係を考察してみよう. ( 1 ) 形象と形象的表現・認識および生活実践 形象的表現・形象的認 識あるいは形象化・形象性というときの 「形象」 という言葉は, 通常, 芸 術・美学や文学上の用語である. それは, 現実世界の把握と表現に際して, 単独性と普遍性をお び, 具体的かつ生き生きとした姿・形や動きとして表わされるところに最大の特質がある. また, そう した特質こそ, 科学・哲学上で使用される論理的展開性のある 「概念」 とは大いに異なる 点である. 18.

(8) . 教育課程の研究と社会科学. しかし, 以上の点を厳密に検討す るならば, 「文章」「ことば」による表現の場合は 「ことば」は常 , に概 念性と形象性を含んでいるが故に, そこ での形象化・概念化に一線を画すことは困難であるよ うに考えられる. 問題は, 科学と芸術・文学の発表・表現物において 一つの文章として表現され , た時, どちらが全体としての概念性ある いは形象を保持し, それによ っ て現実世界の本質を認識さ せ, 表現させているかという ことに帰結するものと考えら れる . ところで, 村山は, 本稿の冒頭 で示したように, 生活綴方の描写技術の指導段階を 現実生活→ , 選択・構成 (構想) →形象化 (再現) という過程において把握 していた そして また 村山は , , . , 「作品形象は現実生活の反映であるが, 現実性はすぐ形象化されて再現するのではなくて 作者の , 2 1 ( )と 「形象化 (再現)」 における 「作 生活意識の網という 媒介的過程をへて再現さ れるのである 」 , , 者の生活意識の網」 という媒介的過程の必要性を指摘 している そう だとすると この形象化によ . , る表現・認識には 「作者の生活意識の網」 というものがどのように作用するのだろうか . まず, 一般的な芸術的表現や形象的表現・認識の場合を検討してみよう , 村上嘉隆は, 現実世界での表象の典型化の過程における諸表象の結合に際しては 「知的構想」・ , 「概念」 (理性)との一定の結合がみられると述べている そして そう した「知的構想」や「概念」 , , ( 2 2 }の位置にあると指摘している すなわち 芸術製作の過程において ある対象に対す を「手びき」 , . , る感性的な認識から理性的な認識に進むことによっ て一定の概念が形成されることも不可能ではな いが, 典型的な形象像の成立においては 「知的構想」・「概念」 は 「手びき」「導きの力」 の役割を果 すということである, そして, そのような「知的構想」や「概念」は作者の既存の意識・考えと結合したり また 「知 っ , , たうえであらためて 見なおし, 感じなおす」 という役割を果すのである 芸術製作における現実世 . 界の対象の再現化としての形象的表現・認識の特殊性は, 以上のように 「知的構想」「概念」 を手 , びきとするところの 「知っ たうえでのあらためて見なおし, 感じなおし」 や 「知 ったから かえっ , てよく感じなおす」 という表象の典型化の際の感覚・感情の変更・修正にあるものと考えられる . ところで, 以上のような形象的表現・認識の過程には, 感性的認識が二つある 最初の感性的認識 . と, 形象化=表象典型化されていく時の感性的認識 である 後半のは, 知的構想・概念をも媒介と . している感性的認識 である. 村上嘉隆は, 最初の感性的認識を 「入口」 の感性的認識と称し 後半 , の感性的認識を「出口」の感性的認識と 称した. 翻 そうだとすると, リアリ ズムにもとづく形象化 とは, 「入口」 と 「出口」 の感性的認識の結合にあると考えられよう, さて, 以上のような一般的な芸術的表現や形象的表現・認識の過程を 村山俊太郎の生活綴方創 , 作の形象化指導における 「作者の生活意識の網」 との関係で深めてみよう 村山の 「作者の生活意 . 識の網」 とは, 上記の 「出口」 の感性的認識が形成されるときの形象化 (現実生活の再現化) に近 いものと考えられる, つまり, 上記村山における生活綴方の描写技術の指 導段階としての現実生活 →選択・構成 (構想) →形象化 (再現) という過程は, 現実生活→見たり感 じたり→生活意識の網 を通過→形象的認識の形成→再現化 (典型的な形象として表現) …→生活実践というサイ クルにな ると考えられる. 後半部分をさらに述べ ると, 現実生活の具体的な姿・形・動きが生活意識の網を 通過→形象的認識の形成→現実生活の具体的な姿・形・動きの典型的な形象として表現=現実生活 2 4 } の把握なおし・感じなおしとしての概括と展望の喚起…→生活実践 というサイク ルになる ( , , この 過程のサイクルに おいて, 現実生活の具体的な姿・形・動きを通過させたところの作者の 「生活意 識の網」 は強固になっ たり, あるいは変更・修正をせまられることになるのである その際 作者 , . の 「生活意識の網」 を強固にしたり, 変更・修正をせまるものは何か , まず, 現実生活に直面した時, それを見たり感じたりして一定の認識や思想 (ものの考え方) が 19.

(9) . 遠. 藤. 芳 信. 2 5 { }の 形成されることは可能である. 戦後の生活綴方運動の主流はこれを「ものの見方考え方感じ方」 形成と標 核した. しかし, 問題はそこから先にある. すなわち, 「ものの見方考え方感じ方」の形成 から出発して, さらに, 現実生活の進展をいかにとらえなおしたり, 考えなおしたりしていくのか ということ である. そして, その現実生活の進展の展望に対していかに実践するか, また, 実践で きるのかという実践可能性・必然性の認識が自己の既成の認識の概括との関係 で求められねばなら ないのである. 総 じて, 直面する日々の具体的な現実生活に対する行為・行動の指導およ び行為・ 行動と結合した認識の指導が作者主体の 「生活意識の網」 を強固にしたり, 変更・修正をせまるの である. すなわち, 現実生活を観念や解釈の対象として設定するのではなく, 実践や行為・行動の 対象として設定していくことが重要なの である. このようにみる と, 村山の生活綴方創 作における形象化 重視の際の「作者の生活意識の網」とは, その過程に実践や 行為・行動をも展望する現実生活の表現と認識であっ たといえる. この点につい ては, 村山は 「取材角度と綴方の方 法」 (雑誌『実践国語教育』1936年6月号) という論文の中 で生 活綴方における生活認識の過程を指摘 しつつ,「題材重視の綴方は, 即ち現実生活認識のプロセスで ある. 生活する--思考し感情し行動する --人間として, 現実生活を 『作品表現』 という存在の 様式をとって対象化させるところに綴方と しての生活認識 があり, 生活実践があると考 える, だか ら, 表現技術という ものは 一つの生活技術であり, 子どもなら子 どもなりに 生活文化の生産 技術で あるし特定の歴史的, または社会的内容 を具えることは 争われない. そして子どもが綴方という 一 つの生活技術をとおして自分たちの生活文化を発展させていくことはちょう どおとなが芸術の 実践 によって人間としての文化を練り上げていくのと等しい活動 であり, むしろおとなの芸術的活動以 2 6 )と述べているように 生活綴方それ自体を, 現 ( 上に広汎な生活的意義を持つものである と思う.」 , 起していることからも明瞭 践の問題として提 生活技術や生活実 実生活上の文化を発展させるための ) は, その である. つまり, 村山のリアリ ズム論 (新しいリアリ ズムと しての 「生産的リアリ ズム」 識 を含みつつも ) 論 ( 形象的表現・認 ズ 表現論・認識 表現論・認識論においてはリアリ ム芸術の , 生活実践論・生活創 造論のテーゼでもあっ たと考えられるのである. しかし, 戦後生活綴方運動の 主流的実践と理論化は, 以上のような村山の提起を継承・発展させ ていない面がある. たとえば, 戦後生活綴方運動の 出発 期こおいて幅広く影響を与えた国分一太郎 0年) においては, 次のように生活綴方の 教育方法論が提 起されている. 1 95 著 『新しい 綴方教室』 ( 「それでは, ひとくちにいっ て 『生活綴方の教育方法』 とは, どのような方 法であっ ただろう か?かんたんにいいき れば, 現実直視, 現実把握の方 法だ. まず自然およ び社会の生きた事物を, 子どもたちの 感覚や行動を通じて, 生き生きと把握させることに出発する方法だ. そこを出 発点 として, 人びとを, 子どもを, かしこく して いく方法 だ. 物の見方や考え方を, ゆたかに, ま っ 2 7 ( ) すぐに, 新しく していく方法 だ.」 ここに端的に示されているように, 国分は生活綴方の 教育方法の特質を 「現実直視」「現実把握」 の方 法およ び「物の見方や考え方」の育て方の指導として強調 している. また, 「子どもたちの感覚 や行動を通じて」 という 「行動」 の指導も指摘 しているが, それは自然・社会の把握の一過程や手 段 (介在物) としての位置 しか与えられていない. すなわち, 行動の指導が現実生活営為の目標と して把握されなかっ たのである. 以上のように, 国分は, まず, 生活綴方を現実世界 (自然・社会) に対して の直視・把握と 「物の見方や考え方」 の育成という 認識論的レベ ルにおいて特色づけるこ とによ って, 現実世界を実 践の対象にすることを脱落させていっ たのである. そして, 次に, 国分 は以上の 「現実把握」「現実直視」 や 「物の見方や考え方」 の育成をそれ自体に関しても, 「物の見 方や考え方」 という考え・認識からさらに具体 的な現実生活の姿・形・動きを形象化する際の認 識 20.

(10) . 教育課程の研究と社会科学. 過程 (上記の 「出口」 の感性的認識~一度直視・把握した現実生活の直視なおし・把握なおしを通 して, 自己の現実生活の進展を概括・展望し, その実践の可能性を認識していくことなど) を脱落 させるのであっ た. つまり, 具体的な現実生活の姿・形・動き→見方・考え方の形成という, 形象 的表現・認識における 「入口」 の感性的認識の形成のみに重点がおかれるようになっ たのである. ここに, 戦後生活綴方運動の主流が生活綴方の特質を, 「真実をつかませる」「ほんものをつかま せる」「ありのままにみさせる」 等々 と主張しつつも, 「物の見方や考え方」 の育成に解消化したこ とは, 戦前の生活綴方の発展・継承において二重の変質 (生活実践の脱落, 形象的表現・認識の脱 落) を含んでいくようになっ たことを指摘しなければならない, ( 2 ) 形象的表現・認識をめ ぐる典型化 さて, 村山の新しいリアリズムとしての 「生産的リアリズム」 にもとづく生活綴方創作 の際の形 象化重視を検討する場合, もう一つ明かに しなければならないものとして, 「典型化」 「典型創造」 がある. 村山は,「人物描写ということも従来の如く素朴な写生主義的指導観から, もう一歩おし進 めて, 生活的に生きた人間, 人物, 生活の典型的人間, 人物を積極的に描かせる指導が必要であろ う. (中略) 主要人物の実際行動を描こう が, その心理的活動を描こうが人物描写指導の重要さは, いかに生活をおし進めていくかという時代, 社会に於ける生活的典型的人物としての創造性を持 つ 2 8 ( )(上掲 「描写技術の指導」 ) と, 典型化の描写指導を「生活的に生きた ことでなければならない.」 人間, 人物」「生活をいかにおし進めていくか」 という文脈の中で指摘している. 一般に, 形象的表現・認識における典型化とは, 多くの多様多種の事実の中で偶 然的なものは消 去し, 本質的なものは誇張するという作業に立って,個々の事業を組合せると同時に, これらの個々 の事実を通じて現実の本質的側面をうきぼりにしていくもの である. 多くの多様多種の事実が存在 するとき, いずれも平等に描くことがあながち正確 ではない. 現在は存在してもやがて滅びていく 傾向・可能性のある事実と, 現在は小さくてもやがて大きく 成長していく傾向・可能性のある事実 とは区別されなければならない, そして, 現在は小さくてもやがて大きく成長する傾向・可能性の ある事実に対しては, それを現実世界の姿・形・動きとして誇張的に描く場合, 平板に事実を並列 するよりも明瞭かつ生き生きと現実世界を再現化していくことになる. これが典型化・典型創造 で ある. したがっ て, 典型とは以上のような描写によ っ て普遍性にま で高められた個別性といえる. それは, 普遍的な概念とか思想 (イ デオロギー) によ って個々の事実を整理したり, 類型にはめこ んで描かれるものではない. あくま で, 事物・事件・人物の生き生きとした具体的・単独的な姿・ 形・動きという形象の中に, 普遍的なものがあらわれてくるものでなければならない. ところで, 村山が新しいリアリズムとしての 「生産的リアリズム」 の生活綴方において, 以上の ような典型化・典型創造と 「現実以上の現実」 の形象化を要求していたことは注目されるが, そう した生活綴方指導によ って何を期待していたのだろうか. 村山は1 937年に 「綴方教育の反省」 (雑 誌 『教育週報』 1月号)「綴方への反省--リアリズムと倫理」 (雑誌 『実践国語教育』 5月号) 「生 活綴方への反省--ヒュ ーマニズム・批判精神と綴方の問題」 (雑誌 『実践国語教育』10月号) とい う, 三つの 「反省」 の題目の論文を発表している. ここでは 三番目の 「生活綴方への反省」 を検討 してみよう. 「私たちが生活綴方を, 人間性という立場に於いておし進めようとすることを, も っ と砕いて いえば, 横に現実的な生活実践性を, 縦に浪漫的な方法を発見することだということができる. だから私たちは, 児童の綴方をとおして生活をおし進め, よりたかい生活へと組織する場合, 現 実のリアルな生活認識のうえに, ヒューマニズム・批判的精神を育てることによってのみ, 生活 21.

(11) . 遠 藤 芳 信. 綴方の正しい時代的な発展を期することができる.即ち生活を描くことは生活を観るためであり, 生活を発見し, よりたかい生活をつく りあげていくためにのみ意義がある. 生活の夢も理想も, 2 9 ( ) こ こ か ら の み正 し い 在 り 方 を す る.」. 村山は以上のように, 生活綴方を 「現実的な生活実践性」 と 「浪漫的な生活の理想」 の発展的把 握を通して 「生活をおし進める 人間的な方法」 の発見として位置づけている. この場合, 上記引用 中の 「生活の夢と理想」「浪漫的な生活の理想」 はさらに次のように詳述されている. すなわち, 「私たちは, 生活綴方の硬化症として批判を受け つつある空想, または想像, 夢を超経験的な ものとは思わない, われらの立場に於けるそれは, あくまで経験を正視するてだてにほかならな い. それは経験を見る眼を常識の覆いから解放するために要する飛躍である. 童心主義者の追い 3 0 { ) 求めたロマンの華では ない. 現実をすすめるためにのみ, 夢をみる. 空想する, 飛躍する,」 と, 「夢」「空想」「飛躍」を指摘している. ここ で強調されている「夢」「空想」「飛躍」の指導は, 現実生活の発展の可能性・必然性の拡大誇張的描写としての典型化・典型創造の作業によって導か れるものである. かく して, 以上のような村山の新しいリアリズムとしての 「生産的リアリ ズム」 の生活綴方にお ける典型化・典型創造が目的とする 「生活の夢と理想」「空想」「飛躍」 を, 上述した形象化や形象 的表現・認識の過程のサイ クルに合わせると次のようになる. すなわち, 現実生活の具体的な姿・ 形・動きが生活意識の網を通過→形象的認識の形成→リアリ ズムとロマンチシ ズムの結合によって 現実生活の具体的な姿・形・動きの典型的な形象として表現 (典型化・典型創造~現実生活を実践 するための夢・理想・空想・飛躍の拡大誇張的描写)=現実生活の把握なおし・感じなおしとしての 概括と展望の喚起‐一生活実践, というサイ クルになる.. V. 生活綴方と実践 (その1). 以上のような村山俊太郎における新しいリアリ ズムとしての 「生産的リアリ ズム」 にもとづく生 活綴方の表現と認識は, 戦後生活綴方の実践においても部分 的にはあらわれている, ただ, 戦後生 活綴方の主流的理論化や実践者当事者は, そう した指導には無関心であり, 気づかなかっ ただけの ことである. たとえば, 無着成恭編『山びこ学校』 ( 1951年)には, 江口江一が書いた「母の死とそ の後」 という綴方作品が収録されている. そこ では, 自己の母の死去によっ てさらに貧困状態にお ちいっ た時において, 農作業のために学校欠席を余儀なくされていた江口江一と, 教師無着成恭と の次のような議論・対応過程が描かれている. 無着先生から--「今, バイ夕背負いしているのか.」「今, 何日かかるんだ.」「それが終っ たらな んだ.」「葉煙草のし.」「そり や何日ぐらいかかるんだ.」 「わからない.」 「わからなければ去年の日記を出してみろ.」「去年の日記さそんなこと書いていない.」「だめだ. 日記さ, ちゃんと今日から葉煙草のしを始めた, 何日間かかるか, 毎日書いて, 次の年, 計画が 立てられるように つけるんだ. 今日からさっ そくつけろ.」 「葉煙草のしが終っ たら何だ.」 「雪 が こ い.」. 「それが終っ たら何だ.」 22.

(12) . 教育課程の研究と社会科学. 「それが終わると学校に行けるかも知 れない?」 「なんだ, それじゃ 二学期は ほとんど来れないじゃ ないか. 明日水曜日 で米配給だろう.」 「そしたら午前中, 学校さ来い. そしてもう一カ月半も学校に来ないんだから, みんなに顔を合 わせて, お母さんが死んだとき義憲だ心配してく れたんだからお礼の一つもいいなさい 」 . 「それから, 明日まで仕事の計画表をつく っても ってこい.」 等々, ポンポンいわれたので, なんだか気持がすう っ と明るくなっ たような気がして, その夜 は十二時ま でかかっ て, 「ほんとに どのくらいすればいいのかなあ.」 などと考えながら仕事の予 定表を作ってみました. 作ってみると先生からいわれたとおり, 十二月は一回かよく いっ て二回 1 3 ) { しか学校に行かれないことがわかりました. 無着は, 江口江一の母が借金を残して死去し, さらに貧困がきびしくなっ た現実生活に立脚しつ つ, 第一に, ほぼ一カ月間の農作業と仕事を中心とした生活の実践の見通しを江口江一に明かにさ せている. 第二に, そして, 当面, 今日, 今から具体的に何ができるのか, 何をしなければならな いのか, という行為・行動の目標やその実践の可能性・必然性を明かにさせている. 以上のように, 無着は, そうした将来の生活の営みと直面する現実生活をいかに実践するかということを教え るこ とによって, 江口江一は, 「なんだか気持がすっ と明るくなっ たような気がして」 いくの であっ た . 以上のようなリ アリ ズムの生活綴方における表現と認識の指導においては, 現実生活・客観的な 生活環境 (貧困など) それ自体を子ども の力によ って変更・修正することは困難かつ不可能な面が 圧倒的に多いが, 現実生活・客観的な生活環境が生み出すところの種々の思想・行動・人間関係 (退 廃的な思想・考えや怠学・非行化など) は変更・修正することができ ると考えていっ たのである . その場合, そうした現実生活・客観的な生活環境が生み出すところの種々の思想・行動・人間関係 の変更・修正の基盤になるものは, 上述したような形象化や形象的表現・認識の過程のサイ クルに, ひとえにかかわっ ていくだろう.. I 生活綴方と実践 (その2) -- 坂元忠芳の生活綴方論の問題 点 -- V 1 9 70年代以降, 生活綴方を積極的に理論化しようとした研究者の一人に坂元忠芳がいる. 坂元の. 生活綴方観は, 坂元独特の言いまわしとしての「内面」「人間関係」「人間的立場」「生き方」「本音」 などの言葉を組み立てつつ説明されている. たとえば, ① 「人格をまるごとつかみ, その内面をありのままに表現させながら, 内面に働きかける生活綴 3 2 } (以下略は遠藤) ( 方教育の思想 (以下略)」 ② 「生活綴方教育は (中略) 子どもに文章表現の能力を獲得させていく だけでなく, それによ っ て子ども自身が, 現実生活をより深く認識し, さらに自己の生き方を, いっ そう確かなものに 3 { 3 ) (中略は遠藤) することを目 ざしてきた.」 ⑧ 「生活綴方のリアリズムは, 子どもの, 喜び, 悲しみ, なやみ, 苦しみなど, 内面のありのま まを, それを必然的にひきおこ した客観的状況との関連で追求する方向性をもつの である, 生 活綴方が生活を綴ることを通して, 書き手の人間形成に対してもつ 決定的な意味は, 書き手が 自己の内面の真実 (本音) を客観的な人間関係のなかで明らかにし, そのなかで, 自己の生き る目的や動機の体系, いっ てみれば, 人格の中軸の形成への意識, 自己意識をしだいに育てて いく こ と に あ る.」@). 23.

(13) . 遠. 藤. 芳 信. ④ 「生活綴方教育は子どもにありのままの生活を表現させることをとおして, その人間的立場の ( 3 5 ) 発達をうながし, その発達の方向性を彼ら自身の内面に意識化させることをめ ざしてきた.」 (以上, 下線は遠藤) 等々 である. 以上の坂元における生活綴方観には, 特に「内面」「人間関係」「人間的立場」「生き 方」「本音」 などをめぐって, かなり未分化的な把握がみられると考えられる. 第一に, 戦前の生活綴方の評価とも関係してくるが, 「生き方」の問題がある. 坂元が, 生活綴方 を 「子どもが, 生活を綴ることをとおして, 自分の生活の矛盾を見つめ, それにたちむかい, それ 3 6 ( )と評価するとき 生活綴方は人生論的把握としての生き方一般に拡散・解消 をのりこえていく.」 , される傾向におちいらないだろうか. リアリズムとしての生活綴方の表現と認識における「生き方」 の指導とは, 本稿 でも述べてきたよう に, 直面する日々の現実生活への実践や行為・行動に子ども たちを奮闘させること (の表現と認識) を通して, 将来・未来を見通し, 展望させること である. 3 7 )ことになっ ていくのである ( また, そのことによ っ て, 「現在を生き抜くことが将来を準備する」 . したがっ て, 「生き方」 が将来的な見通し・展望となっ てあらわれてくる場合, それは, あくまで, 直面する日々の現実生活への具体的な実践や行為・行動に根 ざしていなければならないのである. すなわち, 直面する日々の現実生活への具体的な実践や行為・行動に深く根 ざし, 立脚することを 考慮しない 「生き方」 (坂元の指摘するところの, 「生活の矛盾を見つめ, それにたちむかい, それ ) は観念の世界での 一般的な 「生き方」 に拡散していくのである. をのりこえていく, 生き方」 次に, 坂元における, 「子どもが, 生活を綴ることをとおして, 自分の生活の矛盾を見つめ, それ にたちむかい, それをのりこえていく, 生き方を追求する」という指摘それ自体を検討してみよう. 生活綴方に対するこのような評価は, 生活を綴っ た結果, 生活の矛盾なるものが明かにされた場合, その矛盾にたちむかい, その矛盾をのりこえる生き方が直線的に育成されるという把握におちいり やすい. ここ で, 矛盾なるものが明かになり, 矛盾を見つめた場合, 問題はそこから先にある. た とえば, 矛盾なるものを見つめた場合, その矛盾から逆に逃避したり, 挫折する場合が発生してく ることも予測 できるのである. また, 矛盾それ自体も, 子どもの力だけ では解決・解消できない性 格・範囲のものもある. そうだとするならば, そこから逃避・挫折を誘起する矛盾や解決・解消の 困難・不可能の矛盾を予測・考慮しないところの 「たちむかい」 や 「のりこえていく」「生き方」 の 育成は, すなわち, 生活を綴る・矛盾を見つめさせる→生き方の追求は, 生き方を一直線的に追求 するものとして, 精神や心情のみを責めたてるものとして機能していかないだろうか. 矛盾にたちむかい, 矛盾をのりこえていくには, そうした 「たちむかい」 や 「のりこえる」 ため の 主体的力量の形成が伴わなければならないことは当然である. また, 逆に, そうした主体的力量 の形成および力量への確信・自信の深化に伴ないつつ, 矛盾にたちむかい, のりこえていく決意や 見通しが形成されていくのである. そうだとすると, そうした主体的力量の形成はどこでどのよう にして準備されるのだろうか. 筆者はそう した主体的力量の形成の内容を統治者志向をもつ基礎 的・基本的な学力の形成と民主的な行為・行動の能力として把握できると考えている. 戦前の生活 綴方や生活教育の中で主張されてきたところの, 生活技術・生活文化と称された技術・文化の形成 も日々の現実生活の具体的な行為 4テ動への奮闘とかかわっ て提唱されてきたもの であり, 上述の ような主体的力量の形成の重要な内容に相当するのである. すなわち, 筆者は, 生活の矛盾なるも のを見つめた場合, そこから矛盾に対する種々の方向性や構え方が発生してくることを予測・考慮 しつつ, 日々の直面する現実生活への具体的な実践や行為・行動に子どもを奮闘させることを通し て, 現実生活・客観的環境から発生してくる種々 の偏見や人間と人間との交わり関係などを変更・ 24.

(14) . 教育課程の研究と社会科学. 修正し, 将来に対する見通し・展望を育成すると考えるのである これに対して 坂元が 「生き方 」 . , と称するものは何だろうか. @思想・イ デオロギーにかかわる世界観の意味における 「生き方」 な のか, ◎人生観の意味における生き方なのか ⑭精神・心情にかかわる 「生き方」 なのか ⑭現実 , , 生活の実践や行為・行動にかかわる 「生き .方」 なのか ◎それとも⑦尺倫児 ぬ ×⑭を混合させた 「生き方」 , なのか. 以上の 問題点が明確にさ れることが求められている . 第二に, 坂元が指摘する 「客観的な人間関係」 とか 「人間的立場」 の 「関係」「立場」 の性格・範 囲はいかなるものだろうか. 筆者としては 生活綴方におけるそれらは 本稿注記( 2 4 )でも指摘した , , ように, むしろ, 私的個 人としての交わり関係的な人間 関係 であり 一身上 的な立場としての人間 , 的立場であっ て, そうした関係における 「客観的」 なるものも私的性格が強いと考えている ( 3 8 ) . 第三に, 第一の問題とも関係するが 「内面」 の性格と範囲の問題がある すなわち ④思想 イ , . , デオロギー と関係する世界観の意味における 「内面」 なのか ◎人生観の意味における 「生き方」 , としての 「内面」 なのか, ⑭精神・心情としての 「内面」 なのか ⑭それとも⑦◎⑭ を混合させた , 「内面」 なのか, ということ が明確にされる必要があろう ところで 坂元は 内面を出し合うこ . , , とのできる基盤 (集団・社会) と生活綴方とを結 びつけて 次のように発言している , . 「ぼくは, 理想主義的かもしれないけ ど 社会が全面的に解放さ れるなか で人間が互いに内面 , を全面的に出 し合っていくような新しい集団が できる そういう社会 で可能になるようなことが , らを, 生活綴方はやろうとしているんだといえると思うん です 」 3 9 ( ) , ここ で, 坂元は 「社会が全面的に解放される」 という社会 で 「内面」 を全面的に出 し合うことの 意義を どのように把握しているのだろうか むしろ 「内面を全面的に出し合う」ことそれ自体が無 . , 限的に自己目 的化されてはいないだろうか 「内面を全面的に出し合う」ことは大変結構なことであ , る. しかし, 問題はそこから先にある すなわち 「内面を全面的に出し合」 た時 それぞれ個々 っ . , , 人の内面が異っ た場合はどのようにすればよいのだろうか あるいは 「内面を全面的に出し合う」 , , ことそれ自体が自 己目的的に 追求され 一種の起爆剤 的契機になって何かが一挙に解決さ れること , を期待しているのだろうか 問題は 思想・信 条の自由や感 情・心情の多様性 の保障およ び 内面 . , , を出すことも出さないことも自由であることを基盤に しつつ 広範多様な出身階層・職業の人々 が , 共同の生活の向上にとりくみつつ自己形成していく ことが重要な課題と して提起されてくるの では ないだろうか.. (注) 1 ( ) 拙稿「教育課程の研究と .社会科学 - 戦前における 『教育課程』用語の成立と教育活動の領域観」 北海道教育 大学紀要第一部C 1巻第2号, 19 8 1年, , 第3 ( 2 ) 日本作文の会・村山俊太郎著作集編集委員会編 『村山俊太郎著作集』 第2巻 1 96 7年百合出版. , 47ページ, 1 以下, 『著作集』 第2巻, 『著作集』 第3巻 ( 19 6 8年) と略記する. ( 3 ) { 4 )『著作集』 第2巻, 1 1 5 7ページ, , 14 ( 5 ) 杉山明男 「生活綴方と集団主義教育」 小川太郎編講座集団主義教育3 82ページ 1 7年, 明治図書. , , 96 ( 6 ) 小川太郎 『生活綴方と教育』15 0~15 1ページ, 1 96 6年, 明治図書, など. ( 7 X8 X 9X 1 o 1 1 ) ( )『著作集』 第2巻, 85 7 0 3~1 06 1 0 ,8 ,1 ,1 , 88ページ, 中略は遠藤, 1 2 ( ) 戦後, 文学上のリアリズムから生活縦方の表現描写指導を追求したものとしては 土器屋忠治「生活綴方に , よる新しい人間創造」 (雑誌『作文と教育』195 4年1 1月号) , 遠藤豊吉「生活綴方批判に対する反批判 リアリズ ムと文章論」(雑誌『作文と教育』1 96 2年8, 9月号) , 吉良敏雄「文学的表現」(日本作文の会網講座生活縦方3, 生活綴方の指導体系1 1 61年, 百合出版) などがある. , 19 ( 1 3 1 4 1 ) ( X 5 ) { 1細め 『著作集』 第2巻, 1 13 17 1 8 4 4 42ページ. ,1 ,1 ,1 ,1 25.

(15) . 遠 藤 芳 信 1 ( の 村山が「国家社会を前進せしめる」 と指摘する際の「国家社会」 と 「生産的能力」 との関係把握については, 当時の 「生産力理論」 の影響があったことはいうまでもない, そして, 東北の生活綴方教師が 「生産力理論」 と の関係で果した実践内容はさらに独自に検討される必要がある. 中内敏夫「太平洋戦争下の生活綴方運動」(雑誌 『教育』1 968年11 ,月号) 参照, 2 42~14 3 偶 1 ) 『 著作集 』第2巻 1 9脚D ( , 151ページ, 中略は遠藤. 村山は自己が指導した生活綴方の作品の中 ,2 ,1 で, 生活意欲によって貫かれた現実性の描写としての作品を次のように紹介し, 批評をしている. 村山俊太郎『生 936年) 活童詩の理論と実践』1 . 「日ぐれになると私は忙しい 小さい妹の守りをしながら飯じまいをする 鍋の味噌汁がぐだぐだねたつ頃 とうさんは土方からかえってくる かあさんと姉さんは工場からかえってくる み ん な働 いて か える. 腹がぺこぺこでかえる 私は二分しんのランプを明るくしてまっている 私の腹もぐう ぐうする ああ, こんな時 味噌 汁の に お い は とて もい い な. (尋 六女). (中略) 作者は朗らかに澄んだ明るさにいる, 働くことに愉快さを持っている. この夕方の作者の行為から るものこそほほえましい生活者のみがもつ愛情ではなかろうか, (中略) 生活詩の現実性 朗らかに呼びかけてく‘ は, 単なるあるがままの描写ではない. 生活性によって生活意欲によって貫かれた現実性のいわれである. そこ 30ページ, 中略と傍点は遠 には単なるありのままから, 『あるべき』現実への飛躍がある,」『著作集』第2巻, 2 藤. 68年, 啓隆閣, など. 0 3ページ, i9 偶の 村上嘉隆 『芸術論の学習』2 6 9年, 啓隆閣, 3ページ, 19 岡 村上嘉隆 『美学における唯物論』2 回 ただし, このサイクルにおける 「生活実践」 の性格と範囲は, 私的個人間の交わり関係や一身上の生活の実 践が濃いものと考えられる. 形表的表現・認識におけるリアリズムが, 実践や行為・行動固有のリアリズムに転 化するには, さらに指導の努力が求められる. 実践や行為・行動固有のリアリズムにおいては, 既知の部分に大 胆に依拠し, 当該対象に行為 イテ動を通して働きかけることによって, 当該対象の未知の部分および自己自身が 一歩一歩認識されていくからである. 筋 1 962年の日本作文の会の活動方針など. 4ページ 3 回 『著作集』 第2巻, 1 95 7年増補版, 新評論. 72ページ, 1 例 国分一太郎 『新しい綴方教室』3 52ページ. 中略は遠藤. 園 『著作集』 第2巻, 1 0ページ 7 α 樽0 ) 『著作集』 第3巻, 3 9 ,4 6年, 増補改訂9版, 百合出版. 7ページ, 196 ( 1 ) 無着成恭編 『山びこ学校』26~2 3 97 6年, 新日本出版社. 8ページ, 1 例 坂元忠芳 「全面発達の思想と民主教育」 講座・日本の教育3, 22 ペ 青木書店 1 9 8年 ージ 7 生活綴方 3 8 』 餌樽4 ) 坂元忠芳 『子どもの発達と , , , , , 9年, 岩波 G 櫛 坂元忠芳 「少年期における発達の特徴と教育」 岩波講座・子どもの発達と教育5, 42ページ, 197 書店. りの4ページ. G 岡 注懲 2ページ, 1960年, 青木書店, V 怨 め 城丸章夫 「教育課程の社会的背景」 講座・教育I ,9 97 7年, 日本標準. 拙稿「自治的活動の 4~16 8ページ, 1 ( 繍 拙稿「生活指導研究の発展」新しい教育技術1, 16 ペー 日本標準 1 9 9年 7 15~32 0 ジ, 指導」 講座・日本の学力10 , . ,3 8ページ, な 6年7月号, 1 7 ◎ 坂元忠芳/加藤文三対談 〈学力を生きる力にするには〉 雑誌『子どもと教育』19 めの文献の引用にもみられるように, 「本音」 を 「内面の真実 (本音)」 と指摘し, むしろ肯定 お, 坂元は, 注記栂 的に把握している. こうした 「本音」 の把握は, 坂元のみに該当するものではないが, 永井潔が 「いかなる本音 か, いかなる建前かを不問にして, ただ建前より本音がいいというような評価は一般社会生活でも無意義だと私 4年, 大月書店) と指摘しているように, 「本音」 なるもの 97 『芸術の伝統と創造』154ページ, 1 は思います.」( いのではなかろうか, その意義・内容が薄 それ自体の絶対的肯定的評価は, (本学 講 師・函 館 分 校). 26.

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