西鶴と生類憐みの令
1﹃世間胸算用﹄を中心として
十
井
頂
西鶴は、天和二年︵一六八二︶に﹃好色一代男﹂を刊行して浮世草
子作家として出発するが、元禄六年︵↓六九三︶八月十日に五十.一歳をもって没したので、その後の作家活動は十一年間しかなかった。し
かし、その期間に後世に残る名作を矢継ぎ早に刊行したことは、周知
の通りである。ところで、西鶴が浮世草子作家として脚光を浴びた期間のほとんど
は、綱吉の悪政として名高い生類憐みの令が発布されていた期間と重
なるのである。生類憐みの令は、貞享二年︵一六八五︶に初めて発布
①
され、それから二年後の貞享四年には本格的に強化されたものと考え
るのが一般的であるようである。この法令は、綱吉が宝永六年︵一七
〇九︶一月十日に死去すると、法の永続を強く命ずる遺言があったに
もかかわらず、ただちに廃止された。二十三年半もの長期間に亙って
人々をいかに苦しめたかは、新井白石が﹃折たく柴の記﹄の中で次の
ように如実に語っていることから、容易に推測される。 此事によりて、罪かうふれるもの、何十万人といふ数をしらず、当時も御沙汰いまだ決せずして、獄中にて死したるものの、屍を
②
塩に漬しも九人まであり、いまだ死せざるもの、また其数多し、本稿では、そのような状況下にあって書かれた西鶴の作品、特に
﹃世間胸算用﹄に、生類窄みの令がどのように投影しているのか、更には、西鶴はそれに対してどのように考えているのか、ということにつ
いて少しく述べてみたいと思うのである。 二西鶴の作品と生類望みの令との関係について、近年、真正面から取
西鶴と生類憐みの令.西鶴と牛類憐みの令
③
りくんだ論文に、塚本学氏の﹁生類憐み政策と西鶴本﹂と、篠原進氏
諭
の﹁﹃世間胸算用﹄論 ﹁野ら犬め﹂と眩く老婆一﹂とがある。塚
本氏は、やや奇矯な犬の愛護令としてのイメージの強い﹁生類憐み令﹂というとらえかたではなく、生類の憐みに関連する︸連の法令をも含
めて﹁生類憐み政策﹂として把握する立場に塑ち、コ七、八世紀の歴
⑤
史過程のなかに、綱吉政権の施策の少なくもセ要な一面を位置づけ﹂ ようとされている。そのような観点から、生類憐み政策を、犬愛護策、鷹場制度の改廃の問題、山間部村落における野鳥獣対策の規制、捨
子・捨牛馬の禁止と行路病者の手当令などと広い視野に甑って考えら
れた。そして、最も重要な点として、生類苦み政策の意図したところ
⑥
は、人間精神の変革にあったと述べていられる。 さて、塚本氏は、生類重み政策を、萌芽期︵貞享三年以前︶、本格化 以後︵貞享四年以後︶、強化期︵元禄六、七年以後︶の三期に区分され、その上で西鶴の作口㎜の中に生類踏み政策がどのように投影している
か、ということについて検討された。すなわち、西鶴の作品に登場す
ることの少ない鷹場制度・野鳥獣対策・捨牛馬などの問題を除いて、 犬について記述した用例を次のように抽出されたのである。 ﹃好色一代男﹂ 天和.一年十月刊 三例 ﹃観覧大鑑﹄ ﹃西鶴諸国はなし﹂ ﹃好色五人女﹂ ﹃好色一代女﹄ ﹃本朝.一十.不孝﹂貞貞諸腰貞
口 .Lゴ ロ に] 口 了一子・子 .了一 了・二二二_兀
年年年年年
十六ニー四
一月号月月
月刊刊蘭島
刊三二ニー四
例再販例例
﹃男色大鑑﹂ ﹃武道伝来記﹄ ﹃日本永代蔵﹄ ﹃武家義理物語﹄ ﹃世間胸算用﹂ 貞享四年一月刊貞享四年四月刊
貞享五年一月刊 貞享五年.一月刊 一八禄五年一月刊ユ ニ ノ
条例例例例
二これから知られるように、西鶴は犬の描写を﹃武家義理物語﹄以後
急減させている。塚本氏はこの点に注目され、更に、﹃日本永代蔵﹄が貞享三年には成稿されていたという成立論を踏まえた上で、西鶴は生
類忌み政策本格化以前︵﹃日本永代蔵﹄まで︶と以後︵﹃武家義理物語﹄以後︶では犬に関する表現を違えてあり、本格化以後はそれを明らか
に抑制している、と指摘されたのである。﹃日本永代蔵﹄の成立時期に 571
ついては異説があり問題が残るが、何れにしても、西鶴は生類噛み政
策を意識して執筆したらしいことが窺われる。なお、本格化以後に描かれている犬については、次のように述べて
いられる。 この時期では﹃世間胸算用﹄︵元禄五年︶に、下駄をくべる老婆が﹁我が一代は一足にて増を明けんと思ひしに、惜しや片足は野良
犬奴に喰はへられ﹂︵一−四︶とあるのを、唯一の例外とするかにみえる。そしてもうひとつ例外をあげれば元禄三年十月践の﹃俳
譜特牛﹂で﹁子供が犬をかみ合せるにも黒が勝、白が勝と云﹂と
⑦
のたとえを引いているのが、無視できない。このように例外があることに注意されてはいるが、それでは西鶴は
その時期に生類憐み政策に対してどのように考えていたのか、という
更に一歩踏み込んだことについては明言されていない。しかし、﹁一連の西鶴本で、貞享末、元禄初年に、基調の変化があった。それは野蛮
で豪快で奔放なものから、秩序立った、こまやかな、そしてしみった
⑧
れた可憐な世界への変化であった。﹂と結論付けられていることを勘
案すると、西鶴の政治批判意識をあまり認めようとは考えておられな
いことが推測される。 一方、篠原進氏は前掲論文において、﹃世間胸算用﹄巻一の四﹁鼠の文つかひ﹂に記されている老婆のセリフ﹁野ら犬あ﹂について詳しく
検討されている。すなわち、右のことばに西鶴の政治批判意識を読み
取る説が多いのに対して、﹃世間胸算用﹄の執筆時期を元禄四年と考え た上で、その年には生類に関する禁令が意外に穏やかであり、従って、 ﹁野ら犬め﹂のことばに﹁生類憐みの令に対する西鶴の反発を期待する⑨
のは、多少、ないものねだりの感があると思う。﹂と、西鶴の政治批判 意識を認めない説を述べていられる。 三 ﹃世間胸算用﹄巻一の四は、貞享年間に執筆された話であるという説⑩
がある。吉江久弥氏は貞享四年以前とされ、渡辺憲司氏は貞享二、三
⑪
年頃とされる。もしそうであるならば、塚本氏がいわれる生類憐み政
策の本格化以前の状況を描いたことになるので、そこから政治批判を
西鶴と生類憐みの令読み取ることは少々無理で、従って問題は何もないことになる。しか
し、たとえ貞享二、三年に執筆された旧稿であっても、それを出版す
る時には、その時点における政治状況を判断して公表が可能かどうか
考えたのではなかろうか。とすると、成立論は一応措き、やはり出版
された元禄五年の前年を基準にして、この話の中に西鶴の政治批判意
識が込められているのか否か、考えてみることは可能であると思われる。西鶴は、生類食みの令が発布される前は、生類に対してどのように
考えていたのであろうか。貞享二年一月に刊行された﹃西鶴諸国はな
し﹄を見てみよう。巻一の七﹁狐四天王﹂は、姫路の米屋の門兵衛が
何気なく石を投げて小狐を殺してしまい、そのために復讐される話で
ある。また、巻四の四﹁驚は三十七度﹂は、鹿島の林内という者が女
房の止めるのも聞かず鳥を殺生していると、子供に悪影響が現れたと 56
1
いう話。これらは、生類の殺生を戒めている話として読むことができ
るであろう。また、これとは逆に生類愛護の恐さを描いている話もある。巻四の
七﹁鯉のちらし紋﹂は、内介という独身の漁師が鯉を十八年も飼って
いたところ、十四、五歳の娘の背丈程の大鯉になり、その後嫁いでき
た女房の前に化けて出たという話である。この最後に村人のことばと
して、﹁惣して生類をふかくてなれる事なかれ﹂と記している。これ
は、生類染みの輩下では到底考えられないものであろう。 ﹃西鶴諸国はなし﹄は、諸国の奇談・怪談などを収集して紹介しているので、そこから西鶴の創作意図を推測することはそれこそないもの
ねだりかもしれないが、それにしても、このように生類を殺生する話
三西鶴と生類憐みの令
と、逆に愛護のし過ぎを戒ある話とを混在させていることは、取りも
直さず、彼が生類について何のこだわりも持っていなかったという証
左である、といえるであろう。このように考えてみると、塚本氏が明
らかにされた生類憐み政策の本格化前に犬の例が頻出するということ
の理由が、理解されるであろう。その後、犬の記述を抑制しているこ
とは、塚本氏の説の通り、西鶴がそれを明らかに意識していると考え
てよいと思う。それでは、篠原氏が述べられるように、﹃世間胸算用﹄巻一の四に
は、西鶴の政治批判はないのであろうか。この点については、他の話
も含めて、もう少し検討してみる必要があるようである。西鶴と生類憐みの令との関係を考える上で重要なことは、当然のこ
とながら、西鶴が大坂に居住していたということの認識である。大坂
は、元和元年︵一六一五︶の夏の陣の後、伊勢亀山の松平忠明によって治められたが、忠明が元和五年に大和郡山に移封された後、幕府の
直轄地となって、伏見城代であった内藤信正が大坂城代として任ぜら
れた。この大坂の地で西鶴が政治状況を肌に感じたものは、老中から
発せられた法令が、大坂町奉行を通じて惣年寄から町年寄へという
ルートで伝達された町触と、人妻城代や町奉行によるその運用結果で
あろう。西鶴と政治の関係を考える場合には、この観点は是非とも必
⑫要であるが、宗政五↑緒先生の﹁西鶴文学の政治的背景﹂以外は、そ
の点を考慮にいれてあるものは少ないようである。とはいうものの、大坂の町触は﹃大阪市史﹄第三に載っているが、後比する﹁生類憐み
の令関係年表﹂から知られるように十分差はいいがたいこと、また特
四に最も知りたいのは、法令が大坂で一体どのように運用されたのかと
いうことで、それを窺うことができる例えば江戸の﹃御仕置裁許帳﹂のような資料が管見の範囲では見当らないこと、などの要因があって
研究は思うようにはいかない。従って、本稿でも従来紹介されている
資料に基づいて、大坂の西鶴について考えるには資料的不備を承知で
論述しなければならないことが、甚だ遺憾である。なお、生類苦みの
令とその発生を考えるたあの参考法令などを、三都が比較対照できる
ような年表仕立てにして﹁生類富みの令関係年表﹂としておいた。藤
⑬井譲治氏が紹介された﹃仰出国留﹄や、塚本氏が前掲論文で紹介され
た﹃被仰出留﹄︵共に内閣文庫蔵︶を調査せず、翻刻本を用いただけの 年表で恐縮であるが、参考になるところがあるならば幸いである。 四さて、本題にかえって﹃世間胸算用﹄の中に生類黒みの令がどのよ
うに投影しているか、ということについて考えてみよう。巻一の四は、﹁野ら犬め﹂ということば以外にも、生類盗みの令と密接な関係があ
る。この話の主人公である七十歳の老婆は、元日に堺の妹から年玉銀
一包をもらい恵方棚に置いていたところ、その晩紛失した。そこで諸神に祈願したり、山伏に祈博してもらうが一向に出てこなかった。と
ころが、それが年末の煤払いの時、棟木の間からひょっこり出てきた
のである。家の者は、そのお金は鼠が引いたものにちがいないという
が、老婆は全く信じない。それで息子は仕方なく鼠つかいの藤兵衛を
やとって、鼠の﹁文づかい﹂の芸を見せると、やっと納得したのであ
る。 老婆を納得させた鼠の見世物は、実は、﹃世間胸算用﹄が出版される 直前に禁止されていたのである。﹃御当家令条﹄によると、元禄四年十 月二十四日に、次のような生類の見世物禁止令が出されている。頃日町中薬売蛇をつかひ候もの有之、篭舎被 仰付候、へひにか
きらす、たとへ犬猫鼠等に至迄、生類に芸を仕付、見せ物に致候
儀可為無用、生類をくるしめ、不届候、工法背者有之は、急度可
⑭
為曲事宣旨被 不渡芦間、五言認可相守者也、 この法令は、墨黒の﹁生類憐みの令関係年表﹂から知られるように、江戸の町触はあるが、大坂と京都の町触は見当らないようである。し
かし、江戸のみに出された内容とも思われないので、大坂にも同様に
出されたものではなかったかと思われる。ここに﹁頃日町中薬売蛇を
つかひ候もの有之、篭里謡 仰下身、﹂とあることは、後掲の﹁生類憐 みの令関係年表﹂に掲げた﹃御仕置裁許帳﹄の元禄四年の条を見ると、蛇をつかって売薬をするいわゆる香具師の藤兵衛と、それに蛇を貸し
た同じ仲間の市右衛門が捕縛された記録が載っているので、恐らく彼
等のことを差しているのであろう。この生類の見世物の禁令について
は、次の注釈書類には何も記されていない。BA
暉峻康隆氏﹁鼠の文つかひ︵二︶﹂︵﹃国文学﹄第三巻第一二号、 藤村作氏﹃訳註西鶴全集﹄︵至文堂、昭和二二年一月刊︶。 昭和三三年一一月︶。 西鶴と生類憐みの令C
D
E
F
G
H
野間光辰氏﹃西鶴上下﹄︵日本古典文学大系、岩波書店、昭和 三五年八月刊︶。 前田金五郎氏﹃世間胸算用﹄︵角川文庫、角川書店、昭和四七 年四月刊︶。 神保五型氏﹃井原西鶴集三﹄︵日本古典文学全集、小学館、昭 和四七年四月刊︶。 麻生磯次・冨士昭雄氏﹃世間胸算用﹄︵対訳西鶴全集、明治書 院、昭和五〇年季月刊︶。 長谷川強氏﹃西鶴集﹄︵鑑賞日本の古典、尚学図書、昭和五五 年三月刊︶。 金井寅之助氏﹃世間胸算用﹄︵新潮日本古典集成、新潮社、平成元年二月刊︶。 54
1
前述したように、生類の見世物の禁令は、﹃世間胸算用﹄が出版されるほんの二ヶ月程前である。従って、この話の中に西鶴の政治批判意
識があったか否か、について考えることはむつかしいであろう。しか
し、強いて考えるとすると、この話の本文の章題は﹁鼠の文つかひ﹂となっているのに、目録の題名は﹁若書の文つかひ﹂となって、芸を
する鼠であることが強調されているから、あるいはこの禁令を意識し
て読者受けをねらって変更したものかもしれない。他に章題と目録の
題名とが異なるのは、次の二話だけである。 二三の二 白兎 ﹁年の内の餅ばなは詠め﹂目録 ﹁餅ばなは年の内の詠め﹂
五西鶴と生類憐みの令 第四の四 章題 ﹁長崎の餅柱﹂
目録 ﹁長崎の柱餅﹂
二話共に語順が違うぐらいのもので、﹁鼠の文つかひ﹂の方は特別な 意識が働いたように思われるのだが、考え過ぎであろうか。﹁鼠の文つかひ﹂に登場する老婆のキャラクターをめぐってこの話
⑮
の解釈が分岐するが、小娘のようなチャッカリ者の老婆を納得させた
鼠の芸が、当時の読者達にとっては既に見ることができなくなった物
であることを考えると、当時の読者達の中には、作者が御政道を批判
しているととった者もあったのではないかと思われる。 五生類憐みの令に密接な関係がありながら、従来見落とされている話
がある。第二の四﹁門柱も皆かりの世﹂がそれである。この話は、京
都の大宮通りに住む五十六歳の男が、唐丸を殺して借金取り達をうま
く退散させたが、一人残った材木屋の十八・九歳の小者に門口の柱を
はずされるという実力行使を受け、仕方なく借金を完済するが、その
小者にもっと有効な借金取り撃退法を伝授されるというものである。ここには、命しらずのごろつきみたいな男から、女のような青年がま
んまと借金を取り立てるという意想外の面白さがある。ところで、こ
の男が最初に借金取り達を退散させた狂言であるが、西鶴は次のよう
に書いている。六
︵略︶狐付の眼して包丁取まはす所へ、唐丸背ならして来る。おのれ死出のかどでにと、細首うちおとせば、是を見て掛乞ども肝を
つぶし、無分別ものに言葉質とられてはむつかしと、ひとりく
帰りさまに、茶釜のさきに立ながら、あんな気の短かひ男に寒し
やるお内儀が、縁とは申ながらいとしい事じゃと、おのくいひ
捨て帰りける。問題は、唐丸の細首を打ち落とした行為なのである。この部分に対
する諸注釈書の記述を掲出すると、次のようになる。前掲注釈書の書
名を略し、符号でそれを示すことにする。HFEDCA
唐唐唐唐唐唐
丸丸丸丸丸丸
死出のかどでに
﹁黒の羽色で、肥大な鶏の一種。﹂ ﹁長鳴鶏の一種。﹂ ﹁鶏の一種。大型で闘鶏に用いる。﹂ ﹁長鳴き鶏の一種。形が大きく、羽は黒色。﹂ ﹁鶏の一種。形は大きく色は黒。闘鶏に用いる。﹂ ﹁中国原産の大型で尾の短い、闘鶏用の鶏。﹂﹁死出の山への旅の出立に、犠牲を殺して
神にささげようと。死出の山は、死後に行く冥土にあ
る山。﹂右から知られるように、金井寅之助氏の新潮日本古典集成﹃世間胸
算用﹂のみが、﹁死出のかどでに﹂にも注をされているが、あとは皆
﹁唐丸﹂についての説明だけで、ここが生類憐みの令に関わることについては、一切触れられていないのである。
生類憐みの令というと、犬のみが強調されるきらいがあるが、その
他、馬、鳥、魚、貝などまでもその対象とされたのである。﹃御当家令 条﹄によると、貞享四年二月二十七日に、次のような法令が出ている。 為食物魚鳥生置候て商売仕儀、向後堅無用、鶴亀同前事、 卯二月二十七日如斯御書付出候上は、自今以後、為食物生鳥生魚かたく商売三間
敷候、但為慰飼鳥飼魚ハ各別候、鶴亀貝類に至迄、為食物ハ一切
⑯
不可上置候、此旨於相肩は、可為曲事者也、この御触は魚屋達に衝撃を与えたらしく、早速に処理した者達がい
たようで、それを轡める町触がすぐ翌日に出されている。﹃重宝事録﹄ に、次の如く記されている。 昨日御触二付、ロハ今迄飼置候鳥、俄目しめ午前者可有之候、為食物いけ置候魚鳥、俄二軸候儀無用二仕へし、若しめ殺候もの有之
候ハ・、曲事二可被仰付候、井いけ高いけ洲二而無押鯛共、貝類
道外含蓄海老なとのいきたるを商売不屈成浅間、右之通町中不残
可被筆触候、以上⑰
卯二月二十八日これらの法令から、犬以外も鳥や魚などの殺生を厳しく禁止してい
たことが知られたであろう。この点を考慮に入れて始めて、﹁是を見て掛乞ども肝をつぶし﹂とある表現の意味が理解されるのである。掛乞
西鶴と生類憐みの令達は、男が狐付の目をして包丁を振り回しているから、身に危険を感
じて﹁肝をつぶし﹂たというのではなく、生類憐みの令を破った男に
関わって処罰されることの恐怖心で﹁肝をつぶし﹂たのである。鳥を殺して受けた刑罰は、江戸ではあるが﹃御仕置裁許帳﹄に載っ
ており、その具体例が知られる。詳しくは後掲の﹁生類憐みの令関係
年表﹂を参照願うとして、ここでは貞享五年一月二十日目一例を掲げ
ておこう。弍人 与四兵衛 伊右衛門
是ハ増上寺門前平左衛門店異者、右与四兵衛儀、鶏をしめ商売
仕候を承届候由二て、びんつる三平井彦兵衛、四郎左衛門、孫
助溶出候付、召寄、遂愈議居処、与四兵衛申候ハ、新堀同朋町
家主ハ不知与兵衛と申者口無拠被頼申候心付、伊右衛門義ハ芝 52
1
神明社内え飴売二罷出候間、伊右衛門を頼候ヘハ、死野鶏を二
羽持参申候故、右翼与兵衛二相野景ヘハ、銭壱貫文くれ見地、内弍百文伊右衛門二遣造出薩摩、伊右衛門義ハ与四兵衛二被
頼、神明社内二型候鶏二羽取参候て、与四兵衛に相渡し候由申
候、依之与兵衛義明日当連署出候打手申付、盲者儀兼て殺候鶏
商売仕間敷旨相触候処、商売仕候之段不届二付、両人組込牢舎、右弍人之内、与四兵衛儀ハ同辰四月八日牢死仕至言、戸田山城守
殿へ相伺、死骸捨之、伊右衛門義ハ御老中被仰渡、同辰五月二十
簡
九日於品川獄門、生類憐みの令が本格的に発令されたのが貞享四年のことであるか
七西鶴と生類憐みの令
ら、その翌年である右の例は、特に厳しかったようで、獄門の刑を受
けている。以上、この実例から、掛乞どもが肝をつぶした理由がより
一層明らかになったであろう。ところで、前掲した貞享四年二月の法令は、大坂にも出されたもの
かどうか現在のところは確認できない。しかし、同年四月の町触につ
いては出されており、その中に鳥に対する愛護令も含まれているの
で、大坂も江戸と同様な厳しさであったものと思われる。 さて、﹁門柱も皆かりの世﹂の結末は次のようになった。男は、材木屋の小者に夫婦喧嘩という新手の借金取り撃退法を伝授される。それ
はそれまでに考えてもみなかった有効な方法であった。喜んだ男は、﹁さてもく、こなたは若ひが、思案は一越こした年のくれ、たがひの
身祝ひなればとて、最前の鶏の毛を引て、これを吸ものにして、酒も
りてかへし﹂たのであった。西鶴は、材木屋の小者に、唐丸を殺して借金取りを退散させる方法
をいかにも占臭いといわせて、この殺生する行為をあたかも昔のこと
であったかのように記してある。従って、読み方によっては、この話
の成立を巻一の四のように生類憐みの令が本格化する前にまでさかの
ぼらせる考えが生まれるかもしれない。しかし、筆者の考えは前述し
た通り、たとえそうであっても、出版された時点を最重視するもので
ある。結論に入ろう。この話の男は、鶏の首を打ち落として殺しただけで
なく、毛をむしって食べてしまったのである。このことが生類憐みの
令下ではどのようなことになったかは、﹃御仕置裁許帳﹄の記述からも八
明らかであろう。このような御政道に反する、まさに御上を食ったよ
うな話を書いた西鶴は、↓体何を意図したのであろうか。筆者は、西
鶴はこの男を登場させることによって、暗に政治批判を行ったのでは
ないか、と思う。そして、この話も含あて巻一の四の﹁野ら奨め﹂を
考えると、そこでも、やはり政治批判を行ったものと読み取るほうが
妥当である、と思われるのである。西鶴は、町人の女性の服装が華美になることをゆゆしきこととして
憤慨していた。その一つ﹃日本永代蔵﹄巻一の四﹁昔は掛算今は当座
銀﹂に次のように述べている。 卜i代にかはって、人の風俗次第奢になって、諸事其分際よりは花 麗を好み、殊に妻子の衣服、また上もなき事共、身の程しらず、 冥加をそろしき。︵中略︶此うへは万の唐織を常住着となすべし。 51一
ヘ ヤ へ も ヘ カ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ へ も へ も へ ぬ ヘ ヘ へ此時節の衣装法度、諸国諸人の身のため。今思ひあたりて有がた
も も ヘ マ ぬ くおぼえぬ。︵圏点筆者︶これは明らかに御政道を肯定している文言である。彼は、少なくと
も衣装法度については批判的ではなかったと見てよいであろう。それ
が生類畏みの令が本格的になってからは、塚本氏が明らかにされたよ
うに、それを意識して創作活動を行っている。西鶴は政治状況の変化
を逸早く見て取ったのであろう。その後の彼の心境に大きな影響を与
えた事件は、鶴字法度であったと思われる。ここにいたって西鶴は、暴君以外の何者でもない綱吉の、恐怖政治の到来を実感したのではな
かったか、と思われる。@@n〈g)Ot O, O
@ @Cb O @ dy@ @ op@(8)O
注 後事の塚本学氏論文や﹃国史大辞典﹄︵吉川弘文館︶の﹁生類憐みの令﹂ の項など参看。 岩波文庫、九四ページ。 ﹃人文科学論集﹄第一四号︵昭和五五年三月︶。 ﹃弘前学院大学学会誌﹄第六号︵昭和五五年三月︶。 前掲論文、四ページ。 この後塚本氏は、﹃生類をめぐる政治﹄︵平凡社、昭和五八年四月刊︶を 執筆された。そこでは、生類憐み政策のもとに出された諸国鉄砲改め令 は徳川政権による人民武装解除の意味があり、更にそれは、大名達に対 して徳川政権への臣従化を徹底させるものである、という興味深い説を 述べていられる。 注③、一一ページ。 同右、一五ページ。 注④、..一ページ。 ﹁色道大鼓﹂と西鶴後期の作品︵﹃西鶴文学研究﹄笠間書院、昭和四九年 三月刊︶。 ﹁世間胸算用・鼠の文つかひ﹂考︵﹃日本文学研究﹄第二一号、昭和六〇 年=月︶。 ﹃講座日本文学 西鶴上﹄︵至文堂、昭和五三年一月刊︶所収。 元禄宝永期の幕令一﹁仰出之留﹂を素材に一 ︵﹃論集近世史研究﹄昭 和五一年=月刊︶参看。 石井良助校訂﹃近世法制史料叢書﹄第二︵創文社、昭和三四年一〇月刊︶ 二四五ページ。 この点は、渡辺憲司氏の論文注⑪に詳述されている。 注⑭..四.一ページ。 ﹃正宝事録﹄第一巻︵日本学術振興会、昭和三九年、二月刊︶.一五五ペー ジ。 ﹃近世法制史料叢書﹄第一、三〇九ページ。 西鶴と生類憐みの令 付記 本稿執筆にあたり、宗政五十緒先生に御指導頂き、また、 憲司氏の御高配を得ました。記して深謝申し上げます。 九生類憐みの令関係年表 ↓○
生類憐みの令関係年表
土 井 順 一
年 号︵西 暦︶ ﹃御当家令条﹄︵武家厳制録・御触書寛保集成を含む︶ 江 戸 町 触︵﹃ 正 宝 事 録 ﹄︶ 京 都 町 触︵﹁京都町触集成﹄︶ 大 坂 町 触︵﹃ 大 阪 市 史 ﹄︶﹃御仕置裁許帳﹄
寛 文 七三四 寛文九年酉正月廿二日 九 年 勘太郎 是ハ武州神 (一 Z六九︶ 茂左衛門 奈川領毛塚 六人 三郎左衛門 村二者、此 八郎兵衛 者共鶴之卵 角右衛門 をつふし申 長右衛門 候由二て、 同村之庄屋五兵衛訴訟申 二付、穿撃之内、評定所 より牢舎、 右勘太郎、茂左衛門、三郎 左衛門、八郎兵衛儀ハ同酉 二月六日赦免、 角右衛門義ハ同酉三月廿五 日赦免、長右衛門義ハ同酉 四月六日赦免、 七四〇 寛文九年酉卜一月廿四日 孫右衛門是ハ上縮國 三人 善太郎 青木村保科 三十郎 越前知行所 之百性、此者共芝浦二て 流し魏をいたし、鴨を取 候庭を、所之名主八郎兵 衛、小左衛門井猟師共見 出シ捕え、御鳥見佐山角 左衛門、山本市右衛門、 一 一 一 岡田半左衛門、加藤伊兵1 衛、右之四人より断二 て、穿馨之内牢舎、 右三人之者共、戌二月三日 牢屋二て首を刎、於佃嶋獄 門、 七四一 寛文九年酉卜一月廿八日 壼人六兵衛 是ハ大久保頼母 知行所上総之内大堀村之 者、當月廿七日二相百性 次郎兵衛井同所田中大隅 守百性久七三人連二て船 二乗、鳥取二等出候を、 三昧洲二て伴作平家來見 出シ、次郎兵衛を召捕候 二付、此者と久七と爾人 伊奈半十郎御代官所東葛 西之内浮新田え逃上り候 を、所之百性捕、半十郎 方より差越候、断二付、 穿難之内牢舎 同日 壼人久七 是ハ田中大隅守知 行所右同國同村之百性、 右同断二て牢舎、 右武人之者、戌二月三日於. 佃嶋獄門、 寛 文 六六八 寛文卜⋮年亥五月卜一目 ︻一年 壼人作助 是ハ小石川餌指町 (一
Z七こ
清水椹之助組子二上彌五 右衛門地借り、藤兵衛出 居衆方々二て犬を盗殺候 由、右之作助相出居衆半右衛門訴人申二付、穿繋 之内籠舎、 右之者、同亥十二月十三日 薩摩え流罪、 生類憐みの令関係年表生類憐みの令関係年表 二 六六九同年亥五月卜青u 武人 三右衛門 是ハ清水権 半右衛門之助組下小 石川餌指町藤兵衛召仕、 今日淺草田原町三丁目忠 兵衛店吉兵衛井同所門跡 前平兵衛店吉兵衛犬を武 疋理不儘二突殺候由、所 之者共捕來ル付、穿馨之 内牢舎、 右之半右衛門、同亥六月四 日於評定所二赦免、 右之三右衛門、同亥十二月 十三日薩摩流罪、 同年亥五月十六日 戸右衛門 是ハ小石川 金杉村市左衛門地借
り、加左衛門出居
衆、右同断、 三人 與五右衛門 是ハ餌指 町御鐵砲張渡部佐次 右衛門屋守甚右衛門 店之者、右同断、 與兵衛 是ハ右與五 右衛門出居衆、右同 断、 延 宝 元 年︵一六七三︶ 六七〇同士二年丑五月⋮百壼人藤兵衛 是ハ小石川清水 権之助組宮田市郎衛門地 借り、此者方々二て犬を 殺候由、牢内與兵衛訴人 申二付、穿竪之内牢舎、 右之者、寅七月五日佐渡え 流罪、 同日 壼人椹四郎是ハ右之藤兵衛( 1
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生類憐みの令関係年表 三生類憐みの令関係年表 ↓四 市郎右衛門篭舎申付候、 彼者之女房成ル故、上り 屋二入、 右之者、申三月廿一日赦免、 同日 壼人内蔵之助 是ハ右同人 伜、右同断二て揚り屋二 入、 右之者、右同日赦免、 天 和 六七二天和.一年戌卜月六日 一一
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︹マ・︺ (一 Z八二︶ 壼人庄 是ハ無宿、此者 義、本銀町四丁目二て八 右衛門、三郎兵衛爾人之 犬武疋夜前八ツ過殺、か ます二入候虜を捕え、召 連來二付、遂穿馨候庭、 黒坊主と申者手合二て、 犬殺シ候段白状申二付、 篭舎、 右之者、同戌十二月廿五日 於牢屋二死罪、 貞 享 七四二貞享元年子三月二日 元 年 壼人惣右衛門 是ハ上総仕払 (一 Z八四︶ 場村天羽七右衛門御代官 所之者、此者於御鷹場、 鳥を取候輪穴を指候を捕 え來候二付、小栗長右衛 門方より堀田封馬守殿え 申達、封馬守殿より御改 之由二て、長右衛門組浦 上喜助、小宮山彌助召連 来ル付、遂穿馨候庭、右 之段無紛由白状申二付、 牢舎、貞 享 二 年 (「 Z八五︶ 七九二 一先日申渡候通、 候斜道堀切え、 も百苦候間、 節も、 厚恩無用者也、 七月 四七五 畳 馬の筋のへ豊島、 に不宜、 て、 年より御停止被 とも、 在世由候、 特出者也、 四七六 畳 薄給貝類海老、 候、 上、 1 . 1 1 ﹂ r . 1 右之者、御老中御差図二 付、同子四月六日牢屋二て 斬罪、首ハ市場村え遣、獄 門、 一丑年七月 六九六 ︹七九き 六一三 京都御役所向大概覚書 二七九 十月廿二日 馬之筋 七四三 貞享、一年且二月廿一日 候通、御成被爲遊 覚 覚
延候儀停止之事
壼人傳兵衛 是ハ富永主膳卜 え、犬猫出申候て 一先日申渡候通、御成被有畜 馬之筋のへ候儀第一用方二不 ︵略︶ 性、武州羽生領下之村之 間、何方之御成之 候御道筋江、犬猫出面候而 宜、其上不仁なる儀川付而、 者、此者鳥取候者二て有 ぬねこつなき候事 も不苫候間、何方之御成之 御強に立候御為共先年より御 翌夕、同心遣、捕之、穿 者也、 節も、犬猫つなき早事、可 停止被仰付候得共、今以世上 世話内揚り屋二丁、 為無用者也、 にてハ悪馬有之由二候、向後 右之者、狽二鐵砲を打候依 ︵御触書寛保集成︶ 七月 堅御田禁総懸出候者也 飾職、同丑四月十四日斬罪、 右は丑七月十四日御触、 九月十八日 首ハ於品川獄門、 へ豊島、第一用方 六九七 ︹二九〇二︺ ︵後筆︶ 同二年丑三月六日 其上不仁なる儀に 覚 ﹁但、貞享.丑﹂ 壼人佐野藤兵衛是ハ駿州富 に航候御馬共、先 馬之筋のへ候儀、第一用方に 六一四 北野天満宮文書 士郡上柚野村之百性、此 停止被 仰付候え 不宜、其上不仁成儀に付而御 覚 者武州児玉郡羽生領下之 以世上にてハ椿馬 厩に立候御馬共、先年より御 馬之筋のへ候儀、第一用方二 村傳兵衛案内二て申合、 、向後堅御制禁被 停止被仰付候得共、今以世上 不宜、其上不仁なる儀二世而、 下野村にて鐵砲二て鶴二 、 にてハ持馬有之由二候、向後 御庶出凱候御馬とも先年6御 羽打申候、此者居所知レ 年上九月十八日 堅御制禁被仰出候者也、 停止二被仰付言へ共、今以上 不申候故、愈議之上、脇 御台所張紙爲 九月十八[ 二日ハ捲馬有之由二候、向後 より相知レ候、右之柚野 海老、向後於御台 右之通堅相守、自今以後馬の 御器精血思出候者也 村ハ井出次郎左衛門御代 客間敷旨被 仰渡 筋のへ申問敷候、若違背之輩 ︵貞享二年︶ 甲所飼付、次左衛門方え 公家衆御馳走其外 於有之ハ急度曲事可申付者 十月目 申遣候虞、久保田平太夫 節は可爲各別事以 也、 右之通御公儀6被早出候間、 召連來ルニ付、牢舎、 丑九月 左様二御心得固有候 右之者、狸二上砲を打候依 年高十一月七日 右は九月廿一日御触、町中連 十月九日 年預 科二、同丑四月十四日斬罪、 判、 首ハ於品川獄門、 七四四同一年丑三月廿八日 壼人彌五兵衛 是ハ蔦木次左 衛門知行所西上総國神納 村之百性久七と申者之 兄、此者儀、先年所を被 携候慮、立婦、久七屋敷 V内二居住仕候、此者先 生類憐みの令関係年表 ︸五生類工みの令関係年表 ._二憎 ノ\ 年男立博変を打、御法度 之場所二て輪穴を指、鳥 を取、近年鐵砲にて鳥を 打候由、此者兄餌指頭内 藤與五兵衛召遣候者訴人 二出候二付、小栗長右衛 門方え申遣候庭、長右衛 門方より召仕二右之訴人 を差添遣シ、捕候由二 て、御餌差頭内田市郎右 衛門、篠崎新平召連來ル 付、穿難之内牢舎、 右之者、同年丑五月廿一日 於牢屋斬罪、首ハ神納村え 遣シ、獄門、 同二年丑五月廿四日 壼人女だけ 是ハ蔦木次左衛 門知行所上纏二神納村彌 五兵衛女房、此者夫先年 所被梯候所、立隔り、弟 久七屋敷之内二居住候、 先年男立博変を打、御法 度之場所にて鳥を取、近 年ハ鐵砲にて鳥を打候 由、彌五兵衛兄御餌差内 こ 田與五兵衛召仕訴人二出 候二付、召寄、遂倉議候 庭、右之段無紛二付、右 彌五兵衛儀ハ斬罪二申 付、在所神納村二首を 懸、右之者女房成ル故、 蔦木次左衛門家來長坂彌 五右衛門、同杢左衛門召 連來り、揚り屋二入、 右之女、同丑六月七日埠二
渡ル、 同日 壼人女むく 是ハ右彌五兵衛 娘成ル故、右回断二て揚 り屋に入、 右之女、同丑六月七日埣二 渡ル、 七四五 貞享二年丑卜二月卜六日 壷人三郎左衛門 是ハ清水権 之助組樫山文右衛門父、 文右衛門と同居仕候者、 此者新吉原近所二て度々 鴨網を張、鴨を取候由二 て、淺草田町又左衛門店 之庄左衛門預り鈴木市郎 右衛門井宿庄左衛門捕 之、召連來ル付、遂穿馨 候庭、網を張、鴨を取り 候之段無紛二二、揚り屋 二入、 右之者、寅正月十八日牢死、 死骸捨之、 貞 享 三 年︵一六八六︶ 生類憐みの令関係年表 一七
生類病みの令関係年表 一八 今以無主犬参候而も食事たべさせす、又ハ犬其外生類とりやり致候儀も、今ほとは不仕候様に相聞候、生類あわれみ候様に被仰出候儀 四俵馬二附、青山宿青山一論罪灘廼鵬鞭 ハ、四七小刀二て馬之尾 脇を突申、右之小刀ハ土 を、心得違二而有之候と相見得候、何事に付而も生類 え突立申候付、鳴を立申候故、下野守辻番出合、 あわれみの志を肝要仕、諸事かたつまらさる様に心得 捕え申候、前方何之口論も不仕、見知り候者二て 可申候、 七月 も無御座候由申候、秋元但馬守殿致倉議、牢舎可 右之通、今日御番所二而被仰渡候間、町中家持ハ不及申借 申付之由被仰渡候由にて、下野守家來太田源内 六九五 同三年寅卜.一月卜六日 壼人長助 是ハ永井伊賀守家 來安地新八郎召此者仕、 儀、今書酒二三酔、長谷 川町罷通候節、名主三右 衛門店市兵衛と申者之畜 犬を、小刀にて突殺候二 付、捕之、召連來ル付、
遂穿馨候庭、右之段無紛 候、酒二給酔、不届成仕 形故、穿馨之上揚り屋二 入、 右之者、酒狂之上怪我二仕 候儀二候故、御老中え相 伺、同寅十二月廿四日赦免、 貞 享 四七九豊 七=二 ︹二二五六︺ 六一一六 塩屋町文書 一一∴黶@正月 生類煩重り候 七一五貞享四年卯三月朔日 四 年 惣て人宿又ハ牛馬宿雲外に 覚 覚
得者捨二者難事
徳兵衛 是ハ伊奈半十 ︵=ハ八七︶ も生類煩重く候えハ、未死 一惣而人宿又ハ牛馬宿其外二 一中而人宿又ハ牛馬宿、鼻詰 ︵略︶ 三人 角兵衛郎御代官所武 内に襲業様粗相聞候、右之 も、生類煩重く候得ハ、い 二も生類雪濁り候ヘハ、い 小兵衛 州神奈川領東 不届言違有之は、急度可被 また不死内二捨二様二粗相 また不死内二捨二様二粗相 寺尾村之者、右三人之者 仰付候、密々左様成儀有 聞候、右之外、不届之族有 聞候、右之不届之白癩有之 共捨馬之儀二二、穿馨之 寡言ハ・、訴人に出へし、 之におみてハ急度可被仰付 ハ急度可被仰付候、描く二 内、今日評定所より牢 同類たりといふとも、其科 候、蜜く二而ケ様成儀有之 而ケ様成儀有之二者訴人二 舎、 をゆるし、御褒美可被下者 候ハ・訴人に出へし、同類 出へし、同類たりといふ土ハ 右脚三人者、同卯四月十日 也、 たりといふとも、其科をゆ 其科をゆるし、御盛美可被 三宅嶋え流罪、 貞享四唱言正月日 るし御ほうひ可三下候、以 下候、以上 六七三 貞享四年卯三月廿一日 四八○ 口上之覧 上、 精血趣今度被仰言玉条、京都 壼犀角右衛門 是ハ小石川御 今度書付出叩上ハ、身盟か 正月 町中へ如例可令触知者也 殿番小泉市兵衛下人、此 ろきものハ、はこくみかね 右は正月廿八日御触、町中連 今度書付出営上者、身請かろ 者當月十六日之晩致欠落 可動設問、町人ハ町奉行、 判、 き者ハはこくミかね可申候 三一二 二月七日 生類はこ 候、閣議田儀有之候二 地方ハ御代官、道中筋一高 口上之覚 間、町人ハ町奉行、地方ハ御 くみ兼候者者事由出 付、篭舎可申付旨、秋元 木伊勢守、給所は地頭え訴 今度書付出候上ハ、身躰かろ 代官、道中筋ハ高木伊勢守、 之事︵略︶ 但馬守殿被十二、右小泉 可隠者也、 きもの、はこくみかね可申候 給所方ハ地頭へ可型幅、以上 市兵衛傍輩間野庄左衛 卯正月日 は、町人ハ町奉行、地方ハ御 貞享四年卯二月四日 門、石原六郎左衛門、山 三九三 一失犬之儀御鰯 代官、道中筋之者ハ高木伊勢 上京町代 本平三郎、田中金兵衛、 町内に在学犬を相改、毛付 守、給所は地頭江訴可申候、 小室藤七召連來ル付、篭 なといたし、若他所えまい 以上、 舎、 り候ヘハ難儀かり、方々相 正月 右之角右衛門儀、犬喰合候 尋候由相聞候、不相見候 七一四 虜を脇指を抜、追懸可申と ハ・、達て尋候に不及候、 覚 いたし、犬を切申候、其上 又主なしの犬ハ何方より町 町内二有之犬を相田、毛付な 致欠落候、依之同卯四月十 内に参候共、無二其分にい といたし、若他所江参候得は 日八丈嶋え流罪、 たし、差置可申候也、 難儀かり、方く相尋候由相聞 六七四同四年卯三月廿八日 卯二月日 ︵武家厳制録︶ 候、不相見候ハ・達而相尋候 壼人奥平 是ハ新銀町利左衛 生類憐みの令関係年表 一九生類憐みの令関係年表
羅馬蔵置中市え進物之儀候 七一六 をさや土ハ抜彿候ヘハ、抜 已上、 覚 候脇差當り候由申候、辻 四八二 畳 爲食物魚鳥生置以て商責仕 為食物、魚鳥いけ置候而売買仕候儀、堅無用二候、 番之開申口も犬七八疋二て吠懸り候間、不構通候 儀、向後堅無用、鶴亀同前 鶏︵ケ︶ 様二と申候、脇指二て彿 事、 卯二月廿七日 にわ鳥・亀同前工事、.一.耳廿七日 候由申候、辻番之儀も犬吠懸り候ハ・、早速罷 受壷御書付出候上は、自今以後、爲食物生鳥生魚かた 如此御書付出候上ハ、自今以後、為食物いけ魚いけ鳥 出、追散シ可申儀を、左も無之段不届二付、辻番 く自費仕重罪候、但爲慰飼 商売︵ケ︶ 忠右衛門二も手鎖を懸、 鳥飼魚ハ各別候、鶴亀貝類に至便、爲食物ハ一切不可 堅売買仕間敷候、但為慰飼鳥爵魚ハ各別也、鶏亀貝類 所流者二預ケ遣、此者儀右不届二付、揚り屋二 飼置候、此旨於相背は、可 二いたる迄、為食物一切不 入、 爲曲事者也、 可飼置、此旨於相背ハ可為 右之者、論議之上、怪我二 四八三 畳 曲事者也、 候間、免シ可遣旨、御老中 一生面之類飼置候儀可爲無用 卯二月 被仰渡候間、同卯⊥ハ月四日 候、但鷲あひるの類其外唐 右は二月廿七日御触、町中 赦免、 鳥之類野山に住さる鳥ハ、 連判、 ︵四月十四日︶ 六七五同四年卯四月+一目 放候ても餌にかつえ可申得 七一七 三一八 同日 上馬捨候爵有 壼人権兵衛 是は川町八左衛 間、先其分二て指置可申 覚 之、御仕置申付百事 門店三郎兵門弟子二て一 候、玉子うみ候内ハ、能飼 昨日御触二付、只今迄飼置 ︵略︶ 所罷金売者、此者儀、今 そたて、連々所望之方へ可 候鳥、俄二しめ殺申者可有 ︵四月十四日︶ 日干ツ半時分町内二て脇 遣事、 之候、二食卜いけ置候魚 三一九 同日 捨子之事、井 指を抜、犬を切付候由二 一崩しめころし費買可爲無用 鳥、俄二殺候儀無用二仕へ
生類あはれみの事
て、神田鍋豊山者共捕、 事、 し、若しめ殺候もの有之候 四ヶ條︵略︶ 召連來ル付、遂愈議候 一亀尊志候儀一切無用之事、 ハ・曲事二可被仰付候、井 威、此者罷工ハ、師匠三 一いけすの魚飼置費買無用 いけ鳥いけ洲二而無之候 郎兵衛昨日相果、妻子今 事、 共、貝類其外鯉鮒海老なと 日谷中感碁子地内妙行寺 ︹堅、閣甲本外七本に擦 のいきたるを商売不罷成候 え参詣仕候二付、供仕罷 右之趣、團四相守、於令違て補ふ︺ 間、右之通町中不残可被相触候、以上 越、神田鍋町罷錦候節、犬三疋三郎兵衛女房之乗 背は、可爲曲事者也、 卯二月廿八日 物昇候六尺二厳敷吠懸り 卯三月廿六日 右之通、二月廿八日町く江 石間、無是非脇指を抜彿 四八四 畳奈良屋6手代相廻シ被申
候ヘハ、犬之耳え少當り 生類あハれみの儀に付、最 渡、尤帳面持参、右之趣槌 疵付候由申之候、仕形も 前以書付被 仰出候虞、今 二承届候段、月行事名主判 可有之荷崩、切付候段不 度武州寺尾村同國代場村之 形被取候、 届二付、揚り屋二入、 生類憐みの令関係年表 二一生類憐みの令関係年表 二二 者病戸〆之、不届之至候、 七﹁八 右之者、同書六月廿六日日 死罪にも血管 仰付候え 覚 本橋より拾里近邊追放、 共、此度竿先命御たすけ、 一生鳥類飼置候儀可為無用、 六九七 貞享四年卯四月廿八日 流罪被 仰付候、向後於相 但にわ鳥あひるのたくひ、 半右衛門 是ハ三田 背は、急度曲事可被 仰付 其外唐鳥の類、野山にすま 三人 徳兵衛 町四丁目 候條、御料は御代官、私領 さる鳥ハ、放候ても餌にか
勘兵衛 吉兵衛下
は地頭より前方被 仰出候 つへ可申候間、先其分ハ養 人、五月廿五日芝田町四 趣彌堅相守候様、念入可申 置可申候、たまこうみ候内 丁目久兵衛屋敷より米拾 付者也、 ハ能飼そたて、夫く所望之 四俵代八車目積、引通候 卯四月日 方江可遣事、 二二、右久兵衛屋敷之米 四八五 畳 一鶏ハそんさかし候分ハ売買 二主なし子犬壼疋車を引 一冊子有之候ハ・、早速不及 無用之事、 懸、敷殺候由にて、右三 届、其所溢者いたハり置、 一亀飼置候儀↓切無用之事、 人之者共を召連來ル付、 直二養候か、又ハ望之者有 一いけすの魚仕置売買無用之 穿馨候庭、外二右之段見 主翼ハ・、可遣候、急度不 事、 申候者も無之間、主人二 及付届候事、 右之趣堅相守可申、於令違 預ケ置、山城守殿え窺候 一鳥類畜類人の疵付候檬成 背ハ可為曲事者也、 虚、牢舎申付候様二被仰 ハ、唯今迄之通可相届候、 卯三月 渡、今日召寄、牢舎、 其外友くひ又ハおのれと痛 右は卯三月御触、 右之内 徳兵衛儀ハ同卯六 煩候計にてハ不及届候、随 七一九 月十日病死、 分致養育、主有之候ハ・、 覚 半右衛門、勘兵衛儀ハ同卯 返可申事、 一捨子有之候ハ・早速不及 六月廿四日赦免、 無主犬頃日ハ食物給させ不 届、其所之者いたわり置、 六七六同四年卯五月卜.百 申候檬に相聞候、畢寛食物 直二養候欺、又ハ望之者有 詫人角左衛門 是ハ岡部隠岐 給させ候えハ、其人之犬之 之候ハ・可遣候、急度不及 守六尺、業者當五月十一 様に二成、以後迄六ケ敷事 付届事 日西窪二て犬を切殺シ候 と存、いたハり不申と相 一鳥類畜類、人之疵付候様成 付、仙石越前守、畠山民 聞、不届候、向後左様無之 儀ハ、只今迄之通可相届 部太輔、本多半之允、能 様諸相心得事、 候、其外ともくい、又ハお 勢十次郎、遠山庄次郎相 一幅罷工犬死候えハ、支配方 のれと痛煩候斗二而ハ不及 組辻番人員候二丁、稲垣 え届母様相聞候、於無別條 届、随分致養育、主有之候 安藝守殿致愈議、牢舎申 は、向後ケ様之届無用事、 ハ・返可申事、 付へき旨被仰渡、越前守 一犬計に不発、惣て生類人々 一無主犬、頃日ハ食物給させ 家來加納新五兵衛、原彦 慈悲の心を本といたし、あ 不申候様二相聞候、畢寛食 左衛門召連來ル付、篭 ハれミ候儀肝要事、 物給させ候得は、其人之犬 舎、 以上 之様二罷成、以後迄も六ケ 右之者、同卯十月廿日牢死、 卯29月口 六九八同四年卯五月卜九目四八六 口上之畳 二︵ケキ︶ 六三三 京都御役所向大概覚書 市右衛門 是ハ青物町 ↓於町中所々、大八車井牛車 敷事と存、いたわり不申候 覚 市左衛門店之者、 にても、度々犬なと引損 と相聞不届二候、向後左様 ︵ママ︶ 三人 伊左衛門 是ハ南茅場 候、鹿野成いたしかた依不 二無之様二可相心得事、 一拾子有之候ハ・早速不及 町三右衛門店之者、 届、車引贋者段々御仕置被 一飼置候犬死候得ハ、支配方 届、其所之ものいた煎り置 清八郎 是ハ右同人 仰横田、自今以後左様無 江届候様二相聞候、重富別 直に養ひ候欺、又ハ望之者 店之者、 之、宰領にてもっけ、車引 条ハ、向後左様之届無用二 有之候ハ・可遣候、急度不 此三人之者、代八車二材 懸不申様にいたすへし、勿 可仕候事、 及付届事 木を積、本甲町三丁目引 論其所之者井辻番人随分念 一犬斗にかきらす、惣而生類 一鳥類畜類人之疵付候様成瀬 通候節、町内勘左衛門と 入心付、あやまち不仕様にいたすへき事、 人く慈悲之心を元といたし、あわれみ候儀、肝要候 掃手今迄之昼下相届候、其外ともくひ虚日をのれと痛 申者之畜置候犬之子居申考方、材木を取落、犬之 一最前も委細申渡候え共、今 事、 煩活計にてハ不及届、随分 子二言り、死申二付、此 以無主犬参候ても、食事給 以上 致養育主有之候ハ・返可申 三人呈露を留置、訴來ル させす、又ハ犬其外生類と 卯四月 事 二付、令愈議候虜、三人 りやりいたす儀も今程は不 右之通被仰出候間、堅可相 一無主犬頃日者食物給させ不 之者申候ハ、材木を積直 仕様相聞候、生類憐候様に 守者也、 申様に相聞候、畢寛食物給 し候とて、取落シ、犬之 と被 仰出候儀を心得違有 卯四月日 させ候得者其人之犬のやう 子山肥り死申候由申之、 之と相見へ候、何事に付候 右は四月十一日御触、町中 に熟成、以後迄六ヶ敷事と 鹿末之仕形不届二付、牢 ても、生類あハれみの志を 連判、 存いたはり不申と相聞不届 舎、 肝要に仕、諸事かたつまら 七二〇 候、向後左様に無之様に可 右之者共、同旨六月廿四日 さる様に心得可申候已上、 覚 相心得事 赦免、 卯七月廿日 一生類あわれみ候儀二付、最 一幅置候犬死候得者支配方涯 六九九 貞享四年卯五月廿四日 四八七 豊 前以書付被仰出候所、今度 測候様に相聞候、於無別条 試人 七兵衛 是ハ堀江町三 山行導者生類疵付候様成儀 武州寺尾村同国丁場村之 者向後ヶ様之届無用朝事 五兵衛 丁目伊左衛門 於有之ハ、辻番出合、其者 者、病馬捨之不届之至候、 一犬計に不限惣而生類人く慈 店之者、今日七ツ半時 之住所下描、人指添つかハ 死罪にも可被仰付候得共、 悲幸心を元といたし、あハ 過、此者共武人代八車二 し、重て御目付衆より被相 今度ハ先命御たすけ、流罪 れミ候儀肝要候事 大豆を積、鐵砲洲を罷通 蘭語於有之は、可申遣候之 二被仰付候、向後於相背ハ 卯四月 日 候節、町内無主犬之子壼 間、其者外へ不罷出様に可 急度曲事二可被仰付候、御 ︵後筆︶ 疋車之下え門島候を不存 仕置候由申つかハし、彼者 料ハ御代官私領ハ領主地頭 ﹁但、貞享四年﹂ 引山間、犬之子死申二 番所に不及留置、其以後御 より、前方被仰出候趣、弥 六三四 京都御役所向大概覚書 付、所之者共召連來候、 目付衆へ可相届候、不及申 堅相守候様二急度可申付者 覚 鹿末之仕形不届成二付、 候え土ハ、喧嘩口論は唯今迄 也、 生類あはれミの儀に付最前以 牢舎、 之通、蔓方留置晶相届候已 四月 書付被吊出候処、今度武州寺 黄落者、同卯六月廿四日赦 上、 右之趣、御料私領江も被仰 尾村、同国代場村之者騒々捨 免 卯九月三日 出候間、町方二も此旨急度 之不届之至に候、死罪にも可 七日目同四年卯六月八日 可相守者也、 被仰付落得共、此度者先命御 吉右衛門 是ハ鐵砲洲 生類憐みの令関係年表 二三
生類燐みの令関係年表 二四 四八八 口上之豊 卯四月 たすけ流罪被仰付候、向後於 船松町武丁目勘右衛 何方によらす、生類人の疵 右は四月十一日御触、町中 相背面急度曲事可掌中付候、 門店肩骨、 付候様子有之におみてハ、 連判、 御領者御代官、私領者地頭よ 三人 又兵衛 是ハ右同町四 其所之屋敷主の方にて随分 七一一二 り前方被仰出前趣、弥堅相守 昇兵衛店之者、 自画馨、様子しれ可申手筋 卯四月甘↓日 候様二念を入可申付者也 十兵衛 是ハ右同町船 も候ハ・、可相国候、一圓 一犬猫死候ハ・、捨候儀無用 卯四月 大工町四郎兵衛店之 手か\りも無之候ハ・、先 二仕、埋可申旨、奈良屋二 ︵後筆︶ 者、 かたつけ、不及相届、連々 而町く名主月行事汀被申渡 ﹁但、貞享四年﹂ 右三人之者、昨日八丁堀 其筋しれ単二に心かけ、兎 候、 六四一 北野天満宮文書 三三三 十二月晦日 弓馬致 より赤坂千福謡え車材木 角捨置層間敷候、程過しれ 七二三 口上之覚 候者有之、御仕置之 を積、昨七ツ半時稲葉右 候とも、可申出之、外へ 覚 一極馬不仕候遠目被仰出候へ 事書付武通︵略︶ 京亮辻番之近所罷通候 か\り候儀にて、手前之愈 一町中二而いきたるいもり、 とも、相背者有之、最前遠 節、犬之子車にて引殺候 議に及かたく候ハ・、可申 又ハ黒焼にいたし、商売仕 島伝仰掃溜く御仕置之処、 二言、辻番人出合、留置 出、生類疵付いまたいき候 候よし相聞候、向後堅無用 丁今西霞四王有之、不届至 之、御目付能勢惣十郎方 て有之候ハ・、其所之屋敷 たるへく候、若上背商売仕 極に候得共、御慈悲を以今 え被相達、稲葉安藝守殿 遠近によらす、見出し候方 候者ハ御捕被成、急度曲事 度も右同罪被仰付候、御領 御断二て、左京亮家來種 へ早速引取、可致養育候、 二可被仰付候間、此旨町中 私領共二急度申付、畢寛生 田庄左衛門召連來ル付、 とかく介抱之儀延引不罷成 家持ハ不及申裏く迄可被相 類あはれミ候之所専一二可 牢舎、 様可相心得候、其外痛又ハ 触候、已上、 仕候、此已後捨馬いたし候 右之者共、倉議之上、怪我 煩有之夏山・、是又同前に 四月廿三日 単二わけ二より御代官地頭 之儀二等間、今日免シ可遣 早々引取、随分いたハり可 町年寄三人 可為越度候、以上 旨、御老中被早渡候付、同 申候、放し遣候ても不苦程 七二五 ︵貞享四年目 卯六月廿四日赦免、家主共 に候ハ・、よき場所へはな 覚 十二月日 二君シ遣ス、 し可申候、乍去快髄二て ↓於町中所く、大八車井牛車 右潮通今度着姿付三条、異例 七二九貞享四年卯六月+日 も、外へ参候事不罷成候 にて度く犬なと引損シ候、 可令触知者也 武人 喜兵衛 是ハ淺草駒 ハ・、警守やしなひ置可申 鹿末成いたしかた不届によ 六四二 妙心寺文書 三郎兵衛 形町彦左衛 候已上、 つて、車引候者、段く御仕 覚 門召仕、此者共代八車二 卯十一月十五日 置被仰付候、自今以後、左 雌馬之儀付導く被仰出処、頃 味噌を積、麻生町七郎兵 四八九 畳 様二無之様二宰領二而も 日も羅馬仕適者有之候、急度 衛え遣候付、宇田川町を 捨馬之瘤付、段々被 仰出 付、車引懸不申様可致、勿 御仕置可被仰付候里謡、先此 牽通坪庭、吉兵衛店六兵 候庭、頃日もすて馬仕候も 論其所之者井辻番人随分念 度も流罪被仰付落、向後捨馬 衛措置候驚を車二て引殺 の有之候、急度御仕置可被 を入心付、あやまち不仕様 仕置者於有之者可耳擦重科者 候由二て、右爾人之者共 仰付候え共、先此度も流 二いたすへき事、 也 を召連、驚主訴來ル付、 罪被 仰影壁、向後捨馬仕 一最前も委細申渡候得共、今 ︵貞享四年目 遂愈議候威、鹿末仕形二 候もの於有之は、可被行重 以無主犬参候而も食事も給 十二月日 て引殺多段不届成故、牢 科者也、 させす、又ハ犬其外生類取 舎、 卯十二月日 やりいたす儀も、今程ハ不 右爾人工者、同月廿四日赦
四九〇 口上之畳 仕様二相聞江候、生類あわ 免、 捨馬不四号様被 仰出候え れみ候様被仰出候儀を心得 七〇一同四年卯六月+三日 共、相背子有之て、最前遠 違有之と相見江候、何事に 六右衛門 是ハ松平出 嶋被 仰付、段々御仕置之 付而も、生類あわれみの志 七兵衛 羽守中間、 庭、今以右之族有之、重々 を肝要に仕、諸事かたつま 五人 吉兵衛 三十間堀四 不届至極候え共、御慈悲を らさる様に心得可申候、以 三 助 丁目やね屋 以此度も右同罪被 仰付 上、 市兵衛 九郎右衛門 候、御料私領共に急度申付 七月日 方より代八車二材木を積、 之、畢寛生類あハれみ候所 右之通、今日御番所二而被 引通馬節、無主犬之子壼疋 専一に可仕候、此已後致捨 仰渡候間、町中家持ハ不及 車戸て畳敷候哉、見届不申 馬候ハ・、品わけにより御 申借屋店かり地かり召仕等 候、喝聲承驚、車を留、犬 井所く辻番二為申聞、堅相守可申候、若相二者於在之 二水なと給させ候へ共、間もなく死申候由、此者共も 十.一月日 ハ急度可被仰付候間、此旨 申候二見、揚り屋二入、 二五一一五 貞享四卯年十二月 可被相心得候、以上、 右五人之者共、内議之上、 (一
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七月十九日 怪我武儀二候間、免シ可遣 中華何郡何村用心鐵炮 町年寄三人 旨、御老中仰渡二二付、卯 右、拙者領分何村は、所か 七二六 六月四日松平出羽守家來岡 ら物窓御座候踏付、百姓難 口上二而名主月行 野市右衛門渡シ遣ス、 儀産卵、就夫、爲用心、鐡 事江申渡之覚 七二〇 貞享四年卯六月廿三目 炮何挺、百姓預ケ置申度旨 一生類憐之儀被仰出候得ハ悪 業人文四郎 是ハ宇田川町次 奉書候虜、願之通被 仰付 敷心得、互二生類取やり仕候 左衛門店撰者、今日伊奈 候、此鐡炮を以盗賊人にご 儀も不自由成様二仕候、惣而 半十郎御代官所神奈川領 とよせ、意趣遺恨有之物杯 そく才なる犬来候得ハ、食物 下こも岡村六左衛門と申 打殺申言か、其外にも悪事 もたへさせ、煩候犬なと来候 百性之伜七兵衛と申者、 仕出し候におみてハ、本人 得ハ、聯爾二食物なとたへさ 小傳馬高津駄賃二参、町 ハ不及申、名主、五人組迄 せ不申様二仕候、此段何れも 人髄之者を蹄り馬二來 可爲曲事旨急度申付置候、 心得違二而候、上より被仰出 せ、八ツ時芝久右衛門町 且又右之鐡炮にて殺生一切 候ハ、人く仁心も出来候様二 武丁目又候虜、酒二給 仕間敷候、此鐡炮之儀、他 と被思召候而之儀二候所二、 酔、馬二行當り、脇指を 人目不及申、縦親子兄弟二 うわへ斗守候様二二候而、内 抜、七兵衛脚壼ケ所切 て御座候とも、鐡炮預り主 心に憐慰之志うすき仕形二而 付、馬之さんと骨より尾 量地余人え借シ申儀、曾以 不届二候、たまく生類あわ 筒え懸ヶ切付候付、月行 器皿台南堅申付候、右之趣 れみ候者も有之候得ハ、却而 持出合、双方留置、訴來 相帯申候は、何様之曲事二 末く︵ケ︶ り植付、楡使遣、召寄、 も隠隠 仰付旨、名主、五人組、需給預り主方より手 出来したて仕、すへく町所之やつかいにいたすへきな 獄則議響岩、酒に給酔、脇指を諸候迄ハ畳申候え 生類憐みの令関係年表 二五生類憐みの令関係年表 ノ\ 形取置申候、爲其如此御座 と、申輩も有之候様二相聞 共、七兵衛駅馬切候義會 候以上、 候、度く申渡候趣を相守、人 て畳字申候、此者もすね ︵二︶ くより慈悲之志のおこり候様 壼ケ所少疵付候へ共、此 申立何郡何村 月きり鐡炮 に仕へし、 義も畳不同候由申候、馬 右、拙者領分之内、鹿猪多 右之趣急度可相守之、若相 方七兵衛儀ハ丸腰之儀二 出、作毛荒し、百姓迷惑仕 背輩於有之は町所之者可訴 候ヘハ、此者を切付可申 候、雲立、玉込不申候鐡炮 之、隠置脇より於相知ハ、 様無之、然は酒狂二て仕 にておとし申度存、鐵炮何 名主月行事迄可為不届候以 実習無税、不届二付、上 挺何月より四月迄、百姓二 上、 り屋肝入、 預ケ申度分書願候庭、願之 卯十月 右書文四郎、相手手前井馬 通男 仰付勢、若右之鐡炮 右之趣、今朝安房守様御番所 之疵も愈候由二て、双方訴 二玉を込、悪事仕出し申候 二而被仰渡、則御書付被下置 訟申二付、御老中え相伺、 か、又は殺生杯仕候は、本 候、 卯七月十六日赦免、 人山不及申、名主、五人組 貞享四年卯十月十一日 七二六 貞享四年卯六月廿六日 迄可算曲事旨急度申付置 七一一= 番人山本兵助 是ハ秋田淡路 候、此鐡炮之儀、他人は不 覚 守家來、此者傍輩只越甚 及申、縦親子兄弟にて御座 一捨馬之儀二付、段く被仰出 太夫當月八日燕を吹矢二 候とも、鐡炮預り主之外余 候所、頃日も捨馬仕候者有 て吹候節、指加り候、生 諾え借シ難儀、曾以仕間敷 之候、急度御仕置二可被仰 類憐之義前方より度々被 段堅申付候、右之趣相背申 は︵キ︶ 仰出世、殊二八日二吹由 候は、何様之曲事二も可被仰付旨、名主、五人組、鐡 付候得共、先此度も流罪二被仰付候、向後捨馬仕候者 重々不届付、甚太夫父子は死罪二、此者儀ハ命を 炮預り主方より手形取置申 於有之ハ、可被行重科者 助、八丈濯え流罪、 候、爲其其此御座候以上、 也、 右之兵助、同卯十二月廿九 ︵三︶ 十二月日 日八丈嶋え流罪、 篇章何郡何村噺鐡炮 右卯十二月十二日御触、町 七〇二貞享四年卯七月.百 右、拙者領分鐵炮相改候 中連判、 壼人三助 是ハ桧物町ト南大 所、何村は山方二て畜類多 工町之間雨町之廣小路二 出、作毛荒し申付て、先規 罷季候者、此者昨日暮六 より御噺申上、おとしのた ツ過、桧物町武丁目長右 め鐡炮何挺百姓所持仕候、 衛門井戸之樋を取退申候 玉込不申候鐡炮二ておとし とて、ころび候て落シ、 申壁高候、若畜類防にこと 無主犬二坐り候て、當座 よせ、悪事仕出し申候か、 二死申言由、所之者とも 又は、殺生杯仕候二おみて 訴権ル付、令倉議候庭、 ハ、本人ハ不及申、名主、 半者上半ハ、戸樋溝除二 五人組謬言爲曲事旨急度申 有之、無用心二存、其身
付置候、此鐡炮之儀、他人 居申候庭え運候節、けつ ハ不及申、縦親子兄弟二て まっきころひ、持申候戸 御座候土鳩、鐡炮持主之外余 樋を心ならず投申候庭、 人え借シ申儀、曾以仕間敷 犬曳直り死候、怪我之由 段堅申付候、右之趣相背申 感材、兼て大切二可仕旨 候は、何様之曲事二も可被 申付候威、鹿末成ル仕形 仰付旨、名主、五人組、鐡 不届口付、牢舎、 炮持主より手形取置申候、 里言者、怪我二て戸樋取落 爲導出是御座候以上、 シ候由申二付、同月六日赦 ︵四︶ 免、 何再呈郡何村噺鐡炮 七三〇貞享四年卯七月三日 右、拙者領分鐡炮相改候 壼人久兵衛 是ハ小傳馬町三 所、何村は山方二て先規よ 丁目甚右衛門店馬持長左 り御玉申上、猟師鐡炮何挺 衛門下人、二者今日九ツ 致所持、狩仕、渡世を迭申 時小網町壼丁目迄駄賃馬 候、若此鐡炮二て狩之外悪 を牽参り候庭二、下船町 事仕出シ申候二おみてハ、 出て善兵衛と申者之鶏蹴 本人ハ不及申、名主、五人 合候庭二、馬を引懸候 組墨譜爲曲事旨急度申付置 故、鶏を踏殺候由にて、 候、右之鐡炮他人ハ不及 鳥主善兵衛訴來ル付、双 申、縦親子兄弟二て御座候 方召出シ、遂余議候庭、 土ハ、鐡炮持主之外余人え借 右之段無紛、鹿末成ル仕 し申儀、無目仕間敷段堅申 形不届成故、牢舎、
雲脚、右之趣相背申候
右余者、御老中え相伺、卯 ハ・、何様之曲事二も可被 八月十五日赦免、 仰付旨、名主、五人組、鐡 七〇三貞享四年卯七月六日 炮持主方より手形取置申 久兵衛 是ハ池田庄 μ恢、 再星雨六三日疋伽三座候以L⊥、 三人 市右衛門 左衛門中間、 右、私領分寺杜共鐡炮相改候八兵衛此者共地車
所、右書瓦之通り、何ケ村は 二て薪を積、今日四ツ半 爲用心墨書何挺、何ケ村ハ畜 時分南鍋町を通候節、主 類おとしのため、玉込不申候 なし犬之子を敷殺候由二 鐡炮何挺百姓所持仕候、何ケ村は鐡炮何挺猟師所持仕候、 て、所之町人捕召連來候間、細謹繋候庭、右三人 何ケ苗圃山家所持之者無御座候、彌自今以後、無漸鐡炮所 之中間申候ハ、主人入用之薪を買、地車二積、南 持仕引敷旨堅申付、村切二名 鍋町を堤通怪光、拙者共 生類憐みの令関係年表 二七生類憐みの令関係年表 二八 主、五人組方より手形取置申候、爲其如是御座候以上、 年號月日 誰購L 宛所 ︵御触書寛保集成︶ 犬之子を敷殺候由、町人共聲を懸ケ申候故、立蹄り、見申候ヘハ、犬之子死候て有之候、人込故、犬之子居候を會て見付不申候、主人庄左衛門申付 候も、路次等あるき申候 時分、犬なと二少も當り 申間敷旨厳敷申付候慮二、犬之子を見付不申、不斗怪我二て敷殺、迷惑 仕候由申之候へ土ハ、麓末成仕形不届二丁、揚り屋 二入、 右三人之者、倉議之上、怪我之儀二候間、免可遣旨、 御老中被仰渡候間、同卯七 月十三日赦免、池田庄左衛 門家來松原治部右衛門二渡 シ遣ス、 七〇四 貞享四年卯七月十九日 庄兵衛是ハ市谷田町 四人 勘兵衛 萱丁目五左衛 市兵衛門召仕、右四長吉人之者昨十一 日暮時分代八車二壁土を 積、牛込御堀端松平所左 衛門屋敷前を引通り過候慮、跡より小栗五太夫、中根又兵衛組合辻番之者犬之子引殺二間、相待候 ’ 様二と申二付、驚立錦、見候ヘハ、犬之子死有之 候、何方より犬之子出、 車二被敷候哉不見付、怪我之由申候、右之者秋元 但馬守殿致倉議、牢舎可