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芥川龍之介・肉親への愛憎

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Academic year: 2021

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全文

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Itl 芥川IIu之介の実母•新原フクは、 明治十六(-八八三)年十二 .月二十五日、 新原敏三と結婚した。 ハツ・ヒサ・龍之介 の三子を 鉗けたが、 ハツは七歳で夭折してしまう。 又、 龍之介は、 敏三が 四十三歳の後厄、 フクが三十三歳の大厄に生まれた子であ った め、 形式上ではある が拾児にしなければならなかった。 母親にとってつら い思いをしなければならなかった のである。 夫の敏三の激しい性格や女性関係も内気で小心なフクに心労を与 えたと想俊される。 ついに、 フクは明治二十五年十月二十五日(龍之介生後七ヵ月 目)に発病(発狂)し、 以後廃人同様の生活を余儀なくされる所 となる 。龍之介は実家の芥川家に預けられ、 代わりに妹のフユが 靡手伝いとして、 新原家へ入る。 そして、 フクの存命中である のに敏 三との間に得二(芥川龍之介の異母弟)が生まれてしまう のである。

(一)

実母フクヘの仲問意識と同情

芥川龍之介・肉親への愛憎

こうしてふり返ると、 フクの人生(晩年)は、 幸せとは言えな いであろう。 このような薄幸の母 を肌之介は、 どのように見てい たのだろうか。 芥川は、 表而上は母に対する反感を示している。 芥川晩年の自伝的作品である「点鬼簿 J (大正十五年十月一日 発行「改造 J 掲載)の中に「僕の母は狂人だった は一度も僕 の母に母らしい 親しみを感じたことはない。」とあるのはあまり にも有名である。実母が狂人であったことが芥川の人生に影をお としたことは事実で、 狂気の遺伝に対 する恐れから母にマイナス 感情を抱いていたと十分に推測できる。 しかし、 芥川は母に対する愛慕の梢も(当然のことながら)作 品中に匂わせている。 冒頭で「母に親しみを感じたこと はない」と母へのマイナス惑 情を示した「点鬼苅 j でさえ、 後の方に母の命日と戒名はしっか り銘えていると母への思いを匂わせているのである。 一応、 その部分を引用しておくことにする。

可保里

-

(2)

286-僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は筋命院妙采 8進大姉である。僕はえの郷僕の貿父の命Bや戒名を鋭えて ゐない。 さて、.私はここで芥川の母に対する感情に「仲間意織」があっ たのではないか、ということを指摘したい。 「仲間意識」とは、 つまり 、母と自分を同質の人間と認めてい たのではないかということであ る。先に挙げた「点鬼悔」の引用 にも母の命日と戒名は笈えていても父のは党えていないとある。 ここに、 母へのいたわりと、母 を苦しめたであろう父への反感が 感じとれるのである。 では、芥 川とフクを結ぶもの(同質の者とするカテゴリー)は 何であろうか。 それ は、「狂気」である。 芥川が狂気の遺伝に 恐れを抱いていたことは遺作「歯車」にあ らわれている。 |は又椅子から立ち上り、 登狂することを恐れながら、 僕の部屋へ蹄ることにした。(五赤光) はっきりと発狂の恐れを柑いた上で、 しかも それが逍伝的なも のと読みと れるのは、 右の引用より前の部分の級友と出会い立話 する部分に 「だって君も不眠症だって言ふぢゃないか?不眠症は危険だ ぜ。 ……」 ...... J れらの作品中の「狂人」の共通点は 、あ る真実を認諏し 「氣違ひの息子には岱り前だ。」(四まだ?) とあるからである。 この他、 更に詳細な読みが 可能であろうが、 今回はただ、 芥川には 狂気の遺伝を恐れる事実があったことを述 ぺるに とどめる。 芥川とフクは、 共に「狂人」(芥川自身、「狂 人」そのものでな く、 その 可能性のある者ということになるが)である。 このことは 、芥川に強い近親憎悪の念を母に対して抱く結果に なったであろう。 だが、 それだけ結ぴつき(芥川の一方的な思いーフクは芥川が 十歳の明治三十五年に他界をし たのでーである。)も弧かったの ではないだろうか 0 . 又、「狂人」というものの捉え方も問題になってくるであろう。 晩年において芥川 の「狂人」の捉え方は否定的なものが大部分 であるが、 初・中期のそれは、 必ずしも 否定的なものではないの である。 芥川は、 早くから「狂気」へ関心を示していた。(このことは、 クのこと から当然と言えよう。) 「狂人」を描いた初・中期の作品 には、 主なもので、「忠義 j 「二つの手紙 jH 疑惑」「奇怪な再会 j がある。 これ ら全作品の説 明をしていると今は煩雑なことに なるので、乱暴かもしれないが 一言で説明しよう。

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一認7-(気づいて)いるため、 その其英を見抜けない周囲の人々によっ て迫害され「狂気 」 へ追いこまれているという点である。全部の 作品を取りあげたいが、 紙而の都合上、 今回は、 母との関係が最 も色濃くあらわれる「忠義 j に絞って話を進めていこうと思う。 『忠殺」は大正六年三月に「黒潮」に発表された。 主人公・板倉家当主・修理が病後の神経衰弱に苦しみ、 周囲の 無理解のため孤立し狂気へ追いたてられてゆく姿が描かれている。 無理解な家臣に囲まれた苦しみを芥川は、 こう表現している。 二•―ろ あ●町i7‘ . . ...... 彼は、 蛾地獄に落ちた蟻のやうな、 いら立たしい心 で、 彼 の周囮を見まはした。しかも、 そこにあ るのは、 彼の心も *そ ふだい しん ちに何の理解もない、 徒に班ーを惧れてゐる「躇代の臣」ば かりであ る。「己は苦しんでゐる。が、 誰も己の苦しみを察 “し してくれるものがない。 」 ーさう思ふ事が、 既に彼には一 倍の苦浙であった。 この修理の孤独と苦しみ は、 母フクの孤独と苦しみを芥川が察 して表現したのではないかと考えられる 。 . 新 原家で蟄居の生活を続けていたフクの精神状態がどの程度、 異常をきたしていたのかは計りかねるが、 一説によると発狂とい "i2 うよりも強度のノイローゼとみた方が適当であるらしい。フクが 得二を家の者に抱いて来させ、 二階の自分の床の上であやしてい 3 .た という話や、 吉田弥生の実弟英吉郎氏談の、 ちょうど障子張を していて手に 剃刀をもっていたフクが「気ちがいに刃物というの は、 こうい うこと をいうんだろうね」と真額で一百ったことなどを 考えると、 フクが狂気の手前で苦悩していたのではないかと推測 されるのである。『忠毅」の作理は、 このようにも 苦しむ。 焚狂ー—かう云ふ怖れは、 修理自身にもあった。周囮が、 そ ヽらん れを感じてゐたのは、 云ふまでもない。修理は勿論、 この周 ぁ← いだ 囮の持つてゐる怖れには反感を抱いてゐる。 案外、 フクは「狂人 」 扱いされながら、 その手前でひど く苦し められていたのではないかと いう気 さえしてくるので ある。又、 この修理の怖れは、 芥川自身の怖れでもあった。 母11狂人北自分自身、 という関係が成り立つのである。しかも、 ここで「狂人 」 というのは「弱者」である。芥川は大正五年十月 十一日付の井川恭宛柑簡で次のように述ぺている。 ぽくは安僚な良心を持つてゐるプルヂョアより かはいい近 築者の方によっぽど同情するゃうになった 弱いものほどか はいい ね 弱いのを知つてゐるものほど謀遜だね 芥川は弱者には親近感を党え、 塘護している。それは、 自分が 純粋であろう とするため奥実を見極めようとするため周囲から理 解されず冷過された孤独な者という意識があったためではないだ ろうか。自 分も無理陪な世間 の中では弱者であ るという認拉が あったのである。 だから、 新原家の中で孤立した弱者のフク を自 分と同質の者と見ていたの ではないだろ うか。「狂人 」 という弱 者のフクを。

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-288-新原家の人々のフクに対する扱いを芥 川は、 内心、 燕惰なもの と感じていたのではないだろうか。 後要 フュ・異母弟得二の入莉 と芥川自 身の安子縁組と関述させて「忠義」を更に見てゆこう。 理の病状に理解のない家臣の中でも、 家老の前島林右術門は 事あるごと忠錬を追めていた。 そして、 忠諒の効がないと知ると 修理を押込め限居にして、 板倉一族の中から狡子をむかえること を企てる。 この ような林右術門の 態度は、 作理をますますいらだ せ、 狂気へと追いこんでゆく。 ここで林右衛門の描かれ方を見 てみよう。 林右衛門は、 家老と云つても、 寓は本家の板倉式部から、 or-^ 人として来てゐるので、 修理 も彼には、 日頃から一目骰いて Uヽう< t、 It 人 ゐた。 これは殆病苦と云ふものの経唸のない、 雑ら頻の大 上ん上 , か らう 男で、 文武の雨道に秀でてゐる勁では、 家中の侍で、 彼の右 に出るものは、 幾人もない。 林右衛門は圧倒的強者の立場にいるのである。 ここに、 7ク めぐる人々、 父敏三、 後要フユなどの影が感じられるのである。 さて、 この強者・林右衛門はどう考えて修理を押込め阻居にし ょうとしたのだろうか。 何よりも先、「家」である。(林右術門はかう思った。)賞主 は「家」の前に、 犠牲にしなければならない。殊に、 板倉本 家は、 乃祖板倉四郎左術門勝韮以来未 密、 瑕班を受けた事の ない名家である。 …・・・中略 その名家に、 松一汚辱を蒙らせるやうな事があったならば、 どうしよう。 臣子の分として、 九原の下、 板倉家累代の父祖 2 ん か 人ばせ に見ゆべき顔は、 どこにもない。 「主」を無視した「家」狐視の考えが、 そこにはあるが、 よく読 むと「家」を守らねば自分の額が立たないと いうエゴイズムも垣 間見られるのである。 更に、 芥川 の狡子縁組と後要フクの入藉、 我母弟得二との関係 をみると、「忠義 j の林右衛門の企てには、 芥川の新原家に対す る反発が読みとれる。 この点については、 佐藤美加氏「芥川他之 it

介の「忠義」に内在するもの」による、 また他作品の「保吉の手 帳から j の「わん J に書かれた長子権を焼肉のために捨てたエサ ウからも解釈できる。 龍之介とフクは、 得二とフユに新原家での居場所を横から取ら れた形になるのである。 その中で特に重要であるのが「忠義」に おける「時鳥」の扱わ れ方についての考察である。 U5 佐藤氏は、「忠義」中、 三ヶ所の「時烏」が世かれた部分を挙 げられ、「時 烏」が佐渡守(林右衛門が狡子をもらおうとした板 倉佐渡守であり、 修理に とって は自分の家を乗 っと る相手であ る。)と同じに見えたことを暗示する点を指摘さ れた。 そして、 托卵という時烏の性質から、 家とりの暗示を芥川が示しているこ -

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289-とを指摘されている。 ……このように結果的に蹂の巣を乗取ってしまう時烏の生態 を思うと、「忠義」において発狂した修理が時鳥のことを口 走るということは、 頗る意味深いものがあると言わねばなら ない。 ••…•中略 ここで見逃してはな らないの は、 修理にとって時烏が必然性 を持っていたことである。 また同時に、芥川自身にとっても この時鳥がある孤要な意義を荷わされていたのではないかと 思われる。 ・・・・・・中略 或は事実時烏は芥川にとって不恰快な存在であり、その不愉 快さ を敢えて密いたのが『忠義」だったの かもしれない。 往9 修理は、 結局、刃催事件(紋所が似ていたため板倉佐渡守と間 違えて細川越中守を死なせてしまう、但、その後に條理は発狂し ているので 、その間違いには気づいていない。)を起こし切腹と なる。 この悲惨な修理の姿は、母フク・芥川自身と煎なる。その修理 は、出仕前に「時烏」のことを口に する。又、 佐藤氏の説を引用 させていただくと、 修理の時烏が紺の巣を盗むと言った言禁と、 前烏林右衛門が 家を横領しようとする野心をもっているかもしれないとい 彼の危惧は無関係ではあるまい。條理は自家を嵩の巣に、 烏を佐渡守"の人間に見立て、 佐渡守を打ち果たすことを目 論んで出仕を決意したのではないだろうか。 私は佐藤氏の説に同意したい。 佐渡守を打ち呆たそうとする作理には、母フクヘの同情と父へ の反感が込められてい るのであろう。 又、芥川の修理に対する目差しには、同胞者をみるような優し さが滲んでいる。それは、修理の唯一の理解者である田中字左衛 門の心として表現されている。 "がい し● 自分は、「家」の利害だけを計るには、 餘りに 「主」に親し みすぎてゐる。「家」の為に、 唯、「家 と云ふ名の総めに、 どうして、 現在の「主」を無理に陸居などさせられよう。 1e分の眼から見れば、今の修 理も、破腐弓こそ持たないものの、 幼少の修理と嬰りがない。自分が約解きをした紛本、自分が “に"づ 手をとって習はせた難波津の歌、それ から、 自分が尾をつけ 9 みく た紙鳶ー—さう云ふ物 も、 まざまざと、 自分の記憶には残 つてゐる。 ...... 作理|母11芥川自身と考えてみ れば、 母に対して同情がわき、 実父・叔母フュ・異母弟得二などに対しては反発がおこる。しか し、 それは表に出せない鬱屈した感情である。これが『忠義」に 現われたのではないだろうか。 -

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290-日で述ぺた事情により、 芥川と異母弟得二の関係は微妙なもの であった ,o 兄弟二人の感惜としてまずあるのは、 反発であろう。「或阿呆 の一生 j (昭和二年十月「改造 j 掲載)の三十二喧嘩に は、 異母 弟と取り組み合いの喧嘩をした ことが書いてある。 そして、 二人 ため あっ" ( らが かh みとうと の心情を「彼の 弟 は彼の為に歴迫を受け易いのに逃ひなかっ た。 同時に又彼も彼の 弟の為に自由を失ってゐるのに 述ひな かった。」と語る。 出来の良すぎる兄と弟というだけなら、 一般 的である。 しかし、 芥川と得二の場合、 家庭棗境の複雑さから二 人の間には、 不安定な気持ち(血のつながりに頚れないしこり) があったのである。 得二について少し述ぺると、 その 性格は父に似た激しい部分を 持ち、 何かと家族を困らせていたらしい。何かにつけ、 深謀遠慇 な芥川とは対照的であったと思わ れる。 そのためお互いが心にわ だかまりを抱い たままうちとけることが少なかったのではないだ ろうか。 この徴妙な関係 は「お 律と子 等と j (大正九年十一月 「中央公論」)の 中に描かれている。 この作品は、 それまでの歴 史小説から、 身近な所に題材をとる現代小説に転換を試み始めた 頃、 執箪された。 お律には、 三人の子がいる。 お律は商家へ後妾として嫁いだの

異母弟得二への反感と愛情

' で、 この三人の子等 ( お絹.慎太郎・洋一)は皆夫々に片親違い の兄弟である。お絹は先要の子であり、 慎太郎はお律の連れ子で あった。話の筋は、 これらの子を持つお律が十二指腸漬瘍になり、 腹膜炎に悪化した結呆、 息をひきとるまでの家の中の様子を描い ているのみである。 主に兄弟達のお律への態度が淡々と世 かれているだけであるが、 ここで取りあげたいのは、 兄・慎太郎と弟・洋一の気持ち•お絹 の実母のない気持ちを描いた箇所である。 まず、 慎太郎と洋一の関係は` 洋一の目を通して次のように語 られる。 ...... すると彼の心には、 この春以来頻を見ない、 彼には父が 違つてゐる、 兄 の事が浮かんで来た。彼には父が違つてゐる、 ーしかしその為に洋ーは、 一度でも兄に封する情が胃 普通の兄弟に嬰つてゐると思った事はなかった。い や、 母が 兄をつれ て再縁したと云ふ事さへ、 彼が知るやうになったの は、 割合に新しい事だった。 しかし、 作者がこう書けぱ魯くほど読者には、 疑問がおこるの である。 そして、 芥川自身も、 統けて、 洋一が兄と自分の母を見 る目が述うと気付く場面を描き、 兄弟の間に述和感をもたせてい る 。 又、 お絹と慎太郎にもこんな記憶がある。 ーーまだ小梨校にゐた時分、 父が或日慎太郎に、 新しい帽子

-

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291-略 を買つて来た事があった。 …略:・するとそれを見た姉のお絹 が、 来月は長唄のお浚ひがあるから、 今度は自分にも 辛な物 を .―つ、 栴へてくれろと云ひ出した。 父はにやにや笑ったぎり、 ・ 全 然その言菜に取り合はなかった。姉はすぐ怒り出した。 お絹は父に甜口を利いて、 父は苦い顔をしだす。 このとき、 お 絹は、「慎ちゃんばかり可愛がる、 どうせ、 私は馬艇です、 私の お母さんは馬艇だったから。」というよう な事を言う。 この争い を見ていた慎太郎は、 何故かお絹にくってかかる。 ・「どうせ私は英迦ですよ。慎ちゃんのやうな利口ぢやありま せん。私のお母さんは葵迦だった んですから、 ー'_」 悌太郎は蒼い顔をした侭、 このいさかいを眺めてゐた。が、 姉がかう泣き登を張り上げると、 彼は黙つて瓜共り上の花舒を 摺むが早いか、 ぴりぴりその花ぴらをむしり始めた。·:・・・中 何時か泣いてゐた伯太郎は、 菊の花ぴらが皆なくなるまで、 剛惜に姉と一本の花舒を奪ひ合っ た。 しかし頭の何処かには、 寅母のない姉の心もちが 不思議な位鮮に映つてゐるやうな氣 がしながら゜ー お絹.慎太郎・洋一の兄弟や親に対する不安感(何かの拍子に 、、 、 、 争うと、 わだ かまりが残り 「血のつながり」というよ りどころが ない不安定な感情」)は、 芥川自身のものであったと思われる。 「母」に絡んだ問姐で、 得二にどうしても反感を抱かずにはいら れな い芥川は、 何とかこの問姐を解決しようとした。その試みが 「倫盗」なのである。 「倫盗」は、 大正六年四月「中央公論」に発表された。(後に 後半部が七月号に掲載される。) 『今背物語」巻二十九の「不む序矧レ人女盗人語第三」 ・ 「 筑 ーール I-r 後前司源中心理家入盗人語第十二 」など を典拠とする王朝物の作品 である。 沙金という英女をめぐって太郎・次郎の兄弟が反目しあ い、 互 いに相手を殺そうとまでする が、 最後に「血のつながり」や「肉 殺の梢」を思い出し和解するというのがメインプロットである。 「伶盗 j は芥川が自己の抱える問姐の招決を求めて創作したも のといわれる。「保盗」の中で芥川は「救済」、 芥川の見た人間の 持つエゴからの救済を発見しようとしていたのである 。ただ、 こ のテーマが梢化しき れず、作品としても芥川の救済に対する考え 方自体にしても不完全さを示す失敗作とされる。芥川自身も大正 六年三月二十九日付松岡誼宛柑 簡で、 次のように述ぺ「倫盗 j を 失敗作と認めている。 「倫盗」なんぞヒドイもんだよ安い給双紙みたいなもんだ… …中略・・・・・・支離滅裂だ熱のある時天井の木目が大理石のやう .に 見えたが今はやつばり唯木目にしか見えない「像盗」も術 く前と書いた後とではその位の差がある使の柑いたもんぢや 一番悪いよ;・・・・略

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-292-作者自身の扱いなどから長年未完成の作品として看 過されてい it. 「像盗 j であるが、 近年再評価の論が相次いでいる。 その中で、

t

海老井英次氏の説として 「像盗」は「羅生門」の 「黒洞々たる 夜」に消えた下人の救済をモチーフとした作品であるというのが it. ある。 海老井氏は、 芥川の創作ノート「'There is some thing in the darkness ", says the elder brother · in the Gate of Ras yo」にig 目しつつも芥川は結局、 そのsomet hing、 閤の中にある何か11救 いを振みきれず、 太郎と次郎の「兄弟愛」に収敏 されたのは通俗 に堕したものだ、 とされる。 「伶盗 j はdarknessの中にsomethingを求め たものであると いう氏の説には、 同惑であるが、 その表現として「兄弟愛」を 持ってきたのは通俗的であるという点について同意できない。 k 盆盗 j の問囮となる太郎が次 郎を野犬の群から助ける場面を 引用しよう。 すると忽ち又、 彼の唇を衝いて、 なっかしい語 が、 溢れて来 た。「弟」である。

......

略••…•この語の前には、 一切の分別 が眼底を彿つて、 消えてしまふ。

......

略・・・・・・彼は空も見なか った。 路も見なかった。 月は猶更眼にはいらなかった。 唯見 たのは、 限りない夜である。夜に似た愛憎の深みである。 海老井氏は、 この太郎の心理·惑梢を感傷的とされる。確かに 表現としては、 惑倦的であると言えよう。 しかし、 芥川が「救 済」に「兄弟愛」 を持ってきたことは、 今迄述ぺてきた得二のこ とを考えると、 単なる感傷だけで はないと思われる。 そこには、 憎しみをも超えることの可能な「血のつながり j の芥川の憧れと、 それを持たない芥 川に唯一出来る、 意志によっ て愛を持とうとする痛々しい挑戦があるのである 正四年四月 二十三日付山本喜稔司宛紺箭で芥川は「私は今心から謙遜に愛を (ママ) 求めてゐます:・・・・・略…

...

如何に血族の開族が稀薄なものであるか 如何にイゴイズムを雌れた愛が存在しないか・・・…略・・・・・・私がどれ だけ「人間らし<j生き られるかそれは全くわかりません」と述 ぺる。 匹蕊 j の太郎・次郎の兄弟愛は一見、 通俗的であるが、 そこ に普遥的で純粋な愛を求める芥川の思いがこめられて いるのであ 「血のつなが り」への慌れからさらにそれ を超えた意志的な 「愛」とい うものについて 、「捨児」(大正九年八月「新潮」掲 載)が分かりやすい。 捨児であった主人公勇之助は、 明治二十二年浅ヰ永住町の信行 寺住戯にひろわれ育てられる。明治二十七年に勇之助の母と名乗 る女があらわれて、 勇之助をひきとる。 その母が亡くなる前年に 勇之助は、 母が実の母でなく嘘をついて自分を引き とり、 女手一 つで育ててくれたことを知る。 それ以来、 勇之介にと って母は母 以上のも のになったと彼は開き手の「私」に言う。「私」は、 んな彼を「子以上の子」であると認める。

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-293-ラップがあることはもちろんだが、別な見方をすれば、「血のつ ながり」に穎らない純粋な「愛情」で結ばれた人間関係を芥川が 求めていたことの証が読みとれるのである。 注 注1 入紺は明治十八年三月二十六日である。 注2.3 「芥川龍之介の父」(森啓枯若・桜楓社・昭和四十九年二月) p41.p72参照 注4 I解釈』昭和六十二年七月号 注5 佐藉氏の引用部分を次に氾す 。 ...... 「黒潮」所戟の初出本によって次に掲げる。 以上が「捨児』の概略である。一応、本文引用をし て おく。 のら じっさいわたし は・ たい じゃう ...... 宜際私の母 に 封する情も、子でないことを知った後、 ●た じじつ 一轄化を来したのは事貨です。」 「と云ふのはどう云ふ意味ですか。」 わたし 私はぢ つ と客の眼を見た。

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1へ 「前よりも一陪なっかしく思ふやうになったのです。その秘 餡 を知 つて 既如‘即 は 艇知例和 し に は 、即似ばf の ほ諏 に な り ましたから。」 へんじ あたか かれじ し人•― いじゃう にん"ん 客はしんみりと返事をした。 恰も彼自身子以上の人間だっ .5 , 】 -た事も知らないやうに。 注lo ここに、登家の育ての母のこと、芥川の捨子体験とのオーパー -^a刀巴と“.大 鴫巳.賓e, いや、唯一庶、小雨のふ る日に、吋烏の喘く墨をllHいて、「あれは党 の巣をぬすむさうぢゃな。」とつぶやいた事がある。(三八 頁) が、男は、物々しい殿中の騒ぎを、茫然と眺めるばかりで、更に答ヘ らしい答へをしない。糾々口を開けば、唯、時烏の事を云ふ(四六 頁) その證蝶には、大目付の前へ出ても、修理は、時烏がどうやら、云う

"

てゐたさうではないか。されば、時鳥ぢやと息つて、新ったのかも知 れぬ(四八頁) 注6 家紋について、板介家九曜巴と細川家九咄の記述を「日本紋汽卑」 (沼田矧輔苔•明治密院・大正十五年三月)より引用しておく。 又、 家紋図は「姓氏家系大辞典」(太田充編・角川世店)による 。 九叫紋の形状は、一個のBll形を中心として、その周限に八個のBll形を 同状に松らせるものにして、中央の囮形は、比較的大なるものを苦通と す。而して周困の皿は相互相接近するも、稀には特に隔雌せるものあり。 細川氏の九曜紋の如き是なり。因つてこれを細川九瞭といふ。元来、 細川氏はもと普通の九昭紋を用ゐしも、細川宗孝の時、帥ち延享四年 八月十五日、板含修理勝該のために、この紋平の板倉勝情が九曜巴に 類似せるより、これと誤認せられて殺されたりしかば、これより右の 如く九曜を改造せしといふ。 震llu

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(10)

294-^テ キス ト〉 芥JII訛之介全集 岩波庶店 p115 !p 116参 •閲 口安 義・ 編・ 明治 注7

Jll龍 之介 の父J (菊 池弘 ・久 保田 芳太 注8 「芥Jll nu 之介事 典」 函密如痴奇・桜楓 院・ 昭和六 十年 十二 月) p 芦照 己化醒 J 注9 「芥 川龍 之介 論孜 掲叙 ・赤 羽学 社・ 昭和 六士二 年二 月) 参照 (第十 三戟 ・中 釈民 因七 年十 月) 注10 「日本 BnB 本文 學」 おけ る収 と独 創」 ②部 分参照 先生 「芥 川訛 之介 一九 七八年 鷺只 餓編

〈参考文献〉

Jll皿 河出 む房新 一九 九二 年六月 久保 田芳 太郎 •閲 口安 義・ 芥川 訛之 介事典 明治 行院 菊地 弘・ 昭和六十年十二月 芥川 之介 桜楓 森啓 祐屯 昭和四十九年二月 芥Ill 之介 論孜 �己 北醒 から 陪体ヘ 治む院 海老 井英 次若 和六 三年 二月 ^芥り よば れた 騒術家 布梢 石割 透屯 一九九二年八月 B本紋沼学 明治 庶院 沼田 大正 五年 三月 輪荘 (岡 山大学 大学 院文学 研究 科) 295

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